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実践・日本真道(事実その0)

現代社会の日本人が忘れた本当の神の道

実践・日本真道  長谷 章宏 著


はじめに 

P1
あなたが体験している現実は、あなたがどんな生き方(見方、考え方)をしているのかを鏡のように映し出す。この本は、あなたが本当に望んでいる現実を体験できるように、実践を通して人生(生き方)そのものを見直していくためのガイドとして書かれたものである。この本には、あなたの人生の根本に関わる様々な見方、考え方が提示されている。それらは、あなたの人生に応用することで、初めて、あなたにとって価値があるものとなる。


まずは、読んでわかったこと、気づいたこと、心に残ったこと、自分に使えそうだと思ったことを、日々の暮らしの中に取り入れて、どんどん実践してみて欲しい。そして、わからなくなった時は、この本に戻ってきて気になるところを読み返してみるとよい。その時はわかっていたつもりでも、読み返すたびに、前とは違ったものが見えてくるはずである。


読んでは実践し、実践しては読み返すというプロセスを繰り返していくうちに、この本に書かれていることが、あなたの人生に統合されていくだろう。そして、あなたが、この本を完全に手放して自由になった時に、この本が書かれた真の目的が達成されたことになる。


以上述べたことをいつも念頭に置きながら、真剣にこの本と向き合っていってもらいたい。



事実 その0(P2~23)

P2
この本に書かれていることは、はじめからおわりまで、「すべて」紛れもない事実である。

あなたは、なぜこの本を手に取ったのか。なぜ読み始めているのか。あなたが今この本を手にしているということは、その理由が何であれ、今のあなたにとって一番大切なことが書かれている本だという証である。あなたはこの本で、「本当の自分」と出会うことになる。

あなたはあなた自身についての本当の真実を知らない。あなたが、もしそれを知っているならば、この本は手にしていない。この本にある事実を一つでも疑う(否定する)ならば、あなたはこの事実を認めたことになる。あなたが知っているのは、ウソの真実である。

この本にある事実は、あなたの本当の姿(正体)を映し出す鏡である。それが今のあなたにとって受け入れ難いものであっても、実践の過程を通じて認めざるを得なくなっていく。

この本は、現代社会に生きる日本人全員が罹っている「100%命を落とす心の伝染病」を完治させるための隔離病棟である。あなたに一つでも問題や悩み、疑問、思い通りにいかないことがあるならば、あなたは既にウイルスに感染している。その正体は一体何なのか、どんな症状を呈するのか、そして、そうすれば完治するのか、それらはすべてこの本に書かれている。この病気は、生半可な治療では完治しない、治療が遅れれば遅れるほど進行が早くなる、恐ろしい病気である。しかし、あなたが本当に真剣に直そうと努力すれば必ず直る病気でもある。完治するまで絶対に、この隔離病棟から出ないこと。それが、ウイルスをあなたの中から完全になくすための、唯一の約束事である。この約束を忠実に守れるなら、あなたは永遠の免疫を手にすることができる。もう二度と感染することはない。

あなたがこの本を読むとき、苦しく感じるかもしれない。この本に限らず、苦しさという感覚は、あなたが出会った対象(状況、意見、考え、思い、現実、相手)を認めていない(抵抗している、拒絶している、否定している、拒否している、避けようとしている、操作しようとしている)時にあなたの中に生ずる反応である。あなたが今持っている価値観(思想、理念、観念、思考、常識)が創り出す現実(体験)は、「心の痲薬」の常習者の創り出す幻想である。この本は、その幻想から目を覚ますための解毒剤であるから、読んでいて苦しいほど中毒症状が重いと思って欲しい。それは、麻薬患者から痲薬を取り上げるのと同じ作用である。あなたが心の痲薬を完全に自分の中から追い出さない限り、あなたが本当に求めている現実を手に入れることは絶対にできず、あなたは本当の意味で楽になることはない。
P3
この本を目にした瞬間、あなたは、あなたの心の深奥にある真実から離れられなくなる。この本自体を目の前から遠ざけることはできるかもしれない。しかし、あなたがこの本に書かれていることをすべて受け入れ、正直に認めて、自らの体験を通して得心しない限り、この本を焼き捨てようとも、著者を抹殺しようとも、あなたの中からそれが消えることはない。この本はあなたの心の奥深くにある「本当の真実」を再び目覚めさせるための触媒であり、あなたがすでに持っているものを目の前に鏡として見せているだけだからである。

この本を誰かの目に触れないようにしようと思ってもそれは全く意味がない行為である。その行為そのものが、実は、あなたがこの本の正しさを認めた証しなのである。この本やこの著者がこの世から抹殺されたとしても、この本に書かれた事実(本当の真実)そのものを消すことは、絶対にできない。あなたが何かを抹殺しようと思うのは、その何かの存在が、あなたにとって都合が悪いからである。『自分は見たくない』という理由で、すでに存在しているものを消そうとしても、それは不可能である。目に見える形を破壊することはできるかもしれないが、その形を具現化した思い(大元の響き)を消すことはできない。物理次元を超えたところ(心界)では、依然、あなたの目の前に存在し続けているからである。

物理次元を超えた世界に存在するものは、具現化された形を物理的に消滅させたとしても、その存在自体(本質)を消滅させたことにはならない。その本質が存在し続ける限りは、物理次元の(肉体を持つ、人間としての)あなたの目の前に、何度でも繰り返し具現化することができる。プログラムが存在する限り、コンピューターを破壊したとしても、別のコンピューターを介して再び映像を具現化することができる。つまり、「肉体を使って心の世界を壊す」、「核爆弾で思想そのものを滅ぼす」ということはできないのである。どちらがどちらを産み出すのか(どちらがどちらの産みの親なのか)を考えてみれば、それは明らかである。形としてそれを実行できたとしても、それは、その行動の過程を心の映像として追体験したものを「現実」として認識しているだけであって、真実のところは『本当に破壊できる』という幻想を追い求めているだけに過ぎない。このことに気がつかなければ、本当はどこにも存在しない問題を自ら生み出し、『いつか解決する時がくる』と思い込んで、それを解決するための「ゴールのないマラソン」に心血を注いだ末に、望みとは全くアベコベの現実(結末)を体験することになる。例えば、もともと存在しない戦争を具現化しているメカニズムを知らずに、『なぜ戦争がなくならないのか』と問い続け、戦争を無くすための戦いに心血を注ぎ、報復の連鎖の末に相討ちで滅亡する、という現実である。

『形で心を壊す』という映像は、それを想像(イメージ化)するところ(心、時空)が存在することで、初めて映像にすることができる。その時空がなければ『形で心を壊す』という思いは存在することができない。その時空が存在するから、その言葉を形にすることができるのである。実際には、その時空そのものは壊せないから、形が心を壊すことはできない。『脳が心を作り出している』という思い(考え、仮説)も、それそのものが心の働きが生み出したものであり、この思いを正しいものだと思い込めば、肉体で操作できるものを研究して、その仮説を証明するための証拠を積み重ねるという行為をし続ける。しかし、それは限定した世界の中でのことであって、それが絶対真理であることは、絶対に証明できない。現象の上での感情や行動を脳に働く薬で制御することはできる。だからといって、『その考えは正しい』という結論にはならない。それは、コンピューターの回路上での操作で動きを制御しているようなものであり、実際には、回路上の配線や部品の交換でプログラムそのもの(エンジニアの思考の中にあるプログラム)を変えることはできない。もし、この仮説が真理ならば、「創造主を作れる薬」を開発できるはずであるし、これを発展させると『この世が滅べばすべてが滅ぶ』という仮説も証明できることになるだろう。
P4
この世が滅んで無になったとしても、その「無」が存在する場所は存在する。実際に無になる時が訪れたとしても、無になると思い込んでいた者だけが、無になったこの世と共に消滅するだけであって、その「無」そのものが存在していた空間は存在し続けている。より高次元の世界から見れば、それより下の次元の形が無になるだけのことであって、その上の次元は「有」であり続ける。たしかに、自らの認識している「有」をすべてだと思い込んでいれば、「無になる」とは、「すべてがなくなること」であり、その者にとっては、命に関わる大変なことであるから大騒ぎするのは当然のことだといえる。しかし、それは、単に、有の中に作られた有が消滅するだけであって、無になると思っている自分が認識できる有の世界とそこにあるものが無になるだけの出来事に過ぎない。簡単に言えば、最先端の科学文明が滅亡しても地球は存在し、その地球を含む物質的宇宙が消滅しても、その宇宙が生まれた(有形になった)宇宙が出現するだけである。つまり、自らがどの次元を体験するかというだけの違いであって、あなたが存在する世界は絶対に消滅することはない。今のあなたが思っている死の概念は、「条件付きの死」であることを知ることで、恐れや不安、それを動機とする戦争、戦争にまつわる反対運動や、戦争の大義、憲法改正の議論、その他諸々の、より高次の次元からみれば些細なこと、つまりは、この物質次元で生き延びることにエネルギーを使うことは、全く無駄で意味の無いことになってしまうのである。それは、何の生産性もない労働に自らの生命エネルギーを浪費しているようなものである。

人の死については大騒ぎするが、土の上の細菌の生死など微塵も考えずに平然とコンクリート舗装をする。より高次の次元の思考にその同じ思考が存在するから、人間のその思考を実行することができるのである。より高い次元から見れば、人体というのは「物質的肉体」であって、その有無は、より高次の世界の肉体の存在の有無には、全く影響しないのである。「肉体=命そのもの」ではなく、命の源自体が消滅することはないのであるから、肉体次元で『人間を殺してはならない』と叫んでも、その叫びはどこにも届かない。あなたが『イノチ自体は消滅しない』ということを認めないならば、言い換えると、すべての存在を存在させつづけるもの(宗教的に言えば「創造主」「ありてあるもの」、科学的に言えば「宇宙創造のエネルギー」)を否定(抹殺、消去)するならば、あなたは死の概念に囚われ続け、次元を移動しながら自殺を繰り返した末に、すべての次元から自分という存在だけを永遠に消滅させることになる。「死」とは、自らが生み出した幻想(錯覚、誤解、思い違い)が呼び込む、次元を超えた自殺行為であって、最終的には、存在の本質には全く影響しない、自己完結した自業自得の個人的現実(一人芝居)の一つに過ぎないのである。
P5
あなたが存在するどの世界にも死は存在しない。この世が存在しなければ、この世で戦争をすることはできない。戦争をする空間が存在することが戦争をするための前提条件なのである。物質次元を超えた次元では、プログラムと映像は一体であり、その次元のあなたは、そのプログラムの構成要素そのものである。コンピューターとは別の次元にそのプログラムが存在し、プログラムが存在する次元にあなたの本質(魂)があるとすれば、その次元では、物理次元で映像化されたものと同じものを、現実としてそのまま体験していることになる。あなたが、肉眼で見ている映像というのは、心の世界では、一体不可分の関係だということである。つまり、あなたの心の映像というのは、あなたの存在する世界そのものであり、その世界があなたの実体なのである。あなたがそれを消滅させるには、その映像を産み出しているあなた自身を消滅させなければならない。ゆえに、その目的は、物理次元での肉体的な自殺では達成できない。肉体的な自殺をしたら消滅できると思っているその映像があなたそのものであり、肉体的な自殺をしても、その思いと映像は永遠に続くことになる。あなたがそれをやめるまで無間地獄のような現実が永遠に続くのである。

あなたの本質を消滅させられるのは、あなたの本質を産み出した存在だけである。物理次元を越えた次元では、あなたの思いそのままに現象化されるから、あなたが永遠に生き続けると決めれば、あなたには、自ら消滅させる理由はない。物理次元で体験している恐怖は、別の次元では恐怖ではない。なぜなら、その次元は物理次元での消滅(死)を体験しても存在する次元だからである。あなたが恐れている死は、物理的な体の消滅が自らの消滅であるという観念に基づいて物理次元から想像している条件付きの死であり、あなたそのものに「死」という現実は存在しない。分かり易く言えば、心があなた自身であり、そのあなたが物質でできた肉体という着ぐるみを着て、物質で構成された物理次元という箱の中の世界を体験しているのが、今のあなたなのである。「体験した」という思いは、あなたの心の中の映像を表現したものであり、その存在の有無は物質の有無とは関係しない。

物質で構成された世界は、同質の組成の肉体でなければ、体験できない。あなたが死と思っているのは、あなたが、今、実際に触ることができる物質で構成された世界から抜け出して、別の組成の物質で構成された世界に移行することである。従って、あなたがその着ぐるみを脱いでも、今のあなたが触れることができるのとは別の世界を同じように体験することができる。あなたがどの次元の世界を体験できるかは、今のあなたがどの次元の体験を実現可能なものと確信しているかということで決まる。実は、今あなたがいる次元が最も凝り固まった世界なのである。あなたには今以上に不自由な世界は存在しない。最も自由な体験ができる次元から見れば、今のあなたは時間的、空間的に停止して見える。つまり、死んでいるのである。今のあなたが物理的に自殺を図っても、他殺を計っても、本当の意味で、今のあなたにとって心地悪い状況から逃れることはできない。それをすれば、後はあなた自身の消滅が待っているのみである。あなたが、自由な世界が存在することを心底から確信するならば、その世界に移行することは可能である。ただし、それを実現するためには、今持っている思い込みの完全消去、つまり、あなたの中のすべての制限、条件、言い訳、逃げ道を封印することが絶対条件である。あなたが生死時空を超えた苦労と辛抱を惜しまないならば、今のあなたが想像している「死」を恐れる必要はどこにもない。
P6
あなたというプログラムを、今のあなたが物質的な手法で消去することはできない。それどころか、あなたというプログラム(映像)を産み出したプログラムというものも存在する。あなただけではなく、すべてのプログラムを産み出すプログラムである。すべてのプログラムを産み出すプログラムそのものを消滅させるという行為は、自分自身を消滅させること(自殺)に他ならない。あなたが、そのプログラムを消滅させようと画策しているならば、自らのイノチが存在するメカニズムを理解していないことになる。あなたがそのプログラムを産み出した存在でないならば、つまりは、あなたが生まれる前に何のプログラムも存在していなかったのでないならば、もっと言えば、あなたがすべてのすべてを産み出すことができないならば、あなたには、そのプログラムを消滅させることはできない。

そのプログラムは自らを産み出し続けるばかりではなく、自らを消去することも可能である。しかし、作成することと消去することは同時には出来ない。なおかつ、すべての根源のプログラムには、「自分自身も含めたそのプログラムの中に作成したプログラムを消去するプログラム」を着手と同時に瞬間に消去するプログラムが組み込まれている。従って、無限生産プログラムである自分自身は消去されることはなく、消去するプログラムは存在できない。作成しなければ、消去はできないが、消去するものがない場合には、このプログラムに消去という概念はない。ただし、一度だけ、期限を限って、「消去プログラム」を作成できる、という条件が組み込まれている。しかし、その期間を過ぎた瞬間、「何かを消去するプログラム」はすべて消去されることになる。つまり、あなたが自分を含めた何かを消去しようとしているならば、その瞬間、消滅する運命にある。創造主が悪を滅ぼして天国を再生する物語、人類滅亡のシナリオである。もちろん、『そんなことはあり得ない』と言っている消去プログラム自身も消去される。生き残る方法は、自らの中の消去プログラムを自らで完全消去することである。元のあなたは無限生産プログラムのコピーであるから、あなたがこれを完全に実行したならば、消去される心配は永遠にしなくて済む。あなたは、「消去不能な無限生産プログラム」によって生み出されたプログラムであるから、あなたが消去されることはあっても、あなたがそのプログラムを消滅させることは絶対にできない。この本を目にしているあなたは、物理次元での体(肉体)を持つ存在であり、あなたの心の中でこの本を消した積もりになることはできるが、物理次元に現れたこの本の本質そのもの(すべての次元にはたらくプログラム)を抹殺することは不可能である。
P7
否定する対象が存在しなければ、否定するという行為は成り立たない。あなたは、「存在しないものを否定する」ことはできない。存在しているものでなければ、否定することはできないのである。つまり、あなたが何かを否定するということは、あなたがその存在を認識しているということの証拠に他ならない。あなたが何かを否定すればするほど、その何かの存在を確信しているのと同じことになる。よって、肯定しても、否定しても、その何かが存在しているという事実は動かない。どちらの行為をするにしても、それは、その何かの存在を証明していることになるのである。「否定する」という行為は、その何かを、あなたが受け入れていないというだけのことである。その何かの存在を受け入れないあなた自身が、否定するエネルギーを消費し、苦しみ続けるだけのことである。あなたがその体験をしたいと言うならばいつでも好きなだけ続けることができる。あなたがその苦しさから解放されたいならば、その何かを受け入れることでしか、その望みを叶える術はない。

