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実践・日本真道(事実その4)

現代社会の日本人が忘れた本当の神の道

実践・日本真道  長谷 章宏 著


事実 その4(P256~296)

P256
この本は、実現不可能な理想を書いたものではない。今の世で言うフィクションなどではない。あなたの手の届かない別世界の話でもない。現実にはありえない仮想現実や空想でもない。単なる宗教や哲学の話でもない。神話やお伽話でもない。すべて、あなた自身が体験することが可能な実話である。この本に書かれていることはすべて事実であり、今のあなたがいる世界の本当の姿である。あなたの人生が思い通りにいかない本当の理由、あなたの嵌まっているトリック(罠)、あなたが諦めている本当に自由な世界を思い通りに創造するための法則、あなたの現実の創造のメカニズム、言い換えれば、あなたの人生のカラクリを明かしたものである。あなたの体験する現実のすべてに影響を及ぼす、あなたという存在の根本にある間違いを正すための、最低限の基本を書いたものであるともいえる。

この本をただの知識として読み流すならば、何も読んでいないのと同じである。あなたは、白紙の束をめくっていただけに過ぎない。この本の中身を、都合の良い部分だけ抜き出してアレコレと詮索しようとしても、単に教養として身につけようとしても、その行為は全く意味をなさない。あなたはこの本から何も得ることはできない。時間の無駄である。この本が、あなたにとって本当に価値のあるものとなるのは、自らの生き様を根本から直すための実践ガイドとして使った時である。この本を生かすも殺すもあなた次第であり、それは、言い換えれば、あなたを生かすも殺すもあなたの態度次第だということである。あなたがなぜこの本を手に取ったのか。今ここで、もう一度、しっかりと考えてみて欲しい。

ここに書かれているのは、あなたとは関係のない別世界の話ではない。すべて、あなたの内の話である。あなたの内を見る鏡である。それは、あなたが見失ったもう一人のあなたが語る真実、あなたを含めたすべての世界の真実である。あなた自身を外したら、あなたの世界の真実は何もわからない。あなた自身が、あなたのすべての現実を創る、あなたという世界の創造主である。あなたが変わらなければ、あなたの体験する現実は何も変わらない。他者や外界を変えようとするあなたが変わらなければ、他者も外界も変えることはできない。あなたの周りの世界があなたと別のものであると思えば、あなたが本当に望んでいる現実を実現することはできない。あなたの体験する現実は、あなたがどんな神を信奉しているか、によって左右される。「本当の自分」という、あなたの本当の天国を産み生む本当の神の語る内話こそが、あなたが望んでいる現実をすべて実現するための教えである。

あなたという神が、あなた以外の神が語る嘘の世界の罠に嵌まって闇に葬り去っていた、あなたの世界を創る本当の源「本当の神」の教えを再び聴き戻すことが、あなたの本当の天国を実現するための第一歩である。あなたの人生についてのただ一人の専門家はあなた自身である。あなたという存在についての研究の第一人者は、世界中どこを探してもあなたをおいて他にはいない。あなたが語る周りの世界についての話は、すべて、あなたという世界についての話なのである。このことがわかったら、今すぐ、自分と自分との対話に移ることである。あなたがした質問にあなたが出した答えの○×を、あなた以外の誰かに確認することはもうやめて、自分という神(教師、教祖、グル)に確認してみるとよい。その答えは、あなたの出した答えと同じはずである。あなたがあなたの答えを疑えば、あなたは永遠に真実を知ることはない。シャキッと目を覚まして、本当の真実を見て欲しい。
P257
この本の事実をすべて受け入れれば、あなたは「完全なる自由」を手にすることができる。

これをまた『そんなことは本当にあるのか』と疑えば、あなたは堂々巡りから抜け出すことはできない。あなたがあなたを疑うことをやめない限り、その堂々巡りは永遠に続く。それをやめさせることができる存在は、あなた以外にはどこにもいない。あなたがその問いを完全に封印することが、滅びのスパイラルから抜ける唯一の道である。あなたがあなたを完全に信頼しなければ、今までの嘘の世界を彷徨うことになる。今までの嘘の教えを心底から信じ込んでいたのならば、それと同じことをすればよいだけである。あなたが今持っているものは、嘘の真実である。嘘の真実が本当にあったのなら、本当の真実が本当にあるのは当たり前のことである。本当の真実には嘘はどこにもない。本当の真実に生きているならば、疑うことはしない。本当の真実を疑う基準は嘘の真実である。黒を白と思い込んで、その基準で価値判断すれば、その答えは黒となる。しかし、事実は、白と思い込んでいた真実は黒であるから、黒に見える真実が白なのである。後は、あなたが、いつ疑うことをやめるか、という問題になる。白は白である。本当の白の真実を完全に信頼することである。怖れや不安は、嘘の真実が見せる幻である。嘘の幻覚に打ち克つことで、本当の真実が本当であることを確信することができる。すべてはあなたの決断次第である。

あなたの世界はあなた独自の世界である。本当の真実を知ろうとして、あなたの目の前で展開する他者の世界の出来事をあれこれと評論していても、無駄な努力である。たとえ、この世にあるすべての現象を取り上げて著者が一つ一つ解説したとしても、あなたの根本が変わらなければ、何もならない。それは、永遠に終わらない意味のない遊びに過ぎず、いつまでたっても、あなたの本当の天国への旅は始まらない。あなたが本当の真実を知りたいならば、あなたの体験した現実を具体例にして、自らで真偽を確認していくしかない。

どんなにたくさんの具体例をあげて説明しようとも、それをどう解釈すればいいのか、どう使えばよいのか、気づいたことをどう処理したらよいのか。自分と自分の対話とはどういうことなのか等々の基本を、体験を通してあなた自身がマスターしていかなければ、あなたは今までの現実から永遠に抜け出すことができない。あなたが、自分自身の人生というゲームの歩き方を自分の意思で実践を通してマスターしなければ、分からないことが出る度に『これはどうすればいいのか』『これはどういう意味なのか』『これは本当に正しいのか』『こう考えても良いのか』『こうしても良いのか』云々とあなた以外の人に訊き続けなければならなくなる。文献を探し続け、講演会を聞きまくり、宗教を渡り歩くという、いくら続けても答えが出ない意味のない行為を、永遠に続けなければならなくなる。あなたが、自分の出した答えを疑っている限り、あなたは誰かに確認し続けなければならない。今までの癖を捨て去らない限り、あなたが本当に自由になることはできない。自分以外の誰か(何か)に、『いいのかどうか』と自分の出した答えを確認し続けて、嘘の神の真実に振り回された挙句、偽の天国を目指して突き進み、望むものは何も得られず、何がなんだかわからなくなった末に、最後には、結論が得られないまま、あなたは永遠に滅ぶことになる。どんなに確認しまくろうと、結局は、あなたの出した答えに戻るのである。あなたが早く自由になりたいならば、恐怖や不安に飛び込んで、答えの真偽を確認すればよいだけである。
P258
この本には、あなたがあなたを信頼し直すための、今までの癖を取るためのトレーニングに使える材料が満載されている。あなたがあなたの再教育をするためのテキストでもある。あなたは、あなたの出した答えにすべてOKを出せばよいだけである。『本当にOKを出していいのか』と、ここでまた今までの癖を出せば、堂々巡りに逆戻りである。その癖を完全に取ることが、あなたの再教育の課題である。この本の事実に照らせば、あなたが出すどんな答えにも○を出せるはずである。今までの世界で×と言われていたことも、実際は、本当の×ではない。それがどんなに荒唐無稽なもの、許しがたいもの、不可能に思えるものであっても、疑わず、否定せず、誰にも同意を取らず、あなたが思ったこと、わかったことに、自分が同意すればよい、ただそれだけである。あなたは、自分がしたことに責任を取るならば、何をしてもよい。誰かに訊くということは、その誰かに責任を押付けるということである。『いいのかどうか』と訊くとしたら、いいと答えればやり、よくないと答えればやらない、そして、やってうまくいかなかったら責任転嫁をすればよい、と思っているということである。すべてに自分で責任をとるならば、誰にも確認する必要はない。

あなたが今までの癖を持ったままならば、あなたは絶対に自由になることはできない。誰かに責任を渡している限り、あなたが自由にならないだけのことである。あなたが責任を取らない限り、あなたは誰かの奴隷であり続ける。あなたが奴隷であり続ける限り、あなたには完全なる自由はありえない。あなたがあなたを完全に自由にしない限り、あなたは完全に自由にはならない。自分が責任を取らずに自由になることはありえない。あなたがあなたを疑っている限り、あなたの中に疑いがある限り、あなたの本当に望む世界をすべて実現することはできない。あなたの中に「?」がある分だけ、あなたは自由にならない。疑っているのはあなた自身であるから、あなたを奴隷にしている王様はあなた自身である。
P259
あなたは、いつまで確認しているのか。いつまで疑っているのか。著者は、言葉で語ることも、別の文章を書くこともできるが、それは、材料の追加や補足に過ぎない。あなたが誰かに頼り続ければ、何万人に話を聞こうが、何万冊本を読もうが、どんなにたくさん材料を仕入れようが、結局は、何もならない。『いいんですか?』の答えはただ一つである。あなたの質問にはあなたが答えるしかない。あなたがすべてわかっているなら、あなたの中には質問は出ない。問いと答えを分離しているのはあなたである。あなたの質問の答えを×しているのはあなたである。あなたがあなたに語ることは、どんなものであってもすべて認めること。あなたが、滅びの道の堂々巡りから自分を救う方法は、それしかない。

この本は、この本に書かれていることを実体験を通して確信しなければ、絶対に書けない。

この本のソースは、自動書記(霊感、神示)と呼ばれる形で提示されたものである。神典や神の啓示、預言、神託、チャネリングと言われるものは、この形で降ろされたものである。このメッセージは、検証のプロセスを経ずに、受け取ったものをそのまま言葉や文章にして公開することもできる。著者もその形で公開したことがあるが、その時はまだ、本当の意味で確信していない段階であり、著者にも若干の疑問が残っていたため、読者の反応に本当に自身を持って対応することができずに悩んだ。その後も、当時の社会状況を反映させながら、表現を変えて何冊かの本を書き、講演会もしたが、その当時の著者のレベルでは、どんなに分かりやすく話をしようとも、読者が取り違いをする公算が大であることを学んだ。しかし、その体験を通して、最終的には、現代社会での体験と結びつけながら、さらに具体的な実践の裏付けがある理論の形で統合して提示した方がよいという結論に達し、『今ここでどうすればよいか』という実践的ノウハウという形で、より広い読者層に公開することができる内容にする必要があると判断して、難儀ではあるがその道に踏み込んでいった。そして、その結論が、最後の講演会を終えてから以後、言うならば、地下に潜伏して最後の総仕上げをした4年間のフィールドワーク(実際に、その時の予想以上に、とんでもなく難儀な体験の連続ではあったのだが)を経て書いた、この本なのである。

この本を使うに当たって大切なことは、自動書記とは何なのか。その出所はどこなのか、どんな存在が送っているのか、メッセージは本当のことなのか、等々にフォーカスすることではない。その世界に嵌まってしまうと、あなたは、別の罠に落ちることになってしまう。イエスキリストが本物か偽者か、イエスキリストの神は本物か、という議論をしていても全く意味がないのと同じである。イエスキリストの言ったことそのものを自分が信じるか信じないか、が重要であり、信じたならば、一言一句違わずその通りに生きることである。あなたは、今までも、今生で教えられてきた常識を真偽も確かめないまま鵜呑みにして、一言一句違わず実行してきたのである。その結果があなたの現実であり、この本を手にするハメになった原因である。あなたが今まで何を信じ、どんな行動をし、どんな体験をしてきたかは知らない。しかし、あなたがどんな現実を体験していようとも、今のあなたの現実、今あなたがいるその場所が本当の天国へ戻る出発点なのである。あなたがそれを否定したら、あなたの今までの人生は無駄になってしまう。要は、あなたが今までの間違いを認め、今まで体験してきたことを材料にして、本当の天国に向かってゼロから出直す覚悟をすればよいだけであり、それが、自分をすべて認め、自分の今までの苦労や体験を本当に活かすことにもなる。結局は、この本や著者の素性を探ることに心血を注ぐのではなくて、この本に書かれている事実をあなたがどう使うか、ということが大切なのである。
P260
この本をあなたの役に立つものにするためには、生き様の根本を正す材料として使うことである。あなたがこの本(の事実)や著者の真贋を確認してから信じると言うならば、それでも構わない。ただし、その間は、あなたは、現代社会の嘘の常識の世界に居続けることになり、本当の真実への道がどんどん遠くなっていくだけである。現代社会と裏表の事実を書いたこの本の鑑定結果は、あなたの鑑定眼(判断基準)次第である。結局は、本物かどうかを決めるのはあなた自身であり、この本をどう使うか、いつ使い始めるか、使った結果をどう扱うかは、あなた次第なのである。これは、他の書物や講演会等にも言える。この本は、言わば、あなたの真贋鑑定の時間と手間を省くために、著者が、現代社会にある様々な仮説や常識の真贋鑑定をして提示した、現代社会の真贋鑑定の報告書でもある。

さて、話をもとに戻そう。当時の著者が受け取ったメッセージの内容としては、この本に書いてあることそのものであるが、それは、著者の分析、価値判断、思考を停止させるが如くに、記録していくペンが追いつかないほどの速さで次から次へと心に浮かぶ、という体験としてもたらされた。現象としては、あなたが自分の思いついたことを走り書きするのに近いが、それはまさに、本当の自分が嘘の自分に論争を仕掛けるが如く、この事実に嘘の自分が抵抗する(自動書記を止めようとする)ほど苦しくなって、結局は、(いつもそうだったのだが)、著者がどう抵抗しようとも、ある量のメッセージの記録が終わらなければ、それは止まらなかった。この現象は、また、著者が著者自身の書いた本から知らなかったことを知らされる、という如くの「知らずして知る」という摩訶不思議な体験でもあり、自分が知らないことが自分の中から出てくるという、常識では解釈が困難なその体験の意味付けをするのに苦労した。メッセージは、ある時期から、その時々の事件や事故、社会問題等の、いわゆる時事問題の本質の読み方とでもいうようなものに変化していった。

著者が初めてこの本にあるような事実を知ったのは、バブル崩壊直後の、大震災もオウム事件も起きていない、日本がまだバブルの余韻に浸っている頃だった。その頃の著者は、教師として現代社会にどっぷりと漬かっていて、今の社会は何かがおかしいと薄々は感じてはいたものの、当時の常識を真実として教壇に立っていた。著者がメッセージをどう感じたかと言えば、それまでに学んできた常識ではありえない話、うさんくさい話、許されない見方、抵抗ある見方に感じたことであろうことは、ご想像頂けると思う。それは、あなたがこの本を読んで感じている反応と同じである。自分の内から出てきたものであるにも関わらず、それが信じがたいものであるという、二人の自分の存在に若干の怖れを抱くこともあった。しばらくは秘密にしていたが、周囲の人間に話し始めた時は、当然にこういう反応が返ってきた。『あんたは何を馬鹿なことを言っているんだ』『頭がおかしくなったのか』『そんな宗教を信じていたら大変なことになるぞ』『そんなことできるわけがないだろう』『そんなことをしたら家族や社会に迷惑がかかるからやめろ』『どうなっても知らないぞ』『後で泣きついてきても助けてやらないからな』云々。言うなれば、この世に存在するありとあらゆる非難の言葉と行動を返されたと言えるかもしれない。ただ、その頃にも、「進んだ」「新しい」考えを持っている人もいることはいたので、少しは話を聴いてもらうこともできた。しかし、時の経過とともに、そういう人たちからもだんだんと相手にされなくなっていき、自分の質問に答えらる他者の存在も消えて、結局は、自分が自分で自分の質問に答えるしかなくなっていった。自分の頭の中だけで対話している分には問題はないのだが、自分の人生すべてを通して実践していくとなれば、それは、とんでもない抵抗、非難、中傷、無視、蔑み、嘲笑の連続が待っていた。それは、家族や親類であっても同じであり、近い分だけ封印する力は強かったように思う。まさに、奈落の底に落ちていくような本当に孤独で厳しい自己対話と実践の連続を経て、ようやく今ここまで来たのである。
P261
当時の著者にとって、それは、認められない、許しがたい、ありえない、恐ろしい考え方、簡単に言えば、当時の社会状況の中では、とんでもない内容だったのである。とはいえ、その見方で現実を見直していってみると、確かに、そのメッセージの方が核心を突いていることを実感するようになっていった。その後、それが真実であると本当に確信するためには、その見方で実際に生きてみて、それが本当に真実かどうかを現実として体験してみるしかないと思い、当時としては、非常に勇気がいることであったが、教師という世界から足を洗った。しかし、その見方で生きるということは、厳しい現実の繰り返しが待っていることを意味し、この本にもあるように、混乱、不安、恐れ、疑い、孤独、死の恐怖等々が交錯する、まさに、天地がひっくり返る体験の連続だった。同時に、そのプロセスでも、新たな情報が次々に手元にもたらされたが、そのすべてを受け入れ、時々の社会情勢に投影させながら統合していくという作業を繰り返すことによって、だんだんと自らの体験に統合されていき、著者の確信はどんどん強固になっていった。そして、今ではその確信は絶対の真実となっている。この本に書いた通りに実践した総決算が、この本なのである。

