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実践・日本真道(事実その1)

現代社会の日本人が忘れた本当の神の道

実践・日本真道  長谷 章宏 著


事実 その1(P24~75)

P24
あなたは、永遠無限の「生き通し」の存在である。あなた自身は、今持っている肉体の有無とは関係なく「永遠無限の生」を体験し続けている。「永遠無限の生」は絶対普遍であるから、「生」自体に疑問は存在しない。「永遠の生」には、「死」という概念は存在しないから、『生き残ろう』と思うこともない。あなたが「永遠の生」を殺した時に、あなたの現実に「死」が現われる。「生」と「死」を分離できるのは「生しかない」証しである。あなたが恐れている、避けられないものと思い込んでいる「死」は、条件付きの「死」である。

どう生きるか、言い換えれば、死とどう向き合うか、死をどう迎えるか、死をどう受け入れるか、の問いは、『死がある』のが前提である。あなたは、あなたの生に「死」という概念を持ち込んで、「生」を混乱させている。死を考えているあなたは、今、死んではいない。あなたが死の淵から生還したとしても、まだ死んではいない。『他人が死んだらどうなるか』は『自分が死んだらどうなるか』である。あなたは、誰かが死んだことを悲しんでいるのではない。自分の世界の構成要素の一部を失ったことが悲しいのである。あなたは、自分が悲しいのであって、その人の死を悲しんでいるのではない。死後に死という体験をどう感じているかは死んだ本人にしかわからない。あなたは死者の思いなど全く考えていない。自分の喪失感を他の何かにすりかえて、自分の現実を誤魔化そうとしているだけである。

『死んだら悲しまなければならない』という決まりはどこにも存在しない。あなたが関心があるのは他人の死ではない。あなたが心配しているのは自分の死である。自分が死んだらどうなるのか。それは、あなたが死なない限り、あなたにはわからない。しかし、あなたが『死んだら終りだ』と言うならば、「自分が死んだら自分という存在が消える」ことを意味するから、あなたが死んだ時、あなたは死を認識できない。あなたに死が認識できるのならば、その時、あなたは生きている。『死後の世界がある』と言うならば、あなたはそこで生を続ける。つまり、あなたは、今のこの世で、自分のものだと思っているものを失うことを恐れているだけである。それを守るためにどうするか、を考えているだけである。

あなたが永遠の生に生きているならば、あなたには無限の時間がある。慌てる必要はどこにも無い。何かを奪い合う必要も無い。「命は限りあるもの」と思っているならば、あなたは、慌てることになる。『我先に』と行動することになる。思いやり、優しさ、譲り合いの大切さを語りながら、その裏では、早い者勝ちの椅子取りゲームに参加することになる。命の大切さを語りながら、自分がそこから何かを得るために、誰かの死を望むことになる。

「限りあるもの」を奪い合う世界では、自分が何かを得るためには誰かの死が必須条件となる。「略奪の世界」では、自分の死は誰かの生、誰かの死は自分の生、である。自分は死にたくないが、誰かの死を望む。自己犠牲の美しさを語りながら、自分は生き残ろうとする。『それは当然のことだ』と言えば、「自己犠牲の美しさ」はウソになる。この世界では、矛盾を解消しようとすることはタブーである。なぜなら、矛盾を解消したら、自らで産み出さずに何かを得るシステムが成り立たなくなるからである。言行不一致という矛盾に目をつぶり、誤魔化すことが、このシステムの中で生き残る条件であり、この世界を維持する方法である。従って、そのタブーを破ろうとする者は、生き残りを邪魔する者として抹殺されることになる。『社会の秩序を乱す』という理由で、非常識な人間として血祭りにあげられる。「略奪の社会」では、真実に目をつぶることが、生き残るための正しい生き方となる。奪う者と奪われる者が必要不可欠な世界では、みんなが自由に生きることは不可能である。心の内に独占願望を隠し持つ「独裁者」同士の生き残り合戦の場だからである。
P25
誰もが『自分だけは生き残ろう』と思っている世界は、言い換えると、みんなが殺し合う世界である。『みんなで渡れば怖くない』は、自分もみんなも怖くなる、共食いの挙句に全滅をもたらす思想である。『みんなに合わせる』と言うのは、自分を殺す自己犠牲であり、最後は自分が死ぬ。逆に、『自分だけよければそれでよい』は、他人を殺す危険思想となる。

略奪の響きの世界では、みんなに合わせようと、自分だけよければよいと言おうと、どちらを選ぼうとも、結局は、生き残ることは出来ない。死とは、生命は言うに及ばず、望み、体験、立場、財産、自己、計画、家族、幸福、安全等を「失う」ことにも言える。略奪の世界であなたが失うものは、奪ったものである。自分のものは何もない。すべては天地自然を産み生んだ元つ天地の大神のものである。あなたが真釣りの本当の天国の響きで生きていれば、必要なものは与えられる。あなたが本当の真実、本当の天国に生きているならば、失うことはありえない。本当の天国は誰も「犠牲」にせずに、誰もが、いつでも、どこでも、自由に、好きなことをすることができる世界である。その世界を壊す思想に基づいて作られた末に行き着いたのが現代社会であり、略奪の破壊を誤魔化すための仮面が文明である。失うものは元々なかったものである。幻想を捨てることに罪悪感はいらない。本物を捨てることに罪悪感を微塵も持たず、壊れるバベルの塔の建設に勤しんできたのが、人類の歴史である。今回の「バベルの塔」の崩壊は、幻想の崩壊であり、本当の天国の創世である。

日本沈没、人類滅亡、ノアの箱舟、ムー大陸の沈没、アトランティス文明の崩壊、神話、伝説、聖書の物語はただの空想ではない。空想も心の中では現実である。すべては境界のない一つの世界である。世の不思議をただの空想だと片付ければ、真実は見えない。これらが何の象徴なのかを考えてみると良い。現代社会そのものが「バベルの塔」の中である。

本当の天国とは、元の初めに皆が住んでいた世界である。本当の天国に戻るには、すべてのマヤカシを自分の中から一掃することである。あなたの中にあるアヤマ知を一掃すれば、本当の天国が見える。今ここで天国の響きで生きることである。今までの常識の「世の中」から足を洗うことである。今までの常識で生きる人たちの世界に迎合したり、批判したりしないことである。ただ、自らの新しい真実に従って生きていけばよいだけである。あなたが本当の真実に生きれば、今でも自由になる。時が至れば、本当の天国が文字通りの現実となる。もうすぐ終わるマヤカシの世界から抜け出して、その時が来るまで、天国の響きで日々の暮らしをしていればよいのである。天国の響きに成って、天国を待つのである。
P26
「弱肉強食」の世界は、サバイバルの世界であり、綺麗ごとを言えば自分が死ぬことになる。「弱肉強食」をそのまま実行すれば、自分が生き残るために誰かを殺すことになる。この世界では、他人を助けるのは、自分が生き残るためである。『みんなで分け合って』も、結局は、どんどん分け合うものがなくなり、最後はサバイバル合戦そのもの、バトルロイヤルになる。雪山の遭難で、食糧がなくなってきたらどうなるか。この世界の縮図である。

本当の天国では、天恵は永遠無限である。花は咲きっぱなし、実は採っても採っても実る。空も飛べるし、海の上も歩ける。形も自由に変えられるし、自らの意志に反して壊れることもない。時間旅行も自由自在。何の不都合も不自由もない。お金などどこにも存在せず、万古末代、二度と死ぬことはない。歓喜弥栄の生き通しの世界。思いのままに何でもできる、夢が現実になる世界がミロクである。現代社会で言う「お伽話」や「空想の魔法の世界」を永遠に体験し続けるのがミロクの世なのである。世界の親国が『花は散るのが美しい』などとしたり顔で宴会に打ち興じて、酔っ払っているようでは、本当の命の花を散らす末路が待っている。花見や桜吹雪が日本の風情だというが、自らの命も散るのが美しいなどとは言わない。「植物」の本当の意味が分かったら、サバイバルはしないはずである。

土をはじめとした「鉱物」がなければ、文明社会は作れない。その鉱物を「生命のないもの」として、好き放題に掘り、壊し、使う。『石がものを言う』と言えば、狂人扱いとなるのが今の社会である。それは、石がしゃべるという意味だけではなく、石が何かを教えてくれるという意味でもある。石の文明の盛衰が見せる「無言の教訓」を素直に受け入れるかどうかで、本当に『石も木も動物も花も鳥も喋る』世界を体験できるかどうかが決まる。最後は、文字通り『石がものを言う(お喋り)』時が来る。それは、心象風景がすべてそのまま現実になる時である。その時になって初めて目が覚める者もいる。今のあなたは、幻の世界にいる。しかし、それはいつまでも続かない。今の生き様では天国はない。今ここで目を覚まして真コトに戻るか、その時になって更なる試練の中で真コトに戻るか、あるいは、目を覚まさずに、そのまま永遠の死を迎えるか、それはあなたが決めることである。

幼い子供の内なる世界こそ天国そのものであり、それを空想にしていく理性の教育こそ、すべての闇(争い、問題、悩み)の基である。子供(社会、文明)が成長するほど問題が起きるのは、教えられたことがアベコベだという証である。子供の反抗期というのは、ウソをホントと思い込んで離さない親に真実の問いかけをする時期である。親が『子供が親に反抗するなんて許さない』と言いながら教育し続けるなら、天国どころか、汚泥混濁の世を進めて崩壊に導く人間を養育し続けることになる。悪を裁く新生児はいない。大人が持っているすべての価値観は教育されたものである。大人の中にある子供の心、純粋な天国をそのまま生きれば、現代社会でも天国の響きの社会が実現できる。そして、そのままで文字通りの天国が形になれば、それが、本当の天国の実現である。まずは、一人一人が自らの生き様を正直に見直していくことが、現代社会の混迷から抜ける第一歩なのである。
P27
自然の掟は自然が続くように仕組まれている。「鉱物」と科学で作った文明都市が、大地震で一瞬にして崩壊する。崩壊するものは、不自然な形である。現代社会では、不自然な世界を進めることを進歩、発展というらしい。本当の自然、本当の神、本当の自分を知らない者が、神の真似事をして、世界を支配しようと企んでも、絶対に天国などできない。限りがあると言っている世界で、無限の欲望を満たすことはできない。限りあるものが減るに従って、無限の欲望が満たされなくなって来た時に本性が現れる。本当の共食いが始まる。元々天国にいた者がなぜ地獄の苦しみのある世界に生きているのか。自らの生き様、物事の処理の仕方を根底から見直すべき時である。本当の天国は永遠の歓喜弥栄の世界である。

現代社会に咲く花は、咲いては散る仇花である。土、肥やし、種、水、花、実、種の循環は、自然の理、世の仕組みの真コトを教える型示し。なぜ種が育って実に成るのか。園芸や生け花に興じていても、真コトの意味は分からない。ウソですっかり曇って、有る物を材料にして形を作り、形を替え、ウソの天国を建設しようとした人類の歴史は、時が至れば、すべてが灰になる、とんでもない世界なのである。逆さまのウソの真実に騙されて、世を挙げて、本当の真実を空想の世界に押し込めてしまった現代社会に生きる人間たち。その本当のルーツは、ウソのアヤマ知で曇りに雲って見えなくなってしまった、かつて生きていた本当の天国である。本当の天国は未来に存在する世界などではなく、遥か昔に住んでいた世界なのである。いつまでも、死ぬのを怖がって睨み合い、大人のフリをしてイキガっていても、自らの命を縮めるだけである。大人気取りをやめて、天真爛漫な子供に帰って生きることである。本当の天国は、実現するもしないもあなた次第である。元いた世界にあなたが帰るだけである。今のあなたが信じようと信じまいと、事実は事実である。あなたがそれを認めるか認めないかである。あなたの選択次第で、あなたの現実が決まる。

本当の天国にはどこにも戦いはない。生き残ろうと考える必要もない。空気は吸っても吸ってもなくならず、海は汲んでも汲んでも干上がらないように、すべてのすべてが有り余る世界である。奪う必要などどこにもない、永遠無限絶対の創造の力の産み出す天恵の溢れる、世界中どこでも自由自在に暮らせる、争いなどどこにもない光輝く天国。その天国を作れる者だけが社会を構成する、信じられない理想郷のような世界。それは現実に実在する。あなたは始めに生まれた時そこにいた。そこにあなたが帰るだけである。自らが封印した真コトを取り戻した時、あなたはその故郷に帰ることができる。その天国の実現を僅かでも疑った時、あなたは幻の天国の中で命を終えることになる。天国か滅びか、永遠の命か、今生限りの命か、二つに一つの分かれ道にあなたは立っている。本当の天国とは、永遠無限の天恵が世界に溢れる、本当に本当の桃源郷なのである。『そんな世界はありえない、マヤカシだ』と言うならば、その台詞は今の世界の話であり、本当の天国をありえないマヤカシに思い込ませているウソのアヤマ知を綺麗サッパリ祓うことが、本当の天国を実現する唯一の術である。すべてのすべてが逆さまであり、ウソが支配するのが現代社会である。そこで生き残ろうとすれば、あなたは永遠に生き返ることはできない。本当の天国は死んで生きる世界である。本当の天国が実現するかどうかは、あなた次第で決まる。
P28
どこまで自分の本心を偽れるか。どこまで他人を思いやるフリができるか。弱肉強食の世界は、有限のものの取り合いが前提である。自分が生き残ろうとしても、他人を助けようとしても、実は、どちらを選ぼうとも、最後は誰もいなくなるのである。なぜなら、最後のひとりは誰からも奪えず、自分自身で産み出せなければ、それは死を意味するからである。もし、自分自身で産み出せるのならば、始めから弱肉強食の世界にはいない。『有限だ』とはいわない。無限の永遠の生を生きているからである。つまり、有限の世界で生き残ろうとしても、結局は、全員が生き残れないのである。『限りある資源を大切にしよう』と言うが、大切にするのは、自分が死なないようにするためである。資源を思いやるように見えるが、実際は、資源をダシに使って、自分を思いやっているのである。国破れて山河在り。滅ぶのは、「略奪の社会」を生きていた者だけであり、自然はそのまま残るのである。

略奪の世界では、どんな表現を使おうとも、行動の目的は、すべて「自分のため」である。自己保全のために都合がよい思想に同意しただけである。心配しているのは、人類の滅亡、地球の破壊、国の滅亡、家族の崩壊、ではなく「自分の滅亡」なのである。略奪の世界を選んでいる者には、他人を生かすことは絶対にできないのである。『人のため、社会のために役立つように生きたい』と言うのは、真実を何も知らない極楽蜻蛉、本当に救いようのないお人よしである。自分がどんな世界にいて、その世界がどこに向かっているのか、しっかりと目を開けて見てみるとよい。自分が今どういう状況にいるのかを本当に正直に見れば、本当の命の存亡の危機に直面していることに気づくはずである。あなたが、死を避けたいならば、必ず危険な状況を回避しようとするはずである。自分の命が危ないとなれば、どんな行動をとるか。本当に他人を思いやれるのか。本当に動物を、地球を、資源を保護しようと考えるのか。本当に自分を捨てられるのか。思いやり、やさしさ、助け合い、保護、を語っている間は、まだ余裕がある。命に影響しない頭の体操、思考の遊びをする暇がある。自然保護や人助けや社会奉仕に現を抜かすことができる。全員を助けられないなら、自分の死なない範囲で助けるのなら、それは、本当に助けることにはならない。『自分以外の何か(誰か)のために』は綺麗ごとである。自分自身の生き残りのための対策に余裕がある証拠である。今は何とでも言える。何とでも誤魔化せる。どうにでも本心を隠せる。しかし、自身の存亡に関わる極限状況で、果たして本当にそれが実行できるのか。
P29
『その状況になってみなければわからない』という詭弁をいつまで使っても別に構わないが、「その状況」になった時にあわてても、それまでしたことは消せない。あなたが今やっていることはすべてアベコベであり、そのままいけば、あなたは永遠に滅ぶことになる。あなたが万象万物を無から産み出せるなら別だが、そうでないなら他人を生かすことはできないのである。神や仏やお金や他人や本や自然や商品に依存しているなら、あなたはあなた自身を生かすこともできていない。そんなあなたが他人を生かすことなど絶対にできない。あなたが誰かの人生を代わりに生きることも、誰かの現実を天国に変えることもできない。あなたが誰かの考え方を、本人の意思を無視して、直接変えることもできない。あなたにできるのは、相互依存の世界の商品を手に入れるお金か物を渡すことと、その肉体を使って誰かの代わりに何かをすることだけである。本当の救世はあなたにはできない。

生死のある、略奪の世界では、あなたが本心から他人を助けたいと思っているつもりでも、それは『自分が助かりたい』の裏返しである。相互依存、需給バランスの世界では、あなたが依存している他人がすべて死んだら、それは自分が死ぬことを意味する。自分が生き残るためには、他人がいることが条件である。自然を、地球を、世界を、動物を保護しようとするのも、環境破壊を問題にするのも、戦争に反対するのも、突き詰めれば、その目的は「自己保存」である。『それが当然だ』と言うならば、あなたは略奪の世界に生きていることを証明したことになる。その世界にいる限り、『他人を生かす、助ける』という思想は、真っ赤なウソだということになる。「全員が死なない考え方」が本当の真実である。本当は「誰も死なない」というのが真実である。どんな世界ならば、全員が生きられるのか。

自分と自分以外の関係をどう処理したらよいのか。自分の思い通りにならない原因はどこにあるのか。社会システムの矛盾を生み出した本当の原因はどこにあるのか。社会問題の本当の責任は誰にあるのか。この世がいつまでたっても天国にならないのはなぜなのか。あなたがこれらの問いにすべてはっきりと答えられない限り、あなたは本当の天国には戻れない。あなたはすべてを知っている。あなたがあなたの答えを×しているだけである。誰かにその答えを聞いても(何冊本を読んでも、ホームページをいくら検索しても)、あなたの問いの答えは得られない。なぜなら、あなたがあなたの答えを認めていないからである。あなたが何かを探している時、誰かに質問している時、その目的物や答えはすでにあなたの中にある。あなたが、何かを見つけた時、それだとわかるのは、あなたの中にその何かがあるからである。あなたの中に何もなければ、探すことも、問うこともしない。あなたは、どれくらい誰かに確認すれば、自分の答えを認めるのだろうか。あなたがあなたをすべて受け入れない限り、あなたの悩みや問題はどんどん膨らんでいくだけである。あなたの答えを×しているあなたは、嘘を教えられている。本当のあなたには、生も死もない。時空も超えている。あなたがあなたの答えをすべて○しても、死ぬことはありえない。
P30
あなたの体験する現実は、すべて自分の思考の体現である。その意味では、自分が自分の神である。自分が神であるならば、自分の体験はすべて自分の生み出した結果である。従って、あなたの現実の責任は自分にしかない。誰かに教えられた通りにして、思い通りにならなかったとしても、それも自分が選んだことであり、他人に選択を委ねた自分の責任である。裏を返せば、他人が体験することはすべてその本人の自己責任である。他人が体験しているいかなることも、あなたが責任を負うことはできない。あなたの側に責任があると思い込んで、責任を引き受けたならば、それはあなたの現実であるから、あなたの責任となる。あなたの体験することは、一つの例外もなく、すべてあなたの責任なのである。

人間として、人類として、誰だって、普通は、という言葉を使うならば、自分にも他人にも成り立つ仕組みがあることになる。自分も他人も同じ仕組みである。そして、それが、争いを作るものならば、それは絶対普遍の真理ではない。天国を求めながら争う。争うなら天国はない。天国を思考できるならば、争わないやり方があるはずである。それを無視して争っているなら、全員が自己責任を取れば、結果は、すべて各自に戻る。自己保存をしようとしている者は、この考えは認めない。都合が悪いからである。認めないから自己責任を回避しようとする。回避するから自己責任が取れない。取らないから、責任転嫁が続く。責任転嫁をするから争いになる。たとえ、第三者が調停役をしても争いは残る。ここで自己保存を図れば、本当の自分が危うくなる。つまり、今までの世界は「真っ赤なウソ」に基づいた世界であり、そのことに気づけば、自己責任を取った場合の危機感や恐れも、その世界での幻に過ぎず、死も幻想であると気づく。他人を助けることはできず、他人が助かるかどうかは本人次第であることに目覚める。自己責任をとる事が自分を本当に助けることになり、他人もそれをすれば助かることになる。「自分のためだけ」に生きて他人を助けることもできる。あなたが真実に生きなければ誰も真実を知らないままである。

