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実践・日本真道(事実その2)

現代社会の日本人が忘れた本当の神の道

実践・日本真道  長谷 章宏 著


事実 その2(P76~182)

P76
政治は、政事(まつりごと)である。真釣り、魔釣り、祀り、祭り。元々は、真釣りを基とする神政である。為政者が魔釣りの「アヤマ知」に基づいた政治を行って世を支配しようとしても、世界を正しく導くことはできない。根底に真釣りの響きを持つ世界は、自らで自らを統治できる者(独裁者=独りで自ら裁量できる者)が構成する神の世界であり、支配思想を持つ者は存在できないから、世界支配を企む黒幕はいない。誰もが自分という国を平和に治め、国同士が平和に交わるから、世界全体が平和で自由な天国となる。各自が自由に振舞っても世は乱れないから、外圧を使って統制(支配)する必要は生じない。

現代社会が目指している天国というのは、実際は真釣りの天国であり、逆さまの魔釣りのままで世を進めても、天国は絶対に創れない。魔釣りを真釣りに戻さない限り、目指す天国が実現しないどころか、一番避けたい現実(人類滅亡)が実現することになる。全く逆さまのやり方で何を画策しようとも、神仏も含めて、為政者も市民も、誰も天国は体験できない。真釣りに戻した者には、滅亡という現実は存在せず、本当の天国が現実となる。ただし、真釣りに戻すためには、魔釣りの世で身につけたすべてのアヤマ知を捨て去らなければならない。それを怖がっていれば、魔釣りの為政者の世界に逆戻りとなり、魔釣りの消滅と共に自らの滅亡が現実となる。真釣りの天国は、生死時空を超えた世界であり、現代社会の制度を形だけでどんなにいじくり回そうとも、絶対に実現しない世界である。天国を体験したければ、一人一人が、自分という為政者の根本を真釣りに戻すことである。

政は、正父、と書く。正しい父(正しい火)のハタラキで治めなければ、世は乱れる。魔釣りの政は、正と攵、つまり、正を切り離して×を足場にした傾いた人(=獣)が治める世である。世は乱れるから、アメとムチで治めなければ、収拾がつかない。法律を使った外圧が必要になる。しかし、その混乱の源は、魔釣りの蛇の分かつ知であり、為政者が獣の響きである限り、本当の天国は永遠にできない。従って、獣の世で天国を創ろうとすればするほど混乱することになる。その構成員は、自ら考えることができず、欲望だけを追い求めて、略奪の世界での生き残り(自らの保身)だけを考える「獣」の響きであるから、混乱は収拾できず、世は乱れ放題となる。たとえ、その世の宗教の祀りで国を治めようとしたとしても、その宗教の源は自らが世を支配したい神(魔釣りの知恵の火の神)であるから、結局は同じことである。いくらお祭りをやっても五穀豊穣、国家安泰はありえない。一人一人が自らの身魂の行いを精査し、真釣りで魔釣りの響きを潔斎して「人」と成り、雲一つない晴れ渡った心、静かで清らかな澄み切った本当の誠心に戻ることが世の立て直しの礎となる。正神の精神で聖なる政事が為されれば、永遠の生を謳歌できる天国が続く。
P77
信教の自由、思想・信条の自由、言論の自由が日本国憲法に保障されている。この場合の自由とは、『日本国憲法に基づく「日本国」という国家を存続させる限りにおいて』という条件付きである。どんな思想を持とうと、どんな宗教を崇拝しようと、個人レベルでとどまっている分には問題視されず、国家の監視対象にはならない。獣は自らのテリトリーを侵されるとなると攻撃する。自らの生存に危機を感じれば、危険分子とみなす。日本国の社会システムの根幹を揺るがす思想や宗教については、監視、弾圧の対象となる。多数の国民を扇動して混乱を増幅させるような場合や、国家の転覆を図る可能性のある集団については、即、公安警察が動くことになる。治安維持法や特高警察はなくなったが、その精神は裏の世界で生き続けている。日本国憲法では、言論の自由、表現の自由、思想・信条の自由、信教の自由等々の自由を規定しているが、実際には自由などない。利権の奪い合いと保身の指導者層がいる限り、国家の干渉を排除することはできない。各人が、自分の勝手な意見をぶつけ合って議論しても、妥協案は出るかもしれないが、誰も満足する結論など出るはずもない。議論している双方が二極分裂の響きであり、議論している限りは、主導権争いの中である。ディベートというのは、論理戦争であり、どちらが正しいかではなく、『どちらが相手をやり込められるか』のゲームである。裁判もしかり、両論併記というのは、戦いの世界で時間切れになった拮抗した議論をその場だけで取り繕う逃げ道に過ぎない。二極分裂の戦いの自己保身の響きの世界が一つにまとまることはありえない。

民主主義社会というのは、表向きは主権は民衆にあり、政治に参加できることになっている。しかし、人類史は、神世、神政、神制、王政、王制、独裁制等々、殆どの時間は、誰か一人に権力が集まる仕組みで進んできた。宗教勢力と政治家が合体したり、権力闘争をしたりの繰り返しである。人類の歴史は、サルから始まったと言うが、ケモノの群れにはリーダーが必要である。羊の群れには羊飼い(神)、狼の群れにはボス、飼い犬には主人がいなければ統率がとれない。バラバラの思想の人間が集まって好き放題に社会を進めれば、混乱は必然である。民主主義、特に、議会民主制というのは、人類史の政治制度の変遷の最後に位置する最も統制がとれない仕組みなのである。米国、フランス、ロシアは大統領制であり、英国は女王を元首とする二大政党制、ドイツ、イタリアは大統領と首相が存在する。民主社会であるように見える西欧諸国は、王室の存在する国が多い。アジアも、王室を持つ国、政教一致の国が多い。翻って、今の日本国はと言えば、天皇という名のエンペラーは象徴化され、神道儀式は行うが、表の世の国事行為は政府の追認の仕事や名誉職であり、金と科学が国の支えである現在では、精神的な支えとしての役割もないに等しい。

近代以降の日本の制度は、すべて外国の輸入であり、形だけは真似をするが、中心の柱はなく、中身も伴っていない。右派と中道と左派が離合集散を繰り返し、思想的に見れば、支離滅裂の政治家集団が日本国を運営している。王室にあたる支えもなく、大統領も存在せず、政党と利権集団に左右される首相が率いる何とも頼りない国なのである。一説によれば、日本国の国家元首は英国女王であり、大統領は米国大統領、そして、日本国は米国日本州である。世界には、豪州のように、他国(元の宗主国である英国)の女王を国家元首にしている国もある。政権奪取しか頭になく、政治理念や国家像は国民(=票=政治生命の基)の顔色や「国際社会」という世間体を見てコロコロ変え、左も右も大差なく、勢力を拡大できるとなれば、自らの金ズル集団に都合がよい思想に鞍替えすることも躊躇せず、矛盾を指摘されれば、ノラリクラリとはぐらかす政治家。かたや国民は、自らの快楽の追及に忙しく、学校という科学教の教会は文部科学省なる総本山に管理され、政治や国際問題といった「難しい」分からない研究は学者にまかせ、現世利益欲しさに神や仏を拝み、先祖供養なる「祟りを避けるための偽の感謝儀式」はするが、本物の宗教的な柱はなく、自らの欲望を満たす信仰を宗教と勘違いしている。不平不満は言うが自らで考えることはせず、責任は取らない。自ら責任を取らず『誰かに言われたからやる(世間の流れ、時代の流れ、国際社会の常識だから、日本だけ勝手はできない)』という詭弁を労して失敗を担保するしたたかさ。その世間や国際社会が本当に自由や平和や天国に向かっているのなら別によいのだが、もし、その逆だとしたら、「外圧」がなければ動かない政府が率いる日本国の未来にいったい何が待っているのか。今、世界で起きている出来事は、現代社会がどんな世界に向かっていることを示しているのかを、曇ったマナコを見開いてしっかりと見て欲しい。
P78
国際社会に参画したいならば、経済や福祉や英語やIT技術云々の形だけではなく、構成国の精神的支柱、文化の思想的背景、国民の思想的行動特性を知らなければ、真の外交、交流はできない。結局は、思想、宗教の統制が国家運営の基本であり、世界を支配する勢力からみれば、科学と経済一辺倒の日本は、金を出させるには都合がよい銀行としての価値しかなく、霊的去勢された、何の危険性もない国である。治安維持法や公安警察、CIAの世界すら表の世界であって、公安警察の裏の裏の世界も存在する。日本文化が見直されていると言っても、それは、西洋でも東洋でもない不思議な魅力に惹きつけられた異国趣味の域を出ず、武士道も、結局は、戦いの世界の礼儀作法である。大和魂と言っても、それは、キリスト精神であり、仏教精神であり、儒教精神である。日本は、太古の昔から、外国精神を輸入して都合よく混ぜ合わせてきた。今の日本の精神は、輸入精神の混合であって、神国日本を語ってはいても、本当の日本精神を体現している日本人はないに等しい。

世界は神がその精神の基盤にあり、日本ほど神をないがしろにしている国はない。人類の歴史は、結局は、宗教戦争の繰り返しである。科学と宗教が別物だと思い込み、自国の宗教の実体もわからず、世界の宗教に疎く、自ら考えることができず、今現在の収支決算に右往左往し、経済や福祉や反戦に命を賭け、ありとあらゆる快楽を追い求め続ける現代社会の日本人。安全神話が崩壊したとは言え、現代日本は、民主主義の自由な国、豊かな国、平和な国だと思われている。しかし、それは、表向きのことであって、その実体は、宗教戦争に敗北した神なき神の国である。イスラムとキリスト教の戦いのその裏に、もっと恐ろしい計画が着々と進行している。真釣りの真コトを思い出さない限り、日本も世界も共倒れである。戦後教育によって完全に霊的去勢されてしまった「一般庶民」の思いも至らないところで、神仏の世界や生死、時空を超えた、どえらい仕組みが動いているのである。
P79
すべては『○○する恐れがある』階段で封印する手立てが取られる。それが冤罪であったとしても、である。形になったら、対応できないからである。自らの死の恐れが、攻撃の意思の無い者を破壊者にでっち上げる。被害者意識、恐怖の魂、自らの恐れが自らを戦いに引き釣り込む原因である。恐れは疑いを生み、疑いは敵を生む。自らが自らの平和を壊す破壊者である。自らが自らの加害者である。真釣りの「思想」は、今の日本政府も、その政府に抵抗する勢力も、すべてを「無」に帰す響きを持っている。封印されたものは、いつか封印を解かれる時がくる。日本国憲法とその下の法令を遵守しようとする限りにおいては、日本国の現状は益々「望まない世界=破滅」へと進んでいく。日本国憲法の根底にある理念そのものが、神を消し、真コトを封じる勢力によって作られたものだからである。

今の「日本国」は、民主主義という思想、議会民主(議院内閣)制という政治制度と市場経済を基盤として成立している。科学思想が教育の根底にある理念であり、科学技術と金融経済が日本国を存立させる土台である。そして、その絶対法規が日本国憲法である。歴史を逆戻りさせるような宗教的国家運営を唱える勢力や軍事クーデターを企む勢力を封印し、天皇を象徴に落とし、国教を無宗教に変え、金と科学で国づくりを進めた、その結果が、今である。平成に入ってからの日本の状況、出来事、世界の動きが何を意味しているのか、正直に見てみることである。この先も、同じやり方で進むなら、もう日本国に未来はない。

今の日本国においては、宗教を個人的に崇拝する分には自由だが、悪魔思想を実行しようとすれば、それは危険思想として国家機関総動員で封印にかかる。獣は人を恐れる。悪魔は神を恐れる。どちらが「国を破滅に導く悪魔思想」なのかを正直に見てみることである。宗教や思想、哲学を表現する自由は一応認められてはいる。しかし、人類の歴史の常として、国家運営や一般社会に大きな影響を与えるようになれば、公安の監視対象となり、いよいよとなれば弾圧される。今の世にある思想ですらそうであるから、真釣りの「思想」は、それは、当然のことながら、魔釣りのアヤマ知で作った国家では、認めることはできない。国家の崩壊を扇動する思想のように見えるからである。それは、今の日本国の根本理念とこの本で語っている理念とが真逆だからであり、著者から見れば、今の日本国が国家の破壊に進んでいるように見えるのである。史実として大本教の弾圧という実例がある。

今の日本国は、戦後教育によって、真釣りどころか、神道すら封印されてしまっている。科学と金の思考がすべてとなり、進歩、発展の仮面に騙されて、それ自体が、破滅に導く宗教であることに気づいていない。このように言えば、著者の「思想」が危険思想となり、公安の監視対象になり、この本も発禁になるかもしれない。しかし、著者は、「真釣り」をお伝えし、あるべき本当の日本の姿を語り、現代社会に至る人類の歴史の闇の闇に葬られた真相をそのまま書いているだけである。著者も、元々は、教育現場にいた人間である。ただの宗教や生半可な教育で日本人の心が変えられるとは思っていない。現代社会に漬かっていた時の体験を踏まえて、今の日本国の姿と、著者が体験を通して学んできた本当の日本の姿とは、全くのアベコベであると書いているだけである。ただ、事実を述べているだけである。著者は、今の日本国に異議を唱える意思も、国家を転覆する意思もさらさらない。そんなことをしても意味はない。著者が何もしなくても、いずれ日本国は壊滅することになる。これは、元つ神仕組みであるから不可避である。これを宗教というならそれで構わない。この本を読んで何かを感じたなら、生き様を見直す材料として使ってもらえればよいだけである。しかし、本当の真実は覆せないということは覚えておいて欲しい。
P80
今の日本国は、魔釣りのアヤマ知の世界第二の経済大国、文明国であるから、その国家体制を持続させるためには、真釣りの「思想」は究極の邪魔者である。著者は、そんなことは百も承知で敢えてこの本を日本国の皆さんに公開しているのである。この本をどう扱ってもらっても構わないし、著者を危険人物だと思ってもらっても構わないが、この本に書いたことは、本当の真実であり、今までのやり方でどう封印しようとも、この本の根底にある響きは消すことはできない。真釣りの真コトは封印できない。それをすれば、消そうとするあなたが消えることになる。封印されるのは蛇の知の魔釣りの魔コトである。最後は神力と学力、ハラとアタマの、生死時空を超えた、言うなれば、霊界でのハルマゲドン、響きの総決戦になるから、その映しである現界、つまり、この世でそれを止めることは不可能である。これを荒唐無稽な話、危険思想として扱うなら、それは究極の死を意味する。

元の大神を封印した国に元の大神を復活させれば、それは、国家の消滅を意味する。魔釣りのアヤマ知の「国家」という概念とシステムは消滅するが、風景や自然は残る。物質化したものは、すべて分子の集合体であり、共鳴共振現象によって、目には見えないレベルで振動している。そして、この現象を利用すれば、超音波で建物を破壊することもできるし、振動しているものを止めることもできる。想念の世界、心の思いも同じであり、自らと共鳴している霊界が自らの現象となる。想念が形になったものが物質である。従って、真釣りの響きが現れれば、魔釣りの響きで作られたものは、想念も含めて、形をなさなくなる。真釣りは万象万物を形為す自然の掟でもある。元つ大神は真釣りの響きであり、真釣りの響きが現れて壊れるシステムは、「自然の掟」に反したものである。真釣りをするしないは自由であるが、大神の響きが具現化すれば、どんな防衛策も意味をなさない。警察も、自衛隊も、神主のお祓いも、呪術も、全く意味がない。破壊されるものを自ら破壊すれば、破壊される危険は消える。魔釣りの自己破壊が唯一の自己防衛策、真釣り戻しである。幻想はすべて崩壊する。崩壊するものは、止めることはできない。崩壊の痛手を減らすには、幻想が少ないうちに自らで崩壊させることである。自らの魔釣りの想念を実体だと思っていれば、真釣りによってすべて消えることになる。魔釣りの思いが自らのすべてだとしたら、真釣りの響きは自らの死を意味する。しかし、真釣りのみが実体を産み出す響きであり、魔釣りも真釣りあるゆえに存在するものである。真釣りがすべての源である。
P81
日本は神を封じ込めた神国である。江戸時代の檀家制度で仏教を強制し、義務教育の公立学校=日本流無神論教会で、「宗教」教育を禁止しているのは、神を封じ込める思想の型示しであるが、そのことが、宗教的盲目の国民、日の丸と君が代をすぐ戦争と結びつけるような短絡的思考の国民を大量生産する結果をもたらしたのである。神亡き日本が、イラク戦争という「イスラムと十字軍の聖戦」の尻拭いに自衛隊を派遣することの意味など分かるはずもない。最新戦術の戦争に丸腰で参戦したようなものである。私立学校の宗教教育も魔釣りの宗教の教えであり、本当の意味での宗教は日本に存在しない。国旗は国家の理念の象徴であり、国歌は国家の理念の言霊である。校旗や校歌に誇りを持つが、その親である国家の国旗と国歌をないがしろにしている国は稀有である。それが、世界の親国であればなおのこと、右翼も左翼も嫌って、どっちつかずの曖昧を好み、日の丸君が代の真意が全く見えなくなった日本国は、言わば、中身のない形だけを見て右往左往する、大黒柱を持たないへなへな腰の情けない国である。アヤマ知の教育の作り出す常識にどっぷりと漬かって、心理=神理=真理の公式を見失い、「哲学は安全な学問、宗教は危険な教え」というように、宗教と科学を別物と見ている者たちには、戦後教育の正体を見破ることはできない。たとえ、その正体を知っても、今日の社会で立場が不利にならないように知らない振りをして語らないか、『絵空事』『危険思想』『こじつけ』と断罪するのが関の山である。実は、現代社会に至る人類史を動かしている裏舞台に気づかせないように、そういう見方を教育して真実を封印することが、文科省も教師も知らない、学校教育制度の裏の設立目的である。支配のピラミッドを形作る制度は、義務教育学校、強制檀家制度、中国共産党の組織、キリスト教会等、形は変われども、その目的は、社会の構成員を何れかの下部組織に所属させ、上の思想を伝達、普及、徹底させることにより国家組織を維持し、反乱分子を監視し易くして国家の崩壊を未然に防止するためのシステムである。国際組織も同様で、所属国を監視し、勝手な振る舞いをさせないように仕組まれている。獣の響きの世界での自己保全には、相互監視、相互警戒が不可欠である。現代日本は、社会不安が増大するに連れて、疑心暗鬼となり、監視カメラ、盗聴、内部告発、児童虐待の通報の奨励等々、共産主義の秘密警察の下の相互監視の密告の世界である。今の世に自由などないのである。

政教分離、公立学校の宗教教育禁止は、神仏を大切にする心は良いが、その思想を実行するのは許さない、ということである。戦前の国家神道が日本帝国主義を産んだという理由で、政治、教育と神道を分離し、天皇に人間宣言をさせ、平和と民主主義と人権の憲法に基づいた国づくりを進めた日本国。進歩、発展、科学教育、市場主義経済、民主主義、戦争放棄の国家運営をした結果、現代日本がどうなっているか。神道が悪いといって封印した側の思想を実行した帰結である。今の日本国は、三千年に渡って巧妙に仕組まれた、神国日本の響きを葬り去ろうとする魔釣りのアヤマ知の毒牙に完全に冒されている。ここから立て直すには、真釣り戻し以外の手はなく、その歩みは、苦難の連続となるだろう。戦前の大日本帝国の振る舞いは、神道が悪いのではなく、天皇を利用して国家支配を企む政治家や軍部の根底にある魔釣りの響きがもたらした歴史の必然である。参考までに、元つ大神から、昭和19年に、岡本天明氏を通して、「日月(ひふみ)神示」が降ろされている。これは、黒住、金光、天理、大本と、近現代日本を通じて、元つ大神が、時代に合わせて世界の親であるヒノモトに向けて降ろした、真コトの神仕組みと世の立て替え立て直しを予告する一連の神示の流れの預言である。平成4年には「火水伝文」が、現代の日本人に分かる文章で降ろされている。著者のこの本は、その集大成であることをお伝えしておく。
P82
金と科学と民主主義と平和憲法で国を創った結果が、心の荒廃であり、凶悪犯罪の増加であり、バブル崩壊、オウム事件、酒鬼薔薇事件である。さらに、阪神淡路大震災、雲仙普賢岳噴火に始まる自然災害の多発は何を意味しているのだろうか。今の生活に右往左往して、現実に起きていることに目を瞑り、それが何を意味するのかなど考える余裕がない国民と自党の政権奪取にしか興味がない政治家。自ら考えられず、欲望のままに生きてきた戦後の日本国民の行く末が、いよいよはっきり見えてきたようである。戦後を通じて、経済発展、民主主義、平和主義等々、清く正しい金持国のモデルを演じてきた日本。これからの更なる発展を望んでいる方も多いと思うが、果たして、それは実現するのだろうか。

現実に起きた史実や出来事、世界の流れや、日本の行く末についての見方は様々である。特に戦後日本は、反戦平和を国是とし、自衛隊という軍隊の意味付けをノラリクラリと誤魔化しながら、人道支援、国際貢献の名のもとに金を出し、口を出し、汗を流してきた。戦争というタブーを封印し続けた平和ボケ日本には、国際社会の裏で渦巻く策略には気づけるはずもない。自衛隊のイラク派遣という事実については、どうにでも繕えるが、反戦平和を唱え続けても、結局は、戦闘状態の外国に自衛隊を派遣するハメになった事には代わりはない。国際貢献を善とした結果、立場を守るために外圧に屈したというのが、その実態である。戦争を放棄した結果戦争に参加する。人道支援という仮面を付けて憲法との辻褄合わせをしているが、日本国の内包する矛盾を誤魔化すにはもう限界である。日本国憲法の根底にある理念に矛盾がある限り、憲法をどう改正しようとも、崩壊は止まらない。

獣の作る世界は、サバイバルの弱肉強食の響きである。その響きの国際社会で平和主義は茶番であり、戦争放棄は絶対に不可能なのである。神学論争、思想闘争の結果が形のシステムに現われているのである。その大元を正さない限り、望んでいる自由や平和や天国は絶対に実現しない。現代社会は、天国か滅びか二つに一つの過渡期の最終章である。現代社会の源流は、蛇の知恵の神に収束する。つまり、表面上は進歩発展している文明であるが、その裏は、その神が支配する魔釣りの神代へのシナリオに基づいて歴史が作られてきたのである。しかし、その世界は実現することはなく、滅びへと向かう。その流れを止められるのは、真釣りの真コトを持つ日本(ヒノモト)の復活だけである。今の日本は蛇に騙された究極の社会であるからその役目は期待しようもないが、真釣りの真コトを思い出して、一人一人が目を覚まし、現代社会の裏舞台で真コトを顕現することで、蛇の正体をハッキリと見定めることができ、真コトの日本が復活して、本当の世界平和が約束される。
P83
ここで踏み誤ればもう永遠に天国はやってこない。永遠の滅びが約束される。科学と経済に洗脳された現代日本人には、まったくもって荒唐無稽な話だが、これが事実でなければ、自らのかかっている罠から逃れることはできない。自らの天国は永遠の幻となる。この世はすべてが逆さまなのである。この事実を認めるか認めないかが、自らの運命を決定してしまう。究極の踏絵が渡されていると思って欲しい。これは一人一人の踏絵であり、最初で最後の天国への分水嶺である。「獣」は生存のために戦う。霊長類である人類は、不自然な理性で作り出した文明社会という自らの天国を守るための「自己保存」の戦いの歴史を続けてきた。文明社会を進めてきた影の黒幕も、黒幕が信奉する神も自らの辿る運命を知らない。その行く末に何が待っているのか判らないならば、本当に取り返しがつかない事態となる。犬や猫は自然の本能のままの獣であるが、人類は不自然なケモノなのである。

選挙制度は多数決であり、少数意見は反映されない、悪平等のシステムである。それが必要悪だというならば、国家支配権争奪戦、政権争いという思想戦争は永遠に終わらない。魔釣りの響きのアヤマ知の二極分裂の世界での全員一致した思想は『戦い』であるから、相対的善悪の立場に分かれた全員が平和に暮らせる社会は実現できない。全員が平和に暮らし、形の上での戦争も現れない世界ならば、テロも反戦も口にすることはない。戦争か平和か、と言っても、結局は、両方とも戦いである。平和を守る戦い、自由を守る戦い、幸せを守る戦い、である。相互依存の世界では、戦わずして安定はない。安全は勝ち取ったものであるから、守る必要が生じる。しかし、戦っているなら、永遠の安全はなく、戦いを有利に進めるために、(自分が主導権を取るために)戦略本部が必要となる。世の黒幕の親分は、自らが天国に成ろうとすると滅びるという自己矛盾に気づいていない。自由で平和な世では、自由も平和も当たり前であるから、自由、平和という定義はいらない。対立概念がないから選挙戦もできない。戦いがないから戦争もない。天国には天国しかない。

現代社会は『義務を果たさない者は、権利を行使できない』という思想が根底にある。法律で義務化すれば、違反者は処罰されることになる。棄権は、白紙委任と見なし、棄権した限りは、文句は言わせない。投票するか、投票しないかで服従するか、の選択である。議会民主制自体が魔釣りのシステムであり、政権争奪戦をしている限り、どの政党に投票しようと、真釣りの政治はできない。今世は、全員が魔釣りであるから、真釣りの政治家は選択できない仕組みである。実際は、真釣りの政治家には、選挙システムは意味がなく、選挙で政治家を選ぶ必要がない。魔釣り世での真釣りの者の意思は棄権という行動になる。表面に現れた「棄権」という行動は同じだが、それは反抗心からでも、無関心だからでもない。政治に関心はあるが、逆さまの世の政治家には実現不可能だから、投票というゲームに参加しないだけのことである。真釣りの者が魔釣りの世で意思を表現すると、無関心、無責任、無感動になる。対立がないから、喜怒哀楽もなく、永遠のナギ、傍観者の傍観者となる。魔釣りの世界が、真釣りの神の世を役に立たない空想物語にしているのと同じことである。魔釣り世の形をどう変えようと真釣り世にはならない。後少しの遊びである。
P84
『国民の意見を聴いて政治に反映させる』『消費者のニーズに合わせて製品を開発する』と言うが、それは、自らの存続のための方策であり、相互依存の世界だけで通用するものである。「真釣り」は絶対不変の神法であり、天地自然を生かすハタラキである。本来、法とは、人民が合わせるべきものである。しかし、その法の基が真釣りでないならば、いかなる法を定めようとも自由も平和も平等も天国も実現しない。『何のために政治をしているのか』『何の目的で法律を定めるのか』実際は、王政でも民主制でも、獣のピラミッドの支配の制度であり、主権が誰にあるのかの違いで、争いを産み続ける世界である。蛇がアタマを交換しても、結局は蛇のままであり、有限の世界だと言っている限り、天国は実現しない。

真釣りは永遠不変の神法である。それに基づいた王が治める世界がミロクである。人類の歴史の王政と九分九厘同じだが、足場にあるものが違う。これを独裁だというなら、勝手にすればよい。その時が来てどうなっても自業自得である。神の掟を外し続けた末の現代日本から神の掟を見れば、「悪魔の悪魔」の宗教に見えるが、それは、自らの鏡である。本当の天国とは全くアベコベの世界を「善(正)」と思えば、それに基づくいかなる制度も、目指す理念は実現できない。世の破滅は避けられない。元つ真釣りのミロクの世は、生死一如、時空超越の世界であるから、今ここで神法違反をしているならば、例え死んでも同じことであり、今のままならば、この世にもあの世にもどこにも国を作る場所はなくなる。永遠の滅びである。本当の天国は復活する。そこにあなたがいるかどうかは今ここの選択にかかっている。光を一つ上げる、とは、魂の一生という思考ですべてを見ることである。今でいう一生は、魂の一生では、幼稚園の入園から卒園までの体験に過ぎなくなる。あなたという身魂は、まだ一度も死んでいない。今回の大祓いが、永遠の生死の分岐点である。

真釣り戻すご苦労は今のあなたにとって堪え難いものかもしれない。しかし、それは、あなたが真釣り外した結果であり、あなたが呼び込んだ厳しさである。本来ならば、あなたは神法違反で消滅しているはずの身魂である。あなたのご苦労が修羅の地獄の1億乗の厳しさであったとしても、絶対に無理だと思ったとしても、神法違反のあなたを生かし、真釣り戻しの機会を与えるために「情けと花の仕組み」を構えた元つ大神のご苦労と比べたら、全く問題にならない。著者のここに至るまでの苦労でさえ、大神がなさったご苦労の髪の毛の先のその先の先々ほどの苦労である。真釣り戻しの様々な障害を自らですべて体験し、真コト真釣りを現代日本に現すのが著者の御役であり、その集大成がこの本である。
P85
あなたはこの本を書くための苦労はいらない。それは著者の役目であり、あなたは、この本を使って自らの真コトを磨き出すだけでよい。つまり、この本を読んでいるあなたは、大神の毛の先のそのまた先の先々の苦労どころか、そのご苦労を辛抱してきた著者の苦労の毛の先の先々ほどのご苦労に堪えればミロクが約束されるのである。しかし、そのご苦労でさえ、今のあなたにとっては、慙愧慟哭、修羅の地獄のそのまた地獄の苦しみかもしれない。もしそうだとしても、あなたが元のミロクに帰るためには越えなければならないご苦労なのである。なぜなら、神法違反をしたのは自分であり、自分が真釣りに戻すしかミロクに帰る手立てはないのである。あなたをミロクに連れて行ってくれる救世主はどこにもいない。あなたが真釣り戻せば、大神が助け舟を出すだけである。今世の魔釣りの宗教の神仏、思想に固執している限り、あなたは、本当に、永遠のイノチを失うことになる。

著者は、自らのモデルを探してもそれは叶わず、真コトと思って入った道も、一厘の違いで真コトではないことに気づくという繰り返しを生きてきた。終ったと思っても終わらず、真コトと思っても真コトではなく、自らがそのモデルであることを認めるまで、本当に苦しい道のりだった。つまり、著者は、この道に入って以来、自ら以外に外に頼れるものはなかったのである。あなたがどんな苦労をしていようとも、それは、魔釣りの世界の常識で言う苦労であり、真釣りを外し続けて、自らの真釣り戻しの苦労を増やすだけの「苦業」である。自らの苦労話をして他人の同情を引こうとしても、それは、真釣り外しであるから、大神から見れば、大掃除の手間を増やすだけの、神をも恐れぬ所業である。この世の、今この時の些細なご苦労で愚痴や不平不満を垂れ流し、自らを守るためにツベコベと御託をならべ、アレコレと逃げる算段を画策しているようでは、あなたにはミロクは全く関係のない世となる。今の災害や苦難に耐えられないようでは、一度で一気に世を祓い清める「時空生死を超えた大掃除」にはとても耐えられない。たとえ、最後の大祓いまでに、真釣り戻しを終えることができなくても、今からでも、少しでも真釣り戻しをしておくことが、最後の大掃除の自らのご苦労を減らす術である。百歩譲って、今まで好き放題に生きてきたとしても、真釣りがあることを思い出し、真コトの道に帰ることを決めただけでも、とてつもない厳しい試練があるにせよ、ミロクに帰る機会は、まだ消えていない。

著者は、恐怖を煽っているわけでも、脅しているわけでも、宗教の勧誘をしているわけでもない。あなたが現代社会の正体と身魂の現状を自覚して、真釣りに戻れるように、真コトの真釣りが世の神法であることをお伝えしているだけである。余計なお世話だと言うならば、それはそれで構わないが、どんなに苦しくても、不可能に見えても、あなたの改心次第で、必ずミロクに帰ることができる。現代社会の日本国が描く未来に夢を託すのもよいが、この本から、真釣りの真コト、本当の自分の正体、現代社会の闇の闇の真相を汲み取って欲しい。あなたが、この世で、今ここで本当にすべきことは、真釣り戻しのみである。天地創世の真釣りの元つ大神直々の、生死も、時空も超えた、万古末代一度こっきりの、死んでも死んでも続く、祓い清めである。神や仏ですらどこにも逃げられない大祓いであるということをよくよくハラに据えて、永遠の天国に戻るために、頑張って欲しい。
P86
あなたが同調している神によって、あなたの体験する現実が決まる。それは、あなたが自らの霊線をその神の支配する霊界に繋いでいるからである。開運厄除、学業成就、縁結び、家内安全、夫婦和合、商売繁盛、交通安全、病気平癒、不老長寿、金運向上、方位除け、ボケ封じ、悪霊祓い、厄祓い、五穀豊穣、国家安泰、地鎮祭、御霊清めの儀式等々、祈願や法要、神事、仏事はすべて魔釣りの世の生き残りのための他力本願である。真釣り外した自らに苦がこないように、『俺が天国を体験し続けられるように災いを封じろ』と神や仏、霊界の先祖に命じている。たとえ呪ったとしても、霊線が繋がっていなければ、呪い殺すことはできず、渡した呪いが自らにそのまま戻る。人同士の場合でも仕組みは同じである。あなたは真釣り外しの責任を取っていない。自分が責任を取るならば、神社もお寺も教会も必要がない。獣の世では、本当の意味であなたを助けることができる者(神、仏)は一人もいない。いるというならば、それは相互依存のあなたと同じ響きの形だけの救済ゲームの相手と想念が繋がっていることを意味する。今のままなら騙されても文句は言えない。

苦を避ける、災いを避ける、というのは、真釣り外しのお知らせを拒否する(真釣り外しをして楽を得る)響きであるから、それを続けるほど、逆に、災いを自ら呼び込んでいることになる。実際は、災難除け=災難招来祈願である。真釣りに生きる者には災いはないから、「災いを避ける」という思考はない。厄除け等々の災難除け祈願をするならば、それは真釣りを外した証しであり、真釣り戻しの意志がないことを意味する。あなたが避けている苦(実は真釣り外しのお知らせの情け)はあなたの違反ゆえの型示しであり、それを渡すのは元つ真釣りの大神であるから、あなたが厄除けをするならば、それは、元つ大神を祓おうとしていることになる。あなたに訪れる災いの源は自らであるから、結局は、自分が自分に自分を殺してくれるように頼んでいることになる。すべての災難除け(招福)祈願は、真釣り外したお知らせの苦を逆恨みした冤罪である。厄祓いするなら、福祓いもしなければ、偏ってしまう。厄も福もあなたの分かつ知の作る幻想であり、自らの分かつ知が作り出す幻想を使って、真釣り戻しを知らせる本当の福の神と対峙するならば、死神であるあなたの負けである。あなたは絶対に勝てない試合をしている。最後の相手は元つ真釣りの大神であるから、あなたの希望通りに厄の神であるあなたが祓われる。元つ真釣りの大神の情けを逆恨みしていた集団の作り出した冤罪は最後に晴らされるのである。魔釣り世の宗教は、すべてのすべてが同じ仕組みであるから、いつまで信心しても本当の天国は来ないばかりか、最後は、あなたに訪れる苦(悪、厄)の真の源である自分が消える。
P87
あなたが自らで自らを生かしているならば、神仏に祈るという行為はしない。神社に参詣して何かを祈願するという行為は、自らができないことを誰かにさせるのと同じである。その対象が神仏ならば、参拝(参詣)と呼び、人間ならば、依頼と呼ぶ。神仏も人間も、自らの心の内では同じ世界に共存し、神仏とか人間とかのイメージ映像の違いに過ぎない。神に祈っている、他人に頼んでいる、と分類しているだけである。どちらも、やっていることは同じである。有力政治家のご機嫌伺いをすることを『○○詣で』というが、それは何を意味しているのか。『神に祈れば天国に行ける』と決めているのはあなたであり、あなたがその神の神であることになる。あなたが『神に祈らなければ天国には行けない』と言っているならば、あなたは天国には行けない。なぜなら、あなたという神がそう言っているからである。宗教を信仰するならば、それは、その世界が箱の中であることを意味する。それは、あなたが作った箱であり、その中の「神」はあなたが作った神である。あなたが宗教を信仰するならば、この世の人間よりも力がある「見えない存在」に自分を預けたことになる。この世の宗教は、魔釣りの世の身欲を満たすための信仰であって、それをすればするほど魔釣りを呼び込むだけで、望みとは正反対の現実の実現を望んでいることになる。結局は、すべての現実は、言い換えれば、現代社会のシステムは、真中に真コトを持った「神」である自らが生み出した現実であるから、真釣り外した神同士の独演会に過ぎない。

ご利益祈願、加持祈祷、お祓い、お守り、オフダでは、本当の天国を実現することはできない。魔釣りの宗教を信仰すればするほど、真釣り外し続けることになるからである。無神論というのは『神はいない』という神が語る論理である。『自分以外の神はいない』つまり、自分が神であると言っているのであるから、神はいるのである。無神論は自分が神であることを語る有神論である。もし、自分は神ではない、と言うならば、神はいない、と言っている自分は神ではないことになる。神ではない者が、神がいるかいないかの議論をしている。神とはどんな存在か、の定義ができないならば、神がいるかいないかの議論はできない。議論ができるならば、自分の内に神がいることになるから、有神論である。結局は、有神論も無神論も神の有無について議論しているのであるから、有神論しかないのである。有神論ならば、神に依存していることになり、無神論ならば、「神」がなくてもすべてできると思っていることになる。「有神論」ならば神がいる。無神論ならば神はいるがそれを否定している自分にはすべてできない。有神論と無神論を議論している自分が神であるから、有神論しかない。有神論しかなければ、神しかいない。この世は神の世である。

魔釣りの宗教の言う、輪廻転生や死後の世界の話は、魔釣りの中の現実であって、真釣りの世にはそんなものは存在しない。「死」が本当の死でなければ、葬式のしきたりも、強制力はない。自らの大元である神界を闇に葬って穢れた冥土と思い込み、穢れが自らに来ないようにする(この世の「神聖さ」を保って生き残って快楽を得る)ための自己保身の儀式が、葬儀や法要、読経である。その実態は、この世で生きている者同士の生き延びるための穢れ祓いゲームに過ぎない。この響きで神話を読めば、黄泉の国は穢土となり、イザナミは醜い神となる。それを真実だと思っていれば、死の呪縛から抜けられず、アメとムチで操られて右往左往する無間地獄を生き続けることになる。この世という境界のない世界を善悪に分けて、争い、裁き合う現実が永遠に続く。天国を作ろうとするほど、地獄が形になり、最後は滅びの世に至る。その他の宗教も、姿形が違うだけで、すべて同じ思想の中にあり、そこには神も仏も死者も先祖もいない。「情けと花」の最も大きい型示しが「死と誕生」であり、真釣りを外したがゆえに、その仕組みの中で死と生を繰り返す「輪廻転生」という幻想を生み出してしまったのである。初めにいた神世は生き通しであるから、真釣り外したお知らせは、情けの死である。つまり、元の初めの世から見れば、箱(岩戸)に入った「有限(寿命のある、劣化する、崩壊が見える)」世界である今の世(この世)こそ「死後」の世界であり、今世の言う死後の世界(あの世)は、この世から生き返った世界になるが、真釣りから見れば、この世の人間が恐れている死は、大きな意味での死後の世界の中の生の世界を移動する(引っ越す)だけのことになる。生きていても死んでいても同じことで、すべてを真釣り戻すことで初めて、元にいた神世に永遠に生き返るのである。そこが本当の天国であり、ミロクの世である。真釣りしかない、永遠に続く天国である。
P88
元つ真釣りの世は、生死時空を超えた、万古末代弥栄の生き通しの神世である。魔釣りから死ねば真釣りに戻る。魔釣り世のすべての常識を捨てると真釣りに戻る。真釣りの世を封印するための思想、想念、常識、道徳等が、魔釣りのアヤマ知である。お経や祝詞をあげただけで天国に行ける(邪気を祓える、悪魔を追い出せる、穢れを祓える)なら、こんな便利な話はない。それは、『言う通りにしたら金をやるぞ』と言う人間の言う通りにしているのと同じことである。基に真釣りの響きを持っている神が魔釣りに囚われて宗教を作り出し、神仏を利用して楽になろうとしているのは、人間同士の間で誰かに依存して楽しようとしているのと同じである。他力本願ではミロクの天国は絶対にありえない。ミロク(三六九、五六七、六六六)の天国から家出した神が、形に囚われて、偽のミロク(666)の神にすがっても、元の真釣りのミロクには戻れない。それどころか、どんどんミロクから離れて666の世界にのめり込み、その世界が絶対真理であるかのように思い込んだ挙句、結局最後には、自らが自らを滅ぼす末路となる。現代社会は666の世界である。天国だけの神代に地獄があるということの意味が心底わかったら、自らがとんでもないことをしていたことに気づいて、ショックのあまり呆然と立ち尽くすことになるはずである。

自らが魔釣りに囚われて、自らを魔釣りの世に封印したのが「情けの仕組み」の発動、輪廻転生の始まりである。本来はどこにもない死後の世界を語る宗教の起源、弔いの儀式の始まりである。野生の動物には葬式もなければ、裁判もない。恨み妬みで他の動物を殺す動物もいない。人類という「理性を持った動物」が作る社会で起きていることは何を意味しているのか。現代社会のシステムは何を目指して営まれているのか。自然から完全に隔離された世界であり、自然の風景は見えているが、お金がなければ何も手にすることはできないおかしな世界である。お金を払わずに「商品」を勝手に持ち出すことを万引きという。仕入れ価格0円の、資源を加工した「商品」の売買で儲けを出すことが目的の商業システムでは万引きであるが、もともとはお金は存在しないものである。天地自然(天恵、資源、天然物)を勝手に所有し、売買する経済社会は、大きな意味では、神の商店から「万引き」したもので作った社会である。真釣りの響きで作った資源を、魔釣りの分裂の響きでバラバラにして手前勝手に所有すること自体が窃盗である。その盗品を転売すること自体が、横領である。魔釣りの世界の中で作り出されるシステムは、魔釣り世しか作れない。
P89
現代社会は、真釣り外した世界である。真釣り外した神が、永きにわたる略奪の魔釣りの歴史を積み重ねた結果、たどり着いた、九分九厘アヤマ知で出来た社会である。魔釣りの世にあるシステムは、宗教も科学も、儀式も技術も魔釣りを進めることしかできない。瞑想も荒行も訓練も教育も躾も、その根底が魔釣りである限り、どんなに頑張っても真釣り戻しは叶わない。現代社会が魔釣りそのものであるから、今の世界の善を正しいものとしている限り、その世界のシステムの中をどんなに探し回っても、天国はない。その世界がおかしいと思っても、抜け出すことができない。真釣りには戻れない。すべては、魔釣りの世界の中での幻想である。真釣りと魔釣りは相反する世界であるから、たとえ無差別テロで多数の死者が出たとしても、それは情けの仕組みによる現象であり、真釣りの世には何も影響しない。現代社会では大問題であることも、一番大元の世界からみれば、ただの物事、現象に過ぎない。真釣りを闇に葬って魔釣りで世を進めてきたすべての人類は、自らがしてきたことに責任を負わなければならない。「責任」という概念は、生死時空を超えて存続し続ける。魔釣りのアヤマ知でこの本を価値判断することがマ違いの証しである。すべては一つであるから、時空を超えて真釣りのままでいたならば「情けと花の仕組み」で真釣り戻しをする魔釣りの世で悩むことも、病気になることも、喜怒哀楽に翻弄されることも、人類滅亡のシナリオも、体験することはなかったのである。真釣りのままなら預言や予言を鵜呑みにして救世主を待つ必要もなく、神を信仰する必要もなかったのである。