このプロセスで得た様々な情報は、それがどんなものであれ、受け取ったものは、現代社会の要素に統合するべく、片っ端から実行に移していった。そして、今の世にある様々な学説、意見、教理、思想、哲学、預言、予言等々とも照らし合わせて検証しながら、その結果を再統合することで、確固たる確信を得るに至った。この本は、著者の全人生を賭けたフールドワークと著者自身の実体験を通してすべて事実であると確認した上で書いたものである。この本は、突然のメッセージから始まった、著者の体験の総まとめでもある。
P262
これまでのプロセスを、今、改めて振り返れば、今ここまでの長い長い道のりの中で、多くの人が来ては去っていった。本当に孤独の極致を味わった時期もあったが、結局、最後までずっとそばに居て支えてくれたのは、家内だけであった。どんなに苦しい時でも、誰にも相手にされなかった時でも、著者がどんなに「無謀な」行動をとった時でも、著者を信じ、言語に絶する苦労に耐えて、支え続けてくれたのである。著者が自らの道を貫き通したことで、まさに、かけがえのない永遠の「ソウルメイト」に出会うことができたことは、著者にとっての最大の贈り物である。今ここで思うことは、ある人は著者を非難する形で大切なメッセージを残してくれ、ある人は精神的、経済的に苦しい時期を快く支えてくれた。結局は、善かれ悪しかれ、今まで出会った「すべての人たち」のお陰があって、この本を書くことができたということである。この本は、著者が今まで取り組んできたことの報告書であり、著者の最高最大の感謝の表現でもある。従って、この本を世に出すことは、家内を始めとして、肯定的であれ否定的であれ、今までの著者の歩みのプロセスに関わり、支えてくれた、すべての人たちへの本当のご恩返しの始まりであると思っている。

この本をきっかけにして、一人でも多くの方々が、本当の天国の現実を体験をすることができたならば、著者にとって、これ以上の喜びはない。著者のこれからの大切な仕事は、本当の天国(ミロクの世)に戻ろうと決めた方々のお役に立つことである。それは、著者のライフワークであり、大神の親心、誠意に応えることであり、本当の意味での神のお手伝いとなるからである。それはまた、日本(世界)の真の再生に貢献すること=本当の社会貢献でもある。そのためならば、著者は、全身全霊でお手伝いをさせて頂くが、それは、著者の持っているすべての体験と情報を駆使して、ものの見方、視点の変え方、トリックの外し方、言い換えれば、身魂の大掃除のノウハウとそのための材料を提供することであり、著者が直接、読者諸氏の心の大掃除を代行すること=あなた自身を真釣りの響きに変えて差し上げることはできない。著者(この本)は、あくまでも、あなたご自身の真釣り戻しのための鏡となることができるだけだということをご承知の上で、使って頂きたい。

著者は、現代社会の中でこの本を書いて公開することが、自らの人生のライフワーク、言い換えれば、それがこの世で果たすべき自分の役割であり、「天職」であることを、この本を書くに至るまでのすべての体験を通して確信した。そして、刊行が終われば、本当の天国に戻るスタンバイが完了するであろうことも予見している。まさに、著者の今までの人生は、この本を書くためにあったのである。これは、著者の体験上、時を経るごとにハッキリと見えてきた事実であって、今となってはこれを疑う理由はどこにもない状態にある。
P263
著者は、13年間、殆ど毎日何らかのメッセージを走り書きしていたため、その量は膨大なものである。従って、それをすべて公開しようとしたならば、その整理だけでとんでもない時間と労力が必要となり、いつになったら公開できるのか、目処も立たない状況に呆然とすることになっただろう。メモの中には、著者自身にも読み返せない走り書きも多く、すでに灰となって埋立地でビルの土台と化しているものもあり、今となっては、それはできない相談である。また、メッセージの中には、著者自身へのガイドとしてのものも含まれているから、すべてを公開しても、実際には意味がない。結局は、読者諸氏が実践していくにあたってのポイント、実際に使うにあたって参考にできる材料だけを要約して公開すればよいから、その企ては実現しなかったのである。メモは灰になったが、著者の心の中には、その時その時の体験と共にすべてのメモが整理してしまってあるから、必要とあらば、いつでも、補足説明や材料の追加、詳細な内容の提示等の形で、この本をたたき台として話をすることは可能である。この本は、著者が書いてきた膨大なメモの内容を過不足なく網羅した研究の要約であり、実体験を通して検証した結果を基に、現代社会に生きる読者諸氏にわかる形に翻訳した「日本真道の実践入門書」として書かれたものと言える。

突然、個人的な話になってしまったが、あなたがこの本を使うにあたっての何かの参考になればと思い、著者自身の総まとめと、今まで支えてくれた方々への感謝の意味も込めて、この本が誕生するまでの経緯のほんの一部分を、今ここで紹介させてもらった次第である。

さて、真釣りを外した世である今のあなたの世界にあるものは、あなたが真釣り戻すまでは、すべてが真釣り戻しのための身魂の掃除道具である。今のあなたが使っているすべての道具、言い換えれば、あなたが生きるために必要なすべての天恵は、真釣りを外した「情けと花の仕組み」の中においては、すべてが身魂の穢れの大掃除をするための道具なのである。しかし、今のあなたは、逆さまの世を真実だと取り違いをして、魔釣りのアヤマ知に囚われ、形の世界で至福や快欲を追い求め、快適生活にどっぷりと嵌まり込んで、その真釣り戻しの道具で魔釣りの天国を作ろうとし続けている。形の部屋を綺麗にするために掃除に励むのではなく、掃除という行為を使って、自らの心の掃除をすることが、本来のあなたの為すべきことである。この世で天国を作ることではなくて、今ある道具を使って天国の響きに戻すことが、あなたが生きている本来の目的なのである。あなたが真釣り戻した後は、掃除道具が真釣りの天国の疑似体験をするための遊び道具に変わり、真釣りのミロクが顕現した暁には、歓喜弥栄の永遠の天国で、自由自在に世界を作ることができる。あなたがこの世ですべきことは、快楽を追求することではなくて、真釣り戻すための苦労をすることである。それが、真釣り外したあなたが今生で歩むべき、本当の道なのである。

片付かない、綺麗にならない、とイライラしていたら、掃除の意味はない。見える世界を綺麗にするための掃除に精を出し、形に現われた塵や埃をどこかに追いやっても、結局は、自らにすべてが戻ってくる。日本から見た「東」は、地球を一周すれば、それは、「西」あり、自分の東は自分、自分の西も自分である。東=西、であり、自らの視点の違いに過ぎない。あなたからどう見えたとしても、快楽を追い求め、自らの苦労を誰かに押し付けていることには変わりはない。誰も責任を引き受けないと言ったら、最後には、自分から出たものはすべて自分に戻る。自分が責任転嫁した分=苦を押し付けた分を引き取らない限り、あなたは永遠の間違いに気付かないまま、永遠の命を捨てることになる。楽に掃除を済ます方法を追い求め、有害物質やポイ捨てを取り締まれば、一時的には満足感が得られるが、実際のところ、綺麗になるどころか、規制や強制をされることで、望みとは反対に、心はどんどん乱れていく。あなたが響きの穢れを塗り隠した分、最後にまとめて形に現れることになるから、結局は、誤魔化し、塗り隠し、見ない振りをしていた分をまとめて大掃除することになる。すべての埃を綺麗サッパリ掃除してピカピカの心になるまで、永遠に終わることはないのが、本当の大掃除である。それゆえに、有限だと言う世界で無限に埃をため続ければ、ゴミハウスの住人の現実が自らの現実となる時がやってくる。形の掃除とは違って、身魂の大掃除は、神仏や他人に掃除の方法を教わることはできるが、掃除そのものを手伝わせることはできず、掃除そのものはすべてあなた自身がすることになる。
P264
形をどんなに衛生的に、美的に作り上げたとしても、それは、マヤカシの綺麗さであり、美しさである。実際は、全くアベコベの行為であり、そのまま続ければ、本当の意味では、綺麗になるどころか、どんどん汚れて、ますます散らかっていくだけである。心の曇り具合に比例して、形を壊す響きが増幅するのである。心の乱れが形に現われるから、形が綺麗なほど、身魂は穢れているということである。この世は写し鏡であり、あなたの現実の汚れた形は、あなたの身魂の姿そのものなのである。毎朝、部屋の隅々まで塵一つなくピカピカに磨き上げたら心が磨けるのではなく、心を磨けば、自然に形が磨かれるのである。形の清潔さを保って爽快感を得るために掃除をするのではなく、心の掃除をするために掃除という行為を使うのである。すべては、心の内の話であり、真釣り外している限り、すべてが逆さまとなる。形をどんなに綺麗にしても、形の清潔さにこだわるならば、満足する綺麗さには永遠にならない。今の世で最も衛生に敏感な国が最も不衛生な国なのである。

心の塵一つない、穢れなき世界に戻らない限り、塵やゴミは出続け、体は汚れるから、掃除、洗濯、入浴は永遠に続く。何の曇りもない世界に戻れば、掃除、洗濯の必要はない。その世界には、心の掃除、洗濯が必要な者は存在できないからである。身魂の汚れをすべて綺麗サッパリ落さなければ、形はどんどん壊れていく。つまりは、心の掃除、洗濯をしないならば、曇りも穢れもない世界に生きるという現実は、永遠に実現しないということである。掃除や洗濯を面倒だと思っている限り、掃除や洗濯のない世界に住むことはできないのである。あなたが掃いている塵は、あなたが吐いたものである。自らばら蒔いたゴミは、自らが責任をもって掃除することは当然である。自からの苦=自らの響きであり、すべては、自己責任である。ミロクになるまで、日々、心の掃除、洗濯をしていればよいだけである。形の掃除を毎日する必要はない。実際には、あなたが汚れに我慢ができないから毎日やっているだけであり、穢れを嫌うならば、あなたは穢れの響きと同調していることになる。環境問題は自らの作った問題である。形の世界、今生だけでその原因を探している限り、自らが源であることは絶対に気づかない。だからこそ、形を綺麗にすること、形を壊さないようにすることに躍起になっているのである。自らの響きの反映が自らの現実の体験となる。心の穢れをそのままに、形の掃除で心地良くなろうとする、そのことが、心が曇っている証である。形を綺麗にしよう、汚さないようにしようとする者は、言い換えれば、他人に掃除、洗濯をさせようとする者は、結局は、自らの汚れ落としを神にさせようとしていることになるのである。形の掃除、洗濯をすることが目的ではない。あなたが真釣り戻しの掃除、洗濯をしているならば、どんな状況でも、居場所は必ず用意される。
P265
日常も、非日常も、同じ世界の中にある。自らのすべての世界で同じ心を保てなければならない。家の外にあっても内にあっても、態度は一貫していなければならない。特別なことや、特別扱いがあっては、本当の意味で平等、公平ではない。大神は、善にも悪にも、別け隔てなく天恵のお陰を渡し、平等に改心の機会を与えている。これを『おかしい』と思うならば、あなたは、真釣りの真コトの響きではない。大神の真意が全くわかっていないことになる。このことがわかって、いつでもどこでも、たとえ死んでも、死んだ後も、100%、大神の意に乗って生きることが、真コトの行である。俗世間を離れて、修行のための施設で、毎朝、境内やお堂の掃除をしたら悟れるわけではない。それが義務や強制に感じるようになれば、逆効果である。悟るために掃除をするなら、それは、取り引きであり、心底からの改心はない。心底から改心したというならば、俗世間で不平不満を一切、言わないことである。仲間同士の合宿で出来たからといって「罪」が消えるわけでもない。

形が心を変えるのではない。心に従って形が成るのである。すべてのやり方、生き様が逆さまである。不平不満を言いながら掃除をしても意味がない。掃除は、人生の雛型である。時間も、生死も、予定も、すべて捨てて、一つ一つクリアしていくことで形になるのである。形にするために何かをするのではない。身魂の掃除、洗濯とは、心の囚われをすべて捨てることである。善悪をすべて捨てることである。魔釣りのイシヤの仕組みも、大神の許しあって存在しているのであり、魔釣りに囚われた者と共鳴する響きを作って、魔釣りに気づかせて真釣りに戻すために、魔釣りの響きに囚われれば不都合を体験する仕組みである。真釣りしかない世界で不都合があるならば、その原因は、自らが魔釣りの響きを持っているからである。あなたが真釣りならば、真釣りと共鳴しているから、不都合は一切ない。不都合があるならば、あなたが魔釣りの響きを奏でている証である。万象万物は、自らで魔釣りにはならない。魔釣りで真釣りを使った人間が、魔釣りに変えるのである。
P266
あなたが、あなたのすべての不都合の原因なのである。この世は(あの世も、であるが)真釣りと魔釣りしかない。あなたが魔釣りでないならば、真釣りだということになり、あなたに不都合があるのはおかしい。あなたが魔釣りではないというならば、あなた以外が魔釣りであるということになる。あなたが真釣りならば、あなたの周りが魔釣りでも不都合はない。あなたが魔釣りならば、真釣りでも魔釣りでも不都合が現れる。ゆえに、あなたの体験(認識)している不都合はあなたの魔釣りが原因である。真釣りの者は、自らが源であることを知っている。真釣り外しを認めた者は、自ら以外のせいにしないことに気を巡らせる。あなたが、『自分は悪くない』と言ったり、自ら以外のせいにしたりするならば、それは、あなたが魔釣りの証である。真釣りを認めないならば、そのまま、魔釣りを正しいと思い込んだままである。社会が魔釣りだとしても、あなたが真釣りならば、社会は何の障害にもならない。実際のところ、大きな視点から見れば、社会には何の問題もないのである。あなたが、あなたの不都合を社会のせいだと言うならば、あなたは魔釣りである。あなたが魔釣りであるならば、魔釣りの社会と同罪であり、実は、あなたがどんな体験をしようとも、社会のせいにすることはできない。責任転嫁はすべて冤罪なのである。

あなたが魔釣りならば、真釣りは闇であり、許せないものとして映り、魔釣りの悪と区別できない。元つ天と小天をごちゃ混ぜにしているのと同じことで、真釣りと魔釣りの悪の区別はできないから、真釣りを裁くことになる。あなたは真釣りと知らずに裁き続けることになる。あなたが原因か、あなた以外が原因か、どちらか一つである。真釣りに戻らなければ、魔釣りからは出られず、真釣りの世にも入れない。自らの真釣り外しを認めない限り、あなたには本当の天国はない。あなたが魔釣りの響きを掃除しなければ、どんなに巧妙に仮面を被ったとしても、どんなに屁理屈を捏ねて先送りしたとしても、結局は、魔釣りの大掃除を体験する時が来る。最後には、魔釣りの響きそのものが形になる時がくる。