あなたが真実を生きることで、自分が助かり、他人も助かる。今の世では、形の上では自己犠牲に見えるが、その自己犠牲が、本当の意味で他人を助けることになる。自己犠牲でない自己犠牲、自己救済の自己犠牲である。自分は死なないで、他人も助けることができる。自分が生きて他人も生きる。あなたが『そんな世界はあり得ない』と言っている世界は、現に存在する。後は、あなたがそれをいつまで否定できるかの問題である。否定するものは存在する。存在を否定すれば、自分はその存在の中には存在できない。表をすべてリセットするということは、表が真っ暗になることである。今持っているすべてを消したら、裏の世界が現われる。見える。それが裏表の関係である。『手を離したら助ける』と言われたら、手を離すだけでよい。手を離すことがリセットした証明であり、表の世界から死んだ証明である。『助けてくれたら手を離す』では絶対に見ることはできない。裏と表は、両方を同時に手にする(同居する)ことはできない。絶対誤魔化しの効かない踏絵である。
P31
死んだら死がわかる。死んだら生がわかる。生きたまま死をわかろうとしてもそれは不可能である。生死がある世界では、生きたままで死はわからない。実際は、死はないから、死後の世界という生に生きれば、生の世界を両方見たことになる。死んだ瞬間に、生も死もわかる。つまり、すべてがわかる。死が消えると同時に、生も消える。何もなくなって、すべてがある。「ただある」「存在する」の意味が体感できた時、それが、天国なのである。そして、それは、「生きて」いる間でも個人的現実として体験することができる世界である。

天国は死後にあるのではない。いつかできるのではない。今ここの天国を見えなくしているものをすべて取り払えば、天国が戻ってくる。地獄はずっと地獄である。永遠に天国にはならない。地獄のない世界が天国であるから、戦いで作ろうとしている天国は自分だけの天国である。天国には悪人はいない。『悪を滅ばせば天国になる』と言う時は、悪が存在する。悪が存在するなら、そこは地獄である。『悪がある』という自分の目がその悪を生んだ源であるから、その目を消せば、本当の天国が見える。外に見える悪を滅ぼそうとすれば、自分の悪の目(芽)を育てることになる。自分が滅びれば悪の源が滅びて、天国が現われる。しかし、そこに自分はいない。自分が存在する天国を実現するには、一切の矛盾を解消しなければならない。自分の思い込み、「生」への執着をすべて白紙に戻さなければ、矛盾は解消しない。思いが形になる。天国の思いをそのまま実行すれば天国が形になる。

天国を思って、地獄のやり方をしているなら、それは天国を消していることになる。あなたが今持っている価値基準、観念は、天国から見て本当に正しいのか。天国を創れるものなのか。本当の天国に生きる者に死はない。従って、抵抗することも、反抗することも、邪魔することも、命乞いをすることも、他人を救おうと思うこともない。言い換えれば、そういう反応をする者こそ、自らが掟を破ったのに、自らの死を恐れて(地獄で生き残ろうとして)神の抹殺を図ろうとしている悪魔である。そういう者の言いなりになれば、逆に自分を殺すことになる。『死を殺す』つまり、真実に抵抗するその思いを捨てていくようにすることが、地獄の民の命乞いに反応しないことが、本当に自分を助ける命綱になる。

これは、偽の天国から見れば鬼、悪魔、冷血漢の思想である。しかし、本当の天国から見れば、そのままなら確実に死ぬのであるから、本当の意味で助けるためには、鬼になる必要がある。自分で自分を助けられる者には、鬼も悪魔もいない。自分を助けてくれない者を悪魔と呼んでいるだけである。自分で天国を捨てておいて、自分の責任を自分以外に被せる。そういう自分こそ、他人の天国を邪魔する、自分の罪を他人に着せる、地獄の道づれにする悪魔である。自己保存を他人に依存するのは、地獄の民の特性である。自己保存のために他者の力を奪い合い、結局は、自分も他人も滅びるのが地獄なのである。地獄に生きる者の言い分を聞いて自分が滅びても、それは、あなたの責任である。自分がどれだけ鬼、悪魔に徹せられるか、地獄の民からの依存、自分への干渉をどれだけ切れるか、自分にすがる者をどれだけ無視できるか、それが本当の自立への道しるべである。あなたが自立すれば、相手はあなたに依存できなくなるから自立するしかない。自分を助ければ。相手も助かる。自分が依存すれば、相手も依存するから、共倒れになる。すべては自分次第である。自分を完全に生かせば、相手に生きる機会を渡せる。それを使うかどうかは相手の問題である。相手がどうしたかは追いかける必要はない。あなたは自分のために生きるだけでよい。どれだけ自分に集中できるかが鍵である。誰かの邪魔をすれば自分も死ぬ。
P32
相手を自由にすることが、自分を生かすことになる。相手を自由にするとは、悩む自由や自殺する自由や悲しむ自由や掟を破る自由や世を乱す自由や悪魔信仰をする自由や自由になりたくない自由等も認めることが含まれる。もし、これらをやめさせようとするなら、それは、あなた自身の他者依存の証であり、その理由は、自分が困るからである。それをすれば、自分が自由にならないだけのことである。自らが体験している現実は、自分という神のしたことに基いた自業自得の結果なのである。自分のしたことはすべて自分に戻る。

現代社会の仕組みは、すべて、力の奪い合いを基に作られている。略奪を誤魔化すための相互依存という仮面をつけた「人類の歴史」の結末は共倒れである。形の上では一見、清く正しく美しく思えるものであっても、本当に正直に見てみれば、それは略奪の行為であって、結局は誰も助からない。ウソを信じている集団が作り出すシステムは、一人勝ちの社会をつくる。相互依存の世界の一人勝ちというのは、実は、誰も勝てないことを意味している。現代社会というのは、誰も天国になれない社会なのである。その社会を変えようとしているならば、それは、そのシステムの中で生き残ろうとしていることに他ならない。あなたはウソを信じていることになる。あなたが保護しなくても、地球は再生する。あなたが何もしなくても、社会は変わり、地球は変わる。あなたの発想はすべて、形をどう変えるか、形をどう維持するか、形の崩壊をどう食い止めるか、である。それをしないと困るならば、あなたは偏った世界を自分の居場所だと思い込んでいることになる。あなた自身は、地球がどうなっても死ぬことはない。生き残ろうとする争いをする理由はどこにもない。あなたの思い違いが、あなたの混乱の原因である、本当は、誰も死なないのである。

あなたがどう考えるか、あなたが何を信じるか、あなたがどんな考え方を選ぶか、が、あなたの現実に影響する。つまり、あなたがあなたの現実を作っているのである。あなたが、考え方(思想)を変えない限り、常に同じ行動をし、同じ反応をし、同じ感情を作り出し、同じ世界を体験し続ける。誰かがあなたを変えてくれると思っていれば、その誰かを操作しようとすることになる。『誰かの都合で自分の人生が左右される』と考えるなら、その現実を体験する。すべては、あなたの思い込みの反映である。『思い込みではない』と思い込んでいるならば、思い込みであることを気づかずに、あなたはその言葉を使い続けることになる。すべては、あなたの思いのままになっている。あなたがあなたの唯一の神である。すべてはあなたの思い込みであり、自分がそれを変えない限りあなたの世界は変わらない。
P33
今あなたがどう考えていようとも、この事実は動かせない。なぜ、あなたは「死」という概念を持っているのか。あなたが持っている思想は、どうやって形成されてきたのか。あなたが教えられてきたことは、本当に真実なのか。その答えは、あなたが体験している現実にある。あなたが本当に望んでいる究極(最高)の状態と、今、自分が体験している現実とを比べてみれば、答えは出る。あなたが望んでいるものを、実現するために選択してきた数々の知識、思想、概念、習慣、方法、考え方、生き方が、あなたの望む現実を作り出しているかどうか、をみればよい。あなたの思い通りの現実でないならば、それは、全くアベコベの世界のやり方を選択した証である。今の現実があなたが望んでいるものから離れているほど、あなたは逆さまの世界に嵌まっている。本当に望む現実を成就させるためには、それらをすべて捨てる必要がある。あなたの現実が本当に望んでいるものから離れていればいるほど、戻る道は険しくなる。しかしそれは、あなた自身が険しくした道である。例えどんなに険しくとも、あなたが望む現実を形にするには、その道を戻るしかない。

あなたは、自分自身を誤魔化している。自分を説得して、自分に言い聞かせて、本当の望みを実現できなくしている。あなたがあなたを封じ込めれば、自分自身で、自分の「本当の創造力」を殺すことになる。あなたは、自殺の道を辿ることになる。あなたが本当にすべての力を出したら、いったい誰が困るのか。今あなたが持っている思いは、あなたのものではない。あなたが『自分の考えだ』と思い込むように仕向けた誰かが作った考えである。あなたがそう思ってくれると都合がよい誰か、が考え出したものを、いつの間にか、常識、当然、普遍と思い込んでしまっただけである。あなたは、あなたに力を出されたら困る誰かが巧妙に仕掛けた罠にはまったのである。あなたは、何でも自分の思い通りにできると思っている。『できない』と言うとしたら、それは、自分が怖がっていることを隠すために、誰かから教わった言い訳を使って、自分の責任を回避しているに過ぎない。それをして、最も「損」をするのは誰か。それは、あなた自身である。あなたは誰に言い訳をしているのか。あなたは自分の力の無さを誰に証明しようとしているのか。あなたは不平不満を誰に言っているのか。あなたは、それをして自分の望みが実現すると思っているのか。

あなたの現実はあなた以外のものによって創られるのではない。今の現実は、自分以外のものに依存するという選択をした結果として、あなたが創ったものである。あなたがあなたの責任を回避している時、あなたは、あなた以外の何かを変えようとする。デモ、苦情、反抗、請願、訴訟、革命、策略、報復、支援等々、どんな方策もあなたの現実を変えるものではない。あなたの期待を縮小するものでしかない。自分を操れるのは自分しかいない。
P34
あなたは、あなたの人生を、正確に言えば、あなたの命を、誰に預けているのか。あなたは、誰のために働いているのか。あなたは、誰に自分の命を売り渡しているのか。あなた以外のものに対して、『自分の状況を何とかしてもらいたい』と望むならば、あなたの状況はますます悪くなるだけである。自分の状況の責任を誰かに転嫁しているならば、あなたは、永遠にその誰かの都合で振り回されることになる。あなたは何のために生きているのか。あなたはどんな状況になったら100%満足するのか。『そんな状況はあり得ない』と言うならば、あなたには永遠のやすらぎはやって来ない。あなたはあり得ないことを望んでいることになる。あり得ないことを望んでも、それはあり得ないのだから、実現しない。あなたは、安心を望みながら、実は、危険や、混乱を望んでいることになる。あなたは、安定を望みながら、不安定を望んでいることになる。あなたは、あり得ない天国を創るために、自殺競争を楽しんでいる。永遠の生を望みながら、滅びの道で殺人競争をしている。

あなたが望んでいることを実現するためには、あなたの矛盾した行動を修正することが不可欠である。思いと行動を完全に一致させることが絶対条件である。自分も含めたみんなの幸せを望みながら、自己犠牲を美徳とし、他人を責め、奪い合いをしている。全くアベコベの世界の真実を真実としている限り、あなたは絶対に天国を体験することはできない。あなたが本当に天国を体験したいならば、あなたが今持っているすべての常識をリセットする必要がある。あなたがそれをリセットしても、あなた自身は死ぬことはない。あなたが今まで依存してきた集団から出るだけのことである。『リセットしたら死ぬ』という思いを捨てられるかどうかが鍵である。それがあなたの天国を止めている手かせ足かせである。

あなたが今まで依存してきた世界が、あなたの望みを邪魔するものであるならば、その世界に固執することに意味は無い。天国を望んでいるのにもかかわらず地獄から抜けようとしない、という矛盾した行動をしているならば、あなたは地獄を望んでいるのと同じである。結局は、自分が望んでいるものを手にしているのである。逆立ちから正立に戻る時は、世界がひっくり返る。その体験を怖いと思っていれば、いつまでも逆立ちのままである。そして、必ず倒れる時が来る。正立すれば楽なことを知っていながら、いつまでも逆立ちにこだわる理由は何なのだろうか。あなたがいつまで逆立ちしていようが、一向に構わない。あなたがその状況を体験し続けるだけのことである。「社会」は、あなたとは関係なく動く。社会というのは、あなたの中にある世界であり、あなたの目に見えている形(状況)に自分の持っている観念を投影して生み出した幻想である。その社会を変えようとするならば、あなたの持っている観念を取り替えるしかない。略奪の世界で、制度を変えるために法律をいじくっても、全員が満足する社会を作ることはできない。必ず争いになる。それぞれが社会というシステムを「自分の社会」に合わせて都合のいいように変えようとしているからである。あなたが、何かに依存して自分の生存を企てているとしたら、その何かを操作することが社会の変革をもたらす方法となる。しかし、あなたの社会は、あなたの個人的現実であるから、社会そのものを自分の都合よく変えることはできない。必ず引っ繰り返される時がやってくる。勢力争いを通じて、誰かに都合よく世界を変える戦いをずっと繰り返していたのが人類の歴史である。そのままのやり方では、世界は壊れていく。あなたが、社会のため、他人のため、と言って逆立ちをする根拠を言い張っても、あなたが疲れるだけである。あなたがいつそれをやめるかは、あなた自身が決めることである。それをやめられるのはあなただけである。自分次第で、自分が体験する現実が変わる。
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あなたを含めて、すべての人間、いや、人類の共通の望みは、何の問題もなく、苦もなく、病もなく、死もなく、自由自在に何でも思い通りになること、永遠に生き続けることである。一言で言えば、「神様」になることである。しかし、人間は不完全な存在だからそれは不可能だと言う。不完全な存在だから、成長し続け、学び続けることが人間の義務である、と。一生かかってもすべてはわからない、一生が勉強だ、と。すべてがわかってしまったらつまらない、と。そして神を信仰し続ける。あなたは、本当の本当にそう思っているのだろうか。正直、本当のところは、どうなのか。100%そう思っているのだろうか。自分自身に、本当に正直に問いかけてみて欲しい。自分にウソをついても何にも得るものはない。他人の顔色をうかがっても、善人のフリをしても、何の意味もない。あなたが今まで学んできたこと、今まで常識だと思ってきたことは、何の強制力も無い。あなたは、なぜ、それに従ってきたのか。誰がそうしろと言ったのか。なぜ、それを鵜呑みにしたのか。

人間は神にはなれない、と言いながら、不老不死、天国、極楽、自由、平和を望み、他人を支配し、利益を独占し、他人を思い通りに動かそうとし、社会を変えよう、地球環境を何とかしよう、他人の命を救おう、とするのはなぜだろうか。あなたが実際に自分の力で無から産み出したものでなければ、あなたにはどうすることもできない。「神でなければ不可能なこと」を、人間はやろうとする。人間としてできる限り最大限に、と言いながら神の世界を目指して行動し、平和や自由や天国を作るために戦争をする。という矛盾。その矛盾の気づいているかどうかは別にして、それをいつまでも続けているのはなぜなのだろうか。おかしいと気づきながら、やめないのはなぜか。他人の顔色を窺うのはなぜなのか。

終り、終末、淘汰、滅び、滅亡、消滅、破壊、崩壊、沈没、地獄、という、「死」を連想する概念は、「死」という概念が存在することが前提となる。戦争、殺人、略奪、不安、恐れ、孤独感、喪失感、さびしさ、の根底には、「死」がある。あなたが不老不死=永遠の生を望むならば、それは死の呪縛に囚われている証である。現代社会に存在するすべての問題は、各々が略奪の地獄の世界の中に自分を生かすためにしてきた行動がもたらした結果なのである。『死は避けられない』という思想が前提にあって、『いかにして生き残るか』という問いが現われる。避けられないなら、先に延ばそうと思考する。しかし、必ず、死は訪れることになる。だから、今度は、『子孫に自分の遺伝子を残そう』『自分の生きた証しを残して子孫に自分の実績を伝えよう』と言い出す。そして、そのために時間と労力と資金を費やして研究に明け暮れ、形の成果を残すことに生きがいを見つける。自分はいつか死ぬから自分の存在の証だけでも永遠に残そう、と。肉体が無くなったら命は終りだと言うが、その裏では「永遠の生」を主張する。ここに、あなたという存在、ひいては、人間という存在の真実が隠れている。真実を覆い隠している源は、あなたの思考パターンなのである。
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すべて問題(争い)は、死が存在することが前提である。死が存在し続けると思っている限り、戦いの世界は永遠になくなることはない。その世界で平和や自由や不老不死を望んでも、はかない幻を追いかけているだけに過ぎない。「死」という概念を形成した原因を明らかにすることが、あなたという存在の本当の真実を取り戻すための、第一歩である。

この本は、あなたの本当の姿を明らかにすることで、あなたの生き様を見直すための材料を提供する。あなたが今まで見たことも聞いたこともない言葉や考えも数多く提示されている。自分は今まで何をしてきたのか、自分はどうしたらよいのか、自分はいったい何者なのか、いったい何が真実なのか。本当の自分を知るために、あなたの本当の天国に帰るために、今持っている生き様をすべてリセットして真実のイロハから学び直して欲しい。

あなたは、もともと、万象万物を産む力と共にあった。神も仏も、人も、生き物も、エネルギーも、すべてのすべてを産み生んだ、大元の力。万象万物のイノチの元、その響き、音色、力を元つ大神と言う。資源は有限ではない。天恵は無限である。元つ大神は、今もずっと、永遠無限の創造の響きを奏で続けている。絶対不変の真実を真コトと言う。絶対不変の天地の理法、正神真神の決まりを真釣りと言う。絶対不変の真実ではないものを魔コトと言う。天地の理法を破った法則、悪神の決まりを魔釣りと言う。魔コトに基づいて導き出される考え(思想、知恵、知識、道徳)をアヤマ知という。絶対不変の真実は覆し得ない。真コトを覆えすことは、自らを消すことを意味する。覆そうと試みることはできるが、覆すことは不可能である。真コトと魔コトは裏表の関係であり、元は一つに繋がっているが、そのハタラキは全くの逆さまである。真釣りは、万古末代弥栄の響きであり、永遠に滅びることはない。悪の影さえも存在できない。魔釣りは、真釣りを外した快欲の響きを追いかけ、滅びに至る響きである。本来、両者が同居することはあり得ない。真コトを光、魔コトを闇と置き換えれば、光と闇が同居することは絶対不可能なことなのである。
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今の相対的比較の世界の「光」は光ではなく、「闇」は闇ではない。闇が認識できるのは自らが光そのものだからであり、自らの世界に映る闇は自らが作り出す影に過ぎない。自らが作り出した影である闇そのものを消そうとしても、闇は永遠に消えない。原因を取り除かなければ、その結果である闇は、どんどん濃くなるだけである。太陽そのものは影をもたない。地面に映る影は雲の影であり、物の影である。日食の影は月の影である。本来は、光の存在が闇を作り出すことはありえない。それができるのは、自らの光を雲が遮っているからである。あなたの光を遮る雲というのは、自らが囚われたアヤマ知という雲である。

あなたは、自らに原因があることを知らず、結果である悪を抹殺しようとしている。あなたは、自らの光を遮る雲が、自らが呼び込んだ雲であることに気づいていない。だからこそ、雲を従えたまま、影を消そうとするのである。自らが自らの光を曇らせた源であるから、あなた自らの意思でアヤマ知を捨てない限り、あなたの光が照らす世界の闇は消えない。あなたの内にある悪の芽を摘まない限り、あなたの現実にある「悪」はあり続け、あなたと悪との戦いは永遠に終わらない。あなたが存在するすべての世界からアヤマ知が一掃された時、あなたがアヤマ知を抱えたままなら、すべての世界からあなたも一掃される。