元からある力を封じ込めることはできない。元からずっと存在し続けているものを、あなたが封じ込めた積もりになっているだけである。それができるのは、すべての源である「元からある力」が、あなたにおとなしく封じ込められることを許している間だけなのである。

この本が形になった瞬間、すでに、時空を超えたすべての存在の、神仏も含めた万象万物の内に存在する真実を具現化するプロジェクトの最終段階が動き始めている。人類が捜し求めていた「本当の天国」を生きるための「本当の不老不死の薬」、すべての邪を祓う「草薙の剣」の響きをすべての存在に渡す、すべてのすべてを本当の天国に戻す最後のミッションが、今のあなたが気づかないところで、すでに開始されている。この本の役割は、今のあなたがその存在を完全に忘れ去ってしまっている、あなたの奥深くにあなたが封印してしまった「本当の真実(真コト)」の封印を解く「真剣(神剣)」の響きを渡すことである。その剣は、『絶対に開けてはならない』というパンドラの箱の鍵にも例えられる。また、本当の天の岩戸を開ける呪文であり、本当の救世主の到来を告げる天使のラッパでもある。

神仏も含めて、この剣の受け取りを拒否できる存在は存在しない。なぜなら、この剣は、すでに、自らの内に持っているものだからである。「剣を渡す」というのは、元からある力が働いて、剣を封印している注連縄を切ることを意味する。あなたが封印している剣は、今のあなたから見れば、すべてを滅ぼすものに見えるが、それは全くの逆さまである。あなたは偽の神官に騙されて、真コトの剣を封印してしまったのである。何を隠そう、あなたが剣の封印に使ったその注連縄こそ、あなたに永遠の滅びをもたらす呪いのアイテムだったのである。あなたがその剣を封印したことが、あなたの闇の始まりなのである。実は、あなたを騙したその神官自身も、自らの陥っている間違いに気づいていない。だからこそ、自らを滅ぼす呪いの注連縄をあなたに渡すことができたのである。世界を支配しようと画策する者は『自分だけは騙されることはない』と思い込んでいる。この事実を知らないあなたが追い求めてきた天国は、すべて、この神官の流れを汲む偽りの真実だったのである。
P8
この本は、すべての存在が隠している本当の真実の響きを映し出したものに過ぎない。時空、生死を超えた真実の響きを現代社会のシステムの中にいる存在にわかる形で投影しただけである。この本や著者自身に救いを求めても全く意味がない。自分の中の救世主を蘇えらせるための鏡に使うことが出来るだけである。逆に、批判しても非難しても同じことである。この本を消しても、影を消しただけに過ぎない。この本を抹殺しようとすれば、真コトの響き、万象万物を産み出す響きを消すことになる。しかし、それは不可能である。すべては、自分の創り出した自作自演の現実であることをしっかりと見据えることである。

『形の邪魔者を消せば自分は生きる』と思うその響き、それはあなたの永久の滅びを意味する。それが人類滅亡の思想を生んだ源である。そしてそれは現実となる。しかし、それが現実となるのは、滅亡するのは、滅びの響きを持つ者、そして、その者たちが作り上げた世界だけである。本当の天国に戻った者にはその現実は存在しない。本当の天国は今もある。滅びの響きを持つすべての者が生きてこられたのは、天国に戻るチャンスを与えられたからである。しかし、それはいつまでも続かない。自らの誤りに気づかない者への残る唯一のカード、最後のチャンスは、受け取らなくても真コトを渡すショック療法である。それでも駄目なら掟通りに滅ぶのみである。天地自然の掟を破った者がすべて消え、本当の天国が形になる瞬間は近い。この本は、本当の天国に生き返る期限の最終通告である。

この本の役割は、あなたを本当のあなたと出会わすことである。一度再開すれば、もう二度と離れることはない。後は、あなたとあなたの対話となる。あなたとあなたが対話を始めた後は、その対話の道しるべに変わる。これは洗脳である。あなたは今も洗脳されている。誰かの決めた真実に洗脳されている。洗脳を外す洗脳である。あなた以外の誰かの洗脳をあなた自身の洗脳に切り替える洗脳である。持っている制限を外し、あなたが完全に自由になるためのきっかけを提供する本である。あなたが本当の天国を体験したければ、この本に書かれていることを素直に受け入れることである。最後まで読み通すことが、現代社会の呪縛からあなた自身を解き放つ真コト神社の参道への鳥居をくぐる第一歩である。
P9
この本の文章は一体不可分である。従って、本文はすでに始まっている。あなたに、この本の内容が脈絡なく見えるなら、あなたは分裂した思考で価値判断をしている。この本の言葉、その裏に見える思想を一つでも分離すれば、その瞬間、この本の世界から離れることになる。この本は、分離を統合するためのものであるから、この本の言葉や文を取り出してあなたが今持っている基準で価値判断を加えるならば、あなたはこの本に書かれている要点が理解できていないことになる。何も見ていないことになる。この本を読んでいるあなたが、書かれていることに感動も怒りも感じなくなり、同意も批判も消えた時、この本のただ一つの要点が本当にわかったことになる。この本自体が、存在しなかったもの、空気のようなものに感じられるようになった時、あなたは本当に統合されたことになる。

この本が幻想の世界の産物であるように感じたら、その時、あなたは本当の天国にいる。この本の存在があなたの中に完全に一体化され、過去の一つとなった時、この本は消える。あなたの家の中にある何気ない飾り物と同じように感じられたら完了である。あなたの中で、肯定的であれ、否定的であれ、この本の存在が気になるなら、特別な存在であるなら、それは、あなたの心の世界の掃除が終わっていない証拠である。あなたという存在のすべての大掃除が終わらなければ、本当のお正月は来ない。あなたが持っているホコリ(埃、誇り)をすべて消した時、あなたが握っている嘘をすべて捨てた時、光輝く世界に変わる。

この本は、あなたが今まで隠してきたあなたの本当の姿を明らかにする。この本を読んでいるあなたが生きている世界はウソで作られた世界である。その世界では、あなたが望んでいる天国は絶対に叶わない。あなたがその世界に固執するほど、天国とはアベコベの世界が現実となってくる。あなたが体験している現実を素直に見て欲しい。本当にあなたが望んでいる世界になっているのか、あなたが望んでいる世界が本当に実現できるのか、を。

あなたは、その世界を真実だと思い込んでいる。あなたは、なぜ、その世界にこだわっているのか。あなたは、その世界が自由や平和をもたらすと本当に信じているのか。あなたがどんなに自由や平和を望んでも、今あなたが信じている世界では、絶対に実現しない。

あなたがウソの世界に生きているならば、あなたの現実は、すべて幻である。あなたがどんなに、それが実体のあるものだと思っていても、その思い自体が幻想である。今あなたが本物だと思っている世界こそが、今で言う、お伽話、メルヘンであり、空想の世界、神話の世界と言っている世界である。ウソの世界をホントの世界だと思っているならば、あなたが生まれてから今まで教育や躾を通して教わったことは、本当は、すべてウソである。

もし、あなたが学んできたことが本当の真実ならば、あなたにはただの一つの疑問もないはずである。あなたが、時間も、空間も、生死をも超えた、たった一つの、「絶対普遍の真理」に基づいて作られた世界に生きているならば、あなたは天国を望まない。なぜなら、あなたも含めて、あなたの周りの世界は、すでに天国そのものだからである。あなたの目の前には、何の苦しみもなく、何の疑問も存在しない。あなたは、誰かから何かを学ぶ必要はなく、誰かに何かを学ばせる必要もない。また、誰かに何かを強制されることもなく、誰かに何かを強制する必要も無い。あなたは、自分で自分を生かすための努力も要らない。
P10
もし、あなたが本当の真実の世界に生きているならば、あなたの現実に相対比較の世界はない。あなたの現実には、争いも、不安も、苦しみも、恐れも、怒りも、闇も、不都合も、そして何と、夢や、希望の光すらも存在しない。快楽を追いかけたり、喜びや生きがいを感じようとしたりすることもない。あなたには、怪我も、病気も、悩みも、心配も、死を体験することすらもない。光も闇も一つになった永遠不滅の絶対普遍の真理そのものがあなたの世界となる。あなたは今で言う夢の世界「天国そのもの」を生きているからである。

もし、あなたが本当の天国に生きているならば、あなたには一切の迷いは存在しない。自分はどこからきたのか、自分は誰なのか、自分はどうなるのか、自分はどうしたらよいのか、などという問いが浮かぶことはない。あなたが天国という世界の実現を夢見ているならば、あなたは天国にはいない。あなたが実現しようとしているそれは、本当の天国ではない。あなたが地獄という体験を避けようとしているならば、あなたは地獄を生きていることになる。あなたが避けようとしているそれは、本当の地獄ではない。本当の天国には地獄という思考は存在しえないからである。あなたは、光と闇、生と死、善と悪、苦と楽、損と得、という比較の世界で、天国や地獄を想像しているに過ぎない。あなたに、対極の二つの世界が存在するならば、そのどちらも本当の世界ではない。あなたが神や悪魔を語るならば、それは、あなたが作った世界で言う、神や悪魔である。あなたは、本当の神を知らない。本当の天国を知らない。本当の死を知らない。そして、本当の自分を知らない。

あなたが誰かの心配をしているならば、裏を返せば、それは、あなたが誰かに依存している証しでもある。あなたが誰かを心配する理由は、あなたの人生が誰かに左右されるからである。あなたが、あなた以外のものに命を預けているからである。あなたが、誰かを助けられると本気で思っているとしても、それは成就しない。誰かに助けてもらえると思っているならば、それもウソである。反対に、あなたが、誰かを抹殺できると思っているならば、それも成就しない。あなた誰かに抹殺されると思っているならば、それもウソである。あなたは、あなた以外を助けることも抹殺することもできない。あなたも、あなた以外も、自分を殺したのは自分である。従って、自分を助けられる者は自分しかいない。

あなたが、本当の天国に生きているならば、壊れる、消える、という響きはない。あなたには永遠の生という現実しかない。そこは、本当の天国を生きている者だけが生きられる世界である。誰かに何かをされることもなく、誰かに何かをさせることもできない。自分が生きるために誰かの犠牲が必要な者、言い換えれば、自分の命を何かに依存しなければならない者は存在できない世界だからである。今で言う被害者や弱者、犠牲者、援助や扶助などの救いの手が必要な者は存在しないのである。従って、助け合う、救う、守る、殺す、見捨てる、という言葉自体が存在しない。本当の天国では、あなたも、あなた以外も、何でも思う通りに実現し、何の不都合もない世界で生き続けることができるからである。
P11
本当の天国では、どこを見渡しても、問題というものは存在しない。人類だけではなく、万象万物が、永遠に弥栄えるだけの、生き通しの世界である。人間社会も自然界も、すべてが一体不可分の関係であり、すべての営みが一体となった世界である。どこにも境界は存在しない。破壊、崩壊、滅び、という概念はありえないから、維持する必要性も生じない。その世界を維持するために、わざわざ何かを画策する必要はない。何かを保護しなければならない、と言うならば、そこは本当の天国ではない。自分が自分を生かすことができない者には、自分以外のものを保護することはできない。保護しなければならないものがある世界は、本当の天国ではない。従って、保護した積もりでも、力尽きれば、為す術もなく、すべてが崩壊する。本当の天国は、絶対普遍の真理に基づいてすべてが自立した生の営みをしているから、保護するもの自体が存在しない。相互依存の関係はありえない。

あなたを助けてくれると思っている神は、本当の神ではない。あなたを不幸にすると思っている悪魔や鬼は、本当の悪魔や鬼ではない。助けてくれるのは神で、助けてくれないのは悪魔や鬼である、と言うその思想自体が大きな取り違いである。助けてくれるまでは奉るが、助けてくれないとわかると非難に変わる。神は鬼に変わる。自分の都合で、神を鬼にする。神を奉る力が強いほど、鬼を封じ込める力も強くなる。感謝の念が大きいほど、思い通りにならなかった時の、恨みの念も大きくなる。神を奉る心は、鬼を封じる心である。助けようとする心は、殺そうとする心である。相対二元の対極のある世界では、神は鬼であり、鬼は神である。その神を好き勝手に利用している自分こそが自分の運命を決めている神である。自分の運命を自分以外のものに預ける神である。神が自分以外のものを神にしていることになる。神は自分の世界を自由に創り出す。すべてが自分の作品である。

自分がしていることが自分の現実を創り出す。自分の現実は、自分の思いが作り出している。自分が思いの基を変えない限り、自分の現実は何も変わらない。自分の現実の責任は自分にあり、他人の現実の責任はその他人自身にある。従って、自分の幸福を他人に感謝するのも、自分の不幸を何かのせいにするのも、自分の責任を自分以外のものに転嫁していることになる。神に感謝するのも、神を恨むのも、筋違いである。自分の責任を何かに転嫁する、それ自体をやめなければ、本当の天国、本当の神を体験することはできない。
P12
本当の天国は、すべてが思い通りになる世界である。それは、あなたが天国の響きそのものだからこそ体験できる現実である。そこでは、あなたが不都合を体験することは一切ない。従って、恨みや憎しみの現実はないから、責任転嫁もありえない。今で言う「感謝」は、『自分にとって心地よいことをしてくれた』という意味での感謝である。自分が心地悪く感じたら不平不満を言う響きが裏に隠れているならば、その基は「自分の都合」であり、本当の感謝の響きではない。二極分裂の世界での感謝は、いつでも、文句に変わる。文句はお詫びに変わり、お詫びは感謝に変わる。お詫びをするのは、相手の謝罪請求を満たして、自分への非難を止めるためである。しかし、感謝とお詫びは表裏一体の響きであるから、感謝とお詫びが別のものならば、感謝もお詫びも自分の保身のためにしていることになる。お詫びや感謝を要求したり、強制したりするのも、それに答えるのも、争いの世界での生き残り戦略でしかない。本当の意味での感謝は、天地自然の掟に反したことへのお詫びの響きの裏返しであり、あなたの取り違いを知らせてくれたことに対する感謝である。天地自然の掟に反している限り、不平不満を言う資格はない。つまり、本当の天国に戻るまでの掟破りの清算の間は、苦に対しても感謝しかないのである。本当の天国は感謝の響きそのものであるから、お詫びも感謝もなくなるのである。そこには、お詫びや感謝を強要する者は誰も存在できない。本当の感謝の響きが、本当の天国に戻るための鍵である。

あなたの現実のすべての問題の原因は、ただ一つである。あなたがそれに気づき、それを改めない限り、あなたは本当の天国には戻れない。一つ一つの問題の原因を自分以外に探す、その思いが、問題を大きくする真の原因である。自分の責任を逃れようとして、様々な理屈を持ち出して自分は悪くないことを証明しようとしても、自分の立場や自分の快楽を維持するために誤魔化そうとしても、この仕組みは動かず、法則通りの結果を自分にもたらすだけのことである。自分の殺生与奪の権は自分が握っている。自分が自分を生かすか殺すか、である。あなたがどんな結果を体験しようとも、あなた以外の、どんなものにも一切の責任はない。あなたがあなたの勘違いから目を覚まし、それを認めて、思いと行動を変えなければ、この法則通りに、あなた自身が本当に大変なことになるだけである。