自分が真釣り戻さない限り、苦は増え続ける。自らで影の源を消さない限り、自らが作り出す影法師からは、死んでも逃げられない。最後の最後は、誰のせいにも出来ず、誰にも頼れず、誰も助けてくれず、自らで自らのしたすべての過ちの落とし前をつけることになる。あなたが、どんなに「自らの正しさ(自ら以外の誤り)」を主張しようとも、それは、魔釣りの響きの世界での証明に過ぎず、そのままならば、必ず、自らのマ違いを思い知る時が来る。真釣りは天地自然の掟であり、真釣りを外したものはすべて滅ぶのが定めである。真釣りには魔釣りはなく、本来は、滅びとか、死とかいう概念は存在しない。従って、その対極である、再生とか、生とかいう概念も存在しないのである。滅ぶという言葉は、情けと花の仕組みの中の途中経過の世界でだけ存在する、期間限定の言葉である。今に生きようとしても、それは、今を認識しているから、実際は、過去や未来を見ていることになる。「今」という認識すらも消えたときに、初めて、本来の「今」を体感するのである。
P267
存在し続けるものには、滅びはなく、滅んだ者は、滅びという言葉は使えない。実際は、始めから存在しないのが魔釣りの世界であるから、真釣りから見れば、滅んだ者、という表現もありえない。それは、敢えて言えば、真釣り戻った者から過去の存在を見た表現であり、滅んだ者であり、真釣り戻った世界は、元の始めの世界だから、魔釣りはなく、滅んだ者は一人もいない。滅ぶ者も一人もいない。真釣りから見れば、「情けと花の仕組み」は幻であり、真釣りから見たら存在しない世界なのである。世が真釣り戻れば、元の世に戻って、情けと花の仕組みの中で天国を作ろう(生き延びよう)としているあなたは消える。真釣り戻っていなければ、元の真釣り世に戻った時、あなたはいなかった存在となる。

真釣りにない思考、響きをすべて掃除することが、身魂の掃除である。魔釣りの結果である形を掃除しても、真釣りに戻ることは出来ない。あなたが死を考えるのも生を考えるのも魔釣りである。相対二元、対極の世界に存在するものは、すべて、同じものを相反する視点で見ただけのことである。保護を語るのも、節約を語るのも魔釣りである。破壊を破壊しようとするのも、形の世界の修繕(病気という魔釣りの響きの治療)をどんなに続けようとも、本当の天国は実現できない。永遠無限の歓喜弥栄の生き通しの世界にない思考、言葉、イメージを持っていれば、それは魔釣りであり、大神の世の大掃除が終われば、魔釣りの響きは綺麗サッパリ掃除され、今で言うあの世にもこの世にもどこにも存在しなくなる。つまり、あなたが魔釣りに同調する響きを微塵でも持っていれば、その響きにこだわっていれば、あなたは、真釣り戻しの機会を棒に振り、掟通りに消えることになる。大神が生かしてくれた復活の機会を自ら拒否し、自らで自らの命を捨てることになる。

天地自然の掟は絶対真理であり、あなたがどんな理屈を持ち出そうとも、それは、掟破りをし続ける宣言に過ぎない。掟を破ったあなたが掟に戻らないならば、あなたが掟通りに消えるだけである。あなたがどうするかをあなたが決めるのではあるが、本来は、掟に従うのが当たり前であり、掟破りは許されないのである。許されないことをしたあなたは一切の反論は許されず、アレコレと屁理屈を持ち出すならば、一切の情状酌量はなく、問答無用で成敗されるのである。掟破りの存在が生かされているだけでもありえないことであり、その掟破りの無法者がツベコベ言うならば、自らの立場を全くわきまえていないことになる。あなたがどんな策略をめぐらそうとも、あなたが滅びを避けることは100%できない。できるというならば、それは、ここで述べた通りの行為であるから、ここで述べた通りの結果となる。あなたが、アレコレと屁理屈をこねくり回すのは、生き延びるためであるが、今のあなたの命は、あなたのものではない。あなたが本当の命を手にするには真釣り戻すことが条件である。あなたがどうするかは自由であり、二つの道があるように見えるが、今の世で生き残り、快楽、天国を求めているならば、それは永遠に叶わない。魔釣りの現代社会に生きる者にとっては、真釣り戻しの道しか残されていないのである。
P268
叶うとは、口と十、0と十、つまりは、すべてを一つにしない限り、実現しないことを意味する言葉である。真釣り戻しをするのが、「情けと花の仕組み」の唯一の目的であり、それをしない限り、目的は果たされず、ピント外れのまま、焦点を外して昇天しても、あなたは真コトの火で焦げ死ぬのである。真釣りは真釣りであり、あなたの生き残る道は、どうあっても真釣りに戻すことしかない。真釣りは生死時空を超えた掟であり、真釣り戻しも生死、時空を超えた行為であるから、あなたには死後の世界はない。あなたにとっては、すべて生の世界であり、あなたが真釣り戻さない限り、あなたは永遠に命を失う。永遠に続く世は、真釣りの神代のみであり、真釣り戻しのみが神人共通の目的だったのである。

魔釣りか、真釣りか、どちらかが実体である。善か悪かの選択は、魔釣りの響きの中の選択である。善=悪である。結局、真釣りに戻すためにすべてがあったのである。あなたが魔釣りの世界で生き延びようとしている間に、情けと花の仕上げに向かってすべてが動いている。間違いに気付いたところで、あなたが今までしてきたことは消せない。気付いたら、それを認めて、キッチリと責任を取ることでしか、今までの過ちは消えない。どんな地獄が待っていようとも、それは、真釣り外した自らが招いた地獄であり、その地獄をすべて引き取ることしか、真釣りのミロクに戻る道はない。あなたが、イシヤの仕組みの快楽を追い求め、偽の天国を得るために争っている間に、真釣り戻しの期限の到来が近づいていたのである。今この場で真釣り戻すか戻さないか。それが、今のあなたの唯一の選択肢である。魔釣りか真釣りか二つに一つ。魔釣りに生きたあなたが真釣りに戻すには地獄が必要であり、魔釣りのままならば、地獄を経て永遠の滅びである。真釣り戻しの地獄を経て生き戻るか、魔釣りの地獄を進めて滅ぶか。同じ地獄でも、結果は天国と滅びであるから、あなたには、迷う理由はない。真コトの命の踏絵を踏んで、ミロクに戻って欲しい。

すべてのすべてが元に戻るのである。九分九厘まで魔釣りを進めた今の世で真釣り戻すには相当な難儀を要するが、別の意味では、今の時ほどお陰も情けもハッキリと現れる時代はかつてなかったということである。真釣り戻せば、そのご苦労にお陰がどんどんついてくる。真釣り戻さなければ、御苦業のメグリがどんどん増えて、ますます情けが厳しくなる。今のこの時期は、真釣りの真コトがなければ、もう何も成就はしない。魔釣りのやり方で作った仇花は、作ったそばから散っていくことになる。すべては、真釣りに戻っているだけである。今までの歴史は魔釣りを外し続けた歴史であり、現代社会はその究極の姿である。その現代社会の中で学んできたすべてのことは、魔釣りを進める=滅びに至るやり方である。すべてのすべては真釣り戻すための道具である。魔釣りは真釣り外した者(魔釣りの者)の囚われを解く響きであるから、魔釣りすら悪ではないのである。あなたには裁くべきものは何もないのである。真釣りに悪はない。魔釣りから見たら不都合に思うことがあるだけである。自らが魔釣りの響きを持っていなければ、悪は見えない。悪が見えるならば、あなたは魔釣りの響きを持っている。その魔釣りがすべての悪や苦の源である。魔釣りの世で真釣りを思えば、悪に見える。真釣りである世に悪があると言っているあなたの魔釣りこそが、本当の悪なのである。戦争の際、軍規に違反すれば、処刑である。魔釣りをやめれば真釣り、魔釣りをやめない限り、滅びの道を転がり落ちていくことになる。
P269
あなたが体験している現実は、あなたが真釣り外して以来のすべてのメグリの型示しである。あなたが産まれた家系、場所、あなたの家族、出あった友人も含めて、姿、形を変えて、因縁の身魂がメグリ巡って出会っているのである。その目的は、お互いの真釣り戻しのためである。この世には偶然は何一つない。従って、偶然の一致というものもない。すべては必然であり、たとえ今世で覚えがなくても、あなたに不都合があれば、あなたは掟破りを犯している。自らが体験している苦(不都合)のある現実が、違反の事実があった証明である。そのことを素直に認めて、真釣り戻さない限り、あなたの命は間もなく終焉の時を迎える。身魂の掃除が進めば形の掃除も進む。形を綺麗にしようとすれば心が乱れ、いずれ、綺麗にした形は崩壊する。綺麗にする前よりもっと散らかる。部屋というのは、心の表れであり、見た目の部屋を片付けさせようとすれば、心が乱れ、もっと散らかる。人生そのものの乱れも心の表れであり、姿形を取り繕っても、全くアベコベの現実を自ら呼び込んでいるだけである。あなたが一つでも責任転嫁をすれば、それは、自らの首を締めていることになる。形の闇はすべてがあなた自身の魔釣りの響きが原因なのである。あなたが、逆さまの生き様をしていることを心底から認めないならば、あなたは永遠に滅ぶ。

あなたがこの本に書いてある事実を否定すれば=この本を通して提示した結論を認めなければ、あなたは「すべて」を見ることはできない。著者に反抗しても、それは自分が自分に反抗しているだけの、あなたの中の単なる一人芝居であって、著者にとっては、何の意味もない。魔釣りの世に初めて現れた真コトの道、「天国の方法」を書いたこの本があなたに何をもたらすか。その鍵は、あなた自身が握っているということを知っておいて欲しい。

今の「日本国」に、本当の神の真コトの道に戻る身魂が増えれば、真コトの響きに共鳴する力が増幅されて、大神の力を顕現しやすくなる。従って、それだけ、本当の世界平和、本当の天国が近づく。これから始まる、ヒノモト(世界)に本当の天国=真釣りのミロクを顕現する草薙の剣(真コト)渡す大神のプロジェクトのお手伝いを、一人でも多くの志ある方にお願いしたい。著者の上げた指に止まるかどうかは、各自が決めることであるが、最後の仕上げの大掃除を前にして、できるだけ多くの方々に真コトがあることをお伝えすることがこのプロジェクトの目的である。真釣り戻しをするしないは別にして、すべてが逆さまだったこと(真釣りの真コト)を知って大掃除に突入すれば、最後の最後のギリギリのところで、ミロクに戻る機会を得ることができるのである。最後の命綱があることを知っていれば、身魂相応の艱難辛苦はあるにせよ、滑り込みでミロクに生き戻ることもできるのである。三千世界が真釣り戻った時、果たして、あなたは残っているだろうか。
P270
あなたにとっては、この本が、著者にとっての自動書記のメッセージにあたるものであるといえるかもしれない。この本に書かれた事実をどう受け取ればよいのか、この本を読んだ後に自分が何をすべきなのかは、この本に書かれている事実から自分自身で見つけて欲しい。あなたは、この本を基にした実践の過程で、(本を書くかどうか、講演会をするかどうかは別にして)著者が歩んできたのと同じ茨の道を辿っていくことになるだろう。それは困難な道のりではあるが、あなたが本当の天国に戻るためには、絶対に避けては通れない道なのである。あなたが道に迷った時、恐ろしくなって立ち止まった時、この本(著者)をガイドにして、その先の道の奥に進めばよい。その道がどんなに険しく見えても、通行不能に見えても、必ず道はある。あなたの心の曇りがその道を閉ざす唯一の検問、通行止の標識である。その標識を外し、検問を通過することを許可できるのは、あなた自身だけである。あなたが封鎖した神の道は、あなたが封鎖を解除すれば、自由に通行できる。あなたが、本当に、心底から天国に戻ることを望むなら、必ずそこへ戻ることができる。そこはあなたが元いた故郷である。あなたが本当に故郷に帰る気があるなら、止める者は誰もいない。この本は、あなたの本当の天国へ戻る道、本当の故郷へ帰る道にあるすべての検問を通過する方法を書いたマニュアルである。今風に言い換えるなら、あなたの天国を闇に葬った偽物のドラゴンを倒す真竜の草薙の剣をゲットする冒険ゲームの攻略本である。

日本をどうやって再生するか。それにはまず、あなたの中の日本を再生することである。あなたが「日本」について語る時、それは、あなたの中にあるイメージの日本である。実際には、あなたの現実には、日本という国はない。その実体は、『こういう国を創りたい』『こういう世界で暮らしたい』という理想を、現代社会で言う日本の風景に投影して、あなたが想像している幻想である。現代社会で言う今の日本(「日本国」)は、本当の日本の姿とは全くアベコベの姿になっている。従って、日本を再生するためには、あなたの内にある「形の日本を作る基になる、見えない日本の姿」をすべて作り直すことが必要である。

日本の再生を語る者は多いが、その殆どは、文明社会の中での先進的な外国のシステムの輸入、又は、そのシステムの改良という視点である。日本文化を尊重すると言ったところで、その日本文化は、突き詰めれば外国の輸入文化の変換であり、形を日本風にしただけに過ぎない。輸入文化を取り入れるほど、新たな問題を作り出す。その方法では本当の日本の再生には貢献できない。それがどんなに新しく革新的、先進的に見えようとも、奇抜に見えようとも、たとえ『これこそ日本を復活する究極の方策である』と言おうとも、その実体はと言えば、今までのシステムの延長線上の考えでしかない。姿や形は違えども、それが現在のシステムの根本理念を踏襲するものである限り、日本が再び蘇ることはない。

本当の意味での再生とは、「本当の日本」が蘇えることである。未来の新しい日本とは、実は、過去の古い日本のことであり、正確に言えば、日本の再生とは、日本という国の本当の姿を復活することを意味する。本当の日本(ヒノモト)を顕現することである。今の社会システムやアベコベの思想をどうこねくり回しても、『偽の天国を創るために形を治す』という根本のところは何も変わらない。立立体的コロンブスの卵の発想をしない限り、姿形だけの新しさを求めても、本当の日本の再生は叶わない。本当の意味での新しい日本は、現代社会の中にあるどんな理念でも再生することはできない。再生とは、「再び生まれる」ことであり、一度死んだものが生き返ることである。本当の新しい日本とは、元の始めの親神の天国のことである。そこにあなたが戻れば、生き返れば、あなたから見れば、新しい日本を作ったことになる。あなたが元の響きに戻れば、本当の日本に生き返る。
P271
現在の日本国を作り上げた根底にある理念、今あなたの持っている外界を作り出す基である世界観、価値観を奇麗サッパリと塵一つ残さずに捨て去らない限り、アベコベのままである。半導体製造工場ではないが、響きのクリーンルームを作らない限り、真コトの国を創る神界コンピュータの半導体は製造できない。たった一つの響きの塵があるだけで、その工場は、製造を開始できない。完全な半導体でなければ、神界コンピューターは作動せず、ミロク世のCGは表現できない。真釣りのエンジニアが作った完全なプログラムは、100%純粋な半導体で作った無限CPUでしか処理できない。魔釣りの世界を完全に解体しなければ、本当の真コトの日本国の建設には着手できない。魔釣りの目隠しを100%外さなければ、真釣り100%の世界の立体パズルの全貌は見えない。真釣りの世では、真釣りの体でなければ、息一つできず、何一つ動かせない。三千世界が真釣りの世に戻った瞬間、真釣りの真コト以外のものは、自動的にすべて消滅する。真の日本を建設する材料は真釣りの響きであり、それを扱えるのは、真コトの響きを持った体だけである。建設作業員は全員真コトでなければならない。魔コトと真コトは裏表の踏絵であり、真コトの世に魔コトが潜り込むことは不可能である。自らの真コトの復活が国家建設の条件である。