絶対的光には、闇は存在せず、絶対的闇には、光は存在しない。つまり、光のみ、闇のみ、が真実である。しかし、光のみの世界になれば、闇は完全に消滅する。闇が存在できるのは光があるゆえであり、闇のみの世界というのは、実際には存在しない。「光のみ」の世界には「光」という認識(概念、言葉)はない。闇のみの世界というのは、自らの光が完全に雲に遮られた世界であり、それは、自らの消滅を意味するから、闇という認識すらできない。真コトと魔コトは裏表であり、真コトならば魔コトはない。魔コトの世界である今世でいう「完全な光(全き光)」は、本当の意味での完全な光ではない。魔コトの世の100%の光は真コトの光ではなく、真コトの光を消した闇の中の光である。魔コトが真コトの雲であり、魔コトをすべて祓えば真コトの光の世界になる。真コトの雲である魔コトの光がすべて消えても「すべて」を産む真コトの光は消えない。言い換えれば、魔コトという雲を祓うということは、魔コトの世が消滅することであり、それは、真コトの世が復活するということを意味する。全き光には闇はない。あなたが魔コトの世に生きているならば、真コトが現われた瞬間、闇であるあなたは消滅する。消えたあなたが闇を認識することはありえない。生も死も認識できない。それがあなたの完全なる消滅、本当の死である。

魔コトの世の光をほんの僅かでも残すならば、真コトの世から見れば、雲を残していることになる。魔コトという雲をすべて祓うというのは、魔コトの世から見れば、魔コトが滅び、光がすべて消えるということである。あなたに魔コトの光が残っているならば、あなたは消滅することになる。
真コトの世には闇はない。魔コトから見た「闇のみ」という状態は、真コトの光そのものを意味する。完全なる闇というのは、魔コトの世界から見た現実であり、それは、真コトの光のことである。
真コトが自らの現実であれば、自らの世界に闇はない。魔コトの者は闇のない真コトの世には生きられない。真コトの者には闇はなく、魔コトの者は滅ぶから、完全なる闇は誰も体験することはできない。魔コトの者は真コトを知らないから、天国を想像することはできるが、そのままでは本当の天国には入れない。真コトを消した闇の中の光が魔コトの光であるから、それを完全に消すということは、魔コトの世が消えるということである。魔コトの世は、相対の鏡の世界であるから、自らの光は相手の闇であり、自らの闇は相手の光である。魔コトの世では、真コトは闇であるから、魔コトの者は、魔コトの世界がすべてだと認識している。ゆえに、光を消すことは滅びを意味する。魔コトの世は光と闇の勢力争いの世であり、闇の光の中で光を奪い合う「光と闇の戦い」が続く。滅びは避けるから、魔コトでは光を完全に消すことはできない。完全に闇を消すこともできない。実際には、真コトの世から見れば、魔コトは始めから存在しない世界である。魔コトの世の光と闇の光源は真コトの光である。真コトが復活することは、光と闇が一つになり、争いが完全に終わることを意味する。光と闇の戦いをなくすことが、「戦争」をなくす唯一の解決策である。戦争反対を叫んでも戦争はなくせない。光と闇の戦いが終わるということは、戦争反対の叫びも同時に消滅するということである。あなたが自らの内にある光と闇の戦いを終わらせた時、そこが永遠の天国である。
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なぜ、光と闇が同居しているのか。光と闇は同居できないはずなのに、実際には、光と闇が存在する(ようにみえる)。この矛盾を解く鍵は、あなた自身がすでに持っている。それは、あなたという存在の謎を解く鍵であり、今のあなたが持っているすべての疑問、悩み、ひいては、現代社会に存在するすべての問題を解決するための究極の方策である。あなたが持っている思考のパターンのトリックに気づくことが、この問いに答える第一歩である。

現代社会は、魔コトを基にしたアヤマ知によって作られた世界である。従って、アヤマ知が、世の普遍的真理、人間としての生き方の模範であるかの如く、堂々の常識として闊歩している。自分がいかに物知りであるかを証明するためにアヤマ知の蘊蓄を語り、自らの能力の高さを誇示するためにアヤマ知の優劣を強調し、自らの優位性を保つためにアヤマ知の論理で他者を攻撃し、自らの正しさを主張するためにアヤマ知の正誤で論争し、自らがいかに社会に貢献しているかをアヤマ知の清濁で証明し、不都合な勢力を抹殺するためにアヤマ知の善悪の思想を使う。何の躊躇もせず、罪悪感も感じず、法律や道徳や教育、社会制度を強制し、それに沿わない者を処罰する。それらは、自分がその世界で優位を保つため、その世界で自由勝手に振舞うため、その世界で安全を確保するために、アヤマ知の世界で身につけた、アヤマ知の世界で生き残るための術である。しかし、それは、アヤマ知の世界だけで通用する価値観であり、その世界だけで通用するやり方である。真コトの世界から見れば、逆に、自分はいかに愚かな存在か、自分はいかに何も知らないか、自分はいかに世を乱しているかをわざわざ宣伝して回っていることになり、何の意味もない正しさであり、優位性であり、蘊蓄であり、論理であり、善悪であり、美しさなのである。
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『そんな天国はありえない』『そんなことをしたら終わりだ』『何の役にも立たない』『何の金にもならない』というような、自分が居心地がいいアヤマ知の世を終わらせないためのアヤマ知を握っていれば、自分で自分をアヤマ知の世界に封じ込めることになってしまう。なぜそれを握っているかといえば、アヤマ知の世が終わったらアヤマ知によって永らえた自分の命が終わってしまうからである。それを言い続ける限り、法律と、それによって規定される社会制度、個人と個人の関係、国同士の関係、口の利きかた、服装、態度、行動の仕方、果ては、個人の考え方、生き方、死に方、哲学、思想、倫理観、死生観まで、すべてのあり方をアヤマ知によってがんじがらめにされ、アヤマ知を義務や強制の正当性の根拠にしている世界で右往左往し続けることになる。自分の立場を維持することしか頭にないから、何の恥じらいも感じずに、自らの無知と愚かさと偽善を延々と自らで垂れ流すことになる。アヤマ知の善悪を使って法律を定めれば、死刑という殺人や、戦争という殺し合いも正当化される。アヤマ知の世の決まりに逆らうことは、社会を乱すことであり、それに反することは、社会に反抗することになり、自らの命を危険にさらすことになる。こうして、革命や社会変革や制度改革や秩序維持の名の下に、多くの血が流されてきたが、平和な世界、自由な世界になるどころか、今に至っては、人類滅亡の危機すら迫っている。

文明社会は、「教育」という強制的洗脳制度を作り出し、拒否する自由を許さず、当然のこととして、何千年にも渡って、アヤマ知の常識を代々継承し続けて、現代社会に至っている。指導者たちは、アヤマ知の知恵に基づいた教育を通して、その時々で社会にとって都合がよい体系化された知識や思想を強制的に植え付け、アヤマ知の世界に貢献することに全人生を捧げることが人間として価値のあることだと思い込ませてきた。アヤマ知の作る社会を当たり前の世界だと思い込んだ人民は、アヤマ知を基にして、自分も含めた他者の言動を価値判断し、同意したり批判したりしながら、自らの生き残りをかけた戦いの世界を彷徨い続け、夢を実現することを夢見て一生を終える。ある時は他者を攻撃し、ある時は他者に迎合し、アヤマ知の常識をその場のその場で都合よく使って、自分の立場や優越感を保持するための戦いを繰り返している。『あなたのために言っているんだ』『自分のことだけ考えればいいのか』『そんな考えはよくない』『こんな常識も知らないのか』『そんなことをしていたら社会人として失格だ』『目上の者にそんな口の利きかたをしていいと思ってるのか』『家族だからこそ心配してるんだ』『ご先祖様を粗末にするとバチがあたるぞ』『いつまでも夢みたいなことを言ってないで真面目に働け』『働かない者食うべからず』云々、その殆どは自分の優位を保って生き残るための武器である。アヤマ知の世界で生き残ることが何を意味するのかを知らないまま、実現しない自由を求めて、今も戦い続けている。

あなたが、闇がある世界を当然のことと思っているならば、自らが消滅する時が必ずやってくる。あなたの肉眼には闇が見えるが、そこには、星が輝いている。真っ暗になるのは、窓のない壁で囲った場合だけである。窓がある限り、どんなに暗くても、薄っすらと見える。真っ暗になったとしても、真っ暗だと感じるあなたが存在する。真っ暗だとしたら、あなたが『自分はこの世にいる』と思い込んでいても、そこはあの世かもしれない。あなたは、この世にいるのかあの世にいるのか判断できない。あなたが、『自分は生きている』と判断する根拠は何か。この世とは、あの世とは、どんな世なのか。その判断の基はあなたの中にある。今の世の形、風景が見えなくなることを死というならば、あなたには死がある。しかし、実際には、この世もあの世も同じ仕組みであり、「あの世」に行ったあなたは、『自分はこの世にいる』と認識する。自分の存在を認識できることを「生」と言うならば、あなたには「死」はない。「死」を避けること、言い換えれば「生」に執着することが、すべての争いを産む源である。今で言う「生死」、生きているか死んでいるか、は、形の有無のことであり、確実に言えることは、それを考えているあなたは死んではいない、ということである。つまり、あなたには「この世の生」しかないのである。闇を認識している限り、あなたは「生きて」いる。すべては、あなたの思い込みが作り出す幻想である。あなたの中に闇(病み、汝病み=悩み、疑問)が全くないならば、あなたは光の世界に戻ったことになる。すべての世界が、光のみの真コトの世に戻れば、目の前の闇もなくなる。それが、本当の天国である。心の闇を持つ者が作る天国は地獄の中の光の世界であり、その天国の光を追い求めるほど、その裏の心の闇が形になっていく。すべての闇が形になった時、それが、本当の地獄、地獄も天国もない究極の地獄、本当の死、つまり、滅びである。地獄にいる神は神ではなく、悪魔は悪魔ではない。従って、あなたが光と闇の地獄にいる限り、いかなる神に祈ろうとも(悪魔を祓おうとも)、あなたは、本当の天国には戻れない。
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『自分は何者なのか』『自分はどこから来て、どこに行くのか』『自分は何のために生きているのか』『自分はなぜこの世に生まれたのか』『自分が生きる価値はあるのか』等々、自分について何も知らない者同士が、何も見えない世界を道案内しあっても、闇の中を右往左往するだけである。どこに向かっているのか誰もわからず、あっちにぶつかりこっちにぶつかり、問題を解決しては問題を創ることを繰り返して、混迷を深め、お先真っ暗な混沌の世界を漂っている。わからない者が導けば導くほど、益々わからなくなる。『自分はいったいどうしたらよいのか』と訊くことになる。『自分はいったいどうなるのか』と他人に訊くことになる。あなたにわからないことを誰がわかるのか。具体的にどんな現実が起こるのかは言えなくても、あなたが滅びの時を迎えることは保証する。自分以外の事ばかりあれこれ語る者は、自らが滅びの道中にいることを知らない。それは、滅びの道の過程での出来事を評論しているに過ぎない。今のままなら、どんな奇跡が起きようと、誰に助けてもらおうと、あなたは確実に滅びの時を迎える。あなたが真釣りに戻れば、たとえこの世で殺されることになろうとも、確実に天国への道を歩き続け、天国の永住者となれる。
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真釣りと魔釣りは、元は一つであるが、全く逆さまの世界を創り出す。『限りがある』と言うならば、それは誤りである。あなたは、アヤマ知の信奉者である。あなたが限りあるものを奪い合っているならば、あなたは破壊の響き、分裂の響き、滅びの響きを奏でている。しかし、あなたの源は、元つ大神の響きである。元々は元つ大神の御子であるあなたに、苦(悪、病、闇、疑問、悩み、不思議、思い通りにいかないこと、不可能なこと)があるのはおかしい。『苦があるのが当たり前』と思っているならば、あなたは永遠に苦から抜け出せない。

子は親の鏡である。本当のあなたは、親である大神の響き(真コト)そのものである。あなたが自由でないならば、大神の響きを乱している。あなたが争いをしているならば、略奪の響きを奏でている。あなたは、信じている親の響きをそのまま奏でる。あなたがどんな行動をしているかを見れば、あなたがどんな親を信奉しているかがわかる。ここでいう親とは、俗にいう、この世の肉親のことではない。あなたの魂の親、いわゆる、神のことである。「魂」「神」という言葉を聞いた時、『あるかないか』『信じるか信じないか』という思いを持つならば、あなたは、何も知らないことになる。『無い』『信じない』と言う時、あなたはそれを認識している。あなたが何かを否定する時、あなたはその存在を認めている。それが存在することを証明している。肯定であれ否定であれ「それ」があることがその前提である。あなたに認識できないものを否定することはできない。あなたが誰かと議論している時は、自分の立場を有利にするための主権争奪ゲームをしているだけである。「それ」を肴にした論理戦争の勝敗が決まるだけで、「それ」自体にとっては何の意味もない。

「神」と聞いた時、「宗教」だと思ったら、大間違いである。そういう短絡的な反応をするならば、あなたは、真実を封じ込める策略にまんまと嵌まってしまっていることになる。あなたが信じている考えと、この本の話と、どちらが事実なのか、二つに一つである。あなたが、神や仏を信じているとしても、ここでいう神は、あなたの信じている神ではない。そして、『自分の宗教以外信じない』と言うとしたら、それは、宗教拒否症や無神論者、すべてを脳で説明しようとする科学者と同じである。今あるすべての宗教も科学も、それに固執している限りは、絶対に真実はわからない。永遠に戦いの世界に生き続け、最後は、滅びに至る。今持っている思いをゼロにしてこの本の話を聞き直す姿勢が無ければ、あなたは真実を見逃すことになる。赤子のように素直にならない限り、本当の天国への道に戻る機会を永遠に失うことになる。『宗教は信じない』『うさんくさい』と言うならば、あなたは、罠に落ちている。『宗教とか、神とかはバカバカしい』と言うならば、ここでは論外である。宗教を排除したら、永遠に真実を知ることはできないのである。真実を学び直すには、自分の頑固さを一旦棚上げすること、宗教拒否症を改めることが絶対条件である。

あなたがすがる親の言う通りに行動したその結果、争いを生み出すならば、その親は天国を創る親ではない。あなたが誰かの奴隷になっているならば、あなたは絶対に自由にはなれない。あなたが思い通りにならないのは、あなたが元の大神の響きを乱しているからである。あなたが体験していることは、すべてあなたに原因がある。あなたが元の響きを乱していることが、すべての問題の原因である。あなたは、あなた自身に騙されている。あなたを害する者はあなたしかいない。あなたがあなたの加害者である。あなた以外の誰かも同じである。誰かが誰かを害することはありえない。形の上での「被害」は、その本人に原因がある。『自分以外に原因がある』という、その見方は真実ではない。それが真実ならば、あなたは永遠に自由になることはできない。あなたは永遠に争い続けることになる。
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あなたが、誰かを責めるならば、それは、あなたの思い違いである。あなたにそれを教えてくれた親も、あなたと同じように、思い違いをしている。それを正しいものとしてあなたに伝え、あなたはそれを正しいものとして信じている。あなたの現実に何か不都合がある時、あなたは、本当の親を取り違っている。あなたが争いの中にいるならば、あなたは元の響きを忘れている。あなたは、自分の本当の姿を忘れ去っている。あなたは、元の親を殺している。今、あなたが付き従っている親は、あなたの本当の親ではない。あなたの元の響きには争いはない。あなたの本当の親は、あなたを支配することはない。あなたを所有することもない。あなたの本当の親は、あなたを自由にする。あなたが親に依存しているならば、あなたは元の響きを持つ親の下から家出をしていることになる。あなたは、真実を知らない者を親だと思っている。あなたが元の響きを思い出せば、その親から離れ、本当の産みの親の元に帰ることができる。そこを天国と言う。あなたの本当の故郷である。

あなたの創造の基を真中と言う。今も、あなたの真中は大神の創造の響きを持っている。それがたとえどんなものであろうと、あなたは何でも創造することができる。あなたの真中に創造する力が働くからである。従って、あなたの体験するものは、一つ残らず、あなたが産み出したものである。あなたにとって不都合なものも、あなたにとって都合がよいものも、すべて、あなたの創造の為せる業である。あなたは、あなたの神である。しかし、大元の神ではない。あなたに不都合があるならば、あなたは大元の神を無視していることになる。あなたが、あなた以外に責任を転嫁したり、あなた以外にすがったりしている時、あなたは自力で創造していないことになる。あなた以外の何かが、あなたを動かしていることになる。大神でないあなたが創造できるのは、大神が解き結ぶはたらきをしているからである。あなたが、間違った親の言う通りにしたとしても、大神はすべてを形にさせる。

あなたが天国の理法に従っているならば、あなたには、不都合は何一つない。大神の響きの天国をそのまま体験するからである。もし、あなたが、不都合を体験しているならば、それは、あなたが天地の理法に違反した、紛れも無い証拠である。あなたは、あなたの言う通りの世界を見ることになる。あなたが『善悪がある』と言えば、あなたは「善悪がある世界」を体験することになる。あなたは元々、天国の響きを持っているが、天国の響きを乱していることを忘れている。従って、あなたが思い違いをしているとしても『自分は間違っていない』と思い込むと、その世界で、天国を作り続けようとする。あなたは自分が自分の創造の源であることを忘れ去っているから、悪を殺して善を維持しようとする、という矛盾を平然と続けることができる。あなたがあなたに騙されていることに気づかない限り、このトリックを外すことは絶対にできない。あなたが悪を認識する時、それは、自らが作った善悪の目が原因である。あなたがその悪から離れるためには、『目で見えた悪そのものが原因だ』と言っている自分に気づかなければならない。それは「悪」ではない。あなたが『悪だ』と言っているだけである。悪である相手にとっては、それは善である。
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『知らなかった』『気づかなかった』と叫んでも、あなたが今まで生死時空を超えてしてきたことは消すことができない。あなたが自らの犯した間違いを認め、今までしてきた過ちをすべて清算しない限り、あなたは悪の循環から抜け出ることはできない。天国の響きを乱せば、滅びの響きを奏でることになる。間違いを認めず、あくまでも自分が正しいと言い張るならば、あなたは、自分の間違いによって永遠の滅びの世界を呼び込むことになる。

あなたは、或る時、欲望をそそられるリンクページを開いてしまった。それは、『このリンクを開ければあなたは神になれる』という、イヴを騙した蛇の台詞の如き誘い文句が書かれた、永遠の不老不死の天国と瓜二つの動画が掲載されたリンクページだった。真釣りを外し、本当の神を忘れ、真釣りのミロクを忘れ、そのボタンをクリックしてしまったあなたは、欲望のままに次々とページを辿り続けた末に、気づいた時には、取り返しがつかない世界に入り込んでしまっていたのである。どうすれば抜けられるか分からずに右往左往し、快楽に負けて、今も、魔釣りのリンクを辿り続けている。魔釣りのリンクをクリックし続ければ、最後には滅びの世界に至り、魔釣りのウインドウを閉じていけば(真釣りのリンクに戻れば)一番最初の元の天国に帰れる。気づいたならば、今すぐ魔釣りのリンクを辿ることを止めなければ、魔釣りが魔釣りを呼び込んで、完全なる滅びの現実を体験するハメになる。今ここで、あなたの本当の姿、本当の故郷を思い出し、目を覚ますことである。

魔釣りのHPには、あなたが目を覚ませば見える、真釣りに戻るリンクボタンがある。ただし、今の世界はすべてが逆さまであるから、あなたが魔釣りに魅せられた状態では、それは悪魔の囁きのリンクに見えてしまう。しかし、今ここで勇気をもって、そのボタンをクリックし、魔釣りのリンクを閉じて真釣りに戻れば、真釣りが真釣りを助けてくれて、神力が神力を、神徳が神徳を呼んで、元の真釣りの世界に戻ることができる。本当は、真釣りだけだからである。この本は、魔釣りという詐欺HPの存在を伝える警告書でもある。