真釣りの世界が本当の天国であり、現代社会にあるすべての理想、現実、夢や希望、死や絶望、そして、その実現や解消を目的とする争いはなかったのである。真釣りを外して闇を作り、光を探して快欲を追い求め、自ら考えることをやめてしまった現代社会は、何かにすがって魔釣りの混迷から抜け出そうと宗教(新興宗教)を産み出した。その宗教がおかしいと思って脱退してはみるものの、現代社会に戻っても、結局何も満たされず、前にも増して右往左往するか、失望感が増長するだけである。そこから逃れるためには、自らの殻に閉じこもるか、誰かのせいにし続けるかしかない。究極の選択は、「自らを殺すか誰かを殺すか」の二つに一つである。魔釣りの世界でいう自殺は、自らを更なる孤独の地獄に落とし、他殺は自らを更なる戦いの地獄に放り込む。殺された者は、魔釣りならば、同じ道を辿り、真釣りならば、天国に近づく。即ち、『自らが何をしているのか』が問題であり、『他人がどうなるか』はその他人の問題である。ここでの「殺す」の意味は、肉体的、物理的な死だけではなく、心理的に殺すこと、想像上の殺人を企てることも含まれ、自らが殺人を思考したならば、霊界では、それは殺人を実行しているのと何ら変わりはない。自らが真釣りならば、その思考は存在せず、魔釣りならば、真釣りを抹殺しているから形の破壊(抹殺)のみの議論になり、すべて詭弁となる。その世界の善人は、自らが真釣りを外していることに気づかない。それは、天地自然の掟を破ることであり、万象万物を滅ぼす、究極の悪魔の心理である。現代社会の常識が正しいと言うすべての者は、揺りかごから墓場まで魔釣りの毒牙に罹り、真釣りの響きを殺すことに何の罪悪感も持っていない。
P90
現代社会を絶対視する、魔釣り教の信者は、その世界を現実だと思い込んでいる。オウム真理教(アーレフ)の世界が幻想で、現代社会が現実であるという、その思想そのものが幻想なのである。地下鉄サリン事件は現代社会の映しである。現代社会の中で作り出されるどんな形も、すべて現代社会のミニチュア、縮図である。実行するかしないかの違いで、思想、哲学、心理、システムの構造は全く同じであるから、形の美醜がどうであろうと世界の王もその王の作る社会を絶対視する信者も同罪である。全員が、自ら犯した神法違反であるから、一人一人が清算しなければ個人的天国は成らず、真釣りの世界にも役立たない。真釣り戻しが終わらなければ本当の意味での国際貢献をしたことにはならない。

真釣りと魔釣りは裏表であり、真釣りでないなら魔釣りである。どんなに善人だと主張しようと、悪を糾弾して自らの善を主張しようと、そのことそのものが魔釣りなのである。真釣りを批判することが魔釣りの証しである。自らのマ違いを自らが正さない限り、魔釣りを真実だと思ったまま、真釣りの世から永遠に消え去る。今回の大掃除が終われば、二度と「情けと花の仕組み」が作られることはないから、あなたが生まれるところはどこにもなくなる。真釣りの世から見れば、魔釣り自体が存在していないから、人類滅亡というのは魔釣りの世から見た話に過ぎない。その中で生み出したシステムは、すべてが幻想である。今まで信じていたものがマ違いだったと素直に認め、真釣りで生き直すことである。

真釣りのみが実体のある現実であって、それを「完全に認めるか認めないか」が自らの永遠の生死を分ける。これを否定する世界が魔釣りの現実であり、魔釣りで教えられたやり方であるから、真コトを聞いて騒ぐならその度合に応じて自らの真釣り外しの告白となる。あなたが真釣りに戻さなければ、あなたはウソを信じて滅ぶ。辻褄が合っている仕組みである。全世界が魔釣りに囚われているから、自らの清算をすれば天国へ、魔釣りでしたことの清算をせずにそのままなら滅びへの二つに一つの道である。現代社会の中に悪の仕組みができて、それが現代社会に影響を与えるならば、現代社会は悪の世である。すべては共鳴現象であり、社会そのものにも当てはまる。真釣りの中に産まれた魔釣りの世は、真釣りの世には一切影響を及ぼさない。逆に、真釣りの世が形になったら、魔釣りの者はすべての世から永遠に消滅してしまう。真釣りの響きと魔釣りの響きは共存できないからである。現代社会でオウム事件を問題にするならば、現代社会もオウム教団と同じ響きである。対象を拒否していることが、強く共鳴している証しであり、問題にすればするほど、騒げば騒ぐほど、その影響が大きいことになる。自らの歪みが生み出した集団は、自らに歪があること見るための鏡として現われる。悪を裁く善こそがその悪を生み出した源であり、その悪は自らの映し絵である。自らの悪を認めず、その悪を裁けば、自らが滅ぶ。
P91
真釣りは真釣りである。魔釣りは真釣りには影響しない。子は親の鏡であり、その子は自らの映しであるから、子が親を殺す状況になるならば、オウム教団を非難する現代社会こそがオウムの産みの親である。オウム事件の謎は、現代社会の思想の中に答えがある。オウム教団の思想を調べても何も答えは出ない。オウムを許せない自らの中にオウムを産み出した源がある。従って、オウムを非難できる者は一人もいない。真釣りなら全く影響ないからオウムを裁くことはしない。オウムを裁くならば真釣りではない。真釣りでない社会は魔釣りで滅ぶ。教祖を死刑にしても何も解決しない。瞑想が修行である宗教の教祖にとって、独房は瞑想室であり、死は解脱の到達点である。まさに、彼にとっては都合の良い環境を与えられたことになる。だからと言って、大量殺人の首謀者を懲役刑にすることは、極悪人を目の前に置き続ける堪え難い状況であり、善悪は絶対価値ではなく、その善悪と生死を超越した存在に対しては、死刑は救済となり、無罪にすれば、「善人」の側が危機感を感じながら生きなければならないというジレンマを抱えることになる。『何の罪もない人間は一人もいない』それが、真コトの真実から見た真理である。本当の真実の前には、法の裁きという概念と裁判システムは無効となる。善悪を超えた犯罪には、刑法は無力と化してしまう。現代社会の罪概念や法理念とは全くの逆さまであるから、死刑が罰にならないという自己矛盾を露呈することになる。実は、悪を裁くこと自体が悪なのである。『それはおかしい』というならば、オウムを裁き続ける堂々巡りの中に戻ることになり、謎が解けないまま、自らが魔釣りと共に滅ぶ。悪を裁くのは、魔釣りを生かすための茶番である。

一般社会もオウム社会もその響きは同じであり、真釣り外しの情けをオウム返しされただけである。悪の世での悪と悪の共食いに過ぎず、どちらも真釣り外した証であって、神法違反をしていることには変わりはない。すべてをひっくり返して、物事を見直してみれば、本当の真実がわかる。鳥の鸚鵡のオウム返しの元は、自らの言葉である。あなたの目の前に映っている(存在する)ものは、自らの姿である。現代社会を敵にするオウムも同罪であり、どちらも真釣りを外した自らが生み出した幻である。どこへ逃げようとも真釣りからは逃げられない。なぜならば、真釣りの世界は魔釣りの世界と裏表の関係だからである。
P92
真釣りの世は、真釣りの響きを持つ「人という神」の世であるから、「宗教」は存在しない。政教一致の政治でさえ国が治まらないのであるから、政教分離の政治がどんな社会をつくるのかは明白であり、政治家の足場である国民の中に宗教が存在している限り、完全な政教分離は不可能である。神仏を信仰する国民を統治するということは、その国民とは切り離せない神仏も統治するということである。人が神を支配する、という逆さまの魔釣りで世を治めることは絶対にできない。神に祝福を祈る大統領や、神社に参拝する首相、宗教団体や慈善(=アヤマ知)団体を支持基盤に持つ政党には政教分離はできない。政治家の思想の源には神がいる。基の神が魔釣りであるなら、神に祈るほど世が乱れていく。その政治家が作る法律が支配する国家を運営する行政、司法、経済システムに命の基を置いている国民も、結局は政治家と同じ世界にいることになり、最後は、国家丸潰れとなる。そのシステムで運営する国家の集まりである国際社会も、その社会の源である神々の世界も、魔釣りで作り出したものは、すべてのすべてが、破滅する。神のマ釣りを直さない限り、真釣りに戻さない限り、世の政は直らず、魔釣りの乱世を進めた挙句に、世は滅ぶ。神を源流とする宗教、思想、哲学、科学の一連の流れの人類の歴史は、真釣りの復活と共に無に帰す。そして、真釣りに戻った「人」だけが、元の神代、永遠の天国で自由を謳歌する。

「清貧」は、『限りあるものを節約することが生き残りに貢献する』という、アヤマ知の「有限」教を信奉する世界の、「節約思想」を善とした負け惜しみである。国を挙げて『限りある資源を大切にしよう』キャンペーンを張っているのは、まさに、真釣り外しの究極の型示しである。「省エネ」とか「節水」とか「倹約」云々というマヤカシの啓蒙に同調する国民も同じ穴の狢である。その根源はどこにあるのか。神話を含めた日本史のどこを探しても、その答えはない。答えは、今の日本が完全に闇に葬り去っている本当の神道(真道)にある。真コトの真釣りを忘れた日本が、現代社会のアヤマ知の思想にどっぷりと漬かっている限り、永遠の天国どころか、世界の破滅に自ら手を貸すことになる。日本が本当の役割を果たす道は非常に厳しい道であるが、それをしない限り、真釣りを知らない世界の国は、永遠の滅びに向かうことになる。この本を読んで、日本人一人一人が自らの本当の姿(素型)を思い出し、本当の日本再生、言い換えれば、世界を真釣りに戻す大役を果たして、本当の世界平和をもたらす道に戻って欲しいものである。『そんな作り話を信じても何にも得はない』『そんなことをしたら社会を乱すだけだ』『現実の生活が大変な時にそんな荒唐無稽な話を聞いている暇はない』と言って聞き流すならば、それは、あなたが本当の日本の真コトの道を外している証しである。それならそれでよいが、これが事実だった暁には、それ相応の体験をすることを覚悟しておくことである。『資源には限りがある』という魔釣りのアヤマ知にまんまと嵌められた政治家と官僚が、「リサイクル」を強制し、「環境汚染物質」を排除し、「クリーンエネルギー」に未来を託す、そんな社会が行き着く先は、果たしてどんな世界なのだろうか。今のままで突き進むならば、魔釣りのシステムを最も完璧に実現している日本国という国家とその国民には、とんでもない結末が待っている。
P93
世界の父親であるヒノモトが、経済大国だ、技術大国だ、教育大国だと魔釣りの文明世界での自らの地位の高さを誇っているならば、それは、自らこそ世界の混迷の源であることが全くわからなくなってしまっている証である。今の日本は、世界の立て直しを担う、世界の真中のハラの御役、元つ真釣りの大神の神気出づる唯一の国であることをアヤマ知に囚われて忘れ去り、自由平等博愛思想や敬神を壊す科学教育、魔釣りの道具の金融経済の進歩発展に足場を置いて、せっせと国際貢献に勤しんでいるが、それが何を意味するのかわかっているのだろうか。真釣りを外した魔釣りのアヤマ知で作られた汚泥混濁の世で最もクリーンな国が、真釣りの神法では史上最悪の「鳴(成)らず者国家」なのである。自ら産み出す苦労はせず、産み出すところは子(世界)にやらせ、その成果のみを奪う。言い換えれば、発明は子にさせて、子の発明特許をお金で買い、形を変えて実用新案で儲けるというパターンで、美味しいところ取りで繁栄してきたのが、今の日本の実体である。国の象徴である天皇すら形骸化し、科学と金に命を預けているならば、滅びは必至である。

無から産み出す苦労は、『すでにある形をどう変えるか』の苦労の比ではない。元つ真釣りの大神が「天恵」を無から産み出して、その天恵を自由に使わせて、自らの子である神や人を喜びに生かす。自らの力で無から産み出して、その果実を子に与えて、子が安心して生きられるようにするのが、本当の親のハタラキの基であり、親と子の本当の素型(姿)である。元つ大神は与えるだけで、何一つ奪っていない。『奪われた』『失った』という言葉は、真釣り外した者の使う言葉であり、謝罪とか損害賠償とか人権侵害云々という言葉は、元つ神代にはない。すべては、無から産み出した元つ大神のものであり、真釣りを外した神仏や人類のものは何もない。無から創り出せる(自ら補充できる=修繕できる)者は、失うことや傷つくことはなく、奪われて困るものもない。自分のものを奪われた、失った、傷つけられたと言うならば、それは、自分のものを何一つ持たない者が、自分のもの(奪ったもの)を持っているということになり、所有権(元つ大神)に無断で天地を勝手に所有している天下の大泥棒であることを白状していることになる。泥棒した天地の資源を売り買いするなど、それこそ、本当に、神への冒涜そのものである。いわんや、お金とお金の売買などは、論外である。神への冒涜のその結果がどうなるかは、今までの歴史上で神を冒涜した者が辿った運命を考えてみればわかる。元つ天地の大神への冒涜=天地自然の掟を破ることがもたらす結果は、永遠なる自滅である。中つ世の神仏の世を含めた、現代社会に至る人類の歴史は、元つ天地の天恵大泥棒集団が創った幻想の物語なのである。

真釣り外したこの世の親(日本、神仏)は、当然、無から産み出すことは出来ない。自らの快欲を満たすことしか頭にはなく、自らが奪って生きているとは全く思いもしない。従って、真釣りの天恵を奪って生きることを恥とも思わず。奪って生きることが世界人類のためになると本気で思っているのである。魔コトを真コトと思い込んで、真釣り外した自らが産んだ、真釣り外したお知らせの(元々はどこにも存在しない)苦を避け、逆さまの天国を目指すという、とんでもない大失態をやらかしていることなど微塵も頭にない。子(世界、人民)も、真釣り外した親の真似をして、親子共々、真釣りの天恵を自由勝手に好き放題に魔釣りで使い、大神の創った神世の元を壊し続けているなどとは露とも思っていない。それどころか、世界平和や自由や天国のために働いていると思い込んで、その世界のシステムを当たり前のこととして、何の疑問も抱かずに代々受け継いでいる。何の躊躇もなく『苦があるのが当たり前』と言い、自らの苦の原因を自ら以外に探して、平然と不平不満や責任転嫁をして威張っている。自らの大きな罪に気づかず、生まれ変わり死に変わりしながら、滅びの道を駆け下りて、ついに、崖ッぷちまで来てしまった。つまり、泥棒世界を壊すことを「罪」として封印してきたのが、神をも含む人類の歴史なのである。
P94
神を金に置き換えた歴史の末路である現代社会は、親である国家が子である人民のご苦労の果実(収入)から税金という名の上納金を強制徴収し、金を神とする「国家」という姿形を維持するためのゲーム(経営、ビジネス)の中での支配権争いに過ぎない。蛇に自らの命を預けた人民も、蛇の知恵のアヤマ知が創る幻想の世界を真実だと信じ込み、その世界に貢献することが自らを生かす道だと騙されて、神から人まで、親子揃って蛇の魔釣りの世を進め、真釣りの神代を封印してきたのである。魔釣りの略奪の響きの世である限り、どんなに頑張ろうとも、自由も天国もなく、今のままならば、黒幕の神から最下層の民まで、すべてが自滅の道を辿る。自然の掟に反する者は、問答無用で淘汰である。天地自然の掟は、万象万物すべてのすべての命の掟であり、いかなる神仏も逃れることはできない。親と子の関係をマ違えば、汚泥混濁の世を進めた挙句、最後は「すべて」が滅ぶのである。

今の世で言う「仕事(職業)」「働き」は、表面上は、物やサービスをお金に交換する行為のことを言う。その裏はと言えば、極論すれば、「職業」とは、神から盗んだ資源(天地)をお金に交換する(売り買いをする)システムでお金をゲットする資源横領行為である。役人というのは、ケモノ社会の管理をすることで生計を立てている職業であり、その収入源は、税金である。税金の源は、管理されている者たちがゲットしたお金である。管理されている者が資源をお金に変えれば変えるほど役人が天国になるとしたら、泥棒すればするほど天国になる社会だということである。『働かざる者食うべからず』=『泥棒しなければ食べてはならない』と言うならば、その実態は、巧妙に泥棒する者ほど天国になる、嘘と誤魔化しが巧妙な詐欺師ほど自由を謳歌できる、おかしな世界である。納税義務=労働義務=略奪義務であり、無職という職業が社会人として認められないならば、それは、泥棒でなければ生きてはならないということである。真釣りの世は、泥棒では生きては行けない世であり、全くの逆さまである。騙す者は、騙される者がいなければ存在できない。
P95
騙されたものがクローズアップされ、可哀想な人種のように言われる。それは、現代社会で言う弱者を表に出さなければ社会が存続できなくなってきたからである。実際は、騙される方も騙す方も、自ら産み出さずに、奪う仕組みの中で、奪った物の奪い合いをしているのであって、楽して天国を得ようとしていることは同じである。本来は、自らの力で産み出さずに自由になることはありえない。現代社会は、元つ大神の真釣りを忘れた結果、お互いの同意の上で泥棒同士が騙し合いゲームをしているだけである。それを当たり前の如く続けているならば、最後は、すべてのすべての源である、すべてを無から産み産んだ天地の所有者、あえて言えば、「自分のもの」を奪われた本当の被害者、本当の債権者が、返還請求(賠償請求、一括請求)をすることになる。あなたが、今の世のアヤマ知のやり方で奪った(「借りた」)もの(財産、立場、信用、知識、宗教等々)をすべて返さないというならば、最後は「自分自身(の命の種)」という担保を没収されて、永遠の滅びとなる。

万古末代、だだ一回の「終始決算」である。あなたが得、快、楽を持っているならば、または、不平不満を言っているならば、あなたは奪ったものを所有している。この世で合法的に得たものであっても、この世自体が天地を泥棒したものを使って創った世界であるなら、あなたのものは何もない。あなたが無から産み出せないならば、あなたの所有物はない。無から産み出せるなら奪う必要はなく、奪うなら無から産み出せないということである。略奪が当たり前だというならば、あなたは、自覚なき泥棒である。泥棒ではないと言う者は泥棒である。失う怖れ、孤独になる怖れを持っているならば、あなたは自らで生きられない。あなたが何かに依存しているならば、あなたは生かされていることになる。あなたが依存しているものは、どんな世界で作られた、どんなものなのか。あなた自らが無から産み出せないならば、あなたの所有物は何一つない。あなたがこの事実を否定するならば、あなたは自覚なき泥棒のまま、永遠の自由な天国で生き続ける生涯、本当の不老不死を棒に振ることになる。これを取り違えれば、あなたは、「本当の死」を迎えることになる。あなたは、もう二度と甦ることはできない。残念無念では済まない永遠の後悔となる。

『盗んではならない』云々のモーゼの十戒そのものが、すでに、元つ大神の天地を奪った中つ魔釣りの神の嘘の法律であり、その流れを汲むすべての法律は、泥棒の世界を維持するための法律にすぎない。アメとムチを利用して法律を定める神や仏には本当の霊力はなく、恐れ(快楽)を持っている存在を操ることが出来るだけである。嘘の神仏を信仰しても、本当の意味でのご利益や救いはない代わりに、罰や祟りもない。本当に無から産み出せる神は戒律など創らない。たとえ、全員が天地を取り荒らす泥棒であっても、全員を成敗して、もう一度、無から産み出せばよいからである。無から産み出せる神は、神仏を含めたすべての有を産めると同時にすべてを無に返すこともできるということである。それほどの力がある神だからこそできることであるが、天地自然の大泥棒を、泥棒し続けることを承知の上で生かし、泥棒であることを自覚させて天地自然の掟に戻れるように仕組みを構えた大神の情けとご苦労はいかほどのものか、おわかりだろうか。あなたは、元つ天地の大神を闇に葬って、天地の掟を破る大大罪を犯して(天国を壊して)いるとも知らず、アヤマ知の常識を信奉して平然としている。元つ天地の大神が『天恵を使ってはならない』と言ったら、あなたは即、滅びである。本当の無条件の愛とは、大神の誠意のことである。
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悪を裁くことが真理の如く思い込んでいる現代人たち。すぐに他人を裁き、「悪人」を死刑にし、身欲で我がまま放題を続けている人類に、大神の本当の情けの深さを分かろうはずもない。あなたは、生まれ変わり死に変わりしながら、天地自然の掟を破って、万象万物を破壊する大大罪を犯し続けてきたのである。天地の理法に反して、天地に不調和を響かせる者は、即、滅びであり、あなたは、本来ならば命はないのである。あなたが賭けたり捨てたりしている命は、あなたのものではない。すべてのすべてが元つ天地の大神のものである。無から産み出せない者には、自分のものは何もないのである。自分のものではないものを勝手に売り買いする行為を泥棒と言わずに何と言うのだろうか。天地の理法を外した人類は、自らを神の如く思い込んで、神が産み出した資源をすべて金に置き換えて、大神の天地を好き放題に荒らし回っている。自らに都合のよい仕組みを作り、その中でマヤカシの自由や天国を得るために、非難したり迎合したりして争っている。すべては大神の響きの顕現であり、現代文明のすべては、天恵があって、初めて存在しえるものである。元つ天地の大神が、すべてを真釣りに戻したら、真コトなき世界は、跡形もなく消え去る。

天地の理法は、唯一無二の絶対法則である。神仏も含めて、天地の理法を破った「神界の犯罪者」には、無罪か死刑か二つに一つ、異議申し立てをする資格は一切ない。それをするならば、掟破りを認めずに、違反し続けることを意味する。大神の真意が本当にわかったというならば、違反した事実を素直に認め、天地の理法に違反して天地を取り荒らしてきたことをお詫びし、滅びる前に知らせてくれた大神の情けに感謝して、たとえどんなことが起きようとも、自らのしたことをキッチリと清算することしか、この先を生き延びる術はないのである。自らが永遠に生きるか死ぬかの瀬戸際である。自らが今まで何をしてきたのか、今のままならどんな運命が待っているのか、ここでしっかりと考えて欲しい。すべては、あなた自身のためである。あなたがそのまま滅びたいなら、それでも構わない。最初で最後の機会を生かすか殺すか、それはあなた次第であり、あなただけの現実となる。

『借りたものは返せ』『盗んだ者は犯罪者だ』と言うならば、本当の債権者、本当の所有者が、本当の債権、本当の所有権を主張したら、その言葉がそっくりそのままあなたに返ることになり、あなたは、もう二度と、どこにも生き返ることはできなくなる。知恵の蛇の神を頂点とした神や仏も含めて、現代社会には誰一人文句を言える者は存在しない。もし、今のまま所有し続けようとして屁理屈をこねくり回すならば、天地窃盗罪は確定である。天地自然の律法による天地窃盗罪は国家転覆罪であり、その判決は、「切腹」のみである。
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『働かなければ、食べられない』世界では、全員が働くのをやめれば、その社会は崩壊する。従って、その社会を支配する(その社会で糧を得て、楽して自らだけの楽園を享受している)黒幕は、被支配者を働かせ続けるシステムを作り出す。例えば、法治国家で「納税の義務(=働かなければ税金は払えない)」というアヤマ知を法律に規定すれば、脱税は犯罪となる。犯罪者になりたくない者は働き続ける。役人は税金を強制徴収する権限を与えられ、支払わない者から「財産」を没収できる。人民が働かなければ税金は生まれない。税金が生まれなければ役人は生きられない。役人が生きられなければ、その世界の黒幕も命はない。『自分は何のために生きているのか』という問いがあるが、あなたは『泥棒の親分(とその手下、そして、その親分がつくる世界)を生かすために生きている』のであり、それは、結局は、『自分を生かすために生きている』ことに他ならない。それは、その世界がすべてだと自らが思い込んでいることがもたらす自認自行の目的であるから、そこでどんな仕打ちを受けようとも、神仏も含めて、それを選んだ自ら以外の誰にも文句は言えない。あなたは『生きるために働いている』のではなく、『働くために生きている』のである。

民衆が完全な自由に気づいたら、支配はできない。民衆に反乱を起こさせずに働かせ続ける(金を生み出させる、金融ゲームの原資を枯渇させない)ためには、民衆の自由を制限した分のガス抜きが必要である。民衆をマヤカシの自由の籠の中に封じ込めるために用意されたもの、それが、叶わぬ夢を実現した積もりにさせる趣味や娯楽(テレビ、音楽、美術、スポーツ、映画、ギャンブル、風俗産業等=通称3S=SEX,SCREEN,SPORTS)である。犯罪をしなければ健全な生き方であるかのように見えるが、3Sが不可欠な、快欲を求める世界そのものがケモノの略奪の世界であり、健全ではないのである。獣が獣を教育しても、獣性を増すだけで、酒を性と金にのめり込み、快欲と快適を追いかける世界に進んでいく。獣の響きは二極分裂の戦いの世界を作り出すだけで、永遠に平和は叶わない。

真釣りを外して実現できなくなった夢を仮想の世界で体験することで、自らの一時的満足感、癒しを経てバランスを戻す。その究極がインターネットである。獣の世界では「健全育成」は幻である。科学の勉強や宗教への信心、社会貢献やボランティア、助け合いの思想も、結局は、世の闇=自らの空虚感を埋めるものでしかないが、これらの思想は空虚感が埋まらない世界だからこそ現れたものであるから、それは永遠に埋まることはない。そして、それを提供する側から見れば、それ自体もビジネスの道具であり、真釣り外しを続ける限り、なくなることはない。元々は、仕事も娯楽も一つであり、自分で自分を自由に楽しめる世界であった。真釣り外した結果である苦や悪を形の道具で解消しようとし続けるなら、誰かが作った仕事に従事して貯めたストレスを、誰かが作った娯楽を食べて解消するという、霊的マスターべーションが不可欠な世界が永遠に続くことになる。「人」の響きを忘れ、「獣」の響きで天国を作ろうとしても、逆さまの世を続ける限り、それは叶わない。自らが、獣の響き(ヘビの知恵)と人の響きを持つ二重神格であることを自覚し、ヘビの世界の善と真コトの善との区別タテ分けをしなければ、滅びの世界に自ら飛び込むことになる。人の響きで獣の響きを導いて、人が獣を従える「健全な」姿に戻ることである。
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現代社会は、蛇の知恵の神を源とするピラミッド構造の最下層の社会である。人類のしてきたことは、『限りある(と思い込んでいる)資源』を奪い合って勝ち残りを決めるゲームに過ぎない。各々の「界」で、立場、財産、技術、知識、収益等々のトップがいるが、現代社会を牛耳るトップは一人であり、神の世界のトップも一人である。しかし、魔釣りの神代のトップは真釣りの世には存在できないから、たとえ今の世で蛇の知恵の神になろうとも、永遠の天国はない。勿論、知恵の神を超えることは絶対にできない。あなたは何を目指して生きているのか。あなたは何のために争っているのか。あなたの目指す天国は、生死時空を超えた世界である。それは、自らが元々いた世界のことであり、今の生き様のままでは、どう頑張っても、限りある今世の寿命の間で天国を体験することはありえない。

現代社会は、人間の姿をしたケモノの社会であり、ケモノがケモノを潰す、共食いの世界である。ケモノの調教は、教育であり、躾であり、訓練でもある。家庭や学校、社会が乱れるのは、ケモノの響きである者が、自らをヒト(真釣りの神)だと思い込み、本来はヒトの世界である天国を創ろうとしてきたからである。ヒトの天国を魔釣りのケモノが壊した末路が現代社会であるから、ケモノであることを自覚しないまま教育をしても、世が乱れるだけである。ケモノの世界はアメとムチを使ったピラミッド型で丸くおさまる。日本狼の絶滅は、ヒノモトの真コト(日本の大神)が表の世から消滅したことを意味する。国産の朱鷺の絶滅は、ヒノモトの神気(十気、時を統べる神の十理=真釣り)の封印が九分九厘完了したことの型示しである。姿形の整合性(バランス)を取ったとしても、それは、形の辻褄合わせ、「日本風の形」を残したに過ぎず、裏の響きはケモノに変わりはない。それどころか、形を天国にしようとすればするほど、裏の響きはどんどんケモノ化が進み、最後は、獣の本性丸出しとなり、共食いの末に自滅する。非常事態での日本人の秩序正しさは、獣を理性で抑えているだけであり、耐え切れずに爆発すれば、最悪の暴徒と化す。獣の性を封じ込め、善人であることを演じようとすればするほど、身魂は酷い姿となる。封印したエネルギーが多いほど、解放する時の爆発力も強力になる。狼の社会すら作れないケモノ人間に、大神の真釣りの天国を創ることなど、絶対に実現しない空想物語りである。

国際社会が混乱するのは、ケモノがケモノを調教して、ケモノの王になろうとして、主権争いをしているからである。蛇の知恵の神の子孫が牛耳る世界は、全員がケモノの響きである。ケモノはケモノにしかなれず、餌(領土、資源、お金、思想、命)の奪い合いの末に、王の一騎打ちで滅亡する。ケモノの世は、ヒトの世の復活で滅びるから、結局は、ケモノの世はマボロシである。もしどうしても、ケモノとして平和な世界を創りたいならば、子供の躾、生徒の教育の方法は「犬のしつけ方」を参考にするとよい。しかし、親や教師がケモノである限り、天国はできない。自らの調教もままならない者が、他人を調教しようとすれば、脈絡のない感情にまかせた独裁飼育となるか、教師(親、指導者)が生徒(子、被支配者)に迎合するしかないが、どちらも混乱を作り出すだけである。自由平等博愛の思想は、バラバラな世界を進める。リーダーが必要なケモノ社会で、平等や自由を唱えれば、好き放題に勝手なことを言い、争いを繰り返し、理想とは正反対の世界をどんどん進めた挙句、滅びの時に至る。まずは、自らがヒトの真釣りに戻ること、つまりは、自らのヒトの響きを思い出して自らの中のケモノをケモノとしてキッチリ調教することである。
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ケモノ社会は、相互依存の弱肉強食の世界しか作れない。管理教育は反発を生み、個性教育は自分勝手なバラバラな社会を生む。理性を持ったケモノの社会は、結局は、自然の調和の掟に反した世界であり、強力なリーダーが統率しなければ納まらない社会なのである。自由放任がよくないと言われるのは、それをすると獣の世界が壊れてしまうからである。その理由とする社会のシステム自体が、おかしいのである。支配の世界に自由はない。自由を求めて制限を強制するという矛盾。自由は自由であり、条件は一つもないのだが、それは、真釣りのヒトの響きを体現できる者だけの社会で可能なことである。人の世界を空想物語りにしてしまった獣の世界の自由は、支配者に忠誠を誓うならば、という条件つきであり、支配者の都合で、自由は奪われる。神の世界を封印した、この世だけの八方世界の平面志向である限り、本当の天国を実現することはありえない。蛇はどう足掻いても蛇である。自らの中の蛇を竜が封印し、竜の生き様を復活しなければ、蛇の毒牙にかかって自ら滅ぶ末路となる。ケモノは際限なく食べ続ける。ヒトが導かなければ、ケモノの世すら存亡の危機となる。自然界で、最も不自然な社会は「人間(人類)という動物」の世界である。ヒトとは真釣りの響きの神のことである。今の世は蛇が牛耳るケモノの神の世である。たとえ、現代社会の裏の裏の黒幕になったとしても、あなたには永遠の天国はない。

現代社会での「職業」は、泥棒の世界で、黒幕が楽をして天国を得るための仕組みを維持するための真釣りのマの字もない戯言であり、実際は、何の強制力も義務もないマヤカシである。しかし、その世界を真実だと思い込んでいる人民は馬鹿正直に働き続け、上納金(税金)を納め続ける。税金を払わないことに罪悪感を覚え、自ら進んでマヤカシの世界の維持に貢献し、自己満足に浸る。『働かざる者食うべからず』というアヤマ知の思想を植え付けられた人民を扇動し、金の世界で働かせ、上納金で楽して暮らす「役人(公務員)」と呼ばれる窃盗団運営組織の幹部ですらも人民を働かせ続けなければ自らの命がなくなる自縄自縛の仕組みを相互依存と呼ぶ。その中にいる限り、上下も自由も平等も公平もない偽の天国を目指して世界を進めていく。宗教法人、特殊法人、社会福祉法人、財団法人、学校法人等々の税金優遇策や、障害者、老人、乳幼児等の割引制度等々があるのは、現代社会の依存システムの中では、割得感を与えたり、ある仕事に寄与する者を優遇したりすることで、自ら進んで社会に貢献するように仕向けるために有効な手法だからである。自らは何もせずに楽しようとする、何も知らない人民に、弱肉強食の敗者の尻拭いをさせるためであり、ケモノの仕組みを教育し、大衆の反乱を未然に防止し、金がものを言う経済社会を維持するためである。無から産み出せる大神は、『働かない者は食べるな』とは一言も言っていない。元つ真釣りの世にはお金は存在せず、お金による誘導は全く意味を為さない。自然の中で生きる動物たちを見れば、一目瞭然である。自らの欲望のまま生きて天国の階段を昇っても、最後の階段は、崩壊である。あなたが『働かなければ食べられなくなったの』のは、あなたが働かなければ困る者が図った策略にまんまと嵌まった結果である。その世界に足場を置いて同意しているあなたには、たとえ餓死しようとも、どこにも文句を言うところはない。実際は、この世の黒幕は、働かずに食べるどころか、他人を働かせたお金を使って、神を金にすりかえた世界で天国の如き暮らしを謳歌しているのである。
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今の「国際社会」は、資源を金で支配する世界であり、その加工物の売り買いの自由度によって衣食住のレベルが決まる。金があるほど天国になる仕組みであるから、楽して天国を得ようとすれば、金で金を増やすマヤカシの仕組みに魅せられ、『いかに儲けを多くゲットするか』に血眼になって、金蔓のターゲットを探すゲームをし続けることになる。しかし、実際には「金融システム」を設計し、世に広めた、一部のエリートのみが自由に振る舞えるだけであり、一般庶民には高度な仕組みは理解できないから、上から下までどっぷりとその世界に嵌まってしまっている。貯蓄やローン、株の売買、円とドルの売買という言葉を疑うものは誰も居らず、当たり前のように、売買価格や貸し借りの金利、為替相場の動向を追いかけている。貸し出しも金利、預け入れも金利である。預金者は、預けている銀行の債権者であり、銀行は貸している預金者の債権者である。お互いに債権者であり、債務者である。実際は、お金の貸し借り、売買の世界は存在しないから、商法という決まりを作って、商売の仕組みを正当化して継続しなければ、金の仕組みは壊れてしまう。しかし、法律自体がマヤカシであれば、商法の正当性と強制力が消えるから、お金を仲立ちにする窃盗=商売も泥棒も同じ行為となる。結果、経済活動は自由選択のゲームとなり、それが不自然なものであれば、参加者は自然淘汰される。上納金をプールしている意味に黒幕が気づかないなら、金の仕組みが壊れれば、金の仕組みで天国を謳歌する野望を持つ、現代社会の黒幕も命がなくなる。黒幕の命がなくなれば、金融システムもなくなり、コンピューターも無用の長物と化し、本当の神の世界を闇に封印し、形のお金の世界で、誰かの決めた通りに生きて楽をしてきた、何をしてよいのか自ら考えられない庶民は狂死する。

生まれたときにすでにある、誰かから与えられたシステムを利便だけを追いかけて使っているならば、罠に落ちる危険性が大である。魔釣りの世には、本当の天使はいない。世の仕組みを設計した者は、自らの安泰だけを考えて、罠を仕掛けて仕組みを作る。巧妙なカラクリは、一流の学者ですら見破れない。見破ったとしても、保身のために公開しない。大衆に至っては、全く正体は見えていない。大神の神仕組みも含めて、システムの持つ意図を知り、システムのすべての構造を熟知し、システムを自由に使いこなし、自らの完璧な危機管理をして、仕組みの中にいる者を自由自在に操れるのは、設計した本人だけである。元つ大神のシステムでは、真釣りそのものの響きがなければ、何を企もうと世は滅ぶ。
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利子とは元金が産む利の子供である。元金という親の先祖は紙であり、銅や銀やアルミである。さらに遡れば、樹木であり、鉱石である。もっと遡れば、火であり、創造エネルギーであり、元つ大神の響きである。無から作り出せる神の世界に、金融、為替、ギャンブルがあるのはいかなることか。どこでおかしくなったのか。現代社会は、資源やその加工品、原爆、果ては、神のご利益まで売り買いする、金融システムを神とする「市場経済」という戦略を使ったお金の略奪競争である。売上のランキングが国のランキングであり、ランキングが上位の国ほど金が集まる仕組み、お互いに国債という借金の債権者になり、株式という紙を売り買いすることで会社、つまりは、その社員から取引先、顧客まで、すべてを売り買いする仕組みを作り出した。神を金に置き換えて、真釣りの天恵や知恵を魔釣りの思想で好き放題に使って、金に交換する(儲けを出す)仕組みを作り出し、個人から家庭、市長村、都道府県、州、国、国連まで、結局は、数学上の損得、即ち、帳簿上の収支決算の「+」を奪い合う略奪の世界が「文明社会」と呼ばれる末路の現代社会である。

物と金を交換するだけでは、物々交換と同じであるから意味がない。ビジネスという仕組みを作って、初めて、金の世界の王になるチャンスが与えられるのである。仕入れの原価は0と同じであり、在庫を抱えた状態では、借金しているのと同じである。売って儲けが出て、初めて、金の世で衣食住を自由に手に入れられる「神」を手にしたことになるのである。真釣りには損得はなく、損得があるならば、魔釣りの略奪の世界である。大神の真釣りの響きで無から産み出した天恵を魔釣りの響きで泥棒して、それを元手に金という紙や金属を集める。電子マネーや、為替ディーラーの例で分かるが、やっているのは、コンピュ-ター上の数字の操作であり、結局は、お金そのもの(現金)も、形に見えるように具象化した道具に過ぎず、現金のみで売り買いをしていた社会は、数字操作の世界であることを誤魔化すための、過渡期の段階なのである。実感を得させるために「お金」という偶像を具象化して形の売買をしているが、実体は、すべての物(行為、サービス)を数値化し、数字を増やしたり減らしたりして仮想売買をしているゲームに過ぎない。もっと言えば、万象万物を数字に置き換えて、数字を捜査することで快を奪い合う快欲追及競争である。大きな+数字を手にするほど自由=至福の体験ができ、-数字を手にするほど、誰かに操られて不自由になる(言い換えれば、金を貸せば操れる)「見事な」システムである。

神を金に置き換えた世界=お金(経済)に自らの命を預けている民の構成している世界では、お金(=命)=数字の操作権限を手にすれば、戦争や殺し合い、自殺をさせることは簡単である。世界を支配することや、自らの手を汚さずに邪魔者を消すことも自由自在となる。形で快を得る世界で、形をお金に置き換え、数値化し、それを、コンピューターを使って管理するシステムを作り出す。現金のやり取りの不便さを体験させた後に、カードを与え、ローンシステムの便利さを植え付ければ、便利や楽を追い求める大衆は、裏のカラクリに気づくこともなく、自らの欲望のままに快適生活を追いかけ、「金」の世界の虜になってしまう。当然、民の集団である国家も同じ仕組みであるから、金融システムの実権を握ることで、特定の国を操作し、破綻させ、離合集散させて、思い通りに世界を奴隷化することは簡単である。しかし、たとえ神を金に置き換えた世界を支配しても、その世界が、「この世」限定の有限の略奪の世界である限りは、結局は、自らが破綻することになる。
P102
人類の起源、魂の源は「神」であるから、自らが創造した結果は、すべて自らが引き受けることになる。魔釣りの略奪の世界が永遠に続くのであれば、永遠に略奪を続けることもできる。しかし、それとて、有限の世界の奪い合いである限りは、必ず破綻する時が来る。たとえ、今生だけのスパンで破滅の危機を乗り切ったとしても、生まれ変わる魂としての存在であるあなたは、永遠に転生し続けることになるから、必ず、自らが滅びを体験する時に居合わせる。そもそも、真釣りの世では、生死時空は一つであり、過去も現在も未来もなく、生も病老も死も、天国も地獄も滅びも存在しない。従って、あなたが真釣りならば、すでに生き通しであり、真釣り戻しの世界で魔釣りの世を体験しているだけであるから、生死を心配する必要は全くない。魔釣りのゲームが終われば、永遠の天国の現実に戻る。あなたが魔釣りならば、あなたはすでにどこにも存在しない幻であり、真釣りの世に戻れば、あなたは跡形もなく見えなくなる。生死時空を分裂させた魔釣りの響きがある間だけ、存在するように見えているだけである。真釣りの世では、魔釣りのあなたはどこにも存在せず、生き死にを賭けて争っているTVゲームの仮想現実の中の登場人物の一人に過ぎない。真釣りの神がスイッチを切れば、あなたの存在は幽霊のように視界から消える。蜃気楼のような存在が幻の世界を実体として進めてきたのが、人類の歴史であり、魔釣りのアヤマ知で何を画策しようとも、真釣りの大掃除を超えて生き延びることはありえない。