ミロク世は、万象万物が真釣りの響きのみで作られた世界である。神も人も、真コトでなければ生きられない、魔釣りの響きが入る隙間はどこにもない世界である。魔釣りの響きの者は、呼吸も、代謝も、心臓の鼓動も、細胞分裂も、生の営みのすべてが停止する。それは、即ち、ミロク世の復活は、魔釣りの世の永遠の滅びであり、魔釣りの響きを僅かでも残している者にとって、それは、永遠の死(消滅)を意味する。魔釣りの世にある対極の言葉は一つの響きに戻り、論争は消える。魔釣りの響きを完全に消滅させなければ、あなたが真釣りの世の体に入ることは出来ない。真釣りに戻れば、ミロクが実現する。ミロクを実眼するためには、真釣りに戻らなければならない。それが天国への唯一の道である。

今日の「日本国」は、現代社会でいう、西洋文明の理念が根本にある世界に属している。金と科学が支配する戦いの略奪世界では、世界の平和、本当の天国を実現することは不可能である。形だけで再生を図っても、それは、形が変わるだけで、本当の再生ではない。従って、今あなたが見ている国の風景は、本当の姿ではない。本当の日本再生のためには、あなたの持っている日本という概念、現代社会の日本国を作り上げた根本にある思想(響き)を完全に引っ繰り返さなければならない。すべてのすべてがアベコベ、上下左右前後表裏火水霊体善悪美醜清濁内外天地すべてがひっくり返るのが、真コトのミロク世である。すべての境がなくなった一つの中心が世界を統べる世界、すべてを産み出す真中が綺麗サッパリ塵を祓って澄み切った世界、神が神のものをつかって神の世界を形にできる自由自在な世界、壊れることも失うものもない永遠に続く世界である。本当の日本は、真コトの響きの国である。魔釣りのアヤマ知で天国を作ろうとしても、それは、地獄の中の天国である。本当の天国は天国のみであり、天国という言葉もない。そこに、苦、闇、死の響きはない。今のあなたには、「真日本再生」のために貢献する準備はできていない。
P272
略奪の知恵で何を考えようと、本当の天国はできない。それは滅びを意味する。日本は雛型である。あなたがすべての雛型である。日本が再生すれば、世界も、宇宙も、霊界も再生する。日本経済をどう再生するか、という議論がある。経済は、略奪の世界を基にしたお金の世界の話であるから、日本経済をどう再生するか、の議論は全く意味がない戯言である。日本の再生が完了すれば、万象万物が再生する。再生できるものは、元にあったものである。復活とは、死んだものが復することをいう。元々あったものが現われることである。あなたはそれを殺した世界の価値観で世界を創っていたのである。あなたはそれに基づいてすべてをしていたのである。『すべてを壊すか、すべてを壊さないか』である。壊れていれば、それは違反の証しである。今のそのままの知恵で、何を画策しようとも、それは、あなた自身の滅びを意味する。あなたがいる空間の壁を壊せば、外の世界が出現する。本当の天国はすでにある。ずっとあった。あなたが隠しただけである。自分で隠したことを忘れて、他人や神に『作れ!』と命令する。それがあなたのパターンである。アベコベである。自分の内界を直せばよい。それが、本当の再生の始めである。そう言われて、あなたの心の中が真っ暗になるなら、それはあなたの生き様の結果である。嘘が真っ暗になれば真実が見える。真っ暗になることを避ければ、嘘の光を追いかけて滅ぶだけである。

人類の歴史は、本当の天国に戻すための執行猶予期間である。間違った掟を使って社会を進めてきても、それは取り違いである。ここは天国を作る場所ではない。天国に戻るための清算をする場所だったのである。早く戻れ、と大神が何千年もかけて知らせ続けたのに、まだ気づかない。気づかないどころか、『そんなものは空想だ』と言って、真実を見ようとしない。今のあなたが作るものは、すべて壊れるものである。そのままなら天国はできない。すべて壊れる。滅ぶ。本当の天国には分裂はない。ないものは存在できない。消える。壊れるものを作る思想、その思想がつくる想像、想像が作る形を壊せば、あるものが再生する。現われる。壊すべきものは、あなたの分裂思考である。分裂思考そのものが間違いの始まり、破壊の始まり、死の始まり、人類滅亡の、戦いの、悲しみの始まりである。あなたが外界を天国にするのではない。あなたの内界を天国にするのである。あなたが本当の天国に帰るのである。あなたがその世界に生まれ変れば、あなたは天国の自由民となる。
P273
生まれ変わりはあなたにはできない。あなたが響きを作ればそこに行ける。あなたの響き相応である。人事を尽くして天命を待て。天命を期待して人事を尽くすならば、それは取引、責任転嫁である。『してくれるならやる』である。『手を離せば助ける』『助けてくれたら手を離す』では平行線である。この道は完全保証されているが、受け取らない自由もある。壊れるか壊れないか、あなたの世界はどっちか。一つでも壊れるものがあれば、あなたは間違っている。そのままつかんでいても綱は切れている。両手を離して本当の綱をつかみ直すしかない。あなたには、手を離さない理由はどこにもないはずである。本当の天国に戻れば、あなたがそこでどんな国を創ろうと自由である。何を実行しようとも、すべてが思い通りになる。本当の天国は、天国しか作らない者だけの世だからである。始めから平和しかない社会だからである。姿形の違いは問題にはならない。『何をしているか』という中身の違いである。争いの世界では天国はできない。私有している世界には、天国はない。限られた資源だとしたら、取り合いは止まらない。お金を間に入れてそれを更に限られたものにしている。金がなければ何もできない世界を誰が作ったのか。あなたがその世界に同意しているならば、その世界に飲み込まれるだけである。最後は餓死するだけである。今の世界の形のままでも、中身が真コトの者だけならば、何も問題はない。争いをせずにどうにでも作り直すことができる。飛行機で飛んでも、テレポートしても、好きにすればよい。飛行機がなければ困るのはおかしい。お金は、使っても使わなくてもよい。子供銀行を使ったただの遊びとなる。色々な文化があって、楽しめる。それが本当の天国である。

あなたが本当の意味で助かる方法はただの一つである。それは、この本に書かれている。あなたがすべてを捨てて、闇に飛び込み、地獄を厭わない覚悟があれば、それがわかる。ほんの一瞬でもそれを避けようとすれば、それは全く見えない。あなたのすべてを、あなたという存在の生き残りすらをも捨ててこの本を読めば、それが見える。見えたものを消さなければ、闇になっても光が見える。すべてはあなた次第である。すべてを捨てる。「すべて」である。あなたがすべての思い込みを捨てれば、すべてが見える。見えたらそれだけを追いかければよい。本当に改心するということは、厳しいことである。現世の修行ごときでは、真コトは取れない。滝に打たれようと、山を駆け回ろうと、座禅をしようと、お経を読もうと、苦行をしようと何の意味もない。それどころか、ますます本当の天国から離れるだけである。地獄を増やすだけである。占いも、神頼みも、何の役にも立たない。

この本に書いてあるように実行しなければ、この本は書けない。ここに書かれた事実は、単なる知識として書くことはできない。自らの体験を通して検証しなければ、文章で著すことができない性質のものである。この本は、全体で一つの響きを持っている。一つがすべてであり、すべては一つである。すべてがすべてであり、一部をバラすことはできない。あなたが分裂の響きでいるならば、この本の一部をバラすことができる。しかし、それが平然とできるならば、あなたは、すべてに同調していないことになる。この本の一つ一つの言葉や事実をバラバラに取り出して否定するならば、その瞬間にすべてが見えなくなる。あなたがこの本にある事実を一つでも裁いていれば、この本は書けない。あなたがこの本のどこかにこだわるならば、すべてを検証していない証である。あなたがこの本のすべてを検証済みならばこの本は読んではいない。この本そのものの響きならば、外の鏡は必要ないからである。あなたがこの本と戦ったり、この本に賛同しているならば、あなたはこの本の奴隷である。あなたが本当の神の響きになったならば、あなたの中から神が消える。あなたがこの本の響きと完全に同調したならば、この本はあなたと完全に重なる。この本とあなたが完全に一体化したならば、あなたの世界からすべての本が消滅する。あなたは知の奴隷から解放される。あなたは、自分という王の言う通りに行動する奴隷となる。自由の奴隷となる。この本の語る真意が本当にわかった瞬間、この本はあなた自身となる。
P274
現代社会は、分裂の響きで創ったバラバラの継ぎはぎのパッチワークの世界である。あなたが今の見方で見ている限り、本当の世界の全体像は見えない。すべてが見通せなければ何も知らないのと同じことである。あなたに一つでも分離があれば、すべてが一つの響きである本当の天国は絶対にできない。あなたが何か一つでも裁いていれば、それは、元つ大神の響きを殺していることになる。あなたが何か一つでも否定しているならば、それは、すべてを否定していることになる。しかし、「すべて」を否定できるならば、あなたも否定されて、否定するあなたは消えるから、実際には、あなたがすべてを否定することはできない。否定するあなたがいるならば、それは、矛盾であり、その真相は、あなた以外のすべてを否定しただけに過ぎないが、そのことは、同時に、あなたが分裂の響きを持っているという動かぬ証拠となる。逆に、あなたがあなたも含めたすべてを認めた時、「すべて」も消えて、あなたの世界にすべてを産み出し続ける一つの音色が響き渡る。それが、今の世でいう「空」の境地である。あなたが今まで体験したことのない無の安らぎの感覚である。それが本当の天国の響きであり、そのままでいれば、ミロク世なった瞬間、天国が現れる。

現代社会にある宗教の修行や瞑想では、無の境地、悟りの境地は得られない。もし、その境地に到達したならば、あなたは、すべての宗教と決別することになる。悟りとは、すべての分裂を統合して一つの響きに戻すことであり、聖俗の分離を統合することである。すべてを無にするということは、自分自身の内の論争、価値判断をすべて止めることであり、善悪を消した境地のことである。善悪がなければ、感情も消えて、ただの映像が流れるだけとなる。無とは何もないことではなく、論争のない安らぎの境地のことである。悟りの境地がわかっているなら悟りを得る必要はなく、悟りがわからないなら、修行の到達点もわからず、瞑想をすればするほど悟りから離れていく。煩悩を捨てようとするほど煩悩は強くなる。神や仏を信仰している限り、聖俗に分離して見ていることになる。自らと自らの対話が空の境地へ到達する方法であるならば、自らの日常でもそれはできる。日常の雑事に煩わされたくないならば、お寺で瞑想をすることになる。しかし、宗教は日常の一側面であり、悟りの境地に至ったならば、すべてがわかった一般人に戻る。善悪、聖俗が消えたら、「宗教家」にはならない。宗教施設とは、自らを世俗から切り離した場所で神仏と繋がるための道具であり、悟りの境地に達していない高僧や教祖に仕えても、あなたが無になって消える世界に到達するだけである。生徒と一緒に学ぶ教師や子から学んでいる親では、本当の自立に教え導くことはできない。どんなに神や仏を信仰しようとも、それが魔釣りの神仏であるならば、神や仏と共に元つ真釣りの世から大掃除されてしまう。結局は、自ら求めるものは自らの内にあり、それがわかることを悟りと言うのである。悟った瞬間に聖俗、善悪は消え、宗教は役目を終える。日常すべてが、宗教そのものなのである。自らが自らの神であることを思い出した者は、自らの内の神が消え、宗教もいらなくなる。
P275
この本の事実は実践確認済みである。証拠はこの本が目の前にあることである。現代社会の中で文章で表現するのは難儀なことであるが、あなたには、それはわからなくてもよい。あなたは、この本から何を受け取るか、そして、その結果をどうするか、を決めればよいだけである。大切なのは、あなたが決めたことを一言違わず実行することであり、それが、あなたが本当の天国へ帰るための唯一の道である。あなたへの証拠は、あなた自身の体験を通して現われる。あなたがこの本をすべて受け入れた時が、自分への証明の始まりである。あなたがすべてを受け入れないなら、本当の天国への道の門の前にもたどり着いていない。門の前であれこれ考えず、何も心配せずに、ただ門を入ればよい。今いる道は滅びの道であり、あなたが本当の天国に行き着くことは絶対にありえない。本当の天国への道の門は、善人にも悪人にも、神にも悪魔にも、すべてのすべての存在に開かれている門である。入るかどうかは、あなたの自由である。誰も止めない。あなたの意志がすべてである。入らないなら、それはあなたの意志である。あなたは今、天国を閉ざした箱の中にいる。本当の天国への入口は、滅びの世界の出口である。「出口」=「入口」である。箱から出るか箱の中にとどまるか、地獄を進めて滅ぶか本当の天国に出るか、である。アヤマ知に囚われた今のあなたには、出口の外の世界の方が地獄に見えるかもしれない。しかし、それはアヤマ知が作り出す幻であり、それを怖がらなければ、必ず本当の天国へ帰れる。

スタートがゴールである。逆走していたあなたが今見ているゴールは崖である。前進を続ければ転落死。篭目篭目、籠の中の盗理は、いついつ(五一、合一)出やる(TRY、実行)夜明け(闇開け、世開け、岩戸開き)の晩に、鶴(|、火、支え、十理)と亀(―、水、現われ、顕現)が統べった、後の正面だあれ。天神様の細道は、行きはよいよい(快欲、便利、至福)帰りは怖い(真釣り戻し、元つ大祓い)、怖いながらも通りやんせ。帰りを怖くしたのは、真釣りを外したあなたである。あなたが元の親の天国に戻るためには、まず、この本に書かれていることをすべて素直に受け入れることである。受け入れ難い、をやめることである。受け入れ難いものがあるなら、あなたはそれを裁いているのである。受け入れ難くても受け入れることである。非常に厳しいが、それが、あなたが真コトに戻るための最低条件である。勿論、どうするかはあなたの自由であるが、この事実は動かない。
P276
あなたが次元転換すれば、次元転換した世界があなたの現実世界となる。簡単に言えば、あなたがあの世に行けば、あの世があなたにとってのこの世になる。死者の復活というが、それは、死者が今のこの世に復活するのではなく、あなたが死者のいる世界に行くから、死者、言い換えれば、その世界の民が見えるのである。あなたを中心に思考すれば、死者がこの世に復活したことになる。相手が変わった、動いた、というのは天動説であり、自分が動いた、と言うのは地動説である。あなたは、今まで天動説で生きてきたのである。すべてのものごとを解釈してきたのである。自分が内を変えたら自分の現実が変わる。自分が動いたら世界が変わる。つまり、地動説と天動説は元々一体のものである。すべては自分自身の目から見た、自分にとっての世界である。自分本位の思想である。すべては、あなたの思い込みの世界、あなた自身の投影である。あなたが自分を変えなければ、あなたの見ている世界は一切変化しない。あなたが他人に働きかけて変えさせるのではない。あなたが変わると他人が変わるのである。他人を変えさせるために変わるのならば、それは、他人を変えようとしているのと同じことになる。映るものを変えるには、その源である自分自身を変えなければならない。あなたが天国になれば、あなたの世界も天国になる。