魔コトと真コトの勧誘合戦。魔コトのアメは心地よい。真コトのアメは苦い。魔コトで手にしたものは、魔法が解けたら灰になる幻の宝物である。今、幻に見えるものは、魔法が解けたら形を現す宝である。どちらの宝を選ぶのか。今見えているものに惑わされれば、あなたは自らの永遠の命を灰にすることになる。今ここで間違いに気づいたなら、それを認め、観念して素直に縛につかなければ、自らが自らを滅ぼすことになるだけである。『自分には覚えが無い』『自分には何の罪も無い』と言うとしても、不都合、苦があるならば、それが、違反した事実があることの証明である。これを認めないならば、あなたは、ウソの誤魔化しの偽善の世界で、善人を演じたまま、何も知らずに、滅びの道を駆け下りることになる。最期に気づいても後のまつりである。真釣りに苦はないから、あなたが真釣りに戻した時に現われる苦の響きはあなたの魔釣りの清算である。清算する事態を招いたのは、真釣りを外した自らであり、その苦は自らの創った苦である。文句を言うところはどこにもない。あなたがそれを辛抱することであなたは魔釣りから離れ、真釣りに戻ることができる。生かされていることはわかっても、苦があるのが当たり前だと思っていれば、あなたは真釣りを外すことになる。真釣りを外した分だけ苦が増えるから、自分で自分の掃除の手間と苦労を増やしていくだけである。いい加減な態度は、自分の身を滅ぼす。真釣りが神の掟であり、破れば滅びが待っている。自分で自分の首を取る結末がやってくる。
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人類の歴史は、この取り違いをした者の集団が進めてきたマヤカシの空想劇である。個人から、家族、国、国際社会、あの世に至るまで、すべてが、同じ仕組みで世界を進めてきた。世を挙げて、全くアベコベの世界を代々伝え、受け継ぎ、いつか天国ができると思い込んでここまで進めてきたのである。しかし、実際は、問題が複雑になり、争いが激しくなり、持つ者と持たざる者の格差が開き、命の危険が増大し、環境が悪化し、生形態が壊れ、自然災害が頻発し、不自由、不平等が拡大し、競争が激化し、あらゆる安全神話が崩壊し、心の荒廃が進み、先行きの不透明さが顕著になっている。目指す世界と現実は、大きくかけ離れている。天国ができるどころか地獄を進めているのである。今に至っても、『現在の状況は新しい時代への過渡期である』と言い張って、かすかな希望を拠り所にして、儚い夢を追い続けている。この世を進めてきた陰の黒幕自身ですらも、自らのアヤマ知に気づいていない。世界を操るドンが、自らがどんな世界を創っているのか知らないとすれば、世界の滅亡は必至である。しかし、あなたが真釣りを思い出し、真釣りに戻れば、あなたにだけは滅びはない。どんな理屈を持ち出そうとも、真実を誤魔化すことはできない。

文明とは、不都合を塗りつぶす仮面である。文明の進歩とは、言い換えれば、天国の破壊である。進歩、発展、文明なる言葉は、病んだ響きの中にある、病の酷さを言うのである。形が変われども、していることは全く同じであり、文明が進歩するほど、天国が崩壊しているのである。その文明の基を成す、科学や技術と呼ばれる業は、発展どころか、人類滅亡のために奉仕する業なのである。元々、天国の響きである者に、進歩とか発展とかいう言葉は必要ない。発展神話に生きる基を置いている限り、自らの本当の姿に気づくことは全くできない。天国は天国であり、天国には不都合はない。天国には問題は全く存在しない。従って、本当の天国には、進歩、発展、文明、成長、進化という概念はありえない。万古末代弥栄え続ける、闇などどこにも無いのが天国である。滅ぶ心配は皆無なのである。
P45
本当の天国には「死」というものは存在しない。死という概念は、天国を壊している者が作り出す幻想である。天国を作るのではなく、滅びの舞台を作っているのである。天国を作っていると思い込んでいるならば、永遠に取り返しがつかないことになる。社会や他人が何をしているか、は全く関係が無い。あなたがどんな態度で生きているかである。あなたが何を基にして、ものを見て、判断をして、決定をしているか、である。全くアベコベの道を歩んでいることに気づかなければ、気づかない者だけが滅ぶのである。これを認めるかどうかはあなたの自由であるが、その結果はすべて自分自身に戻ってくる。自らが取り違いをし、自らが滅ぶ一人芝居である。自業は自得である。自作自演の独り芝居である。

心の目を覚まして違反を清算すれば、周りがどんなことをしていようとも、自分が巻き込まれることはない。違反をしている者が違反を清算している者を巻き込むこともできない。あなたは、形の世界で生きているのではない。響きが形に現れるのであるから、あなたが天国の形を望んでいるならば、天国の響きに直すことが始めにすべきことである。真釣りに戻すと魔釣りが壊れるから、一時的に不安や恐れを感じる。しかし、それは、魔釣りの響きが産み出す幻想である。何も怖がらずに辛抱することが、真釣り戻しの奥義である。

天地の理法は、万古末代不変の「絶対的真理」である。たとえ神仏といえども逃れることはできない。地獄という世界はない。地獄というのは、天国から滅びへの途中経過の世界である。清算して天国に戻るか、そのまま進めて滅びに至るか。清算した者は天国へ、しない者は掟通りに滅びの世界へ、二つに一つの道である。アヤマ知を綺麗サッパリ捨て去らない限り、天国へ戻る扉は閉ざされる。それは、天国へ戻る入口の扉であり、誰かが閉じたり開いたりするのではない。天国への冒険は、自らが閉じた扉を自らが開く道である。

遥か昔、真釣りを外したあなたは、魔釣りを清算するために元つ大神が用意した建物(岩戸、大神の子宮)の中に入り、扉を閉じて自ら鍵をかけた。しかし、そこが真釣りの世と瓜二つの世界であったため、真釣りを戻すことを忘れ、その世界を牛耳る神になろうと、創造主であるかの如く振る舞い始めた。魔釣りを進めに進め、真釣りを闇に葬って、何千年にも渡って玉座の奪い合いを繰り返し、ついには、自らが本当の神であると心底から思い込むようになってしまった。真コトを知らない神仏に騙されて嘘を真コトと信じ込み、神典を改ざんして宗教を広め、真コトを知らせる大神の使い(ソクラテス、神武天皇、イエス等)も抹殺して、進歩発展の名の下に世を挙げて偽の天国目指して猪突猛進し、好き放題に世を進めた挙句、帰る道を見失って行き着いた先が汚泥混濁の現代社会なのである。
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猪は一二支の最後であり、走り出したら止まらない、一目散に真っ直ぐ突進する型示しである。そのまま突進したら、自爆である。その猪を家畜にした豚肉を食べている。ブタはブーブー文句を言う。ブタ、フダ、フタ、今豚(混沌)。猪=獣扁+者、者=土/日。ケモノの世の一二支は、子、丑、(丑寅=艮=東北)、寅、卯、辰、(巽、辰巳)、巳、午、未、(坤)、申、酉、戌、(乾)、亥の順。五(ヒノモト九御座の真中)が龍=立つ=絶つ、断つ、建つ=中国語でロン=アガリ。龍は想像上の(現世にいない=封印した)「動物」。実際は蛇竜。一二=一年=一念。すべてを支える真龍は霊主心従体属が封印された日本の国土そのもの。

十が酉=鳥=十理=TENの理=神の掟。酉が水に溺れると酒、避け、裂け。日本列島の裏の響きは日本裂倒、日本劣等。十理に一歩足りない鳥は烏、鳥に導く鳥、真っ黒なカラスは不吉の象徴、知恵者。三本足烏は神武天皇の道案内。烏=卯、有、生。平和の象徴のハトは、九の鳥。鳩=烏。白=黒。六が蛇で、巳は鏡に映すと9、9は上下に鏡に映すと6、六の西洋アラビア数字は6で頭は下、逆さまにすると9で頭が上、69は胎児の正児と逆児。洋数字666は偽のミロクである。6+9=15=統合、九御座の十の真中は五。6×9=54=御用=誤用、69重ねると8=日。亥子(意志、イ音=オーケストラの基音、イロハのイ=1=ヒト、稲、威士、居死、伊根)と戻る繰り返し。申は猿(猿回し、猿真似、反省猿)=去る、心、新、震、神。十千は甲乙丙丁戊己庚
辛壬葵、木日土火水の兄弟、六が己=己=土戸。5=Sアルファベットの19=十九=トコ、床、常、徳、得、解く、国常立大神が日本国祖。5=語、吾、誤、悟を鏡に映すと己=子、故、孤、枯、古、狐、顧、おのれ。武士は『おのれ!何ヤツ!?』と自分に怒る。十二と十の最小公倍数の60が還暦。1分=60秒、1時間=60分=3600秒=ミロクの百。日本は北緯三十六度。平熱は36.5℃。水の沸点は100℃。昼の12+夜の12=24時間=1日。

1年間の月(心)十二×苦=108=百八=モヤ=煩悩。ユダヤ十二部族、黄道十二宮、イエスキリストと一二使徒、裏切りのユダ、西洋の十三は悪魔の数字、13日の金曜日=十三とお金は不吉の象徴だが、西洋文明は「金」の世界。神=GODを区切るとGO|D=金=禁、筋、菌。金星はビーナス=女神、女=水=形=体主霊属=逆位=蛇の世界=蛇女に睨まれると石になる。金(菌、筋肉、鐘、卍、十の世)=マネー(真似、真寝、魔根)=禁=No.=数=米+女+人+×、NOx=窒素酸化物=大気汚染。陰暦は13ヶ月で現代社会は12ヵ月の陽暦。十二時間×2(ヒル=蛭=吸血虫=昼と夜=依る)=1日。

ナギナミ創世神話の流された逆回りの蛭子と泡島が現日本国の裏の響き。神戸と明石(証)大橋で結ばれた淡島で阪神(反神)淡路(泡自)大震災。大鳴る門橋で解く島=阿波(泡)の国、阿呆の阿波踊り。死国。四国八十八霊場の空海(喰うかい?)の生誕地は善通寺(路)、著者の父はその門前、中新(神、真)町でS4.12.25生まれ。母は丸亀柞原(苦腹)町でS3.3.13生まれ。著者は足立の本木⇒扇(奥義)でS36(1961=皇紀2621=云二拾一).5.4.仮死状態で生まれた一人子。丑年(辛丑)、牡牛座、天王星人。家紋は逆三階松の下がり藤。双葉幼稚園、寺地小、六中、上野(江戸の鬼門封じ)高卆。剣山に十戒を収めたアーク、契約の箱。剣、鶴亀、釣る気。石鎚山の石の槌で頭を割って蛇(イシヤ)の死。四国=豪州(南半球=逆さま)=英国女王が元首の1大陸1国の多民族国家。三×四季で一年。一周360度=36×十、十=X=未知数。エックス線で箱の中身(秘密)はバレる。三+六=九、九十(卆)×4=櫛、苦死、櫛は髪(神)を漉く。
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表の○一二三四五六七八九十+裏の十九八七六五四三二一○=55+55=110=11の0=2=ニ=心=表裏足すと十十十十十十十十十十十=百十=元、11の十(神)、土の神、110番は警察。表裏22数字=富士、2+2=4、表四+裏四=八、岩戸=一八十、明仁=平成=一八十鳴る、徳仁=ナルヒト=成る人=成人、今上天皇から聖俗(神+獣)婚姻(混血、混霊)、開かれた皇室=神と人の平等、オワダマサコ(魔釣りの世界政府の国連大使の子=皇太子妃)、かわしまきこ(自由平等博愛のフランス文学者の子)、一つおきに組替えると、オわダまサこ、かワしマきコ、皇室典範は天皇=男子のみ、現皇室の祖は天照皇大神、ヒノモトは火、支え、男の働き、平成天皇の孫はすべて女児、皇太子の子は「敬」宮「愛」子、愛とアイ、英国は女王、王、皇=白の王=九九(百-1)路(=心)の王=心王、法皇(卍)法王(十)、教皇。鳴戸=七十=渦産み、海:陸=7:3、○九十(真コト)は八方世界の外にある。一から十まで統べる者を一十=ヒトと言う。十=神、銃、獣、従。九九、救急、九九路、心、99+1=百はすべて=神への道。10+五+40、親指+掌(包み込む=神)+人指し・中・薬・小指=手。手は左右鏡、親は内、真中、手の五+五=十、足の五+五=十、左右上下の五の中心に親指、腹がある。胴は一つ。腹は一つ。五体を統べるのは腹。五大陸の腹は日本。五大陸+日本+英国+南極大陸=八陸、日本は北、本、四、九、淡路の五大陸+佐渡+隠岐+対馬。裏日本は険しい、北は厳しい。

北=ヒ+鏡のヒ=比、縦を付けると土、土土つけて逆さまにして鳥居。世界の雛型、元つ神の御神体、元つ神キ出る唯一国。富士山、エベレスト。アレキサンダー東征と神武東征、サッカー協会の三本足烏は神武の道案内、サッカーは玉を足で蹴る点取り。人類の起源はアフリカ、天孫降臨は九州、天孫降臨の道案内は「猿」田彦命。天岩戸神話=神々の宴会でアメノウズメが裸で踊り、タチカラオがこじ開けて、騙して天照大神を出す。現代社会は水、力、酒、女、策略。北半球と南半球は渦と季節が鏡、逆さま。春と秋はベクトルが反対で、気温は同じ。春は芽吹き、秋は実り。朝と夕も同じことで朝は目覚め、夕は眠り。冬と夜、夏と昼。冬は暗、モノトーン、冷=霊、静、耐、夏は明、原色、動、体、カラー。

淡島と蛭子(ヒルコ=エビス=恵比寿=戎=商売繁盛)の創世神話。大黒天=インドの神=大国主命=自らを祀る出雲大社大神殿を創ることと引き換えに天つ神(天孫神)に売国した国譲り神話と連合軍(小天の神の国、キリスト教国の十字軍)に無条件降伏した神道政府が金と科学の宗教に改宗。天孫降臨は魔釣り、元寇、キリスト教、ペルー艦隊、明治維新、原爆、天皇の人間宣言、昭和天皇崩御、バブル崩壊、阪神淡路大震災=国譲りはヒノモトの囚われ、神風で御神体侵略阻止、一神教+銃(十、獣)伝来、新撰組「誠」抹殺(五稜郭=ペンタゴン、土方=土型)で江戸無血開城=日本政府奪取、蛇文明開化=竜封印、米国の無血上陸=日本国奪取、神国封印、金国崩壊、淡島蛭子国崩壊、真国創世直前。
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風水と鬼門封じの陰陽道の四神は、朱雀、白虎、青龍、玄武(鳥、虎、龍、亀=赤、白、青、黒で、黄は中心で底に流れる気として目に見えない。実際は、黄を囲む五神である。中心に立てば、すべての気=世界征服=神力が得られるとされる。風水のお金の気は黄色、黄金で、西に置く。西洋、西方浄土に極楽があるという。)であり、京も江戸も風水で作られた首都である。鬼門の神はウシトラノコンジン、カムスサナルノオオカミ、地神を封じて天神の学問の世界、アタマの知恵が牛耳る現代日本。逆さまの世界なら、最後はどうなるか。国技である相撲(土俵=円、陰陽四神の房の下の東西対決、ピラミッド階級、綱は注連縄、懸賞の手刀は中左右、土火水、アメノミナカヌシ、カミムスビ、タカミムスビの順、陰陽道+神道の神の神事=魔釣り、神事=火の神の座には水は座せず=女人禁制)の一人横綱がモンゴル(元寇の時のモンゴル帝国)の朝青龍、その親方は、「朝潮」の高砂(最高縁起)親方である。丑寅が鬼門であるが、鬼=艮の金神=本当の救世の神門である。救世の神を鬼門に封じた世界で、鬼門が開けば、地獄。鬼門の大神の力は本当は封印不可能。

鶏=二八取=元の十理。鬼門を封じた丑寅の東北に蝦夷が住み、北海道は北米大陸の型示しであり、魔釣りの天孫降臨の末裔である明治新政府がアイヌを、英国移民のアメリカ新政府がインディアンを、先住民を侵略して開拓した共通の歴史がある。英国の国旗(理念、火)は米、アメリカは米国(実動部隊、水)、bay=海岸、海=塩+水、日本=海で囲んだ子宮の中、子宮は海と同成分、日本=胎児=退治、対峙。日本は米穀食、米の原産地は中国、米国の安全保障担当補佐官はライス。ブッシュ=ヤブ蛇、蛇の子がイラク=メソポタミア=文字文明発祥=米国の足場攻撃=親殺し、文字文明の正体。軍出身の国務長官(パウエル)が鳩派、文民の国防長官(ラムズフェルト)が鷹派。魔釣り(黒、蛇、黒幕)のアメリカの大統領府がホワイトハウス。真コトの国の日本は五大陸の雛型であり、魔コトの経綸として、イシヤの仕組みで立て替える御役に、北米に力の神、中国北方モンゴル(元、満州)に我善し(自分は正しい、一番、中華思想)の神、ロシア(共産主義)とインド(カースト制)の地に逆十字(快欲、体主霊属)の響きの陰陽、ユダの地=イスラエルに魔釣りを統べるアヤマ知の蛇の知恵の神を降ろした。裏(火)の響きが表(水)に現われる。国際社会の表舞台でどの国がどんな役をしたかを見ると、世界の裏のカラクリがわかる。

ヒノモトは現在、米国のポチ、経済・技術・教育大国、魔釣りの神輿を担ぐフェスティバル、魔釣りの神祭咲きわう紙の国、宗教なき葬式仏教国。愛国心とは元つ心のこと=本当の愛国(I告)心教育をしたら鎖国、現代日本は崩壊。エルサレムにユダヤ、イスラム、キリストの聖地。ソロモンの神殿に菊花紋(皇室の紋)、日ユ同祖論、日本が元か、ユダヤが元か。世界の源はどこにあるのか。中心なき混沌の世。七曜は聖書の天地創造神話。キリスト教で国づくり。太陽(日)、水、金、地、月、火、木、土、天、海、冥、太陽+九惑星+月=十一。冥王星(冥王、あの世、闇王)のその先に十番惑星発見で十二星。恒星、惑星、衛星、本来はすべて光星。金星=ヴィーナス=女神、火星=マルス=軍神、土星=サタン、土=悪魔。七惑星の外に惑星と核物質の同時発見。天王星=ウラヌス=ウラニウム=天皇制、冥王星=プルート=プルトニウム、ウラニウム+プルトニウム(裏に産む冥王制、裏舞台に悪魔の王制)の原爆でイシヤに無条件降服し天皇が人間宣言=元つ神封じ、リトルボーイ(小さな少年=エルニーニョ=キリスト、広島=イタリア、お好み焼きとピザ、バチカン、キリスト原爆がキリスト雛型地を自爆自壊)原子爆弾で元始の親国を破壊。爆心は産業振興館。元始=原資=原子=アトム、アと無の誕生日は2003年。AtoM=1が13(悪魔)へ。AUM、オウム=遭う無、汚膿む、ア産む、麻原教祖は盲目=真実を見ない現代日本の鏡、Ω=抵抗=最後、現代日本=善ならオウム=悪、アベコベならその逆、現代日本の申し子=親の鏡=現代日本の裏の型示し、悪に悪を見せた鏡(警告)、悪=自分なら悪を裁けば、自裁自刑、自滅の道。現代日本が正ならオウムを潰せば天国、もし誤なら、日本が自滅。結局は、魔釣りの世界の中のテロと報復であるから喧嘩両成敗であるが。
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示せばきりがないのでこの辺でやめておくが、これらは、すべて偶然ではない。この世に偶然は何一つない。あるなら、真釣りは存在しない。すべては一つであり、最後は一つになる。分裂させて鏡を作り、善と悪の戦いをやっている世界では、○=●、●=○の相対、善=悪であるから、すべて一つに結びつく。○と●を持つならば、この見方はわからない。悪を裁くならば、偏っていることになる。分かつ知で物事を見ている証しであり、善悪の善を主張し、悪を裁くならば、元つ真釣りを裁いている=自殺していることになる。日本語はマ=真=魔、ヒ=火=非、○と●両方の意味が型示しできる。こう見ないこともできるが、こう見ることもできる。歴史の「偶然の一致」「共時性」は、こじつけ、洒落ではなく、魔コトと真コトを教える型示しなのである。『自分の理屈を証明するためのこじつけだ』と言うなら、今の世も、自分の正当性を主張するこじつけの戦いである。この世は数学の論理である。一つの意味だけなら戦わない。戦うなら、お互いにこじつけである。こういう見方ができるのはなぜなのか。筆者はこの型示しを押付ける気はさらさらないが、真コト学校の総合学習の教材として挙げたまでである。今の学校では決して教えてはくれない事実である。ただ、型示しを追いかけるゲームは、意味がない。「型示し」の要点がわかったら、即やめることである。さもないと、この永遠にできるゲームの罠に嵌まっている。