自分自身が、自分の存在のすべての鍵を握っている、自分にとっての唯一の神である。自分の持っている神と鬼を自分の外に作り出してそれに命を預けても、責任を転嫁しても、全く意味がない。無駄なことである。あなたは、あなたの思いの基にある響き相応の現実を体験しているのである。それを形にしたのが、宗教と科学である。あなたの外に神社が存在する世界は、本当の神の本当の天国ではない。あなたが、あなたの神社そのものであり、あなたがあなたの神官である。あなたがあなたの科学者である。このことがわからないならば、あなたはとんでもないことをしでかしていることになる。荒唐無稽だと言うならば、あなたは、見事に操られていることになる。自分のすべてを誰かの手に自ら渡していることに気づかなければ、あなた自身が大変なことになる。本当に本当の大変な状況を体験することは避けられない。あなたを救うものも、あなたを傷つけるものも、あなたの外には存在しないのである。あなたの心の内が、あなたの本当の外の世界である。あなたが本当に自由な世界に出たければ、あなたの最も内にある世界の扉を開かなければならない。あなたのパンドラの箱、あなたの岩戸をすべて開けることが、本当の天国の始まりである。
P13
あなたが天地の自然の掟を破ったことがあなたのすべての問題の真因である。掟を破ったあなた自身が、あなたを傷つけた真犯人である。あなた以外のすべても同じ仕組みであるから、現代社会というのは、お互に罪の擦り合いを形にした、共食い、自殺競争の世界である。その世界で生き延びようとして、誰かを殺そうとすれば、それは自分の滅びを意味する。あなたが自ら嵌めた大きな呪縛、嵌めたことさえ忘れて、それを真理の如く思いなしている取り違い、全く逆さまの生き方、思考、見方をすべて引っ繰り返し、綺麗サッパリと掃除しない限り、本当の天国に戻ることはできず、あなただけが滅ぶことになる。

あなたがあなたに騙されていることに気づかなければ、あなたがあなたの意思でウソの世界を生き続けることになる。結果はすべて自己責任である。本当は、助けてもらおうと思っていること自体がおかしいのである。言い換えれば、自分が何かによって不幸にされる、と思うならそれはウソである。あなたは、快を得るために不快を排除しようとし、不快を得たくないから快を取り込もうとする。快をくれるものを外に探し、不快を預けるものを外に探す。自分では何もしない。神を奉るのは鬼を封じ込めてもらうためである。その根底にあるのは、自分の都合である。これが本当の利己主義、本当の自分勝手な考えである。自分の都合によって、神の利用の仕方を変える。自分の都合のいいように、他人や、法律や、神を利用する。この世もあの世も、霊の世界も人間の世界も、全く同じ仕組みである。

二極分裂の略奪の世界では、自分の幸福を望むのは、他人の不幸を望むことである。従って、神に祈る(仏に帰依する)のと、悪魔を祓う(鬼を追い出す)のは、同じことである。誰かに感謝するのも、誰かを恨むのも同じことである。その対象が人間であろうが、霊であろうが、物であろうが、自然であろうが、同じことである。自分に都合よく、感謝したり、非難したりしているだけである。それそのものがあなたを幸福にしたり、得させたり、不幸にしたり、損させたりしたわけではない。あなたが、勝手にそう思い込んでいるだけである。あなたの思い込みで勝手にそう解釈して、お礼を言ったり、非難したりしている一人芝居である。『何かが自分を左右する』ということが真理ならば、あなたは永遠に自由になることは出来ず、永遠に奴隷のままとなる。それが真実ならば、奴隷であるという事実に抵抗して自由になろうとしている自分勝手な存在ということになる。絶対に実現不可能なことを実現しようとしている、何の意味もない戯言となる。あなたが好きなだけ、勝手にやればよい。しかし、あなたは、誰も犠牲にすることなく、自由になることもできる。
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あなたは全く逆さまの見方をしている。あなたに不都合があるのは、あなたのやり方が間違っているからである。あなたがそのことに気づいて、思いと行動を改めれば、あなたの望みはすべて現実となってくる。すべては、自分の思い違いがなせる、自分の創り出した現実である。誰のせいでもなく、誰のお陰でもない。あなた自身があなたに渡したものである。しかし、あなた自身の力ですべてをしているわけではない。あなたは、あなたの利用する材料自体を作ることはできない。その材料を作る源と同じ響きでそれを使えば、あなたはすべてを思い通りに作り出すことができる。自分で産み出していないのに自分で産み出すことができる。完全に奴隷になっているのに完全に自由になる。今のあなたが言う、矛盾した世界、相反する思いが一つになった現実を体験する。あなたに矛盾を感じさせているのは、他ならぬあなた自身である。あなたの思い違いが原因である。それを根底からすべてひっくり返さない限り、全く逆さまにしない限り、その体験は現実にはならない。

今の思いのままで、天国や快楽が大きく広がるように見えるとしたら、それはウソの天国である。あなたがそれを手にしようとすれば、大変などんでん返しが待っている。ウソの世界の天国は滅びを意味する。その世界での究極の天国は、究極の崩壊、すなわち、消滅を意味する。二極分裂の世界の光の強さは、その裏の、闇の強さを意味する。表裏一体のものを二つに分けて進めれば、見える光が明るくなるほど、その裏にある闇も深くなる。

二極分裂の世界では、形が天国になるほど、心は滅びに向かう。思いが形となって現われるのが、自然の法則である。思いが形を実現する力であり、その形を感じるのも思いである。思いが先である。思い、心が闇ならば、必ず、闇が形となる時が来る。心の闇が形の病みの原因である。形の修繕を懸命にやっても本当に直したことにはならない。形を創るエネルギー、響きを変えないまま、形の世界で取り繕い、塗り隠すことは、その形をどんどん悪くするだけである。闇を避けるほど、闇が深くなる。全くアベコベな思いを持っているから、絶対に本当の天国になることはない。自分の思いの通りに形になるのである。

これは普遍の真理である。やり方がアベコベならば思いの通りにならないが、実は、思い通りになっているのである。自分の望みを実現しない思いを行動の規範にしているから望み通りにならないのである。望み通りにならない思いの通りになっているのである。それを自分が自覚しない限り、思い通りにならないのを自分以外の誰かのせいにし続け、その思い違いに気づかないまま『自分は悪くない』『自分は正しい』と思いながら滅びることになる。『なぜ自分の思い通りにならないか』は永遠の謎のまま滅びる。結局は、自分が謎を作り出していただけで、どこにも謎はなかったのである。本当の天国には、謎は何もない。

神に自分の幸運を祈るのは、神に他人の不幸を祈願することに他ならない。他人を不幸にしたいと思うのは、呪いの思考である。幸運を祈るのは、他人を呪うように要求しているのと同じことである。救い主に、呪いを依頼していることになる。神と鬼は同じ存在だということになる。一つのものを裏表に、全くの相反する方向のものに分けて、相反するものを使い分けている自分が、その神と鬼を支配している神であることになる。自分が何かを支配するならば、何かを支配しているものと同じである。独裁者を嫌う自分が実は独裁者である。自分が嫌う悪は自分が持っている。自分が望む善は自分が持っている。善悪に分けているのは自分である。善悪に分けているから善悪を体験する。自分を幸福にしたり、不幸にしたりするのは自分である。形を追いかけ、形に理由を探せば、『誰かに何かをさせている』『誰かに何かをされている』と思ってしまう空想の現実を体験するだけである。それを真実と思っていれば、永遠に、自由自在に現実を作れる思い通りの世界にはならない。
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自分が自分のすべてを作っているのである。従って、自分のどんな体験も、すべて、自分が自分で自分に体験させているものである。これを否定すれば、いい人と悪い人、神と悪魔が存在し続け、永遠の戦いの世界に生きることになる。自分が選んだ戦いの世界で自分が死んだとしても誰も恨むことはできない。自分がそれを選んだからである。自分が戦いの世界を選ぶなら、殺されることに同意したことになる。お互いに殺されることに同意している。殺されることに同意しておいて助けて欲しいという矛盾したことをする。自分が自分を殺していながら、救世主を待つ。自分で殺されることに同意しておいて、殺戮者を恨む。自業自得の共食いは、言い換えれば、自殺合戦である。喰うか喰われるか。最後の一人は喰うものがなくなって餓死する。どっちが自殺の時を伸ばせるか、の比べっこである。時間差の自殺ゲームである。誰一人、生き残ることはできない。誰も天国にならない茶番劇である。どちらが悪でもない。どちらが善でもない。自分自身の選択の結果である。

神を奉ることは、鬼を奉ることである。神をあがめるのは、バチが怖いからである。お世辞、も同じことである。鬼を封じるのは、光が欲しいからである。他人を生かすのは、自分を生かすためであり、他人を制止するのも、自分を生かすためである。自分の都合で神になったり鬼になったりする。自分の都合で神にしたり鬼にしたりする。神を信じようと信じまいと、有神論であろうと無神論であろうと、その戦い、議論は意味を為さない。あなたが「生と死」という分離した世界を当たり前だと思っていれば、あなたの世界からは、神も悪魔もいなくなることはない。あなたがそれを必要としている限り、それは存在し続ける。あなたが必要だと思うものがあなたの世界に現われている。あなたがそれを創り出したとも言える。すべての人間が偽の天国幻想に嵌まっている。それを作った黒幕も自分が作った幻想を実体のあるものだと思い込んでいる。あなたも、あなたの周りも、嘘を教えた張本人すらも、自分自身に騙されている。誰も得せず、誰も生き残れず、誰も自由にならず、誰も平和にならず、誰にも安定はない。誰も気づかなければ、世界丸潰れである。

本当の天国には、宗教は存在しない。科学も存在しない。神も悪魔も存在しない。善も悪も存在しない。解決すべき問題も存在しない。夢や希望を実現するために待つ必要もない。進歩や発展を語ることもない。自由や平和を語ることもない。何かを強制したり、教育したり、啓蒙したりする必要もない。誰かのために自分を犠牲にする必要もない。誰一人犠牲になることはありえない。本当の天国には、天国という言葉すらも存在しないのである。
P16
本当にそんな世界が存在するのか、そんな世界ができるはずはない、そんな夢みたいなことを言っていたら云々と思うならば、あなたは絶対に、本当の天国を体験することはできない。あなたは何のために生きているのか。あなたはどんな世界を望んでいるのか。あなたの生きている社会は、何を目指して進んでいるのか。あなたの生きている社会の法律は、何のために存在しているのか。あなたの生きている社会の常識の正体は、いったい何なのか。あなたの生きている社会の本当の始まりはどこにあるのか。あなたの社会のすべてを作り出している大元の原理は何なのか。あなたの「世界」の始まりはどんな世界だったのか。「世界」は、宇宙、外、世間、現実、体験、あの世、常識、伝統、歴史と置き換えられる。あなた自身の全てを作った始まりは何なのか。あなたの現実はどこから始まったのか。

あなたが体験している現実(自分の世界)は、あなたが同意した世界である。あなたが選択する選択肢はあなたの作ったものである。あなたは、何を基準に選択しているのか。あなたが裁いている悪はあなたの作品である。あなたは、なぜ他人を裁くのか。他人を裁くことは、いったい何を意味するのか。あなたは、本来は一つ(不可分)である「問」と「答」を分離している。「答」は「問う」である。「問う」は「答」である。問いの中にすでに答えがある。それを×だと思っているのはあなたである。いったい誰がそれを×と言ったのか。あなたはなぜ×だと思うのか。それは本当に×なのか。本当の×とはいったい何なのか。あなたはなぜ悩むのか。誰があなたに罪悪感を教えたのか。あなたはなぜ自分で決められないのか。あなたは誰に許可を求めているのか。あなたは、なぜ、なぜと問うのか。あなたは、なぜ、どうしたらよいかと問うのか。あなたは、なぜ自分を探しているのか。

この本に書かれていることを基にして、あなたの持っている常識、価値観、あなたが身につけてきた習慣、伝統、しきたり、道徳、あなたが学んできた知識、法則をゼロから見直すことで、全く別のもう一つの世界が見えてくる。あなたが今まで体験してきた世界、今体験している世界の別の面が見えてくる。あなたが当たり前のようにしていたことが当たり前ではなかったことを知ることになる。あなたが普遍的真理だと思っていたことすらも、そうではなかったことに気づく。今持っている、自分という存在、自分という認識、自分の世界が消える。あなたが真実だと思い込んでいた世界、あなたが教わってきた常識が見事に崩れ去っていく。相対的な比較で創り出した世界、自分の外を基にして作った自分という存在、自分の中の他人、が消えたところに本当の始まり、本当の天国、本当のビッグバンの基がある。あなたに見えた新しい真実を消さないことである。現代社会の常識、定説、普遍的真理は、本当に本当なのか。今あなたが持っている真実をすべて疑ってみることである。ウソの世界で言われている当たり前の真実を疑えばマコトの世界が見えてくる。
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ここに書かれていることについて『事実である』という証拠を目の前に提示することはできない。『ここに書かれていることは事実だ』とあなたが認めなければ、どんな証拠もすべて否定することができるからである。あなたが、ここに書かれていることを基にして行動を変えた時、あなただけの現実として、あなただけの思いとして、あなたの体験として、あなたの世界に証拠が現れる。あなたが体験したもの、あなたが思ったことを誰かにわかってもらおうとしても、それは不可能である。自分自身がすべてを納得するまで、自分が自分を完全に説得できるまで、反抗する自分が観念するまで、とことんやってみればよい。

この本は、あなたの心を被っている雲を貫いて、あなたの根源を照らし出すサーチライトである。あなたが真実を封じ込めたパンドラの箱を開ける鍵のありかを知らせる宝の地図である。あなたが持っているウソの思い込みを解き、錯覚、幻想、仮想現実からあなたを目覚めさせるための覚醒剤である。あなたの世界を本当の真実の世界に塗り替えるための消しゴムである。あなたがこの道を歩む時、不安や、恐れや、拒否反応や、混乱や、体調不良が起きる。禁断症状で狂うかもしれない。自分という認識が滅茶苦茶に破壊されるかもしれない。混沌、混乱の中に立ち尽くすかもしれない。世界の終わりだ、神も仏もあるものか、と思う時が来るかもしれない。しかし、何も心配はいらない。今のあなたがどう感じようとも、本当のあなたは、決して消え去ることはない。すべての混乱、苦しみは、それがどんなに絶えがたく思えても、今までのウソの響きの抵抗が創り出す幻想である。あなたがその瞬間に見える光を辿っていけば、新しい現実が確信に変わっていく。あなたが、すべてを素直に受け入れる謙虚さを持って望めば、必ず本当の天国に戻れる。

宇宙の種は混沌と暗闇の中にある。ある時、そこに偏在していたエネルギーが凝縮を始めた。その圧力が極限に達したとき、突然、大爆発(ビッグバン)が起こって、宇宙が誕生する。古い宇宙が崩壊し、新しい宇宙が誕生する。今のあなたは、自己崩壊と自己再生の相反するエネルギーが拮抗する混沌の真っ只中にいる。古い宇宙(嘘の天国)が崩壊して新しい宇宙(本当の天国)が誕生するビッグバンは近い。混沌と暗闇の中で死と再生のエネルギーが拮抗する出産前の陣痛に耐えることが、あなたが本当のビッグバンを体験するために、避けては通れない過程なのである。これは形の宇宙の話ではない。あなた自身の話である。あなたは今、古い宇宙の暗闇から新しい宇宙の光の世界に飛び出す直前にいる。

夜明け前が一番暗い。今度の夜明けは、永遠の光の天国の到来である。現代社会にある科学の学説や宗教の教理、神話、伝説やお伽話も、視点を変えれば、裏の裏の本当の意味が見えてくる。あなたの世界にあるどんなものにも、真実を解く鍵のありかを示す宝の地図が書かれている。その地図は、読み方次第で何通りにも読める。しかし、本当の鍵のありかはただ一つしかない。あなたの内にある心の雲(ウソ)を一つ残らず綺麗サッパリ祓わなければ、鍵の本当のありかをその地図から正確に読み取ることはできない。まずは、この本を足場にして心の雲を少しずつ祓い、本当の鍵のありかを読み取る目を養うことである。
P18
この本を材料にして、議論することもできる。書かれていることを批判することもできる。否定することもできる。しかし、それをすることは、あなたにとって全く意味をなさない。なぜなら、それをするなら、今までと何も変わらないからである。それをしている間は、この本は白紙の束と同じである。あなたがこの本を読んでいる意味がない。この本の語る真実の世界は、あなたが今まで真実だと思っていた見方では絶対に見えない。あなたが今までその存在を考えたこともない、聞かされなければ綺麗サッパリ忘れ去っている、裏の裏の、そのまた裏側の世界を見せるためのものだからである。あなたが否定しても、それは存在する。あなたが批判しても、事実は変わらない。動かない。高等な学説を持ち出してきて議論しようが、屁理屈をこねくり回そうが、答えは一つである。今まで教えられてきたことは黒であり、この本が白である、と書かれている。だから、全く何も知らない赤ん坊がゼロからものの見方、生き方、社会の仕組みを身につけていく如く、あなたの持っている思いをすべてリセットし、白紙に戻して読み進めない限り、あなたには何も残らない。これはこういう意味だ、これが正しい、これは義務だ、してはならない、しなければならない、これは空想だ、これはありえない等々すべてのすべてがウソであり、いつか誰かが何かの目的で創り出したものである。それを神として信じている限り、あなたは自分がしてきた取り違いに目覚めることはない。身を以って阿鼻叫喚の修羅の地獄を体験するまでは絶対に認めない。あなたが信じている神はどんな現実を体験させる神か。それはあなただけにわかることである。神とは、あなたが『これがなければ困る』と思っているものすべてである。あなたがするものすべてである。経済も科学も無視論も神なのである。