国家を構成するのは個人である。国家を変えるというのは、国家を構成する個人の思想を変えさせるということである。国家の意思を変えるには、構成員の思想を操ればよいのである。すべては、一人一人の同意が作り出す結果である。現代社会は、相互依存の世界であり、自らの責任を放棄した者たちが作り出す裁き合いの響きを根底に持っている社会である。誰かが誰かの責任を取り、誰かが誰かに責任を転嫁する。本当の天国とは正反対の世界の顕現であり、その世界で何をしようとも、その結末は永遠の滅びとなる。今あなたがいる世界にある思想、あなたの外にあるシステムは、誰かが考え出した思想が基になっている。それを正しいと思い込めば、それを代々伝えていくことになり、歴史が進むほどどんどん奴隷化が進行していく。永遠に支配のピラミッドから抜けることはできず、求めている自由や平和は永遠にやって来ない。何かを強制しなければ成り立たない社会は、誰かの思惑によって動かされている世界である。自然の法則には強制はなく、自然のままに営まれる。生かされているとは、生きる者はどうあっても生かし、引き上げる者はどうあっても引き上げるということである。死を避けたり、生にしがみ付いたりして争うならば、それは生かされていることにはならない。自らの力で生きているならば、自由な世界のはずである。生き死にが自由にできないならば、それは、生かされている証であり、自らの生き残りをかけて殺し合いをしているのは、矛盾している。生きようとするなら、それは神への抵抗である。「自由」は自己責任の世界であり、どんな現実も自ら以外に責任はない。
P277
法律という道具を使って強制することで作り出された世界は、自由な世界ではない。二極分裂、需要と供給のバランスを語る有限の世界では、全員が天国になることは絶対にありえない。現代社会に生きる人類は、実現不可能な世界を夢見て、上から下まで全員が騙されているのである。誰かが誰かを操作する世界では、その世界の本当の黒幕の思いのままの世界となる。支配者にとっての人民は、自分の天国を実現するためのコマでしかない。家畜にしなければ支配はできない。家畜が生きる権利を主張しても意味がない。その世界では、人権など存在しない。自分が食べるために飼育している豚が豚権を主張して反乱したらどうするのか。「人」の世では平等も公平も主張しない。当たり前であり、満たされているからである。「獣」の世は戦いである。それぞれが自分の天国を作ろうとして殺し合いをすることになる。奴隷、家畜、ロボット、みな同じ状態を指す。誰が誰を所有物にするか、誰が誰を奴隷にするか、という王の座の争いを世界から個人までやっているのである。

自分と自分がしている支配合戦、それを直さない限り、平和は実現しない。自分の思いの通りの世界である。思いを変えなければ変わらない。得たものを捨てなければ直らない。既得権益という言葉は、所有の世界、支配の世界、略奪の世界だけで通用する安全弁であり、利権の奪い合いでは、平和な世などできない。略奪の世界では、他人のためというのは、自分のためである。自分の天国を作るために他人の要求を聞くのである。自分が死なない範囲、優位を保てる範囲で、である。略奪の世界では、最後まで他人を保護できる者は誰も居ない。誰かに依存すれば、結局は、その者への恨みを産み、最後は、自分が滅ぶ。

あなたがこの世からあの世に移れば、この世で何が起きようが、人類がどうなろうが、この世の常識がどうだろうが、あなたにとっては意味がない。あなたが本当の天国に行けば、この世の出来事は全く関係がない。あなたが夢を見ている時は、夢の世界が現実の世界である。あなたがその時にいる世界で、自分が何をするか、である。完全に天国になっていないならば、この世があの世に、あの世がこの世に影響を及ぼす。起きているときの現実が、寝ている時の現実に影響する。あなたがウソのまま死んだならば、その世界はこの世と変わらない。あなたが完全にウソを捨てなければ、ハルマゲドンを体験することになる。

あなたがウソを完全に捨てれば、獣の世に戻ることはない。あなたは本当の天国の体を得て、その世界に生きっぱなしとなる。この世で何が起きようとも、あなたには関係はない。あなたは地獄を体験しなくともよくなる。地獄を体験したくないなら、地獄を捨てることである。あなたが本当の天国にテレポートすれば、この世は消える。この世ではあなたは居なくなる。あなたがウソを持っている限り、あなたはウソの世で情けの輪廻を繰り返す。幽界の響きのケモノの世でこの世とあの世の往来を繰り返している限りは、天国はない。
P278
あなたは一回も死んではいない。あなたは、永遠の時の流れの中で、この世から見たら生まれ変り死に変わりしているだけである。ウソを捨てては拾うことを繰り返し、ついに、ウソを真実と思い込むようになったのである。あなたが天国に行くのであって、この世が次元転換したら天国に行けるのではない。最後の次元転換は本当の天国への転換であり、あなたが本当の天国に転換していなければ、その響きと同調していなければ、あなたは消滅し、本当の天国の住人の中にあなたは存在しない。あなた自身が自分の次元転換を進めながら、世の次元転換の時を待つのである。あなたが自ら天国の響きになって、神が天国に戻す時を待つのである。あなたが世を変えるのでも、世が変わるのを待つのでもない。あなたが来たるべき世の生き方をしていればよいだけである。神が天国にするかしないか、いつ天国になるかを考える必要は全くない。神が天国にすれば、世の中は天国になる。逆さまのやり方で世の中を変えようとしても意味がない。無駄なことに自らのエネルギーを使った分、あなたの天国が遠くなる。あなたが天国の響きでなければ、神が何をしようとも、あなたは天国は体験できない。あなたがあなたの世界の神であり、あなたの現実を作り出す創造者である。あなたがあなたの世界の悪魔を産み出す神であり、あなたの地獄を進める創造者である。あなたが何をしているかであなたの体験する世界が決まる。あなたは、神のことも、他人のことも、世間のことも、死後のことも、すべてを捨てて、自らの天国の響きを取り戻すことだけに心血を注げばよいのである。今の世の思想で何をどう治そうとも、この世にある問題は絶対に解決しない。天国もできない。全くアベコベであるから、その大元自体を引っ繰り返さなければ、何も解決はしない。今世の土台自体が闇であるから、今のあなたから見て、孤独、死、喪失を怖がれば、あなたは転換できない。元に戻せば、すべて闇となる。真釣り戻ると闇になるように思えるのは当然である。逆さまの逆は正立である。逆立ちをやめるだけでよい。虚像を逆さまにしたものが実像である。

悪は自ら消える。『悪を消さなければ天国ができない、だから悪と戦わなければならない』と言うのは九分九厘正しく聞こえる。しかし、最後の一厘の違いで、それは間違いとなる。それはウソの世界で成り立つことであって、マコトの世界には、そんな理屈は存在しない。悪がない世界でどうやって悪を裁くのか。何を裁くのか。何を消すのか。真コトの創る世界に魔コトは存在することはできない。悪を持ったまま天国の形はできない。響きが思いになり、言葉になり、文字になり、形になる。天国の響きになったら、天国の現実を体験する(体で験す)ことができる。本当の天国であるミロクは響きと形は一体であり、体験できるのは、響き相応の現実のみである。嘘の仮面をかぶって身欲と保身で立場を守るために本心を誤魔化すことはできず、逆に、天国の響きを持っているものが天国を体験しないこともできない。実際は、ミロクは天国の響きのみであるから、嘘の仮面は存在しない。
P279
ミロクの響きで創られた世界を体験するためには、ミロクの響きで創られた体を持つ必要がある。ミロクの響きの体はミロクの響きに同調する霊魂しか持つことはできない。魔コトの分裂した響きで真コトの一如の響きの体に入ることはできない。入った瞬間に消滅してしまう。裏表の世界を同時に体験することは仕組み上、不可能である。今の世の戦界の分裂の物理次元の響きの肉体のままでは、俗に言う「あの世」すらも体験できない。肉体を持ったまま死ぬことはできない。臨死体験や幽体離脱はできるが、死ぬことはできない。臨死体験や幽体離脱の足場は肉体にあり、見て来た世界は幽界である。今のあなたは、ミロクの体に入ることは九分九厘ありえない。真釣り戻せばそれが可能になるが、今のあなたが真釣りのミロクの響きを鳴らすには、慙愧慟哭、艱難辛苦の地獄の苦労が必要となる。それを逃げるなら、あなたがミロクの体に入ることはできず、ミロクの世にあなたはいない。それを逃げないなら、あなたは必ずミロク世に戻れる。火の響きは、一度立ち上がれば、目的が成就するまで消えることはない。真コトの火の響きが立てば、必ずミロクが成就する。しかし、それは、蛇の火の響きが立てば、滅ぶまで消えない、ということでもある。万古末代、一度こっきりの時空を超えた大掃除を通過しなければ、本当の天国はない。今のあなたが、冗談抜きで本当の天国の現実を体験したいなら、相応の覚悟が必要である。

あなたは、本当の天国を知らない。今あなたが目指している天国は嘘の天国である。守ろうとしている天国、失うのを恐れる天国は、天国と地獄、の天国である。その天国はミロク世になったら、消滅する幻である。今のあなたは、本当の天国を想像することやその世界を語ることはできるが、その世界を実体験する方法は知らない。正確に言えば、その方法を綺麗サッパリ忘れている。もし、あなたが本当の天国にいるならば、それを語ることはない。その世界が現実として形に成っているからである。実体験としてわかるからである。響きと形が一つならば『想像する』ということはありえない。想像=形だからである。形がすべてを現しているからである。あなたの大元はミロクの響きである。だからこそ、本当の天国が想像できるのである。そのミロクの響きがミロクの体の基である。従って、その響きのみを残すことがミロクを体験する方法である。言い換えれば、ミロクの天国を邪魔する思考と行動をすべて止めることが、心の大掃除であり、ミロクの響きを出すことである。ミロクの響きを出せば、ミロクの響きが返るのである。アヤマ知の響きからどんどん離れることができ、アヤマ知にのめり込んでいる相互依存の自分ダケ勝手戦闘集団が展開する出来事(事件、事故等)は何も影響しなくなる時がくる。自分自身以外の誰のコントロールも影響しなくなる時がやってくる。あなたは悪の連鎖から抜けることができる。

今のあなたのいる、その世界の語る快楽や快適や便利や至福や楽しみは、本当の天国の体験ではない。本当の天国、ミロクの響きが鳴れば、アタマのアヤマ知の響きが創るその現実も全く影響しなくなる。現代社会のすべてがただの映像になる。誰かが設計した『人工遊園地』はただのおもちゃになる。テーマパークは、テーマパークの中に作った『テーマパークビジネス』の道具であり、魔釣りのガス抜きのマヤカシである。真釣りのミロクに成れば、すべてが永久無料遊技場になる。あなたが、闇を恐れず、自らの真コトを磨き出す本当の神の道を歩き続ければ、恐怖も死も苦も楽も感じることはなくなる。喜怒哀楽が一つになる。そして、現代社会の作り出した快楽に何の興味もなくなる状態がやってくる。
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ミロクの響きになれば、ミヨクの響きの世界は無に感じるようになる。すべては存在するが、アヤマ知の天国は、ミロクの世の現実と比べたら全く意味のない、滅びの天国だからである。その感覚が「無」であり、悟りであり、空であり、すべてを産み出す中心の産土の神響きである。ミロクの世に天意転換すれば、本当の天国を自由自在に楽しむことができる。ミロクの響きは、あなたが今、何の罪悪感もなく、完全に闇に葬っている世界そのものである。ミロクの世には不都合は何もない。思い通りにいかないことはなくなる。なぜなら、すべてが自由に産み出せる神人の世だからである。すべてを自分のコントロール下に置けるから、奇跡や偶然と言う言葉はなくなる。ミロクの世は、この世的に言うならば、魔法を自由自在に駆使できる現実の世界なのである。ミロクの世では、失うことはないから、悲しみも憎しみもない。従って、争いはない。悪が隠れる場所はどこにもなくなる。

この世の体を持った人間から見た誰かの死というのは、その誰かが別の次元の響きになったために物理体(この世の肉体)を使えなくなっただけである。「死」は不幸でも非劇でもない。この世でその誰かに執着(期待)している者が、その誰か(自分のもの)を失ったことを悲しんでいるだけである。『○○さんが、遺体で』発見されたのか、『○○さんの、遺体が』発見されたのか。前者ならば、○○さんは遺体であり、○○さんはもうどこにもいない。後者ならば、蛇の抜け殻と同じことで、○○さんは、遺体ではないから、○○さんはどこかにいる。「遺体」というのは、遺した体であり、某霊魂が、今回の生で○○さんと呼ばれていた今生の体を使えなくなった状態を表現した言葉である。この世の人間から見えないだけで、残した本人はどこかにいる。実際は、「○○さん」は始めからどこにもいない。いや、すべての世界に存在する。今生の○○さんの体と付き合った各自が、それぞれの○○さん像を描き、その○○さんについて語ることができるに過ぎない。その霊魂そのものの実体は誰も見ていない。今生の体に戻れる場合を「睡眠」と言い、戻れない場合を「死」と言っている。「睡眠」と「死」の中間が「臨死」であり、一番大きな世界(真釣りの世界)から見たら、「死」もただの出来事である。それぞれが一番楽に身魂磨きができるように、死んだり生きたりしているのであるから、今生の別体の霊魂(他人、家族等)の『生きていて欲しい』という希望で、勝手に生き死にさせことはできない。『生かされている』とは、生かしているのは大神であり、生かす者はどうあっても生かし、引き上げる者はどうあっても引き上げるのが、大神の掟である。ここに魔釣りの身欲や人知を持ちこんで、情けの仕組みに仇為すならば、それをしている霊魂の真釣り外しが益々進むだけである。
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あなたには、あなたも含めて、誰かを生かしたり殺したりすることはできない。それができるなら、自分を自由に創ったり壊したりできるはずである。悲しむこともなく、期待が裏切られることもない。それができるのが、真釣りの響きを持った「神」であり、魔釣りに囚われて真釣りの響きを消した、それができなくなったあなたは、元つ天地の神の掟を破っていることになる。つまり、思い通りにいかないのは、自分の真釣り外しのせいであり、悲しみも裏切りも自分が創った現実である。口心行、つまり、すべてを一つにして行動することが、分裂の響きを止め、真釣り戻しを進めるための唯一の術である。思想や立場や評価も含めて、その過程で失うもの、壊れるものは、魔釣りで創ったものである。口心行をして残ったものだけが、真釣りの真コトの響きを持つものである。真コトの形も、真コトの者も、最後には一旦お召し上げ(引き上げ、仮死状態)になって、改めて、ミロクの体に入るのである。結局は、全員が、この世の肉体を離れて、すべてのものがこの世を離れて、つまり、この世は一旦消えて、真コトがあるものだけがミロクの体を持てるのである。ミロクの響きにならない限り、あなたはミロクを体験できず、この世に執着していれば、執着するこの世は消えるから、あなたは、ミロクは永遠に体験できない。それが、時空を超えた本当の死である。真釣りを外した者を真釣りに戻す世界(今の世)は、世の真釣り戻しが完了すれば、なくなる世界なのである。あなたがすべきことは口心行である。

本当は、真釣りの世しかないのである。本当は「神」しかいないのである。幽界(戦いの世、生死ある世、この世)は幻であり、死後の世界も幽界である。生きても死んでも幽界の中である限り、時が至れば、幻として消滅することになる。あなたが元つ真釣りの大神を殺せないならば、あなたは最後の大祓いを逃げることはできない。現代社会のアヤマ知の知恵を使ったどんなやり方でも、それは叶わない。たとえ、神仏の魔術や呪術を使っても、幽界を進めるだけで、ミロクの世どころか、永遠の消滅へと自らを導いていくだけである。