「表の型示し」がいったい何を意味しているのか。日本の、現代社会の正体、裏の響き、裏舞台で何が起きているのか。あなたが常に囚われ、形の利便、快欲、お金を追いかけている限り、絶対にそれは見えない。9.11テロもイラク戦争もオウムもすべて宗教のカラクリ(現代社会の正体、人間の正体、神の正体)を知らない限り、真相は闇の中である。今のまま突き進めば慙愧慟哭修羅の地獄に直面することは必至である。これを荒唐無稽と片付けるのは簡単だが、その見方が自分をどんな世界に導くのか、おわかりだろうか。
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テロリストや独裁者や教祖や教団を恨んだり、憎んだり、潰そうと考えたりするのは簡単だが、それでは何も解決しないし、真実を学ぶこともできない。何か事が起きると、悪を裁いて、恨んで、憎んで、自分には関係ない、自分は正しい、自分を守るためにはどうするか、と反応して戦争を繰り返してきたのが人類の歴史である。しかし、あなたのいる世界で起きることは、今のあなたに関係ないものは一つとしてない。承服できかねるのはわかるが、オウム事件を材料にして、なぜオウムが現われたのか、なぜテロが起きるのか、なぜ悪を潰せないのか、悪を裁くことが何を意味するのか、今のあなたの感情や善悪観念や常識を一旦脇において、自分のこととして、この本を読んでよくよく考えてみるとよい。

人類の歴史は、神の歴史の映しであり、現代社会にある宗教の由緒血統を辿れば、すべて知恵の神に行き着く。蛇や邪竜や獅子をシンボルにしているのがその証。今の世にある宗教のどんな神をどんなに敬虔に信仰しようとも本当の天国は来ない。今ある神の歴史は魔釣り箱の中の歴史であるから、どんなに「由緒正しい」お祭りをしようとも、本当の神のご利益、永遠なる安心は得られない。それどころか、祭れば祭るほど、本当の神から遠ざかるばかりである。魔釣りの歴史の中の年中行事、形ばかりの神事を繰り返しても、それは、神に感謝した積もりになっているだけの自己満足、自分勝手な安全保障に過ぎない。病や怪我、事故等々の不都合は、あなたが真釣りを外したことに原因があることを肝に銘じておくことである。どんなに悲惨な地獄を体験しようとも、神仏を恨むのは筋違いである。魔釣りの神に祈り続ければ、ますます厄を呼び込んだ末に、最悪の結末が現実となる。

本当の天国は、世界中が五穀豊穣、国家安泰、家内安全である。今の世で、賽銭という貢ぎ物をしてご利益を祈願しても、それは神を利用しているだけの戯言である。お守りを握っても、本当の安全は得られず、オフダでは厄祓いもできない。本当の天国には「商」の響きはなく、商売繁盛というのは、『より多く奪えるように取り計らえ』と神に命令していることになる。戦いの世界で、同じ神様に全員が『心勝祈願』をしたらその神はどうするか。勝ち負けの世界で全員を勝たせることはできない。負けた側にとっては、無差別殺人の裁判の原告が、被告を無罪にした弁護士を恨むのと同じ理屈で、その神は約束を果たさない裏切り者になる。もし、優勝したとしても「神に祈願する」ことが真釣りを外した証であり、お礼参りをしても意味がない。お礼参りをしないとバチが当たるかもしれないと思って、表向き『神様のお陰で』ということにしているだけである。本当に神様のお陰だと思い込んでいても同じことで、結局は、自分の力では勝てないと思っているか、自分の力で勝ったと思っているが、一応、神様に頼んでより確実に勝てるようにしてもらおうと思っているのが関の山である。戦いの神は魔釣りの神であり、天国は創れない。本気で戦うならば、略奪の世界で生き続けることを選んでいることになり、本当の天国の実現など見ていない。本気で略奪合戦をしているならば、最後は、神法違反で喧嘩両成敗である。
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毎年初詣をしても国家安泰どころか、国家の危機に向かっているのはいかなることか。偽の神様にいくら詣でても、神社が儲かるだけでしかない。神を信仰するのは、自らの身欲の天国を守るためである。光と闇のある地獄にいる限り、ご利益を求めるほど、逆に厄を呼び込むことになり、国家安泰の願いは泡と消える。すべては魔釣りの世の幻想に過ぎない。

歴史の箱の入口と出口は同じ場所にある。過去から未来への直線的な時間軸の上に、世の始まりと終わりを落として天国を目指して世を進めても、その天国はどこにも存在しない。歴史年表の線分の左の端を世の始め、右の端を世の終わりとすると、その左と右は、実は、同じ点である。その二つの点を重ねれば、歴史の真実が見える。実際には、過去も未来もなく、始めも終わりもない。歴史で言うところの世の始めは「?」であり、終わりも未だ来ていないから当然「?」である。そして、その間も「?」の歴史であり、新しい問題を増やし続けているだけで、「?」は何も解決(「!」)していない。本当の年表は直線ではなく、始点と終点が同じループ曲線である。実際には、箱の外には歴史年表はどこにも存在してない。始点と終点を分けて直線にして永遠の「?」を作ったのはあなたであり、あなたの内の終始を結算し、したことの始末を付ければ、あなたという魂の歴史の「!」が見える。

本当の自分(=私=「i」)が逆立ちをすると「!」となる。本当の自分が逆立ちをして、その逆立ちした自分を本当の自分であると思い込めば、偽物の「i」となる。iは、Iであり、私、eye(目)、愛、アイ(五十音の最初)である。すべてはあなたが源である。それを疑って首をかしげると「?」になる。本当の自分は見えなくなっているから、見えている外に答え(「!」)を探す。「?」がどんどん増えていき、仕舞いには、子宮の中には答えがなくなる。頭(・)は上にあるのが正立である、頭を下にして逆立ちをすれば、必ず倒れる。しかし、胎児は頭を下にしないと難産となる。今のあなたは大神の子宮の中にいる。子宮の中の中で正立した胎児は、子宮の外から見れば、逆立ち(逆子)である。あなたの本当の天国は、子宮の外にある。あなたの心は臍の緒であり、外の世界を見ることができる。子宮の外の、心に映る理想の世界とあなたの現実の体験がアベコベならば、あなたは逆子状態である。地に足をつければ安定するというのは誰も依存はないはずである。あなたがいる子宮の中が逆さまの世界であるならば、あなたは頭を下にしているのが、正しい姿である。あなたは子宮の中にいることを知らないから、外の世界のように頭を上にしている。すべてのすべてをアタマで考える。魔釣りの知恵で社会を作る。脳は左右に分かれ、左脳は右、右脳は左の体を支配している。頭(知恵)が体(社会)を支配すれば、左右に分かれて争い、逆さまの世界を作ることになる。つまり、二つにわかれた左右アベコベのアタマが世を導けば、混乱していくのは当然である。主権争いに明け暮れた挙句に、王や独裁者から主権を奪い取って創った「民主主義」というバラバラな主権者の集団統治では、イサカイが顕著になり、収拾がつかなくなっていく。結局は、アタマ(リーダー、独裁者)を求める事態になって、元の一人の王が治める世界へと戻っていくのである。
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あなたは分裂思考をした対極がある世界にいる。あなたが正しいならば、あなた以外が間違いとなる。だから、あなたは、外の×を消そうとする。あなたが「?」ならば、あなたは外に正解(「!」)を求める。実際は、あなたの世界はあなたの鏡であり、あなた(「i」)の答えは、臍の緒の外、後の正面にある。鏡に映った答え「!」を逆さまにすれば、あなた(「i」)になる。逆さまの正解の逆さまが本当の正解である。あなたがあなたを「×」して、あなたがあなたを「?」にしているのである。この世の「!」は子宮の外の「i」の逆さまの姿であり、あなたがそれを認めれば、子宮の中のあなたの「?」は「!」と結び、あなたは逆子ではなくなる。子宮の外は見えない世界であるが、あなたの心を逆さまにすれば、そこにあるあなたの正解(「!」)を得る。そのままを保てば、あなたが子宮の外に生まれ出た時はiとなり、あなたはあなたの本当の天国を謳歌できる。得られた正解を子宮の中の基準で価値判断すれば、また逆子となり、外に答えを探す堂々巡りに戻ることになる。頭とは、肉体上の頭のことではない。逆立ちしている心のあなたが、さらに逆立ちすれば、それは正立を意味するから、本当の真実が見えるということである。その目で現代社会を見直してみれば『こんなにおかしい世はない』ということがわかってくる。おかしいからといって形を治そうとすれば、逆子に逆戻りである。あなたがするべきことは、そのおかしい世界とはアベコベの、本当の自分に従って生きていくことである。あなたの目の前の社会を変えるのではなく、あなたの内にある社会を元に戻せばよいのである。あなたが逆子のままなら帝王切開で突然逆さまの世界に出されることになる。逆子からみれば、天地がひっくり返るとんでもない事態であるが、そこでどんな体験をしようとも、逆さまであることをハラに入れて生きていけば、必ず、本当の天国の現実を体験できる。

今ある歴史は箱の中の歴史であり、始まったところに戻る。始まりが闇ならば、闇に帰るだけである。あなたが、言われるがままにその歴史を辿っているならば、あなたは闇の世界に辿り着く。しかし、実際にはその闇は存在しない。光のみの世界になれば、どこにもなかった闇は消える。本当の天国に帰らない限り、あなたは永遠に滅ぶ。今いる世界は、真釣りを外したあなたを真釣りに戻すために用意された世界である。あなたはそれを忘れ、神を取り違え、『この世でいかに生き残るか』というサバイバル合戦にはまり込んでしまったのである。真釣りを戻さなければ、今あなたが生かされている真の目的は果たされず、天命を全うしないまま、永遠に命の灯火を消すことになる。箱の外には「?」の歴史はない。箱の外は「i」だけの完全自由の天国である。そこは、逆子から見えれば「!」であるが、頭を下げれば、本当の自分(「i」)の世界となる。本当の天国には始めも終わりもない。万古末代弥栄える、永遠の天国なのである。その天国を闇に葬って、世を挙げて真釣りを外し続けて、箱の中で右往左往していたのが、神仏も含めた人類の歴史だったのである。
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人類の歴史の中で作り出された宗教や学問をどんなに信奉してもあなたの真実は永遠に闇の中である。あなたの本当の天国、真実の歴史はあなたの内にある。あなたの内にある分裂の響きを元に戻せば、あなたの本当の真実が見える。すべては一つであり、境界はどこにもない。そのすべてを分けた境界線は、あなたが引いた心の中の境界なのである。地球の上で、国境紛争を繰り返しても、本当の天国はできない。待っているのは滅亡である。

子宮の入口と出口は同じであり、精子(,)が外から入って、卵子(○)と出合って受精(⦿)して、赤ちゃんとして産まれ出る。元の大神の子宮の中でアタマを上にしていたら、逆子となって、難産になる。なぜ、人間の妊娠期間は十月十日なのか、陽暦で言えば、九ヶ月強である。人間より「下等」な牛馬は生まれてすぐ歩ける。ゾウリムシは、自らをコピーして増えていく。野菜や切花は土から離れても成長する。土に根を張っていれば、永遠の生である。植木鉢に土を入れて自然から切り離した花を観賞する。自然から隔離して自分の所に引っ張ってきて、自己満足する。あなたが水遣りを怠れば枯れる。「花の気持ち」を考えたらできないことである。しかし、自らの快楽を得ることしか頭にない人間は、自然や動物の保護を訴えながら、森林を切り開いて町を作り、動物園や植物園で当然の如く楽しみ、機械で作った遊園地で一時の天国を享受する。自然保護と経済発展が共存できると言う。しかし、自然は真釣りであり、経済発展は魔釣りである。真釣りと魔釣り、永遠の天国と永遠の滅びが共存などできるわけがない。それこそ、まったくの絵空事であり、空想の産物、机上の空論、神を畏れぬ大大暴挙である。自らの運命の真実を知らず、形の世界での快楽を捨てられずに、神や自然に媚びを売る。檻に入れるのが可哀相だからと、自然保護という名の詭弁の動物園で自然を保護するのだと主張する。「自然」は管理費も餌代も要らず、保護の啓蒙の経費も、管理官の給料も不要であるから、入園料を取る理由は本来はどこにもない。文明社会だけで通用する遊びに過ぎない。文明が入らない未開民族は、お金は要らず、天恵の自然物のリサイクルで暮らし、文明国なら違法である行為も自然の営みとして許されている。しかし、部族の掟は厳しく、最も自然の掟を体感している人間である。文明国と言われる国では、動物や他人は管理するが、自らが奴隷にされると反抗して大騒ぎする。しかし、要求するその自由が、誰かの都合で生死が左右されるアメとムチの箱(動物園)の中の自由だと気づかない。神を畏れる人間が、神の化身である万象万物を自らの都合で好き勝手に荒らし回って、わざわざ難しい問題を産み続け、難しい問題を解決できるほど優秀な人種であると誇る。自然と文明、どちらが先なのか、どちらが神に近いのか、どちらが自然の営みを壊さないか、わからないのがエリートである。わかっていてやっているなら大大罪であり、エリートの言いなりである庶民も同罪と言える。
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人間の問題は、実際には、今もって何一つ解決していない。それどころか、歴史が進むほどに、解決が困難な問題を産み出し続けた末に、制御不能に陥っているというのが現実である。自らの快楽の世界を維持するために品種改良を繰り返し、自然にないものを作り続けた挙句、遺伝子操作の穀物で命が脅かされ、羊や猿のクローンを経て、いざ人間自身のクローンの番になると世を挙げて大騒ぎする。しかし、クローン技術を推進する側(要求する側)の人間も、反対する側の人間も、結局は、同じ響きの世界で争っているだけであり、その争いは、より大きな視点からみれば、全く意味が無い争いなのである。争う以前の問題として、形のクローンに敏感になっているそのこと自体が、真釣りを外した世界にいる証であり、本当に人類のために有益なのは、それが何を意味するかを考えることである。人間のクローンは倫理に違反するとか、神を冒涜するとか、そういう次元の話は知識人の戯れであって、学者や企業が、クローンを作って儲けようとしたり、臓器移植に使おうとしたり、市民(消費者、患者)の側がそれを望んだり、批判したりしている世界があること自体が、本当はおかしいのである。何の罪悪感も無く、人間以外の動物や植物の品種改良や遺伝子操作をしたり、鉱物を無生物として扱ったりしている人間が、自らの種に関しては、それをすることが悪の権化のように考えること自体、この世が自由でも平等でもない証である。現代社会で言う自由や平等や平和は、「文明人」の世界だけの話であって、自然も含めた平等と平和を実現しようとすれば、今やっていることはすべて自分勝手な悪行となり、現代社会の存続を図ること自体が、自然を破壊する悪魔の企みに変わってしまう。悪魔の世は、天国とは相反する世界であり、神の登場によって、すべて終りを迎える。

文明社会は、破壊に向かって進歩という幻想を追いかけている。本当の神を闇に葬って、それがなぜできるのかを忘れ去り、神から自然の管理を任された生物であるという嘘に騙されて、自然を破壊し、支配するという、本来ならば、不可能なことを平然とやっている。現代社会は、自然から完全に隔離された、金と機械と数字が管理するシステムによって営まれている。すべては、自然のためでも、神のためでも、社会のためでもなく、アヤマ知に基づく人間同士の生存競争をしているに過ぎず、自らの営みを完全に無視され、そのとばっちりを受ける自然(生物)は、人間勝手な理屈で都合よく利用されて、いい迷惑である。人間だけが清く正しくあれば、神を冒涜しないと思っているその勘違いが、すべての争いと環境破壊をもたらした源である。混血がすでに人間の品種改良であって、優性思想はそれを突き詰めたものに過ぎず、自らの人種が一番優秀だとか、人間は平等だから、とか言う争い以前の問題として、苦や不都合や破壊があること自体がおかしいのである。それは言うまでも無く、この世界が真釣りを外した世界であることの動かぬ証拠であり、今までの人類の歴史は、実は、人類自身の破滅を呼び込む、自作自演の狂言だったのである。

本来は、神から人まで、万象万物が真釣りの天国のみである。魔釣りの響きは、真釣り外した身魂を真釣り戻すために特別に作られた、期間限定の響きであり、善か悪か、損か得か、苦か楽か、という「分かつ知」や、「アヤマ知」の知恵は、真釣り世の身魂にはない。殺し合いをしたり、戦ったり、滅びを心配する現実を体験していることが、おかしいのである。平和や自由が当たり前である。というより、真釣りの天国というのはそれしかない世界であり、天国を望んでいるのは真釣りの世ではない証である。その中で争って、不平不満を言っているすべての人間が同罪であり、裁き合いや責任転嫁をしていること自体が、何の正当性もない、愚かな行為である。本気で世界の平和(万象万物すべての本当の天国)を願うならば、自由や平和を求め、天国を目指して戦っている世界を当たり前のものとして、自分勝手な神を作って、好き放題に神世を荒らしている今の生き様を正す必要がある。
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現代社会の現実を作り出した本当の原因はいったいどこにあるのか。密猟者を取り締まろうと、自然保護を法律で強制しようと、動物愛護を教育しようと、問題は何も解決しない。様々な問題を作り出したその本当の原因である「真釣り外し」を認めて、今までしてきたことの清算を始めなければ、現代社会の崩壊、形の世の滅亡どころでは本当に済まなくなる。本当の神を闇に葬り去って、偽の神とその信者集団(知恵の神の人類)が作り出した現代社会のその行く末は、天国でも光の世でもなく、魔釣りの神仏共々、あの世にもこの世にも生きられない永遠の滅びなのである。生産者も消費者も、学者も庶民も、需要と供給の相互依存の現代社会に生きるすべての者にとって、絵空事や他人事では済まされない状況にあるのが、今ここである。人類の(正確に言えば、あなたの)永遠の生死を左右するこの事実からは、誰一人逃げられず、神仏といえども関係のない存在はいない。万象万物はすべて神である。人間と鉱物の扱い方の差に、本当の神を知らない証が現われている。