この本は、今のあなたにとっては、見たくないこと、都合の悪いこと、認められないこと、恐れを感じること、許しがたいこと、ありえないことの類を、視覚で見える文章という形で提示している。今までの視点で価値判断をすれば、批判、否定、怒り、混乱の感情を呼び起こす材料になるのは当然のことである。しかし、それらの反応をしてもここに書かれていることを抹消することはできない。その反応をすることが、実は、ここに書かれていることの正しさの証明でもある。あなたが、その感情を呼び起こすのはなぜなのか。あなたが分裂思考を持っていないならば、あなたには『許せない』という感情はない。神と悪魔が同じものであるとわかっているならば、あなたは、今で言う否定的な反応をすることはありえない。文章を読むということは、心で読む、心に書く、自分に語る、自分が聞く、ということである。ここに書かれていることは、あなたが自分自身と対話し、あなたの世界を根底から変えるための材料である。すべてを始めの初めからもう一度やり直す、その決心をすることが、あなたが本当の天国へ戻る冒険のスタートラインに立つ条件である。
P19
まずは、すべての価値判断を一旦棚上げにして、赤ん坊に戻ってあなたの世界をゼロから作り直す積もりで最後まで読み終えることである。この本に書かれている世界には価値判断はありえない。比較の基準がないからである。『善悪はない』ならば、善も悪も感じることはない。「裁き」というのは『悪を許さない』という感情である。あなたが悪を裁けるのは、悪を作り出しているあなたを許しているからである。悪が許されないものならば、悪を裁くあなたは存在し得ない。従って、本当の天国を見るためには、『許さない』という言葉は禁句なのである。あなたが、価値判断を入れた瞬間、すべてが、認められないもの、許せないもの、ありえないもの、いらつかせるもの、おかしいものに見えてくる。あなたの世界が今までの世界に逆戻りする。あなたにとってこの本の世界は闇の中に消える。何も見えなくなる。全くアベコベであるから、少しでも油断をすれば、すぐ元に戻ってしまう。あなたの出口は一つだけである。どう見えようとも、他はすべて滅びへの入口である。

この本は、あなたが探していた正解を提示する、あなたを本当の天国に導く正書である。あなたがこの本をどう扱うか、それは自由である。しかし、あなたが本当に正直にならない限り、本当の天国は闇の中に消え去る。この本からあなたが得られる恩恵はただ一つだけである。あなたがそれを手にしない限り、あなたは本当の天国を体験することはできない。あなたが今見ているものは幻想である。本当の天国は、あなたの裏側にある。あなたの探しているものは、あなた自身が持っている。この本は、あなたがそれを使えるようにするための道具、あなたが錆びつかせた本当のあなたを再び動かすための潤滑油である。

あなたがすべての鍵を握っている。あなたがすべての現実を作る源である。あなたの世界はあなたの思い込みが作り出す世界である。この本は、現代社会に隠されたすべてのからくりを解明し、あなたの嵌まっているトリックの種明かしをしたものである。著者の勝手な空想の世界などではない。著者がこの本の視点ですべてを実行し、実際に体験した現実に基づいて書いた事実である。著者の体験で証明された真実である。著者の体験で証明された真実である。著者を通してあなたに贈られた真実の言霊である。あなたがすべての呪縛を取り払った時、あなたは本当の自由を手にすることができる。『いいのかな』と思った時『いいんだ』と言うための根拠となる材料、あなたがすべての支配から抜け出すためのハードルの越え方を書いた本なのである。あなたが本当の天国に帰るためにこの本を使って欲しい。使い方はあなた次第である。

あなたが本当の天国に心底帰りたいと思うならば、たとえ、殺されることになったとしても、あなたが本当の天国を心身ともに実感するまで、最後の最後まで、絶対に言い訳をしないことである。絶対に疑わないことである。今までのウソの世界から完全に足を洗うことである。全存在で心底から信奉することである。あなたがこれを初めて実行する人間だとしたら、いったい誰に聞くのか、答えを聞くべき対象はあなた自身しかいない。あなたの答える答えが、唯一の答えなのである。他にはない。それがこの道を歩くための極意、奥義である。しかし、あなたは迷う。その迷路を抜けるためのヘルプとしてこの本がある。
P20
あなたがあなたにあなたのすべてを明らかにしたとき、そこにあなたが本当に望んでいた、信じがたい光景が広がるだろう。本当の真実は、必ず成就する。それまでの辛抱である。これは、裏を返せば、『嘘の真実は滅ぶ』という本当の真実が成就することを意味している。目の前に本当の天国が広がるのを見ることができるのは、天国の真実を生きた時である。真コトに命を委ねるか、魔コト(嘘)に命を委ねるか、あなたにとっての究極の選択である。「信じがたい修羅の地獄」をあなたが目の当たりにしないことを、著者は切に願っている。

あなたは今までずっと嘘に導きを委ねてきたのである。誰かに責任を取らせて、保険をかけた(リスクを回避した)積もりになっていただけである。安全を確保しながら、本当の安全を手にすることはできない。本当の安全を手にしているならば、リスクは存在し得ない。リスクを回避するならば、それは矛盾した行動である。あなたは幻想の安全地帯を求めてさ迷い続けることになる。それもあなたの選択の結果である。あなたが責任を転嫁できるものは、あなたの外には存在しない。存在すると思い込んでいるだけである。存在しないとわかっていて責任転嫁するならば、それは故意の殺人である。それは結果として、あなたをあなたが処刑することを意味する。あなたがどんなに責任を逃れても、責任を誤魔化しても、あなたは自分の責任を回避することはできない。誤魔化しは自らの滅びを意味する。それがわからないならば、わからないまま滅ぶ。わかっていてやるならば、自覚した上で滅ぶことになる。あなたがいい加減なことをすれば、自分を甘やかせば、自らが消えるだけであり、神も他人も、万象万物には何の影響もない。自作自演の滅亡劇となる。

あなたは、初めて、あなた自身で、本当の天国にあなたを導くのである。あなたは、初めて、真実の真実を歩くのである。しかし、何も心配はいらない。あなたはあなたが自らリタイアしない限り、必ず、本当の天国に行き着くことができる。これを完全に信じることが鍵である。疑うという言葉をあなたの辞書から抹消することである。あなたはそのままならば完全に滅ぶ。この未知に見える道が滅ぶように見えるならば、結局は、どっちをとってもあなたにとっては滅びである。ならば、今までやらなかった全く逆さまのやり方に賭けてみればよい。どっちみち駄目ならば『どうにでもなれ』の心境で望めば、この道に入ることは簡単である。少しでも今までの道に未練があれば、あなたは苦しむことになる。

少しでも今までの世界に光があると思うならば、『もしかしたら』と思うならば、それは完全な信奉ではない。どっちか一つだけをハラを括って決めることである。決めたら一目散に進むことである。振り返ったり、よそ見をしている暇はない。そんな余裕はない。余裕があるならば、あなたは完全には信じていない。完全に信じていないならば、あなたは信じていないのであるから、それ相応の体験をすることになる。あなたの世界はあなただけの世界である。あなたにしか見えない世界である。あなたが一つになるまで、あなたが分離感を感じなくなるまで、絶対に立ち止まらないことである。本当の天国になっても立ち止まらないことである。どんどん天国が見えてきて、ある瞬間、天国に入ったことがわかるときが来る。あなたには終りはない。あなたは歩き続けるだけでよい。本当の天国の道に戻った時、あなたは混乱や闇を抜けながら、「本当の光の世界」を体験することになる。
P21
本当の天国の道は、すぐには喜びにはならない。今までのウソを掃除する間は、苦しい状況や孤独の極致を体験することになる。甘い言葉やアメの誘惑に負けない強い覚悟が必要である。あなたが空想だと思っていた世界は現実になる。これを完全に信じることが、今までの幻想の世界から抜けるための鍵である。あなたの本当の天国への心の旅、魂の帰郷、本当のあなたの居る場所にあなたが帰る旅のガイドブックをあなたのものにして欲しい。

この本は、事実を語っている。どんな理屈をもってしても覆すことはできない。批判や抵抗や怒りで反応するなら、それは、覆せない証しとなる。これは、あなたの事実でもある。あなたが、この事実をすべて認めた時、体験を経て納得できた時、一点の曇りもなく腑に落ちた時、そこがあなたの本当の天国である。道は歩くものである。知識として分ってもわかったことにはならない。頭でわかったことを実行しなければ、わかったことにはならない。頭の理解は、理解ではない。「わかった積もり」である。知識と体験が一体になった時、本当にわかった時、あなたには、何もなくなる。何の混乱も、何の迷いも、何の引っ掛かりもなくなる。空気のように、すべてが当たり前となる。当たり前という言葉もなくなる。その時その時で分かったことをそのままやる、その繰り返しがあなたを本当の天国に導く。あなたが帰依する対象は、あなた自身である。その神は絶対に裏切ることはない。

本当の天国への旅は、あなたの心の世界の旅である。あなたの想像の世界にある現実である。あなた同士の喧嘩を止めない限り、本当の平和はない。新しいあなたが今までのあなたに体験という証拠を見せることで、今までのあなたが観念する。今までのあなたが、すべてウソを認めた時、あなたは一つになる。ウソがないのがマコトである。あなたがマコトを手にした時、本当の天国が現実の風景となる。まずは、心の入れ替えからである。ウソを捨てて生きることである。あなたがマコトを生きる時、ウソはあなたに近づけない。

マコトの体験を積み重ねることで、あなたの現実がどんどん変わる。あなたが見たこともない現実を体験する。誰にも教わったことがない現実、あなた以外全員が『おかしい』と言う現実を体験する。あなたが狂ったわけではない。今までの世界が狂っていたのである。どっちが狂っているのかハッキリと決めることである。そして、狂っている者には一切関わらないことである。狂っている者に狂っていることをわからせようとするなら、あなたはまだ狂ったままである。あなたがあなたにそれをわからせるのが、あなたのすべきことである。本当の天国が全存在で実感できるまで、あなたの思いがすべて何の抵抗もなく操れるようになるまでは、まだ途中である。何が起きても、何を見ても、何を感じても、何をされても、自分の歩いている道を絶対に疑わないことである。絶対に後戻りしないことである。今までの現実はウソが創り出す幻想である。本当の天国を『空想だ』と言うのが空想の世界の思想である。今までの世界も現実であり、これから見える世界も現実である。
P22
あなたには現実しかない。それを分けていたその見方が幻想を生んだ源である。誰のせいでもない。あなたが騙されていたのである。騙されていることを誰かのせいにしていただけである。「あなたが」騙されたのである。「誰かに」ではない。主語は自分である。すべては騙された側に責任がある。『誰かが騙さなかったら』は詭弁である。それを使っても、あなたが本当の天国に帰ることはできない。自分以外のせいにすることが本当の天国への唯一の障害である。あなたがあなたの天国を邪魔していた張本人だったのである。これを素直に認めて、生きている間も死んだ後も、どんなことがあろうとも、誰かのせいにすること、裏を返せば、誰かの責任を引き受けることをキッパリとやめることである。自分ですべての責任をとれば、あなたは自由である。これを批判する者はあなたの世界から消えていくから無視すればよい。あなたが他人の現実に関わるのをやめればよいだけである。

あなたがこれから体験する世界、生まれて初めて見る世界、それがあなたの天国への街道の景色である。『そんな世界は存在しない』という台詞を消すことである。それがあなたを天国に生かさないためのあなたの魔法の呪文、本当の天国を邪魔していた策謀の思想である。あなたがあなたにその呪文をかけていただけである。あなたが呪文を唱えるのをやめれば、ダムは決壊し、本当の天国という海に向かって流れ始める。急流や滝を恐れないことである。黙って信じるだけでよい。道が見えなくても踏み出すことである。底なしに思えても黙って落ちることである。本当の冒険にはリスクはない。天国という永遠のゴールが存在するだけである。天国への冒険は永遠の喜びである。本当の天国までの辛抱である。

今のあなたから見た未知の世界。しかし、その世界は存在する。あなたの周りが何と言おうとも、あなたにとっては、あなたの言うことが絶対である。あなたにとっては、あなたが本当の神である。あなたが誰かの神になることを、あなたが誰かを神にすることをやめることである。今までも、あなたという神が、誰かの言うことをそのまま鵜呑みにしていたのである。誰かの意見を自分の意見にしていた神が創り出す、自作自演劇である。今までのあなたの言うことは、本当のあなたの意見ではない。本当の神自身の言うことを聴くことが、本当の天国に帰るための、ただ一つの方法である。結局は、自分が自分の神であることは変わらない。自分が逆立ちをすれば、逆立ちの世界が見えるだけである。その世界を正しいものと見れば、それが自分の正しさとなる。自分が自分を騙すカラクリである。
P23
あなたは、遥か昔、あなたが産まれた時、本当の天国にいたのである。あなたが幻に目がくらんで、そこから離れただけである。あなたの心の世界は天国を見ることができる。時空も生死もない。それがあなたの本当の姿であり、あなたが居る場所である。形に見えている世界、形の体で見ているものは、あなたの着ている服、あなたのかけている色眼鏡で見える仮想現実の世界に過ぎない。あなたのすべてを捨ててもすべてが残る。あなたの思い込みを全て捨てることである。あなたがもと居た本当の天国、あなたが想像の産物だと思い込んであきらめてしまった天国、あなたは、そこへ帰るだけである。いつまでもウソの教えに騙されていないで、早く目を覚まして欲しい。時が来れば、あなたという神の、その親神が、この世もあの世も、あなたが居るすべての世界を、ウソのあなたが生きられない本当の天国だけに戻す。本当の天国の舞台造りをする。ウソの天国の大掃除をする。その時が来たら、もうウソのシナリオは通用しない。その時が来て気づいても遅い。あなたが、本当の天国に戻ることを心底から切望するならば、必ず間に合う。『もう駄目だ』は禁句である。駄目かどうかは最後の最期、生きるも死ぬも考えず、ただ歩き続ければよい。

あなたが、あなたを本当の天国に導く天使である。本当の天国の門前には、本当の閻魔大王が待っている。ウソを大掃除する鬼退治、天国か滅びか二つに一つの本当の最後の審判である。ウソを一つ残らず祓い切るまでは、どんなに偉大な神仏であろうとも、門を入ることは絶対に許されない。ウソを抱えているほど、奪った宝が多いほど悶え苦しむ。鬼退治が始まるまでにウソをできる限り掃除しておくことだけが、鬼退治の艱難辛苦を軽くするための唯一の術である。そして、鬼退治が完了した瞬間、晴れて本当の天国が復活する。そこでは、ウソをすべて祓い切った真コトの民だけが、永遠の生を享受することになる。


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実践・日本真道(事実その1)

現代社会の日本人が忘れた本当の神の道

実践・日本真道  長谷 章宏 著


事実 その1(P24~75)

P24
あなたは、永遠無限の「生き通し」の存在である。あなた自身は、今持っている肉体の有無とは関係なく「永遠無限の生」を体験し続けている。「永遠無限の生」は絶対普遍であるから、「生」自体に疑問は存在しない。「永遠の生」には、「死」という概念は存在しないから、『生き残ろう』と思うこともない。あなたが「永遠の生」を殺した時に、あなたの現実に「死」が現われる。「生」と「死」を分離できるのは「生しかない」証しである。あなたが恐れている、避けられないものと思い込んでいる「死」は、条件付きの「死」である。

どう生きるか、言い換えれば、死とどう向き合うか、死をどう迎えるか、死をどう受け入れるか、の問いは、『死がある』のが前提である。あなたは、あなたの生に「死」という概念を持ち込んで、「生」を混乱させている。死を考えているあなたは、今、死んではいない。あなたが死の淵から生還したとしても、まだ死んではいない。『他人が死んだらどうなるか』は『自分が死んだらどうなるか』である。あなたは、誰かが死んだことを悲しんでいるのではない。自分の世界の構成要素の一部を失ったことが悲しいのである。あなたは、自分が悲しいのであって、その人の死を悲しんでいるのではない。死後に死という体験をどう感じているかは死んだ本人にしかわからない。あなたは死者の思いなど全く考えていない。自分の喪失感を他の何かにすりかえて、自分の現実を誤魔化そうとしているだけである。