最後の大祓いを超える方法は、真釣り戻しの行のみである。自分が存在したいと望む世界と辻褄が合わないことをやっていれば、あなたは絶対にその世界に存在することはできない。現代社会にあるすべての思想(常識、道徳、思い、宗教)は、すべて真釣り外し(魔釣りの魔コト)の型示しであり、それに固執したり、それを価値判断の基準に使ったりすれば、現代社会が属する幽界という霊界もろとも、あなたは、永遠の滅びを迎える。著者が、何万語、何億語を費やしてこのことを語っても、あなたが本当にすべてを捨てる気がなければ、著者の語る世界(現代社会のカラクリ、言い換えれば、今世の仕組み、天国の創り方、ミロク世への戻り方)をあなたの現実にすることはできない。いつまで疑っても、批判しても、信じなくても、認めなくても著者は一向に構わないが、あなたが本当にミロクに戻りたいならば、天地の理法の違反の清算をするかしか道はない。すべての嘘、幻、マヤカシ、思い込みを捨て去って、現代社会の「見えない網の目」から足を洗うことである。
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あなたが常識や道徳や思いやり云々を捨てても、あなたは現代社会の中に住むことはできる。すべてがなくなるのではない。真釣りの響きで今あるものを使えば、今の世でミロクを疑似体験することができるのである。現代社会の道具を真釣りで使うことはできる。そのことは、万象万物に真釣りの響きを戻す手伝いにもなる。お金が悪なのでも穢れているのでもなく、魔釣りに囚われたあなたが悪であり穢れているのである。医者が魔釣りの手下なのではなく、あなたの身欲が魔釣りなのである。外の形を責めたり、嫌ったり、裁いたりすれば、あなたは自らが嵌めた罠に落ちることになる。あなたの身欲が魔釣りであり、実は、それをそのまま水の現すハタラキで形にした現代社会そのものは真釣りなのである。水の現すハタラキは、どんなものであろうとも、火の位にある響きを忠実に顕現する。つまり、水の現れ、言い換えれば、この世の姿を見れば、自らの生き様が分かるのである。それが、天国と相違しているならば、あなたの真中にある響きを変えなければ、あなたの現実を変えることはできず、その響きが魔釣りならば、あなたは必ず永遠の滅びを迎える。

あなたは、自らの鳴らす響き相応の体験をする。今の世のすべてのものは、万象万物の化けた形である。万象万物はすべて真釣りであり、真釣りは神であるから、あなたの世界はすべて大神の顕現である。つまりは、大神の真釣りで産み出したものを魔釣りで使うとどうなるか、どんな世界ができるかを見せたもの、が「この世の姿」なのである。現代社会が悪ではない。あなたの魔釣りが悪なのである。あなたが真釣りに戻れば、今の社会でも何の問題もなくなり、ミロクという、響きが上がった世界になってもそのまま暮らせる。大神の最初で最後の大祓いが終われば、文字通り、自由自在の天国を体験できるのである。

お金という形の借りを返すことが生き戻る条件ならば、借金を残して死ぬことはできないことになる。生命保険で返そうと考えても、それは相互扶助の思想で作られた、被害者、弱者勝ちの悪平等の分配システムであるから、返したことにはならない。そのお金は、誰かから奪ったものである。家族が引き継いだとしても、それを全部清算するまで天国はないことになる。家族が代々、魔釣りを継承しているならば、誰も借りを返すことはしないから、この世が略奪の世であるならば、永遠に借りを返すことはできない。借金も所得も結局は借りだからである。自殺は借りを逃げる事である。自己破産、夜逃げ、踏み倒し、文字通りの自殺。自らした結果を他人に転嫁すれば、その分、自らが苦しくなるだけのことであり、時空生死を超えた清算であるならば、あなたが背負う苦は修羅の地獄となる。

本来は、この世の血統と本当のあなたは何の関係もない。今生の家族や親類縁者の上下血縁関係を使って支配することは一種の操作であり、本当は、誰も縛ることはできないものである。形の上の親子は親子ではなく、兄弟は兄弟ではない。今世で言う親子の上下関係は、形の時間軸の上での現象であり、それを代々継承し続ければ、『親は帝王で子は奴隷』の関係が永遠に続くことになる。それは、獣同士の支配権争いである。本当の親と子ではないから、親子関係を利用した支配では、本当に楽になることはできない。親の面倒を子が見る、老後を若年層が支える、という思想を当然の如く語り、法律で強制し、義務化しているが、全くのアベコベである。人が神を支えられると言うならば、それは真実であるが、神が人を支えているのが事実であるから、親が子に面倒を見てもらうことが当たり前である社会は狂っている。金がイノチを支える年金制度が崩壊しているのは、その根本が間違っている証である。間違った思想を強制し、義務化することこそが悪である。真釣りは万古末代弥栄であり、壊れることはない。真釣り戻して壊れるもの、破綻するものは嘘で作られたものである。真釣り戻して残るのは、真コトの一厘だけである。その一厘で生きれば、今の世にあるものを天国の響きで使うことができる。幸せは握り持つものではない。すべては大神のものであるから、一旦、すべてのものを大神に返して、すべてを捨てて、大神の言う通りに素直に歩いていけばよい。立場や生死は大神に任せて、自らの生き様を正すことである。生かされある者に、保身の必要は皆無である。保身で物事を処理するなら、あなたは永遠の死である。今生の先祖は、今生のあなたには何の強制力もない。この世に(人類の歴史に)ある、すべての家系の大元はただ一つであり、『先祖代々の墓』の総元締めは元つ大神である。あなたが誰かに責任を転嫁すれば、それは、その大元にすべての責任を押し付けることになる。返さなければならないのは、結局、お金ではない。
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真釣り戻しの清算ですることは、響きの借りの返済である。奪う響きで形を得たものは、たとえ、この世で所有権があるものであっても、あなたには本当の所有権はない。響きを清算すれば、借金を生み出した響きは時を追って清算される。形でも清算される。借金自体を返すために、この世の金融経済システムが用意した道具でお金を作ろうとすれば、借金が増える。奪ったものと交換しても奪った響きが増えるだけである。略奪の響きのまま借金でつないでも、結局は、返せなくなる。利子というのは、略奪の産物である。元金はお金ではなく、利子を生むための道具である。お金でお金を増やす仕組みに現代社会の正体のすべてが現われている。略奪の究極の形が金融システムなのである。その中で損得勘定の帳尻合わせをしても、結局は、有限の中の幽玄の世界の簿記という「数字合わせ」ゲームは破綻する。お金でも響きでも返せなくなれば、後は「自分を」返すしかない。誰かの借りを誰かが支払うことはできない。バラバラにした形の世界だけでできることである。

人類の歴史は、神との契約から始まっている。婚姻も神との契約である。しかし、神への誓いを破って、好き勝手な理屈をつけて離婚する。婚姻届なる宣誓書をお上(役所、お神)に提出すると、法律の権利と義務の世界に縛り付けられることになる。夫婦が別姓か同姓かの議論など意味はない。血統自体の特権化が魔釣りの蛇のアヤマ知の世界を支配する道具なのである。この世は紙の契約の世界である。あの世も契約の神の世界である。契約書や条約に調印しても、破棄することができる。神の契約すら破ることができる。元の真釣りの世界は、契約など存在しない。全員が真釣りで真釣りの道具をつかうからである。この世で例えて言えば、口約束を破っても真釣り外しとなって、破った者は消滅する。『口は災いの元』『神はすべてをお見通し』の本当の意味は、真釣り外せば自らが滅ぶ自業自得の仕組みであるということである。神に正しさを証明しようとして善行を積んでも、そのこと自体が、魔釣りのアヤマ知に騙された真釣り外しの身魂のする行為である。紙の世の契約書は、疑いと裏切りの世界での自己保存のお守りでしかない。真釣りのミロクには、契約などいらない。法律に強制力がなければ、契約書や印鑑、サインは何の強制力もない。紙の証文を楯に、略奪合戦を繰り返していると、最後は神の証問に違反してすべてを失う。
P284
現代社会のシステムの源流は、神との契約である。神の言う通りにすれば自由にさせてやる、である。九分九厘であるが、この神は、自分では産み出せないから、永遠の自由は保障しえない。逆らえば罰を与える。罰を与えるのは言うことをきかせるためである。躾、裁判の基はこの思想である。気分で、都合で、罰するのである。本当の神の言う通りにすれば本当に自由になる。本当の神は全員を養えるから奪う必要はない。監視する必要もない。自分の気分でアメとムチを使う必要性は全くない。奪っている者に、そのことを教えるだけである。奪っている者が、罰と解釈しているだけである。一厘の差で逆さまである。

すべてを今の自分中心に解釈していれば、真実を見誤り続ける。今の自分が何をしているのか、を知ることである。動物は、情報でえさのありかを知るのではない。この世界は一つであるから、自分が-になれば、どこかに+がある。その響きのズレに合わせて動くだけである。結果、餌を食べるという形になる。自然の掟通りの響きを持っていれば、その中で何の不都合もなく動ける。直感、勘、偶然、奇跡と言う言葉は、自然の中にはない。そういう見方をする自分の正体を知ることである。情報を得て、考えて、というのは、ウソである。能力を身につけた、というのもウソであり、始めから持っていたのである。自然の営みは、自然に生きれば、それぞれが様々な状況で不都合がないことを教えている。深海でも潰れない体、氷の海で泳げる体、自分の毒に冒されない体、自然界の不思議は不思議ではない。一つの世界、完全な世界から見れば当然の結果である。細かいところを見れば、不思議に思うだけで、全体には何の不思議もない。人間にできないことができるのは当然である。不自然なのは人類の方である。できなくなった人間こそ不思議である。アクアラング、飛行機、潜水艦、自動車、パワーシャベル、薬、コンピュ―ター。進化しているのではなく、できなくなったことを機械で補っているに過ぎない。知恵を使わなければ自然を征服できない、と誇っていることがおかしい。万物の霊長が自然環境を破壊する、というのはどういうことなのか。自然の脅威に為す術もないというのはいかなることか。

自然は進化などはしていない。自然のままに形を変えているだけである。唯一最大の絶滅危惧種は「ホモサピエンス」である。進化という言葉にはその基に優劣がある。一番優れていると思っている存在が、実は、自然の掟を破っている一番退化した存在なのである。本当の天国には進化も退化もない。それが完全ということである。不完全になったならば、後は退化しかない。退化し続けているのに進化していると言うのは大きな勘違いに気づいていない証しである。そのままならば、完全退化、すなわち、永遠の消滅が待っている。
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アベコベの世界が真実である。今目指している天国は鏡の天国であり、真実は後ろの正面にある。鏡に向かって突進すれば自爆である。自分が止めなければ誰も止められない。自業自得の仕組みに救世主はいない。自分が自分の救世主だからである。自分が自分を破壊する悪魔である。自業自得。自然の掟を破った者が自然に戻れるようにこの世は仕組まれている。自分が正しいと思い込めば、情けのお知らせを逆恨みする。元つ大神様は、すべてを仕組み通りに厳格に動かす。情けと花の仕組みには毛ほどの狂いもない。仕組みに厳格に従うことが違反を清算する足場となる。自分の不都合はすべて自分の為した結果である。誰のせいでもない。清算する状況になったのは自分の責任である。どこにも苦情は言えないし、どこにも逃げられない。自業自得である。自分が清算すれば清算できるようにしてくれているのが大神である。神に任せるが自分がやる。自分がやるが神に任せるしかない。生かされている、の意味である。自分ですべてができるのではない。自分は自分の責任を果たす。その結果は、任す。神に任せて自分で責任を取るのである。神を信頼することで神は力を貸せる。神が力を貸せば、自分が気づき、さらに確信をもって信頼できる。神と共に自分の清算をする。それが今の自分の義務であり、神の御用を果たす事にもなる。自分が清算することで御用を果たす。自分を直すことが神の手伝いとなる。生かされて生きる、頼って自立する、神にすがって自分でやる、これが矛盾の統合である。これを実行できるかどうか、身をもってわかるかどうか、それが清算の苦労、痛みの度合を決める。

この本は、あなたがすべての大元を思い出すための触媒である。触媒は、反応を早めることに貢献するが、それ自体は変化しない。この本の語る事実は動かない。この世に数限りなくある一つ一つの事例を当てはめて解脱していたら永遠に終わらない。あなたが自分の体験を材料にして、自分の態度を直せばよいだけである。この世のすべて、人類の歴史の全てを解釈し直す必要は無い。あなたが自分の体験を自分で見直して、考えて、行動を変えることを通して、自分が違反した分だけやればよい。あなたがこの見方をして苦しいならば、それを辛抱していることである。それがあなたの違反の証しであり、清算である。

真釣りに我慢はない。あなたが魔釣りで考えるからそう見えるだけである。九分九厘までやり続けた間違いをすべて清算するのである。時空生死を超えた清算である。この世で言う苦労や痛みなど全く問題にもならない。あなたの今の恐怖や苦しみなど無いのと同じである。本当の苦労、本当の痛みは、いっぺんには耐え切れないから、少しずつ掃除の機会を与えられてきたのである。それをあなたがいい加減に無視してきたのであるから、自業自得である。今までの見方、やり方に戻って楽になろうとすれば、それは、さらに苦を増やし、天国を捨てていることになる。裁きの心が強いほど、神や仏や霊にすがっているほど、あなたの本体はとんでもない状況になっているのである。あなたがどんなに避けても、しただけのことは逃げられない。あなたがどんな状況になろうと、清算をし続ければ、あなたは消えることはない。どんどん楽になる。本当の現実に置き換わっていく。逃げたり誤魔化したり他人を裁いたり他人に善人ヅラをすれば、その分、あなた自身が苦しくなる。真コトに誤魔化しはきかない。あなたが寸分の狂いもなく実行しなければ天国は消え去る。
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あなたの違反はあなたのしたことである。他人の違反は他人のしたことである。あなたはあなたの清算だけをしていればよい。他人や社会に干渉すれば、あなたの身を滅ぼす事になる。他人や社会に依存すれば、あなたの身を滅ぼす事になる。他人や社会を裁けば、あなたの身を捌くことになる。他人や社会に役立とうとしても、あなたは本当の意味では何も得られない。貢献するほど吸い取られるだけである。他人の責任を負わされるだけである。間違ったやり方で天国を作っているならば、形を維持しようとしても、あなたの生存の保証はない。形をどう変えようと、最後はすべて崩壊する。本当の天国に戻りたいならば、すべてを捨てて、観念して、黙って、地獄の底まで落ちる覚悟を決めて、行動することである。それは自分の作った地獄であり、底なしではない。自分が渡した地獄を自分が引き取り、奪った天国を相手に返すだけでよい。利子の支払いは要らない。自分がしただけ、自分の元金だけを返せばよい。平等公平である。形は不公平になる。これを知らないから、ずるい、不公平だ、みんな平等に、助け合って、という戯言に騙される。自分の借りた分だけ返せばよい。借りたものが多ければ、返す苦労が多くなるのは当たり前である。傷つけた分だけ自分が傷つくのは当然である。生死、時空を超えた支払いであるから、死すらも可哀相なことではない。支払を済ませなければ本当に酷いことになる。永遠の滅びである。

あなたは、天国をゲットするのではなく、天国に戻るのである。神界に貯めたツケを、過不足なく、キッチリと払うだけである。それが支払いであり、清算である。それが本当の清算である。自分が作った借りを逃げれば、最後は自分自身から借りることになる。自分が自分に貸すものがなければ、担保と引き換えである。それはすなわち。あなたの消滅を意味する。借りたものは、耳をそろえて返すことである。奪ったものを返せば、前科は帳消しとなる。清算したからである。本当の天国に戻れば、もう二度と悲しみや苦しみや痛みの世界はない。ウソを本当のマコトに替える、「ウソ替え真事」である。ここでやらなければ、もう後はない。ここで使わなければ、あなたの真コトを使うところはもうどこにもない。万古末代一度こっきりの機会である。先延ばしは「死刑」の同意、つまり、自殺を意味する。知らせていたのに無視したあなたが自分で自分を滅ぼす、自業自得の判決である。