現代社会の快適さを享受して喜んでいる人間の正体は、魔釣りの蛇の神のクローン魂であり、姿形は様々に違えども、響きの姿は全く同じである。蛇の響きのクローン魂が世界を作るとバラバラの争いの世になる。そして、自ら以外のクローン(コピー、大量生産)には心血を注ぐが、自らのコピーだけは怖れる。現代社会で金の作る天国を快適に生きようとすることが何を意味するのか。真釣りの響きで言えば、鉱物も植物も動物も、上等下等はなく、言うなれば、すべてが自分自身である。鉱物と動物、特に、人間、もっと言えば、自分自身の扱い方の差はいかなることか。すべては一つであるのに、あるものはただの物として、あるものは神の子として扱う。あなたの生き様、物の見方は、現代社会の映しであり、現代社会は真釣りを外した蛇の知恵の神がその源流である。今この場で、今の世の、すなわち、あなたのその行く末がどうなるのかを真剣に考えなければ、あなたは永遠の命を捨てることになる。真釣りのクローンなら、姿形を全く同じにすることも、違えることもできる。ヒットラーの姿ばかりの天国にもできるし、今の世界の形にもできる。響きが真釣りであるから、形がどうだろうと、世界そのものは自由、平和な天国になる。形のクローンを問題にすることが逆さまの響きの証である。すべては、あなたの映し鏡であり、自らがしていることが、自らの置かれている状況を示す。植木鉢の花があなたであり、大神が水遣りを止めればあなたは死ぬ。ペットの犬があなたであり、大神が餌やりを止めればあなたは死ぬ。しかし、大神にとってのあなたは子であり、時が来るまではそんなことはしない。大神は天地創世から今の今まで、与えるだけで、一度たりとも奪ったことはない。現代社会は略奪の世界であり、大神を「冒涜」した集団の作る反神世界であることは、明々白々である。議論の余地はない。今の世で生き残りを図るなら、それは、本当の神への反逆であり、そのまま続けるならば、魔釣りの蛇の世界もろ共、永遠の滅びに至る。大神が水遣りや餌やりを止めてあなたが死ぬなら、それは、あなたが天地自然の掟に反して生きてきた証であり、大神があなたを殺すのではなく、あなたの意志で自殺するのである。
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魔釣りの蛇の神にとっては、あなたはペットである。蛇の神の気分次第で餌を与えられるかどうかが決まる状況にいる。その蛇の神も、言わば、大神のペットであり、大神がその気になれば、餌をすべて取り上げることもできる。しかし、すべての神仏、人類は大神の子であり、本当の親である大神はそんなことはしない。ただし、時が満ちれば、自然の掟通りにすべてを真釣りに戻すことになる。それまでに、大神の心を察して、自らのしてきたことを反省し、本当の自然の掟に戻らなければ、あなたは自殺することになる。大神は真釣り戻すだけであり、真釣り外したあなたが自殺するのである。万物の霊長が、実は、自然界で一番弱い生き物である。アタマの知恵、理性が自らが高等生物である証のように言っているが自然の掟の中ではアタマはいらない。自然の響きで自然に生きれば、何の不都合もないのである。花やペットの世話が面倒だというなら、大神が万象万物に万化して、神の世界を壊し回る手に負えない悪戯坊主の集団を生かし続ける苦労はどれほどのものか、考えてみるとよい。あなたは、天恵なくして一瞬たりとも生きてはいられない。アタマの知恵で奪い合いの喧嘩を繰り返して大騒ぎしている現代社会は、大神が自然に戻せば一瞬の内に崩壊する世界なのである。万物の霊長だというなら、すべての生き物を生かしてみればよい。それができるならば、今世の状況はないし、できるならば、この本もいらない。

月が三千れば、出産しなければならない。しかし、どうあっても出ないと言うならば、帝王切開となる。神仏も含めて、現代社会は仮の世である。仮資の世である。金の支える借り(ローン)の世界であり、本当の龍(真釣り)が現われてロンと成れば、すべては無に帰す。元に戻る。元の真釣りに戻る。今のあなたは、仮死状態であり、仮生状態である。仮の私であり、仮の世である。あなたが魔釣りを続けるか、真釣りに戻るかで、本当の生死が決まる。真生(=真世、真私、真死)であり、生死が永遠に決まるのである。これは、それぞれの課題であり、誰かを生かすことも殺すことも邪魔することもできない。誰かに助けられることも見捨てられることも邪魔されることもない。神仏を含めて、すべての身魂が自らの永遠の運命を自らで選ぶ決断(自決)である。誰かに連れて行ってもらうことも、誰かを連れて行くこともできない。神仏一柱一柱が、人間一人一人が、各々が、大神の子宮から自ら出るか、帝王切開で出されるか、真釣り戻して生き返るか魔釣りのまま死ぬか、或いは子宮もろ共無くなるか、を自ら自身で決めるしかない究極の選択なのである。
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ミロクには神の子宮はない。自らが自らの子宮であり、母であり、父である。自らが外であり内である。自らが神であり、万物万象である。雌雄同体、雌雄変換、男女どちらでも自由自在に成れる。土にも、石にも、星にも、魚にも、鳥にも、飛行機にも、ロケットにも、何にでも成れる。すべて=一つの真釣りの神になる。日月地を統べる「地の日月の神」となる。日月地を統べるのは神でなければならない。ヒノモトの民は、世界を統べる親、地の日月の神と称される、尊き(十産十気)御役の神であり、その神が真釣りを外し、魔釣りのアヤマ知にも囚われ、真コトの神ハタラキができなくなったことが、現代の世の乱れの真因である。日本が真中の真コトを取り戻さなければ、世は滅ぶのが神仕組みである。

逆さまの体主心従霊属の蛇の知恵で真釣りのミロク世を実現できると言うならすればよいが、水と水が組んだ世では、それは叶わない。本気で「神」に成りたいなら、魔釣りの響きを鳴らすのを止めて、今の偽の神仏(科学、宗教)を捨てて、真釣りの響きを鳴らすことである。形は響きの現われであり、響きと相応の形となる。響きが魔釣りで形が真釣り、響きが滅びで形が天国、響きが天国で形が滅び、響きが真釣りで形が魔釣りということはありえない。形が地獄なら響きも地獄である。形が戦争なら響きも戦争である。真釣りとは、万古末代弥栄の響きであり、魔釣りは滅びの響きである。今のままなら滅ぶしかなくなるから、大神が「情けと花の仕組み」で真釣りを戻す仕組みを構えたのである。魔釣りを進歩と間違えば、幻の天国を夢見たまま滅びを迎えることになる。大神が何もしなければ、魔釣りはなく、人類の歴史=現代社会も存在しない。今あなたが生きているのは、戦争ができるのは、真釣りの大神の情けであるゆえであり、そのまま続けるならば、すべて滅ぶ。

心に闇があるなら響きは魔釣りであり、そのままを形にしたら、最後にはすべてが滅ぶ。「鳴る」は「成る」の生かされある神響きであるから、魔釣りの響きで真釣りの世にすることは絶対にできない。形の水を基(台)となす「治す」では、何も直らないどころか、すべてが流れてしまう。火を元の台にして直すためには、まずは、あなた自身が真釣りの真コトを鳴らせる(魔釣りの魔コトの響きの思考を止める、アヤマ知をすべて捨てる)ことである。家を建て直すには、基礎も含めて、古家の形を跡形も無くすべて壊して更地(土)に返す必要がある。神仏も含めて、魔釣りの世は真釣りの中の子宮である。心に真釣りを鳴らせれば、真釣りが分かる。身欲、損得を捨てて行じれば、真釣りに戻ることができる。

魔釣りから真釣りに変わる瞬間の苦の響きに惑わされないことである。他人に真コトを通させるのではなく(社会を変えるのではなく)、あなたが真コトを貫き通せばよいだけである。分かってもらおうと思うのは魔釣りであり、真コトがある積もりであっても、それは、あなたの思い込みである。あなたが真コトであるならば、分かってもらおうとは思わない。真釣りは魔釣りと裏表であるから、魔釣りの者から見れば、無と同じ感覚である。真釣りの世を言葉で語り、真釣りの響きとはどんなものかを話し、真釣りの響きで生きる姿を見せることはできるが、真釣りの響き自体を魔釣りで生きる者に渡すことはできない。真釣りは自らの響きであるから、自らが真釣りに戻らない限り、真釣りとは何か、真コトとは何か、を本当に知ることはできない。魔釣りで行じた癖は、真釣りを行じて取るしかない。全く逆さまのハタラキの響きであるから、損得生死時空を超えて行じる覚悟が必要である。真釣りはアタマでは取れず、金でも買えない。神社の参詣や、教会での祈りや、教典の研究や、読経では絶対に取れない。真コトは、自らが行に結んで、初めて聞く神の徳である。
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子宮の外は、真釣りの世界であるから、魔釣りのままなら死産となる。少なくとも真釣りを思い出して産まれ出れさえすれば、真釣り外した分の艱難辛苦はあるが、真釣り戻しをし続けることで、必ず本当の天国を体験する時が来る。神の世界の出産は一度だけである。真釣りを外した神を真釣りに戻す子宮は、万古末代、ただ一度だけである。今のあなたにとっても、生まれ変わりはあるにせよ、同じ肉体での出産は一回きりである。本当のあなたの出産は、最初で最後の一回こっきりの出産であり、この出産を終えれば、真釣りの体で、真釣りだけの神代で、産まれることも死ぬこともなく自らが自らを産み生み続ける神人となれる。自分が自分の父であり母であり子である、自分の世界という子供の父であり母であるという、父子母(火土水)が三位一体となった永遠の天国で永遠の生を生きられるのである。今のあなたもあなたの世界の親であり、自らの子(現実)に不都合があれば、あなたは親の役目を果たしていない。あなたが教わった親の役割がマ違っているのである。あなたの心に曇りがあれば、親の役目を取り違う。あなたが親の役目を教わった親は、逆さまの世界の逆神の子孫だったのである。本当のあなたの教えることが、本当の親の態度である。嘘の親に教わったことはすべて捨てて、本当の親の生き方を学び直して欲しい。

真コトでなければ真コトの世を総べて統べることはできない。今のあなたは、親(生き様)を変えなければ、真コトの世界で自由自在に生きることはできない。日月地を統べるのは真釣りの神でなければできず、この世で真釣り戻しの天命を果たした神だけが、真釣りに戻った神が神の世を統べる、末代滅びない本当の天国に戻るのである。あなたが、誰かの助けを待っているならば、あなたには助けは来ない。あなたが救い主を探しているならば、それは滅びへと続く道のりである。救世主はあなた自身であるから、あなたの改心次第である。あなたが天地の理法に戻らない限り、大神でも手を貸すことはできないのである。

あなたが神の助けが欲しいならば、神に祈り、仏にすがるのではなく、あなた自身が天地の理法に乗ることである。大神の意に乗ることが、大神の響きに共鳴することである。大神の響きに共鳴すれば、あなたは大神の道に戻ることになる。しかし、あなたが今まで違反した分、辛抱が必要になる。あなたがアヤマ知で奪った分を返す間、あなたは苦労をすることが必要になる。奪って楽をした分、返す苦労が必要になる。その苦労は、奪って楽をした自分自身が生み出したものである。自らで自らのケツを拭き、自らが自らのツケを支払うならば、あなたは、自らのしたことに責任をとったことになり、ミロクは約束される。あなたが自らの苦を一つでも何かのせいにするならば、あなたには滅びが約束される。元々「神」であった者が、神の掟を破ったままで、神世に生きることはできないのである。
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自らが快欲に囚われて、マ違ったやり方で手にした分(響きを乱した分)は、キッチリと返さなければ(響きの乱れを引き受けなければ)あなたは、自らのしたことの責任を取っていないことになる。現代社会の法的、人道的、社会的責任云々は、『誰か(何か)の体験(感情)は、他の誰か(何か)に責任がある』というアヤマ知に基づくもので、それは真釣り外した世での責任概念であり、中身は空っぽである。お金の返済(借りの清算)も同じことで、自分の苦の体験(否定的感情)の責任は、真釣り外した自分自身にしかなく、自分が自分の加害者であり、それは、他でもない、天地自然の本当の神への冒涜者であることの証である。どうあっても自らの責任を認めないならば、あなたは永遠の死を迎える。

マ違ったやり方で自ら作り出した苦は、自らが引き受けるのが当然のことである。真釣りが神の掟であり、真釣り外した身魂は本来は存在しえない。あなたは(今の世は)『情けと花の仕組み』がなければ、今ここに存在しないのだということを決して忘れないことである。大神の情けがあるゆえに存在できるのだということをしっかりと自覚して、真釣り外して天地自然(大神)に迷惑をかけたことをお詫びして、真釣り戻す苦労に耐えることが、自らのしたことの責任をとることであり、天地自然と真釣り合わすことになる。『自分には覚えがない』『そんなのは詭弁だ』云々と言うならば、あなたにはミロクはない。自分がしたことが自分の現実に返るだけだから、好きにすればよい。自らが犯したマ違いによって自らが生んだ苦を自らが引き受けることが真釣り戻すことである。あなたの命は、あなたのものではない。その苦労を避けるならば、命を差し出そうとも、あなたに天国はない。

文明の中での苦労は、苦労しただけ天地の理法を外して滅びに至る苦業である。真釣りを戻す苦労は、永遠には続かない。真釣りを外した分だけ終われば、苦は消える。なぜなら、真釣りには苦はないからである。あなたが、真釣りに戻るための苦労に耐えることが、自らの違反の清算の証しであり、大神への本当のお詫びの印である。本当の感謝の印である。あなたが掟を破っている事を知らせてくれた「情けの苦」に感謝することができるかできないか、それが、あなたが永遠の命を得るための踏絵となる。苦を避ければ、悪を裁けば、自らがしたことの責任を放棄することになる。自らが自らを滅ぼす大きな取り違いに心底気づかなければ、あなたは消える。誤魔化しは効かない。自分の甘えや誤魔化しを一番知っているのは自分である。自分が自分を生かすか殺すか、唯一最大の分岐点である。
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あなたが、あなたの体験するもの(体験すること、状況、感情、考え、知識、常識、生き方)を、たとえ一つでもあなた自身以外のものが原因で体験している、起きていると思っているならば、あなたは重大な勘違いをしていることになる。あなたには偶然は無い。すべては、あなたのしてきた選択の結果である。あなたが『誰かに騙された』と思っているとしても、その誰かの言うことを聞く選択をしたのは、あなたである。『強いられた』『やむを得ず』という表現を使ったとしても、自分が選択したことには変わりは無い。あなたの同意なしで、あなたを動かす事は誰もできない。あなたが何かを恐れていれば、それを避けるために誰かの命令を聞き、『強いられた』『やむを得ず』と言う結果になる。しかし、あなたが恐れているそれ自体も、あなたが選択したもの(考え方、思想、知識、学習、信仰)によって作られたものなのである。その考え方、思想、信仰を選択したことが、その恐れを生み出した源であり、あなたの感情は、すべてあなたが生み出したものである。従って、『強いられた』『止むを得ず』と言う言葉は、自己責任を放棄する言い訳でしかない。

あなたが死を恐れているとしても、それはあなたが生み出した幻である。もし、あなたに死があるとすれば、あなたは死を想像することはできない。死を想像しているあなたは死んではいない。なぜなら、あなたは想像しているからである。あなたが本当に存在しなくなることがあるとすれば、その時のあなたは、苦も楽も感じる事はできない。あなたが死後の世界について論じているならば、あなたは、その死後の世界で生きていることになる。死後の世界が存在するならば、あなたには死はない。あなたが言っている死は、限定した世界での死である。「他人の死」を見て、「自分の死」を想像しているだけである。あなたがあなたの死を見る、合わせ鏡である。辞職も、勘当も、肉体的な死も、結局は、ある世界から出ることである。あなたは死んでも死んでも本当に死ぬことはできず、有限の中を無限に彷徨い続けることになる。あなたの体験する世界(景色、姿形)が変わるだけで、あなた自身は生き続ける。あなたが天地の理法に従った時、あなたには天国も地獄もない。時が至れば、死の幻想を持つ身魂がさ迷うことができる世界はすべてなくなる。これが何を意味するのかよく考えてみることである。あなたが真釣りに戻らない限り、命は消える。

あなたの世界は、本来、すべて天国であり、比較する対象は存在しない。あなたは一つの目しかもたず、善悪、美醜、苦楽、早遅、寒暖、進退、生死、天国地獄といった二極分裂した見方はできない。あなたが分裂した見方を選択しているから、分裂して見えるのである。この見方を「分かつ知」と言う。この見方で見ている限り、あなたは分裂し続けるだけで、永遠に統合することはできない。あなた自身が分けた世界で『より早く』『より楽に』と思うとすれば、それは、自分が作った世界を自らで分け続けることになる。『善悪があるから悪を裁くのだ』と言うとする。しかし、『善悪がある』は普遍的見方ではなく、あなたが作ったものである。『善悪があるから悪を裁く』と言えば、悪を裁き続けることになる。悪を裁く理由である『善悪がある』は、あなたがそう思っているだけであり、それを裁く理由にすれば、裁きの堂々巡りから抜けることはできない。あなたが、『善悪がある』と言っているから善悪があるのであるから、あなたは、自分が決めたものを理由に自分の行動を正当化していることになる。自分が自分を正当化しても、それは普遍的正しさではない。
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自分が自分に騙されていることに気づかない限り、裁きの輪からは出られない。自分の都合で決めた法律に自らが縛られ続けることになる。自分が決めた決まり(法律、ルール)を自分を正当化する根拠にしても、全く意味のない茶番である。自分が自分に課している決まりを変えない限り、あなたが自由になることはない。あなたが、あなた以外のものを理由にして『自由にならない』と言うならば、あなたは永遠に自由にはならない。あなたが理由にしている「何か」があなたを縛るものであるならば、あなたは、その「何か」を変えようと画策することになる。あなたは、その何かが変わるまで、自由になることはできない。あなたも、あなた以外の誰かも、このトリックに気づいていないとすれば、お互いにコントロール合戦を続けることになる。そして、何かに権威をつけて上下を決める主導権争いのゲームを作り出し、自分の外の力を使って相手に勝とうと考える。しかし、その力は、あなたの取り違いが作ったあなた自身の力であり、あなたと同じやり方で、誰かが別のものに力を作り出し、あなたの力を無効にする事ができる。あなたがどんなに力を持っているとしても、その力は永遠ではなく、あなたは常に攻撃に備えなければならなくなる。あなたは、常にスパイ活動をしていることが必要になる。あなたのその不安定さは、あなたが作り出した戦いの目に原因がある。あなたがあなたに緊張を強いているのである。自分が戦いをやめない限り、戦いは続く。『戦いがあるから戦う』と言えば、あなたはその世界で戦い続けることになる。『法律を守らなければならない』は最大のトリックである。

「競争原理」という原理はない。原理だと言えば、そこから抜けることはできない。競争が原理だとすれば、あなたには自由も天国も平和も作れない。競争(勝負)が原理ならば、それは、敗者がいることが前提であるから、自由や平和は、あなたにとってのものであり、世界の平和を実現することはできない。世界の平和が実現したら、戦いはできなくなるからである。『世界平和のために戦う』という矛盾を解消した時、本当の世界平和が訪れる。『自由のために戦う』と言っている限り、自由の奪い合いが続き、結局、両方とも自由は無くなる。自分が自分を縛っていることに目覚めない限り、本当の自由は無い。社会システムに矛盾があるならば、その社会は矛盾で作られた社会であるから、始めの初めのゼロに戻して作り直さない限り、社会の矛盾が顕著になり、争いが激しくなり、自己崩壊する。

あなたが本当の天国に戻れるか戻れないかは、あなたが天地の理法に従うか従わないか(違反を清算するかしないか)によって決まる。あなたの決心次第である。あなたが、あなたの不快感をあなた以外のせいにし、また反対に、あなたの快感をあなた以外のお陰と思うならば、それは、あなたの誤った解釈である。自分以外のものが原因であるというその見方自体が、その体験の原因である。「いい人」「悪い人」というのは、「自分にとって」である。あなたが快、得、幸を感じた時は感謝、不快、損、不幸を感じた時は文句、であり、その基準は、『自分にとってどうか』である。自分の都合で、誰かを天使にしたり悪魔にしたりして、感謝したり、文句を言ったりする、自作自演の独り芝居をしているだけである。真釣りの世は、楽のみ、善のみ、美のみ、正のみ、聖のみ、清のみが当り前の世界である。
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もともと天国であるあなたには、天使も悪魔もいない。それはあなたの取り違いが生み出した幻である。天使と悪魔を自分の都合で使い分ける、自分勝手な行為である。天使と悪魔を生み出したのはあなたであり、天使も悪魔も、その源は同じであることになる。自分を益したり害したりしたのは自分なのに、その益や害は、誰かが自分にもたらしたものだと錯覚し、それを真実と思い込んでいる、幻想の世界の体験に過ぎない。あなたがその世界にいる限り、天使と悪魔の響きに翻弄されることになる。天使や悪魔の響きがあなたの現実に現われる。悪魔祓いや厄祓い、奇跡を見せる者を追いかけ、憎しみ合いや報復合戦、他人の世話や墓参りから抜けられない。あの世もこの世も同じ仕組みである。霊の戦いも人間の戦いも、報復も霊の祟りも、すべてが同じ仕組みである。この世にいようとあの世にいようと、あなたは、恨みと憎しみ、感謝とお陰の世界で、右往左往することになる。