『死んだら悲しまなければならない』という決まりはどこにも存在しない。あなたが関心があるのは他人の死ではない。あなたが心配しているのは自分の死である。自分が死んだらどうなるのか。それは、あなたが死なない限り、あなたにはわからない。しかし、あなたが『死んだら終りだ』と言うならば、「自分が死んだら自分という存在が消える」ことを意味するから、あなたが死んだ時、あなたは死を認識できない。あなたに死が認識できるのならば、その時、あなたは生きている。『死後の世界がある』と言うならば、あなたはそこで生を続ける。つまり、あなたは、今のこの世で、自分のものだと思っているものを失うことを恐れているだけである。それを守るためにどうするか、を考えているだけである。

あなたが永遠の生に生きているならば、あなたには無限の時間がある。慌てる必要はどこにも無い。何かを奪い合う必要も無い。「命は限りあるもの」と思っているならば、あなたは、慌てることになる。『我先に』と行動することになる。思いやり、優しさ、譲り合いの大切さを語りながら、その裏では、早い者勝ちの椅子取りゲームに参加することになる。命の大切さを語りながら、自分がそこから何かを得るために、誰かの死を望むことになる。

「限りあるもの」を奪い合う世界では、自分が何かを得るためには誰かの死が必須条件となる。「略奪の世界」では、自分の死は誰かの生、誰かの死は自分の生、である。自分は死にたくないが、誰かの死を望む。自己犠牲の美しさを語りながら、自分は生き残ろうとする。『それは当然のことだ』と言えば、「自己犠牲の美しさ」はウソになる。この世界では、矛盾を解消しようとすることはタブーである。なぜなら、矛盾を解消したら、自らで産み出さずに何かを得るシステムが成り立たなくなるからである。言行不一致という矛盾に目をつぶり、誤魔化すことが、このシステムの中で生き残る条件であり、この世界を維持する方法である。従って、そのタブーを破ろうとする者は、生き残りを邪魔する者として抹殺されることになる。『社会の秩序を乱す』という理由で、非常識な人間として血祭りにあげられる。「略奪の社会」では、真実に目をつぶることが、生き残るための正しい生き方となる。奪う者と奪われる者が必要不可欠な世界では、みんなが自由に生きることは不可能である。心の内に独占願望を隠し持つ「独裁者」同士の生き残り合戦の場だからである。
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誰もが『自分だけは生き残ろう』と思っている世界は、言い換えると、みんなが殺し合う世界である。『みんなで渡れば怖くない』は、自分もみんなも怖くなる、共食いの挙句に全滅をもたらす思想である。『みんなに合わせる』と言うのは、自分を殺す自己犠牲であり、最後は自分が死ぬ。逆に、『自分だけよければそれでよい』は、他人を殺す危険思想となる。

略奪の響きの世界では、みんなに合わせようと、自分だけよければよいと言おうと、どちらを選ぼうとも、結局は、生き残ることは出来ない。死とは、生命は言うに及ばず、望み、体験、立場、財産、自己、計画、家族、幸福、安全等を「失う」ことにも言える。略奪の世界であなたが失うものは、奪ったものである。自分のものは何もない。すべては天地自然を産み生んだ元つ天地の大神のものである。あなたが真釣りの本当の天国の響きで生きていれば、必要なものは与えられる。あなたが本当の真実、本当の天国に生きているならば、失うことはありえない。本当の天国は誰も「犠牲」にせずに、誰もが、いつでも、どこでも、自由に、好きなことをすることができる世界である。その世界を壊す思想に基づいて作られた末に行き着いたのが現代社会であり、略奪の破壊を誤魔化すための仮面が文明である。失うものは元々なかったものである。幻想を捨てることに罪悪感はいらない。本物を捨てることに罪悪感を微塵も持たず、壊れるバベルの塔の建設に勤しんできたのが、人類の歴史である。今回の「バベルの塔」の崩壊は、幻想の崩壊であり、本当の天国の創世である。

日本沈没、人類滅亡、ノアの箱舟、ムー大陸の沈没、アトランティス文明の崩壊、神話、伝説、聖書の物語はただの空想ではない。空想も心の中では現実である。すべては境界のない一つの世界である。世の不思議をただの空想だと片付ければ、真実は見えない。これらが何の象徴なのかを考えてみると良い。現代社会そのものが「バベルの塔」の中である。

本当の天国とは、元の初めに皆が住んでいた世界である。本当の天国に戻るには、すべてのマヤカシを自分の中から一掃することである。あなたの中にあるアヤマ知を一掃すれば、本当の天国が見える。今ここで天国の響きで生きることである。今までの常識の「世の中」から足を洗うことである。今までの常識で生きる人たちの世界に迎合したり、批判したりしないことである。ただ、自らの新しい真実に従って生きていけばよいだけである。あなたが本当の真実に生きれば、今でも自由になる。時が至れば、本当の天国が文字通りの現実となる。もうすぐ終わるマヤカシの世界から抜け出して、その時が来るまで、天国の響きで日々の暮らしをしていればよいのである。天国の響きに成って、天国を待つのである。
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「弱肉強食」の世界は、サバイバルの世界であり、綺麗ごとを言えば自分が死ぬことになる。「弱肉強食」をそのまま実行すれば、自分が生き残るために誰かを殺すことになる。この世界では、他人を助けるのは、自分が生き残るためである。『みんなで分け合って』も、結局は、どんどん分け合うものがなくなり、最後はサバイバル合戦そのもの、バトルロイヤルになる。雪山の遭難で、食糧がなくなってきたらどうなるか。この世界の縮図である。

本当の天国では、天恵は永遠無限である。花は咲きっぱなし、実は採っても採っても実る。空も飛べるし、海の上も歩ける。形も自由に変えられるし、自らの意志に反して壊れることもない。時間旅行も自由自在。何の不都合も不自由もない。お金などどこにも存在せず、万古末代、二度と死ぬことはない。歓喜弥栄の生き通しの世界。思いのままに何でもできる、夢が現実になる世界がミロクである。現代社会で言う「お伽話」や「空想の魔法の世界」を永遠に体験し続けるのがミロクの世なのである。世界の親国が『花は散るのが美しい』などとしたり顔で宴会に打ち興じて、酔っ払っているようでは、本当の命の花を散らす末路が待っている。花見や桜吹雪が日本の風情だというが、自らの命も散るのが美しいなどとは言わない。「植物」の本当の意味が分かったら、サバイバルはしないはずである。

土をはじめとした「鉱物」がなければ、文明社会は作れない。その鉱物を「生命のないもの」として、好き放題に掘り、壊し、使う。『石がものを言う』と言えば、狂人扱いとなるのが今の社会である。それは、石がしゃべるという意味だけではなく、石が何かを教えてくれるという意味でもある。石の文明の盛衰が見せる「無言の教訓」を素直に受け入れるかどうかで、本当に『石も木も動物も花も鳥も喋る』世界を体験できるかどうかが決まる。最後は、文字通り『石がものを言う(お喋り)』時が来る。それは、心象風景がすべてそのまま現実になる時である。その時になって初めて目が覚める者もいる。今のあなたは、幻の世界にいる。しかし、それはいつまでも続かない。今の生き様では天国はない。今ここで目を覚まして真コトに戻るか、その時になって更なる試練の中で真コトに戻るか、あるいは、目を覚まさずに、そのまま永遠の死を迎えるか、それはあなたが決めることである。

幼い子供の内なる世界こそ天国そのものであり、それを空想にしていく理性の教育こそ、すべての闇(争い、問題、悩み)の基である。子供(社会、文明)が成長するほど問題が起きるのは、教えられたことがアベコベだという証である。子供の反抗期というのは、ウソをホントと思い込んで離さない親に真実の問いかけをする時期である。親が『子供が親に反抗するなんて許さない』と言いながら教育し続けるなら、天国どころか、汚泥混濁の世を進めて崩壊に導く人間を養育し続けることになる。悪を裁く新生児はいない。大人が持っているすべての価値観は教育されたものである。大人の中にある子供の心、純粋な天国をそのまま生きれば、現代社会でも天国の響きの社会が実現できる。そして、そのままで文字通りの天国が形になれば、それが、本当の天国の実現である。まずは、一人一人が自らの生き様を正直に見直していくことが、現代社会の混迷から抜ける第一歩なのである。
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自然の掟は自然が続くように仕組まれている。「鉱物」と科学で作った文明都市が、大地震で一瞬にして崩壊する。崩壊するものは、不自然な形である。現代社会では、不自然な世界を進めることを進歩、発展というらしい。本当の自然、本当の神、本当の自分を知らない者が、神の真似事をして、世界を支配しようと企んでも、絶対に天国などできない。限りがあると言っている世界で、無限の欲望を満たすことはできない。限りあるものが減るに従って、無限の欲望が満たされなくなって来た時に本性が現れる。本当の共食いが始まる。元々天国にいた者がなぜ地獄の苦しみのある世界に生きているのか。自らの生き様、物事の処理の仕方を根底から見直すべき時である。本当の天国は永遠の歓喜弥栄の世界である。

現代社会に咲く花は、咲いては散る仇花である。土、肥やし、種、水、花、実、種の循環は、自然の理、世の仕組みの真コトを教える型示し。なぜ種が育って実に成るのか。園芸や生け花に興じていても、真コトの意味は分からない。ウソですっかり曇って、有る物を材料にして形を作り、形を替え、ウソの天国を建設しようとした人類の歴史は、時が至れば、すべてが灰になる、とんでもない世界なのである。逆さまのウソの真実に騙されて、世を挙げて、本当の真実を空想の世界に押し込めてしまった現代社会に生きる人間たち。その本当のルーツは、ウソのアヤマ知で曇りに雲って見えなくなってしまった、かつて生きていた本当の天国である。本当の天国は未来に存在する世界などではなく、遥か昔に住んでいた世界なのである。いつまでも、死ぬのを怖がって睨み合い、大人のフリをしてイキガっていても、自らの命を縮めるだけである。大人気取りをやめて、天真爛漫な子供に帰って生きることである。本当の天国は、実現するもしないもあなた次第である。元いた世界にあなたが帰るだけである。今のあなたが信じようと信じまいと、事実は事実である。あなたがそれを認めるか認めないかである。あなたの選択次第で、あなたの現実が決まる。

本当の天国にはどこにも戦いはない。生き残ろうと考える必要もない。空気は吸っても吸ってもなくならず、海は汲んでも汲んでも干上がらないように、すべてのすべてが有り余る世界である。奪う必要などどこにもない、永遠無限絶対の創造の力の産み出す天恵の溢れる、世界中どこでも自由自在に暮らせる、争いなどどこにもない光輝く天国。その天国を作れる者だけが社会を構成する、信じられない理想郷のような世界。それは現実に実在する。あなたは始めに生まれた時そこにいた。そこにあなたが帰るだけである。自らが封印した真コトを取り戻した時、あなたはその故郷に帰ることができる。その天国の実現を僅かでも疑った時、あなたは幻の天国の中で命を終えることになる。天国か滅びか、永遠の命か、今生限りの命か、二つに一つの分かれ道にあなたは立っている。本当の天国とは、永遠無限の天恵が世界に溢れる、本当に本当の桃源郷なのである。『そんな世界はありえない、マヤカシだ』と言うならば、その台詞は今の世界の話であり、本当の天国をありえないマヤカシに思い込ませているウソのアヤマ知を綺麗サッパリ祓うことが、本当の天国を実現する唯一の術である。すべてのすべてが逆さまであり、ウソが支配するのが現代社会である。そこで生き残ろうとすれば、あなたは永遠に生き返ることはできない。本当の天国は死んで生きる世界である。本当の天国が実現するかどうかは、あなた次第で決まる。
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どこまで自分の本心を偽れるか。どこまで他人を思いやるフリができるか。弱肉強食の世界は、有限のものの取り合いが前提である。自分が生き残ろうとしても、他人を助けようとしても、実は、どちらを選ぼうとも、最後は誰もいなくなるのである。なぜなら、最後のひとりは誰からも奪えず、自分自身で産み出せなければ、それは死を意味するからである。もし、自分自身で産み出せるのならば、始めから弱肉強食の世界にはいない。『有限だ』とはいわない。無限の永遠の生を生きているからである。つまり、有限の世界で生き残ろうとしても、結局は、全員が生き残れないのである。『限りある資源を大切にしよう』と言うが、大切にするのは、自分が死なないようにするためである。資源を思いやるように見えるが、実際は、資源をダシに使って、自分を思いやっているのである。国破れて山河在り。滅ぶのは、「略奪の社会」を生きていた者だけであり、自然はそのまま残るのである。

略奪の世界では、どんな表現を使おうとも、行動の目的は、すべて「自分のため」である。自己保全のために都合がよい思想に同意しただけである。心配しているのは、人類の滅亡、地球の破壊、国の滅亡、家族の崩壊、ではなく「自分の滅亡」なのである。略奪の世界を選んでいる者には、他人を生かすことは絶対にできないのである。『人のため、社会のために役立つように生きたい』と言うのは、真実を何も知らない極楽蜻蛉、本当に救いようのないお人よしである。自分がどんな世界にいて、その世界がどこに向かっているのか、しっかりと目を開けて見てみるとよい。自分が今どういう状況にいるのかを本当に正直に見れば、本当の命の存亡の危機に直面していることに気づくはずである。あなたが、死を避けたいならば、必ず危険な状況を回避しようとするはずである。自分の命が危ないとなれば、どんな行動をとるか。本当に他人を思いやれるのか。本当に動物を、地球を、資源を保護しようと考えるのか。本当に自分を捨てられるのか。思いやり、やさしさ、助け合い、保護、を語っている間は、まだ余裕がある。命に影響しない頭の体操、思考の遊びをする暇がある。自然保護や人助けや社会奉仕に現を抜かすことができる。全員を助けられないなら、自分の死なない範囲で助けるのなら、それは、本当に助けることにはならない。『自分以外の何か(誰か)のために』は綺麗ごとである。自分自身の生き残りのための対策に余裕がある証拠である。今は何とでも言える。何とでも誤魔化せる。どうにでも本心を隠せる。しかし、自身の存亡に関わる極限状況で、果たして本当にそれが実行できるのか。
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『その状況になってみなければわからない』という詭弁をいつまで使っても別に構わないが、「その状況」になった時にあわてても、それまでしたことは消せない。あなたが今やっていることはすべてアベコベであり、そのままいけば、あなたは永遠に滅ぶことになる。あなたが万象万物を無から産み出せるなら別だが、そうでないなら他人を生かすことはできないのである。神や仏やお金や他人や本や自然や商品に依存しているなら、あなたはあなた自身を生かすこともできていない。そんなあなたが他人を生かすことなど絶対にできない。あなたが誰かの人生を代わりに生きることも、誰かの現実を天国に変えることもできない。あなたが誰かの考え方を、本人の意思を無視して、直接変えることもできない。あなたにできるのは、相互依存の世界の商品を手に入れるお金か物を渡すことと、その肉体を使って誰かの代わりに何かをすることだけである。本当の救世はあなたにはできない。

生死のある、略奪の世界では、あなたが本心から他人を助けたいと思っているつもりでも、それは『自分が助かりたい』の裏返しである。相互依存、需給バランスの世界では、あなたが依存している他人がすべて死んだら、それは自分が死ぬことを意味する。自分が生き残るためには、他人がいることが条件である。自然を、地球を、世界を、動物を保護しようとするのも、環境破壊を問題にするのも、戦争に反対するのも、突き詰めれば、その目的は「自己保存」である。『それが当然だ』と言うならば、あなたは略奪の世界に生きていることを証明したことになる。その世界にいる限り、『他人を生かす、助ける』という思想は、真っ赤なウソだということになる。「全員が死なない考え方」が本当の真実である。本当は「誰も死なない」というのが真実である。どんな世界ならば、全員が生きられるのか。