この本は、元つ大神からの、最後の総決算、本当の大掃除の最後通牒である。自らの神法違反をキッチリと清算して本当の天国に帰るか、あくまでもこの世の快楽を追い求めて魔釣りの世と共に滅ぶか。残るか消えるか、二つに一つの分水嶺である。滅びへの道は無数にあるが、本当の天国への道はただ一本である。激流や大瀑布や毒魚が待っているかもしれない。流れ下る方向を間違えれば、二度とやり直せない永遠の大失態となることを肝に銘じて、自分がどうなるかをよく考えて決めることである。完全に終わるまで死んでも死んでも続く清算である。時空を超えた、生死を超えた、永遠のイノチが弥栄える本当の天国への道はただ一本だけである。姿形の美醜、正誤に騙されないことである。本当に真剣に、正直に、違反の事実を認めることが、本当の天国への門の通行証である。門を入れば、もう後戻りはできないが、本当の天国への道は、どう見えようと、感じようと、どんな地獄もすべて天国へ繋がっている。形に騙されずに進む道を自らの責任で選んでもらいたい。
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自分がどうなるか、だけを考えればよい。真釣りで考えれば神帰るが、魔釣りで考えるなら我が得るだけである。魔釣りで考えるのは、自分が得するためである。真釣りの自分勝手と九分九厘であるが、最後の一厘で、天国と滅びの差となる。表現は同じでも、はたらき、結果は全くの正反対になるから、よくよく考えてすることである。アタマも立派なハタラキではあるが、ハラに真釣りがあるならば、の話である。アタマは分かつ知、左右を逆に組む。アタマで生きるのは、分裂の、アベコベの世界を作る生き方である。「どっちだアタマの知恵」で世界を創っても、分裂、争い、共食い、滅びの道を突っ走るだけである。

真釣りのマコトで生きれば、自分勝手に見えるが、すべてのためになる。魔釣りに生きる者は、反抗し、抵抗し、非難してくるが、それは都合が悪いからである。魔釣りの者は、真コトを渡されると悶え苦しむ。程度の差はあるが、それが真コトがない証しである。そのままなら、本人も周りも魔釣りの滅びに進む。他人にわからせる必要はない。自分が真コトを貫き通すことである。自分が真釣りを生きた時、自分のアタマが抵抗する。周りの者が騒ぐ。それを黙って見ていられなければ、魔釣りの愛に騙される。魔釣りの者は、病気、怪我、脅し、仲間を集める、過去の常識、権威ある学者の理論、法律、人間として、一人になるぞ、社会では生きられないぞ云々、様々な道具、罪悪感を使って封印してくる。それを知らん顔できるかどうか、反応しないでいられるかどうかである。真釣りの者なら、何の問題もないから、非難も批判も抵抗もしてこない。してくるならば魔釣りである。自分が同じ反応を返すなら、自分も魔釣りである。真コトを生きているつもりで魔コトに戻っていることになる。真コトがなければ、すべてが終わる。一時的に、可哀想な、悲惨な形になる者もいるが、それはその者の魔釣りのゆえである。それに責任を感じれば、あなたはその世界に引き釣り戻される。真に釣られるか、魔に釣られるか、二つに一つである。

魔釣りの善悪の争い、議論は、中身は空っぽである。相対の善悪で、正誤で、裁き合いをすることそのものが魔釣りの証し、真釣りなき証しである。真釣りがないから、魔釣りの世で生き延びるために、戦うことになる。非難したり、迎合したりすることになるが、その結末は、両方とも、滅びである。真釣りに戻すことは厳しいことであるが、それは自分が真釣りを外した結果であり、それを逃げれば、魔釣りの毒牙の餌食となる。他人の気持ち、弱者の気持ちという言葉は真コトの世界にはない。それに引きずられる自分の甘い心を正すことである。真コトがなければ、大神は鬼となる。身をもって教えなければ、永遠の滅びとなるからである。鬼となるのは、我が子への情けである。取り違いして、逆恨みすれば、親の情け、真コトを踏みにじる魔釣りの権化として最期に成敗される。よくよく考える事である。これは神事や空想、お遊びではない。本当の命を生かすか殺すかの真剣勝負である。真釣りに生きれば、真釣り戻しの苦労に耐えれば生き返り、魔釣りのままならば、苦業を重ねてメグリを積んで、積んだ分だけ悶え苦しんで、そのまま滅ぶ。二つに一つである。魔釣りの道も、真釣りの道も、苦労が伴う。しかし、本当に成就する苦労は真釣りの苦労である。どちらを選んでも結局は苦からは逃れられない。本当の苦労を選んで厳しさを克服すれば、永遠の天国が待っている。魔釣りの苦労は永遠の滅びを呼び込む苦業である。苦業を積み重ねて永遠に滅ぶか、苦労を耐えて永遠に生きるか、どちらの苦労をとるかによって、あなたの永遠の生死が決まる。真釣りの苦労は永遠の安らぎである。苦と欲が並んでいたら、苦を選んで、身欲を捨てて本当の天国を拾って欲しいものである。
P288
自分の真釣り戻しをすることがあなたの天命である。他人の姿形の悲惨さは、その本人のメグリの証しであり、本人が真釣り戻さなければ、大神にもどうすることもできない。形の美醜、正誤、善悪に囚われて、他人や社会の非難に迎合して立場を守ろうとすれば、それは自分の滅びを意味する。自分が真釣りに戻るか戻らないか、それだけである。真釣りに戻らなければ、自分が滅ぶ。真釣りに戻れば、周りは大騒ぎをするが、それを潜り抜けて、自分の真釣りを貫く。一時的には皆離れるが、時局は、真釣りに気づき、戻ってくる。

あなた自身が真コトを貫くことが、結果として、本当に他人や社会のためになるのである。一時的な施しや優しさ、思いやりの世界に入れば、それは魔釣りを進める事になり、結果として、誰のためにもならないのである。自分のため、みんなのため、社会のためになるか、誰のためにもならないか、どちらか一つである。本当のことを聞いて騒ぐのは、蛇の知恵の世界で生き延びようとしている証である。戦うのではなく無視すればよい。蛇の世界の地位や財産や責任や生死は何の意味もなさない。死ぬぞ、恨むぞに怯めば、それで負けである。ハラとアタマ、真コトとウソの戦いである。真コトを貫けば勝ちは確定である。

未知の物質、あるいは、わからない物質を分析して特定する研究。組成、性質、振舞い方、光、電磁波、色、様々な指標を使ってバラバラにする。ある物質の成分を分析して、たくさんのデーターを蓄積する。そのデーターをデーターベースと照合する。同じような物質を見つけ、特定する。できるだけたくさんの要素を使えばより正確になる。細かく分析すれば、数字を細かくすれば、その分、正確になる。物質名がわかる。分析分析の世界では、統合はできない。その物質自体も地球の成分である。地球という一つの惑星の構成要素は云々と思考は無限に広がる。地球、岩石、火山岩、石英、分子、原子、原子核。放射線、波動、周波数、霊波等々。より大きな視点からみれば、宇宙自体も神の世界の成分となる。
P289
相対二元のどちらかにつけば、片方は反対する。死刑廃止を唱えれば、犯罪被害者は非難する。人の命を奪った犯罪者は殺してもよい、自分の大事なものを奪った者は死んで償え、の思想。「目には目を」の報復の思想、略奪の思想、所有権の侵略合戦、敵味方の世界では、争いが絶えず、結論は出ない。『善悪があることがおかしい』と言うと、『それはおかしい。善悪があるのが当たり前だ』と言い、『それは危険思想だ』『悪を裁くことは当然だ』と言って、相対の争いの中に戻る。前提が違えば議論になる。しかし、『善悪がない世界はありえない』という言葉を使う限り、「絶対」の世界は体験できない。これが何を意味するのかは、よく考えればわかるはずである。『それは正しいが、今の社会では無理だ』『それは理想だが、現実には無理だ』その台詞は、自由にさせないために用意された、最大の罠である。あなたがそれを使う限り、善悪の戦いの中に居続け、それが罠だとは気づかない。しかし、善悪がない世界が、実現しない嘘ならば、人類の望んでいる天国は絶対に叶わない。従って、善悪の戦いを続ける限り、偽の天国を目指して苦しんだ末に、永遠の滅びに至る。

間違った方法で作ったものは、全部壊さなければ直らない。間違った方法のままで取り繕えば、不都合を誤魔化して綻びを縫えば縫うほど綻びが目立ち、最後は、縫えなくなる。全部ほどいて最初から縫い直しである。間違ったまま進めても、最後のパズルピースは入らなくなる。行き詰まる。手詰まりとなる。最後は矛盾がはっきりと見えるが、全部リセットすることしか、残されたカードはない。始めから全部やり直しとなる。結局、間違いを認めるしかなくなる。間違ったことに気づいても、それを認めたら自分が危なくなるからと、相手を非難し、誤魔化して、保身を繰り返す。自分を守る。それをしていれば、絶対に天国はないどころか、共食いの世界が進んで誰もいなくなる。癌を放置すれば、広がって全身に転移する。癌を切っても癌はなくならない。癌の大元の原因がわからない限り、再発を繰り返す。設計図から引き直し。更地から作り直し。それが「リセット」である。

情報の管理、監視カメラ、クレジットカード。市民には便利になる反面、情報を握られる。防犯強化、取り締まり強化の反面、監視される、自由が束縛される。自分が望まないものを自分が望む矛盾。リスクがあるがメリットもある。一長一短。どっちが勝るか。どっちが得か。メリットがあるからリスクは仕方ない、の思想。管理、支配の世界では、自分の情報を何も教えないことが最大の機密保護。しかし、教えなければ活動できない。届けなければ犯罪になる。誰かが誰かを支配管理するシステムに自由も天国もない。管理する側もされる側も自縄自縛の仕組み。お互いで首を締めあって全員窒息死し天国は息られない。どこで線を引くかを誰が決めるのか。有害だからやめさせる。誰がそれを決めたのか。善悪損得の絶対的基準があれば議論はない。基準がないならば、議論は続く。自分にとって何が不快か、それが基準。誰によって決められたのか。権力者、支配者、判定者の個人的な快不快によって決められる。決められたことに従う。従うことを強制する理由は何か。その根拠は何か。公共の福祉は、支配者の最大の詭弁。相対世界は自己保身の理屈が支配する。自分の立場を守る視点からすべてが決められるから、全員が自由になることはない。
P290
相対二元の世界は、論理の戦いである。相対二元の世界自体には、両方とも同意している。その世界では、相対二元が普遍的真理である。陰陽、善悪のバランスという言葉は、対極が存在し続けることを前提にしている。その世界で「絶対一元」を認めれば、それは、自らの死を意味する。バランスを取る、というのは、統合することではない。相対二元が前提のシーソーゲームを釣り合わせただけである。二つの相反する世界の勢力争いを形だけ止めるための方便である。お互いに『すべては一つだ』『すべての源は一つだ』と言いながら『自分がその源だ』『自分の宗教の神がその源だ』と言って戦っている。結局は、すべての思想は、対極の二元の戦いである。「本当の源」は、喧嘩はしない。科学も、常識も、「倫理、思想、価値観」という見えない世界の主権争いである。結局は、何らかの神の勢力争いの宗教である。『してはいけない』『すべきだ』と言うのは、すべて宗教である。民主主義も宗教である。選挙というアンケートで支持という答えをもらった数が多い政党が政権を握る。二極対立の世界では、社会の意志を決めるために多数決が最も民主的となる。しかし、二極対立では少数意見が必ずあるが、時の政府の数の力で社会システムが決められ、法律が制定される。政府の思想に反発する者は罰せられる。だからといって、それが正しいわけでも、絶対真理でもない。政府に都合がよい思想が、その社会での善悪正誤の基準となり、犯罪の基準となる。絶対的強制力のある法律は存在しない。『今の社会ではそれが正しいから守るべきだ』と言っている限り、真理は闇の中である。人類の歴史を通して、平和が続いた社会はなく、水面下では策謀が渦巻いているドロドロした泥試合が繰り広げられている。元に戦いの略奪の保身の響きを持つ集団では、どう転んでも天国は創れない。今のまま、魔釣りの蛇のアヤマ知の世界を続けるならば、最期は、大神が万象万物を始源の泥に戻して、真釣り戻した真人(神人)だけで「天地創生の物語」からやり直す。これを毎度おなじみの『荒唐無稽だ』で片付けるならば、この通りの現実を体験する事態となる。

自らに都合の良い理屈、論理を持ち出して、見えている形の見方の主導権を主張し合う。『なぜ』と聞かれれば、それは、『自分がそう思うから』『それが当たり前だから』『真理だから』『常識だから』『許されないから』と答える。論理戦争を終わらせる本当の結論は、「すべてを説明できる論理」である。形の証拠は必要ない。科学は『と言われている』『と考えられる』『と仮定する』『現時点での成果、定説』の範囲で論理を展開する。『まだ全容はわからない』『未知の部分がある』が、わかっている範囲で適用する。当然のことながら、副作用、例外が出る。すると、今度は『何らかの理由でそうなった』『これは見通せなかった』『人知を超えたものだ』『今の科学で予見するのは不可能だ』と片付ける。人知を超えた力がある世界は、科学では制御不可能である。結果を予見できない者には、安全は保障できない。『何らか』が解明されない限り、万象万物の完全操作はできない。『宗教は見えない、だから信じない』と言うが、それ自体も宗教である。自分にメリットがあるかどうか、自分が損しないかどうか、自分が苦しまないかどうか、自分が不快にならないかどうか、自分のいる世界が壊れないかどうか、それが「正しい、誤り、善、悪」の基準なのである。基準は自由であるが、それを選択した結果がどんな事態を作り出すのかは全くわからない。自らが無から産んだものでないならば、コピーを作ったとしても、必ず不都合が現れる。
P291
目に見えているものが本当に存在するのか。目の前にいる人物は本当に生きているのか。存在する、生きているに決まっている、なぜなら、見えるから。それも、自分の思い込みである。自分の基準で自分の正しさを証明する。常識だから、誰かが言っているから、伝統だから、みんながそうだから、世界の常識だから、それが正しい、と言う。正しい基準、それも自分の同意する考えに過ぎない。自分の考えたことは自分が生み出したものなのか。無から作り出したものなのか。科学は発見の繰り返しである。あるものを見つけただけである。思い、考えすらもそうである。あの世、心の中、が実体である。実際は、見える形も見えてはいない。言い換えると、「自分のイメージで見えるもの」「他人に見せられないもの」と形との間に境界はない。この世とあの世、見えるものと見えないものの境界は自分である。肉眼で見えるもの、心眼で見えるもの、と自らが分けている。『脳で処理している』というのは、形ですべてを考える(肉眼で見えるものしか信じない)者の理屈である。