あなたは、もともと、苦も楽も感じない、何の苦労もない、何の不自由も無い世界、いわゆる、天国にいた。しかしある時、あなたは、天地の理法に違反したため、天国を自ら離れることになってしまった。俗にいう、エデンの園からの追放という形で伝えられている出来事である。「知恵の林檎」は、アヤマ知のことであり、「蛇」は、魔釣りの神のことである。『蛇に騙されて知恵の実を食べた』というのは、魔釣りに囚われてアヤマ知を選択したということである。正確に言えば、エデンの園も、天国を離れた世界の内の天国であり、すでに天国ではない。本当の天国を離れた後の天国を本当の天国と勘違いしているから、エデンの園を天国としているだけである。ここでは、「自ら離れた」というのが鍵である。

あなたが自ら天国から出たのか、誰かがあなたを出したのか、どちらか一つが事実である。『騙された』という言い訳は通用しない。騙されたのはあなたであるから、あなたが自ら出たのと同じである。誰かの都合で、その誰かがあなたを天国から追放したのではない。あなたが自ら天国を離れたのである。あなたが、もし、天国を望んでいて、あなた以外のものにその実現を託したり、あなたを邪魔するものとして責任を転嫁したりしているならば、あなたは天国には永遠に戻れない。あなたを天国から追放したのはあなた自身だからである。あなたが自ら戻らなければ、家に帰ることはできない。『誰かのせいで』と言うのは、自分で家出をしておいて、誰かが自分を追い出したと思い込んでいるのと同じである。
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あなたの源は、いわゆる、大神の響きであり、大神とは、万象万物の創造の源である。本当の神には争いは無い。なぜなら、自らの力で、無からすべてを産むことができるからである。絶対無限の力であるから、永遠に作り続けることができる。失うことはありえない。失ったと思うならば、それは、失ったと思いたいがために自らで作るのをやめたというだけの遊びをしているに過ぎない。もし、失ったと本気で思うならば、それは本当の神の響きを忘れている証しである。前者ならば、自らが作ればよいし、後者ならば、自らの違反を清算する必要がある。誰かが誰かを助ける必要はなく、義務もない。無限の創造者は、限りあるものを奪い合う必要は全く無い。自らが、自らを自由にできる唯一の存在である。

あなたは、もともと、神であった。この故に、あなたは、自らが神であると思い込むことができる。自らが自らの力で生きていると思い込むことができる。あなたは、自らの力で生きていると言いながら、誰かにすがり、誰かのせいにしている。誰かの行動によって自分が困る状況になるから、その誰かにそれをやめて欲しいと言う。あなたは、天地の理法に違反した掟を、正しい掟だと勘違いしているから、あなたがその世界の中で正しくあろうとするほど、楽を求めるほど、善を求めるほど、逆に、天国から遠ざかっていることになる。あなたが、今の世の善(いいこと)を行おうとすればするほど、奇麗、安全、安心、快適、便利、癒し、やすらぎを求めるほど、それとは正反対の、あなたが最も避けたいアベコベの体験に自らを誘っていることになる。あなたは天国を壊しているから、天国を作ることはできず、問題解決どころか、問題を生み出す方法しか考えられなくなっている。従って、あなたが天国を求めて進むほど、問題を増やすことになる。そして、その問題を解決しようとして、また、新たな問題を産み出していく。あなたが「問題」を解決すればするほど、実際には、より難しい試験問題を自ら作り出して、解かなければならなくなる。

この試験問題はすべて実技テストであり、実技を行わない限り、問題を解いたことにはならない。最後の試験問題は『魔釣りの響きで真釣りの世界を創れ』という試験問題となる。正解は『自分が消えること』であるから、あなたは採点結果を知ることはできない。魔釣りの響きで生き残りを図っている者は全員、回答不能となり、今のまま問題を解こうとすれば自分がいなくなる。自分が真釣りの世に存在して、採点結果を知るためには、あなたが真釣りの世界を作るためには、真釣りの響きに戻ることしかない。自動車教習所に例えれば、速度無制限のミロクの車(肉体)の運転技術は、ハンドル、アクセルブレーキ、シフトギアまで、まったく逆さまであり、瞬間加速、瞬間停止、空中も海中も地中も自由自在に操れる技術が要求される。車と完全に一体化して事故を起こさない技術を習得しなければ、教習所は卒業できない。検定員への賄賂は通用せず、オマケのハンコももらえない、全員に平等公平な教習である。卒業検定は、全員合格できるが、それまでにクリアすべき教習課程と修了検定の回数は、真釣り外しの度合いによって各自異なる。言わば、完全オーダーメイドの教習課程であり、それがどんなに面倒な、難しいものであっても、それをオーダーしたのは真釣り外したあなたであり、文句を言えば、さらに階段を増やすことになる。最後まで文句を言い続ければ、卒業検定は受けられない。真釣りのミロク(本当の天国)の車(肉体)は、「元つ大神国公安委員会」が発行する免許証(真釣りの真コト)を手にしない限り乗れないが、今の世のどんな極悪人にも、取得資格は平等に与えられている。
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今のあなたは、快適な社会どころか、問題を産み続けてどんどん複雑な社会を進めていっているのである。人類はそれを、文明の進歩、科学の発展と呼び、『複雑なものを生み出せるほど高度な、先進的な文明だ』と言って、人類と呼ばれる「本当の神を知らない物まねの猿」の世界の中で優秀さを勝ち誇って自己陶酔に浸っているが、実際は、天地自然の理法を破り、自然を破壊し続け、混乱と混沌を深めていっているだけである。言うなれば、自らでわざわざ複雑な問題を作り出し、自らの力で解決し(た積もりになっ)て、自らの優秀さに酔いしれる、エゴイストの一人芝居に過ぎない。その猿芝居の正体はと言えば、自らが、「奇麗な」天恵を食べて「汚い」ゴミに変える汚物製造機であることを知らず、「糞尿」を撒き散らしているだけである。自らが撒き散らした糞尿を見て、自らが耐えられないから、形だけは奇麗にするが、根本の響きは何も変わっていない。従って、お芝居が進むに連れて、糞尿が増えるだけで、臭い、汚い世界となる。臭い物には蓋をして、それを誤魔化そうとするが、実際は、どんどん手におえなくなり、処理できない汚物があふれ出て、最後の最後は、自らの糞尿まみれの臭い、醜い本性を現すこととなる。これが、あなたという人間の本体、肉体に入っている魂、形のカバーを外した今のあなたの身魂の姿である。言うなれば、今の神話で言う、「黄泉の国からイザナギを追いかけてきたイザナミの醜い姿」はあなたの本性であり、最後は、表の仮面の下に隠した姿をすべてさらけ出すことになる。

あなたが体験する汚泥混濁は、誰かが撒き散らしたものではなく、あなたがその世界で撒き散らしたものである。糞尿を撒き散らしているならば、あなたは、誰にも文句は言えない。支離滅裂の生き様で私利私欲を追いかけている限り、あなたは、本当の自分と知り合うことはなく、真コトを捨てることになる。自らの正体を知り、それを認めて、自らのすべての過ちを清算し、散らかしたおもちゃの後片付けをしないならば、あなたは、ゴミの山もろ共、魔釣りの焼却場、魔釣りの火葬場で、奇麗に処理されることになる。あなたが自ら処理場に居座り、自ら火葬場の焼き釜に入ったのである。あなたが、自らのケツを拭かないならば、本当の清潔な世界で、本当の快適、安心、安全を謳歌する夢は露と消える。支えを離れて滅びに向かって分裂し、私的な理屈で私的な欲望を追った末路は私滅である。

あなたは、真中に大神の真釣りの響きを持っているから、問題があるのはおかしいと感じる。しかし、自分は正しいと思っているから、現われた問題を自分以外の何かのせいにする。人類の歴史において、時代が進むほど問題が増え、かつ複雑になるのはこのためである。原因は自分以外にあると思っているから、他人を裁き、神を恨む。厄祓いをすれば自分を守れると思う。この故に報復合戦がエスカレートし、裁き合いがどんどん激しくなる。悪霊に憑かれるのも、悪人に騙されるのも、仕組みは同じである。自分の悪神の響きが悪霊を呼び込んでいるのである。本当の原因を直さずに、アヤマ知で作った法律を使った裁判や、魔釣りの霊能力を使った悪霊祓いをして、自分の外にある、自らに害を及ぼす源に見える形を排除して安心している積もりでいる限り、あなたは地獄を進めていく。その結末は、崩壊、滅亡、破滅である。本当の天国を望むならば、最も望んでいるものを作ろうとして、逆に、最も避けたいものを作り出しているという事実に気づかなければならない。
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あなたが、あなた以外の何かを裁くならば、あなたは、大変な過ちを犯していることになる。裁きというのは、あなたが善で、裁く対象が悪である場合に成り立つ。しかし、あなたに善悪があるならば、それは、天地の理法に違反した証拠である。天地の理法に違反すれば、それを教えるために、あなたの外に不都合が現われる。つまり、裁く対象である悪は、あなたの違反ゆえに現われたものである。あなたは、あなたの生んだ悪を裁いていることになり、自分を裁いていることになる。あなたが、外の悪に原因があると言い続けるならば、あなたは、あなた自身を裁き続けなければならない。自分が自分を裁いていることに気づかなければ、最後の被告はあなた自身となり、自らを死刑に処することになる。

あなたが天地の理法に違反していないならば、あなたには不都合はなく、他人を裁く理由は無い。あなたが天地の理法に違反しているならば、あなたには裁く資格はない。今ある法律は、天地の理法に違反した世界を維持するための法律である。従って、法律を使って誰かを裁くならば、あなたは、天地の理法の違反をし続けることになる。確かに、あなたは、その世界では生き延びていて、不快感を解消したことになる。しかし、その結果は、天地の理法に従ってあなた自身にすべて戻ることになり、最後は、天地の理法に違反し続けたあなたという存在が、天国から消えることになる。『他人を裁ける』というのは、取り違いをした世界で教わった思想が作り出す幻想である。価値判断を下し、善悪損得を決め、どちらにするか、という分かつ知を使った見方を捨てること、言い換えれば、自分の思いと口と行いを一致させること、そして、その結果体験すること一切を自分以外のせいにしないことが、そのことが、あなたの深奥に封印された真実、本当の天国の響きである真コトを復活する唯一の方法である。自分の思いや行動も含めて、『許さない』『認めない』という思い、「裁く心」を綺麗サッパリ捨てなければ、あなたは、自分を殺すことになる。

本来は、天地の理法に違反すれば、あなたはその場で消えることになり、今ここにあなたが存在することはできない。あなたが今ここに存在できるのは、一度だけ天国に戻る機会を得ているからである。あなたが、自らの意志で、自分が違反していることに気づかなければ、本当の天国に戻ることはできない。自らを善の存在であると思い込んでいる者に、それが誤りであることを教えるにはどうすればよいか。苦の響きが返るように仕組みを作ればよいのである。あなたは、自らを正しいと思い込んでいるから、あなたに快感を与えると、あなたは正しいと思い続けることになる。従って、あなたに不都合を渡すことで、あなたは違反の事実に気づくことができる。あなたは、もともと、不都合がない存在であり、苦が現われれば、おかしいと思うからである。しかし、苦があるのが当たり前であると思い込んでしまえば、情けの苦を避け続けることになる。「目には目を」「愛のムチ」というのは、他人が他人を正すと勘違いした解釈である。自分が自分のしたことを正す、のであるから、他人が他人を裁くことはありえない。真釣りの者は裁く必要がない。裁判という制度は、この取り違いを公然とシステム化したものである。あなたは、真中に天国の響きを持っていることを思い出さなければならない。天国の響きを持つ者に、苦があるのはおかしい。その苦は自らが作り出したものである。苦を自分以外のせいにするならば、それは、全く逆さまの思い違いである。天国を壊した者が、苦を避けて天国に戻ろうとしても、それは叶わない。天国を作ったつもりが、自らの滅びを呼び込んでいることになる。
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苦が現れた時、あなたがどう反応するか、が鍵である。自らが違反したことを認めるならば、他人を裁くことも、不平不満を口にすることもできない。その苦は、あなたの違反の結果だからである。もし、あなたがあなた以外のものを裁くならば、あなたの苦はどんどん増えることになる。一つ残らず自らが呼び込んだ苦であることを認めない限り、あなたは、どんどん滅びの道を駆け降りることになる。都合のよいことだけに当てはめるようないい加減は、一切通用しない。「すべて」と言ったら「すべて」である。自らの理屈で、何とか苦を避けた積もりでも、その結果は、必ず、更なる苦となって戻ってくる。強制はないが、いい加減なことをすれば、最後は残念では済まなくなるから、よくよく考えて、どうするかを決めることである。もし強制だと感じるならば、それは、他ならぬ、違反をした自分が自分に課した強制である。一言違わず確実に実行しなければ、自分だけが滅ぶことになる。他人は誤魔化せても、自分は誤魔化せない。自分を誤魔化せば、自分が滅ぶ。

あなたは、今まで、あなたを天国に戻すための鏡として渡された苦を逆恨みしていたのである。自分に原因があるものを、自分以外に原因を転嫁すれば、それは、自滅の道を意味する。本来は、この世に苦は存在しない。しかし、天地の理法に違反した者には、苦の形でお知らせが来る。『苦があるのがおかしい』のであるから、無いはずの苦を他人に渡すのは変である。他人に渡すならば、あなたは違反の事実を認めていないことになり、ますますお知らせが厳しくなる。自業自得であるから、天地の理法に違反した者は、本来は、存在できない。自業自得であるから、あなたは自然淘汰となり、自ら滅ぶ。あなたに苦を渡すのは、あなたを苦しめるためではない。あなたを天国に戻すためである。本来は、誰もあなたを助ける義務はないが、違反した者に一度だけ再生の機会を与えるため、違反した選択をする度に、苦をもって知らせる「情けと花の仕組み」が作られた。死刑の執行猶予、敗者復活の機会が一度だけ許されたのである。苦は違反者への制裁ではなく、違反者を生かすための「情け」である。情けを逆恨みすれば、本当に情けない状況に陥ることになる。
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天地の理法に違反したことを忘れた集団は、勘違いをして、自らが神の如く振る舞い、全く同じように見える仕組みを作った。制裁、報復、裁き、を与える仕組みを進めてきたのである。『罪を犯した者は償わなければならない』と言うが、それは罪を犯した者同士の罪の擦り合いに過ぎない。天地の理法の違反は、違反をした本人だけがその結果を追う。誰かが誰かの罪を負うことはない。誰かのために清算するのでも、誰かに清算させるのでもない。違反した自らが自らのために清算するのである。しなければ、自らが滅ぶだけである。従って、『謝罪を要求する』という行動はありえない。全員が、自らが犯した罪を自らが背負わなければならない定めであるところを、他人に背負わせ続けたのが人類の歴史である。その歴史を正しいと言うならば、あなたは、あなた自身を永遠に殺すことになる。

天地の理法の違反の清算の機会は万古末代一度きりである。俗に言う魂としての違反の清算である。魂の死は永遠の死を意味する。肉体の罪の清算で右往左往していては、自らの本当の命の種火を消すことになる。種火が消えれば、あなたは永遠にすべての世界から消え去ることになる。あなた自身が違反を清算しない限り、あなたの生き戻るところは無い。

あなたが今までしてきた違反は、消せない。あなたが今すべきことは、自分が苦を体験している事実を認めることである。あなたには違反した覚えがなくとも、苦があるのが、違反の証しである。それを素直に認めて、責任転嫁を一切やめ、不平不満を一切口にせず、その結果生じる、苦労を辛抱することである。弱音を吐いたり、言い訳をしたり、誤魔化したり、八つ当たりをしたり、他人を責めたり、神や社会のせいにしたり、あるいは自殺をして逃げようとしたり、神や仏に救いを求めたりしても、何の解決にもならない。それどころか、すればするほど違反を積み重ねることになり、結局は今以上の辛抱をしなければならなくなる。あなた自身の苦を自ら増やしていくだけであり、その結果として、あなたがあなたの首を刎ねる末路に至る。苦を避ければ避けるほど、苦のスパイラルが進む。

あなたが天地の理法の違反を続けるならば、あなたは魔釣りの蛇の知恵の神の信者(真釣りのヒノモトに現われたオウム信者)であり、真コトの竜の真釣りの政府(真コトのヒノモト国家)に反抗する国家転覆を企むテロリストとなる。自然界の掟、インディアンの掟、マフィアの掟は厳しい。掟を守ることは、生存のための絶対条件である。家族も他人も区別なく情状酌量もない。掟に反する者は問答無用の切り捨て御免である。自分に甘い者ほど往生際が悪い。アタマで生きている者ほど、甘い砂糖の誘惑に弱い。脳はブドウ糖をエネルギーとする。砂糖は甘く、ベトベトとくっ付く。煮詰めると、固い飴になる。砂糖を取り過ぎると糖尿病になる。アタマで生きると、最後は、目が見えなくなって、命を落す。この世の型示しは、すべてが元つ大神の真釣りの仕組みの反映である。病気を治すことや、物の性質を研究することに血眼になっていると、大出血して死に至る。あなたの本当の死がやってくる。あなたの本体(魂、真コト)の死は、二度と生まれることができない、永遠の死を意味する。真釣りの掟を破った者は、万古末代滅びの響きを渡されることになる。掟を破った者は、命乞いなどしても何の役にも立たない。自分が掟を守っていれば、何の不都合もなく、責任をとる状況にはならない。掟を破った自らの態度を棚に上げて、命乞いや言い訳や逃げる算段ばかりをするならば、始めから掟を守っていればよかったのである。掟を守るのが当たり前であり、言い訳は茶番である。掟を破れば世を乱すことになるから、掟を破った自分がキッチリと落とし前をつけるのは当然の義務である。
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魔釣りの世では、世界に貢献しても、支配者の都合で邪魔になれば抹殺されることがあるが、真釣りに関しては、あなたが掟を守っている限り、絶対に抹殺されることはない。『本当にそうなのか?』と疑うのは自由だが、あなたがその疑いを持って見ているならば、魔釣りの世に漬かっている証しである。真釣りは、自分の都合で抹殺する必要はない。外国は銃殺刑だが、日本は自己責任の腹切りである。これは取り違いをしたゆえの型示しだが、その真意は、真釣りの神法違反は処刑されることはなく、全員が、穢れたハラを真コトの神剣で切って、自らで滅ぶのが真釣りの掟だということである。しかし、時節が来れば、世を真釣りに戻すから、問答無用の切り捨てとなる。それは、一度だけ与えられた改心の機会を自ら棒に振って、いい加減に生きてきた自らが招く結末である。形は処刑に見えるが、自らの違反によって違反を自覚することなく自ら滅ぶということであり、結局は、切腹なのである。テロリストは抹殺されても文句は言えないのが世の定説である。真釣りの神法に従えば、今のあなたは抹殺される(魂の切腹をする)運命にある。それは、掟を破ったあなた自身の招いた結果であるから、掟破りのあなたには文句を言う資格は一切ない。

今のあなたは、元つ天の真コトを封印して、元つミロクの天国を破壊した世界を善だと主張している。蛇は頭を潰さなければ死なない。自らを滅ぼす蛇の封印を自ら解いて、快欲を追いかけて、自分勝手に蛇の知で生きているならば、最後は、あなた自らで頭を潰して、自己責任をとって滅ぶ結末が待っている。邪を祓い、真コトをタテ分ける神剣「草薙の剣(真コト)」は、両刃の剣である。あなたを救う剣であると同時に、あなたを滅ぼす剣でもある。あなたが剣の使い方(マコト)をマ違えば、自らで自らの斬首を招く結果となる。