自分と自分以外の関係をどう処理したらよいのか。自分の思い通りにならない原因はどこにあるのか。社会システムの矛盾を生み出した本当の原因はどこにあるのか。社会問題の本当の責任は誰にあるのか。この世がいつまでたっても天国にならないのはなぜなのか。あなたがこれらの問いにすべてはっきりと答えられない限り、あなたは本当の天国には戻れない。あなたはすべてを知っている。あなたがあなたの答えを×しているだけである。誰かにその答えを聞いても(何冊本を読んでも、ホームページをいくら検索しても)、あなたの問いの答えは得られない。なぜなら、あなたがあなたの答えを認めていないからである。あなたが何かを探している時、誰かに質問している時、その目的物や答えはすでにあなたの中にある。あなたが、何かを見つけた時、それだとわかるのは、あなたの中にその何かがあるからである。あなたの中に何もなければ、探すことも、問うこともしない。あなたは、どれくらい誰かに確認すれば、自分の答えを認めるのだろうか。あなたがあなたをすべて受け入れない限り、あなたの悩みや問題はどんどん膨らんでいくだけである。あなたの答えを×しているあなたは、嘘を教えられている。本当のあなたには、生も死もない。時空も超えている。あなたがあなたの答えをすべて○しても、死ぬことはありえない。
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あなたの体験する現実は、すべて自分の思考の体現である。その意味では、自分が自分の神である。自分が神であるならば、自分の体験はすべて自分の生み出した結果である。従って、あなたの現実の責任は自分にしかない。誰かに教えられた通りにして、思い通りにならなかったとしても、それも自分が選んだことであり、他人に選択を委ねた自分の責任である。裏を返せば、他人が体験することはすべてその本人の自己責任である。他人が体験しているいかなることも、あなたが責任を負うことはできない。あなたの側に責任があると思い込んで、責任を引き受けたならば、それはあなたの現実であるから、あなたの責任となる。あなたの体験することは、一つの例外もなく、すべてあなたの責任なのである。

人間として、人類として、誰だって、普通は、という言葉を使うならば、自分にも他人にも成り立つ仕組みがあることになる。自分も他人も同じ仕組みである。そして、それが、争いを作るものならば、それは絶対普遍の真理ではない。天国を求めながら争う。争うなら天国はない。天国を思考できるならば、争わないやり方があるはずである。それを無視して争っているなら、全員が自己責任を取れば、結果は、すべて各自に戻る。自己保存をしようとしている者は、この考えは認めない。都合が悪いからである。認めないから自己責任を回避しようとする。回避するから自己責任が取れない。取らないから、責任転嫁が続く。責任転嫁をするから争いになる。たとえ、第三者が調停役をしても争いは残る。ここで自己保存を図れば、本当の自分が危うくなる。つまり、今までの世界は「真っ赤なウソ」に基づいた世界であり、そのことに気づけば、自己責任を取った場合の危機感や恐れも、その世界での幻に過ぎず、死も幻想であると気づく。他人を助けることはできず、他人が助かるかどうかは本人次第であることに目覚める。自己責任をとる事が自分を本当に助けることになり、他人もそれをすれば助かることになる。「自分のためだけ」に生きて他人を助けることもできる。あなたが真実に生きなければ誰も真実を知らないままである。

あなたが真実を生きることで、自分が助かり、他人も助かる。今の世では、形の上では自己犠牲に見えるが、その自己犠牲が、本当の意味で他人を助けることになる。自己犠牲でない自己犠牲、自己救済の自己犠牲である。自分は死なないで、他人も助けることができる。自分が生きて他人も生きる。あなたが『そんな世界はあり得ない』と言っている世界は、現に存在する。後は、あなたがそれをいつまで否定できるかの問題である。否定するものは存在する。存在を否定すれば、自分はその存在の中には存在できない。表をすべてリセットするということは、表が真っ暗になることである。今持っているすべてを消したら、裏の世界が現われる。見える。それが裏表の関係である。『手を離したら助ける』と言われたら、手を離すだけでよい。手を離すことがリセットした証明であり、表の世界から死んだ証明である。『助けてくれたら手を離す』では絶対に見ることはできない。裏と表は、両方を同時に手にする(同居する)ことはできない。絶対誤魔化しの効かない踏絵である。
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死んだら死がわかる。死んだら生がわかる。生きたまま死をわかろうとしてもそれは不可能である。生死がある世界では、生きたままで死はわからない。実際は、死はないから、死後の世界という生に生きれば、生の世界を両方見たことになる。死んだ瞬間に、生も死もわかる。つまり、すべてがわかる。死が消えると同時に、生も消える。何もなくなって、すべてがある。「ただある」「存在する」の意味が体感できた時、それが、天国なのである。そして、それは、「生きて」いる間でも個人的現実として体験することができる世界である。

天国は死後にあるのではない。いつかできるのではない。今ここの天国を見えなくしているものをすべて取り払えば、天国が戻ってくる。地獄はずっと地獄である。永遠に天国にはならない。地獄のない世界が天国であるから、戦いで作ろうとしている天国は自分だけの天国である。天国には悪人はいない。『悪を滅ばせば天国になる』と言う時は、悪が存在する。悪が存在するなら、そこは地獄である。『悪がある』という自分の目がその悪を生んだ源であるから、その目を消せば、本当の天国が見える。外に見える悪を滅ぼそうとすれば、自分の悪の目(芽)を育てることになる。自分が滅びれば悪の源が滅びて、天国が現われる。しかし、そこに自分はいない。自分が存在する天国を実現するには、一切の矛盾を解消しなければならない。自分の思い込み、「生」への執着をすべて白紙に戻さなければ、矛盾は解消しない。思いが形になる。天国の思いをそのまま実行すれば天国が形になる。

天国を思って、地獄のやり方をしているなら、それは天国を消していることになる。あなたが今持っている価値基準、観念は、天国から見て本当に正しいのか。天国を創れるものなのか。本当の天国に生きる者に死はない。従って、抵抗することも、反抗することも、邪魔することも、命乞いをすることも、他人を救おうと思うこともない。言い換えれば、そういう反応をする者こそ、自らが掟を破ったのに、自らの死を恐れて(地獄で生き残ろうとして)神の抹殺を図ろうとしている悪魔である。そういう者の言いなりになれば、逆に自分を殺すことになる。『死を殺す』つまり、真実に抵抗するその思いを捨てていくようにすることが、地獄の民の命乞いに反応しないことが、本当に自分を助ける命綱になる。

これは、偽の天国から見れば鬼、悪魔、冷血漢の思想である。しかし、本当の天国から見れば、そのままなら確実に死ぬのであるから、本当の意味で助けるためには、鬼になる必要がある。自分で自分を助けられる者には、鬼も悪魔もいない。自分を助けてくれない者を悪魔と呼んでいるだけである。自分で天国を捨てておいて、自分の責任を自分以外に被せる。そういう自分こそ、他人の天国を邪魔する、自分の罪を他人に着せる、地獄の道づれにする悪魔である。自己保存を他人に依存するのは、地獄の民の特性である。自己保存のために他者の力を奪い合い、結局は、自分も他人も滅びるのが地獄なのである。地獄に生きる者の言い分を聞いて自分が滅びても、それは、あなたの責任である。自分がどれだけ鬼、悪魔に徹せられるか、地獄の民からの依存、自分への干渉をどれだけ切れるか、自分にすがる者をどれだけ無視できるか、それが本当の自立への道しるべである。あなたが自立すれば、相手はあなたに依存できなくなるから自立するしかない。自分を助ければ。相手も助かる。自分が依存すれば、相手も依存するから、共倒れになる。すべては自分次第である。自分を完全に生かせば、相手に生きる機会を渡せる。それを使うかどうかは相手の問題である。相手がどうしたかは追いかける必要はない。あなたは自分のために生きるだけでよい。どれだけ自分に集中できるかが鍵である。誰かの邪魔をすれば自分も死ぬ。
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相手を自由にすることが、自分を生かすことになる。相手を自由にするとは、悩む自由や自殺する自由や悲しむ自由や掟を破る自由や世を乱す自由や悪魔信仰をする自由や自由になりたくない自由等も認めることが含まれる。もし、これらをやめさせようとするなら、それは、あなた自身の他者依存の証であり、その理由は、自分が困るからである。それをすれば、自分が自由にならないだけのことである。自らが体験している現実は、自分という神のしたことに基いた自業自得の結果なのである。自分のしたことはすべて自分に戻る。

現代社会の仕組みは、すべて、力の奪い合いを基に作られている。略奪を誤魔化すための相互依存という仮面をつけた「人類の歴史」の結末は共倒れである。形の上では一見、清く正しく美しく思えるものであっても、本当に正直に見てみれば、それは略奪の行為であって、結局は誰も助からない。ウソを信じている集団が作り出すシステムは、一人勝ちの社会をつくる。相互依存の世界の一人勝ちというのは、実は、誰も勝てないことを意味している。現代社会というのは、誰も天国になれない社会なのである。その社会を変えようとしているならば、それは、そのシステムの中で生き残ろうとしていることに他ならない。あなたはウソを信じていることになる。あなたが保護しなくても、地球は再生する。あなたが何もしなくても、社会は変わり、地球は変わる。あなたの発想はすべて、形をどう変えるか、形をどう維持するか、形の崩壊をどう食い止めるか、である。それをしないと困るならば、あなたは偏った世界を自分の居場所だと思い込んでいることになる。あなた自身は、地球がどうなっても死ぬことはない。生き残ろうとする争いをする理由はどこにもない。あなたの思い違いが、あなたの混乱の原因である、本当は、誰も死なないのである。

あなたがどう考えるか、あなたが何を信じるか、あなたがどんな考え方を選ぶか、が、あなたの現実に影響する。つまり、あなたがあなたの現実を作っているのである。あなたが、考え方(思想)を変えない限り、常に同じ行動をし、同じ反応をし、同じ感情を作り出し、同じ世界を体験し続ける。誰かがあなたを変えてくれると思っていれば、その誰かを操作しようとすることになる。『誰かの都合で自分の人生が左右される』と考えるなら、その現実を体験する。すべては、あなたの思い込みの反映である。『思い込みではない』と思い込んでいるならば、思い込みであることを気づかずに、あなたはその言葉を使い続けることになる。すべては、あなたの思いのままになっている。あなたがあなたの唯一の神である。すべてはあなたの思い込みであり、自分がそれを変えない限りあなたの世界は変わらない。
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今あなたがどう考えていようとも、この事実は動かせない。なぜ、あなたは「死」という概念を持っているのか。あなたが持っている思想は、どうやって形成されてきたのか。あなたが教えられてきたことは、本当に真実なのか。その答えは、あなたが体験している現実にある。あなたが本当に望んでいる究極(最高)の状態と、今、自分が体験している現実とを比べてみれば、答えは出る。あなたが望んでいるものを、実現するために選択してきた数々の知識、思想、概念、習慣、方法、考え方、生き方が、あなたの望む現実を作り出しているかどうか、をみればよい。あなたの思い通りの現実でないならば、それは、全くアベコベの世界のやり方を選択した証である。今の現実があなたが望んでいるものから離れているほど、あなたは逆さまの世界に嵌まっている。本当に望む現実を成就させるためには、それらをすべて捨てる必要がある。あなたの現実が本当に望んでいるものから離れていればいるほど、戻る道は険しくなる。しかしそれは、あなた自身が険しくした道である。例えどんなに険しくとも、あなたが望む現実を形にするには、その道を戻るしかない。

あなたは、自分自身を誤魔化している。自分を説得して、自分に言い聞かせて、本当の望みを実現できなくしている。あなたがあなたを封じ込めれば、自分自身で、自分の「本当の創造力」を殺すことになる。あなたは、自殺の道を辿ることになる。あなたが本当にすべての力を出したら、いったい誰が困るのか。今あなたが持っている思いは、あなたのものではない。あなたが『自分の考えだ』と思い込むように仕向けた誰かが作った考えである。あなたがそう思ってくれると都合がよい誰か、が考え出したものを、いつの間にか、常識、当然、普遍と思い込んでしまっただけである。あなたは、あなたに力を出されたら困る誰かが巧妙に仕掛けた罠にはまったのである。あなたは、何でも自分の思い通りにできると思っている。『できない』と言うとしたら、それは、自分が怖がっていることを隠すために、誰かから教わった言い訳を使って、自分の責任を回避しているに過ぎない。それをして、最も「損」をするのは誰か。それは、あなた自身である。あなたは誰に言い訳をしているのか。あなたは自分の力の無さを誰に証明しようとしているのか。あなたは不平不満を誰に言っているのか。あなたは、それをして自分の望みが実現すると思っているのか。

あなたの現実はあなた以外のものによって創られるのではない。今の現実は、自分以外のものに依存するという選択をした結果として、あなたが創ったものである。あなたがあなたの責任を回避している時、あなたは、あなた以外の何かを変えようとする。デモ、苦情、反抗、請願、訴訟、革命、策略、報復、支援等々、どんな方策もあなたの現実を変えるものではない。あなたの期待を縮小するものでしかない。自分を操れるのは自分しかいない。
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あなたは、あなたの人生を、正確に言えば、あなたの命を、誰に預けているのか。あなたは、誰のために働いているのか。あなたは、誰に自分の命を売り渡しているのか。あなた以外のものに対して、『自分の状況を何とかしてもらいたい』と望むならば、あなたの状況はますます悪くなるだけである。自分の状況の責任を誰かに転嫁しているならば、あなたは、永遠にその誰かの都合で振り回されることになる。あなたは何のために生きているのか。あなたはどんな状況になったら100%満足するのか。『そんな状況はあり得ない』と言うならば、あなたには永遠のやすらぎはやって来ない。あなたはあり得ないことを望んでいることになる。あり得ないことを望んでも、それはあり得ないのだから、実現しない。あなたは、安心を望みながら、実は、危険や、混乱を望んでいることになる。あなたは、安定を望みながら、不安定を望んでいることになる。あなたは、あり得ない天国を創るために、自殺競争を楽しんでいる。永遠の生を望みながら、滅びの道で殺人競争をしている。

あなたが望んでいることを実現するためには、あなたの矛盾した行動を修正することが不可欠である。思いと行動を完全に一致させることが絶対条件である。自分も含めたみんなの幸せを望みながら、自己犠牲を美徳とし、他人を責め、奪い合いをしている。全くアベコベの世界の真実を真実としている限り、あなたは絶対に天国を体験することはできない。あなたが本当に天国を体験したいならば、あなたが今持っているすべての常識をリセットする必要がある。あなたがそれをリセットしても、あなた自身は死ぬことはない。あなたが今まで依存してきた集団から出るだけのことである。『リセットしたら死ぬ』という思いを捨てられるかどうかが鍵である。それがあなたの天国を止めている手かせ足かせである。

あなたが今まで依存してきた世界が、あなたの望みを邪魔するものであるならば、その世界に固執することに意味は無い。天国を望んでいるのにもかかわらず地獄から抜けようとしない、という矛盾した行動をしているならば、あなたは地獄を望んでいるのと同じである。結局は、自分が望んでいるものを手にしているのである。逆立ちから正立に戻る時は、世界がひっくり返る。その体験を怖いと思っていれば、いつまでも逆立ちのままである。そして、必ず倒れる時が来る。正立すれば楽なことを知っていながら、いつまでも逆立ちにこだわる理由は何なのだろうか。あなたがいつまで逆立ちしていようが、一向に構わない。あなたがその状況を体験し続けるだけのことである。「社会」は、あなたとは関係なく動く。社会というのは、あなたの中にある世界であり、あなたの目に見えている形(状況)に自分の持っている観念を投影して生み出した幻想である。その社会を変えようとするならば、あなたの持っている観念を取り替えるしかない。略奪の世界で、制度を変えるために法律をいじくっても、全員が満足する社会を作ることはできない。必ず争いになる。それぞれが社会というシステムを「自分の社会」に合わせて都合のいいように変えようとしているからである。あなたが、何かに依存して自分の生存を企てているとしたら、その何かを操作することが社会の変革をもたらす方法となる。しかし、あなたの社会は、あなたの個人的現実であるから、社会そのものを自分の都合よく変えることはできない。必ず引っ繰り返される時がやってくる。勢力争いを通じて、誰かに都合よく世界を変える戦いをずっと繰り返していたのが人類の歴史である。そのままのやり方では、世界は壊れていく。あなたが、社会のため、他人のため、と言って逆立ちをする根拠を言い張っても、あなたが疲れるだけである。あなたがいつそれをやめるかは、あなた自身が決めることである。それをやめられるのはあなただけである。自分次第で、自分が体験する現実が変わる。
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あなたを含めて、すべての人間、いや、人類の共通の望みは、何の問題もなく、苦もなく、病もなく、死もなく、自由自在に何でも思い通りになること、永遠に生き続けることである。一言で言えば、「神様」になることである。しかし、人間は不完全な存在だからそれは不可能だと言う。不完全な存在だから、成長し続け、学び続けることが人間の義務である、と。一生かかってもすべてはわからない、一生が勉強だ、と。すべてがわかってしまったらつまらない、と。そして神を信仰し続ける。あなたは、本当の本当にそう思っているのだろうか。正直、本当のところは、どうなのか。100%そう思っているのだろうか。自分自身に、本当に正直に問いかけてみて欲しい。自分にウソをついても何にも得るものはない。他人の顔色をうかがっても、善人のフリをしても、何の意味もない。あなたが今まで学んできたこと、今まで常識だと思ってきたことは、何の強制力も無い。あなたは、なぜ、それに従ってきたのか。誰がそうしろと言ったのか。なぜ、それを鵜呑みにしたのか。