有限の処理能力で無限のものはつくれない。『脳に記録している』ならば、肉体がなくなったら終りである。DNAに記録している。自分はDNAだということになる。DNAそのものはどうやって作ったのか。種そのものはどうやって作ったのか。同じ問いである。幽霊は脳が生み出す幻覚だと言う。霊能者は精神異常の虚言、悪霊払いはやらせだと言う。そう言っている者自身が神頼みをする。自然の脅威、自然の不思議を語る。自分の理解の範囲で理屈をつける。生まれ変りは信じないから、DNAを残そうとする。思考の基は『永遠の命を得たい』ということである。霊を遺伝子に置き換えただけで、同じことである。形ですべてを思考している限りは、すべてを説明することはできない。自分の理屈に合わないものは排除して、理窟を組み立てる。排除した残りで整合性を取ろうとする。自分は正しいと言う。科学者と宗教家の間に、超心理学者、形而上学者が現れる。超常現象や心霊写真の議論は、科学者と霊能者では永遠の平行線である。「排除する」ならば、それが存在することの証。どこにも存在しないなら、形にも思いにも出てこない。しかし、「それ」を排除しているからそのことは認めない。従って、アレコレと理屈をつける。体験して初めて信じる。混乱したら信じる。信じて初めて認める。自分が自分に説明できなくなったら、初めて認める。相対二元の世界では、「存在するものすべて」を解明することはできない。
P292
この世界を支配したければ、アメとムチを使えばよい。支配される対象(大衆)は、自ら(支配者)が生きるためのコマ、餌の加減で思い通りにできる奴隷、家畜である。すべては自分の快欲を満たすための道具に過ぎない。「物」を扱うように自由に壊してよい。死のうが生きようが、それは、自分にとってはどうでもよい。生かすも殺すも、自分への忠誠次第である。自分の力を使えば、地位も名誉も財産も、いつでも取り上げることができる。自分の目的のためなら、手段は選ばない。お金を得るためなら、毒も薬と偽って買わせる。儲けるためなら戦争も起こす。これを理解しない大衆は、自分たちの生存権や人権を声高に叫ぶ。その大衆を扇動するグループも出る。政府や支配者に反抗する勢力が破壊を操り返す。しかし、支配者はそんな声は聞いていない。無視される。大衆が、それは鬼だ、悪魔だ、人道に反する、と訴えても、何の意味もない。邪魔者として抹殺されるだけである。『なぜそんなことが考えられるのか信じられない、人間じゃない』と言ったところで、それも、そう思わせられているだけである。そう反応する思想を植え付けておけば、支配者が支配されることはない。支配者は安泰である。陰の支配者には、自由平等思想などない。イノチの尊厳、プライバシー、思いやり、優しさ思想などない。可哀相、酷いという感情は微塵もない。すべては、自分の目的を果たすために支配者自身が大衆に植え付けた思想だからである。この世は選ばれしエリート集団のための世である。選ばれたと聴いて嬉しくなるならば、あなたはそのエリート集団と同じ響きの中にいる。あなたのその思想を究極まで突き詰めて、一言違わず実行すれば、あなたはヒットラーにもなれる。自らがどうしたらよいかを自らで考えられず、自らの死を避け、自らが安全かどうか心配し、自らの欲望を満たすものを追う、そんな大衆を騙すのは簡単である。大衆の心を獣化し、アメとムチで操れるロボットにして自分の正体を隠す。自分が支配しやすいような嘘の思想を広め、支配する対象同士を争わせ、自分のイスを絶対に奪えない仕組みをつくる。支配者の真の目的に気づかせないための策謀を隅々まで巡らせる。大衆には始めから自由などない。

支配者のすることを批判している限り、彼の世界の思想はわからない。否定しているから、支配者の世界には入れない。陰謀は見えない。罠に気づかない。完全に冷徹にならなければ支配することはできない。この世界を支配する黒幕には、罪悪感などない。あなたが要らない紙を破るように、ゴミを捨てるように、すべてのものを扱う。基準は『自分にとって要るか要らないか』である。罪悪感を持っている限り、真実は見えない。騙され続ける。自らが役に立つことを喜びとし、自らの存在価値がなくなったと嘆いて自ら命を絶つ。自らがその支配者の作った世界で要るか要らないかを常に確認していなければならない。あなたが『自らに不都合な者を死刑にしたい』と思うならば、全く同じ思想を持っている。ただし、それを隠して、善人を演じている限り、本当の支配者にはなれない。『自らにはそんな力はない、庶民だから、難しいからわからない』と言っている限り、あなたは永遠に奴隷であり続け、最後は、ゴミとして捨てられる。人権を叫んでも、負け犬の遠吠えである。『人間は不完全だからわからないのは当然だ』という思想も植え付けられたものである。「不完全な」人間が、完全な自由、永遠の天国を作ることはできない。究極の矛盾である。
P293
元々は、すべて神の世界から始まっている。心というのは波動であり、思想というのは、それを言葉で認識できるようにしたものである。言葉も、物も、形も、すべて周波数を持っている。どの周波数に同調するかで、自分の世界が変わる。現実というのは、自分と世界の同調である。自分が同調した世界が自分の世界となる。従って、すべて自分が作っている世界である。誰かの創った世界に同調している限り、完全に自由になる世界はどこにもない。その望みは果たせない。痛みと苦を避けながら、誰かに与えられた餌(快楽)を追い求めてマヤカシの天国に満足し、心残りのまま死後の平安を望んで寿命を終える。生き延びたい、死にたくない、楽したい、苦しみたくない、その思考が自らをそうさせたのである。すべては自己責任。自らに都合よく選んだ思想を後生大事に抱えていることが騙された原因であり、被害者になった原因だからである。善人を演じれば、永遠にカモとなる。支配者を支配者にしたのは、アメとムチの世界に同意している大衆である。独裁者を批判する心が更なる独裁者を産む。最後の独裁者は、独裁者に見えない独裁者である。大衆は、自らの生存を保証してくれる指導者ならば、独裁者でも受け入れてしまうのである。

支配される大衆も、人間以外の生き物に対しては同じ思想をもっている。自らがされていることを自ら以外にしている。自らの思い通りにならないから、ストレスがたまる。皿の一枚でも壊せばスッキリする、と言う、皿の元は土である。すべては一つである。人間も自然も、人間を除いた動物も細菌も、鉱物も、ゴミも、毒も、その元は一つである。しかし、命は地球より重い、と言っておいて、自らの都合よく命の重さを変える。人を殺すのは許さないが、大量虐殺の犯人は死刑だ、と言う。人間は駄目だが、物ならば壊してよいと言う。人間は傷害罪で、動物は器物損壊罪だと言う。動物は生き物だが、人間以外は「物」である。動物実験はよいが、人体実験は駄目だ。動物は実験材料にしてもよい。人間を生かすためには仕方がない。人間が生き延びるためには実験が必要だから、仕方がない。供養して感謝すれば殺しても許される。未知のものが安全かどうかを確かめるためには、誰か(何か)が犠牲になる。物質(化学反応)、遺伝子、細胞、微生物、小動物、牛、猿、死刑囚、犯罪者、捕虜、病人、誓約書で責任回避した上の本人同意の臨床実験、そして薬を市販する。薬は欲しいが、自らは実験台にはならない。自己の延命策しかその頭にはない。自らの食べるもの自体の毒見はできない。自然まで範囲を広げれば、ヒットラーや金正日を批判できる資格のある者は誰一人いない。現代社会自体が「人間(もっと言えば、最も優秀な人材の集まりである先進国)」を頂点とする優性思想による自然支配の世なのである。

二極分裂思考で生死を分ければ、生を求め、死を避ける。アメを求め、ムチを避けるから、誰かの思い通りにコントロールされることになる。人間界も霊界も同じことである。心、精神、魂、霊、思想、思い、どんな言葉を使おうと、意味するものは同じである。その世界で生き延びたいならば、支配者になるか、忠実な奴隷になるか、二つに一つである。王や大統領でさえ、その上の支配者のコマである。兵隊、奴隷、使い走りである。幽霊すらそうである。支配者の心理を知らなければ、その世界を支配している者の上には行けない。
P294
今世の大元はどこにあるのか。それは分裂の響きである。それを持っている限りその中であり、その世界が永遠に続く。その響きを完全に捨てない限り、黒幕の神ですら、安泰ではない。全員が永遠の安泰の天国にいるか、全員がそこにいないか、である。影の黒幕の黒幕も戦いの中である。油断できない。何も知らず、知ろうともせず、言われた通りにして、与えられるエサを受け取って、快楽を享受し、不平不満を言っている大衆は、完全に奴隷である。豚舎で飼育されている豚である。籠の中の虫である。そう聞いて怒るならば、真実が何も見えていない。まんまと罠に嵌まってしまっている。しかし、人類は猿が先祖であるから、ボスザルに支配された猿山の猿であり、食事は餌である。動物に例えられて怒るならば、それは、「選民思想」を持っていることの証である。『自分に失礼だ』『犬猫といっしょにしないで欲しい』云々。自然が先であり、動物が先である。後から入ってきて文明社会に自然を取り込む人類は、自らを生かす自然をないがしろにし、自らの快欲のために利用する。現代社会には中間層などいない。天国か滅びかであるから、地獄とは滅びの方向性を持った現実である。どんなに中間にこだわろうと、この世は、奴隷と王しかいないのである。その王すらも奴隷である。神仏の世界も全く同じである。あなたの響きの大元を変えない限り、生きていても死んでいても、あなたの今の状況は何も変わらない。分裂の響きが創る世の最高権力者は蛇の火の神であり、今のあなたはその手下である。あなたが真釣りの真コトに戻らない限り、最後は魔釣りの世の奴隷のまま永遠の死を迎える。

「自分の力」ですべてを支配できる者はいない。できると思っているならば、それは自らの破滅を意味する。本当の天国ならば支配はできない。すべてが自分でできる者、生き通しで死がない者の支配はできない。コントロール不能である。本当の天国には支配者はいない。支配者がいるならば、そこは本当の天国ではない。「支配者」は本当の天国には生きられない。支配者(指導者、リーダー)を望むならば、それは奴隷に同意していることを意味する。自分が服従することに同意しておいて、主人に文句を言う。すべては自分の同意したことである。従って、どこにも文句は言えない。文句を言うならば、それは、自分でできない証である。自分でできない者が、してくれる者が気に食わないからと文句を言う。それではいつまでたっても天国はない。支配者が変わっても同じである。誰がやっても同じ、誰がアタマになっても天国はできない。ということである。そのままでは本当の天国は実現できない。全員が互いに依存している世界は、誰かの犠牲の上に築いた自分だけの天国である。最後は奪い合いの末に丸潰れである。虐殺者を責める自分も、その虐殺者と同じ世界にいる。『自分は何も悪いことはしていない』と言うが、それは、魔釣りの世での法律上の悪い行動のことを言っているに過ぎない。真釣りの世から見れば、世界の破滅を企む組織の一員、究極の悪人である。苦と楽が同居し、お互いにもたれあい、奪い合っている相互依存の現代社会で楽な天国(快適)を体験しているあなたは、その生の裏で、自分は苦労せず、手を汚さず、誰かに大量虐殺をさせて、その実だけを奪っている存在である。消費者というのは、生産者の苦労を奪って、清く正しく楽をする者のことである。
P295
自分が何もせずに生きられるのは生産者がいるからである。何を食べさせられようと、文句は言えない。嘘を教えられようと、毒を飲まされようと、それは、任せた自分の責任である。いやなら、自分がやることである。自分で調べて、自分で研究して、自分に安全なものを自分で作ればよい。自分はできないから、と言い訳して、人に押し付け、成果だけをもらう。意に添わなければ、殺す。仕返しは犯罪だから、法的に裁判官に殺してもらう。

現代社会は、天地を、資源を、天恵を、万象万物を産み生んだ本当の生産者を完全に闇に葬り去った文明である。その生産者なくして永遠の生存は保証されない。その生産者が本当の所有者であり、今のあなたはその所有権を侵害している窃盗団の一味である。あなたがその生産者を思い出し、お詫びと感謝を取り戻さなければ、あなたの本当の命が消える。

今までの常識、定説の中には真理はない。それは、条件付きの真理である。より大きな世界では、相対的真理となり、強制力は消える。意味がなくなる。自分がすべてを決め、自分がすべてを選んでいる。選ばされるような生き方を選んでいる。どんな理屈を持ってしても、自分の選択責任は逃れられない。それを逃げれば、自分が滅びる。法律的な自己責任のことではない。神はいない、霊は信じない、も含めて、誰かのせいだ、社会が悪い、その見方も自己選択である。誰かのせいだ、という眼鏡をかけているから、誰かが悪く見える。かけさせられた、というのもあなたの見方である。冤罪である。それが真実だ、というのもあなたの見方である。九分九厘、責任転嫁して生きてきたあなたが、自己責任を取るのは苦しい。しかし、それをしなければ、本当の天国には帰れない。あなたが苦しい分だけ楽してきたのである。あなたの楽の裏にそれだけの苦労があったのである。相対二元の略奪の世界で楽をするということは、誰かに苦を渡していることを意味する。それが、当たり前だと言うなら、独裁者や、国民の税金で好き放題をしている王族と同じである。感謝もなしに当然の如く快適生活を享受し、不平不満を言うならば、本当の天国は消える。

本当の天国に戻るための期間限定の掟は『自分自身以外のせいにしない』である。これを守れば苦しくなるが、それを辛抱することが、懲役である。文句を言えば、それを破れば、刑務官への反抗であり、罪の償いをしない、責任を取らない囚人である。結果として、苦が増える。自分の滅びに近づく。自業自得の仕組みである。これを否定すれば、それは、自己責任の放棄を意味する。守れば、自分がしただけ苦労して天国、破れば、そのまま滅び。自分のしたことがすべて自分に返る。結果は、永遠の生、又は、永遠の死、である。二つに一つである。どちらを取るかは自分次第である。究極の自己選択、自己引責。時空、生死、を超えた自己選択である。『損するから』も『死ぬからも』も通用しない。その言い訳は自分自身を滅びに進めるだけ。自分だけが自分の結果を受ける。これが本当にわかったなら、恐ろしくなるはずである。平気で否定できるなら、言い訳するなら、危篤患者、確信的凶悪犯である。誤魔化せると思えば自分が滅ぶだけである。更なる地獄を経て、滅ぶ。
P296
どうするかはあなたの自由であるが、この本は事実を語っている。『自由だから守らなくてもいいんだ』それもよい。どうにでもいえる。その結果はあなたに返る。自己責任である。掟を破れば、神幽現三千世界を乱すことになる。一番大きな社会の秩序を乱すことになる。あなたは処罰されても文句は言えない。あなたが本当の天国に帰りたければ、真剣にやることである。どうでもよいなら、掟通りに滅ぶだけである。すべては無から作り直すことができる。あなたがどうしようと勝手である。本当の天国に戻れるように知らせているのだが、余計なお世話だと言うならそれでもよい。あなたが決めることである。本来ならば存在しない者を生かし、清算の機会を与え、最後に、言葉で見せて自覚できるように知らせた。それでもやらないならば、故意の確信犯。自分で同意して滅びるだけのこと。自分で自殺を選択するのである。どこにも文句は言えない。誰も助けない。最後に神を恨んでも、それは届かない。神は教えた。しかし、あなたは自分の身欲で無視した。本当の天国の掟は真釣りである。分裂の響きはない。あなたが本当の天国に帰るには修羅の地獄のそのまた地獄が必要かもしれない。しかし、それに耐えれば、自分のしたことを清算すれば、あなたは戻れる。それを避ければ滅びる。本当の天国、元の天国に帰るか帰らないか、それはあなたの問題である。事実、そして、ルールは教えた。後は、あなたが実行するかしないかである。あなた次第である。どんな言い訳も一切通用しない、生死、時空を超えた祓い清め、身魂の総決算である。ハラを括ってイノチを捨てて、死んでも生死は任せて、死ぬ気を超えてやり続ければ、本当の天国が待っている。死刑執行猶予の終りはもう近い。

あなたが戻るか戻らないか、の問題である。戻らなくても天国は来る。しかし、あなたはいない。邪魔をすればあなたは消える。邪魔する響きは天国には入れない。ないものを持っていれば、あなたは滅ぶ。アタマを下げるか抵抗するか、それがあなたの分かれ道。あなたは天地自然の掟を破った、自然の理に違反した死刑執行猶予囚である。何の罪もなくはない。大大罪である。あなたの態度があなたの運命を決める。生き返るか滅びるか。二つに一つである。今の知恵でどう抵抗しようとあなたは逃げられない。一つ以外は滅びの道である。時空、生死を超えた、自分が自分にする償いである。自分が永遠に滅ぶか、生き返るか。あなたが生き返らなくても、別に構わない。生き返った者だけが本当の天国にいる。あなたが帰るのか帰らないのか、どっちにするかである。あなたが改心しなければ始まらない。あなたが違反したままでは、手は貸せない。誰も救ってはくれない。まだ後があるだろう、は自分を滅ぼす。それは嘘だろう、も同じことである。いつまでそれを続けるのか。『楽をして、痛い目を見ないで、少しだけ苦労して、天国をゲットできれば儲けもの』その考えは綺麗サッパリ捨てて素直に従った方が本当に身のためである。ゲットできると思うならやってみればよい。その結果はすべてあなたに戻り、あなたの現実となる。


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