魔釣りの世界がある間は、魔釣りのアヤマ知の世界で好き放題に生きることができる。しかし、魔釣りのアヤマ知で世を進められるのは、後少しのことである。あなたをそのまま放っておいても、自動的に破滅(消滅)するが、大神の親心=情けによって、天地の理法に違反した魔釣りの響きの身魂を真釣りのミロクに生かすための最後の仕上げが用意されている。自動的に消滅するその前に、元つ大神の真釣りの神仕組みによって、大掃除をして真釣りに戻す最後のチャンスを与える仕組みが発動することになっているのである。魔釣りの世を進めたい者は勝手に進めればよいが、魔釣りの響きは、囚われを解くための仕組みである限り、永遠には許されない。天地の理法に違反した身魂を真釣りに戻すための期間限定のシステムである限りは、計画された時節が到来すれば、問答無用で真釣りに戻すことになる。仕上げの仕組みが発動した後は、自ら真釣りに戻らない限り、どんどん地獄の現実が進み、自らのしてきた結果を身を持って体験することになる。生死時空を超えた世界に生かされていた自らの実体そのままに、すべての自己責任を清算することになる。
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資源を加工した「お金」というマヤカシの道具を使った、略奪の知恵が作り出した金融システム(正確には、高等数学とコンピューターを使った略奪システム)をどう駆使しようとも、「すべて」を支配することは、絶対に不可能である。形で響きを、金で神を支配できるならいざ知らず、「この世」の「文明社会」だけを支配しても何の意味もなく、天地自然の理法を外したやり方では、自らの首を締め続けるだけのことである。さらには、支配者の策略にまんまと嵌まって、快欲を追いかけて、金の世界で自由や至福を得ようとしている「大衆(庶民、一般人)」も、識者と呼ばれる政治家や、宗教家や、学者も、全員が同罪であり、全く同じ運命を辿る。神から人まで一体不可分の世界で自由自在に天国を体験するためには、真釣りに戻るしか術はなく、魔釣りの世界(運命共同体)は破滅して終わる。現代社会の「豊かさ」や「経済発展」の本当の意味を知り、今まで、どんな世界で、何をしていたのかを正直に見て、自らの辿る運命を今ここでシッカリと考えてみることである。

電子化するということは、すべてのデータを自由に閲覧できる者が存在するということであり、それが政府機関ならば、法律での個人情報の保護は意味がない。すべてをコンピューター上にデータ化すれば、コンピューター上の操作で、金持ちにも破産者にも、無罪にも有罪にも、できるのである。現代社会で個人を個人たらしめているものは、データである。名前、生年月日、国籍、病歴、職歴、学歴、成績、購買歴、預金借金残高、家系、犯罪歴等々、電子世界を辿れば、すべてのデータを手に入れることができる。電子世界で誰かを殺す(死亡したことにする)ことも、別人に仕立て上げることもでき、電子的輪廻転生が可能になる。先端科学技術は軍事利用から始まり、軍事的に危険がない状態になった時(さらに先端の技術が開発された時に)民間に開放されるのである。インターネットも、電子レンジも、テレビゲームも、庶民にとっての最新技術や最新機器は、すでに軍のお下がりなのである。新しい技術には終わりがなく、庶民は、最新機器に買い換えるために永遠にお金を使い続ける(働き続ける)ことになる。庶民でいる限りは、どんなに頑張っても、本当の自由は得られないのである。軍の最高機密は誰も知ることはできない。庶民にはマヤカシや作り話に見えることも、真相を封印するためにそう思うように教育を通して洗脳されているだけで、実際は、どんな荒唐無稽な話でも実現の可能性はある。庶民から見れば、進歩しているように見えるが、政府や軍や企業が本気になれば、今すぐにでも、50年先に実現すると知らされている未来の生活も実現するのである。何らかの理由(儲け続けるために主導権を確保する、あるいは、軍事支配権を維持するため)で、小出しにしているだけである。インターネットの便利さ、自由さの裏に隠された本当の目的が何なのかを知らずに使っていれば、気づいた時には、とんでもない世界に放り出されることになる。
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ハッカーが犯罪者だと思ったら大間違いである。権力を握っている組織が、何らかの意図でハッキングを依頼した場合は、ハッカーは勲章を授与される。国民総背番号制の是非の議論があるが、全く意味がない空論である。文字、即ち、名前や地名がコード化できる限り、生まれる前から背番号がついているのである。すでに、民間レベルで電子管理されているのが現代社会であり、自治体のコンピューターへの侵入実権は、時間と税金の無駄である。この世にあるものは、すべて、数字に置き換えることができる。映像も、色彩も、振動も、波動もすべてが数値化できる。つまり、この世にあるものは、すべてコンピューターで処理できるのである。この本の文字もパソコン内では、コード処理されて、文字に変換され、印刷され、本の形であなたの目の前に出現したのである。上から下まで、進歩、発展神話にのめり込み、快楽と利便を追いかけ続けた挙句、現代社会の正体を知らずに、自ら進んでIT社会や電子政府というマヤカシに足を踏み入れている。インテリジェンステクノロジーとは、知恵の蛇の魔釣りの神の究極の物質化世界を作る技術なのである。電脳網、即ち、数字の演算処理電子脳の網がすべて管理する社会で、便利、快適、安全、簡単、ユニバーサル云々を追いかけた末に行き着く先は、全く逆さまの現実である。

この世、正確に言えば、文明社会は、高等数学の演算処理の作品である。一般大衆は、パソコンのCGや携帯電話やゲームを何も考えずに利用しているが、それを画面上に出現させるためのプログラミングとコンピューター内部の処理は緻密で、かつ膨大なものである。現実社会も同じことで、大衆の目には、物や金や預金通帳や数学の教科書やパソコンやインターネットやビジネスのような具体像として現れるだけであるが、その裏には、一般大衆には及びもつかない、とんでもなく緻密に計算され尽くしたシステムが動いているのである。そのシステムを設計し、組み上げ、形にして、実際の社会で自由自在に運用できるエリート集団が、お金と金融経済を道具にして、物を数字に置き換えた世界を自由自在に操作して天国を生きている。究極的には、すべてのデータを蓄積したコンピューターを破壊すれば、電子政府の支配する仮想現実での個人情報、地位、身分、財産は、一瞬のうちに幻の如く消えてしまい、現代社会という幻想に足場を置いているすべての者が「自分」を失うことになる。0から産み出せない限りは、始めからすべてが幻なのである。しかし、それは、魔釣りの響きの形の世界だけの話であって、この世でどんな企みがあろうとも、真釣りの響きだけは消すことはできず、自らの真中の真コトの響きを残せば、新しい世界で自由に自分を再生することができる。魔釣りの今世を支配する者も含めて、すべてが幻想の世界であり、本当の実体である元つ真釣り世が復活すれば、地球どころか、魔釣りの世界で作ったものは、神から人まで、あの世からこの世まで、すべてが消滅するのである。

金融経済の世界には、等価交換はありえない。元金、原資、原価は、お金ではない。100$と100¥のように、同じ数字でも単位を変えれば価値が変わる。変動相場という仕組みを作って、金の価値変換で、エネルギーを使わずに金を増やすゲームが、金で金を増やす金融システムである。しかし、金融システムが基にある市場経済も、天恵がなければ、ゲームはできない。当たり前のようにやっている物の売り買い=ビジネスの正体とは一体何なのか。現代社会を支配する、人類の歴史を通じて根底に流れている大きな嘘に気づかなければ、世の破滅は必至となる。人民を働かせた果実である税金を上納させた王から上納金を巻き上げて楽して暮らすのが、世の黒幕である。暴力団やマフィア、宗教団体の組織運営システムは、そのまま現代社会の映し絵なのである。その現代社会の中で快楽を得よう、生き残ろうとしているならば、どんなに清く正しい倹約者でも、破滅の道中にある。
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現代社会は、蛇の知の神の牛耳る世界である。蛇の天国を維持するためにその世界で考え出されたシステムを都合のいいように使って、蛇の世界で国力を誇ってきた日本国。そして、拝金教国の象徴に成り下がり、真釣りの真コトを闇に葬って魔釣りの神の神事に勤しむ日本国の王。西洋世界の王は、血統を重んじ、領地を奪い合い、その上納金で富を得てきた。現代社会の裏の黒幕も、表向きは略奪に見えない同じ仕組みで国際社会を牛耳っている。みなの幸せを願い、施しの仕組みを褒め称え、善人を演じて、いつのまにか黒幕に座らされた黒幕、世界を牛耳る知恵の神の仕組みを利用して『働かざる者(金を稼がざる者)喰うべからず』の世界で何の危険もなく(その代わりに自由もないが)偽の天国の暮らしを顕現しているその存在が、知恵の神の恩恵を最も受ける。外国にも国民にも人畜無害だから潰されることがないだけであり、最後は、元つ大神の大掃除の対象者の象徴となる。

皇室の祖神である天照皇大神は、魔釣りの天孫族であり、伊勢神宮は、神界のGHQ本部である。神界のヒノモトの占領は三千年の間、続いている。しかし、神の占領軍が何を企んでいようとも、すべては元つ仕組みに織り込み済みであり、九分九厘まで魔釣りに勝ちを渡したその後に、元つ大神のたった一発の元始爆弾で、魔釣りの世界はすべて焦土と化し、神から人まですべての世界が元つ真釣りの神代に戻ることになる。日本史では、実在が疑問視されている神武天皇は、実際は、人皇として即位した正神真神である。従って、それは「神代の岩戸閉め」を意味するから、その流れを汲む現在の皇室は、魔釣りの蛇の流れの子孫となる。「万世一系の天皇家」というのは、人皇の世(岩戸の中)の、形の歴史の中の話であり、本当のスメラミコトの正体を封印する魔釣りのアヤマ知だったのである。

日本の神響きを封印するために、唐欧米を使って、外来宗教で敬神を壊し、教育でアヤマ知の科学を植え付け、経済システムの中に取り込んで金の虜と為す。宗教、政治、経済、軍事の実権を奪って、日本人一人一人の身欲を煽る餌をばら蒔き、真中の真コトを邪鬼となして鬼門に封じれば、世界は蛇の思うがままとなる。大神を忘れ、世界の真中のハラを骨抜きにするための「蛇の知恵の罠」、三千年の策略にまんまと嵌まってしまった日本国。揺り篭から墓場まで「完全生活保護」を受けて暮らし、最高レベルの教育と衣食住を享受し、贅を慎み、弱者の気持ちを思い、国民の幸せだけを考える「魔釣り社会の最善王」は、一厘の差で、蛇の神の体現者となる。英国女王から騎士の勲章を授かり、皇族が英国留学し、魔釣りの科学の学者として世界に名を轟かせ、世話係の仮面を被った侍従と言う名の監視付きの皇居と言う名の隔離施設に住み、公務と言う名のお飾りの仕事で一生を終える「天皇」という存在が、実は、魔釣りの蛇の知恵の神の究極の権化なのである。日本人として真コトに悲しいことではあるが、本当に正直に考えれば、これが天皇家の正体である。
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儀式を守り、国の安泰と五穀豊穣を祈っていると言っても、祈る対象のその神は岩戸を閉めたあとの魔釣りの天孫降臨の神であり、皇祖が天照大神ならば、その源は知恵の神である。その世界で国祖神に安泰を祈り、伝統儀式を継承してきたとしても、その答えが現代日本の混迷だとすれば、それは何を意味するのか。日本は「世界の雛型」である。日本が何をしているかによって、世界の行く末が左右される。真釣りの源であるべき日本の王(スメラギ、皇族)が魔釣りの経済の上納金で生存を保障され、魔釣りの神の神事を続けて何不自由なく暮らし、人民が科学教、金融教を信奉しているなら、それは、知恵の神の実働部隊の王が全世界を奴隷にしていることを意味する。天皇家が本当の祀り(「真釣り」)をしていなければ、現代日本は、神社から学校まで、神から人まで完全なる魔釣りの奴隷であり、日本が魔釣りの源であれば、蛇が竜を支配する現代社会の末路は、破滅のみである。

「日本列島」は、元つ神気出づる唯一の地、真釣りを統べる三千世界の基(臍)であり、今も真コトの一厘の響きを奏で続けている元つ大神の御神体そのものである。真コトの一厘の響きを闇に葬ってアヤマ知の科学と金にのめり込み、衣食住から精神まで魔釣りに握られた日本国。日本=ハラが完全に腐っているならば、『神と悪魔の戦いのケモノの宗教』『世界は一家人類は兄弟姉妹』『金が支える金融経済システム』『科学、IT、慈善、裁判、福祉=相互依存』(体主心従霊属の魔釣り)に足場を置く、真釣りを外した「蛇の知恵の火」を基と為す、逆さまの「嘘の蛇の悪神」が統べる世界の末路は、神から人までただ一つである。ヒノモトが腐れば(苦去らなければ)魔釣り、腐らなければ(苦去れば)真釣りである。『真中の座に何様が座るかで、八方世界のマ釣りが決まる』それが、元つ仕組みである。今の世は、ヒノモト真中に蛇が座す、八方世界に蛇の頭が睨みをきかす、ヤマタノオロチが牛耳る世界である。そのヒノモトの有様を真実だと思っているすべての日本人のハラにいるのは、当然のことながら、竜の仮面を被った大蛇である。神代の昔にヒノモトが魔釣りで曇ったことが、世界が汚泥混濁の争いの歴史を歩んだ本当の原因なのである。

真中が真釣りなら世界も真釣りである。ヒノモト真中=世界のハラが腐らなければ、世界は今も真釣りのまま続いていた。世の大掃除もなく、嬉し楽しの幕の上がりで、真釣りのミロクに成ったのである。自らの真中に真コトの草薙の剣が封印されている。オロチの腹にはオロチが飲み込んだ剣がある。自らがオロチに負けて献上した剣である。真コトを響かせれば、オロチの腹の剣が真コトに共鳴し、魔コトのオロチは悶え苦しんだ末に、真コトの響きに戻る。大蛇が正竜に戻る。自らが真釣りに戻る。それが、真釣りが魔釣りを改心させる仕組みである。魔コトを捨てれば真コトが響き、真コトが響けばオロチが従う。魔コトに囚われ続ければ、オロチもろ共、自らが真コトに成敗される。ヒノモトの民が真コトを響かせればヒノモトに真コトが響き、ヒノモトに真コトが響けば、世界に真コトが響く。世界に真コトが響きけば、世界が真釣りに戻る。元々は、世は真釣りのみである。まずは、真釣り外した自らが真中の真コトを思い出し、真コトを鳴り成らせることである。草薙の神剣による各自のオロチ退治、ヒノモト真中の大掃除から、本当の世直しが始まる。
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霊主心従体属の真釣りの真コトの正神真神の竜が統べる天地の神法、分かり易く言えば、日本列島を御神体=聖地として崇める真コトの神の精神を拠り所とする本当の「世界統一教」に戻らない限り、世界の破滅となる。神から人まですべての世界が滅ぶか残るか。その鍵は「日本」である。本当の日本=ヒノモトに残る最後の真コトの一厘、本当の日本の神道(真コトの日本真道、神道=戦争ではない)の復活が、元つ真釣りの大神の救世の響きをこの世に降ろす唯一の術である。まず手始めは、御神体の神官=日本人の超大掃除である。この本は、現代日本と人類史の正体を明かし、心に巣食っている嘘を掃除する材料を提供することで、日本人が本当の日本人に戻って、残る一厘の真コトの道を日本に(そして世界に)復活するための、真コトの日本を担う人材を育てる再教育の教科書でもある。

世界を救う真コトの一厘。天皇から庶民まで、日本のお土に産まれ、育まれた日本人全員が思い出すべき真コトの一厘である。本当の日本の一厘を穢した事実は消せないから相応の大掃除はあるが、この一厘で元つ大神の御用を果たすことが、これから始まる世界の立て直しで日本が果たすべき天命である。これは空想でも理想でもなく、「元つ真釣りの大神の創造の法則」に基づいた元つ仕組みである。これを荒唐無稽の夢物語、狂った宗教家の戯言として闇に葬るのが、真釣り外した現代社会で教わった常識なのである。現代社会が逆さまであるなら、真釣りの世では、現代社会の常識が荒唐無稽となる。この本の話と現代社会の常識、どちらが本当の真実なのかは、現代社会を見れば明らかである。ハラとアタマの戦いとは、現代社会の魔釣りとミロクの真釣りの時空を超えた決戦である。真コトの一厘があることを思い出し、それを認めて心底から改心し、魔コトの宗教と科学を捨て、真釣り外した分の身魂の大掃除の辛苦に耐えて、見事ミロクの開闢の天命を果たして欲しい。

現代社会は、本当の神を知らない。神の戦争の結末を知らずに戦い続けている。真コトの神との戦いは、生死時空を超えた戦いであり、水爆も細菌兵器も役に立たない。たとえ、魔釣りの蛇の知恵の神が自らの総力を挙げて封じ込めようとしても、勝ちはない。ヒノモトが真釣りに戻らなければ、世界は破滅に向かう。真コトの神を知らない今の国際社会の中で日本が真釣りに戻ると、『日本の突然変異』『市場経済と民主主義への冒涜』『狂ったとしか思えない裏切り』『神国の復活』に世界は驚天動地の大混乱になる。『日本帝国主義の復活の脅威だ』『国際社会を混乱させるテロリストだ』『我らの神を冒涜する悪魔が正体を現した』と一致団結して責めて(攻めて)来るかもしれない。しかし、どんな状況になろうとも、決して真コトを動かしてはならない。今の立場を守ろうとして迎合してはならない。生死も立場も国の存亡も、すべてのすべてを元つ真釣りの大神と正神真神(ヒノモトの真コトの守護神)に任せて、真釣りという神法を厳格に守り通し、蛇の世で積み(罪)上げてきたすべての歴史を捨てる覚悟を決めて、非難、圧力、攻撃に見事に耐えて真コトを貫くことが、世界に真コトを示すこれからの日本の本当の「シゴト(国際貢献)」である。
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世を滅ぼす自分勝手な魔釣りの「私事(死事)」ではなく、真コトの一厘で世を支える真釣りの「支事」が、世界の中での日本の本職である。真コトの日本の守護神の総帥は、魔釣りの総帥の蛇の知恵の神をも産み生んだ、三千世界を統べる真釣る真コトの創造主、元つ真釣りの大神様である。それがどんな神なのか、何と言う神なのか、云々と神の正体を分かってから信じようなどというのは、真釣り外しの証であり、魔釣りの権化そのものである。そのままでいるならば、これから始まる総決戦では、寝返った裏切り者は賊軍と見なされて成敗の標的となることを覚悟しておくことである。魔釣りの勢力でも、真釣りに寝返れば、真コトの官軍として迎えられるということである。自らがどちらを選ぶのか、今ここから態度で示してもらいたい。難しく考えることはない。要は、真コトの日本人として何をすべきなのかだけを汲み取って、それを一言違わずに実行に移せばよいだけのことである。

真コトを磨けば、自動的に官軍の兵力として大神の旗の下に参戦できるのである。これは身魂の戦であり、今世で言う老若男女や知識や体力や宗教や財力や生き死は全くもって意味がない。女だから、子供だから、老人だから、などという現代社会の常識での言い逃れは通用しない。『そんな馬鹿げた話は信じない』それは、自らの永遠の滅びを意味する。霊界全土が遍く戦場と化すから、神や仏も含めて、誰一人(一柱)、戦を逃れることはできない。真釣りか魔釣りか、生き戻る道か滅びる道か、裏表、正反対の選択であり、官軍か賊軍か、どちらか一方の兵士になるしか道はない。万古末代、永遠に生きるか滅びるか、生死時空を超えた二つに一つの究極の踏絵である。究極のビックリ箱、本当のパンドラの箱が開いた時に肝を潰さないように今から少しでも真コトを磨いて準備しておくことである。

この本で語る話は、現代社会を信奉している日本人にとっては、とんでもなく馬鹿げた荒唐無稽な話に聞こえるはずである。「狂った」著者の精神構造を分析したくなるかもしれない。しかし、ここに書かれている話は、すべてのすべてが事実であり、これが嘘ならば、現代社会の常識が真実だということになり、そのまま生きていけば、明るい、光輝く天国がやってくるだろう。あなたが、どちらを信じる(選択する=実行する)かは自由であるから、著者が口をはさむ問題ではない。著者は、ただ、自らが求めていた結論であり、かつ、人類が求め続けてきた真コトの真実を公開しただけである。現代社会の真実と著者の真実のどちらが嘘か、どちらが悪か、どちらがマヤカシか、どちらが天国を作る方法か、この際限のない究極の禅問答については、著者自身が究極まで突き詰めた問題であり、自問自答を繰り返して自己矛盾を解消していった末に辿り着いた結論がこの本なのである。
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この本の話は、議論する余地はない。あなたの本当の姿を映す鏡であり、あなたが、最初に決めることは、あなたがこの本を要るのか要らないのかである。もし、あなたにとってこの本が不要ならば、その場でゴミ箱に捨ててもらって、今までの生き様に戻って頂いて一向に構わない。この本を読んでいる身欲のあなたは、この本から何かを得ようとしているのであるから、著者の言動に対して口をはさむ資格はない。数え切れないほどの恐れを乗り越え、長きに渡る体験を通して、真偽の裏付けを取った上でここに辿り着いている著者としては、例え自分一人だけしか信じていないとしても、霊界で殺され続けたとしても、自らが持っている今の考えを改める気は100%ない。著者に対しての忠告や警告や助言の類は一切辞退させて頂く。著者は、その正体を知った限りは、魔釣りの穢れ(怪我霊)の世界に戻ることは絶対になく、最後は、読者諸氏がどう判断するかの個人的問題となる。

日本の国土(ヒノモトご神体)には、正神真神の御霊統の神々が総動員でヒノモトの神民の真コトの戦を支援する、魔釣りの蛇の総帥が全世界の神々と臣民を率いて攻め寄せてきてもびくともしない仕組みが構えてある。ヒノモトにすべての魔釣りの勢力を引き寄せて、魔釣りに穢れたヒノモトを九分九厘まで壊滅させ、魔釣りの蛇の勢力に九分九厘まで勝たせたその後に、本当の真釣りのヒノモト真中の真コトの大神が顕現し、すべてのすべての穢れを一気に祓って真釣りに戻す、神仏も知らないどえらい仕組みが隠れているのである。

要は、真珠湾攻撃の時の米国政府と同じ作戦を決行するだけである。暗号解読で知っていながらわざと奇襲させて日本を卑怯な悪者に仕立て上げて国民の戦意を高揚させ、飛行機時代になってから要らなくなった戦艦を日本軍に破壊させて処理の手間と資金を節約し、それを口実に宣戦布告する。いつも同じパターンであるが、米国は、攻撃の理由を作り出すために敵に先に手を出させ、自らはいつも正義のために反撃する国なのである。考え方としては同じであるが、大神のシナリオを知ったところで、これを嘘だと思えば、魔釣りの勢力は自らのシナリオを続行するし、真相を知ったからといって真釣りを潰せる策があるわけではない。負けると分かっても九分九厘まで進めた世界制覇の夢を今さら捨てるわけにはいかず、『そんなものは世界に対する日本の脅しだ』『日本帝国の逆切れだ』『自暴自棄の狂言だ』『国家神道の復活を図っている』『神風精神復活の危険思想だ』と難癖をつけて葬り去ろうとするだろう。しかし、魔釣りの勢力が何をしようと時すでに遅く、真釣りの大神のシナリオ通りにコトが運んで必ずミロクが顕現することになる。結局は、魔釣りに穢れたヒノモトの神民も含めた魔釣りの勢力が改心するしかしないかであって、魔釣りの蛇の神の企みが成就することは絶対にないのである。本当の神界決戦の実体は、科学と金に洗脳され、金と形の世界で右往左往して、自らの生き死に如きの些細な世界でイサカイを繰り返して殺し合っている今の日本人には微塵も想像できないとんでもない世界なのである。
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平安時代の陰陽師の呪術戦争の世界、あの世とこの世が入り乱れての百鬼夜行の阿鼻叫喚の戦を想像すれば近いかもしれない。イスラムや十字軍の語る聖戦は、魔釣りの蛇の共食いの世界の中での中味のない仮面劇であり、本当の聖戦は、ハラとアタマ、真コトと魔コトの霊戦なのである。魔釣りの立て替えの仕組みには、人類史上では、形の上で戦う振りをしているイスラムと十字軍が最後には一つになって、ユダヤのエホバの指揮の下に、真コトのヒノモトの壊滅を図るシナリオが、最後の最後に用意されている。魔釣りの知恵の蛇の神が世界制覇を成就するための世の立て替えの最後の最後に実行される、この世の人民にも、あの世の神々にもわからない裏の裏に隠された極秘作戦なのである。現在の世界情勢は型示しであり、表面上の戦争に目を奪われている人類や、魔釣りの中つ世の神や仏にとっては、予想もしない晴天の霹靂のビックリ箱が突然開くことになる。真コト真釣りの大神はすべてのすべてを知っているから、ヒノモトの神力を最後の最後の最後に現して、すべてのすべてを真釣りに戻す立て直しの仕組みが成就することになる。立て替えの魔釣りの勢力は、このカラクリを知らずにヒノモトを潰せると本気で思い込んでいるのである。

ヒノモトの真釣りのカラクリを知らずに世を進めてきたイシヤの立て替えは間もなく終わる。同時に、真釣りの真コトで世界を祓い清めるスメラの立て直しが始まる。一時は、玉石混交の神幽現入り乱れた神仏人ごちゃ混ぜの大混乱となるが、真釣りの大神の出現ですべてが明かされて、ヒノモトが九分九厘壊滅した後の、神界総決戦のハルマゲドンで、三千年の因縁の対決に決着が付く。とにかく、本当のハルマゲドンというのは、真釣りを外す魔釣りの勢力と元つ真釣りの大神が元つ仕組みで対峙する、真釣りのミロクを復する神仕組みに従ったシナリオの総仕上げ、神界争奪戦争の最終決戦のことである。魔釣りの勢力がどんなに悪足掻きしようとも、「真コト」なしには絶対に勝利しない聖戦なのである。

魔釣りの神の千年王国を作る企み、イシヤの立て替えの仕上げは、最初で最後の日本侵略であり、三千年の策略を通じて(本人の自覚の有無はいざ知らず)今の日本に配されている魔釣りの占領軍の守備隊(魔釣りの神仏と魔釣りの人民)を増強するために、神界現界両方の応援部隊が大挙して押し寄せることになる。現代社会は、魔釣りの世であり、すべては両刃の剣であることを思い出して欲しい。在日米軍は、戦略地図の上の自国にすでに配置された敵軍である。最後の指令が下った暁には、安全保障の仮面を被って侵入した占領軍の正体を現し、反旗を翻す。兵力を移動する時間も手間も金も要らず、内部からいきなり敵国に攻撃できるという最高の作戦である。民間の組織の中にも日本人の皮を被ったスパイやテロリストが潜入している。原子力発電所は固定原爆となり、ダムは水爆弾となり、化学工場は化学兵器となり、石油タンクやガスタンクは固定爆弾となる。今まで便利や快適を与えてくれた(と思い込んでいた)文明の利器がすべて武器に早代わりし、都市文明は一瞬にして崩壊する。天恵を魔釣りで好き放題使って作った世界は、必ず壊滅する。
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結局は、快欲に囚われたヒノモトの神々と人民が自ら招き入れた結果であり、表面の美醜、善悪、正誤に騙されて、仮面の裏を見破れなかったヒノモトが親としてだらしなかったいうことである。悪の教えに騙されて『親(日本)だけではなく、騙した子(世界、魔釣り)も責めるのが公平だ』等と言っているなら、世界の親の自覚なき恥言である。自らの真釣り外しが、子に好き放題をさせた原因なのである。まずは親が率先して改心し、子に真コトの素型(姿)を見せて、行いを通して正しい道に子(世界)を導くのが親としての責任の取り方である。本当の親の勤めは、自らがどんなことになろうとも、子のために寝食を惜しんで働くことである。真釣りに戻れば、ヒノモトを守護する真釣りの神々は、ヒノモト人民が天命を果たせるように、「自然現象」を総動員して支援する。火山の同時噴火、大地震の同時発生、津波、崖崩れ、地割れ、大嵐、雷で、敵も味方も区別なく形の世界は壊滅する。議事堂への落雷は、型示しである。環境破壊や自然災害をただの自然現象の結果であると思ったら大間違いである。万象万物すべて神であり、真釣りならば、自然災害はただの一つも起こらず、この世の営みを停止させる気象条件は顕現しない。すべては自らの持つ響きを教える鏡である。真釣り戻しの総決戦の本戦場は、この世もあの世もごちゃ混ぜの霊界での総力戦であるから、最後は形の破壊や軍隊の戦争だけの話ではなくなる。

真釣りと魔釣りの総決戦、元つ真釣りの真中の「ヒノモト」から穢れた「魔釣りの知恵の蛇」を綺麗サッパリ追い出すための万古末代一度の本土決戦は、生死時空を超えた戦いであり、真釣りのヒノモトの勝利は決定済みである。米軍だろうと、多国籍軍だろうと、呪術軍団だろうと、相手にならない。最後は神と神の総決戦になることは、外国の民のほうがよく分かっているはずである。自らが、世界を立て直す天命を背負った真コトの神民であり、生死時空を超えた神力を顕現する霊魂であることを日本人が自覚することが真釣りの神力顕現の源である。抵抗する者は最後は全員玉砕となり、ヒノモトに無条件降伏した蛇だけが、神仏共々真釣りの世に導かれる。真コト、真釣りの神界の国家総動員令が発動されれば、蛇の響きは完全消滅の道に入ることになる。本当の第三次世界大戦はこれからである。それは、神幽現三千世界真釣り戻しの総決戦である。戦が終われば、三千世界からすべての穢れが祓われ、万古末代歓喜弥栄の本当の元つ神代の天国、ミロクが復活する。

これは、SFなどではない。今の世の宗教にある神の粛清の話と九分九厘同じであるが、それは真コトの一厘を見失った神々から見た終末世界であり、実際には、その神の為の天国も含めて粛清される、真コトの一厘が発動して、初めて成就する実話である。これが実話でなければ、悪は一掃されず、穢れは払えず、戦はなくならず、天国は永遠にやってこない。現代社会で学んだことはすべてのすべてが真実を隠す嘘であることを覚えておいて欲しい。この文そのものを疑う心があるなら、それも、その嘘を信じているからである。あなたが心底から逆さまに戻さない限り、堂々巡りの禅問答が続き、永遠の滅びを迎える。
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本当に力のある者は騒ぎ立てはしない。自らに力のない者ほど吠えるのである。魔コトで調教された犬(獣、今の世の神々と人類)がどんなに威嚇しようとも、真コトの飼い主(本当の「人」、真釣りの神々)はビビラない。犬の祖は狼、人の祖は大神、である。人間(飼い主、王、為政者、親、神)と犬(家畜、奴隷、民、子、人)という関係に、神と人間(霊と体、神界と現界、この世の有様)の姿が型示しされている。「霊主体属」になるか「体主霊属」になるか、神が人を治めるか人が神を治めるか、どちらになるかは、結ぶ心のあり方が決める。霊(魂)は元々澄みきっている。その魂を穢れのない心でそのまま体に現せば、ミロクが現われる。火が水を支え、水が火を現す。鍵になるのは土である。水はすべてを形にする型示しである。火土水の真中の土が穢れていれば、水はそのまま穢れを現す。水が火に、体が霊に、人が神に言挙げをすれば、それは、真釣り(霊主心従体属)の法則を破ることになる。天地の理法を破れば、末は滅びが待っている。真中のヒノモトが曇れば世界は滅ぶ。心がアヤマ知で雲っていれば、真コトの神世は永遠の幻となる。心の曇り(アヤマ知、嘘)を奇麗サッパリ祓うことが、本当の天国=ミロクを開く絶対条件である。

蛇と竜の型示しも同じこと。コブラとコブラ(力と力)の睨み合いは、永遠の平行線である。蛇の毒は竜には効かないから、本当の竜はコブラの威嚇を黙って見ている。蛇は何回脱皮しても竜にはなれず、どんなに虚勢を張ろうとも、絶対に竜には勝てない。最後は、自らの毒で自らを殺す末路となる。噴水はモーターを止めれば池に戻る。女が感情を武器にして支配するなら支えるハタラキはできない。音楽は「ベースパート」が支えなければ、落着かない曲となる。建物も、土台が砂ならば、水でどう固めようとも、最後は倒れてしまう。支え、土台がフニャフニャでは、腰が座らず、安定することはない。逆さまの神を目指して創った「バベルの塔」は、どんなに強固に頑丈に作り上げたとしても、真コトの神の一声で、一瞬にして崩壊するのである。今の科学や宗教の手法で、型示し自体をどう解明しようとも、本当の意味(真コト)は永遠の謎である。正竜(火=男=支えるハタラキ)を封印している限り、蛇と蛇、獣と獣、水と水、女と女、知恵と知恵、悪と悪、科学と科学、金と金、我と我、魔コトと魔コト、神と神がどんなに天国を競っても、すべてが泡と消える幻想の泥試合である。本当の竜の響きはずっとあるが、その本当の姿は、まだこの世に現われていない。従って、獣の響きの人類が竜を語ると、想像上の動物(獣)となり、水の神の化身の聖獣となる。しかし、人類の語る竜は、蛇の化かした姿に過ぎない。その竜を崇め奉れば奉るほど、水の響き(体主心従霊属の魔釣りの響き)が強くなり、どんどん真コトの火を消してしまう。滅びの響きを奏で続けた末に、すべてが幻と消える。
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真コトの一厘のない蛇がどんなに知恵を巡らせて生き残りを図ろうとも、真コトの智慧は得られず、最後は、自らの知恵で自らを滅ぼす。蛇が竜のフリ(水が火のフリ)をしても、真コトの竜の火が立てば、跡形もなく消えてしまう。逆立ちではいつまでも歩けない。本当の大地に足場を築かなければ、必ず倒れる。上下を間違えれば、すべてのすべてが九分九厘でひっくり返るのである。この世の型示しが何を意味するのか、その真意がわからなければ、足場をすべて失う。現代社会の土台が魔コトのアヤマ知で築かれているならば、すべてのすべてが崩壊するのは必至となる。本当の足場は、真釣りの真コトの響きである。自らが真コトの神社であり、宮司であり、祭神である。真コトの行いが本当の参拝である。

真釣りと魔釣りは裏表であり、全く逆さまのハタラキである。魔釣りの天国は自滅。生き延びたければ、自らの命の基にしている「蛇の火(アヤマ知、魔釣り)」を自ら自覚を持って奇麗サッパリ消すことである。もし、それをしないならば、しないあなただけが竜の火の元(竜のヒノモト)の響きとともに消滅し、万古末代永遠に、二度と生き返ることはない。今の日本は、魔釣りの知恵の魔力で去勢され、本当の父親としての自覚はないに等しい。去勢された父親からは、子供は生まれない。しかし、去勢したのは蛇である。真中の響きは絶対に去勢することはできず、真コトを取り戻せば、本当の真コトの父が復活することができる。蛇の知恵の神が天国を創ろうとして右往左往してきた、神々を含む人類の歴史。それは儚い幻想に過ぎない。ヒノモトが、竜の火の響きを世に現す御役である。従って、ヒノモト(の民)が元つ真釣りの真コトに戻れば、本当の天国が復活するのである。

まずは、あなたが真コトを思い出し、あなたの世界で真コトを貫き通すことである。真コトに戻らなければ、あなたは真コトの日本の再生には貢献できない。真コトの日本が甦らなければ、世界が真コトを知る機会は失われる。あなたの生き様がヒノモトの天命を果たすその礎となるのである。これからが本当の日本の出番である。元つ真釣りの大神様と正神真神の御霊統の神々が総出で支えるから、何も心配せずに、生死時空を超えた世の真釣り戻しの天命を果たしてもらいたい。神界の響きでは、本当の日本(神武天皇)が建国(復活)されている。それがこの世に型示しされることで、金と形と論理で世を進めた、水(形)に映して見せないと気づかない魔釣りの国が「本当の日本」を身を以って知ることになる。

真中の真コトの一厘を見失った魔釣りの身魂に真コトの一厘を入れれば、真釣りの身魂となる。知力の神は、自らの世が存続の危機になると、始めは抵抗するが、叶わないと思えば頭を下げる。現代社会の「利権を守る抵抗」はその型示しである。型に出た時は、響きの世界はもうできているから、現われた素型を壊しても無駄である。正神真神のハラの響きは真釣り、知恵の火の神のアタマの響きは魔釣りであるから、最後の大掃除=ハラとアタマの戦さでは、魔釣りの宗教とアヤマ知で創られた金と科学の力(外国)は、真釣りの真コトの力(日本)には絶対に叶わない。日本が必ず勝つ戦である。日本に服従すれば、世界がすべて勝つ戦である。本当に平和で自由な世界を創る本当の戦い。真釣りの真コトを復活することが、万象万物が万古末代弥栄える、時空生死を超えた永遠の天国の礎となることを、日本人一人一人が心底自覚して欲しい。天皇も含めた日本人一人一人の、各自の大掃除が真先である。次に日本の、そして世界の大掃除。本当のハルマゲドンが始まる。
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この世にミロクを復活させる、三千世界を統べ真釣る、本当の世界統合のミッション。真釣りが国際法、真コトが世界標準、真道が世界宗教(集教)となる、光を一つ上げた世界平和への世界政府の立ち上げである。それは、人類の願いであると同時に、天地創世以来、時節至る今日まで昼も夜もなく、真コトがあることを魔釣り世に知らせるために、艱難辛苦の裏舞台で真釣り統べるハタラキの響きを奏で続けてきた元つ大神様の切なる願いでもある。敬語を使ったり、形だけの儀式をしたりしても意味がない。時空を超えた身魂の大掃除には生も死もない。皇居が世界の王宮になり、天皇が本当のスメラミコトに戻るとき、この世にミロクが成就する、この本は、その戦略書、計画書、本当の神のバイブルである。

これが、人類が望んできた本当の天国が実現する(今まで実現しなかった)メカニズム、天国創造の秘密である。時節が至り、真釣りの響きが復活する。真釣りの世に戻す、神幽現総動員の生死時空を超えた真の天地創世、ビッグバンが形になる時が来た。手始めは真中の日本からである。何があっても絶対に真コトを貫くこと、奥義はそれだけである。神と共に真釣り戻しの天命を果たして、何も知らない蛇を改心させ、子である世界に本当の神の恩恵、親の力を見せ、子供たちに天国をプレゼントしようではないか。まずはあなたからである。日本が本当に目を覚ました時、本当の神風が吹き、外国が特攻隊で自爆する。

本当のテロリストは現界には存在しない。正義とテロの本当の戦争は、魔釣りの響きを真釣りに戻す神仕組みの裏の世界に存在する。魔釣り自体が、真釣り世から見たテロリストであり、最後には、根絶される運命にあることを知らない。真釣り世は、すでに九分九厘まで破壊され、ヒノモトは魔釣りに占領されている。魔釣りの現代社会から見た神世のテロリストは一厘の真コトを持つ本当の救世主である。形の上の侵略やテロや巨大地震など問題にならず、形のミサイルや、火山の噴火に気を取られているととんでもない事態になる。三発目の原爆は、元つ真釣りの大神が起爆する、すべての身魂のハラにセット済みの次元爆弾である。神幽現の魔釣りの響きを一瞬にして灰(廃、YES、壊)にする、すべての穢れを祓い清める、すべての蛇の響きを焼き尽くす真コトの火、生死時空を超えた元つ真釣りの真コトの響き(神界元縛)である。現代社会の日本人どころか、幽界の神仏すら被爆から逃れることは不可能である。魔釣りの響きを持つ身魂には絶対に見えない、突然姿を現すステルス爆弾、魔釣り世自体に現われる初めての真コト、蛇の響きを持つすべての身魂を無条件降伏させる元つ神世の元始爆弾である。現代社会のすべてを一瞬にして崩壊させる、迎撃不可能のミサイルである。迎撃を企んでも、火山の溶岩に水滴を投げ込む如くに、何の効果もない。日本列島の裏の神世が爆心地であり、魔釣りの響きが強いほど、威力が増す、響きに完全感応する爆弾であり、最大の「被爆地」は、日本国となる。それは、自らが自らを祓い清める御神火であり、真火の洗礼なくして、真釣り戻しは始まらない。
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世界征服を企む黒幕が使う道具はアヤマ知という知恵と、アメとムチを使ったマインドコントロールである。神を金に置き換えて、すべての資源を金で支配し、自らにすべての金が集まるような巧妙なカラクリですべてを仕組む。金がなければ生きられない世界と為し、金融システムという、金が金を産む仕組みを考え出して、物で金を増やす商業システムを動かし、世界経済を丸ごと操って、金集めに奔走させる。その結果の収益を税金システムで吸い上げて自らの生活の糧にする黒幕。その税金から生活費をもらう生活保護、皇室費という生活保障で生きる天皇。世界が戦乱に明け暮れる歴史の何千年もの間、外国の侵略を受けなかった神国。神の国だと言えば、一斉に非難が上がる、初詣好きの葬式仏教国家。政教分離と宗教排除の科学教育大国。アメリカの押し付けだという詭弁を使い、軍隊を持たないと宣言した憲法を創っておいて、自衛隊と呼ぶ侵略できない軍隊を持つ軍事大国。弱肉強食のケモノの響きの戦いの世界で、形だけの平和国家を標榜する、矛盾と嘘と誤魔化しだらけの、現代社会の中の日本国。今の地球世界は蛇の知恵の神が源であり、神から人へと歴史を進めた末の現代社会の正体は、真釣り外しのアヤマ知で創られた獣の響きの弱肉強食の世界である。神を捨てて金を信奉する科学ボケ国家は、国際社会のご機嫌取りしか頭になく、自国の存亡を左右する石油利権を守るために世界を奔走する。大神を忘れた親国に、中東紛争の真因を知ることなどできず、神同士の紛争の真意を取れるはずもない。