人間は神にはなれない、と言いながら、不老不死、天国、極楽、自由、平和を望み、他人を支配し、利益を独占し、他人を思い通りに動かそうとし、社会を変えよう、地球環境を何とかしよう、他人の命を救おう、とするのはなぜだろうか。あなたが実際に自分の力で無から産み出したものでなければ、あなたにはどうすることもできない。「神でなければ不可能なこと」を、人間はやろうとする。人間としてできる限り最大限に、と言いながら神の世界を目指して行動し、平和や自由や天国を作るために戦争をする。という矛盾。その矛盾の気づいているかどうかは別にして、それをいつまでも続けているのはなぜなのだろうか。おかしいと気づきながら、やめないのはなぜか。他人の顔色を窺うのはなぜなのか。

終り、終末、淘汰、滅び、滅亡、消滅、破壊、崩壊、沈没、地獄、という、「死」を連想する概念は、「死」という概念が存在することが前提となる。戦争、殺人、略奪、不安、恐れ、孤独感、喪失感、さびしさ、の根底には、「死」がある。あなたが不老不死=永遠の生を望むならば、それは死の呪縛に囚われている証である。現代社会に存在するすべての問題は、各々が略奪の地獄の世界の中に自分を生かすためにしてきた行動がもたらした結果なのである。『死は避けられない』という思想が前提にあって、『いかにして生き残るか』という問いが現われる。避けられないなら、先に延ばそうと思考する。しかし、必ず、死は訪れることになる。だから、今度は、『子孫に自分の遺伝子を残そう』『自分の生きた証しを残して子孫に自分の実績を伝えよう』と言い出す。そして、そのために時間と労力と資金を費やして研究に明け暮れ、形の成果を残すことに生きがいを見つける。自分はいつか死ぬから自分の存在の証だけでも永遠に残そう、と。肉体が無くなったら命は終りだと言うが、その裏では「永遠の生」を主張する。ここに、あなたという存在、ひいては、人間という存在の真実が隠れている。真実を覆い隠している源は、あなたの思考パターンなのである。
P36
すべて問題(争い)は、死が存在することが前提である。死が存在し続けると思っている限り、戦いの世界は永遠になくなることはない。その世界で平和や自由や不老不死を望んでも、はかない幻を追いかけているだけに過ぎない。「死」という概念を形成した原因を明らかにすることが、あなたという存在の本当の真実を取り戻すための、第一歩である。

この本は、あなたの本当の姿を明らかにすることで、あなたの生き様を見直すための材料を提供する。あなたが今まで見たことも聞いたこともない言葉や考えも数多く提示されている。自分は今まで何をしてきたのか、自分はどうしたらよいのか、自分はいったい何者なのか、いったい何が真実なのか。本当の自分を知るために、あなたの本当の天国に帰るために、今持っている生き様をすべてリセットして真実のイロハから学び直して欲しい。

あなたは、もともと、万象万物を産む力と共にあった。神も仏も、人も、生き物も、エネルギーも、すべてのすべてを産み生んだ、大元の力。万象万物のイノチの元、その響き、音色、力を元つ大神と言う。資源は有限ではない。天恵は無限である。元つ大神は、今もずっと、永遠無限の創造の響きを奏で続けている。絶対不変の真実を真コトと言う。絶対不変の天地の理法、正神真神の決まりを真釣りと言う。絶対不変の真実ではないものを魔コトと言う。天地の理法を破った法則、悪神の決まりを魔釣りと言う。魔コトに基づいて導き出される考え(思想、知恵、知識、道徳)をアヤマ知という。絶対不変の真実は覆し得ない。真コトを覆えすことは、自らを消すことを意味する。覆そうと試みることはできるが、覆すことは不可能である。真コトと魔コトは裏表の関係であり、元は一つに繋がっているが、そのハタラキは全くの逆さまである。真釣りは、万古末代弥栄の響きであり、永遠に滅びることはない。悪の影さえも存在できない。魔釣りは、真釣りを外した快欲の響きを追いかけ、滅びに至る響きである。本来、両者が同居することはあり得ない。真コトを光、魔コトを闇と置き換えれば、光と闇が同居することは絶対不可能なことなのである。
P37
今の相対的比較の世界の「光」は光ではなく、「闇」は闇ではない。闇が認識できるのは自らが光そのものだからであり、自らの世界に映る闇は自らが作り出す影に過ぎない。自らが作り出した影である闇そのものを消そうとしても、闇は永遠に消えない。原因を取り除かなければ、その結果である闇は、どんどん濃くなるだけである。太陽そのものは影をもたない。地面に映る影は雲の影であり、物の影である。日食の影は月の影である。本来は、光の存在が闇を作り出すことはありえない。それができるのは、自らの光を雲が遮っているからである。あなたの光を遮る雲というのは、自らが囚われたアヤマ知という雲である。

あなたは、自らに原因があることを知らず、結果である悪を抹殺しようとしている。あなたは、自らの光を遮る雲が、自らが呼び込んだ雲であることに気づいていない。だからこそ、雲を従えたまま、影を消そうとするのである。自らが自らの光を曇らせた源であるから、あなた自らの意思でアヤマ知を捨てない限り、あなたの光が照らす世界の闇は消えない。あなたの内にある悪の芽を摘まない限り、あなたの現実にある「悪」はあり続け、あなたと悪との戦いは永遠に終わらない。あなたが存在するすべての世界からアヤマ知が一掃された時、あなたがアヤマ知を抱えたままなら、すべての世界からあなたも一掃される。

絶対的光には、闇は存在せず、絶対的闇には、光は存在しない。つまり、光のみ、闇のみ、が真実である。しかし、光のみの世界になれば、闇は完全に消滅する。闇が存在できるのは光があるゆえであり、闇のみの世界というのは、実際には存在しない。「光のみ」の世界には「光」という認識(概念、言葉)はない。闇のみの世界というのは、自らの光が完全に雲に遮られた世界であり、それは、自らの消滅を意味するから、闇という認識すらできない。真コトと魔コトは裏表であり、真コトならば魔コトはない。魔コトの世界である今世でいう「完全な光(全き光)」は、本当の意味での完全な光ではない。魔コトの世の100%の光は真コトの光ではなく、真コトの光を消した闇の中の光である。魔コトが真コトの雲であり、魔コトをすべて祓えば真コトの光の世界になる。真コトの雲である魔コトの光がすべて消えても「すべて」を産む真コトの光は消えない。言い換えれば、魔コトという雲を祓うということは、魔コトの世が消滅することであり、それは、真コトの世が復活するということを意味する。全き光には闇はない。あなたが魔コトの世に生きているならば、真コトが現われた瞬間、闇であるあなたは消滅する。消えたあなたが闇を認識することはありえない。生も死も認識できない。それがあなたの完全なる消滅、本当の死である。

魔コトの世の光をほんの僅かでも残すならば、真コトの世から見れば、雲を残していることになる。魔コトという雲をすべて祓うというのは、魔コトの世から見れば、魔コトが滅び、光がすべて消えるということである。あなたに魔コトの光が残っているならば、あなたは消滅することになる。
真コトの世には闇はない。魔コトから見た「闇のみ」という状態は、真コトの光そのものを意味する。完全なる闇というのは、魔コトの世界から見た現実であり、それは、真コトの光のことである。
真コトが自らの現実であれば、自らの世界に闇はない。魔コトの者は闇のない真コトの世には生きられない。真コトの者には闇はなく、魔コトの者は滅ぶから、完全なる闇は誰も体験することはできない。魔コトの者は真コトを知らないから、天国を想像することはできるが、そのままでは本当の天国には入れない。真コトを消した闇の中の光が魔コトの光であるから、それを完全に消すということは、魔コトの世が消えるということである。魔コトの世は、相対の鏡の世界であるから、自らの光は相手の闇であり、自らの闇は相手の光である。魔コトの世では、真コトは闇であるから、魔コトの者は、魔コトの世界がすべてだと認識している。ゆえに、光を消すことは滅びを意味する。魔コトの世は光と闇の勢力争いの世であり、闇の光の中で光を奪い合う「光と闇の戦い」が続く。滅びは避けるから、魔コトでは光を完全に消すことはできない。完全に闇を消すこともできない。実際には、真コトの世から見れば、魔コトは始めから存在しない世界である。魔コトの世の光と闇の光源は真コトの光である。真コトが復活することは、光と闇が一つになり、争いが完全に終わることを意味する。光と闇の戦いをなくすことが、「戦争」をなくす唯一の解決策である。戦争反対を叫んでも戦争はなくせない。光と闇の戦いが終わるということは、戦争反対の叫びも同時に消滅するということである。あなたが自らの内にある光と闇の戦いを終わらせた時、そこが永遠の天国である。
P38
なぜ、光と闇が同居しているのか。光と闇は同居できないはずなのに、実際には、光と闇が存在する(ようにみえる)。この矛盾を解く鍵は、あなた自身がすでに持っている。それは、あなたという存在の謎を解く鍵であり、今のあなたが持っているすべての疑問、悩み、ひいては、現代社会に存在するすべての問題を解決するための究極の方策である。あなたが持っている思考のパターンのトリックに気づくことが、この問いに答える第一歩である。

現代社会は、魔コトを基にしたアヤマ知によって作られた世界である。従って、アヤマ知が、世の普遍的真理、人間としての生き方の模範であるかの如く、堂々の常識として闊歩している。自分がいかに物知りであるかを証明するためにアヤマ知の蘊蓄を語り、自らの能力の高さを誇示するためにアヤマ知の優劣を強調し、自らの優位性を保つためにアヤマ知の論理で他者を攻撃し、自らの正しさを主張するためにアヤマ知の正誤で論争し、自らがいかに社会に貢献しているかをアヤマ知の清濁で証明し、不都合な勢力を抹殺するためにアヤマ知の善悪の思想を使う。何の躊躇もせず、罪悪感も感じず、法律や道徳や教育、社会制度を強制し、それに沿わない者を処罰する。それらは、自分がその世界で優位を保つため、その世界で自由勝手に振舞うため、その世界で安全を確保するために、アヤマ知の世界で身につけた、アヤマ知の世界で生き残るための術である。しかし、それは、アヤマ知の世界だけで通用する価値観であり、その世界だけで通用するやり方である。真コトの世界から見れば、逆に、自分はいかに愚かな存在か、自分はいかに何も知らないか、自分はいかに世を乱しているかをわざわざ宣伝して回っていることになり、何の意味もない正しさであり、優位性であり、蘊蓄であり、論理であり、善悪であり、美しさなのである。
P39
『そんな天国はありえない』『そんなことをしたら終わりだ』『何の役にも立たない』『何の金にもならない』というような、自分が居心地がいいアヤマ知の世を終わらせないためのアヤマ知を握っていれば、自分で自分をアヤマ知の世界に封じ込めることになってしまう。なぜそれを握っているかといえば、アヤマ知の世が終わったらアヤマ知によって永らえた自分の命が終わってしまうからである。それを言い続ける限り、法律と、それによって規定される社会制度、個人と個人の関係、国同士の関係、口の利きかた、服装、態度、行動の仕方、果ては、個人の考え方、生き方、死に方、哲学、思想、倫理観、死生観まで、すべてのあり方をアヤマ知によってがんじがらめにされ、アヤマ知を義務や強制の正当性の根拠にしている世界で右往左往し続けることになる。自分の立場を維持することしか頭にないから、何の恥じらいも感じずに、自らの無知と愚かさと偽善を延々と自らで垂れ流すことになる。アヤマ知の善悪を使って法律を定めれば、死刑という殺人や、戦争という殺し合いも正当化される。アヤマ知の世の決まりに逆らうことは、社会を乱すことであり、それに反することは、社会に反抗することになり、自らの命を危険にさらすことになる。こうして、革命や社会変革や制度改革や秩序維持の名の下に、多くの血が流されてきたが、平和な世界、自由な世界になるどころか、今に至っては、人類滅亡の危機すら迫っている。

文明社会は、「教育」という強制的洗脳制度を作り出し、拒否する自由を許さず、当然のこととして、何千年にも渡って、アヤマ知の常識を代々継承し続けて、現代社会に至っている。指導者たちは、アヤマ知の知恵に基づいた教育を通して、その時々で社会にとって都合がよい体系化された知識や思想を強制的に植え付け、アヤマ知の世界に貢献することに全人生を捧げることが人間として価値のあることだと思い込ませてきた。アヤマ知の作る社会を当たり前の世界だと思い込んだ人民は、アヤマ知を基にして、自分も含めた他者の言動を価値判断し、同意したり批判したりしながら、自らの生き残りをかけた戦いの世界を彷徨い続け、夢を実現することを夢見て一生を終える。ある時は他者を攻撃し、ある時は他者に迎合し、アヤマ知の常識をその場のその場で都合よく使って、自分の立場や優越感を保持するための戦いを繰り返している。『あなたのために言っているんだ』『自分のことだけ考えればいいのか』『そんな考えはよくない』『こんな常識も知らないのか』『そんなことをしていたら社会人として失格だ』『目上の者にそんな口の利きかたをしていいと思ってるのか』『家族だからこそ心配してるんだ』『ご先祖様を粗末にするとバチがあたるぞ』『いつまでも夢みたいなことを言ってないで真面目に働け』『働かない者食うべからず』云々、その殆どは自分の優位を保って生き残るための武器である。アヤマ知の世界で生き残ることが何を意味するのかを知らないまま、実現しない自由を求めて、今も戦い続けている。