現代社会と言われている世界は、天地の理法に違反した世界であることに気づかねばならない。自由、平等、博愛、平和、天国なる言葉は、現代社会にある、どんな思想でも実現することはできない。「他人のため」と言う思想は存在しない。それは、誤魔化しである。実際は、他人が喜ぶのを見て自分が喜びたいのである。他人を助けることで、自分の闇を解消することが目的である。どんな理屈を持ち出そうとも、この事実を誤魔化すことはできない。これは事実であるから、怒ったり、否定したりしても、自らの首を締めるだけである。自分が何かをする動機は、自分のためである。自分の行動の結果は、最終的には自分の体験となる。自分が何かを体験することが、自分の行動の目的である。『他人のために』と言うのは、『自分だけのために』を隠すためのカモフラージュである。自分が自分に騙されていることに気づかなければ、永遠に、他人のために生きることになる。しかし、それは、「他人のため」にはならない。自分のための他人のためであり、自分のために他人を利用する行為である。「他人のため」は「自分だけのため」を美化する偽りの仮面である。
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すべては自らが源であり、天地の理法を守っている者には、不都合は存在しない。従って、被害者や、困っている者が存在すること自体がおかしい。全員が、自業自得である。違反をしていない者は、困ることはありえない。すなわち、困っている者を助けたいと思う者も、困っている自分を助けて欲しいと思う者も、自らの違反を他人に転嫁しているのである。つまり、自らが自らを困らせて、その結果を他人に負わせているのである。このゲームの結末は、共食いをしながら、最後には、誰も残ることはない「破滅」である。あなたが、泣こうが、わめこうが、誰かに罪を着せようが、神を恨もうが、誰かを殺そうが、今この世でどう教わっていようが、助けることも、助けてもらうことも不可能なのである。

形の助け合いは、もたれあいであり、実際は、何も助けになってはいない。自らの違反の清算を回避しているだけで、結局は、自らがもっと困ることになり、あれこれと逃げる算段を画策しても、最後は、全員が自分自身の違反の清算をすることになるから、誰も助けてはくれない。自分が自分を助けることができなければ、天地の掟通りに、違反した者は自ら消える運命となる。天地の掟に例外はない。誰も逃げられない。神も、仏も、鬼も、悪魔も、王も、聖者も、庶民も、裁判官も、泥棒も、万象万物、天地の理法に違反したものは、すべて滅ぶのが定めである。あなたが本当の自己責任を取らなければ、自滅である。

あなたのことをすべて知っているのは、あなただけである。あなたの見たもの、聞いたこと、教えられたこと、感情、感じたこと、行動の結果、知りたいこと、聞きたいこと、不安、悩み、欲しいもの、あなたの体験する世界のすべてのデーターを完全に把握しているのは、あなた自身だけである。あなたのすべての体験を知っているのは、あなただけである。あなたの目で見る景色、想像、寝ている時の夢、感情、体の感覚、希望、恐れ、すべての映像を連続して見ることができるのは、すべてを知っているのは、あなただけである。

あなた以外に誰もあなたの選択を左右することはできない。あなたが同意しない限り、あなたを動かすことはできない。あなたが誰かに選択を委ねる時、その誰かに自分の現実を左右させることになる。誰かがあなたに何かをさせたのではない。誰かがそうするように仕向けたのは、あなた自身である。自らで自らの人生の責任を放棄して、自分は何も考えずに、神仏や他人におんぶする。誰かに自らの選択を委ねて楽をし、自らの思い通りにならなければ、その誰かに文句を言う。言うなれば、誰かに自らの現実を壊させておいて、『責任を取れ』と言うような、そんな自分勝手なゲームをしてきたその結果は、永遠の死として戻ることになる。『やられた』『された』『被害を受けた』『何の罪も無い』と言うならば、天地の理法に違反しておいて、平然と、自分は善人だと主張していることになる。あなたは、天地の理法に違反した善悪に基づいて、物事を処理していることになる。自ら創った罪を誰かに着せていることになる。自ら創った苦を避けようと、責任を転嫁していることになる。自分の正しさを証明しようとしても、永遠に証明することはできない。相手の側も『自分が正しい』と思っていれば、際限の無い禅問答、報復合戦になる。できることは、ただ事実を述べることだけである。その後の選択は相手のものであり、あなたには責任は無い。あなたが『わかってもらわないと困る』と思うならば、あなたの正しさは相対的なものである。『正しいとわかってもらいたい』と思っても、それは絶対に不可能である。
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取り違いをした人類のすべての責任転嫁を黙って引き受けていた存在、それが元つ大神であり、この世で言えば、正神真神のカムスサナルノオオカミ様である。その大神が本当の救世主であるが、あなたが魔釣りで生きているならば、大神は悪魔の首領(すべての鬼の大親分)となる。自らが転嫁した責任をすべて引き取るか取らないかで、救世主となるか、鬼のドンとなるかが決まる。大神は真釣りの響きそのものであり、神や仏も含めた三千世界を真釣りに戻す、生死時空を超えた神であるから、今のあなたは逃げることも隠れることもできない。あなたが助かる唯一の術は、魔釣りの世で助かろうとしないことである。

あなたが何も恐れていないならば、あなたは何も強いられることはない。あなたの持っている恐れが、あなたを強いているのである。あなたには、死はない。あなたが死を恐れているならば、それは勘違いに基づく幻想である。自らが作った死を自らが恐れる独り芝居である。あなたがあなたを守るために誰かを殺そうと考えたなら、それは、正当防衛でも何でもなく、れっきとした、自分勝手な殺人である。勝手な幻想を作り、それを理由に、自分以外の命を奪おうと画策している悪魔である。天国に戻るのに、自己犠牲も、他己犠牲も必要ない。自らが違反したのであるから、自らのしたことを償うのは、自らのためである。本来は、「犠牲」という概念はない。もしあるなら、誰かが誰かの意思を無視していつでも命を奪えることになる。形で見れば、「死」を犠牲と言うこともできる。しかし、魂は生き通しであるから、本当の命は無くならない。自己犠牲は美しいというのはアヤマ知である。違反の清算に関しては自己も他人も犠牲にはならない。自らの違反の結果、善悪損得の目で見たら、形が損に見え、苦と感じるだけである。奪って楽した分を返すために苦となるのであるから、差し引き0である。自分が自分を犠牲にした結果の独演会である。

自己犠牲は美しく、利己主義は醜いのではない。天地の理法に従うならば、自分のためにすべてを為すことで、自動的に、他人のため、世のためになるのである。わざわざ、『他人のため』『社会のため』『人の役に立ちたい』と言うのは、他人のため、社会のため、というマヤカシに騙されているのである。自分が苦労せずに楽を得ようとしている者が仕組んだ巧妙な策略である。あなたが同じことを考えているならば、それを使うことになる。あなたに都合がいいからである。善悪のある世界では、自分のためは利己主義、他人のためは自己犠牲、という表現になる。しかし、実際は、どちらも自分のためである。従って、自分のためだけ考えるな、と言えば、他人のために考える必要もないことになる。『他人の気持ちを考えろ』は、依存の世界だけで有効な脅し、相手を殺す言論兵器である。他人のためにもなるが自分のためにもなるのではなく、すべて自分のためにしていることである。
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あなたが誰かに期待する時、あなたは誰かに支配されていることになる。あなたは、誰かの世界を食べて暮らしている。あなたは、誰かの世界を生きていることになる。あなたは、その誰かがいなければ困るのである。あなたが期待しなければ、裏切られることはありえない。あなたの持っている期待が、あなたが感じている「裏切られる体験」の原因である。あなたが期待したことがその裏切りの原因である。天地の掟に従っているならば、「期待」という言葉は存在しない。あなたは思いのままに天国を体験できるからである。期待を満たしてもらおうと思っているならば、それは不可能なことである。あなたがあなたの期待を裏切っているのである。あなたが自らを殺した結果、あなたが自らで他人の奴隷となっているのにもかかわらず、『自由をよこせ』と主張している。辻褄の合わない戯言である。

誰かの期待を満たしてあげようとしても、それは無理である。それをするならば、あなたは、その誰かの奴隷になってしまう。あなたは自ら誰かの人形になる人生を選ぶことになる。誰かの期待を満たすことであなたが満足ならば、それは、誰かの期待を満たしたいという自分の選んだ道であるから、好きにすればよい。しかし、誰かを完全に満足させられないならば、あなたはその誰かの奴隷からは解放されない。『人を困らせてもいいのか』『期待してるぞ』『期待を裏切らないで欲しい』は、期待を満たせば喜び、裏切れば非難する、自分でできないくせに他人にアレコレさせて楽をしようとする、自らの喜びを他人から奪って得ようとしている者の自分勝手な支配言葉であり、あなたがそれに答えようと頑張ったとしても、あなたが疲れるだけである。社会の期待、家族の期待も同じことであり、誰かが誰かの期待を満たすゲームでは、全員がストレスの塊になってしまう。いつか誰かが何とかしてくれる、と勝手に期待したとしても、その期待は満たされない。あなたの完全なる期待を満たせるのは自分だけであり、自分自身が自由になれば、期待は裏切られない。

あなたが持っている思想、常識、習慣は、すべて、あなたが選択したものである。あなたが、あなたに都合のよいものだけを集め、実践を通して訓練し、癖になるまでに見事に完成したのである。自己選択の自動操縦である。あなたは、おかしいと気づいても修正できないほど、どっぷりと漬かっている。間違っているとわかってもやめられない麻薬中毒患者と化しているのである。自らに都合がよい快楽を得るために、脈絡無く右往左往している、酔っ払いである。あなたは、都合のよい眼鏡をかけている事さえ忘れ去っていて、自分の不都合がなぜなくならないのかが全くわからなくなってしまったのである。眼鏡をかけている事に気づかなければ眼鏡を外す事はできず、永遠に真実を見ることはできない。
P72
眼鏡を外して真実を見て、その生き様を自動操縦になるまで訓練すれば、あなたは本当に楽になることができる。抵抗には力がいるが、自然には力はいらない。あなたが真コトの道に乗れば、癖を直す始めの内は苦しいが、慣れてくればくるほど楽に物事が進むようになり、迷いは消えていき、あなた自身の天国の一本道を道草をしながら散歩できるようになる。そして、真釣りのミロクになるまでゆっくりとお茶を飲みながら、魔釣りの奇(危)劇の結末まで過ごし、真釣りのミロクが開いたら、本当の天国を自由に楽しめばよい。その時が来るまで、真釣り戻しながら、最後の晩餐までの時間を遊んでいればよいのである。真釣り戻しは各自のすることであり、他人の苦しみ悲しみを引き受けることはない。あなたが真釣り戻しの苦労を終えたなら、もう魔釣りの罠にはまることはありえない。

あなたは、いつでも、どこでも、すべてを拒否することができる。すべてに同意することができる。あなたがあなたへの自己責任を完全にとっているならば、迷うことはありえない。あなたが苦を避け、損を避けている限り、迷いから抜け出ることはできない。あなたはアメとムチの世界で右往左往することになり、混乱の中で、全く動けなくなる。自分で考えることができなくなり、誰かの言うことに流され、行き着いた先が自分の望みと違っても、自分で直すことはできないから、その誰かを責める事で、不快を解消することになる。しかし、それをしても何の解決にもならず、ますます、ロボット化していくだけである。あなたが本当に自由になりたいなら、自分で自分の責任をとることである。他人の責任を負わず、自分の責任は着せない。この、矛盾のない態度を貫き通すことが肝要である。

あなたが感じる痛みはあなただけの痛みであり、あなたが誰かの痛みそのものを感じることはできない。誰かにあなたの痛みそのものを感じさせることもできない。あなた以外の誰かが、あなたの痛みを感じたと言ったならば、それはその誰かの作り出した痛みである。あなた自身をすべて知っているならば、それは、あなた自身であり、他人という存在はありえない。他人を認識できるならば、その他人にはあなたのすべてはわからない。「すべか、ゼロか」である。「一部」はありえない。「一部、少し」は、分離した目である。本来、不可分のものをバラバラに見ていることになる。もともと、すべてが一つの音色でなければ、一つにすることはできない。バラバラなものとして、部品の集合として、バラバラにできると言うならば、あなたは、いつでもバラバラになる。すべての有機的結合が一つでも壊れれば、それは、崩壊を意味する。体のはたらきの様子を考えてみて欲しい。一糸乱れぬはたらきがあって、生存が保証される。わずかでも狂いが生じれば、不具合が生じ、結局、再起不能となる。素粒子の世界も、体も、機械も、社会も、国も、宇宙も、あの世とこの世も、すべて、同じメカニズムである。体の各部が主権を主張して、主権争いを続ければ、世界は破滅に向かう。命がいくつあっても足りない。今世の、世界の有様である。
P73
誰かの気持ちをわかることはありえない。その気持ちは、言葉で表現された誰かの状況をあなたの体験と比較して導き出した、あなた自身の気持ちである。誰かの気持ちだと思っているのは、あなたである。言葉のイメージが全く同じでなければ、同じ気持ちはありえない。全く同じならば、それはあなたを意味する。あなたがあなたを騙していることになる。あなたがあなたを騙している時、あなたは誰かの泣き落としに引っかかることになる。

あなたの問いに正解を出せる者は、あなたの他に誰もいない。あなた以外の誰かの言うことは、それが常識、普偏、真理だと教わったものであっても、あなたがそれに同意するかどうかは、あなたが決めることである。あなたの周りにあるものを選択するかしないかは、すべてあなたに主導権がある。あなたが『自分にとってどうか』という基準で選択すればよいだけである。あなたがそれを真実であると思えば、それがあなたの答えである。たとえあなた以外の全員が間違いだと言おうとも、あなたはそれを正しいと言うこともできる。あなたが、あなた以外のすべての存在にアンケートを取れないならば、あなたはどうやって真実を見分けるのか。あなたが本当に真実だと思ったものが真実である。他人に訊こうとしたり、真実かどうかと疑ったりしているならば、あなたは騙されるかも知れない。

『現代社会は、誰かにとって都合がよい真実を選択した結果、なんと、殺し合いをしている。これは、自分の都合で誰かを殺すことになっても罪悪感を感じる必要はないということを示している。自分にとって都合がよい真実が殺し合いをもたらすものでもよいのだ。』これは皮肉であるが、あなたの真実を選択した結果、誰かに不都合が生じるとしても、それはその誰かが取り組むべき課題である。あなたがその不都合を肩代わりしてあげることはできない。これは「社会問題」にもあてはまる。あなたがあなたの本当の真実を生き続ければ、その不都合は解消される時がくる。それを何とかしようとすれば、元の堂々巡りの世界に戻ってしまう。あなたは、あなたの生き様を正すことだけに専念していればよい。

あなたが『いいのかどうか』と思う時、その答えはすでにあなたが持っている。その問いを誰かに投げかける時、それは、あなたの答えを、あなた自身が信頼していない時である。その時のあなたが信頼しているのは、あなたを教育した、あなた以外の誰かである。あなたは、その誰かの奴隷になっている。その誰かの言う通りに行動したら、その結果がいかなるものであろうとも、それは、あなたがあなたを信頼しなかった結果である。あなたは、誰のせいにもできない。あなたが誰かや何かのせいにする時、あなたはあなた自身への責任を放棄している。結局、誰のせいにもできない。自分が責任を取るならば、あなたはどんなものでも選択することができる。あなたを不自由にしているのはあなた自身である。
P74
あなたが何かを守っている時、あなたは安全な場所を探す。許可を求めてさまよう。あなたが、誰かに許可を求めるなら、あなたには永遠の自由は絶対にやってこない。あなたが許可を求めると、その許可を与えてくれる者がいる世界の住人となる。あなたは、そこで、安全を確保したつもりになっている。しかし、その世界が永遠無限の天国でなければ、あなたの安全は保障されない。永遠の天国ならば、安全のみであるから、天国に安全という言葉はない。それを探したり使ったりするならば、あなたは天国にはいない。絶対安全な場所に自らを誘導できるのは、あなただけである。たとえ、その途中でどんな体験をしようと、何を見ようと、あなたがあなたの道を完全に信用すれば、絶対に安全が保障されている。ただし、本当の天国は、生死時空を超えた世界であり、絶対の安全が保障される条件は『一切の条件を外せるならば』という条件のみである。つまり、すべての条件を綺麗サッパリ撤廃しない限り、絶対安全な天国への道は閉じる。天国は絶対無限の安全な、自由な世界であり、心配も不安も存在できない。心配がすべてなくなった世界を天国と言う。誰も何も、自らの意志なくして、崩壊はありえない。つまり、崩壊するのは自らの意志以外のものは何も無く、従って、あなたが滅ぶのはあなた自身の意志である。誰かに助けられることはありえない。誰かが滅ぶのはその誰か自身の意志である。あなたが助けることはできない。あなた自身が、自ら犯したマ違いを認めない限り、本当の天国には戻れない。あなたが天国の響きに鳴らない限り、その型示し(現われ)である天国は体験できない。

あなたは誰に許可を求めているのか。あなたは、誰の奴隷になりたいのか。あなたは、許可を与えてくれる誰かのロボットである。しかし、ロボットになることを選んだのは、あなたであり、一切の反抗は許されない。反抗するならば、矛盾したあなたは、自分の都合で法を変える、独裁者と同じである。違反がないならば、あなたはロボットになる必要は無い。天国の奴隷になれば、解放されるのである。天国の奴隷とは完全自由と同義である。

あなたは誰に命令しているのか。あなたは、誰を奴隷にしたいのか。あなたが誰かを支配しようとしているならば、あなたはその誰かに支配されることになる。あなたが支配できるのはあなた自身だけである。あなたが誰かを支配しなければ生きられないならば、あなたは、永遠の勢力争いの中にいることになる。あなたはあなたが支配する者が反抗しないように画策する努力が必要となる。主導権はいつでもひっくり返る。あなたがあなた以外のものに依存する時、あなたはあなたが依存する対象の奴隷となる。あなたが頼っているものがあなた以外のものであるならば、あなたの望みとは関係なく、あなたの自由はいつも奪われる。奪われる自由は奪ったものである。従って、自由の奪い合いで獲得した自由は、本当の自由ではない。本当の自由は今ここにある。あなたが本当に目を覚ませばよいだけである。あなたの闇はあなたが生んだ闇である。消せるのは生んだ本人だけである。
P75
あなたの王は、あなた自身である。あなたが自由になりたいなら、本当の王に絶対忠誠を誓うことである。あなたがあなたの完全な独裁者になれば、何者にもあなた自身の帝国を侵略されることはない。時空を超えた、絶対天国は、誰も邪魔できない。邪魔をする者がいない世界を天国というのである。天国を邪魔する者は、天国には存在できない。天国を破壊する者は、自分を破壊する。つまり、幻の天国の破壊を自らに許せば、本当の天国ができるのである。本当の天国を破壊した者は消える。自らが、本当の天国を邪魔する自らを滅ぼせば、天国が実現する。自分と自分の戦いに終止符を打つことが、戦いのない天国を実現する唯一の方法である。自分に抵抗する自分を黙らせることである。自分に抵抗する、アヤマ知で曇った自分を無視し、雲の中に飛び込んでいく冒険を始めることである。

本当の天国に帰りたいならば、まずは、自分の内に天国を創ることである。その天国の通りに行動すれば、言い換えれば、自分の想像、設計図に従って、文句も弱音も言い訳も不平不満も一切言わずに、苦を辛抱して歩き続ければ、苦はどんどん消え去って、現実が思いのままについてくる。そして、必ず、天国の体験が現実となる時がやってくる。アヤマ知をどんどん捨てれば、今も存在し続けている天国、アヤマ知の雲で隠していた、残る天国が現われてくる。アヤマ知では支配できないのが本当の天国であり、永遠の天国には過ちは存在不能となる。『本当にそうなのか』『もし違ったらどうするのだ』その台詞を持っている限り、あなたはこの世界に歩を進めることはできない。今のあなたの現実がどうなっているか見て欲しい。本当の天国は、あなたの後ろにある。あなたの裏にある。逆さまの生き様を逆さまにすれば、それが、正立、本当に大地に足をつけた生き様である。あなたは、今、目隠しをつけている。あなたを導く者も、目隠しをしている。あなたは、誰を信頼しているのか。誰についていっているのか。あなたはどこをさまよっているのか。本当に天国へ向かっているのか。あなたが目を覚まさなければ、今自分がいる場所の実像を見ることはできない。自分が自分にしている目隠しを外すことが天国を見る唯一つの方法である。盲目の者が導くところは闇である。目を開けた者だけが、本当の天国に辿り着く。

この本は、あなたがすべての目隠しを外した時に見える景色を紹介した旅行ガイドである。


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