資源を金で買い、西洋が血を流して勝ち取った思想や苦労して作った制度やシステムの実(経済戦略、学問の研究成果)を横取りして国を発展させ、文明の道具を改良して逆輸出で儲け、四季の風景、流水、ミニフィヨルドのリアス式海岸、砂丘、温泉、サンゴ礁、湧き水、森林等々自国の自然を好き放題に使い、親潮と黒潮がぶつかる海に囲まれた豊富な海洋資源を与えられながら、確実に儲かるように養殖に精を出す。養殖、飼育、ハウス栽培の研究に命を賭けた末に奇病の蔓延で食の安全に赤信号を灯す。肉食文化を謳歌して癌で体を蝕み、医学の発展に寄与して自ら難病を呼び込んでおいて損害賠償で争う。魔釣りという神代以来の霊の肉食で、日本の国体は末期癌状態であり、霊界で改心して生まれ変わるしか手はないのに、いまだに魔釣りのアヤマ知の科学に体の修繕の望みを託す。自らは血を流さず、痛い目にもあわずに、真コトを知らない子どもの作った魔釣りの快楽を形だけの世界で享受する、金のことしか考えない神の国。自らが天恵を奪ったことで産まれた貧困国に金を渡して、喜ばれたと喜んでいる、偽の平和に酔う痴呆国家。他人の気持ちを考える優しさと礼儀が看板だが、いよいよぶち切れたら攻撃性は世界一の、金だけが武器となった善の仮面を被った史上最大のテロ国家。神響きと神力を自ら封じ込めて神と神の戦争に無力になってしまった元つ真釣りの鎮まる親国。マボロシの天国を享受して、自らが世界の不幸の種を蒔いている本当の元凶であることに全く気づかない盲目国家。これが世界の雛型である日本の魔姿である。日本の真姿である、元つ真釣りの真コトの国を形に表すご苦労をすることがヒノモトの天命であり、それが同時に世界混迷の罪滅ぼしとなる。世界の父親のヒノモトが自らの責任を自覚し、責任を取らなければ、世界は丸潰れである。
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元つ真釣りの大神を闇に葬り、自らの天命をサボって、親自らが世界を滅ぼす穢れの種をばら蒔いて、世の魔釣りに手を貸す。金融システムで集めた金を使って、石油を、ガスを、鉱物を、木材を、水を、肉を、果物を、宝石を自国に集め、快適(怪適)な暮らしを享受する。金に物を言わせて安い賃金で外国に物を作らせ、高い物価の差額で儲けた金で、さらに天恵を買いあさる。天恵を持つのに自国では使えず、金と引き換えに天恵を奪われる貧しい国々には、アヤマ知の思想で援助をして利子をとり、感謝させて国際社会での株をあげる。米軍という警備隊を雇って平和と安全を買い、自らの祖の天皇を闇に葬り、初詣、ひな祭り、端午の節句、お盆、クリスマス、世界中の宗教行事を形だけ真似をして楽しむ、形だけの信仰心。食材を他国に作らせて世界中の食べ物を食べ漁り、芸術、文化、スポーツ、レジャー、祭り、清潔、安全、安心、快適、便利云々と、汚泥混濁の世界で清く正しい綺麗な国であることを世界に誇り、汚れは他人に押付け、金の世界で快楽を享受する。国の隅々まで教育を行き渡らせて最高水準の識字率を達成し、宗教を殺して神話を空想となして科学技術の普及を加速し、魔釣りの仕組みで真釣りの自然を使って、便利快適な世を進め、本来は存在できない幻想の世界で、世界一の安全、快適な国を作り上げてしまった。

移民を締め出して単一民族の血統を守り、世界に産みの苦労を押付けて、自国の生き様が産んだ貧しい国には援助で誤魔化す。侵略の罪滅ぼしに原住民の文化振興の名目で金を配る。元の神国が、本当の神どころか、宗教の本質も忘れ、ついに無知となって、世界中の宗教を見境なく集めて、形だけ思いやっているフリをする。自らの生き様が世界の紛争の根源であることを忘れ、平和というアヤマ知で憲法を作り、その憲法に反するからという理由で、血を流さない国際貢献で自らの立場を守り、名で実だけを享受する。ハラに真コトがないどころか、自らの立場と安全と経済の維持しか考えない日本国は、善人の顔をしたライオンハートが国を動かし、アメリカを利用して大国にのし上がる食わせ者のポチ、獣の世界の快楽の独り占めを企む、ハラを魔コトで穢したハラ黒い策略国家である。飼い主の米国が破滅した時、日本国という他給自足の文明国の行く末は、自己崩壊である。自らを生かす主人(親、神)に歯向かい、主人を殺せば、残された道は集団自決しかない。

自らの立場と正しさ、普通さ、世間体にこだわる今の日本。金に成らない、地道な努力がいる基礎研究や、その過程では半ば狂人扱いされる発明や発見は子に任せ、その成果だけを横取りして効率的に商品化し、その成果を逆輸入して儲ける。子に苦労させて、親の自らは子のあがりで快楽を享受する。魔釣り世で快楽を享受することが何を意味するのか知らず、災害が起きれば助け合いの見本を示し、事件が起きれば犯人を非難して自らの精錬潔白を主張し、略奪と侵略の弱肉強食の獣の世界で平和憲法を自慢にし、自らは誰も殺さず、自らは殺されないように守って「神様」を演じる、神亡き神の国。子(外国)は、金を出す財布くらいにしか考えていないことを見て見ぬフリをして精一杯の先進国を演じる。混迷の原因が自らの真釣り外しにあることを奇麗サッパリ忘れ、『日本は関係ない』と言う。先進国は先震国、先死む国。挙げればきりがないが、結局は、良親のフリをした悪親なのである。親自らが真コトの見本を生きなければ、子は何も知らずにイサカイを深めて滅ぶ。
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神から人まで、世界の父親として世界を支える苦労の役目をサボって楽をし、子を甘やかし、お友達になり、好き放題させて、子供の苦労を奪って進歩発展を享受してきた今の日本国に真コト真釣りの神が現われたらどうなるか。「八百万の」神々、臣民共に、これからが本当の地獄の始まりである。雛型を直せばすべて直る。世界の再生は、雛型である日本の大掃除からである。21世紀に入って様々な矛盾が表面化し、様々な「神話」の崩壊が誰にも見えて、初めて大騒ぎする。人に任せて苦が来れば文句を言う、訴える、苦情を言う。子の育て方がわからない、自らでは何も考えられない親。日本は一体何をしているのか。言われなくても自らの行いを省みて、おかしい所を率先して直す。一を言われる前から十わかるのが、本当の神の神民である。真コトを取り戻し、本当の親に戻って欲しい。

世界の父親は一体どこにいるのか。子に苦労を背負わせ、自らの魔釣りの快欲を満たすために、魔釣りの思想を広め、自らその実を享受する。父親が子の真似をしたらうまくいくのは当たり前である。子供のマ違いを正すどころか、子に好き放題をさせ、子のマ違いを利用して、至福を肥やすとんでもない父親である。父親(スメラ、日本)が真コトを示し、母親(ユダヤ)を真コトの乳(栄養、響き、思想)の出る母親に改心させて、その母親が父親を認めることで、母親の言うことしか
聞かなくなった子供たちを改心させることが、家庭(世界)の立て直しの唯一の方法である。文字通りの「家庭」から国家、国際社会、神々の世界まで、すべてが同じ仕組みである。世の乱れの大元は、ヒノモトの真釣り外しであるから、世界を立て直すためのその基は、すべての源である、ヒノモトの神民一人一人の真コトの改心である。真釣りで魔釣りを真釣り和し、世界の穢れを奇麗に祓うことで、元のミロクの復活の礎ができるのである。神社は綺麗に掃き清められて、初めて神の鎮まる社となる。元つ大神は穢れ一つない国土に降りる。真コトなきところに、真コトの神は降りない。まずは、ヒノモトの掃き清め、ヒノモト神民の身魂の穢れ祓いからである。そのためには、魔コトで穢れた日本人を真コトの響きで逆洗脳することが必要となる。蛇の知恵の響きを綺麗サッパリ消し去って、自らの内に巣食っている魔釣りのアヤマ知を綺麗に大掃除し、魔コトで汚れた身魂の大洗濯をして、真中の一厘の真コトを救うことである。
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外国は、真コトを知らない知恵の蛇の神の末裔であるから、自らは正しいと思ってやっている。父親が仕事をサボれば、母親は子供に甘くなって、『いいよいいよ』で秩序を乱し、家族それぞれが好き放題に振舞えば、家庭は必ず崩壊する。現代日本の家庭崩壊は型示しである。現代日本の家族や親子の問題、中央と地方のイサカイの真因、学校の、食の、政治の、経済の、社会の、心の、すべてのすべての崩壊の原因はただの一つである。世界を統べる仕組みの大元は日本にある。元つ真釣りのミロクに戻す経綸の最後の仕上げは、親国であるヒノモトから始まる。文句は自らを滅びへ誘う言霊。すべてのすべてが鏡であり、自己決定、自己責任、自己判決である。この本は、真父がガツンとやって教えなければ働こうとしない本当にだらしない「父親」に向けた、本当の国祖が語る真話のコピーである。

世界最大の真釣り外し国家は、真釣りの源の日本である。子の苦労を奪い取り、自らの責任は取らず、子供と同レベルで遊ぶ。真釣りの元を持ちながら真コトを曇らせ、魔釣りの成果を使って魔釣りの快適、進歩、発展、文明を享受し、ブランド品を買いあさり、子供にテレビゲームをはやらせ、自らは魔釣りの天国をしっかり握っているから、世の混乱を裏でリードしていることにも気づかない。元つ真釣りの神仕組みを奇麗サッパリ忘れ去って、自らに世の乱れの根源があるとは露知らず、子供たちと一緒になって、自らの精錬潔白を証明しようとし、弱者の支援や援助で子供の世界で人気取りをする。挙句には、国連という子供の世界政府の常任理事国の椅子を欲しがる。民主化の潮流の中で、日本が援助している「途上国」、共産党一党独裁の中国がなぜ常任理事国に入っているのか。それは、中国が、経済システムの中で支配を企む企業家の有望市場であり、数の力の脅威を感じる欧米国家の戦略上の理由に過ぎない。援助を受けている国が、返済するどころか他の国に金を貸し、台湾の独立を阻止しようとする。世界の親国がそれを黙って見ているのはどういうことなのか。国際社会を思いやっているようで、結局は、自国の国益しか考えていない。まさに、米国のコピーそのものである。世界の姿は、日本の姿の鏡であり、誰が見ても自分勝手な米国は、日本のように仮面を付けず、心のままに振舞っているだけ愛らしい。

日本は、米国以上に手前勝手な陰険な隠れ独裁国家である。魔釣りのアヤマ知の快楽を追い求めることに躍起になり、裏舞台などに興味はない国民。表の舞台では善人を装って「いい国」を演じているが、裏では、国民に隠れてノラリクラリとしたたかに外交を進める政府。腹鼓は叩くが、自ら進んでは何もせず、うまく化けたつもりで尻尾を隠せない狸。知恵は使うが、詰が甘い中途半端な曖昧な振る舞いで世界の信用を得られない狐。ジキル(自キル=自kill=自殺)とハイド(廃土)を巧妙に使い分ける究極の二重人格(どちらも結局は自滅する人格)国家である。日本あって外国あり、神あって人あり。すべてはヒノモトの真釣り外しから始まったのである。子の意見を鵜呑みにし、形でしか物事の正否を判断せず、「金」の世の崩壊の見本を演じ、子にあてにされなくなった駄目オヤジ。略奪の戦争の世界で、自らだけは殺し合いをしない平和国家だと自慢してきたが、結局は、子の策略で戦場に引っ張り出される騙しやすい父親。殺戮をリードし、世界を滅亡に導く史上最大のテロリストである自らの魔姿が全く見えていない。大神の目で見れば、子のレベル以下の父親なのである。子の世で餓鬼大将になろうとする茶番をいつまで続けるのか。心の荒廃、身魂の乱れは人類史上一であり、解決不能の問題が次々に表面化し、表のカモフラージュは限界である。心の奥底に隠し持った身欲の響きを封じ込める我慢はもう極限まで達している。時を追う毎に、政府と国民、国民同士の殺し合いが激しくなっていく、制御不能の爆発は時間の問題である。裏の響きが表にすべて現われた時、日本の姿は見るも無残な酷い醜い有様となる。真釣り戻しの過程では避けては通れないことであるが、今ここから父親としての自覚を取り戻し、外国を責める前に自らの立ち振る舞いを正すことである。
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自らで目隠しをしていることにも気つかない、痴呆の視覚障害者の父親を演じている限り、本当の家庭の平和は永遠の夢と消えてしまう。世界の本当の命運、永遠の存亡がかかっている重大な時節に、今の日本の態度たるや、何たるだらしなさ。国内の乱れの原因すらわからず、制裁、処分、裁判という子供が考えたやり方で解決することしかできない親神の国。世界の立て直しの最後のカードは、親国の親神が草薙の剣を渡し、直々に改心させる、真コト顕現の荒治療である。親の自覚なき親は、それなりの試練が待っていることをここではっきりとハラに据えて、本当の神の大掃除に備えることである。親が改心しなければ、子は何も知らないまま滅ぶことになる。自ら呼び込んだ蛇の響きで乱した真コトを復活することは並大抵の試練では済まない。日本はもう潰れたと思われるほどに酷い有様になることを覚悟しておくことである。真コト無き所には、真コトの神は降りないのである。真コトの神のご神体に真コトの神が降臨した時が、本当の世界の立て直しが始まる時である。

魔釣りの国際社会とヒノモトの関係の魔姿が、日本人の思考、行動パターンにすべて現われている。自ら考えることがでず、欲望のままに快楽を追い求め、便利快適だけを嗅ぎ回る。一人一人が「魂を王とする肉体の国」であり、本来は、家族と言えども侵略できないが、儒教の教えを都合よく使って、目上の親の権利を主張する。『やめなさい』『駄目だ』『やりなさい』『させてくれ』『してあげる』の相互依存の支配合戦を繰り返す。自らに都合がよいとなれば、宗教や科学の研究成果を横取りして、快適を叶える機械やシステムを作る。設計開発は子供にまかせ、その成果だけもらって、実用化して売りさばき、快適を楽しむ。思いやりや優しさ、他人(世界)の気持ちを考える「偽善行為」をすることしか頭になく、善意を普及教育して尊敬を集める方策しか考えない。表面上は善国を演じ、裏では、神の資源と子の成果を奪って快適世界を享受する。魔釣りの末の国際社会で尊敬を集めることと生き残りの戦略しか頭になく、子と競争して勝った負けたと一喜一憂する親国。人類史の闇の闇に葬られた真コトを忘れ、何のために生きているかもわからず、手っ取り早く形の天国を追いかける。目先の快楽だけを追い求めた末に国家崩壊の危機が迫る。
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この世は何のために存在する世なのか。現代社会は分かつ知のアヤマ知の世であるから、その○●の世界で、○を追いかけても天国は生きられない。世界の父親であるヒノモトがそのことを忘れ、子どもと売買競争をする。自らは血を流さずに、金と口と手を出して、他人が作った成果を横領する。神々の世界から永きに渡って続く、歴史を通して世界を破滅に導いている世界の最大の隠れテロ国家は、魔釣りに曇った日本である。風水、アロマ、ダイエット、栄養、映画、スポーツ、携帯電話、インターネット、癒し、環境、介護、生涯学習等々の、現代社会の●を○にするすべての企業は、間違いなく、蛇に貢献しているのである。日本はなぜ基礎研究が弱いのか。なぜ輸入に頼るのか。¥が縁の切れ目。逆さまの歴史を進むほど何もできなくなり、外に頼り、押付ける。何か問題が起きれば、西洋の真似だから自分達には解決できないと外国の解決法を輸入する。人類一家兄弟の思想に基づく団体の名誉総裁、施設訪問、王室交流等々、慈善に命を賭け、学を究め、臣民の税金でVIP暮らしをし、真コトがあるならできないことを、平然とやる。初代神武即位の真相、真コトを忘れた皇室は操り人形であり、実は最強の魔コトの王である。本当のあなたと他人(世界)との関係がすべてに現われている。まずは一人一人の大掃除からである。

国際社会という、我が子の混迷の責任は、すべて親(日本)が引き受けることになる。親が子に騙されてやったと言っても、その責任は逃れられない。真釣りを世界に現す役のヒノモトが魔釣りに囚われて、真釣りを闇に葬れば、「魔釣り=正」であると世界に教えることになり、その結果、世界は好き放題、乱れ放題の世となる。今世を見れば、天つ神がどんな神かは明白である。ヒノモトを守護する神々が快欲に囚われて、魔釣りの経綸を操る身魂が「天孫」を自称して、天津神としてヒノモトに降臨してもその正体に気づかず、その神々を天孫として丁重にお迎えした。これが天孫降臨の真相である。仏教の渡来、文明開化、GHQも同じ型示しである。魔釣りの天孫である限り、八百万の正体は魔釣りの神々であり、今の世の天孫降臨は真釣り外しとなる。真釣りから見れば、それは天地の理法を破る大大罪である。神々が年に一度馬に乗って出雲大社に集まり、合議をして日本のあり方を決めるという。そんなことを本当に信じているのか。それが真実なら、現代日本の混迷は、一体どういうことなのか。神々は何をしていたのか。八百万の神々の合議を繰り返しても、本当の神国は永遠に作れない。これは正に、国会や国連の仕組みそのものである。

天孫のこの神々を租と仰ぎみているのが現在の皇室であり、神道と日本国の歴史の基である「古事記」と「日本書紀」は、魔釣りの支配に都合がよいように、明らかに書き換えられていることに気づかねばならない。記紀が、旧約と新約の聖書と兄弟書物であるのは、偶然などではなく、改ざんした組織が同じなのである。真実を記した原典に当たるのが「日月神示」であるが、これは記紀とは別の流れの預言であり、黙示録の千年王国自体が悪魔の世としてもう一段の粛清がなされることになっている。真釣りの真コトどころか今の神道の本質や歴史すら知らず、現世利益を求めてあり難いあり難いと仏魔に帰依し、定期便のように民族大移動をし、毎年神社に参詣するだけの大衆が全くの盲目なのは必然である。真コトを世に知らすべきヒノモトが天皇から大衆まで真コトを知らないとしたら、世界の滅びは時間の問題となる。大神が大掃除を終えればミロク世は来るが、真釣り外して快欲に溺れる日本と世界には、言語を絶する艱難辛苦、慙愧慟哭の現実が待っているのである。
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現代社会に至る神と人の歴史は、真釣りを外したアヤマ知の有限の世界で繰り広げられた魔釣りの神の天国創造の物語である。産まれ出たその時から「有」の世界に囲まれていれば、快を得るために、そこにあるものを使って天国を作ろうとする。「有る物」を使って「得」しようとすれば、その場から「略奪の世界」となる。その世界にお金という商品を導入して、その発行権を独占すれば、金の世界で神になれる。無から産み出せない者同士の「有の奪い合いの世界」は、最後は使えるものがなくなる。「金」が支配する世は必ず崩壊する。

マニュアルで生きるのは簡単であるが、自由にはならない。自ら考えて生きるのは困難だが、自由になる。今の世で言う苦労とは、自然に抵抗しているゆえに感じる苦の響きである。苦労するほど真釣りを外す、メグリを積んで滅びに向かう苦業である。真釣りに苦はないから、自らの苦労を語る者ほど、苦労したと騒ぐほど、真釣り外しの自覚なき振る舞いとなる。本当の苦労とは、今の人間が言う苦労ではなく、無から産み出す苦労のことである。元つ大神が無から産むのを止めれば、略奪者はその場で息の根が止まる。経済も科学も宗教も、真釣り外した世の道具である。魔釣りの道具は、真釣りを外したゆえに現れた苦(悪、闇)を楽(善、光)に変えるために作られたものである。真釣り外した響きの結果である形の●を形で○にするのが魔釣りの道具である。全くの逆さまであるから、魔釣りの道具で、真釣りに戻すことはできない。真釣り外しの型示しである病気を形で治すための医学で、病気になる前の肉体に戻すことはできない。大神を闇に葬ったがゆえに生み出した中つ世の神に縋っても大神の世には戻れない。『どっちが』という分裂の響きで、一つの響きの世界に戻ることは不可能である。分裂の響きは、一つの響きが源であるから、源を分裂させた響きで源に帰ることはできない。天国を壊したやり方で天国を作ろうとする自己矛盾を解消しなければ、真釣りに戻れない。『闇から始まった世が天国になる』としたら、真釣りが全くアベコベだとしたら、『光から始まった世が闇になる』ことを意味する。実際は、闇から始まった世は闇に戻り、光を消した闇の光が闇に戻れば、光が復活する。

人類が目指している天国は、真釣りを外す前の真釣りの天国の響きである。自らが真釣りを外していることに気づかなければ、今のまま天国を目指しても、最後は魔釣りの滅びに行き着く。魔釣りの世で言う天国は、未来にあるのではなく、過去にあるのである。正確に言えば、始めも終わりもない天国を、魔釣りの響きが作り出す時間と空間と言う分裂した響きが未来にあるように見せているのである。実際には、過去も未来もなく、天国も滅びもない。魔釣りの思考を綺麗サッパリ消し去ることが、魔釣りの天国を捨てることが、本当の天国を体験する唯一の術である。魔釣りの響きの作り出す天国は幻想だったのである。
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真釣り外し=魔釣りであるから、魔釣りを捨て去らない限り、絶対に真釣りには戻れない。宗教でも金でも学でも知恵でも越えられないのが、元つ真釣りのミロク世を復する大神の、魔釣りの響きを消す(穢れをすべて清める、雲をすべて祓う)三歳苦難の大掃除なのである。真釣りを隠す魔釣りを実体と思っていれば、魔釣りと共に消滅し、真釣りの世に生きることは絶対にできない。素直に考えてみれば、これは宗教などではなく、現実創造の物理である。霊心物は、元々一つであるから、結局は、「物理=心理=神理」=真理、つまり、元は一つの理なのである。真釣りから始まったものは、最後には、すべて真釣りに戻る。

元つ大神は、真釣るご苦労を知らない(無から産んだことの無い)神々を含む人民が、快欲の響きに囚われることは分かっていた。快欲の響きは一度囚われたら、自らで離れることはできない。そのままならば、滅びの響きを奏で続けるだけであるから、魔釣りに囚われた神々と人民を真釣りに誘うため、真コトの一厘を岩戸の外に隠して「情けと花の仕組み」が構えられた。自ら見失った真コトを自らが取り戻すご苦労に耐えなければ、真コト真釣りの神の世は生きられない。快欲の響きを壊し、真コトに戻す、立て替え立て直しの仕組みがなければ、世は滅ぶ。どうあっても自らで取らなければならない一厘である。自らで真コトの一厘を取らせるため、ナミが死を持って難儀な御役を引き受け、スメラ(立て直しの真釣り)とユダヤ(立て替えの魔釣り)の二民を降ろし、二つに分かつ知、知恵の神を産み成した。火の神を産んで死んでイザナミの黄泉の国行きとして語られる出来事は、実は、一度目の岩戸閉め、情けと花の仕組みの初めての情けの発動なのである。十(神)去られまして(情けと花の仕組みを進める)二神を残し置かれ、十真釣り閉じ去られまして(スメラとユダヤ)の二民を残し置かれ、十真釣りと引き換えに二つに分かつ知を残し置かれ、知恵の神を産んだ。これが、ユダヤ十二部族の「失われた十部族」の型示しの本当の意味である。十部族の血統の流れを追いかけても、その十部族は絶対に見つからない。

現われの水の世界に形を探すことが、真釣り外した証である。これは、スメラもユダヤも囚われているマ違いであり、魔釣りを操る神自身が囚われていることを知らないのである。魔釣りの世を統べる勢力が自らが滅ぶことを知らないならば、世の滅びは必至である。本来は、世は真釣りのみであり、闇も苦も悪もない、万古末代弥栄の何の問題もない天国である。魔釣りは、真釣り戻すための期間限定の響き、時至れば消える仮の世である。真コトの一厘を見失った、魔釣りの世を統べる神自身がアヤマ知に囚われていれば、ミロクは絶対に叶わない。そのまま進むならば、滅びは必然であることは分かるはずである。自らが真コトの一厘を知らないとしたら、あなたも、この仕組み通りに、必ず滅ぶことになる。

ヒノモトに快欲の逆十字(体主心従霊属)の響きが鳴り渡ってきたのは二千数百年前のことである。そして、魔釣りの経綸を操る身魂がヒノモトに降臨することになる。その身魂、真釣り外しの「天孫」の神々に国つ神が国譲りをし、天孫の神々は都合よく古紀を改ざんして自らの正体を隠した。自らの身魂の来歴を知らず、自ら「天孫」を自称し、ヒノモトの祖に居座ったのである。大神は、情けをかけるために天地の岩戸を閉めたが、ヒノモトを守護する神々は、真コトを見失って快欲に囚われているから、真釣り外しはさらに進み、世は乱れた。いよいよとなって、自らが人皇を名乗らなければ混乱に治まりがつかなくなったため、正神真神の御霊統のカムヤマトイワレヒコノミコトが初代「神武」天皇として即位した。その後は人皇の世に移行するが、神武の正体を知らないヒノモトの神と人民は、大神の真意がわからず、さらに魔釣りを進めていく。「神武天皇」は実在する神であり、正神真神の霊統の真釣りの神である。神世の歴史を岩戸の外に隠して「人皇」として即位したということは、神の世が空想の世になったことを意味するから、大きな岩戸閉めとなる。
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真釣りを外すことを「岩戸閉め」と言う。細かい岩戸閉めは数知れない。今でいう神武東征は、真釣り外した歴史の上での物語である。神武天皇が、歴史年表で「?」になっているのは改ざんされた古紀の上での話である。正真真神である神武天皇の正体を知らせることは、天津神にとっては都合が悪いことになるが、天津神はアヤマ知に囚われているから、その正体は知らない。だからこそ、皇室の祖として居座れるのである。真釣りの真コトを知らない天つ神から始まる今の日本の神話は嘘の歴史である。神武即位の岩戸閉めの後、仏教の伝来を持って、大きな岩戸がすべて閉められた。それからは、汚泥混濁の暗闇の乱れ放題好き放題の世界、ヒノモトと外国が逆さまとなった歴史が繰り広げられていくことになる。天皇自身が仏門に帰依し、武士の世となり、西洋文明の機械の世となり、金の世となり、たどり着いた世界が、日本が米国を親にしている現代社会である。岩戸を閉め続けた末の今の「日本国」は、九分九厘の岩戸が閉められた、神が消えた世界となっている。日本に残る一厘の真コトと大神が共鳴した時、日本に何が起きるか、考えてみるとよい。

今度の大掃除では、すべての岩戸が開けられる。今のヒノモトで岩戸がすべて開けられたらどんな事態になるのか、考えてみて欲しい。ナギナミの世から今の今まですべてが逆さまなのである。嘘の神の歴史すら、ただの神話として封印した現代日本は、神から人まで、魔釣りの神の牛耳る国となっているのである。皇室は万世一系ではない。それは人皇の世での血統の話であって、現代社会は、日本の真コトの姿からは程遠い世となっている。ヒノモトの真釣りというのは神幽現、三千世界を貫く万世一如の真コトである。今の神話で言う「アマテラス」「スサノオ」はイザナギ一柱で産んだ中つ世の神であり、片ハタラキの神であり、真神ではない。正神真神とは、火水を正しく組み組んだ真コトのハタラキをなさる神々のことである。元つ世の大神が「神真釣り」で産み成された、情けと花の経綸を直接進め参らせる御役の天の「アマテラスオオカミ」、他の「カムスサナルノオオカミ」とは違うのが道理である。中つ神と元つ神をごっちゃにしていることが、天地を混ぜこぜにして、天は一つと思い込んでいる、魔釣りに囚われた今の人民の型示しである。岩戸が開けば、自らの響きがそのまま自らに返ることになるから、大神の大掃除が始まれば、天地混ぜこぜの阿鼻叫喚の修羅の地獄の現実を体験することになる。表面上は、慈悲や平等や思いやり云々を語る、「美しい」「便利」な世に見える現代社会が、実際には、嘘と誤魔化しと策謀が渦巻く神々の世界の映しであるとしたら、魔釣りの日本国の運命はどうなるのか。神を消した人民が、天国など作れるはずはない。真釣り外した人民に神の世を任せた(公共事業を民間に委託した)結果が、現代社会であり、それこそ、空想物語りの極致である。
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大神は、真釣り外すのを承知の上で、自ら真釣りを戻せるように「情けと花の仕組み」を構えて、天地創生以来、裏の裏の裏で支えてきた。時節が来れば、すべてのすべてを真釣り戻すことになる。自らの真釣り外しに気がつかず、魔釣りの経綸の仕組みある蛇のアヤマ知に囚われて、世界に穢れをばら蒔いた父親(ヒノモト)の改心は並大抵の地獄では済まない。ここまで教えてもまだ改心しないとなれば、大神は鬼となる。大神を鬼にしたのは、魔釣りに囚われた自らであることを肝に銘じておくことである。真釣りという、天地自然の神の掟を破ったその責任は、キッチリ取らされることになる。天地の理法を外している限りは、たとえ我が子といえども涙を呑んで成敗することになる親神の心底の無念を知ったなら、今この場で心底改心することである。イシヤの仕組みに騙されて、大神を闇の闇の闇に葬って、九分九厘まで取り違いの世を進めた真中のヒノモトの責は重大である。日本国の運命は、すなわち、日本国に足場を置くあなたの運命でもある。いつまでも、魔釣りのイシヤの仕組みに騙されていないで、自らの運命の最期を、真剣に考えてみるとよい。

ヒノモトの真釣りを教えなければ、子である世界は真釣りを知ることはできない。この元つ神仕組みを外しては、世界の立て直しどころか、世の破滅である。真釣りを知らない「米国」にしっぽを振り続けるポチをやめなければ、世は滅ぶ。本当は、ヒノモトが飼い主で、世界がポチなのである。真釣りの飼い主が犬を躾れば、どこにも問題は生じない。犬は何の心配もなく、嬉し楽しで生きられる。飼い主が犬の言いなりになって自ら真釣りを外せば、好き放題に世を乱す。真釣りと魔釣りの型示しの飼い主と犬、親と子、教師と生徒、日本と世界、神と人を「平等にした」結末が現代社会である。四つ足の獣の響きを食べた自らが、生死時空を超えて成した今までのすべての過ちの責任は、自らで取ることになる。

後先も考えず、欲望のままに歴史を進めてきたツケは甚大である。飼い犬のした行状は飼い主の責任であることは誰もが納得していることである。早急に首輪をかけかえて、今まで垂れ流した飼い犬の糞尿(世の乱れ)の始末をしなければ、元つ真釣りの大神の魔釣りの世の大掃除で成敗される運命が待っている。生死時空を超えた祓い清めの意味をシッカリとハラに据えて、この先の自らの態度を決めることである。いい加減な気持ちでは真釣りには戻れない。今度の大掃除は、真釣りを外す勢力と元つ真釣りの大神が元つ仕組みで対峙する、元つ真釣りのミロクに結ぶ、学力と神力(アタマとハラ、蛇と竜)の最後の戦(本当のハルマゲドン)である。真コト無きものは、いかなる神仏であろうとも一柱たりとも残さない、すべてのすべてを真釣りに戻す、万古末代二度とない、一度コッキリの大峠である。自らの永遠の生死が決まる、本当に本当の生死時空を超えた祓い清めなのである。
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親が改心しなければ、子を正しく導くことはできない。親が子を甘やかせば、子は好き勝手をして世を乱す親となって、その子も、そのまた子も、同じ事をやり続ける。歴史が進むほど益々混迷しているのは人類の歴史を見れば誰でもわかる。親と子、教師と生徒、教祖と信者、日本と世界、神と人、すべてが同じ仕組みであり、なぜ世が乱れているのか、なぜ問題が解決しないのか、その理由はもはや明白である。真中がすべての世界を統べる基であり、真中に蛇が座しているか、竜が座しているか、で世界のマ釣りが決まる。それが、真コトの事実、世を創る元つ仕組みだったのである。『世界の真中、真コトの親である日本が本当の神の真コトを思い出し、国民一人一人が真釣りに戻らなければ、日本の真の再生はなく、日本が真コトの再生をしなければ、世界は滅ぶ』のが今の世界の運命である。

これは、あなたの現実にも言えることであり、あなたの真中に蛇が座していれば、あなたが天国を目指して善行を積んでいる積もりでも、それは、逆さまである。蛇の世が滅ぶならば、蛇を真中に持っているあなたも滅ぶ。あなたが神を産んだのでも、社会を創ったのでもない。神があなたを産んだのである。あなたが無からすべてを産めないならば、あなたは生かされているのであり、蛇に生かされている限り、あなたの命は永遠に消え去る。元つ仕組みを外せば元つ天国はなく、中つ世で何を企もうと、どう誤魔化そうと、絶対に天国にはならない。真中が穢れで曇れば、元つ仕組み通りに、世界は苦持って、末は滅ぶのである。真釣り外した神々は、どう足掻いても元つ大神には勝てない。その神を源流とする、日本を含めた現代社会は、真釣り外れて滅ぶ運命のマヤカシの蛇の世界なのである。

本来、「世界」は神から人まで、万象万物すべて真釣りの響きの神代のみである。霊主心従体属が正神真神の掟(真釣り)であり、万古末代沿わなければならない、絶対不変の神の世界の憲法である。火主土従水属が元つ天地の理法である。これに違反した(真釣り外した)者は、その場で消滅するのが神の掟。現代社会の基にある魔釣りは、真釣りを外した神々を真釣りに戻す神仕組みの岩戸の中でのみ存在可能な響きである。今世に魔釣りが存在するのは、真釣り外した神々を真釣りの神代に戻すため、「情けと花の神仕組み」を進める、立て替えの経綸の御役の神を降ろしたためである。しかし、神々が快欲に囚われて真釣りを外さなければ、「情けと花の仕組み」を発動する必要はなく、今の世に魔釣りは存在しなかったのである。神の子宮の中の仮の世で、魔釣りの神と快欲に囚われた人民が真釣りの如く振る舞って世を進めてきた末の世が現代社会である。ご守護の神が逆さであれば、人皇を含めて人民も逆さであるのは道理である。元つ真釣りの大神が真釣り戻したその後は、魔釣りの存在する時空はもうどこにもない。魔釣りの世は消えてしまう。真釣りから見れば、今も魔釣りの世は存在せず、魔釣り世から見た真釣りの世の如く見えるのである。
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滅びに結ぶ逆さまの体主心従霊属の知恵の蛇の神の魔釣りの末である現代社会にどっぷりと漬かっている今の日本と日本人が、どんな運命を辿るのかは火を見るより明らかである。万古末代一度こっきりのミロクに結ぶ経綸の総仕上げ、元つ真釣りの神々が総出で真釣りに戻す、生死時空を超えた三千世界の大祓い、真釣り戻しの天命を果たしてミロク世に生き戻るか、魔釣りのまま果て散るか、ここでマ違えば後はない、二つに一つの踏絵である。

自らがどちらを選ぶのか、今ここではっきりと決めて、その道を歩んで欲しい。今ここで真釣り戻らない者は、三歳苦難の魔釣りの立て替えの仕組みで大掃除されるから覚悟しておくことである。あなたがどちらをとろうとも、真釣り戻しの大祓いは動かない。アヤマ知を持ち出してツベコベ言うのは勝手だが、あなたが真釣りを戻して天命を果たさない限り、あなたにだけはミロクはないことは肝に銘じておくことである。世界の父親が元つ真釣りを忘れて、アヤマ知にどっぷりと漬かり、神気息もできないほどに御神体を汚し、魔釣りの獣の世界で国力を誇っている。ヒノモトを守護する神々も、自ら快欲に囚われ、魔釣りに囚われ、天孫を語る魔釣りの神々にヒノモトを譲り渡し、偽の神道(侵闘)を広めた大大罪は、どんなに詫びても許されないことである。真コトがわかったなら、今ここから、世界の父親としての勤めをキッチリ果たすことが、元つ真釣りの大神へのお詫びであり、元つ真釣りを外した責任をとることになる。自ら進んで心のアヤマ知を祓い清め、真釣りに戻ることが、自らの立て替え立て直しを同時に進めることになり、元つ真釣りの親国として、天地創世以来の元つ天の大神の天命、ミロクを開く御用を果たすことにもなる。荒唐無稽な話だと片付けるならば、それは魔釣りの証であるから、あなたにミロクはない。

すべては神界に源があり、現界(「この世」)は形の現われである。霊と体は一体であり、体は霊の現われである。形があれば当然霊がある。形あるものすべてのすべてが元つ天地の大神の現れである。神(現代社会の宗教の神のことではない)は真釣りであり、神がなければ何もない。つまり、万象万物すべて神であり、「アニミズム」というのは、ただの思想ではない。真釣りに魔釣りはなく、情けと花の経綸を成就させるために産んだ響きに過ぎない。ミロクが開けば、すべて真釣りに戻り、魔釣りのアヤマ知が語る世は、綺麗サッパリなくなってしまう。アヤマ知に囚われた神も仏も人も魔釣り世と共に消える。すなわち、真釣りに戻らない限り、神幽現三千世界(すべての世界)のどこにも生まれ戻ることはできない。現代社会の科学の語る現界は幻想であり、宗教の語る霊界も幻想である。あなたの本体は霊であり、肉体はこの世の現われである。同じように、日本の国土そのものが、元つ大神の御神体(肉体)なのである。元つ真釣りを忘れ、元つ真釣りの響き鳴る世界の中心(真中、ハラ)=万象万物を産み産む雛型=すべてを統べる本当の大神の真釣りの聖地であるヒノモトの御神体を魔釣りで穢れた神々の好き放題にさせてきたヒノモトの民。それが何を意味するのか。それが何をもたらすのか。万古末代一度だけの元つ真釣りの大掃除とは何なのか。自らが今までしてきたことをよくよく考えて、あなたが本当の意味で生き返りたいならば、今ここから生き様を正していくことである。それが同時に、元つ大神の御用となり、本当の「世界平和」に貢献することにもなる。魔釣りが仕組んだ、神なき電脳科学教育で曇ったアタマでは到底、理解できないかもしれないが、人類の歴史は神話の世界を超えたその大昔から滅びの道を歩いていたのである。その末の世である、体主心従霊属の魔釣りの九分九厘のアヤマ知で創られた現代社会の裏の裏の世界がどんな世界なのか、おわかりになっただろうか。これはSFなどではなく、紛れもない事実である。
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この世には命に関わらないただのお遊びなどただの一つもない。いい加減なことをしていれば、自らの永遠の命が永遠に無くなる時がくる。これは遠い未来の話などではない。明日どころか、1時間後、いや、次の瞬間に来る出来事かもしれない。魔釣りのアヤマ知で九分九厘曇ったあなたには、突然やって来る青天の霹靂の艱難辛苦の地獄である。富士山がいつ爆発するか、どこに逃げればよいか、どの神につけば助かるか、などという小手先の逃げ場探しをしているならば、あなたはどこにも逃げることはできない。あなたは永遠の滅びである。逃げ場は真コトだけであり、それは、魔コトから見れば、完全な闇の世界である。逃げられない逃げ場である。元つ真コトの真釣りは三千世界の神法であり、神々様でも逃げるところは無い。あなたが真コト真釣りをしているならば、すでにミロクにいるから、どうなるかを心配することはありえず、この本の語る世界は、それこそ空想の死夢話の物語となる。あなたが今、一瞬でも恐れや怒りを感じるならば、あなたは金が支える偽のミロク(666)の虜になっている。あなたにとってこの本は、真釣り戻すためのガイドであると同時に、恐ろしい悪魔の書にもなりえる。どちらを選ぶかは、あなた次第であるが、ここに書かれていることをすべて認めない限りは、あなたに本当の天国はなく、修羅の地獄のそのまた地獄の艱難辛苦が待っている。あなたの真釣り外しで元つ大神にさせた苦労の万分の一のご苦労に耐えられないならば、あなたは神に戻ることは出来ない。

真釣りの真コトを現すという自らの天命を捨てて、どうあっても魔釣りの快欲の世界の極楽トンボで居続けるというならば、真のヒトになる生き方は遠い幻となり、新しい時代を生きる人間には成れず、本当の21世紀(二十一=三位一体の世、二十歳=成人=誠神の世の1世紀)の人生を遊ぶことなど遠い夢のまた夢となる。人生というゲームの新しい遊び方(元の神代の人生)は、元つ真コトの神響きに戻ればわかることである。世歴2000年という年号にこだわっているならば、あなたのミロクは開かず、本当のミロクが開いた時には、あなたは666の魔釣りの響きと共に、万古末代永遠に成敗される身魂となる。

今回が本当の天意転換、地球最後の転生の時である。ここを逃せば、もう二度とない。生死時空を超えた本当の生死の選択をする時は、真中に残る一厘の真コトを使える時は、今回が最初で最後である。真釣りに戻って、ヒノモトの御用を果たし、真コトの天国に息戻るか、魔コトのままで真コトの真中に成敗されるか、二つに一つの分かれ道である。あなたが本当の日本人でありたいならば、選択はただ一つである。世界の父親として、立て直しのご苦労に耐えられるように、元つ御霊統の直の御チ筋の身魂を授かりながら、あなたの(ヒノモトの)今の有り様は情けないの一言に尽きる。世界の真中のヒノモトが曇れば、すべてが曇るのが、元つ真釣りの神仕組みなのである。魔釣りで穢れ、犬猫にも劣る身魂に成り下がったとはいえ、元つ真コトの一厘で、何かの神の御用をさせて欲しいと願うのが、真コトのヒノモトの神民である。あなたが心底改心して御用を果たすならば、元つ大神と正神真神の神々は、あなたを支えて必ずミロクに導いてくれる。どんなことがあっても決して真コトを捨てないことである。一寸の狂いもなくそれだけを忠実に守って、最初で最後の史上最大の作戦を見事完遂して、世界の父親と崇められる、本当に真神に戻って欲しい。現代社会に本当に笑える者は一人も居ない。魔釣りの天国は永遠の滅びであることをしっかりと肝に銘じて、真剣に真コトを磨き出し、最初で最後の御用に立って欲しい。
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今の世界の有り様は、元つ真釣りの神代とは全くの逆さまである。元つ大神の神キ出づる唯一の国であるヒノモトを守護する神々とヒノモト地の上を預かる人民が真釣りを忘れて自ら魔釣りを呼び込んだ末に、魔釣りで穢れに穢れた末の世界。大神の響きを消しただけでなく、魔釣りの天つ神の天孫降臨が源の神道すらも形骸化させてしまった、神亡き今の日本国が、本当の父親に戻るのは艱難辛苦の修羅の地獄を要するが、真釣り戻しの立て直しがヒノモトの天命であり、どうあっても遣り遂げなければならない真命なのである。元つ神命を果たした者は元のミロクへ戻り、果たさない者は祓い清めで魔釣りと共に滅ぶ。

今の日本政府は、IT先進国家を国策に掲げ、金融市場を足場にして経済市場の覇権を争い、携帯電話という携帯型個人監視マイクロチップの開発競争や魔釣りの神世である世界の国家支援に躍起になっている。いったい何をやっているのか。元つ真釣りの大神の直系の霊統の身魂を授かりながら、魔釣りのアヤマ知の世界制覇のマヤカシの企みにまんまと嵌められて、天の神々も人皇も地の上の民も自ら天命を捨て去って、自ら進んで喜んで蛇の世に貢献することに心血を注ぎ、国を挙げて蛇の型示す西洋崇拝をするに至る。蛇の封印を解く瞑想を普及し、蛇の仕組みを支える経済にのめり込み、蛇の技術を支える科学を強制し、ついには、お金と機械の奴隷に成り下がって、破滅の網の中に自ら入り、世界一の魔釣り国を目指す、逆さまの蛇の権化となってしまった。神をも含む人類の歴史の裏で進んでいたのは、元つ真釣りの情けと花の経綸を取り違えた魔釣りの蛇の知恵の神が仕組んだ立て替えのイシヤの仕組み、自らが世界を統べるために邪魔なヒノモトを潰すことを最終目標にした世界征服の陰謀だったのである。真釣りの立て直しを知らず、ヒノモトが潰れれば世界は自らの思い通りになると思い込んでいる蛇の世の成就。この陰の大策謀には、真釣りの真コトを現すことでしか対峙(退治)できない。形の上の秘密組織や世界政府の陰謀を暴いたり、真釣りを知らずに神の仕組みを研究したりして何とか回避しようとしても益々魔釣りに貢献するだけである。実際には、それも陰謀の計画の内であるから、陰謀を暴いて形だけの対策を語る者は、いまだ罠の中にいることになる。真釣りの真コトを知らずに魔釣りの蛇の世の悪を暴き、世を良くしようとすればするほど、真釣りに貢献するどころか、魔釣りに貢献し続けることになり、元つ大神の真釣り戻しの手伝いになるどころか、逆に真釣り戻す手間を増やしていることになる。今の自分が何に貢献しているのか、どんな道を辿っているのか、曇りに曇った眼をしっかりと見開いて、本当の真実を見定めることである。そして、真の日本人としての真コトの神の道を歩き始めて欲しい。
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魔釣りは、真コトの一厘を見失った知恵の神がその源である。ハラの真釣りがなければ万古末代気づかない、アタマの分かつ知である。旧約聖書の創世記の時代から魔釣りの経綸を進めてきた神々と時代の支配者たちは、元つ真釣りの神仕組みを知らないから、真コトがあることを知らず、すべてを知っていると思い込んでいる。自らが、ヒノモトの真コト、元つ真釣りの大神に戦いを挑んでいるとは気づかずに、表の現われの日本(日本国と神道)を潰せば世界が征服できると思い込んでいるのである。ヒノモトが目を覚まして真コトの一厘を教えなければ、この世の真コトを知らない魔釣りの者たちは、永遠の命を失うことになる。今の神道も天皇も魔釣りに貢献している。このまま進めば世界丸潰れの滅びの道を転げ落ちるだけである。世界を生かすか殺すかはヒノモトにかかっている。世界を真釣りに戻す本当の国際貢献、立て直しの御用を果たすことが、世界の父親としての本当の仕事である。神も人も共に、今この場で魔釣りのアヤマ知をすべて捨て、現代社会からキッパリと足を洗って、どんなことになろうとも、世を乱した責任をとることが、父親の役目を放棄して、今まで永きに渡って苦しめた子供たちへの償いとなる。いつまでも、魔釣りの天国を進める機械の窓を覗いて、機械仕掛けの蛇の知恵の林檎で偽の天国を作ろう(電脳世界のインターネットで世界を天国にしよう)としていても、魔釣りの666の天国の嘘の画面が出るだけで、三六九の真コトの天国の景色なぞ見えはしない。それどころか、魔釣りの響きが作るマトリックスから脱出しなければ、とんでもない結末が待っている。

世界が滅びのマトリックスから抜けるには、ヒノモトが真釣り戻すしか術はない。魔コトの響きの心界のインターネット(アヤマ知の知識、思想、理念、道徳、宗教)への接続を切断しない限り、真コトのインターネットには接続できない。魔釣りの電脳神の手下が設計した電脳網(インターネット)に繋げたモジュラージャックを抜いて、HPのウィンドウをすべて閉じて、閲覧ソフトを終りにして、パソコンの電源を切って、ディスプレーから目を上げたところが、本当の現実である。しかし、その現実そのものがすでにマトリックスの中であり、その現実の基の神界(幽界)の響きそのものがこの世のマトリックスの源なのである。マトリックスの仕組みを作った魔釣りの勢力は、真コトの一厘なき知の火の神の末裔であり、そのまま策謀を継続すれば、この世もあの世も含めた自らが滅ぶことを露とも知らない。ヒノモトが真釣り戻して、外国に真釣りの真コトを身をもって知らしめなければ、世は破滅する。魔釣りのアヤマ知を綺麗サッパリ捨て去らなければ、世界は、魔コトの仮想現実と共に滅び去る。日本が今のままで進むならば、元つ大神直々の最初で最後の身魂の大掃除で、元つ真釣りの掟によって綺麗サッパリと成敗される末路となり、もう二度とヒノモトのお土は踏めなくなってしまう。真コトの真相現実の本当のミロクは永遠の幻となる。あなたが、そして、日本が、元つ真釣りの神響きに戻って、世に真コトを現す世界の父親の勤めをキッチリ果たして、見事、真コトの火水成ることを願っている。
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真釣りを基にした世は、誰もが「清富」であり、無限の天恵を使って自由を謳歌できる社会である。「清富」の社会を作れない「政府(世腐、生腐)」が導く社会では、世の腐敗が進み、最後は体(国、世界)が腐って死んで(滅んで)しまう。魔釣りのままで腐敗を止めようとしてもそれは叶わない。元の魔釣りをそのままにして、その現われである形をどう治そうとも、世は直らない。中身の餡子が腐っていれば、饅頭は腐ってしまう。形の修繕をしようとする思考自体が魔釣りであり、中身を真釣りに戻さなければ、結局は、滅びを加速するだけである。形を創造する大元のやり方がアベコベであれば、天国を創ろうとするほど地獄を進めることになり、地獄が進むほど天国を望む力が強くなる。ますます形を治そうとするから、ますます地獄が進む。魔釣り世が進むほど真釣りに戻すのが厳しくなり、真釣りに戻せなければ、最後はそのまま、魔釣りの世の末路である滅びを呼び込む。魔釣りのスパイラルを進めて滅ぶか、真釣りのスパイラルに戻すか、二つに一つの踏絵である。社会が、日本が、世界が、ではなく、まずは、あなた自身がどうするか、である。あなたが真釣りに戻っていなければ、魔釣りに手を貸し続けることになり、あなたが滅ぶ。

政治にお金が必要な現代社会は、お金がものを言い、国民の暮らしをお金が支配し、社会システムの姿をお金の有無が決め、国家運営を資金量が左右する。民主主義社会だといっても、結局は、主権者である金を神と崇める「政治家と呼ばれる神官」が、法律という幻想の力によってお金の分配権を握る権限を自らに与えることで国家を思い通りに操作(運営)する「金主主義社会」である。法律すらお金が支配する法治国家の正体は、お金を神とする神制国家なのである。政治家という神官(お金という神)に自らの全生涯を預けている限り、臣民(大衆)が望んでいる理想国家、すなわち、誰もが自由な天国は絶対に実現しない。政治家も国民も、自らの生き様を根底から正さなければ、国家の滅亡は必至となる。

誰かが世界の支配を企んでいるとすれば、その誰かにとっては、自由という思想は邪魔である。従って、世界支配という野望を達成するためには、被支配者の自由を制限しなければならない。現代社会でいう「罪」とは、法律に違反したことを指すが、元々は、「犯罪行為」という行為はどこにもない。その実態は、自由を制限した社会を維持するのに不都合な行為を法律で禁止した結果生み出された幻想である。犯罪行為とは、ある行為がその社会の秩序を乱すハタラキをする場合の呼び名に過ぎない。本来は、「罪」自体が幻想であり、法律には何の強制力もない。実は、自由を制限する法権力の行使自体が、犯罪なのである。
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原因と結果が逆さまであるから、現代社会の法律で犯罪行為を無くすことは絶対にできない。犯罪を抑止するほど犯罪が増えるのはこのメカニズムが働いているためであり、法律では、決して秩序を維持することなどできない。法律が、犯罪を産み、犯罪がさらなる法律を産み、混乱を収拾しようとするほど法律が増え、法律が増えるほど法律が有名無実化(無力化)していく。そしてついには、統制不能となって、結局は、秩序が崩壊する。法治国家は、最後には、放置国家と化す。エントロピーの法則は、分裂の響きの現われであり、すべての現象に当てはまる。神権政治も民主政治も、その根底にあるメカニズムは略奪であるから、その中でいかなる制度を考え出そうとも、自由も平等も平和も実現しない。

犯罪行為と法規制のイタチゴッコの始まりは、真釣り外し(魔釣り)という神法違反である。現代社会が神法に違反していない世界ならば、犯罪も法規制も形にならないから、犯罪も法律も社会には存在しないはずである。それが存在するということは、つまり、現代社会が神法違反している世界であることを意味し、その違反を清算しない限り、犯罪は絶対になくならず、イタチゴッコが永遠に続くということである。しかし、法規制が制裁の意味をなさなくなる時が必ず来る。結局は、無法世界となって、最も避けたかった世界(殺し合いの響きである人間の本性、イタチゴッコの世界の正体)を現実として体験することになる。神法違反をしたゆえに犯罪があるのであるから、防犯の法規制は茶番である。

これは、ウイルスとワクチン、テロリストとテロ撲滅をスローガンに掲げる国際社会の関係にもそのまま当てはまる。神法に違反して『悪を消せば善になる』と言っている側が、その悪を表に出した源であるから、その悪の正体は自分自身である。悪を無くすためには、悪の源を根絶することが必要である。外の悪は自らの神法違反を知らせる情けであるから、悪を抹殺しようとすれば、お知らせを無視して神法違反を進めることになり、ますます悪が強力になる。最後の悪は、元つ真釣りの大神の響きであるから、そのままでは、創造の源に自爆テロを決行する、という神をも恐れぬ狂気の沙汰を招く事態となる。創造の源に自爆テロを決行すれば、それは、「自らだけが爆死する」テロとなる。悪の根源を外に求めれば、悪の根源が自爆して、この世から「悪」を一掃する結末となる。本当の根源の自らが消えて、天国を実現することになり、『悪を消せば善になる』という法則が正しいことが証明されたことになる。しかし、自らはすべての世から消えるから、自らの天国も消えて、自らの天国の望みは絶たれる。今のままなら、それがあなたの現実となる。自らの平和を創ろうと世界支配を企む者が、自殺して世界に平和をもたらす。まさに世界平和のためになる究極の善行である(皮肉)。結局は、神法違反の自己責任をとって「世界平和」に貢献することになるが、自らはそこにはいない。狂ったとしか思えない愚かな自作自演劇である。
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真釣りは天国(自由、平等、博愛、平和)しかない世であり、至美至善、至楽至便、苦の響きはどこにもない万古末代弥栄える、至誠至愛、至慈至順の何の問題も無い世である。今の世でいう悪(闇、苦、病、恨み、憎しみ、怒り、悲しみ等々)は影さえも存在しない。魔釣りというのは、真釣りを外した(神法を破った)身魂を真釣りに戻すために仕組んだ「情けと花の仕組み」(神法違反の自業自得の懲役期間、時が来れば自業自殺=死刑)が有効な間だけできることであり、真釣りに戻す時が来れば、魔釣りをしている者はすべてが幻として消える。真釣りと魔釣りは裏表であり、元は一つであるが、全く正反対のハタラキをする。ハタラキには善悪はなく、魔釣りの快欲に囚われた心に曇りがあるから、やること為すこと善悪にわかれてしまうだけである。善悪に分ける目をもって世を進めていけばいくほど真釣りには戻れず自滅する。悪のハタラキが現われて、自らが持っている善悪の目に気づけるのであるから、悪のハタラキをする者は自らにとって恩恵である。悪を裁くならば、自らの持っている善悪に分ける目(魔釣り)が正しいことになり、真釣りが間違っていることになる。真釣りが悪で、魔釣りが善になる。真釣りが善で、魔釣りが悪ならば、あなたは悪となるから、あなたが悪を裁くように、自分が裁かれても文句は言えない。

善のハタラキ、悪のハタラキ、があるのは、悪を使って悪を祓う真釣り戻しの仕組みが成就するまでの話である。大神が悪を許しているのは、自らが悪である自覚が無い魔釣りの善の身魂に悪を見せて真釣りに気づかせるためである。自らが善だと思い込んでいる悪には悪を持って当たらなければ、絶対に自らの悪に気づくことは無く、真釣りに戻ることはできない。『悪に感謝する』と聞けば、自ら(社会、国、世界、組織)を壊すもの(苦しめるもの)を悪と定義している魔釣りの世では狂っている考えとなる。しかし、本当のところは、「悪」とは、魔釣りの言う悪ではない。真釣りには悪は影さえなく、情けがあるだけである。自らが真釣りを外さなければ悪も苦も存在せず、悪や苦があるならば、それは、自らが真釣りを外している証拠である。その悪を裁くならば、自らの真釣り外しを正しいものと思い込んでいることになり、それは、魔釣りの自らを殺す真釣りを悪に仕立て上げる冤罪となる。悪を裁く自らが、真釣り外しを認めない悪である。この世の「悪」を裁けば、自らが滅ぶ。すべて逆さまである。もし、悪が無ければ、あなたは魔釣りに生きていることに気づかずに、自分は善だと思ったまま、真釣り外して滅ぶことになる。悪の正体は、自らの魔釣り(真釣り外し、神法違反、滅びの道にいる事実)に気づかせてくれるための鏡であり、滅びを止めてくれる有り難いものである。魔釣りの神仏を有難がって拝んでも、本当の幸福も自由も天国も実現できないどころか、魔釣りを進めて滅び(本当の死)が近づく。神法違反の身魂を天国に導く仕組みに生かしてくれている大神こそ有ることが難い存在なのである。不快なことをされたらすぐに訴える人間とは神と悪魔の差である。逆さまのものを信じているから逆さまになるのである。本当の自分と一緒に本当の天国に行きたいなら、逆立ちの世で教わったことを全部捨てて逆立ちをやめて歩くだけでよい。
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この世にある「悪にみえる出来事(苦に感じるものは)」は、あなたの神法違反の現れである。「悪」は、本当の善に気づかすために存在を許されたものである。神法違反である本当の悪に悪であることを気づかせるための大神の情けであり、その悪を裁くならば、真釣り外しの責任を放棄し、天地自然の掟破りの清算の邪魔をしているあなたは、掟破りの自覚無き反逆者、無法者として、自然淘汰により消滅することになる。アヤマ知を使って逆恨みするならば、それは、自ら産んだ不快を他人に転嫁することを意味し、自らの神法違反を認めてないことになる。従って、自らを善だと思ったまま滅んでも、誰にも文句は言えない。滅んだら文句は言えないから、文句を言っているあなたは、幻のような存在である。実体のある真釣りの存在から見れば、あなたは、始めから存在していないことになる。「苦」は自らが掟に違反していることのお知らせであり、逆恨みするならば、あなたは天地自然の掟である真釣りを外し続ける意志を示したことになるから、天地自然の掟通りに、自らの違反のゆえに自らで滅んで責任を取る結末となる。本来は、神法違反者は存在できない。

『善悪がある』が永遠不変の真理ならば、「善悪がない」世界は想像すらもできない。二極分裂が元だと言うならば、善悪がない世界が産まれることはない。それが真理ならば、永遠に戦争が続く世界が真理となるから、世界平和や自由は絶対に実現しない。従って、戦争反対運動や、平和運動は全く意味がないお遊びになってしまう。しかし、平和や自由や天国が想像できるならば、『善悪がある』は真理ではないことを意味し、戦争をしているならば、それは、自らだけの天国を実現しようとしている手前勝手な行動だということになる。善悪が無い世で戦争をしているならば、それは、自分自身を滅ぼす目的でやっているに過ぎない、狂気の沙汰になってしまう。善悪の戦いができるのは、悪が許されているからであって、許されている悪を滅ぼす戦いをしているという自己矛盾を解消しなければ、戦争は止まらない。鏡の中の逆さまの世界では、本当の世界を鏡の世界だと思い込む。鏡に映った自分は闇の中のグロテスクな悪魔に見えるから、鏡を無視して、戦争を続ける。鏡の世界にいる天使は悪魔であり、悪魔が天使である。悪魔のささやきは、鏡の中の世界を壊す象徴であるが、その世界が悪魔の世界だとしたら、そこで善人を演じることが何を意味するかはわかるはずである。天使に魅せられるのは、魔釣りの虜である型示しである。

逆さ眼鏡をかけているのが現代社会であり、すべてを逆さにしたのがミロクの天国である。逆さ眼鏡を通して見える世界を真実として訓練すれば、外した時は、逆さまの動きとなる。今の世は鏡の中の世界であるから、ミロクから見れば、悪と悪がお互いに鏡に向かって戦いを挑んでいることになる。鏡に映った自分に吠えている犬と同じである。鏡に映った姿が自分自身だと気づかなければ、吠えるのはやめない。鏡の館に居続ければ、鏡の迷路の中を永遠に彷徨うことになる。カメラを接続したテレビを、そのカメラで映したら、テレビの中に永遠にテレビの映像が映り続ける。カメラを操作している自分が本当の自分であり、テレビから目を離したところが、本当の自分がいる場所である。それは鏡の館の外でもある。幻の鏡の館は入館者もろとも消滅する時が来る。それまでにその館から脱出しなければ、館と共に消滅する。鏡は「彼我身」であり、自分の姿である。鏡の館を出る方法は、内の鏡に従うことである。ガイドは自らの中にある。真コトが出口へのガイドである。
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永遠に戦争を無くすには、お互いが、自分が自分に吠える一人芝居をしていたのだという滑稽さに苦笑いしながら、自分が映った鏡を舐めて、ただ仲直りをすればよいだけである。善悪がないから、善悪が作れるのである。重力がないから、重力(軽重、動静)が作れるのである。真釣りがあるから魔釣りが存在できるのであって、魔釣りが真釣りを産み出すことはありえない。いかなる神仏であろうと、絶対法則を破ることはできない。元つ大神を殺すことや支配することは誰にもできない。大神を殺すという響きは、すべての源を、あなたも含めた万象万物を滅ぼす響き(魔釣りの響き)である。元つ真釣りの大神は、自身の暗殺を企てる、真釣りを破った魔釣りの者を生かして真釣りに戻す仕組みを構えた。神の始めは真釣り、真釣りの始めは神、万象万物すべて神である。大神の暗殺の企みは、言い換えれば、自分自身を含む万象万物、つまりは、暗殺を企む本人の自殺を意味する。大神はすべてを産めるから何も殺す必要はない。真釣りに戻す仕組みの最後の最後の最後、元つ大神がすべてを真釣り戻した時、魔釣りの響きを持つ「国家転覆罪」の身魂は、魔釣りの世もろとも完全に処刑される。しかし、その実体は、真釣りを外した「囚人」の自業自得の死、自殺である。元つ大神は、天地転覆犯と言えども「死刑」にはしないのである。

元つ大神は、悪にも善にも分け隔てなく天恵を与え続け、善にも悪にも平等に真釣りに戻す機会を与えてきた。大神は天地創世以来、何一つ奪ってはいない。自らの支配欲を満たすために善を悪に染めて獣化する機械を渡し、邪魔者を消すために悪を殺すシステムを作った人間社会(と幽界)の生き様は大神とは程遠い。大神は、今の世で言うアメとムチを使う必要はない。強いて言えば、大神のアメは真釣りの真コトであるが、魔釣りのアヤマ知のアメを食べ慣れ、ムチを避ける癖をつけた者が、そのアメを食べること(真釣り戻すこと)は非常に厳しい試練となる。ムチはないが、真釣りを外した者にとっては、真釣り戻しの情けは、魔釣りのムチ以上に苦痛を伴う。しかし、それは、真釣り外した自分が作った、自分が自分に入れるムチなのである。大神の意に沿うように生きることが、大神のミロクを体現する第一歩であり、魔釣りのアヤマ知をすべて捨て、真釣りの響きを心に取り戻すことが、本当の天国への唯一の道である。大神と全く同じ響きに共鳴すること(真中の真コトの一厘を磨き出すこと)が真釣り戻しの最終ゴールであり、それを寸分違わず行い現し続けることが真コトの神民の勤めである。大神がすべてのすべてを真釣り戻した時、一厘の真コトが万象万物すべてに形として顕現した時、本当のミロクの実現となる。
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元つ大神を超えることも大神になることもできない。しかし、大神の響きと共鳴すれば、大神の真釣りの天国を体験することができる。元つ真釣りの天国は弥栄である。絶対法則は破ることも超えることもできず、条件(制限)をつけた分、狭い世界が現実となるだけであり、付けた条件を外していくことで満たされていくのである。魔釣りの世は、条件闘争と交渉の世界であり、主導権を奪った者が条件を付けて支配することができる。支配者の思想がその世界の善悪の基準となる。条件を付けた分、不自由になり、条件を外した分、自由になる。すべての根源の法則は、完全自由の真釣りである。自らの内にあるすべての条件、善も悪も、光も闇も、真釣りの響きを制限するすべての条件づけを奇麗サッパリ外した響きが真釣りである。これを、「無条件の愛」「自己愛を超えた自己愛」と呼ぶ。本当の愛(=I)は、完全自由を実現するが、魔釣りの愛や恋(=来い、COME=噛む)に酔っている者には、とんでもなく恐ろしい響きなのである。真釣りの愛の実現は、魔釣りの世で見れば、人類の破滅を意味する。魔釣りの世が壊れるからそれを封じ込めようとするが、真釣り戻して壊れるものは、実は、何の実体も無い幻だったのである。それを捨てることを怖れれば、本物の愛はわからない。本当の自己愛が、永遠無限の真コトの愛である。

ブラックホールを避けても最後はすべてが吸い込まれる。中心に存在する究極の闇は嘘の宇宙(地獄)の出口であり、ミロクへの入口でもある。偽宇宙を吸い込むブラックホール(入口)は、真宇宙に飛び出すホワイトホール(出口)である。偽宇宙すべてを吸い込む中心(魔釣りを奇麗サッパリ掃除した無の境地)が、真宇宙を産み出す「万象万物創造の真中(すべてを産み出す場所、全方向へ自由に動ける心の場所)」なのである。表の宇宙は箱の中、ボールの中の有限宇宙であり、クラインの壺の中である。今の表は本当は裏であり、ボールの皮の内側である。裏の裏が表。本当の表は今の裏である。何も怖がらずブラックホールに吸い込まれること、ミロクの天国という大海に向かう流れに身も心も魂も完全に委ねること、それが大神への帰依であり、ミロクへのただ一つの神の道である。裏の宇宙、ブラックホールの無い宇宙。自らの内のブラックホールが本当の天国の入口である。

真中の響きを不安に感じれば逆戻り。元つ真釣りのミロクを生きるための限定解除の運転免許は真釣りの真コトである。真釣り外しは万象万物を滅びに誘う響きと共鳴することであり、滅びの響きを奏で続けて最後は滅ぶ。魔釣りは快欲の囚われを解く立て替えの響きであり、快欲を追い求める真釣り外しの世から見れば悪として現われる。悪や苦は悪役であり、それそのものは悪ではない。勧善懲悪の映画で悪を登場させなければ、善は活躍できない。戦っている者は善悪の戦いで疲れなければ、本当の善に戻ろうとはしない。映画の登場人物を恨んでも、憧れても、その対象は仮想人物であって、その役を演じる役者本人ではない。俳優は、善人にも悪人にもなれる。神にも悪魔にもなれる。その両方の源は俳優である。善と悪の元は一つである。自己矛盾は、自分の矛で自分の盾を突く一人芝居であり、矛と盾(攻守、善悪、正誤)が同じ響きのハタラキの違いであることに気づかなければ自己矛盾は解消されない。闇から始まった世が光のみの世(天国)になることは永遠にない。光を消した闇の中の光と闇の戦いは、闇に戻って光が甦る。闇の中をすべてだと思っていれば、それは、消滅を意味する。闇が闇に葬った光が闇を闇に葬れば、もとの光が戻る。光を闇に葬った者にとって光は闇であるから、自らが闇となる。自らしたことが自らに返る。一つが分かれて再び一つに戻る。光が闇を闇に葬って光に戻るのである。
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真釣りが先で魔釣りが後である。無が有を産んで無に帰り、神が人を産んで神に帰り、光が闇を産んで光に戻るのである。無が有を産むのである。無という卵からニワトリを産んで、そのニワトリが卵を産んでニワトリを形にする仕組み(有の中で産み生む仕組み)を持つからニワトリが増えて卵が増えるのである。有の源は無であり、人の源は神である。その無は、今の世界で言う「何も無い」ことではなく、無と言う「有を産む有」である。無という卵から卵を産んで、その卵からニワトリを産むこともでき、そのニワトリが卵を産んで・・・と続く。『ニワトリが先か卵が先か』の議論は永遠に終わらない。したければいつまでも出来るが、『世がアダムから始まったとすれば、この世では、ニワトリが先で卵が後である』と理屈をつければその意味の無い議論はもうしなくても済む。原因が先で結果が後、光が先で闇が後、神が先で人が後、親が先で子が後、善が先で悪が後、悪は自分の鏡である。すべてのすべては大神が源であり、自分の現実のすべては自分が源である。自分の現実に不都合があれば、自分は魔釣りであり、天国ならば、真釣りである。自分の外の悪を裁けば魔釣りが進み、魔釣りが進むほど真釣り戻す手間と苦労と厳しさが増す。時が至れば真釣り世に戻り、魔釣りの魔コト(アヤマ知、分かつ知)を持つものは、そこで自然消滅する。今までの世で天国を目指したあなたが天国と思っていたのは魔釣りの天国であり、魔釣りの天国は魔釣りの消滅と共に消える。地獄も天国も消滅し、本当の天国が永遠に甦る。真釣りで真釣りを使えば悪は現われない。魔釣りで真釣りを使えば、悪が現われる。自分が真釣りに戻れば真釣りと真釣りが真釣り合って、すべて思い通りに作れるから、悪も苦もない。悪や苦があるのは、魔釣りで使っている証しである。外の悪を壊せば壊すほど魔釣りが進むから、どんどん壊れていく。最後は結局、自分を壊すことになる。

すべては一体不可分であるから、『自分のしたことが自分に返っている』のが法則である。あなた=私である。私=あなたである。真釣り同士が一人芝居をすれば、全体は天国になる。自分が主役なら周りは脇役、通行人。周りの誰かにとっては、自分が脇役、通行人である。自分が矛なら相手は盾であり、自分が盾なら相手は矛である。攻撃と防御は同時にはできない。攻撃と防御を同時に思考できるとしたら、自分の中の攻撃心と防御心の拮抗(主権争い)で肉体は動けなくなる。お互いに戦うことができないから、戦いは形にならない。仮に、ミロク世で魔釣りが存在できるとしたら、人の形をした動かない石としか映らない。今の世で、人の形の石があったら、それはただの風景の一つに過ぎず、世の営みには何ら影響はない。あえて言えば、観光地の風景として、生活に潤いを与える微笑ましい石である。石がものを言い、人がものを言わなくなる時、即ち、すべてがひっくり返る時が訪れる。実際は、もともと戦いはないから、攻防もない。矛盾もない。「どんなものでも突き通す矛」で「どんなものでも突き通せない盾」を突いたらどうなるか。その矛と盾を手にしたら、戦っても意味はないから戦争は終わる。自らが矛と盾(善と悪)の製造者(神)である。善と悪に分けた結果、悪が現われ、悪の正体を知らないから外の悪であるお互いを攻め(責め)合う。全を善悪に分けた瞬間、戦いが始まり、矛と盾が生まれた。
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お互いが自分の鏡であることを知ること(真コト)が、戦争をやめる第一歩である。攻防に分けると、攻撃しようと思えば自分は矛になり、守ろうと思えば自分は盾に変わる。自分が最強の矛を手にしたら相手は最強の盾を持ち、最強の盾なら相手は最強の矛を持つ。自分が矛であり盾であることを知り、自攻自守の一人芝居であるとわかれば、戦いは意味がないことがわかる。自由の獲得が戦う目的であるとすれば、自らの分裂思考自体が自由の真の適であるから、人を殺しても目的は果たせない。その目的を達成するには、自分の内の分裂思考を倒せばよいだけである。あなたの言っている敵とは『敵だ』と思い込んでいる幻を目の前の誰かに投影した影である。外に悪があると言うなら、その悪は鏡に映る自分である。返るもの(反響、反作用、木魂)を変えるには、自分の態度(響き、やり方)を変えなければならない。『ヤッホー』と自らが叫ぶから『ヤッホー』と木魂が返るのである。『ヤッホー』と避けんだのに『うるせーぞー』と木魂が返るとしたら、作用反作用の法則が壊れてしまう。あなたがしたことがあなたに返るのである。悪を殺せば自分自身が死ぬ。

現代社会にあるすべての問題の根源は、自分自身の響きである。全員が魔釣りを真実と錯覚していれば、アヤマ知が常識となり、それを破壊する真釣りの真コトを避け続ける。すべては逆さまであるから、まずは、自らが産んだウン子とオシッ子の処理をすべきである。あなたが鼻をつまむ汚物は、自分自身である。自らが垂れ流した糞尿(不都合、苦)に、自らがまみれることを避けないことである。自ら産んだ苦を引き取ることである。その覚悟が出来て、初めて真釣り戻しが出来る。「何の罪もない者」や「何の落ち度もない者」は一人もいない。まずは、この事実を身に止めて(認めて)、嘘を奇麗サッパリ掃除して心を入れ替えることである。アヤマ知を捨てて、素直に真コトの言う通りにすることである。

言っていることとやっていることを寸分違わず一致させることである。死はないと言うなら、死を避ける行動はとらないことである。真コトが真実なら魔コトは捨てることである。魔コトの者は批判や迎合をしてくるが、真コトの者には意味はない。マ違いを正して考え(神替え)直すことである。しかし、考えを直しただけでは何も変わらない。直した考えを実行すると外から来るものが変わる。外から来るものを変えたいなら内を変えることである。変えた内に従って動くことである。それが本当の修行であり、霊体一如の本当の鳴想である。世の名僧が説く瞑想は、思いと行いが乖離して、世は迷走の末、命を葬る結末に向かう。心と口と行いを「完全に」一致させることが真コトである。自由にすれば自由になるのである。行じることが鍵である。真釣り戻せば悪の響きが消えていき、完全に魔釣りの響きが消えれば、元からある真釣りの響きと真釣り和して本当の天国を体験できる。
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本当の悪の根源(自らの魔釣り)を真釣り和さない限り、本当の滅びに至る。真釣りには善悪はない。『善悪がある』と言うならば、それはあなたが「二つに分かつ知」で物事を判断していることを意味し、一つの響きの善悪を二つに分けて見ていることの証しである。それは、他でもなく、真釣りを外していることをあなた自らが白状しているようなものである。『善悪がある』と言うならば、どんなに悪を消そうとも、「善悪がない」天国は実現しない。「善悪がない世界」が実体ならば、その実体のある世界を分裂させて破壊したあなたは、本当の破壊者として責任をとることになる。あなたの現実にある悪(に見えるもの、感じるもの)は、あなたが真釣り外した響きを持っていることを知らせる映しであり、真釣り外したあなたに、言い換えれば、本当の天国を壊して平然としている「悪の根源」に、そのことを教えるための「情け」である。あなたが『極悪人は死刑にして当然だ』と言うならば、「本当の天国を壊す本当の極悪人」であるあなたは、あなたの言う通りになっても異議申し立てはできない。破壊者(正確に言えば、不都合な者、邪魔者)をすぐ処刑する(批判する、憎む)人類に対し、神の天国を破壊する人類を生かし、間違いを知らせる大神は、情け深い存在である。真釣りが神法であり、真釣りだけが実体のある世界である。

天国を破壊する真釣り外し(本当の「悪」)を生かす大神の情けがわからない(悪に制裁を与えることは当たり前だと言う)ならば、あなたはこの世の真実を永遠に知ることはない。あなたは、自らの思い違いによって、自らの命を失うことになる。今の世界を実体のあるものであると思っているならば、あなたは永遠に自由にはならない。あなたのいる社会が魔釣りに基づいて作られているものなら、その社会では誰も自由にならない。善悪がある世界が実体なら、善悪がなくなることはなく、戦う(裁く)世界が続く。善悪がある世界が幻想ならば、その世界は実体のない世界であり、そこにいるあなたは消える運命である。

悪の響きは、情けと花の仕組みの中で真釣り外しゆえに現われた現実である。本来は実体のない「悪」を裁けば裁くほど、どんどん悪が増え、あなたも社会も消滅する時が来る。魔釣りの言う「善悪」は中身は空っぽであり、善悪の争いは幻想の世界のお伽話のようなものである。本当のあなたに死はなく、この世で何が起きようとも、実際には、本当のあなたには何の影響もない。この世で不都合が生じるならば、それは、真釣り外している証であり、あなたが悪を裁くならば、それは、あなたがこの世に執着していることの証である。あなたは、限りある箱の中で居場所の奪い合いをしていることになる。あなたが本当のあなたを思い出せば、本当は何の問題もなかったことが分かる。すべてはあなたの思い違いであり、あなたは思い違いに基づいて誰かを裁き、不平不満を言ってきたことになる。それは、自らの思い違いに基づいて、自分の現実の責任を転嫁してきたことを意味し、自らの間違いを認めないならば、あなたは、自らの思い違いにより、自らを殺すことになる。
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法律が定めることが善(正)であるならば、法律違反は悪(誤)となる。『善悪がある』ことが真理であると言うならば、「裁くこと」自体の善悪は議論されることはない。なぜならば、「裁くこと」がおかしいと言ってしまったら、この世は悪だらけになってしまうからである。あなたは、今まで、苦の正体を知らず、自らの人生のカラクリを知らず、あなたの快欲を維持するために都合がよい『苦があるのは当たり前だ』という教に騙されて、自らに訪れる苦の響きから逃れたい一心で何か(誰か)を裁き続けてきたのである。苦があるのが当たり前で、その苦は誰かが自分にもたらしたものだという幻想に囚われていれば、あなたは自らの苦の責任を誰かに転嫁し続けることになる。社会をよくしようとする行動すらも、社会にある「悲惨な」状況や「不都合な」状況から逃れたいがために、自らのしていることを棚に上げて、皆と一緒になって、いい加減な理屈の善を行じた茶番劇である。社会を良くしようとし続けたはずなのに、なぜ社会が乱れていくのか。嘘は明らかである。

今のあなたが持っている「すべて」の価値観(観念)を本当のゼロに戻して、自らの生き様を今すぐに根本から直さないならば、あなたは、嘘の幻の教を信じたまま、永遠に滅びることになる。永遠の滅びというのは、魂(あなたの実体)の永遠の死を意味するから、あなたはもう二度と永遠に、この世どころか、どこにも産まれることができなくなってしまうのである。神話を超えた遠い大昔から続いてきた、幻の人類史が終焉を迎える。その歴史は、真釣り外した集団が作った、本来どこにもないマヤカシの歴史である。神々も含めた幻想の世界が永遠に終わる時が間もなくやってくる。そして、今までのすべての行いの清算を終えた者だけが、本当の天国で本当の自由と平和を永遠に謳歌することになる。

なぜ天国ができないのか。なぜ、悪がなくならないのか。「善悪のある世界」があり続ける限り、天国は実現せず、悪はなくならない。「善悪がある世界」が実体ならば、天国も悪の撲滅も永遠に実現しない夢である。「善悪がある世界」で、善悪がなくなることは絶対にない。もし、「善悪がある世界」が幻想ならば、天国も悪も、必ず消える時が来る。「善悪がある」という思想に基づいて現代社会が作られているならば、「善悪がない世界」から見れば、幻想の作り出す空想物語りの中の社会となる。裁判や制裁では、永遠に天国はできない。それどころか、永遠の滅びを進めるだけである。形に現われた、自らに不都合な人物や行為を抹殺したとしても、自らの天国が実現することは末代ない。あなたが悪だと言っている対象は悪ではない。悪がない世界で悪を裁くことはできない。「善悪がある」と言っているお互いがお互いを潰しあえば、悪の世での悪と悪の潰し合いが進むだけで、それは自らの永遠の消滅を意味する。この世が、善悪がある世界だと言うならば、この世の行く末は自然淘汰であり、あなたも自然淘汰となる。「善悪がある」という思想が幻想であることに気づかなければ、そのまま滅ぶだけである。『自らしたことが自らに戻る』それが、あなたの現実を作り出す唯一の法則である。あなたの言う悪は自らの反響であり、自らが発信した超音波が自らに戻ってきているのと同じである。言うなれば、その悪はあなた自身であり、あなたの現実に「悪」があるならば、それは、あなたのやり方が間違っている証拠である。自分は間違っていないと言い続けるならば、あなたは悪を裁く堂々巡りから永遠に出ることはできない。最後の悪は、天地自然の掟であり、あなたの攻撃エネルギーがそのまま返ることになる。永遠に悪を裁くことはできず、最後は自らが自らを殺す結末となる。
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真釣り外しが、世の乱れ、自らの不都合の原因であることを忘れ去り、自らの真釣り外しをそのままにして、自らの不都合を自ら以外のせいにすることを続けるならば、永遠に自由にならない。それどころか、真釣り外しを進めるだけで、あなたは、どんどん不自由になっていく。結末は、時空を超えた100%の不自由、即ち、永遠の死である。真釣り外しを認めない集団が、悪を裁き続けた結果が現代社会である。社会に「悪(破壊、不都合、闇)」がある原因を知らず、善を作ろうとして、形の不都合の修繕を続けてきた結果、「悪」が増え続けるならば、そのやり方自体が間違っていることになる。この世は、天国と滅びの二つのベクトルしかない。善悪の善を作ろうとするのも、悪を消そうとするのも同じことであり、それは、分裂の滅びのベクトルである。今となっては、善を作るために悪を裁くのではなく、悪を裁くために悪を生む、悪を潰すために悪を探す、つまり、悪を裁くこと自体が目的になってしまっている。あなたの生きる目的は、自らの快感の維持である。自らの快感を維持するために、不快に感じるものを抹殺する行為を繰り返すのである。その行為が自らをどんな世界に導くことになるのか、ここでしっかりと考えて欲しいものである。常識とか、伝統とか、普遍的真理云々という理由で当たり前の如く繰り返している行動が、本当に人類が望んでいる世界を創るものかどうか、正直に見直してみることである。あなたは、自らの考える天国を創ろうとしているだけで、世界の平和など頭にはない。今の世で言う悪を告発しても、あなたにも社会にも本当の平和がやってくることはない。

自らの不都合(社会の不都合)は、真釣り外した証である。死を避けるならば、避けている死の世界を除いた世界で天国を作ろうとしていることになる。悪を裁くことが許されることならば、そこは、善悪がある世界である。裁くことが善ならば、善悪がない世界は実現できない。裁くには、善悪があることが前提であるから、善悪がなくなれば、裁けなくなる。善悪のない世界から見たら『善悪がある』と言う自分が悪ということになり、裁きは善ではなくなる。真釣りという絶対不変の天地自然の理法に違反した魔釣りは、神法違反の悪となり、裁かれる対象だということになる。しかし、真釣りには魔釣りは存在せず、真釣りに裁きはない。魔釣りの言う「悪」は、魔釣り世と共に消滅しているからである。

法律そのものが善ならば、法律違反を悪と言うことができるが、法律に違反する行為が存在するということは、何を意味するのか。悪とは、それを悪だと言う側に都合が悪い(自らを破壊する、邪魔する、不快にさせる)ものを言う。裁きとは、悪と悪が悪の押し付け合いをしているゲームに過ぎない。悪という言葉と、悪という響き(悪と言うときに感じる感覚、許せないという感情、怒り、妬み、痛み、苦しみ)は、作られたものである。善悪がない世界は、真釣りしかない響きであり、何の不都合もない。あなたが心地悪さを感じるならば、それはあなたが真釣りではない証である。真釣りに共鳴している者は、真釣りしか体験しない。「悪い行為」というものは無く、ある行為を悪(都合が悪いもの)と見ているだけである。だからといって、悪を責めてよいという結論にはならない。自らが感じる不快感は自らが真釣り外しの響きを持っているゆえに現われたものであるが、それを誰かに感じさせられたと思い込んでいると、その誰かに不平不満を言うことになる。『誰かに不快を感じさせられた』と思うことがすでに真釣り外した証であり、それが真実だというならば、「不快を感じさせられた」自分が正しくて、誰かが間違っていることになる。それは、「真釣り外し(魔釣り)」が正しいと言っていることになり、真釣りの世界(善悪のない世界)はありえないと言っていることになる。『自分は悪くない』と言うならば、それは、真釣りが屁理屈だということになる。真釣りと魔釣りは裏表である。魔釣りが正しく、善悪があるというならば、善悪のない世界はありえないことになる。無いものを作ろうとして悪を裁く矛盾を繰り返す限り、人類が目指している天国も自由も実現することはない。
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一つ大きな視点(真釣り)から見れば、魔釣りの世の法則(常識、道徳)は自らに返ることになる。魔釣りの言う悪は悪ではない。自らの外に見える悪は、真釣りの世から見た自らのことである。真釣りには善悪はなく、魔釣りの言う悪は、実体のある悪ではない。言うなれば、真釣りという絶対善が許した絶対悪の中に善悪のハタラキがあるだけである。悪の裁きあいは、真釣りという神法に違反した者を魔釣りの響きを作って真釣りに戻す仕組みの中で通用する仕組みに過ぎない。真釣りしかない世で真釣りで生きれば、何の不都合もない。真釣りに違反すれば、不都合が現われるようにしてあるから、不都合があるなら、それは、自らの真釣り外しの現われである。自らが『何も悪いことはしていない』ならば、自分以外の誰かが自分を不都合にしたことになるから、その誰かを悪と呼ぶことになる。「善」「悪」、というのは、作られた思想であり、善(悪)という言葉も概念も元々は存在しない。悪とは何なのか。善とは何なのか。あなたが持っている概念や言葉は、すべて作られたものである。悪はどこにもない。真釣りの世には苦はない。あなたに苦や不都合があるならば、無いものを持っているならば、それは、あなたが真釣りに違反した証そのものである。あなたがそれを認めないならば、真釣り外して自分だけが滅ぶのみである。

あなたの現実に悪があるとすれば、それは、真釣りに違反した証である。魔釣り世の中にある外の悪を裁いても天国にはならない。悪を消せば天国になるならば、善悪の産みの親である魔釣り自体を死刑にすれば天国になるということになる。あなたが魔釣りならば、自らが死刑囚であることになり、魔釣りの世で悪を裁いても意味が無い戯言に終わる。これを否定するならば、あなたは魔釣りの信奉者であるから、真釣りには生きられない。世界平和が絶対に実現しない魔釣りの仕組みの世で平和運動をするならば、それは「自分だけの平和」「自分だけの自由」を本当の天国だと思っている思い込みを実現しようとしている茶番になる。つまり、「みんなのため」「世界のため」はあなたの行動の正当性の根拠にはならなくなる。あなたは、自らの思い込んでいる平和や天国を実現しようとしているだけであって、逆に、真釣りのマの字にも気づいていない自覚無き犯罪者となる。魔釣りの世の人間同士では価値を認められることであっても、真釣りの世から見れば、自らを滅ぼすために悪を裁き、自滅運動に他人を巻き込む、狂った行動をしている変人と映る。平和に貢献する国際機関のボランティアを価値がある仕事だと誇っても、それは、魔釣りの幻想であり、平和運動の目的の成就は絶対に叶わない。嘘のやり方で本当の天国はできない。平和や自由や平等を叫んでも、魔釣りのやり方では、平和のために戦いをし、自由を叫んで奴隷となり、平等を叫んで不平等を拡大する、思いとは逆さまの世界が実現することになる。本当の天国には、どこにも悪はない。真実が真実を形にするのである。簡単な理屈である。
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今の世でも『嘘の天国は、天国を進めるほど破壊に向かう』という真実が形になっている。絶対に天国にならない(滅びに向かっている)世で天国を作ろうとする者は、自らが魔釣りであることを白状していることになる。魔釣りの世では出来るように見えるから天国を追い続けることができるが、本当の天国を作るには、真釣り戻しのハードル(魔釣りから見た地獄)を越えなければならない。苦を避け、悪を殺し、苦情や愚痴を言い、何かに縋っている今の生き様(心のあり方)では、本当の天国は実現しない。自らの内の天国が天国の基になるのであって、自らの内が地獄ならば地獄を体験することになる。あなたがまず変えるべきものは、自らの内である。思い=形であり、形が思いの通り出ないなら、やり方が間違っているのである。あなたは今、真っ逆さまの世界にいる。誰かに反抗する天邪鬼ではなく、本当のあまのじゃくにならなければ、あなたが消えてあなたの天国は滅ぶ。

天国=滅び、悪=善、あの世=この世、未来=過去、神=悪魔、生=死、光=闇、ホント=嘘、であり、真中が真実である。今の世は嘘だという話がホントなのである。天国を壊した世では絶対に天国(誰もが自由自在に生きられる世界)は作れない。平和や、平等や、幸福や、安心や、安全や、自由は、それを求めて、誰かを変えようとしたり、法律で圧力をかけたりしても、実現しない。この世の姿形の死(肉眼で見える破壊)は本当の死ではなく、霊界の有無には何ら影響しない。戦争をしているのは、「死=終り」の公式を持つ死にたくない人間たちであって、この世に執着している霊体がこの世を奪い合う喧嘩両成敗の茶番劇である。『問題だ』と騒いでいるのは、現在の人間たちであって、死んだ人間たちにとっては過去の映像に過ぎない。この世の物質の形の世界は、実際は、一体不可分である。すべての源は一つであり、教会もテロリストの隠れ家も、資源から作ったものである。
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問題は、共通の道具である資源を何の目的でどう使って何を作ったかである。今の世は、真釣りを外して元の天国を壊した略奪の世界である。お互いが自分を善と思えば戦いは終わらない。戦いの基は、善悪の分裂思考、言い換えれば、快感の独占欲である。奪い合いの響きを持つ者が天国を作ろうとしてもそれは不可能である。自分の天国を得ようと殺し合う世界となる。人間が人間を殺して世界全体を平和にすることはできない。戦争の大義はすべて自らの思い込みに基づく屁理屈である。『本当の自分とは何なのか』と考えている自分が本当の自分である。その自分が自分の本当の神である。あなたは、自分という神が考える通りにしか動けない。あなたの選んだ考えを変えなければ現実は何も変わらない。

今のあなたは、真釣りか魔釣りか、どちらかの響きしか選べない。生か滅びかの全く正反対の選択しかできない、生きるか滅ぶかの踏絵の上にいる。あなたが何かの選択をするたびに、どちらかに動き、動いたら戻らなければならない。つまり、あなたには天国に戻るか、永遠に滅びるかの二つの道しかない。善か悪か、民主主義か共産主義か、左か右か、の選択は同じ方向にあるものを光と闇、生と死に分けて見ているだけで、その響きは分裂の魔釣り、どちらを選択しようとも、そのベクトルは「滅びの道」に向かっている。滅びに近づくほど、その差は小さくなり、左も右も変わらなくなり、二つに見えていた左右の道が一本道であったことに気づくことになる。その時に気づいてももう遅い。その道の真反対の「後ろの正面」、どちらが生か(得か、安全か云々)の分かつ知の見方をやめた方向が、天国への道である。そこは天国を壊し続けた今の世から見れば全くの闇である。あなたの心の中心にある究極の闇、その闇こそが本当の光なのである。本当の神の案内に従って歩けば、どんな地獄を見ようとも、必ず天国に着く。元の始めの天国を壊した魔釣りを壊せば、元の始めの真釣りが復活し、天国に戻る。元からある天国はあり続け、それを隠した霧である幻想を実体だと思っても、幻である霧は晴れて、元の天国が現れる。霧を実体だと思えば、霧と共にあなたも消える時が来る。心に霧がある人間に天国は見えない。自らが持っている魔釣りの響き、分かつ知をやめ、アヤマ知を捨てると一旦は地獄に見える状況を経て、真釣りに戻る。真釣りに戻れば、形も直り、天国(自由、平和)が現実となる。

『自らの不都合は自らの神法違反のお知らせである』これは、善の側にも、悪の側にも適用される。自分にとっての悪に戦いを挑めば、自爆して自滅するのである。テロリストの側も、テロ撲滅軍に報復すれば同じことであり、最後は、喧嘩両成敗で幕を閉じる。ウイルスに戦いを挑めば、ウイルスは生き残って自らだけが消えることになる。そのウイルスを兵器に使った場合は、人間同士の戦いの結末の通りとなる。これは、原子力や、化学物質にも言えることである。自然(地震、噴火、洪水等々)に戦いを挑んでも同じことである。地震は自身の揺れの型示しであるから、地震(真釣り外した自身)から逃げることはできない。真釣りの世界には、不都合(悪、危険、苦)は何もない。魔釣りという自らの神法違反を真釣りに戻せば、「悪の根源」を自ら消して、自らが天国にいることができる。
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真釣りの本当の天国を壊した世で、世を乱す者を抹殺しようとしても、それは無理である。『法律を守れば社会がよくなる』というのは真っ赤なウソで、それは、現代社会の状況を見れば、一目瞭然である。法律を強制するほど問題や争いが増え、それを抑止するための法律が増えていく。社会を動かしている学者や金融市場経済のエリート達は、自らの地位と名誉と自由を守るための生き残り戦略を練ることに余念がなく、宗教家は自らの崇拝する神の世界を実現するために信者を沢山集めて宗教戦争に勝利しようと必死である。方や、お金に命を預けた庶民(大衆)はと言えば、あいも変わらず金稼ぎに精を出し、愚痴を洩らし、悪人を非難し、機械が作る人工の箱の中で「快適生活」を貪り続けている。自らと家族の生き残りに精一杯で、お金で便利(快楽)を買うことや神仏を信仰することに何の疑問も持たないから、現代社会の裏の裏のカラクリに隠された罠(トリック)に気づくはずもない。国民に法律の遵守を要求し、義務を課す政府や、それを啓蒙する教育制度の裏の裏にある真の目的は何なのか。現代社会は一体どこに向かっているのか。その行く末にどんな世界が待っているのか。法律の源は蛇の知恵の神のご都合による何の強制力もない戒律であり、自らが世界を支配するための道具に過ぎない。この世の仕組みを作っているのは、その神の思惑を形の世界で実現するために働く人間達である。法制とは、為政者が世界を支配するために創ったシステムであり、現代社会の裏の裏を操っている影の支配者、世の黒幕は法律など守っていない。現代社会の裏舞台、「一般人」には思いも及ばない世界では、着々と支配計画が進行している。「獣」の響きに囚われた者が創ったシステムで、「人」の天国を創り出すことはできない。実際は、法律で規制すればするほど無法地帯と化し、自由を制限するほど共食いが激しくなるのである。法律が必要になった大元を直さない限り、犯罪の撲滅という目標は果たされることはない。本当の天国に「法律」は存在しない。

神法違反の「犯罪」である魔釣り自体が存在し、その「犯罪者集団」の中で罪の裁き合い(神が裁いていないものを、人が裁くこと=神が許している行為を、人が禁じること)ができるのは、「神法違反の罪」そのものは、まだ裁かれていないということを意味している。簡単に言えば、神が許しているからこそ裁けるのである。言うなれば、罪人社会の中で、罪の擦り合いが公然と行われているのであり、形の上の被害者が加害者を抹殺して自由を得ようとしているのである。罪や悪の本当の意味を知らないから、自らが犯した罪を棚上げし、他人を裁かないことが非常識であるかの如く、他人の罪を責めることが当たり前の常識として闊歩している。神法から見れば、全員が「罪びと」であり、他を裁く資格のあるものは誰もいない。今の世でも、法律違反を犯した者が他人を裁く資格がないのと同じことで、これは、神法にも適用される。「裁く心」が真釣り外しを進める根源である。神法を破った者がその罪を認めないとすれば、その者は永遠に自由にはならない。有限の中で無限の略奪はできない。無限の中に有限を作り、その有の奪い合いをしているなら、必ず終りが来る。言い換えれば、自分が自分を奪う時が必ず来るということである。違反を認めないならば、神法に違反した者は自らを消して神法違反を清算することになる。悪を裁けば裁くほど、自らで自らの首を締め続けることになり、最後は窒息して生き絶える。自らが違反を認めて清算しない限り、あなたが天国に戻ることはありえない。自らが違反を清算しないならば、国際貢献も、神の手伝いも、全く意味はなくなる。まずは、あなたの神法違反を清算することが先である。それが同時に世のため人のためになっていくのである。世のため人のため神のために生きたいならば、足元を正すことである。神法は、生死時空を超えた自業自得の掟であるから、これが一体何を意味するのかは、わかるはずである。
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神はすべてを産み出す。神の持つ響きが世の現実である。世の現実が神の持っている響きである。自=余=世=地。自らの現実はすべて自らが産み出したものである。自らの世界は自分そのものなのである。すべての現実を作り出す、その自分という神が嘘を持っていれば、幻の世界を実体だと思い込み、自ら進んで嘘の世界を進めた末に、嘘が存在できない世界が来れば、自らもろとも現実は消滅する。これを空想だと言うならば、それは、幻の世にしがみ付きたいがための詭弁であり、自由を自ら捨てることを意味する。すべては自業自得の仕組みであり、自らが自らの自由を放棄するのであるから、誰も助けてくれることはない。自らが自らの世界をどうするのか、生きるか滅ぶかは自分次第である。大きな視点から見て「何の罪もない者」はいない。本当の「罪」(神法違反)は、自ら清算しない限り、時空を超えて積み続けることになる。自らが自覚して罪相応の苦労を堪えて清算しない限りは、罪は消えない。罪が消えなければ、天国はない。魔釣りの積を摘まなければ、自らの天国の花は咲かない。神法違反を許す仕組みは期間限定である。いつまでもできると思うなら、それは、自らの違反をそのままにして、幻の世界の快感に浸り続けたがための幻想である。いつまでもそれを続けても構わないが、本当の命を自ら捨てる時が必ず来るという事実は動かない。今の自分が何をしているのか心底考えてみることである。

「罪人」同士の裁き愛は、大きな視点から見れば、パンドラの箱の中での相対的力学による封印合戦であり、自らが自らを裁き続けて自殺をするゲームの中の生き残り競争である。最後は全員が自殺して、そのゲームは終わる。実は、その箱の中そのものが「刑務所」であり、その中でボス争いをしている、「猿山の権力闘争」でしかない。その猿山を見ている人間に当たるのが、神であるが、その神の世界も、神の猿山で同じことをしている。そのすべての猿山の権力闘争を見ているのが、元つ大神である。真釣りに戻らない限り、猿山の権力闘争からは死んでも抜けられない。人類の先祖は猿だと言っているが、猿と人類の祖先が共通ならば、人類は猿である。戦っている人間は、外見は「人」であるが、中身は「獣」である。猿を祖先とする中つ神の世の「獣」は、元つ神の「人」の世には生きられない。

あなたは、自分が自分を刑務所に入れたことを綺麗サッパリ忘れている。自分の意思で神法違反をしたことを忘れているから、自分が自分を裁いた裁判官であり、自分が自分の刑期を決めている刑務官(神)であることに気づいていない。自分が自分の違反を清算すれば、刑務所が娑婆に変わる。刑務所から出ればそこは天国であるが、神法違反の刑務所は死んでも消えず、次元を超えて存在する。神法違反を清算しない限り、自らが刑務所を作り続けて、その中で、できない自由を求めて彷徨い続ける。罪を清算(差し引きゼロに)しなければ、永遠の天国には出られない。もし、逃れられない罪や誰かが与える罰、神の裁きというものがあるとすれば、現代社会を作り出した歴史の源の神を倒さない限り、人類は永遠に天国を体験することはできないことになる。魔釣りの神の裁きは、自称「絶対権力者」の神の気分次第であり、神の言うことを聞けば死なないが自由はなく、言うことを聞かなければ命はない。言うなれば、おのれが死ぬか、最愛の者を殺すか、どちらか選べというのが、魔釣りの神の踏絵である。魔釣りの神、言い換えれば、世の黒幕は安泰である。それはそのまま、魔釣りのアヤマ知の現代社会での究極の場面の選択(脅し)であり、自己犠牲か、自己保身か、の選択を迫られることになる。死ぬのはいやだが、誰かを殺すのもいやだ、と思っていれば、脅した相手に服従するしかないのである。自分が死ぬか、誰かを殺すか、脅した相手に反旗を翻すか(それは、自らの死を選ぶのと同じである)の自由意志の選択があるようで、実は、一つの道しか用意されていないのである。罪悪感を持っている限り、たとえ死んでも魔釣りの神の支配する世界の奴隷から自由にはならない。
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魔釣りの神は、真釣りを外すことに罪悪感は持たない。真釣りを見失っているから平気でできることではあるのだが、天地の理法を破った結果、自らの命の源を忘れ去り、自らの力で何でもできると思い込んでいるから、自らが世を支配している神の如くに振舞って、平然としているということである。結局は、魔釣りの神(その神の末裔である現代社会の支配者=上に立つすべての者)は、真釣りの神を殺すことに何の躊躇もないのである。その神の戒律に同意しているすべての者も、同罪である。現代社会は、真釣りの神を殺すことで成り立っている世界であり、真釣りの神を認めることは、世の破滅に加担することを意味する。しかし、現代社会が魔釣りの世であるなら、世の破滅とは、天地の掟に反した神の作った世界を滅ぼすことであるから、実は、天国の復活を意味する。本当の悪から足を洗うこと、本当の悪の戒律を無視することに、罪悪感はいらないのである。悪を滅ぼすことに異議を唱える者はいない。善から見た悪にとっては、善は悪であるからテロの論理が成立つのである。結局は、「悪を滅ぼすこと」に罪悪感は一切いらないということである。『本当にそれでいいのか』と問い続けるならば、魔釣りの罠から抜け出すことはできない。

魔釣りの響きは、真釣りを外した響きであり、万象万物の創造主に逆らっていることになるから、これ以上の反逆、これ以上の悪は存在し得ない。真釣りを闇に葬ることで成立つ魔釣りの神の戒律は、言わば、天地に反逆する組織に加担させるための掟であり、それに従うことは、本当の絶対天国の掟である真釣りに違反することを意味する。魔釣りの神は真釣りの真コトの一厘と引き換えに生まれた神であるから、真釣りの存在は知らず。今の今までこのことには気づいていない。世の黒幕自身が自らを滅ぼす世界を作っていることを知らないのであるから、盲目的にそれに従うすべての存在は、自らを滅ぼす末路が待っていることに気づけるはずもない。魔釣りの神をも生かしある元つ天地の大神の掟である真釣りの響きは絶対に消滅することはない。もし、消滅するなら、魔釣りが真釣りを生かしていることになり、天国は絶対に実現しない。即ち、真釣りを外した世に加担したすべての存在は、魔釣りの世から足を洗わない限り、真釣りの復活と共に破滅するのである。あなたが魔釣りの戒律(法律、道徳、常識等)に同意しているならば、自らのしていることに気づいて、生き様(態度、思想)を根本から改めない限り、あなたもその道を辿る。罪悪感とは、魔釣りの神が支配する世に封じ込めるために考え出された道具なのである。
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逆さまの世界に生きている人類は、心の世を脳が作る幻想だと思っているから気づかないが、魔釣りの戦いの世界では、この世でも、あの世でも、人間の世界でも、神仏の世界でも、殺し合いが基である。人類の語る形の殺人や、戦争は殺し合いだとすぐわかるが、心理的な殺人というのも、実は、あの世での殺し合い、霊的殺神なのである。従って、魔釣りの響きの世界では、誰も殺さないで全員が天国になることはありえない。脅した相手を含めて、誰かを殺さない限り、自らの生きる道は閉ざされるのである。魔釣りは善と悪の戦いの世界であり、善の言う悪自身は善であるから、悪の潰し合いが永遠に続く。死刑やそれを望む心が許されているのならば、それは、悪を殺すことに罪悪感を持つ必要はないと言っているのと同じことになり、悪が罪悪感なく善を殺せるとするなら、善も悪も含めた全員が天国になることは永遠にありえない。それは、言い換えれば、命の略奪合戦であり、どんな選択をしようとも、魔釣りの世界には滅びの道しかないことを意味する。

魔釣りの響きで生き延びたいならば、自らが魔釣りの神を支配するしか方法はない。つまり、魔釣りの神の座を自らの力で奪わない限り、魔釣りの源の神の支配の中からは永遠に出られないのである。しかし、自らの命の源を倒すということは、自らを倒すということであるから、自らを倒さなければ天国はないという矛盾したことになってしまう。自らを倒せば、自らは消えるから、天国は体験できない。天国がないなら、天国は語れないが、自らが消えて天国が実現するなら、始めから天国があることになる。魔釣りの神を消して天国が実現するなら、魔釣りがすべての世界ではなく、源の神を倒さずに天国を実現する道があることを示している。魔釣りの源を倒したいならば、源の上を行かなければならない。しかし、源の神はすべてを知っているから、自らを倒そうとする企みも知っている。真釣りの仕組みも同じことで、魔釣りの神をも生かす本当の源を倒せば、自らの命は永遠になくなる。真釣りを外し、思い違いをして自らを滅ぼしてあなたの命がなくなったとしても、真釣りの仕組みは成就して天国は実現するから、あなただけが天国にいないことになる。あなたが「罪悪感」を捨て去らない限り、魔釣りの正体は見えず、魔釣りの言いなりのままに真釣りを外し続けて、最後は、自らを自らで殺す末路に自らを導くことになる。
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魔釣りの源の神に気づかれずに、いや、気づかれても絶対に天国に戻れる方法が一つだけある。魔釣りの戒律に逆らうのでも、魔釣りの神を殺すのでもなく、魔釣りの戒律を越えた世界に移ってしまえばよいのである。魔釣りの戒律は元々何の力も持っていない。魔釣りの戒律に力を与えているのは、魔釣りの世をすべてだと思って、その世界から死ぬことを恐れている自分である。そういう生き様をしてきた集団が展開してきたのが、神話も含む人類の歴史であり、そのまま進めば、魔釣りの神もろ共、本当に人類滅亡が現実となる。実は、現代社会の源を知るということは、真釣りを思い出すことであり、魔釣りの神を倒しても天国はできないことに気づくことである。魔釣りの源を倒すのではなく、自ら内にあるアヤマ知、即ち、自らの囚われている魔釣りの響きをすべて消せば、元々持っていた真釣りの響きが復活し、魔釣りの支配の及ばない世界に移ることができる。その真釣りの響きを保ち続けていれば、必ずやって来る魔釣りの世の消滅と同時に、真釣りの天国に生き戻ることができる。真釣りに戻れば、魔釣りの神の戒律を素通りして、真釣りの掟に戻ることができる。真釣りの掟は生死時空を超えた絶対真理であり、この世でも生死の響きが消えるから、自らにとっては、恐れを使った魔釣りの脅しは全く意味をなさなくなる。つまり、真釣りの掟に戻れば魔釣りの掟は相対的戒律となり、自らに全く影響を及ぼさなくなるのである。真釣りの真コトに戻ることが、魔釣りの神を越える唯一の道なのである。

今の世でいう罪は罪ではない。罪そのものは実体ではなく、真コトを闇に葬った神が支配の道具として作った嘘に過ぎない。神が人を、人が人を罰する「裁き」という概念も幻である。罪悪感というのは、そういうものがあると信じている自らが作り出す幻想である。罪と罰の幻想に基づいたマボロシの世界が神から始まった人類の歴史であり、現代社会は、そのマボロシを究極まで実体化してしまった世界なのである。今となっては、自らが「被害」を受けて訴えないのは狂人であるかの如く、他人を裁くことに疑問を差し挟む余地はない世界となっている。神から主権を奪って民主主義を進めてきた現代社会にある逆さまの常識(宗教、科学、経済、道徳等)を信奉している限り、自らが自らの現実を創った神であるという自らの正体に気づけるはずもない。裁き合いの世界は永遠に止まることはなく、その究極の行動である戦争も永遠に終わることはない。そして、核兵器を握ることで、睨み合いをしたまま時が経ち、最後には、我慢の限界を超えて核のボタンを押す瞬間がくる。

心の葛藤が究極まで煮詰まれば、あなたの意思でその爆弾を止めることは絶対に出来ない。あなたが今自分だと思っている肉体は、命の器に過ぎず、今の世で学んだ「死の怖れ」は、嘘の響きが見せる幻である。形の世界は、心の世界の顕現であり、本当の実体は、心の世界にある。心が完全な暗闇であれば、それは即ち、あなたがすでに死んでいることを意味し、本当の真実=天地自然の掟が復活した瞬間、あなたは二度と生き返れない即死となる。自らの本体が、生死のない魂(霊)だと気づき、自らがすべての源であったことを認めない限り、死んでも苦しみから逃れることは出来ず、最後は自爆して果てる末路となる。現代社会は、逆さまの世界を究極まで形にした結果であることを覚えておくことである。これを否定するならば、それは、あなた自らが永遠の滅びを呼び込んだことに他ならない。あなたが自らの真釣り外しの責任をすべて引き受けない限り、あなたに救世主は来ない。
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結局は、罰という概念は、あなたが選択した価値観に従って自分の何かを×している自分が自分に課す自己審判である。社会を構成する全員がその幻を信奉していれば、形としての刑務所が現れる。形があるから実体なのではなく、実体だと思い込んでいる自分がそれを実体化したのである。万象万物は神である。言い換えれば、すべてが自分の世界であるから、その万象万物を使うことで、神自身が思った通りの世界を作れる。出来た世界は思いの顕現である。今持っている思い込みをすべてひっくり返さなければ、人類の永遠の夢である本当の天国は実現しない。本当の天国を自ら壊したことを忘れ、天国を作ろうとした末に現実となっているのが、現代社会という形の世界である。神も含めた支配者から大衆まで、全員が罹っている集団催眠、自らが自らに嵌めたマインドコントロールを外せるのは自分だけである。「すべて」は自業自得であり、自分の生死を決める神は自分である。

現代社会にある学校、刑務所、神社、お寺等々は、実は、自分がいる世界を自分の外に作り出したものである。現代社会にあるものは、現代社会のクローンであり、この世の姿そのものなのである。現代社会そのものが、真釣りに戻すための学校であり、刑務所であり、神社である。学校のすべての課程を修めれば卒業して社会に出る。刑期を終えれば、娑婆に出る。神になれば、神社はいらない。つまり、それらがある世界というのは、わからないことがある者の世界であり、自らの罪を償っていない者、自らが神であることを忘れた者の世界である。言い換えると、すべてを知る気がない身魂、神法違反の責任を押し付けあっている身魂、神に戻る気がない身魂の作り出す世界である。現代社会の仕組みを学び、現代社会でいう罪を償い、現代社会でのご利益を願っても意味はない。その中の学校で何を学ぼうと、刑務所で刑期を終えようと、神社で神に祈願しようと、本当の自由も平等も天国もできない。神法に違反して天国を壊した世界で作ったもので何をしようと本当の天国には帰れない。ますます、違反が進み、学校が乱れ、刑務所が意味をなさなくなり、神のご利益がなくなり、結局は、その世界は、混沌、混乱、混迷、問題だらけの世界になる。

『神が許しているから裁いてもよいのだ』というのは「許しているものを禁じる」という矛盾を封印して、自らの生き残りを図るために邪魔者を消す行為を続けるための詭弁である。この世で存在が許されているものを殺すという思想を持つ者、言い換えれば、犯罪者(悪人、この世でいう悪魔)を裁いている裁判官とそれに同調している者(善人、この世でいう神)がどんな運命を辿るのか(自らがいったい何をしているのか)をよく考えてみて欲しい。元つ真釣りの天国には、何の問題もないから、秩序しかない。秩序の維持という思想は、言うなれば、天地の掟を破った悪神が自らの支配する世の維持を図って大神を封じるための策略であり、その企みは絶対に成就しない。どんなに悪あがきをしようとも、悪神が創った世界は、必ず滅びる。真釣りという神法に違反したことがすべての問題を生み出した根源であり、問題は元々どこにも存在しない。つまり、「問題解決」という概念自体が幻想であり、源が魔釣りである以上は、問題が解決されることは絶対にありえない。
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現代社会でいう「問題」を「解決」するためには、問題を生み出した本当の原因を消去しなければならない。自らがその原因を持っていれば、問題の解決と同時に、自らが消去されることになる。今のままで社会をどう改革しようとも、新たな問題を産み続けた末に、自己崩壊の結末が待っているだけである。真釣り外しの世自体が悪であり、何の目的でそれを続けているのか、その世界の中で善と悪の潰しあいを続けても、全く意味がない。魔釣りのアヤマ知を捨て、自らの生き様を真釣りに戻さない限り、幻想の善と悪は共に滅ぶ。

民主政治は、自由の仮面を被った、リーダー不在の利己主義者集団の集団独裁統治である。構成員が奪い合いをしていなければ、集団も奪い合いにはならない。奪い合いをしていれば、社会は戦いになる。戦いの世界で自由を確保するには、支配権の奪い合いが必然となる。王政だろうが、民主制だろうが、根底にある思想は変わっていない。権力闘争の世界である限りは、どんな策をもってしても、全員が平和に暮らせる世界を創ることは不可能である。人類の歴史が始まって以来、為政者は、本気で平和な世を作ろうなどとは思っていない。もし、本当にそう思っているならば、権力闘争はしない。そもそも、魔釣りの世界自体が平和を壊した世界であるから、真剣に世界平和を訴えたとしても、それは実現しない。自らの大元の取り違いに気づかない限り、実現しない幻想を追いかけ続けるだけである。社会システムの裏に流れる思想を見れば、その社会の構成員の持っている思想がわかる。思想が変わらなければ、結果である社会は変わらない。社会は思想の顕現である。現代社会にある思想の根底にある大元の思想を引っ繰り返さなければ、言い換えると、魔釣りをそのままにして表面上の政治理念をどう変えようとも理想国家の現実はありえない。

集団という概念は、略奪の世界を効率よく操作するための道具であり、集団を統治するという思想は、戦いの響きを持つ個人の集まった社会を支配するための戦略である。その世界では、誰が指導者になろうと、支配者と被支配者の権力闘争である限り、絶対に平和な社会は実現できない。民主主義とは、民が政治家を操って、自らの思いを果たす、集団逆統治の仕組みである。政治家は民の顔色を伺いながら自らに利益のある民の勢力と手を組んで自らの理念を実現しようとし、民は投票という殺生与奪の権をちらつかせて政治家に自らの思惑を実現させようとする、相互依存、相互呪縛のシステムである。政治家は、国家権力を操れる分、優勢ではあるが、双方が相手に命を預けているから、どんな政治理念であろうと、どの政党が政権を取ろうと、政民どちらも永遠に自由にならない。その間で生き残りを図る官も結局は、政と民の動きに左右されるから、最後は、全員丸潰れである。
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個人の自由、権利と義務、民主化神話、男女平等の思想にどっぷりと漬かっている先進国の市民は、王制に戻ることを望まない。王政から民主制へと世を進めた末の現代社会の大衆は、過去の政治支配のトラウマから、過去の政治システムに戻ろうとはしない。民主化することが世界平和の最善策だと思い込まされているが、実際は、自らの存在の源である神から主権を奪い取ったに過ぎず、神を闇に葬っている大衆が主権者であると主張しても、平和などできるはずがない。民主主義は、最善のシステムなどではなく、世界支配の野望を成就するためのシナリオの最終段階に過ぎない。好き放題に振舞う大衆同士の争いを煽って混乱を作り出し、秩序を崩壊させることによって、自らを導いてくれるリーダーを大衆が要求するという形で、大衆の同意の上の独裁者による王政に戻すためのステップである。大衆自らが求めた独裁者は、大衆が選んだ独裁者であり、自ら選んだ限りは、従わない者は反逆者として処罰できる。相互依存の略奪の歴史の魔釣りによる政治システムは、民主主義によって秩序が崩壊し、それを収拾するためという名目で権利が奪われてアメとムチの支配が完成し、独裁政治の復活となる。そして、王制、王政、神政の復活へと進み、最終的には、魔釣りの最高神が世を支配する神の世界へと戻る。聖書の世界が現実となる。

自衛隊のイラク派遣ではないが、『戦争を避け続けた末に、戦争に参加させられる』という力学に基づいてこの世は動いている。天地自然の掟を破って、自らが世界を支配しようと企む神とその手下の作った世界で、あなたが自らの生き残りを図っているならば、必ず天地自然の掟を破った責任を取る時が来る。これは、あなたがどんな策をもってしても、避けることは出来ない。もし、それをしようとするならば、あなたは自らで永遠の命を捨てる道を選択したことになる。あなたが天地自然の掟を破った世界に同意している限り、最悪の結末から逃げることは絶対にできない。天地自然の掟を破ったあなたが天国に永住することは許されない。自然の掟に反した者は、神、人を問わず、自然淘汰となる。これは創造の法則であり、そこから逃れることは神にすらできない。できると思うならば、それは、掟を破っている証であり、この自己矛盾、禅問答から抜けるには、掟破りを認めて、その責任を取るしか方法はない。自らの世界を自由自在に操れない限り、あなたの意思が及ばない状況になる時が来る。自らの望まない世界を封印し続けても、結局は、自らの知らないうちに最も避けたい世界に入り込んでしまうことになるのである。創造の法則は、生死時空を超えて働いている。従って、例え何度生まれ変わろうとも、自らの責任を取らない限り、その世界から抜け出すことはできない。自ら作った現実である限り、今世に存在するどんな高等な詭弁を持ち出して現実を誤魔化そうとも、必ず、矛盾に直面する時が来る。あなたが避けている現実は、あなたが掟を破り続けた結果であり、自らが自覚して、自らの矛盾を認めない限り、最も恐ろしい現実を体験することは避けられないのである。
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魔釣りの最高神の支配の完了というのは、元つ真釣りを外した「情けと花の仕組み」の世から見た真釣りの大神の神代に戻す仕組みの映しである。言うなれば、真コト真釣りの神代の光が一段落ちた(次元を一つ落とした)、真コトの一厘を見失った神の世界での天国復活の仕組みの話である。従って、光を一段上げれば、魔釣りの最高神の考えている世界は、すべてが無に帰す。しかし、真釣りの真コトの一厘を知らない魔釣りの最高神は、自らがすべてを知っている創造主であり、自らの知力で何でもできると思い込んでいる。自らの支配が完了した瞬間に魔釣りの世が消えることを知らずに、自らが支配する天国が絶対に成就すると信じ込んで、旧約聖書で言う「天地創造」から今の今まで何千年もの間、神を使い、人を使い、成就することはないその世界を完成させることを夢見て、幻に終わる世を進めてきたのである。神道も含めて、現代社会にあるすべての宗教の源流は、この神まで遡る。当然のことながら、この最高神と血統を同じくする神々やその手下である神々、その神々を信奉する人間、つまりは、現代社会に存在するすべての宗教と、その神々が根底にある科学で作った物質文明は、この神と同じ世界にいることになる。現代社会は、神から人まで、すべてが、この「最高神」の目指す世の現実に貢献している社会なのである。

現代文明は、西洋文明がその源であり、その西洋文明の基にあるのが、キリスト教である。キリスト教は、ユダヤ教が基にあり、ユダヤ教はヤハウェ(エホバ)をその最高神とする。イスラムの最高神は、唯一絶対神のアッラーである。この三宗教は、アブラハムを共通の祖先とする兄弟宗教であり、その聖地は、すべてエルサレムにある。嘆きの壁、岩のドーム、聖墳墓教会がそれであり、キリスト教はイエスという取り次ぎの語る言葉を通しての天の父と精霊と子の三位一体信仰であるが、ユダヤ教とイスラムは、唯一神を信奉する宗教である。一神教とは、自らの神を絶対とし、自らの神以外は認めない、という思想であるから、形の上では「共存」することはできるが、それぞれの神が「絶対神」である限り、神を一つにすることはできない。自らの神を認めさせたいが、相手の神は認められないという矛盾を解消したら、一神教は成立たなくなる。一神教同士が対立し、「相容れない」三つの宗教が一つの場所を聖地としている世界では、どんな手立てをもってしても、人間の世界で平和を実現することはできない。エルサレムの聖地主権争いは、世界の縮図でもある。一神教同士が和解しない限り、世界は一つになることはないが、実際のところ、それは、できない相談である。一神教同士が、自らの絶対神を産んだ本当の絶対神、すべての一神教の神を産んだ親神、一神教の源の唯一神を認めなければ、一神教の対立は解消しない。宗教的対立をそのままにして、人間同士が話し合いをしても、自らの主張を譲らないから、議論は物別れに終り、戦争という実力行使をしても、永遠に報復が続くだけである。

議論も戦争も、その顕現の源は同じであり、言葉を使うか、軍事兵器を使うかの違いに過ぎない。言論殺人をするか、肉体殺人をするか、の違いであり、それは、どちらも同じ動機に基づいた行動である。一神教の信奉者は、その絶対神と同じ思想を持つ。自らを絶対だと思い込んでいるなら、それは、一神教の信者の証である。お互いに自分が世界で一番になりたい蛇同士の睨み合いの世界は、結局は、共食いを経て、刺し違いで戦いは終わる。一神教同士の戦が終わった後に残った世界(本当の天国)こそ、本当の唯一神の世界である。
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一神教では、すべては、神の命ずる通りの行動をすることが善であり、神の思想に従った文化を形成していく。八百万の神々の日本は、一神教の思想の理解は難しいと言われるが、戦前の天皇主権の下で実行された「神風特攻隊」の精神は、皇国のために命を捨てる精神の極致であり、現在の自爆テロの思想そのものである。太平洋戦争の際、全滅を玉砕と言ったが、それは、玉(魂)を砕く、と言う意味である。神道や天皇を軍事政権と軍部が利用したことは事実であるが、精神論で国がまとまるのは、日本人の根底に神がいるからである。科学と経済一辺倒の思考が加速したのは、戦後教育がもたらした結果であり、魔釣りの世界だとはいえ、戦前は、まだ「神を敬う心」「宗教心」が残っていたのである。現在ならば、神ではなく、金で誘導すれば、国民は簡単に右から左に動くことになる。神の力よりも、金の魔力に惹きつけられてしまうのが、現代社会の日本人である。神道は、八百万、つまり、万象万物に神を見るが、その万象万物の産みの親神を信奉する一神教である。

イスラエルとパレスチナの報復合戦の正体は、ユダヤとイスラムの神の聖戦である。そして、イラク戦争は、キリスト(十字軍)とイスラムの聖戦である。現代社会にある、その他の解決されない国際社会のルーツはすべて神の争いに行き着く。神から始まった世界の根底には、神が居続けるのが当然である。民主主義のリーダーである米国の大統領は、就任式で聖書に手を置いて宣誓し、演説の最後には必ず、『アメリカに神の祝福を』と言う。神と人、神の世と人の世は、一体不可分である。国教を封印した現代日本は、民主主義を形だけ輸入し、政治に宗教を絡めるのをタブーとし、公立学校では宗教そのものには触れない。日常から神を追い出した現代の日本の大部分の国民は、神を中心に生活する国の文化を理解することはできない。知識として教えることはできるが、神と一体化した生活の実感そのものは教えることはできない。現代日本は、国際問題を人間の世界の話だと思っている。しかし、人と人、国と国の争いの源は、神と神の争いであり、すべての対立の根底には、宗教があるのである。もし、神話が本当にただの物語であり、神などいないとすれば、人が自らで自らを産んだことになってしまう。神の存在は認めても、それが日常に影響を及ぼさない知識の範疇を出ないならば、現代社会の正体を知ることは難しい。神同士の争いが根底に存在する国際紛争を人間同士で解決することは出来ない。元々は、人間の思想自体が神の思想であり、神と神の対立を収拾しない限り、問題は何も解決しない。『人間の思想は神の思想である』ということ自体を認めないのが現代の日本人の思想であり、神(宗教)の本当の力、本当の恐ろしさを最もわからないのが、神を消した神の国である。
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歴史を通じて中東に関わってきた米国も英国もキリスト教がその根底にあり、さらに石油利権や民主化、民族紛争、軍事的戦略等の経済的、政治的、民族(文化)的、軍事的な要因が複雑に絡んで、紛争の解決を余計に難しくしている。この問題が解決することは、即、世界平和の実現となるが、それは一筋縄ではいかない。現代社会の国際問題の根底には、言わば、天地創造以来の怨念とトラウマが尾を引いており、何千年にも渡る神と神との主権争奪戦の究極の現象化の側面があるため、政治的、軍事的、科学的アプローチだけではその解決は不可能である。戦いの根源を自覚しなければ、報復合戦がエスカレートするだけで、和平どころか、人類滅亡の現実を自ら引き寄せてしまう。本当の天国は真釣りの世であり、本当の平和は真釣りでしか実現しない。人類の歴史は、真釣り外した身魂を真釣りに戻す「情けと花の仕組み」の中にあるから、今の逆さまのやり方で何を試みようとも天国の実現は絶対にありえない。真釣りを外した逆さまの世である限り、その結末に待っているのは滅びのみである。真釣りに戻した世界、言い換えれば、魔釣りをすべて捨てた世界が本当の天国である。真釣りを闇に葬った魔釣りの世から見た闇の世界、それが、一厘の真コトの天国、ミロクの世である。今の世界のやり方では、国連がどんなに尽力しようとも、今の世にある宗教のいかなる神に縋ろうとも、世界平和は永遠の幻なのである。

三大宗教のうち成立が最も新しいイスラムは、コーランを教典とし、ムハンマドを最後の預言者とするが、旧約聖書と新約聖書、即ち、ユダヤとキリストの両宗教の預言者も認めている。ただ、イスラムの信者にとっては、あくまでも、ムハンマドは神の取次ぎであり、信者はアッラーを直に信奉しているから、いざ戦いとなれば、その一体感、団結心はキリスト教よりも強い。十字軍と言えば、世界史上の出来事であるが、歴史的な背景から、イスラム勢力とキリスト教勢力(十字軍)との宗教戦争は、形を変えて、民主社会と言われる現在でも続いていることは周知の通りである。宗教の思想や歴史を抜きにしては、世界史の本質は見えないのである。特に、イスラムの偶像崇拝を禁止の教えは、解釈によっては、現代社会における宗教対立を加速させる要因にもなっており、バーミヤンの石仏の破壊は、その象徴である。それは、相手側にとっては、自らの神(仏)の冒涜と映り、火に油を注いで報復合戦が激化する。戦前の日本がよい例であるが、宗教というのは、その解釈次第でどうにでも利用することができる。日本の神道は、偶像崇拝はしないが、鏡と勾玉と剣が三種の神器として祀られている。実際には、この神器は、一つの響きが形として別の現れとなったものであるが、バラバラの形だと見れば、神道の本質を見ることはできない。神社の本殿には鏡が安置されているが、これは、降臨の際に天照大神が自分の形代として託した神鏡がその根拠である。鏡は自らの姿を映す。日本人は、神様に参拝していると思い込んでいるが、その意味は、『自らの姿を省みなさい』という神託と同じである。今の自らの生き様も、ものの見方を根底から見直さない限り、自ら滅びを呼び込んでしまう。

現代社会は、分裂の響きが形になった極致である。宗教同士の対立に加えて、各宗教内でも分派や派閥の争いがあり、世界統一は一筋縄ではいかない。ギリシャ正教、ロシア正教、英国国教会等の各宗教の分派も含めて、カトリックとプロテスタントが対立するキリスト教とイスラムを中心とする外国(西洋)の宗教は、三大宗教のいずれかに分類される。従って、現代社会のすべての局面において、その宗教の本質である神と悪魔、正義と悪の二極対立の構図が現れることになる。科学というのも、形の現われの解釈という手法で、神が源である物質世界を語る宗教であり、共産主義や社会主義も、あえて言えば、神を認めない神の思想である唯物論にその基礎を置いた宗教と言える。結局は、すべての宗教と科学を突き詰めれば、最後には「神の領域」に踏み込むことになり、神についての議論となる。人類の歴史は、表面上は膨大な出来事が積み重なっているが、その根底にある「人類の歴史を進めた力学」は、天地創世から現代社会まで一切変わっていないのである。
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東洋を見れば、曼茶羅の中心に座す大日如来を宇宙創造仏とする仏教は、ブラフマンを宇宙創造の源とするヒンズーの流れを汲む。アメノミナカヌシを宇宙創造主とする今の日本神道も結局は、天照大神を最高神とする一神教である。その他、各民族の土着の宗教も、それぞれの最高神を祀る一神教である。自然崇拝等の多神教であっても、自然や神々を産み出した源の力を神とする一神教と言えるから、結局は、人類の歴史を通した争いは、一神教の神同士の争いに帰結する。一神教の神同士が争うという矛盾を解決するためには、それぞれの唯一神を束ねる唯一神の登場が必要であるが、しかし、実際は、その唯一神もまた、唯一神ではないのである。そしてもし、世界をすべて束ねる唯一神の存在を認めると、それは、今まで世界を牛耳ってきた勢力にとっては、自らの作ってきた世界を一瞬のうちに闇に葬ってしまう、自らが信仰する神と自ら自身の存亡に関わる危険思想となり、現代社会のすべての営みが成り立たなくなるという現実を突きつけられる事態に直面する。これは、一人一人にとっても、自らの拠り所をすべて失う一大事であり、本当の唯一神が現われたとなれば、今の自分の存亡だけを目的に、たとえ本物であったとしても闇に葬る必要があると考える。それが自らの命の源を抹殺することになる愚かな行為とも知らずに。

本当の宇宙創造神とは一体どんな存在なのか。その答えは、日本にある。日本独自のものとして、宗教学では神社神道と区別されて新興宗教である教派神道として扱われるが、元つ真釣りの立て替え立て直しを知らせる金光、黒住、天理(おふでさき)、大本(大本神論)、日月神示、火水伝文の一連の流れの「神示」がある。これらは、世界をすべて束ねる元つ大神が取次ぎ者を通して時代に合わせて降ろした、神の世界の真実を語った言葉を書き記したものであり、言わば、科学も含めたすべての宗教を統合する教典、西洋風に言えば天地創造神の預言書である。神が語っている形なので、宗教に分類されるが、正確には宗教でも神道でもなく、神話も含めた人類の歴史の裏の裏に封印された、現代社会の本当の姿、本当の天国の正体を明かし、一人一人の生き様を振り返り、本当の世界平和をもたらす術を語る文献である。しかし、既存の宗教の経典とは赴きを異にした表現と現実社会の存亡に直接影響する内容を持っており、時の政府にとっては、宗教の経典というより、どちらかと言えば、実行可能な思想書だと見える。従って、近現代社会にとっては、特に、日本の政府当局にとっては、今までの歴史のすべてを否定し、現実の社会を破壊する恐れのある危険思想として映るため、大本教の弾圧に象徴されるように、あらゆる手段を使って闇に葬られてきた歴史がある。真釣りの響きは、魔釣りの勢力にとって破壊思想なのである。このことをしっかり自覚して、くれぐれも、今までと同じ轍を踏まないようにして欲しい。
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これらの神示は、読む者の心の曇り具合、持っている響きによって、何通りにも読む(解釈する)ことができるため、独自教団を作り、あるいは、外国の宗教を取り込んで、宗教化することもできる。その場合は、教祖本人は元つ大神の取次ぎをしていると思い込んでいて、九分九厘までは真釣りを知らせる教義に見えるが、一厘の差で既存の神道や科学と同じ世界に戻ってしまう結果になる。しかし、これらの神示すべてを貫いている大神の真意はただ一つである。どの神示も、沢山の例え話を交えて手を変え品を変え語られているが、それは一つの真理を伝えるための方便に過ぎない。何度読み返そうとも、それが取れなければ、既存の宗教の経典や、哲学書と同じになってしまう。神示の中の言葉に囚われたり、一部分だけを都合よく使ったりすれば、意味がなくなる。この本は、これらの神示もすべて統合した上で、現代社会の日本人に分かる形で、世界の立て直しの天命を担う神民である日本人に向けて書かれた21世紀版神示である。ただし、本当の日本の神の道ではあるが、その真意を取り違えれば、魔釣りから抜けられないどころか、真釣りをしている積りでも、実際には、魔釣りを進める手助けをしてしまうことになるから、細心の注意が必要である。本当に正直に自らの生き様を省みなければ既存の宗教と何ら変わらなくなり、元つ真釣りのミロクではなく、魔釣りのミヨク(滅び)を進めてしまうことにもなりえることを覚えておいて欲しい。どんなに些細な誤魔化しでも、それは、自らに滅びの道を呼び込んでしまう結果になる。本当の神響きというのは、いい加減な誤魔化しは通用せず、その結果は、鏡のように、ありやかに自らに戻ってくる。今までのようないい加減な「信仰」ではミロクは幻となる。真意を取れるかどうかは、あなた自身にかかっている。本当に素直に自らのマ違いを認めること、100%の口心行を貫くことがその極意である。

聖書で言う「サタン(悪魔というのは、元々は、天の掟を破って地に落ちた神である)」の陰謀とそれを終わらせる「千年王国を創る神(ヤハウェ)」の戦いは、魔釣りの知恵の神と真釣りの真コトの神の戦いの映しである。光を一つ落とした「情けと花の仕組み」、つまり、ヤハウェの掟を真釣りの大神、サタンを魔釣りの蛇の知恵の神、と置き換えれば、まさに元つ天地の真釣りの大神の大掃除と同じ話である。ヤハウェとサタンを産んだ神(大きなサタン)が知恵の神であり、魔釣りの神である。その知恵の神を産んだ元つ大神が大きなヤハウェであり、真釣りの神である。真釣りの元つ大神がヤハウェであり、魔釣りの知恵の神がサタンと置き換えれば、本当の天地創造と人類滅亡の真実が見える。つまりは、聖書の「千年王国」自体がまだサタンの世であり、千年王国の千年王国があるということである。聖書のヤハウェの作る千年王国は実はサタンの世であり、現代社会はサタンの中のサタンの戦い、悪と悪の共食いの世である。悪を使って悪を祓う仕組みは、その通りであるが、その仕組みを使って悪を祓う神も獣だったのである。つまり、獣が獣を使って悪を祓う世界の神ヤハウェの正体は、獣の王なのである。そして、獣の世を終わらせる獣の王ヤハウェこそ本当のサタンであり、そのサタン(つまりは、蛇の知恵の神)を使って、悪を払って本当の千年王国、ミロク(三六九)の世を創るのが、創造神ヤハウェとたとえた本当の神であり、すべての罪を負わさせられた正神真神のカムスサナルノオオカミ様である。日本の国土をご神体とするヒノモトの国祖はクニトコタチノオオカミ様であり、カムヤマトイワレヒコノミコトが本当の神武天皇である。そして、すべての仕組みを産み産んだのが、ナギ、ナミ様を始めとする元つ天の大神様なのである。一つ上の次元から見れば、ヤハウェはサタンである。ヤハウェというサタンがサタンというサタンを使って天地をマ釣り戻す仕組みを作り、それを成就しようと仕組まれたカラクリがイシヤの仕組みなのである。それを実際に進めてきたのは、秘密結社の頂点に立つ十人の王の円卓会議である。現代社会のすべての国家政策のシナリオは、影の黒幕の合議で決まり、その黒幕の指示に基づいて、各国と国連が政策を立案し、世界統一の計画が実行されているのである。大衆がアレコレと不平不満を言っても、社会変革の運動をしても、すべては茶番に終わる。何も変わらないどころか、最後は虫けらの如く葬り去られてしまうだけである。世論というのは、操作の道具に過ぎず、大衆が社会を変えようなどと思っても、世界のカラクリ上、それは絶対に不可能である。しかし、この世を統べる影の黒幕も、サタンの手下であり、そのサタンもヤハウェの世界征服の使い走りである。一般大衆から見たら、とんでもなく荒唐無稽な話であるが、これがこの世を動かしてきた裏の裏の水面下のカラクリなのである。
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大衆も政府も国連もサタンもヤハウェも、どう足掻いても抹殺できないのが元つ大神であり、元つ大神を抹殺しようという響きは、自らを破滅させる響きである。元つ大神の真釣りの響きは天地自然の掟であり、それは、万古末代消えることはない。そして、元つ大神の真釣り世に戻す世の大掃除の計画は、誰が何を企もうとも動かない。つまり、今の世でいう天地創造神から一般大衆まで、元つ大神の真釣りに戻らない限り、戻らない者だけが滅ぶのである。真釣りをこの世に現す役のヒノモトが目を覚まさなければ、世界の破滅である。そのゆえに、最後の最後にヒノモトの民を覚醒させるためにこの本が書かれたのである。ライオンハートの首相ではないが、眠れる獅子が蘇った時、世界は天国に戻る道に帰る。日本人が現代社会で一番神の世界を知らない人種であり、蛇の知の神の世界で国力を誇示し、金と口と手を出して自らの真釣り外しが産んだ貧困国の援助に精を出し、弱肉強食の国際社会で平和憲法を盾に国際貢献に勤しむということは、神仕組みから言ってとんでもなく恥ずかしいことなのである。真釣りを知る唯一の国、世界の父親の元つ親国が、自由、平等、博愛、民主主義、金融経済、IT国家、人類は一家兄弟姉妹、友好親善云々の、アヤマ知の国際社会で『名誉ある地位を占めたい』とはなんとも情けないことである。
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日本が親で外国は子である。世界の真中、父親であるヒノモトが真釣りを忘れれば、子である世界が滅ぶのが元つ神仕組みである。親が子に迎合して、親子がお友達になって、子の好き放題に世を進めることを手伝った日本の「罪」は重い。現代社会の中の親子関係も同じであり、日本の国内問題も同じカラクリで作られたものである。日本(スメラ)が父親の自覚を取り戻し、母親のユダヤ(アタマの勢力)が父親を尊敬するようになれば、子(外国)は、不良になることはない。世界を下から支える父親である日本が、子に苦労を押付けて(支えさせて)楽をしていては、世の破滅である。父親不在の母子家庭では、どんなに頑張っても、安定も安心も平和も自由もない。父親が仕事をサボって、母親におんぶして、子どもと一緒になって大将争いをしているようでは、真コトの教育を受けていない子どもたちが好き放題に世を進めるのは必然である。いつまでもイシヤの仕組みに騙されていないで、シャキッと目を覚まして欲しい。神の仕組みのイロハ(本当の天国を創る元つ真釣りの世の掟と、その世で果たすべき「父親」の役割、真釣り世の家族安泰の仕組み)から赤子に戻って勉強し直すことが父親としての責を果たす第一歩である。本当の真実を思い出し、真釣りの真コトを磨いて、世界の父親であることをしっかりと自覚して天命に戻って欲しいものである。それが、現代社会のすべての問題を解決する唯一の方策である。原因を直せば、結果が治る。現代社会のすべての問題の根源は、ヒノモトが真釣りを外した(身欲、快欲に囚われた)ことに行き着く。ヒノモトの目覚めが世界の目覚めである。

ヤハウェが自らの世と言っているのが元つミロクにあたり、サタンの世が魔釣りの666である。ヤハウェがサタンならば、今世は666の中の666である。その大きな666を三六九にするのが元つ大神なのである。このカラクリは、東洋文明を研究しても、西洋文明を研究しても、神話を魔釣りの目で読み解いても、人類史のどこを探しても、見つけることは出来ない。西洋文明を崇拝している限り、真釣りの真コトは見えない。宗教と科学、神と金の世界、それは、創世期のエデンの園から始まった。世を支配したいサタンは神の仮面を被り、身欲を煽り、金と科学で天国を創ろうとしている。サタンが現代社会の善、天使、正しさの基準を決める。それが本当の悪であり、その悪を潰すのが、闇に封じられたヤハウェの神である。そのサタンの陰謀(世界征服の陰謀)の中の正義と悪の戦いがお金と科学を基にした現代社会であるから、破滅をカモフラージュした進歩という仮面に魅せられるならば、それは、あなたの破滅を意味する。一般社会が問題にしている悪は、現代社会というサタンの統べる悪の世でのそのまた悪の話であって、物質の世界と精神の世界を混同している。サタンを含めた今世のすべての宗教の神は、魔釣りの蛇の知恵の最高神がその源であり、善神も悪神も、知恵の神の登場で滅びる。獣を使って獣を潰す穢れを祓う仕組みである。しかし、知恵の神も獣であり、もう一つ上に同じ仕組みが被さっている。悪を使って悪を祓う本当の仕組みを統べる元つ真釣りの大神が本当の天国を創る本当の「天地創造の神」である。一つ大きな仕組みでは、魔釣りの蛇の知恵の神ヤハウェは、獣の王サタンに変わる。ハルマゲドンの正体は、本当の天国に戻す本当の神の最終決戦、魔釣りで魔釣りを立て替えて真釣りで魔釣りを立て直す、情けと花の仕組みの成就である。
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『我以外を神としてはならない』と言えるのは、本当のαでありωである元つ真釣りの大神だけであり、元つ大神を闇に葬った神の世界のその神も葬った人類の歴史の末路が現代社会である。あなたがその神を信奉するならば、その神が『自らの真中の真コトを磨き出せ』と言ったら、あなたはあなたの中のその神を捨てなければならない。従って、『すべてはあなたの中にある』と言うキリストを本当に信じるならば、キリスト教は成り立たないはずである。それが存在するとするならば、キリストそのものを信じているだけであって、キリストが何を言ったのかを全く聴いていないことになる。この本を批判したり、この本に縋ったりするのも同じことで、これはすべての宗教、学問にあてはまる。自分が自分を信奉し切って、初めて、本当の神の響き、大神の真意が分かるのである。すべての神を捨てたらすべての神が分かる。究極の真理であり、究極の難問、史上最大のパラドックスである。これを、生きている間も死んだ後も、すべての時間、すべての場所で実行し続けて初めて、現実として本当の天国を体験できる。分かっただけではまだ半分、分かったことを行じなければ、何もしていない(真釣りか魔釣りか二つに一つの道しかないから、つまり、魔釣り=滅びを進める)のと同じなのである。この本は、著者自身がこれを完全に実行した結果として書かれたものであり、真釣りが存在する証拠は今あなたの目の前にある。

著者の今生の御用は、ヒノモトに残る一厘の真コトをヒノモトの神民に伝えることである。この本を書いたことで、人類の歴史の裏の裏に封印された真実と、魔釣りのアヤマ知で作られた現代社会のカラクリを明かし、真釣りの存在を知らせるという責任は果たした。後は、あなたがこの本に書かれた事実を認めるかどうかの問題となり、それは、著者の関知するところではない。あなたは、滅びるまで反論(拒否)し続けることもできる。しかし、あなたがこの著者に反論するならば、あなたは「すべて」をわかっていないことになり、この本が書かれた真意を全く聴こうとしていないことになる。元つ大神の三歳苦難の祓い清めというのは、形の顕現の源である響きの大掃除であるから、形の世界だけ、アタマの知識だけ、形のお祈りだけ、形の掃除洗濯だけ、では天国どころか、逆に、滅びを呼び込むことになる。あなたがこの本に書かれた事実をどう扱うかで、あなたの永遠の生死が決まる。

神のシナリオを完全に封印してしまった大衆は、科学と経済の世界にどっぷりと漬かっているから、聖書が語る世界や古事記の語る世界をただの神話(絵空事)だと言う。しかし、その思い自体が、敬神を壊すために陰の黒幕によって植え付けられたアヤマ知であることを知らず、民主主義が平和をもたらすと本気で思い込んでいる。人類の歴史が神から始まったがゆえに、大衆から神を取り上げてしまえば、世界征服の陰謀にすら気づかなくなる。俗に言う「未開民族」の土着の宗教も蛇の知恵の神の中である。その未開民族を侵略し、土着宗教をキリスト教やイスラム、一党独裁の共産主義、社会主義、民主主義に換えていったのが、西洋からみた人類史である。人類の歴史が神から始まったという事実を否定したら、お金で天国を創れる、科学ですべてがわかる、現代人が神の世を作れる、ということになる。百歩譲って、現代社会の宗教の神が天国を創れるということになる。歴史を辿ってみればわかるが、現代日本ほど、日常から神が消えてしまった社会はない。形では祭りや神事や宗教行事をしているが、その意味や精神はわからなくなり、結局は、お金の話に帰結する。神社やお寺、教会、宗教団体すらお金が無ければ運営できなくなってしまっている。宗教から日常まで、お金の話のオンパレードの日本が、元つ真釣りの大神の真釣り戻しの父親の役を担っているとは、考えてみれば、末恐ろしいとんでもない状況まで落ちたものである。世界史から宗教戦争を排除したら真実は見えない。現代日本がどんな社会になっているかを見れば、今の日本国の行く末がどうなるかは火を見るよりも明らかである。これをまた『荒唐無稽だ』と言うその癖を封印しなければ、あなたは確実に破滅に向かう。それでもよいならそれで構わない。あなたがどうなろうと、ミロクは甦る。あなたにはそれを邪魔することはできない。真釣り戻ればあなたは天国、邪魔するほど滅びに向かって、最後は、あなたは天国にはいないからである。神がなければ何もないのである。
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魔釣りの最高神は、真釣りの神代に戻れば真神となる。真釣り外しの清算をさせるために大神が産み生んだ、元々は正神真神の霊統の神だからである。ご自身の誕生と引き換えに真コトを見失ったゆえに、今は自らを最高神と思い込んでいるだけのことであり、最後は真釣り外しの清算の手伝いをしていた手下の魔釣りの神々と共に真神に戻る。従って、三千世界の真釣り戻しが完了した時、真釣りを外した魔釣りの世は終りを迎え、魔釣りに囚われた者だけが滅びる。現代社会は、真釣りの情けと花の仕組みを取り違えた、真コトの一厘を見失った魔釣りの神が仕組んだ、獣を使って獣を祓う、悪を使って悪を祓う、金を使って金を払う、偽の天国(滅び)に向かっている立替えの仕組みの世の末である。今のあなたが信仰している神の神、あなたの源は魔釣りの神に繋がっている。あなたが立て直しをせず、今のままの生き様を続けるならば、あなたにだけはミロク代はないことを覚えておくことである。今の世で鬼門に封じられている、ミロクを復する尊きご苦労の御役のカムスサナルノオオカミ様が真コトの王の王の王と神響きで顕現する時、魔釣りの最高神(蛇の知恵の神)は真神に戻る。万古末代弥栄える「本当の天国」が復活する瞬間である。

独裁者とは、本来、自分で自分のことを裁量できる者のことをいう。権力争いの世界の独裁政治は、独裁者が自らを神の如く思い込んだ瞬間に崩壊の道を辿る。しかし、独裁そのものが悪というわけではない。全員が独裁できる社会は、法権力による統治は必要なく、独裁政治をしても社会は平穏に推移する。誰が中心に座っても、その社会には問題は一切生じない。誰かが誰かを支配する、誰かが誰かに依存する、という形は、本来はありえない。法律がなければ社会が乱れるならば、その社会は、外圧がなければ好き放題をして混乱する社会である。自由を求めるが、自由の責任は取りたくない者たちの創る世界である。相互依存と報復の世界では、どんな政治をしようとも、本当の自由社会の実現はできない。
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魔釣りの社会は、根底に分裂の響きを持っている。従って、各自が好き放題に振舞うと社会は無秩序な状態となる。そこで、社会の秩序維持を名目に、法律という、アメとムチを使う外圧が考え出され、さらに、その神(法律)の力を維持するシステムとして、法律を神とし、その神(法律)の力を後ろ盾にした国家機関、即ち、警察(軍隊)という治安管理機構と裁判所という処罰仲裁機構が創られる。当然、警察(軍隊)や裁判所自体の秩序維持機構も不可欠となる。しかし、魔釣りの世界は真釣りに違反した世界であり、大元が魔釣りである集団が秩序の維持しようとしても、その社会の実体が略奪の支配合戦である限り、いずれ、秩序は崩壊することになる。本来の真釣りの世界は、秩序そのものの世界であり、秩序を維持する必要は全くない。従って、法律も警察も軍隊も存在意義はない。

真釣りの世界には、魔釣りの者は存在することはできず、本来は、アメとムチによる支配はありえない。しかし、真釣りを外し、自ら産み出せなくなった者は、有限の略奪の世界で自らの天国を求めて快欲を追いかけるから、魔釣りの世界の中では、アメとムチの思想を使って社会システムを創り出して、大衆を操作することができる。真釣りどころか、魔釣りの為政者の企みすら知らない大衆を、宗教と科学を使ってアヤマ知を植え付けて魔釣りの世界に封じ込め、ウソの世界を真コトの世界と思わせて、進歩発展の名の下に世を進めれば、世界を支配することは容易である。実体である真釣りの世界を実体のない空想の世界の如く思っていれば、実体があると思い込んでいる魔釣りの世界にどっぷりと嵌まり込み、自らの命の基であるその世界を維持しようと自ら画策し続ける。しかし、魔釣りの世界は蜃気楼のようなものであり、実体としては存在しない世界である。形が壊れても心は残り、この世が壊れてもあの世は残る。思いが先か、形が先か、思って動くのか、動いて思うのか、エネルギーが物質を作るのか、物質がエネルギーを作るのか、神が人を生むのか、人が神を産むのか、どちらがどちらを産み出す源かは明白である。魔釣りの世界におけるアヤマ知のやり方で治安維持をするというシナリオは、魔釣りの世界だけに存在する幻想である。魔釣りの世界から見れば実体があるように見えるが、秩序維持という思想自体がマヤカシであり、真釣りの世界に戻れば、治安を乱した者もそれを取り締まる者も、その機関も、魔釣りの世界とともに幻の如く消えてしまうから、「治安」は回復してしまう。神から人まですべてが真釣りを外し、魔釣りに囚われたことが、すべての混乱の始まりであり、秩序を乱したそれぞれが自らの真釣り外しを清算しない限り、秩序は回復しない。

すべては自分の思った通りに形になる。自分が「死」を思えば、死のある現実を体験する。死をもたらすものと、死を避けるものが形になる。生を奪う者と、生をもたらすものが目の前に現われる。悪魔や天使と言われるものが思いに現われ、形になる。肉眼で見ていると思っているものが、実際は、肉眼で見ていないこともある。肉眼で見ている積もりでも、見ているのは重なっている別の世界なのである。幻覚、幻聴という現象は、今の世では異常扱いされているが、それを体験した本人にとっては、本当に聴いたり見たりしている現実である。魔釣りの世は幻であるから、その世界で見たもの、聴いたことも、幻覚、幻聴であるといえる。形そのものが現実ではなく『形をどうみるか』という思いが現実である。肉眼で見える世界も、その実体は、見ているのは形そのものではなく、自分の心の世界の映像である。正確に言えば、想像の世界の空想も夢も幻想も現実であり、形ある世界だけが現実なのではない。幻覚、幻聴を異常視する者こそが、真実が見えていない者である。
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すべての物事を、自分が解釈できる範囲に下ろして理屈をつけ、勝手に納得する。その理屈の世界では説明がついても、範囲を広げれば、それは、枠の中の解釈となる。ある世界で成り立つことが別の世界では成り立たない無理がある説明になる。矛盾が見えても、理屈をこねくり回してその矛盾を隠す。自分が矛盾していることを指摘されると否定する。すべてを説明できる者は、何も否定しない。否定する者は、否定することで、自分が説明できないことを誤魔化しているだけである。確かに、「その世界では」言っていることは、すべて真実である。ただし、「その世界の枠の中では」という条件付きである。より大きな枠に出れば、それは相対的な真実となる。その世界では誤魔化せると思っているが、その上位の世界では、誤魔化しは効かない。神はいるかいないか。神はいるともいないとも言える。神はいるがいない。神はいないがいる。これらが何も違わないことが、何も引っかからずに納得できたとき、神は消える。しかし、神は消えない。自分が神になるが神は自分ではない。混乱する、わからない、苦しい、ありえない、と感じる間は、統合はできていない。すべての表現に何も引っかからなくなった状態が、すべてがわかった状態である。映像、言葉、文字は、響き(振動)の表現であるから、不協和音を聞いているような状態ならば、形だけしか見ていない。神と悪魔が同じ響きであることに嫌悪感を持ったり、否定したりするならば、あなたは分裂の響きを持っている。元の響きを分裂させる作用をしている。過去と未来、光と闇、前と後を別のものと見ているのはあなたである。別のものと見ているあなたがその見方をやめない限り、あなたには本当のやすらぎはやって来ない。

風が強い原因は低気圧である、と言う。そこで納得する者もいる。では、なぜ低気圧だとそうなるのか。科学的な解説をする。では、なぜ、そういう仕組みなのか。自然の神秘だ、と言う。では、自然の神秘はなぜあるのか。突き詰めていけば、最後は、万象万物を無から創った力、つまり、元つ大神を認めない限り、謎は解けない。大神の響きが無ければ何も存在しない。資源、天恵がなければ、人類は何もできない。肉体も、知恵も、物理法則も、天地も、髪の毛一本、砂粒一つまで、すべてのすべてが人類が無から産んだものではないことを思い出すことである。すべてが大神のものであり、人類のものは何もない。『有るものだから好きに使ってよい』と言って大神に無断で勝手に盗んで、『これは自分のものだ』と言って所有権を主張して商品として売り買いする。それは、大神を無視して自分の力で天国が作れると思い込んでいる証しとなる。その結果が、現代社会の今の状況である。
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天気を操作できないのは、神ではないからである。晴れだから、雨だからと、天気に合わせて自分の行動を決めているなら、神には戻れない。天気予報に合わせて行動を計画しているなら、それは、自分の力で生きていることにはならない。天気に行動計画を合わせなくなったら、天気が意識に響かなくなったら、それが本当の自由である。天気に合わせて、と言えば、天気に左右されていることになる。天気によって生かされていることになる。

本当の真実を見たくないために、『なぜ、という問いはいらない』と言うこともできる。それはただ存在しているのだ、と。それ以上は考える必要はない、と。考えるからおかしくなるのだ、と。そのままならば、有るものを使うことしかできない。限りあるものを際限のない我欲で使い続けることになるが、有限だと言っているものを無限に使うことはできない。何かが自分自身が無から産み出したものでないなら、なぜそれは存在しているのか。自らの命の、天恵、地球、天地、知恵、神仏の本当の源は元つ大神である。本当の源を闇に葬った人間が考え出したシステムでは、天国が実現するどころか滅びを進めるだけである。現代社会に至る魔釣りの人類史が目指した天国は、永遠の滅びの世だったのである。

今の自然現象は、本当の姿ではない。自然ではない。自然に合わせて生きるのは、本当の自然に合わせていない証である。それが気分がよいと言うならば、それは、今の世界を天国だと思っているからである。自分が気持ちよいから、嬉しいからそれは正しい考え方だ、と言うのは間違いである。喜びも悲しみも、空気のようになったのが自然である。一方の感覚を意識するならば、それは、相対二元の比較の世界である。どっちが喜びか、と考えるから、喜びを知るために悲しみも知ることになるのである。「分かつ知を使って知る」というのは『もともと一つのものを二つに分けて知る』ということである。そのままでは分裂が進むだけである。どっちがどっちが、と進めた結果が、今、体験している現実である。

『喜怒哀楽があるのが当たり前だ』『喜びがあるから悲しみがわかる(悲しみがなければ喜びはわからない)』と言うなら、本当の喜びはわからない。一方に反応するなら、偏っている。対極があるならば、それは、分裂思考である。「一つ」ではないから、その基準が作る感情は絶対ではない。『感情がないのはおかしい。人間ではない』と言う。『感情があるのが人間だ』という基準で見れば『人間ではない』となる。無生物となる。「人間」の定義が間違っているならその判断は間違いになる。その基準は真理なのか。それが真理ならば、分裂思考が続く事になる。分裂思考をするのが人間だということになる。分裂思考は、戦いの世界を産み続けるから、みんなが幸せになる事はありえない。略奪の戦いの世界では、天国もありえない。自己犠牲の世界では、死がなくなることもありえない。人間は感情の動物だと言う。そうなのか。そうならば、感情がなくなることはありえないことになる。全員がそれを信じるなら、それが真理になり、そういう世界を作る。感情が無い者が異常になる。どっちが異端か、という争いが永遠に続く。どっちが、と言うときは、争っている両方が異なる端である。どっちも正しい。という見方、どっちでもよい、どっちでも自分は困らない、という結論が出る見方が天国の基準である。争いが無い定義が真理である。
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人生というのは、いわば、科学の実験である。物理学と化学を使って現実を創造する作業である。創造の力が想像を作り出す。そして、想像の世界にあるものを物質を使って形にしていく。精神と物質を分けて見ているが、歴史を遡るほど、想像の世界と物質の世界は一体化していたのである。歴史を下るほど、思いが重くなり、形にするのに時間がかかる。力が必要になり、機械が大型化する。扱う対象が細かくなって、「神の領域」での複雑な作業が必要になる。資源をお金に置き換えている世界では、複雑化、大型化するほど、お金と時間が必要になる。地下資源を地上で使うようになるほど、人力では手に負えなくなる。本来は下にあるべきものを上に上げる。重力に逆らう。自然に反するほど、力が必要になる。支えが必要になる。土の上にコンクリートの土台を作り、鉄の線路を敷いて鉄の箱を走らせる。鉄の塊を空に飛ばし、石油を燃やす。自然に反した者が、原子力を外に出して原子を制御する。事故がなぜ起きるのかは明らかである。自然に反した思考で資源を使って作った都市という作品が、地震で瓦礫と化すのは当然の帰結である。天地の理法というのは、すべてが自然な姿に返るように作用するのである。不自然なものがすべて壊れた姿が、本当の自然な姿なのである。文明を維持するために力が必要だとすれば、言い換えれば、何もしなければ崩壊するならば、それは、自然なものではない、ということである。

本来の自然に破壊は見えない。破壊が見えて、それがそのままとどまるのはおかしい。破壊のままならば、それは自然ではない。何か力を使わなければ再生できないならば、自然に反しているのは明らかである。何もしなければ、分解して土に返る。自然とは、努力しなくても不都合がない状態のことである。生かされているとは、生きるための苦労がいらない状態のことである。生かされているのであるから、不自然を直すために死ぬ必要があるならば、黙って死ぬ。それが生かされている、ということである。自然のままに生きているならば死ぬことはない。「死ぬ」という考えは意識にはない。より長く生きるために何かを画策する。医学の発展というのは、自然の掟に反した人間が、自然の掟に反した世界を維持しようとする行為である。その世界でイノチを永らえようとする行為である。死ぬ前に死ぬのを避けるのは、不自然の証である。自然に抵抗している。生かされていると言いながら生きようとする矛盾した行動を平然とする。自分に原因がある破壊を自分以外のせいにし、自分以外のもので破壊を隠そうとする。見ていられないから隠す。封印する。
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現代社会は、魔釣りのアヤマ知で作り出した分裂の世界で生き延びるために、進歩、発展の名のもとに、科学を使って作り出した文明というマヤカシを進めた末路の姿である。快適、快感を維持するために、ありとあらゆる自然を加工した道具(機械)や、不自然を維持するための制度を作り出し、どうあってもそれを手放さない。それを手放すことは、自分のイノチを手放すことになると思い込んでいるからである。変革する、改革する、再生する云々と言っても、その実体は、形を変えるだけで、根本にある思想は何も変わっていない。文明社会を生きる人間は、機械や制度に生かされている。結局、自分では何もできない。自分では何もできなくなった者が、自分がしたいことを実現するために文明という依存対象を作り出したのである。文明というのは、自らの不自由さを表す指標なのである。

現代社会でいう生産者は、自分では何も生産はしていない。自然の材料と仕組みを使って、欲しいものを得ているだけである。実際のところは、全員が消費者である。生産者、消費者というのは、言い換えれば、消費者の中の、提供者と被提供者である。自分の力で生産もできなければ、自分の力で分解もできない。その実体はと言えば、人間がしているのは、採取と投棄だけである。実際は、土と水と火と生命メカニズムが資源や生物を生産し、微生物と化学メカニズムがあらゆる物質を分解するのである。工業というのは、「生産」という形を管理し易くするために、自分たちが操作できる機械という道具を作り出して、自然を人箱の中に取り込んで、神様ゴッコをするために考え出された仕組みである。自然に反した者が、天気に左右されずに思い通りに食べ物を得たり、一年中快適な温度で生活する。自然に反した者が、何の苦もなく、快適に生きる。快欲だけを追いかけて、神の掟を忘れ去っている人間は、自分に都合がよいことだけを平然とやり、それが当たり前だと言って、何の疑問も抱かない。苦が現われれば、それを解消するものを自分の外に作り出し、他人に作らせて、平然としている。自然から離れた者が快適に暮らせるのは、本当はおかしいのである。機械文明に依存し、常に快感、心地よさだけを追い求め、生存権とか、快適性とか、安全性とか、利便性とか、いうような、本当はありもしない幻想にどっぷり漬かっているから、本当の意味での自分という存在が今どうなっているのかに全く気づかない。産業革命というのは、進歩ではなく、破壊なのである。天地の理法通りに事が起きて滅びるものならば、産業ではなく、惨業である。最期は滅びる運命のものだったのである。それは、産業の発展に支えられた文明の末路でもある。神に反した者が、神の天国を求めて、幻想の天国に生きて喜んでいただけである。その結末に何が待っているのかも知らずに。

衣食住、都市計画から、経済の支えあいまで、すべてのすべてが同じ仕組みである。下にあるべきものを上で使えば、本来の姿形に戻す力が働く。自然の姿は、火、岩、土、水、木、空気の順番である。物理法則は分かっているはずであるのに、現代文明の都市の姿は、物理法則に反した形で作られている。だから、維持するのに力がいる。神の掟に反した「バベルの塔」は、どんなに抵抗しようとも、いずれは壊れる運命なのである。一番力があるものがどこにあるのか。すべてを支えるものはどこにあるのか。それを教えるために、重力という力が存在するのである。神は上にはいない。神は、今の人間が思っている天にはいない。心が想像する上というのは、形でいえば下である。支える者は、下にいなければ支えられない。指導者が上から引っ張っても結局は支えきれなくなって、綱は切れてしまう。くもの糸のカンダダの末路である。その「上」で支える者を支えているのは下である。電車の架線は、架線柱を介して岩が支えているのである。空気も海も同じ仕組みである。
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地震で都市が瓦礫と化す。その結果、多数の人間が死ぬ。そして、防災対策を強化しようとする。しかし、よく考えれば、不自然なやり方で形にしたものが壊れて、元の形に戻っただけである。あるべき形に戻っただけである。いったいいつまで、どのくらい防災したら災害がなくなるのか。そもそも、「災害」はなぜ起きるのか。なぜ、自然の脅威を見せつけられるのか。その根本原因はどこにあるのか。都市の始めは自然である。ジャングルがコンクリートに姿を変えたのが都市である。アベコベをやっているから壊れるのであり、自然の法則通りにことが起きただけである。自然に反したものは淘汰される。この法則は、すべてに当てはまる。人間の言う自然界だけの法則ではない。自分自身をも含めた、万象万物に例外なく適用されるのである。自分自身が喪失感や失望感、危機感を感じるならば、それは、自分自身が自然の掟に反したことが、原因である。自分の外をどう操作しようと、ますます危機感が深まっていくだけで、絶対的安心感を得ることは、永遠にできはしない。

破壊は自然の法則に反した結果であり、自然な現象なのである。自然に反したものを作ったのが破壊の原因である。従って、防災、抗菌、殺菌云々という思想は、自然に反した者がその状態を維持するために自然のはたらきに抵抗していることになる。壊れるのは自然に反したからであるが、それを壊れないようにしようというのは、不自然が生き残るために自然を破壊していることになるのである。本来、自然には破壊は意識されない。破壊は隠れている。常に、生成が上回る。破壊<生成である。現象として破壊と生成が同量でも破壊が見える前に生成が始まるから、見えるものは生成しかない。もっと言えば、生成が瞬時に終われば、破壊も生成もなく、存在し続けるだけになる。「すべてがある」状態が存続するだけであり、そこには何も不都合は生じない。破壊を避けるという思想はない。現代社会の人間は、天国を求めて不可避の破壊を避けるために生きているようなものである。

形が変わる過程を、時空を超えて前からみれば破壊であるが、後から見れば生成の過程である。現代社会が崩壊するように見えるのは、形が変わる過程である。古いものは壊れて新しいものが作られる。古い皮膚が剥がれるのは、新しい皮膚が下に生成されるからである。無限に生成を繰り返しているから、破壊はない。常に、形は保たれる。生成のはたらきが乱れれば、皮膚病という形の異常が現われる。生成が止まれば、破壊が進み、そのまま何も無くなる。無から作り出す神は困らない。困るのは作り出せない人間である。困るから、壊さないようにする。『大切にしよう』『節約しよう』と宣伝する。そして、強制する。破壊者は悪人となり、無駄遣いは悪いことになる。法律で禁止されて犯罪となる。しかし、自ら生成できない者が、自らの破壊を避けようとしても、すべては劣化して、いずれ崩壊するのである。元つ天地の大神は、真釣り外しの悪にはいつまでも天恵を渡さない。真釣り外しを続ければ情けが増えていくだけで、最後は、情け100%=花 0%、即ち、魔釣りの世の生は無くなる。草薙の剣=真コトを渡すということは、魔釣りのアヤマ知で作ったものは、すべて使えなくなるということである。お金や機械は言うに及ばず、政治、経済、文化、宗教、思想、哲学も含めた「身欲を基に持つすべて」である。元つ真釣りの世にはない、お金の収支が基の「商」の響きのシステムはすべて崩壊する。お金を神とした世界は、金融、経済、商品価値、儲け、賠償金、支援金、被害額、寄付等々、すべてをお金に換算し、収支決算、予算、負債、資本等々、すべてをお金の足し引きで分析し、経済成長、メリット等々、すべての思考をお金に帰結させる。人=お金であり、お金を損得の基準にして人の操作をする、即ち、収支と貯蓄と保険(支出と負債と掛金)の三位一体、物・金・人の三位一体、衣食住を商品に委ねるお金の世では、金の量が国家像や各自の存在の姿を決める。快欲を追い求め、形を変えるだけの魔釣りのアヤマ知の物質文明に依存し続けている「現代社会」にどんな運命が待っているのか、よく考えてみることである。
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現代社会の運命。それは、いうまでもなく、社会という、あなたが所属する共同体でのあなた自身の運命である。他人や世界の問題ではない。あなたの問題である。真釣りが戻って滅びる運命の魔コトの文明にすべてを依存しているなら、魔釣りを祓う仕組みに自ら進んで足を踏み入れていることになるから、どんな事態になろうと、すべてあなた自身の選んだ結果である。元つ真釣りの大神を闇に葬って、魔釣りの世界で好き放題をして、教えても身欲に囚われて無視し続けて、最後に気づいて改心しても、後のまつりである。ミロク世に生きたいなら『そんなことはありえない』というフレーズは、封印しなければならない。真釣りの世から見れば、現代社会がありえない現実(顕現した実体)である。すべては逆さまであるから、真釣りの真コトの響きがこの世に形になったら、真コトの花(正花)だけになり、魔コトの花(悪花、仇花)は、すべて枯れ尽くし、土に戻る。魔釣りのアヤマ知で作った世界は、神の世界も人の世界も、すべてが真釣りの真コトによって闇に葬られる。善も悪も同じことであり、真釣りの真コトに戻らない者は、すべて消滅する。元の真釣りの天国に戻れば、一瞬にしてすべてがひっくり返り、魔釣りの世界は、跡形も無く消滅する。水をダムにためても、雨が降らなければすべて干上がってしまうのである。

思いは、すべて形になる。形が望み通りでなければ、それは違うやり方で形を作った証しである。想像の世界と形の世界は同じものである。そこに分離はない。アイデアと商品は同時である。時間のズレはない。それが、天国の現実である。想像通りに形にならないのは、制限、条件をつけているからである。現代科学の物理法則は永遠普遍の原理ではない。現代物理学や現代化学が絶対法則ならば、永遠の天国を作ることは絶対にできない。ピラミッドはどうやって作ったのか、ナスカの地上絵はどうやって描いたのか、アトランティスは存在したのか。現代社会の謎や不思議は『現代科学が最も進歩している』という思い込みを捨てない限り、永遠に解明できない。そして、その現代科学がどんなに進んでも、完全なる天国を作ることはできない。自然法則を破り続けるほど、工業製品が必要になる。神から離れるほど自分でやることになる。自分でできるかどうか、やってみよ、である。
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現代社会の常識を正とすれば、『古代文明に飛行機があった』と聞けば、『そんなことはあり得ない』と思う。すべての主張に矛盾がないこと、どんな意見も不思議だと感じないこと、それが、すべてを分かっているということである。それが、永遠普遍の見方である。進歩、発展の論理では、永遠に真実はわからないままである。永遠に謎を追いかけ続けることになる。もし、重力が無ければ、物を移動することは簡単である。『それは空想の世界だ』と言うならば、絶対に夢は叶わない。実際は、歴史を遡るほど、今の常識で言う魔法の世界になっていく。現代人は山を駆け回る修行はきついと思うが、その時代の人間は、楽だったのである。あたかも月面で歩くかのように軽かったのである。重くなった分、機械が必要になる。できなくなった分、わからなくなった分、補う知恵や技術が必要になる。「障害者+車椅子=移動できる」の公式がすべてに働いている。車椅子を、神、福祉、占い、魔法、超能力、法律、自動車、コンピューター、めがね、本等々に置き換えてみればよい。結局、すべては論理の世界であり、科学も宗教も、事実を語ってはいない。事実を知りたいならば、論理の矛盾を無くすことである。すべてを引っ繰り返すこと、すべてを逆さまにすること、意識の制限、ベクトルを変えることである。空想が実体であり、実体と思っているものは幻想である。幻想を実体と思えば、その世界からは絶対に出られない。

元の始めは、今で言う、神の世界、魔法の世界である。できないことは何も無い、すべてが思い通りになる世界である。今の言葉で言えば、心のままに形になる世界である。心の世界そのものである。イメージそのものの中に自分がいる世界である。『自分の思いのままに形になる』という法則は今も働いている。自分が形にしない世界を誰かが形にする、それを文明という。『助けてもらう』というのは、『自分がサボっている分を誰かに任す』ということである。助ける、というのは、自分も相手も、自然から離れるということである。一番初めの世界に戻った時、誰も助けてはくれない。自分の思いのままの世界になる。つまり、文明や他人にすがっているならば、それがすべてない世界をそのまま体験することになる。依存する対象がすべてなくなった時、自分の世界が闇になるならば、それを実際に体験することになる。『自分がすべての源であり、自分が自分の神である』ということを自分の身を持って体験することになるのである。自分が他人の神になっていること、裏を返せば、他人を自分の神にしていることが、すべての問題の唯一の原因である。本当の原因を正さない限り、結果は変わらない。「便利」というのは錯覚である。便利を追いかけるほど、自分では何もできなくなるのである。できなくなった分、足りない分を何かで補っている状況を当たり前だと思っているならば、それは大きな取り違いである。最後には、「コンクリート詰の死体」状態が自分の体験となる。つまり、完全に身動き一つ取れない状態となる。風景は見えているが、それをすべて使えない状況になる。すべてが一つになった時、自分がしていることの真実が、文字通りそっくりそのまま自分に戻ってくるのである。
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重さというのは相対的な感覚である。今、自分が使っているこの机は重いか軽いか、それはわからない。机は重かった、である。目の前にあるものが、今、重いか軽いかはわからない。すべて過去のデーターによる推測、予測である。それも『法則はずっと変わらない』という前提で。その前提が正しいかどうか自体の議論はしない、機械的な反応である。すべて、自分の思いの作り出す幻想である。物理学が絶対法則ならば、火事場の馬鹿力はあり得ない。重力がない、ならば、重力を自由につくれる、ということである。この世で自分が自由に動かせる形は、肉体だけである。その肉体も自由にならないならば、自然法則の違反が重なった証拠である。なぜ、二本足で立てるのか、なぜ、自転車は倒れないのか、何が支えているのか。見えない力の正体は一体何なのか。その力の源はどこにあるのか。

形の世界にその答えを求め続けても、正解は得られない。見えない世界と見える世界のどちらが先なのか。科学的な証明と言っても、何かがそこに見えていることを確認できるだけであり、すべてが間接的な存在証明である。言い換えれば、理論上成り立てば存在が認知されるのである。逆にいえば、存在を疑う余地がなくても理論的に証明できなければ認知されないということである。あなたが言っていることが本心かどうかは、他人は証明することはできない。他人があなたの気持ちをわかることはありえない。あなたが他人の気持ちをわかったと思っても、それはあなたの気持である。誰かの痛み、誰かの死の悲しみ、を思っても、それはあなたのものであり、他人のそれは絶対にわからない。他人のそれがすべてわかるなら、あなたはその誰かであることになる。この世に人間はあなただけになってしまい、その他人はあなたであることになる。あなたとあなたのコピーのお芝居であり、あなたとあなたの喧嘩になる。自分が別の場所に居たことを証明すれば、事件現場にいない証明となり、「アリバイ」が成立する。逆に、アリバイを作れば、自分を「守る」ことができる。『そんなことはありえない』『そんなことはできるはずはない』云々はすべて強制力はない。もし、それがわかるなら、神であることになる。それを聞き入れるならば、それを信じたあなたの選択である。自分を動かすのも止めるのも自分しかいない。

現代社会は事実ではない思想で作られた世界であり、嘘を演じなければ自由にはならないが、その自由は、幻想の自由であり、本当の真実が成就すれば、今の世界は無意味になる。あなたは、真実を知らないから、目に見える世界に執着することで、自らの存在意義を確認している。しかし、この世は、肉体の感覚を通して自らだけに確認できるもの、計測機器がなければ存在を確認できないもの、拡大縮小する機械がなければ見えないもの、記録機器がなければ見られないもの、機械を駆使してもわからないもの等々、つまりは、「この目」では直接見えないものだらけなのである。例えば、紫外線、放射能、原子核、酸素、サリン、生体電流、電気、熱、遺伝子、電波、白血球、精子、細菌、宇宙の全体像、電車に乗っている自分、音声、光、重力、時間、味、心、自らの眼、自らの後頭部、自らの肉体の全体像、自らが食べた物の消化吸収の作業、火葬される自分の体、誰かの消息、寝ている時の社会の動き、地球の裏側の出来事、過去の行動、地球以外の惑星の映像、等々。自分の目で直接、実際に見えるものは、ほんの僅かしかないのである。自分が間接的に得た情報、間接的に見た映像、教えられてきた常識を信じるかどうかは自分が決めることであり、自分が自分を騙すこともできるし、直接見られないものを強制して、他人を操作することもできる。現代社会の常識がすべて嘘ならば、あなたの世界は一瞬にして崩れる。
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幻想か実体か、あるかないか、の議論は、答えは出ない。『自分はどうなのか』『自分にとって価値があるかないか』が答えだからである。科学的に証明されたものも否定でき、科学的に証明されなくても肯定できる。ただ一つ、自分がいることだけは、疑いのない事実である。この世には、機械で計測できないものもある。神、仏、あの世、霊、自分の明日、自分の一生、生まれる前の世界、死後の世界、他人の体験した現実、他人に明日起きること、殺された人間の心理、誰かの本心、誰かの傷の痛み、誰かの苦労、むち打ち症等々は、勿論、文字通り、見えないものである。仮面を被れば嘘がつける。自分の「過去の体験」でさえ、本当にそれがあったのかどうかの証明はできない。自らが体験したことを自ら心象映像で確認することはできるが、それを実体化することはできない。次の瞬間、自分がいる保障はない。すべては、自分が決めている現実なのである。科学は、宗教なのである。

あなたの現実は、すべては魔釣りが見せるお話に過ぎない。結局は、それぞれが、自らが勝手に作った心象に基づいて、肉体を使ったこの世で生き残るために喧嘩(議論、責任追及、戦争、奪い合い)をしているだけである。あなたが体験したことは、すべてが、自らの価値観が見せた幻であり、あなたが「信じている」正しさは、あなたが決めた正しさである。今のあなたは、形は見ているが、実際には、見えない世界に生きているのである。この世には、あなたが認めたものだけが存在するのである。許す、許さないを決めるのはあなたであり、あなたが神であることになる。あなたが価値判断しているものは、存在するものである。少なくとも、あなたがその存在を認識しているものである。存在するものを否定するなら、それは、心地悪い、理屈が崩れる等々あなたに都合が悪いからである。

あなたが存在を認識していても、誰かが、あなたを混乱させるために、その存在を認めていながら『存在しない』と言うこともできる。見えていなくても、見えていると言うこともできる。それが見えている(見えない)ことを知っているのは自分だけである。嘘を言っていることを知っているのも自分である。嘘だと知っていても、それを口にすると自分の立場が危うくなる時は、本当のことを言わないこともできる。「オオカミ少年」や「裸の王様」の世界が展開される。あなたがあなた以外の言うことを鵜呑みにすれば、あなたは嘘の世界を信じ込むことになる。あなたがそれを本当の世界だと思い込めば、本当の世界になってしまう。嘘だということが信じられなくなるほどに実体だと思ってしまう。実体だと思うほど死を恐れるようになり、思い込みが強固になる。自分が自分を騙していることにすら気づかなくなって、誰かが自分を騙しているのだと言い出す。そうなっては、もはや、その世界から自分で抜け出すことはできなくなってしまう。究極的には、あなたには、自分が認める世界しか存在しないのである。あなたが価値判断しているその対象は、実際には、あなたの心の映像に存在するものであり、それは即ち、自らが自らを価値判断する一人芝居を意味する。一人芝居をしている者同士が、鏡に映る自分と喧嘩をしている霊的自閉症の集団が好き放題をしているのが現代社会である。鏡は「彼我身」である。映っているのは自分である。他人を変えて世界を変えようとしても、それは、不可能である。
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誰かの思想を知りたいならば、その誰かが提示する言葉(音声、文字)か映像を見て推測するしかない。しかし、他人の痛み、苦しみ、喜び、計画、予定、他人の運命、思い等々、それはあくまでも推測である。自分に見えるのは、今の瞬間に見ている範囲の映像と、過去の体験だけである。今の瞬間もすぐ過去になり、過去は過ぎ去っていく。あなたは、肉体を通して永遠なる今の瞬間の連続を経験しているだけである。人生設計というのは、幻想の遊びである。誰かのせいで人生を変えられたと言うが、もともと、あなたが勝手に予定していた人生設計であって、その変わった人生があなたの人生なのである。誰かのせいだと思うこともあなたの幻想であり、その幻想に基づいて誰かを責めても、それは、あなたの独善である。檻の中で怯えて吠えている犬である。あなたが実体だと思っている世界は、あなたが作り出す幻想である。この世にあるものを独り占めしようとしても、それは影絵遊びに過ぎない。あなたがしていることは、形や言動を価値判断して、止めるかやらせるかを決めて、それを実行することだけである。自分が存在することだけが自分にとっての事実であり、生死時空を超えて確認できるものである。その他のすべては、自分の選択している色眼鏡が見せる幻である。その意味は自分が付けている。過去の体験と未来の予測である。見える世界がずっとあり続けると思うのは、自分がそう思っているからである。明日どころか、次の瞬間が来る保障はないのに、明日の心配をする。時間と空間を自らの思い通りに支配しようとする。いつどうやって死ぬかわからないのに、死を避ける方法を探し続ける。他人の行動を禁止する。他人を自分の目の届く世界に封じ込める。すべては、自分が想像に基づいて認識した自分にとっての世界を投影して見ているだけである。

文句があるなら自分でやればよい。いやならやめればよい。同意できないなら従う必要はない。反抗するならば、自分の力でやればよい。実際は、自分がやろうと思えば何でもできるのである。何らかの理由で自分がしないだけである。自分で調べれば誰かに聞く必要はない。自分で研究すれば答えは得られる。しかし、「限りがある」寿命の中で、いや、限りある寿命になってしまった自分が、今世ですべてをやることは不可能である。それは自分の責任だから、誰かに任せてその結果だけを戴くならば、文句は一切言えないのである。
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ある瞬間に自分ができることは一つである。「何もしていない」ことに罪悪感を持つ。『何もしていない』と他人を責める。しかし、やるかやらないか、どっちをやるか。何かをやらない、ということをやる、と言うこともできる。つまり、必ず何かをしているのである。『何もしない』『無駄なこと』と言う時、『する』という定義に条件をつけているのである。自分にとって「価値があるかないか、利益になるかどうか、立場が守れるかどうか」である。していることに分離は存在しない。一つの世界の動きである。何かの基準でその行動を分類しているのである。善悪も、苦楽も、「どっちが」という目で見れば、必ず、分裂することになる。分裂の選択を止めない限り、どんどん分離していくのである。世界を構成している要素のうちのどれを自分がしているか。その要素がどんどん細かくなるのである。

人口が増えるのは、それだけ分離を進めてきた結果である。分けた分だけ人が必要であり、依存の世界を支える人口が必要である。豊かな国があるとして、他の国が飢餓の国で、その世界が相互依存、競争社会だとしたら、その偏りが、そのまま形になる。略奪の世界で、豊かさを謳歌して威張っているのは、その豊かさをどうやって獲得しているか、を知らない恥知らずであるといえる。『自分が努力したからだ』と言うが、何に努力したのか。窃盗に荷担したのである。略奪の世界で『よくなろう』『お金を稼ごう』とがんばるのは、『よりたくさん盗もう』と言っているのと同じである。お金の世界で、形をよくしようとすれば、それだけのお金がいる。お金が減ってくれば、予算の取り合いが激しくなり、思い通りの形が作れなくなる。泥棒の世界でどんなに発展しても、それが奪って得たものであるなら、必ず、終わりがくる。偏りは修正される。『合法的にしたのだ』と言っても、その世界そのものが泥棒世界ならば、その世界に貢献するほど泥棒したのと同じことである。言わば、泥棒と気づかれずに泥棒する盗み方のプロである。しかし、泥棒したものは、必ず返すことになる。奪ったものの中から援助しても、それは奪ったものを返したことにはならない。「奪ったもの」を「下から奪う者」に横流ししただけで、略奪行為を重ねたことになる。有限の略奪の世界で貧富の差があるならば、それは略奪の結果である。「貧富」という言葉は自然には無い。それぞれに必要な天恵は有り余るほどある。どこかで余ってどこかで足りない、というのは本来おかしいのである。『有り余るほどある』のが本当である。

言われた通りにしたら儲かった、だから、正しい。儲かる仕組みを教わって、それをやれば儲かるのは当たり前である。それが普通の法則の如く思ったら、間違いの元である。泥棒の世界で儲かるのは、泥棒のやり方をしたからである。このやり方で盗んでもよいが、このやり方は許さない、と決めて、合法だ違法だと騒ぐ。結局は、どちらも泥棒である。法律で許されているやり方をしているから罪はない、と言うが、罪が無いものに災いはない。その世界の合法的やり方自体が、宇宙の法則から見れば違法なのである。一番大きな掟に従えば、何も問題は無い。今の法律の大元が法律違反であるから、法律を進めるほど、法律が増え、法律の効力が弱くなる。取り締まる者が少なくなるほど、法律は有名無実化する。あっても使えないなら無いのと同じである。泥棒の世界で警察や公務員の不祥事の再発防止対策をしても、再発が防止できるどころか、ますます不祥事が増える。悪が善のフリをして悪を取り締まるほど苦しくなるからである。法治国家の末路は無法国家である。
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自分を供養してくれないから、祟る。供養してくれたら成仏する。してくれないからムカツク、してくれたから感謝する。心の声だけを聞いていれば、霊界も現界も、死者も生者も同じことを語っている。結局、人間の言う、あの世もこの世も同じ仕組みなのである。

略奪の世界にフェア―プレーなどあり得ない。汚い世界は、汚いことをしなければ、上には行かれないのである。汚いことを嫌うならば、それは、自分がその世界で奴隷になることを意味する。だからと言って、汚いことをして上に上がったとしても、永遠の安泰はない。

あなたは、すべてを知っているのが当たり前である。『知らない』と言うのは、おかしい。自分はどうしたらよいのか、自分はこれからどうなるのか、自分は誰なのか、自分はどこからきたのか、自分はどこへ行くのか、自分は何をしたらよいのか。自分で決めるべきことを他人に聞くのが当たり前の如くなされている。それを恥とも思わない。『教えてくれないのは不親切だ、冷たい人間だ』と言う。教えてもらったらもらったで、今度は、その結果について、自分にとってよかったら感謝し、自分が損したり、心地悪かったりすれば、文句を言う。相手の言った通りにしたとしても、それを選んだのは自分であることをしっかりと肝に銘じることである。責任を転嫁する相手が違う。又は、質問した相手からの返答そのものに、反論したり、異議を唱えたりするならば始めから聞かなければよい。相手と議論をしたいのか、相手の意見をジャッジしたいのか、相手に助言を求めたのか、いずれにしても、相手の意見について意見するならば、始めから答えは決まっている。口にしたとしても、それを相手に返すのは、おかしい。参考にしたなら、聞きっぱなしにすることである。自分の答えを確認する助けになったのであるから、感謝しかない。誰も答えなかったらどうするのか。誰も答えてくれなくても、あなたは必ず答えを出すことになる。

自分がしようと思ったことをすればよいだけである。考える必要も無い。映像のままに動けばよい。自分の心のままに見ながら動けばよい。その場その場で動けばよい。何をしても誰にも迷惑がかからないのが自然である。もし、『どうしたらよいか』と聞くなら、それは、不自然なやり方をしてきた証拠である。誰かに訊く必要も、誰かに報告する必要も、誰かに相談する必要も、誰かに許可を取る必要もない。『しようかな』『しようと思うんだ』『どう思う?』すべて独り言である。その独り言は、自分に相談しているのであり、それを口に出して、その結果、誰かが反応したら、相談と呼ばれる形になる。相談したいと思って、口に出したとしても、それは独り言である。『どうしたらよいか困っているんだから俺の質問を受け取れ!』何とも自分勝手な輩である。あなたの相談に応える義務は誰にも無い。応えてあげたい、応えるべきだ、助けてあげたい、相談されている、と思っている者がそれに反応するだけで、結局は、お互いが自分の思いに従って、キャッチボールをしているだけである。あなたは、自分が×している答えへの賛同者を探しているだけなのである。全員が嘘に騙されているとしたら、あなたはどうやって誠の世界に出るのだろうか。
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あなたは、自分が×している答への賛同者を探しているが、自分はその答を○だと思っているはずである。自分の立場を守るために、自分勝手だと思われないように、仲間がいたら他人を巻き込んで、『一人にならないなら○と言おう』と思っているのである。しかし、賛同者が全員、「サクラ」だとしたら、あなたは、自分の本心を自ら白状することになる。あなたに賛同したフリをして、あなたを孤立させるという企みに、あなたを嵌めることもできるのである。勝手に安心しているあなただけがバカを見る。結局は、あなたは、自分で○か×を決めて動いているだけであり、誰も賛成しなくても、『○だ』と言うこともできる。自分が自分を制限している一人芝居をやめない限り、あなたが不自由なままであり続けるだけである。自らで自らを奴隷にしておいて『自由にさせろ』と言っても、それは、自分勝手というものである。残念ながら、その要求は、永遠に叶わない。あなたの自分勝手な独演会をいつまでも楽しませてもらえることだろう。しかし、あなたが本当に自由になりたければ、完全に自分だけの世界に生きて、自分自身が自由になればよいだけのことである。あなたの答を×という者は、無視すればよい。もし、無視できないと言うならば、あなたが、その誰かに依存している証である。その誰かがあなたに何をしようとも、あなたは、一切文句は言えない。いやならば、依存をやめればよいだけである。自らの言行に責任を取る覚悟があるならば、あなたは、誰の奴隷にもなる必要はない。あなたがあなたを不自由にするのはあなたの自由であるから、誰にもそれをやめさせる理由はない。あなたが好きなだけ、いつまでも、悩んで、嘆いて、もがいて、可哀想な人をやっていればよい。周囲にとってはいい迷惑であるが、そんなあなたを誰も振り向かなくなる時が必ず来る。どう逃げようとも、結局は、自らがしたことの責任は自らが全て引き取ることになる。

現代社会は便利になったと言うが、果たしてそうなのか。炊事、洗濯、掃除、一昔前と比べれば、労力は格段に軽くなり、時間は短くなったはずである。家事の時間が短くなった分、他の作業に使える時間が増えているはずである。自分が歩いて出かけて伝えることを考えれば、郵便、電話、インターネット、ネット電話、新幹線、飛行機、まさに、タイムマシンである。時間は余っているはずであるし、労力は軽減しているはずである。しかし、なぜか忙しく、『時間が無い』と言う。それはなぜか。すべてが早くなっているのである。時計の目盛りは同じだが、相対的感覚的時間が細かくなっているのである。東京から大阪まで歩いていたときは、社会全体がそれに合わせてできていた。社会の動きと連動して新幹線が必要になり、新幹線に合わせて日程を組む。日程に合わせてより早く、と、飛行機が登場する。より早く、より早く。「限られた」時間の中で沢山こなそうと飛行機を作ったが、いつの間にか、飛行機に合わせて生きるようになってしまったのである。便利を求めれば求めるほど、便利なものを探し続け、自分の外に作り出した機械を使って快適、快感を得ることが、生きる目的になってしまう。本来は、自分が主導権を握っていたはずが、自分の外に主導権を渡してしまうことになる。文明の利器は、自らの力を奪う損器である。
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頑丈なビルを望むと建築に重機が必要になる。今の都会を大工が作ることは不可能である。自分が何もできなくなるほど、魔法の社会を望むことになる。新幹線、飛行機、コンピューター、宅配便、タクシー、コンビニ、本、情報、すべてが無くなったら、今の社会は崩壊する。逆に、今の社会が崩壊したら、それらは必要なくなる。相互依存のスパイラルである。相対的には、何も便利になってはいない。自分でしていたことを誰かに任せる度合が増えるに連れて、お金を稼ぎさえすれば、あとは、誰かが作ったものと交換するだけでよくなる。忙しくなればなるほど、外注が増える。依存が増える。細分化していく。お金を得る量に比例して楽になる。しかし、お金を得ようとするほど、自分でできなくなる。自分でできなくなった分、クリーニング、レストラン、温泉、ホテル、タクシー等々、お金と交換に賄うサービス業が増える。文明が発展するほど自然から隔離され、誰かの助けなしでは衣食住が維持できなくなる。自然が人を生かしていた世界から、人が人を生かす世界に移って行く。しかし、よく考えれば、自分とモノの間に、人が介在し、お金が介在している。自ら産み出す苦労から自由になった分、依存している誰かの都合でいつでも生活は破綻する。人が人を生かす世界になるほど、人の思惑で生活が左右される。いつも社会の動きに目を配る必要性が出てきて、マスコミの存在意義が大きくなる。自らが直接体験することが減るに従って、嘘に騙されやすくなり、自分で自分の人生をコントロールできない世界になっていく。需要に合わせてシステムができる。システムを見れば、社会の思想がわかる。構成員の思考がわかる。どのくらい依存しているか。どのくらい自然とかけ離れているか、どのくらい人工化しているか。現代文明のすべてが崩壊して、最後に残るのは自然環境である。野生は野蛮で、文明国は進歩している、と言う。しかし、本当にそうなのか。最先端の都市も、元を正せば、知恵や資源が無ければ何も形にできない。力学法則は一切変えることはできない。すべてが自分の産んだものではない。そのことをよく肝に銘じて、今、自分が手にしている「便利」「快適」の正体を考えてみることである。

本当は、自分ですべてできて当たり前だったのである。助けて当たり前、質問に答えて当たり前、治して当たり前、得させて当たり前、の相互依存の仕組みの中では、自分が楽な分、それは誰かに自分の産みの苦労を押し付けているということである。自分が苦労している分、誰かが楽になっているのである。しかし、現代社会での自由や楽は本当の自由や楽ではない。すべての苦労を引き受けているのが、元つ大神である。大神が責任を引き受けることをやめれば、自らの力で無から生み出せないあなたは何もできなくなる。『神は人類を見捨てない』というのは自惚れであり、天地自然の掟を破った者にそれを言う資格はない。あなたが天地自然の掟に従っているならば、相互依存の文明社会はない。相互依存の文明社会が存在し、誰かに依存しなければ生きられないなら、それはあなたの取り違いが元である。誰かに苦労を押付けることを当然のように繰り返し続けた結果、『天恵は、人間が作ったものではなく、有限を奪い合うほど殺し合いが増える』という簡単な理屈もわからなくなってしまったのである。あなたが、限られた時間という枠の中の世界に生きているならば、時間をいかに自由に使うかを考える。任せられるものはすべて人に任す。その思想に基づいて仕組みができあがる。自らの分を誰かがやるのであるから、文句や苦情の入る隙間は無い。頼んだら文句は言えず、言うなら頼む資格はない。責任感や思いやり、他人の気持ちへの配慮云々は、相互依存の中で自分の位置を確保するための詭弁である。
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あなたの人生の中で、たった一つだけ自分でやるしかないことがある。それは一体何なのか。それがわからないならば、あなたは今まで、人生の本当の目的をわからずに生きていたことになる。あなたは、それをするためだけに、この世に産まれたのである。それは、神や仏ですらも絶対に肩代わりすることができない。自分以外の誰かにやらせた「つもり」になることはできるが、それでは、本来自分がすべきことを何もしていない。それどころか、誰かに押し付けようとすればするほど、楽に済まそうとすればするほど、ますます自分の苦労を増やす結果となる。自分以外の誰かの自由を侵害することになり、誰かの自由を侵害した分だけ、自分がサボった分だけ、自分の手間と苦労が増えるだけである。誰にも肩代わりしてもらえないから、肩代わりの対価である「お金」をどんなにたくさん持っていても全く意味がない。誰かに肩代わり「させる」ことはできないから、権力も脅しも弱音も言い訳も、他をコントロールするための策略は一切使えない。誰かに自らの作った苦労を押し付けようと画策すればするほど、苦労が増えるだけである。自らの態度次第で増えもするし、減りもするのである。したことに責任を取らない限り、減ることはない。

『自らがしたことが自らに返っている』それが絶対不変の法則である。自らがしていないことが返るならば、その世界では、天国は永遠にできない。従って、それは嘘である。自らのした通りの結果が自らに返っているのである。それを認めなければ、あなたの望んでいる本当に自由な世界、不老不死の世界は実現しない。そういう世界があることを疑うなら、論外であるが、その疑いは、自由になることの責任回避と未知の世界(実際は、自らが未知にしたのであるが)への恐れ(自分の力を信じていない=大神を無視している)を誤魔化すための詭弁である。本当に信じていないのなら、不平不満も言わず、死の回避もしない。なぜなら、自由な世界はないからである。不平不満を言うなら、自由を求めている証であり、本当に正直に自分の現実を見直し、態度を改めない限り、望んでいる現実は成就しない。自らが自由を捨てておいて、自由にさせろと言っても、それは無理な相談である。
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自らのした真釣り外しを清算することができるのは、真釣りを外した自らだけである。自ら違反をしたなら、自ら責任を取るのが当たり前である。自らが犯した罪の肩代わりなどありえない。自らが好き勝手をやって天国に行けるなら、それこそ不公平である。しかし、真釣りの仕組みは完全自己責任の仕組み、自業自得の法則である。現代社会というのは、それをいかにサボるかという思考をシステム化し、形にした究極の姿である。従って、現代社会にどっぷりと漬かりきっている今のあなたがそれを実行するのには、相当な難儀を伴う。しかし、それをしない限り、あなたの人生は、何の意味もない全くの無駄、徒労に終わる。しかも、もう先延ばしはできない。今ここから、それを始めなければ、それをする機会は二度と来ない。自分自身でやらない限り、絶対にその成果を得ることはできない。

自らの観念が作り出した、苦や悲しみを誰かに訴えても、喜びを誰かに話しても、それは、『自分の思いを誰かと共有したい』という他者依存の現われであり、自己満足に過ぎない。すべては一人芝居であり、あなたの思いや感情はあなたの選択した概念が作り出したものである。『分かってもらいたい』と思っても、実際にはそれは不可能である。『分かってあげたい』と思ってもそれも不可能である。誰かのすべてがわかるならば、それは、その誰かそのものであり、それでは、誰かと誰かが同一人物になってしまう。誰かのことが分かったと言うならば、それは、あなた自身の作った誰かの気持であり、逆に、誰かがあなたの気持をわかったと言ったとしたら、それは、その誰か流のあなた像である。『分かってもらえた』『分かってあげられた』というのは、よくよく考えれば、それは利己主義、自己満足に過ぎない。『分かってもらえない』『分かってあげられない』と悩んでも、あなたが苦しむだけで、実際には、分かり合うことは不可能である。当然のことながら誰かに『分からせる』こともできない。『分かった』と言うなら、それは、その誰か流に理解したということである。つまり、それぞれが自分の心の中で納得したしないのお遊びをしているだけのことなのである。『分かってもらうことはできない』言い換えれば『分からせることはできない』『分かってあげることはできない』のが事実であると分かれば、お互い楽になる。

『自分が自分に責任を取る』とは、今まで転嫁した責任を自分が引き取ることである。転嫁した分、苦を押し付けたのであるから、言い換えれば、楽を泥棒したのであるから、した分だけ失い、苦しくなるのは当然である。失ったものは自分のものではない。「自分のもの」と思い込んでいるから、「失った」と思うことになる。苦しいから訴えると言えば、元の木阿弥である。いかなる体験も自分以外のせいにしない、言い換えれば、他人の体験(感情)については一切責任を負わない。これが本当の天国に戻るための唯一のルールである。このルールを自分のこととして受け入れ、厳格に守り通した者だけが本当の天国に戻れる。
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本当の天国に戻りたくなければ、それはそれで自由であるから、ルールではあるが強制ではない。自分が自分に強制するかしないかである。しかし、それは、自分が自分に課す強制である。今までは、この逆をやって、他人に強制してきたのであるから、このルールを守れば、強制に感じる。自分がサボった分だけ誰かが苦労し、自分が改心した分だけ誰かが自由になる。差し引き0である。責任転嫁をした方も、引き受けた方も、同じことである。引き受けたから転嫁されることになり、転嫁できると思うから転嫁されるという堂々巡りが続く。楽をして天国に行こうと思っている極楽トンボは、永遠に苦労を押付け続けようとする。責任転嫁を返せなかったのは、報復を恐れ、その方が楽だ、得だと、自分が考えたからである。結局、自分にとって楽な方、怖くない方を選んできたのである。それは、自分が選択した結果であり、始めから、きちんと掟通りにやっていれば、このルールは必要なかったのである。従って、本来は、苦労も、世の大掃除も、ハルマゲドンも、存在しないものである。掟通りに生きている者にとっては、関係のない体験なのである。あるけど無い、のである。全員に影響するものはなく、すべて、「自分にとって」なのである。

『苦労して育てたのに』と言っても、育てたのは自分の期待を満たすためである。農産物でも、子供でも、ペットでも同じことである。苦労したのは自分のためであり、自分が何かを得るためである。鶏を飼育するのは、お金を得るためである。お金を得れば、「生活」が成り立つ。結局は、「経済社会」で生き延びるために利用しただけである。大切にするのは自分のためである。自分が生きるための拠り所だから大切にするのである。自分の期待を満たすために世話をしたのである。正確に言えば、「育てる」ことはできないのであるが。

魔コトの世界には「他人のため」はない。すべて自分のためである。真コトの世界では、「自分のため」は、同時に、「他人のため、世のため」であるから、「他人のため」とは言わない。自分の思いのままにすれば、「万象万物のため」になるのである。従って、自己犠牲とか、自己犠牲の美化という概念の議論は無い。魔コトの世界でも、真コトの思いのままにすれば、魔コトを生きている者がそのことに気づいて、一時的に自分の持っているもの(期待、依存対象)を失うから騒ぐが、長い目でみれば、真コトに気づくことになるから、他人のためになる。一人でも多く気づけば、万象万物のためになる。どっちにしても、みんなのためになるのである。自分の得のためだけに自分のために何かをすれば、それは、魔コトを進め、真コトの改心がないままで、みんなも同じことを続けることになるから、他人のためにはならず、最後は、万象万物を失うことになる。自分のため、誰かのため、すべてのためにならないのである。「すべてのためになるか、すべてのためにならないか」である。自己犠牲ならすべてが犠牲、自分を生かせばすべてが生きる。この九分九厘同じ表現の一厘の違いがわかるかどうかが、天国と破滅(「地獄」ではない)の分かれ道である。
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略奪の世界では、全員が借りを持っている。借りなければ思い通りの形にできない世界で、生殺与奪の権を、政治権力や銀行、親や教師や教祖が、誰かが握っているというのはおかしい。自らで産み出せない者が、誰かを生かすことはできない。相互依存の世界では、支配者も被支配者に支配されている存在である。誰も、本当の意味で、力は持っていない。力を行使される者がおとなしく従っているから力を使えるだけである。自分に力があると思ったら大変な取り違いである。いかなるものも、同意無くして動かすことはできない。人間でも霊でも同じことである。真コトに生きる者には、一切の脅しは通用しない。それをすれば、脅した側が恐怖を、苦痛を、苛立ちを感じることになる。この世界での問題(争い)は、力と力の征服合戦の結果であり、見える形に原因があるのではない。権力者も大衆もお互いがお互いを生かしているのであるから、どちらが偉いか、正しいか、悪いかの比較は意味がない。このシステム、思想自体に同意している各自に責任があるのである。

問題のないところにわざわざ問題を作り出し、それを解決するというゲームが、何千年も続いている。視点を変えれば、現代社会には、問題は何も無い。限定した視点、思想に基づいた考えで、問題にしているだけである。すべての現実は、それぞれが自分で作り出しているのである。他人には問題であっても、自分には問題ではない。自分の問題を全体の問題の如く語り、他人に問題視するように仕向けても、それは叶わない。そういう自分と同じ思考をしている者が、問題視してくれるだけである。自分の苦しみをわかってもらおうとしても無駄なことである。自分の苦しみを他人に体験させることはできない。『わかってもらえない』と思う自分がイライラし、苦しみを増すだけである。自分の考え方が全員の考え方、普遍的な考え方であると思っている自分が生み出した自業自得の苦しみである。誰かに苦しみを分かち合ってもらおうとする態度こそ、社会を混乱させる傲慢であり、本当の意味で迷惑な振る舞いなのである。マスコミが問題を提起したとしても、それは、それを問題だと感じる者にとっての問題である。人類全部の避けては通れない問題は、「問題だ、と思うその思考を握っていること」である。この世界(肉眼で見える、肉体で体験する物質の形の世界、言い換えれば、この世)に固執すること=この世で生き残ろうとすることこそが、人類共通の、歴史上唯一最大の迷惑であり、すべての問題の産みの親である。

問題とは、自分の生死に関わる事柄、自分の生存が左右される状況のことを言う。地球環境や、戦争や、経済破綻や、国の崩壊が問題ならば、あなたが、その世界の中で自分を生かそうとしているということである。その世界は天国を破壊した世界であるから、『天国を破壊した世界を破壊することは問題だ』と言っている、言い換えれば、『地獄の維持を妨げることは問題だ』と言っていることになる。簡単に言えば、あなたは『天国を破壊することは問題ではない』と言っているのである。しかし、あなたは、天国を作るために問題を解決しようとしているのであるから、これは矛盾する。つまり、本当の天国を知らずに天国を作ろうとしているのは明白である。あなたは、ウソの天国創造の空想劇を実体のある世界と錯覚しているのである。テレビゲームの3D、3D映画の現実を本物だと思い込んでいるのと同じである。実際には、その3Dが終わった世界、スコープを外した世界が現実の世界である。映画館を出た世界が本当の世界である。自ら嵌めた嘘は自らしか外せない。
P180
あなたは、3D映画のままで、現実世界を創ろうとしているのである。しかし、その映画は、誰かの仕組んだプログラムで作られている。その誰かの意志が変わらなければ、プログラムは変わらない。プログラムが変わらないならば、物語は変わらない。映画を見ているあなたには、映画そのものは変えられない。その3D映画のテーマが「光と闇の戦い」ならば、どんなに場面が変わろうと、題材が変わろうと、そのテーマ自体は変わらない。「本当の天国」がテーマならば、そこには戦いはない。バトルにどっぷりと漬かると、永遠の天国はつまらなく見える。しかし、永遠の天国でもバトル遊びをすることはできる。子供の遊びを本物を使ってできるのである。どんなに壊しても許される映画の世界を現実として体験できる、映画も現実も一つになった世界である。何回死んでも死ぬことはなく、何回壊してもなくならない。あの世とこの世を分裂させたままの世界、つまり、生死時空がある世界では、それは不可能である。今の思想のままでは本当の天国は永遠に実現しない。

『戦争は許せない』と言う。しかし、本当に真コトがわかっている者がやるのなら、それは遊びである。戦争ごっこである。泥棒ごっこをしている子供は、自分がごっこ遊びをしていることを知っている。自分を本当の泥棒だとは思っていない。戦争ごっこをしている子供は、死んだフリをしているだけである。今は「殺した積もり」の遊びであるが、本当の天国では、本当に本物で遊べる。『殺しても死なない』とわかっている世界だからである。

永遠の天国の神が、戦争を作ることもできる。戦うことがタブーならば、今の世界は存在することはできない。「戦い」の意味が違うのである。何のために戦争をするのか、何のために戦うのか、何を目指して戦うのか、である。真コトと魔コトの戦い、ハラとアタマの戦いでは、戦っているアタマの方は、自らの生存を賭けて戦って本気で勝とうとしている。しかし、ハラの方は、アタマがどう足掻いても絶対に勝てないとわかっているから黙って戦わせておく。横綱と子供の相撲である。横綱は、子供とは本気では戦わないのである。

真コトは一つの響き、魔コトは分裂の響きである。どう仮面を付けようと、基が魔コトである限り、それは分裂の響きである。真コトは感謝、魔コトは身欲である。感謝と文句が同居する感謝ならば、それは自らのご都合による感謝である。これをしている限り、真釣り戻しの情けに感謝することはできない。自分に訪れる苦の響きに感謝することはできない。苦が返る仕組みを作らなければ、永遠の破滅なのである。苦というのは、本当の死の危険を知らせる、魂を助けるためのお知らせである。『苦に感謝するのはおかしい』と言うなら、あなたは永遠の滅びである。このことが本当に納得できるには、生死損得を捨てて(すべてのアヤマ知を捨てて)、他人に何と言われようと、世間の常識がどうあろうと(実際は、根拠のない幻想であるから、それを実体だと思っている自分をおとなしくさせるだけであるが)、例え殺されるかも知れないと思おうと、自分が真実だと思う通りに正直にやるしかない。実践して癖にしたことは、実践して癖を直すしか方法はない。いつまでも、アタマの論理のお遊びでわかった積もりになっても意味はない。ますます混乱するだけである。議論していること自体が分裂思考を持っている証しであり、議論が激しくなることが、アタマの思考の限界が近いことを示しているのである。いずれ、形となり、実際の殺し合いを体験することになる。今は『自分はそうならない』と思っているかもしれないが。
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本来は時空はない。時間という概念も、空間という概念も、自分が信じているイメージに過ぎない。霊の世界には時空は無く、同時同空である。すべての周波数が同時に存在する。すべてが今ここにある。正確に言えば「今」も「ここ」もイメ―ジできない。時空を作っている者にとって、この状態は「無」又は「死」を意味する。「完全孤立」の感覚である。この感覚が「完全自由」、すべてを作り出す力の存在する場所である。時と所(空間)を生み出す、源である。この感覚を避け続けると、相互依存の世界が完成する。今のあなたは、本来の源の一つの響きを細かく分離して見ているだけである。一つの響きの一部分を分離して受け取っているのである。テレビで自分があわせた周波数の画面を見る如く、自分の持つ周波数の世界が自分の世界である。それは他人には適用できない。実際には膨大な周波数の番組が同時に存在しているのであるが、同じ材料を使っているから、それが同じ世界に存在し、同じルールを適用できると思っている。あなたの見ている世界は、あなた独自のものであり、言うなれば、人の数だけの世界が重なって同時に存在しているのである。

音声や文字として認識できる言葉は一つであり、その意味も元は一つである。誤解や、取り違い、議論はあり得ない。それがあるならば、両方とも取り違えた解釈である。双方とも、見ている世界に制限がある。すべてを包含する見方が元の見方である。本当の世界には言葉はない。映像と言葉は一体である。言葉と映像は分離しない。「考える」という作業は存在しない。思考に同調して映像が変わるだけである。あなたが存在する元の世界は、映像と言葉が一体の世界である。言葉が映像の仲立ちをすることはない。この世で言う、テレパシーである。文明の象徴とも言える文字は、実は、最も分離した世界の道具である。映像を言葉で説明することは困難を要する。テレビは走査線が映像を再生する。映像を文字で説明すると、その文字から映像を再生するのには時間がかかる。一つの映像を文字で書く、そして、それを読む。読むというのは映像の再構成である。映像を文字にし、文字を映像に再生する。文字を読む者にフィルターがかかっていれば、映像はゆがむ。一つの言葉には無限の映像をあてはめることができる。言葉と映像の不一致が、議論の基である。
P182
自分の中の天国と現実を一致させることが天国に戻ることである。自分のフィルターを透明にする、めがねを外すことが、天国に戻る方法であり、自然の法則違反を清算する方法である。元の一つを直せば、すべてが直るのである。バラバラに解決しようとすると、ますます分離が進む。すべてが同時に進む。すべてを元に戻すということは、分離したものをすべて統合することである。すべてを一つに戻すことである。すべてが一つに収束する。収束するというより、それしかないのである。あなたが分離している悪は、本来は分離できない。悪を分離した分だけ、戻る悪が強化されるのである。恐れを避ければ、もっと恐ろしいものが来るということである。自らが自然の掟に反した結果生み出したものを排除するならば、それは、自らがしたことを認めないということである。神は自らがしていることの責任をとる。というよりも、自らの思い通りに産み出せるから、責任という概念は無い。違反はないから責任もない。『責任を取らせる』という思考は、言い換えれば、責任転嫁の思考である。自分の違反の責任を他人に取らせるということである。本当の意味では、責任転嫁をすれば、違反が進むから、自分のためにはならない。この世的には、「得」であるが、本当の意味では、責任転嫁は、自らの破滅を意味する。それぞれが自分の責任を取る世界であるから、自分が責任を取らない限り、それは自分だけの破滅を意味する。

天国の者が集まって天国ができる。みんなが天国になるのではない。天国に独りだけ、ということもあり得る。違反を清算した者だけ、が天国に戻れるのである。つまり、違反を清算した者が1人も居なければ、天国には誰もいないこともあり得るのである。本当の天国は、神だけの世界である。人間の社会で法律を破ったら、娑婆で自由に生きることはできない。ただ、今までの世は、権力者が好き放題に振舞える世であるから、法律を破っても自由になることはできる。しかしそれは、今世の表面上のことであって、実際は、不自由になっているのである。同じように、神が神の決まりを破ったら、その違反を清算しなければ、神の世界には生きられない。神の決まりは厳格である。違反者は、万象万物の破壊者であるから、滅びである。神の掟には天国か滅びしかない。今までの世は、執行猶予の期間だったから、懲役だの禁固だの罰金だのが存在したが、実際は、時空はないから、違反即滅び、即ち、違反者は表に現れることはできないのである。神の世は始めから自由で天国なのである。ここで言う神は、今の人類が考える神ではない。分離した世界の神は、神ではない。悪魔があっての神は、神ではない。神が神にすがるのはおかしい。神が神を信仰するのはおかしい。神が神と戦うのはおかしい。それに気づかなければ、真コトを知らない魔コトの神を信仰したまま、破滅するのである。自らが破滅の道を選べば、自らは破滅の道を歩むのである。現世的に言えば、自分の思いはすべて形になるのである。


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