あなたが、闇がある世界を当然のことと思っているならば、自らが消滅する時が必ずやってくる。あなたの肉眼には闇が見えるが、そこには、星が輝いている。真っ暗になるのは、窓のない壁で囲った場合だけである。窓がある限り、どんなに暗くても、薄っすらと見える。真っ暗になったとしても、真っ暗だと感じるあなたが存在する。真っ暗だとしたら、あなたが『自分はこの世にいる』と思い込んでいても、そこはあの世かもしれない。あなたは、この世にいるのかあの世にいるのか判断できない。あなたが、『自分は生きている』と判断する根拠は何か。この世とは、あの世とは、どんな世なのか。その判断の基はあなたの中にある。今の世の形、風景が見えなくなることを死というならば、あなたには死がある。しかし、実際には、この世もあの世も同じ仕組みであり、「あの世」に行ったあなたは、『自分はこの世にいる』と認識する。自分の存在を認識できることを「生」と言うならば、あなたには「死」はない。「死」を避けること、言い換えれば「生」に執着することが、すべての争いを産む源である。今で言う「生死」、生きているか死んでいるか、は、形の有無のことであり、確実に言えることは、それを考えているあなたは死んではいない、ということである。つまり、あなたには「この世の生」しかないのである。闇を認識している限り、あなたは「生きて」いる。すべては、あなたの思い込みが作り出す幻想である。あなたの中に闇(病み、汝病み=悩み、疑問)が全くないならば、あなたは光の世界に戻ったことになる。すべての世界が、光のみの真コトの世に戻れば、目の前の闇もなくなる。それが、本当の天国である。心の闇を持つ者が作る天国は地獄の中の光の世界であり、その天国の光を追い求めるほど、その裏の心の闇が形になっていく。すべての闇が形になった時、それが、本当の地獄、地獄も天国もない究極の地獄、本当の死、つまり、滅びである。地獄にいる神は神ではなく、悪魔は悪魔ではない。従って、あなたが光と闇の地獄にいる限り、いかなる神に祈ろうとも(悪魔を祓おうとも)、あなたは、本当の天国には戻れない。
P40
『自分は何者なのか』『自分はどこから来て、どこに行くのか』『自分は何のために生きているのか』『自分はなぜこの世に生まれたのか』『自分が生きる価値はあるのか』等々、自分について何も知らない者同士が、何も見えない世界を道案内しあっても、闇の中を右往左往するだけである。どこに向かっているのか誰もわからず、あっちにぶつかりこっちにぶつかり、問題を解決しては問題を創ることを繰り返して、混迷を深め、お先真っ暗な混沌の世界を漂っている。わからない者が導けば導くほど、益々わからなくなる。『自分はいったいどうしたらよいのか』と訊くことになる。『自分はいったいどうなるのか』と他人に訊くことになる。あなたにわからないことを誰がわかるのか。具体的にどんな現実が起こるのかは言えなくても、あなたが滅びの時を迎えることは保証する。自分以外の事ばかりあれこれ語る者は、自らが滅びの道中にいることを知らない。それは、滅びの道の過程での出来事を評論しているに過ぎない。今のままなら、どんな奇跡が起きようと、誰に助けてもらおうと、あなたは確実に滅びの時を迎える。あなたが真釣りに戻れば、たとえこの世で殺されることになろうとも、確実に天国への道を歩き続け、天国の永住者となれる。
P41
真釣りと魔釣りは、元は一つであるが、全く逆さまの世界を創り出す。『限りがある』と言うならば、それは誤りである。あなたは、アヤマ知の信奉者である。あなたが限りあるものを奪い合っているならば、あなたは破壊の響き、分裂の響き、滅びの響きを奏でている。しかし、あなたの源は、元つ大神の響きである。元々は元つ大神の御子であるあなたに、苦(悪、病、闇、疑問、悩み、不思議、思い通りにいかないこと、不可能なこと)があるのはおかしい。『苦があるのが当たり前』と思っているならば、あなたは永遠に苦から抜け出せない。

子は親の鏡である。本当のあなたは、親である大神の響き(真コト)そのものである。あなたが自由でないならば、大神の響きを乱している。あなたが争いをしているならば、略奪の響きを奏でている。あなたは、信じている親の響きをそのまま奏でる。あなたがどんな行動をしているかを見れば、あなたがどんな親を信奉しているかがわかる。ここでいう親とは、俗にいう、この世の肉親のことではない。あなたの魂の親、いわゆる、神のことである。「魂」「神」という言葉を聞いた時、『あるかないか』『信じるか信じないか』という思いを持つならば、あなたは、何も知らないことになる。『無い』『信じない』と言う時、あなたはそれを認識している。あなたが何かを否定する時、あなたはその存在を認めている。それが存在することを証明している。肯定であれ否定であれ「それ」があることがその前提である。あなたに認識できないものを否定することはできない。あなたが誰かと議論している時は、自分の立場を有利にするための主権争奪ゲームをしているだけである。「それ」を肴にした論理戦争の勝敗が決まるだけで、「それ」自体にとっては何の意味もない。

「神」と聞いた時、「宗教」だと思ったら、大間違いである。そういう短絡的な反応をするならば、あなたは、真実を封じ込める策略にまんまと嵌まってしまっていることになる。あなたが信じている考えと、この本の話と、どちらが事実なのか、二つに一つである。あなたが、神や仏を信じているとしても、ここでいう神は、あなたの信じている神ではない。そして、『自分の宗教以外信じない』と言うとしたら、それは、宗教拒否症や無神論者、すべてを脳で説明しようとする科学者と同じである。今あるすべての宗教も科学も、それに固執している限りは、絶対に真実はわからない。永遠に戦いの世界に生き続け、最後は、滅びに至る。今持っている思いをゼロにしてこの本の話を聞き直す姿勢が無ければ、あなたは真実を見逃すことになる。赤子のように素直にならない限り、本当の天国への道に戻る機会を永遠に失うことになる。『宗教は信じない』『うさんくさい』と言うならば、あなたは、罠に落ちている。『宗教とか、神とかはバカバカしい』と言うならば、ここでは論外である。宗教を排除したら、永遠に真実を知ることはできないのである。真実を学び直すには、自分の頑固さを一旦棚上げすること、宗教拒否症を改めることが絶対条件である。

あなたがすがる親の言う通りに行動したその結果、争いを生み出すならば、その親は天国を創る親ではない。あなたが誰かの奴隷になっているならば、あなたは絶対に自由にはなれない。あなたが思い通りにならないのは、あなたが元の大神の響きを乱しているからである。あなたが体験していることは、すべてあなたに原因がある。あなたが元の響きを乱していることが、すべての問題の原因である。あなたは、あなた自身に騙されている。あなたを害する者はあなたしかいない。あなたがあなたの加害者である。あなた以外の誰かも同じである。誰かが誰かを害することはありえない。形の上での「被害」は、その本人に原因がある。『自分以外に原因がある』という、その見方は真実ではない。それが真実ならば、あなたは永遠に自由になることはできない。あなたは永遠に争い続けることになる。
P42
あなたが、誰かを責めるならば、それは、あなたの思い違いである。あなたにそれを教えてくれた親も、あなたと同じように、思い違いをしている。それを正しいものとしてあなたに伝え、あなたはそれを正しいものとして信じている。あなたの現実に何か不都合がある時、あなたは、本当の親を取り違っている。あなたが争いの中にいるならば、あなたは元の響きを忘れている。あなたは、自分の本当の姿を忘れ去っている。あなたは、元の親を殺している。今、あなたが付き従っている親は、あなたの本当の親ではない。あなたの元の響きには争いはない。あなたの本当の親は、あなたを支配することはない。あなたを所有することもない。あなたの本当の親は、あなたを自由にする。あなたが親に依存しているならば、あなたは元の響きを持つ親の下から家出をしていることになる。あなたは、真実を知らない者を親だと思っている。あなたが元の響きを思い出せば、その親から離れ、本当の産みの親の元に帰ることができる。そこを天国と言う。あなたの本当の故郷である。

あなたの創造の基を真中と言う。今も、あなたの真中は大神の創造の響きを持っている。それがたとえどんなものであろうと、あなたは何でも創造することができる。あなたの真中に創造する力が働くからである。従って、あなたの体験するものは、一つ残らず、あなたが産み出したものである。あなたにとって不都合なものも、あなたにとって都合がよいものも、すべて、あなたの創造の為せる業である。あなたは、あなたの神である。しかし、大元の神ではない。あなたに不都合があるならば、あなたは大元の神を無視していることになる。あなたが、あなた以外に責任を転嫁したり、あなた以外にすがったりしている時、あなたは自力で創造していないことになる。あなた以外の何かが、あなたを動かしていることになる。大神でないあなたが創造できるのは、大神が解き結ぶはたらきをしているからである。あなたが、間違った親の言う通りにしたとしても、大神はすべてを形にさせる。

あなたが天国の理法に従っているならば、あなたには、不都合は何一つない。大神の響きの天国をそのまま体験するからである。もし、あなたが、不都合を体験しているならば、それは、あなたが天地の理法に違反した、紛れも無い証拠である。あなたは、あなたの言う通りの世界を見ることになる。あなたが『善悪がある』と言えば、あなたは「善悪がある世界」を体験することになる。あなたは元々、天国の響きを持っているが、天国の響きを乱していることを忘れている。従って、あなたが思い違いをしているとしても『自分は間違っていない』と思い込むと、その世界で、天国を作り続けようとする。あなたは自分が自分の創造の源であることを忘れ去っているから、悪を殺して善を維持しようとする、という矛盾を平然と続けることができる。あなたがあなたに騙されていることに気づかない限り、このトリックを外すことは絶対にできない。あなたが悪を認識する時、それは、自らが作った善悪の目が原因である。あなたがその悪から離れるためには、『目で見えた悪そのものが原因だ』と言っている自分に気づかなければならない。それは「悪」ではない。あなたが『悪だ』と言っているだけである。悪である相手にとっては、それは善である。
P43
『知らなかった』『気づかなかった』と叫んでも、あなたが今まで生死時空を超えてしてきたことは消すことができない。あなたが自らの犯した間違いを認め、今までしてきた過ちをすべて清算しない限り、あなたは悪の循環から抜け出ることはできない。天国の響きを乱せば、滅びの響きを奏でることになる。間違いを認めず、あくまでも自分が正しいと言い張るならば、あなたは、自分の間違いによって永遠の滅びの世界を呼び込むことになる。

あなたは、或る時、欲望をそそられるリンクページを開いてしまった。それは、『このリンクを開ければあなたは神になれる』という、イヴを騙した蛇の台詞の如き誘い文句が書かれた、永遠の不老不死の天国と瓜二つの動画が掲載されたリンクページだった。真釣りを外し、本当の神を忘れ、真釣りのミロクを忘れ、そのボタンをクリックしてしまったあなたは、欲望のままに次々とページを辿り続けた末に、気づいた時には、取り返しがつかない世界に入り込んでしまっていたのである。どうすれば抜けられるか分からずに右往左往し、快楽に負けて、今も、魔釣りのリンクを辿り続けている。魔釣りのリンクをクリックし続ければ、最後には滅びの世界に至り、魔釣りのウインドウを閉じていけば(真釣りのリンクに戻れば)一番最初の元の天国に帰れる。気づいたならば、今すぐ魔釣りのリンクを辿ることを止めなければ、魔釣りが魔釣りを呼び込んで、完全なる滅びの現実を体験するハメになる。今ここで、あなたの本当の姿、本当の故郷を思い出し、目を覚ますことである。

魔釣りのHPには、あなたが目を覚ませば見える、真釣りに戻るリンクボタンがある。ただし、今の世界はすべてが逆さまであるから、あなたが魔釣りに魅せられた状態では、それは悪魔の囁きのリンクに見えてしまう。しかし、今ここで勇気をもって、そのボタンをクリックし、魔釣りのリンクを閉じて真釣りに戻れば、真釣りが真釣りを助けてくれて、神力が神力を、神徳が神徳を呼んで、元の真釣りの世界に戻ることができる。本当は、真釣りだけだからである。この本は、魔釣りという詐欺HPの存在を伝える警告書でもある。

魔コトと真コトの勧誘合戦。魔コトのアメは心地よい。真コトのアメは苦い。魔コトで手にしたものは、魔法が解けたら灰になる幻の宝物である。今、幻に見えるものは、魔法が解けたら形を現す宝である。どちらの宝を選ぶのか。今見えているものに惑わされれば、あなたは自らの永遠の命を灰にすることになる。今ここで間違いに気づいたなら、それを認め、観念して素直に縛につかなければ、自らが自らを滅ぼすことになるだけである。『自分には覚えが無い』『自分には何の罪も無い』と言うとしても、不都合、苦があるならば、それが、違反した事実があることの証明である。これを認めないならば、あなたは、ウソの誤魔化しの偽善の世界で、善人を演じたまま、何も知らずに、滅びの道を駆け下りることになる。最期に気づいても後のまつりである。真釣りに苦はないから、あなたが真釣りに戻した時に現われる苦の響きはあなたの魔釣りの清算である。清算する事態を招いたのは、真釣りを外した自らであり、その苦は自らの創った苦である。文句を言うところはどこにもない。あなたがそれを辛抱することであなたは魔釣りから離れ、真釣りに戻ることができる。生かされていることはわかっても、苦があるのが当たり前だと思っていれば、あなたは真釣りを外すことになる。真釣りを外した分だけ苦が増えるから、自分で自分の掃除の手間と苦労を増やしていくだけである。いい加減な態度は、自分の身を滅ぼす。真釣りが神の掟であり、破れば滅びが待っている。自分で自分の首を取る結末がやってくる。
P44
人類の歴史は、この取り違いをした者の集団が進めてきたマヤカシの空想劇である。個人から、家族、国、国際社会、あの世に至るまで、すべてが、同じ仕組みで世界を進めてきた。世を挙げて、全くアベコベの世界を代々伝え、受け継ぎ、いつか天国ができると思い込んでここまで進めてきたのである。しかし、実際は、問題が複雑になり、争いが激しくなり、持つ者と持たざる者の格差が開き、命の危険が増大し、環境が悪化し、生形態が壊れ、自然災害が頻発し、不自由、不平等が拡大し、競争が激化し、あらゆる安全神話が崩壊し、心の荒廃が進み、先行きの不透明さが顕著になっている。目指す世界と現実は、大きくかけ離れている。天国ができるどころか地獄を進めているのである。今に至っても、『現在の状況は新しい時代への過渡期である』と言い張って、かすかな希望を拠り所にして、儚い夢を追い続けている。この世を進めてきた陰の黒幕自身ですらも、自らのアヤマ知に気づいていない。世界を操るドンが、自らがどんな世界を創っているのか知らないとすれば、世界の滅亡は必至である。しかし、あなたが真釣りを思い出し、真釣りに戻れば、あなたにだけは滅びはない。どんな理屈を持ち出そうとも、真実を誤魔化すことはできない。

文明とは、不都合を塗りつぶす仮面である。文明の進歩とは、言い換えれば、天国の破壊である。進歩、発展、文明なる言葉は、病んだ響きの中にある、病の酷さを言うのである。形が変われども、していることは全く同じであり、文明が進歩するほど、天国が崩壊しているのである。その文明の基を成す、科学や技術と呼ばれる業は、発展どころか、人類滅亡のために奉仕する業なのである。元々、天国の響きである者に、進歩とか発展とかいう言葉は必要ない。発展神話に生きる基を置いている限り、自らの本当の姿に気づくことは全くできない。天国は天国であり、天国には不都合はない。天国には問題は全く存在しない。従って、本当の天国には、進歩、発展、文明、成長、進化という概念はありえない。万古末代弥栄え続ける、闇などどこにも無いのが天国である。滅ぶ心配は皆無なのである。
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本当の天国には「死」というものは存在しない。死という概念は、天国を壊している者が作り出す幻想である。天国を作るのではなく、滅びの舞台を作っているのである。天国を作っていると思い込んでいるならば、永遠に取り返しがつかないことになる。社会や他人が何をしているか、は全く関係が無い。あなたがどんな態度で生きているかである。あなたが何を基にして、ものを見て、判断をして、決定をしているか、である。全くアベコベの道を歩んでいることに気づかなければ、気づかない者だけが滅ぶのである。これを認めるかどうかはあなたの自由であるが、その結果はすべて自分自身に戻ってくる。自らが取り違いをし、自らが滅ぶ一人芝居である。自業は自得である。自作自演の独り芝居である。

心の目を覚まして違反を清算すれば、周りがどんなことをしていようとも、自分が巻き込まれることはない。違反をしている者が違反を清算している者を巻き込むこともできない。あなたは、形の世界で生きているのではない。響きが形に現れるのであるから、あなたが天国の形を望んでいるならば、天国の響きに直すことが始めにすべきことである。真釣りに戻すと魔釣りが壊れるから、一時的に不安や恐れを感じる。しかし、それは、魔釣りの響きが産み出す幻想である。何も怖がらずに辛抱することが、真釣り戻しの奥義である。

天地の理法は、万古末代不変の「絶対的真理」である。たとえ神仏といえども逃れることはできない。地獄という世界はない。地獄というのは、天国から滅びへの途中経過の世界である。清算して天国に戻るか、そのまま進めて滅びに至るか。清算した者は天国へ、しない者は掟通りに滅びの世界へ、二つに一つの道である。アヤマ知を綺麗サッパリ捨て去らない限り、天国へ戻る扉は閉ざされる。それは、天国へ戻る入口の扉であり、誰かが閉じたり開いたりするのではない。天国への冒険は、自らが閉じた扉を自らが開く道である。

遥か昔、真釣りを外したあなたは、魔釣りを清算するために元つ大神が用意した建物(岩戸、大神の子宮)の中に入り、扉を閉じて自ら鍵をかけた。しかし、そこが真釣りの世と瓜二つの世界であったため、真釣りを戻すことを忘れ、その世界を牛耳る神になろうと、創造主であるかの如く振る舞い始めた。魔釣りを進めに進め、真釣りを闇に葬って、何千年にも渡って玉座の奪い合いを繰り返し、ついには、自らが本当の神であると心底から思い込むようになってしまった。真コトを知らない神仏に騙されて嘘を真コトと信じ込み、神典を改ざんして宗教を広め、真コトを知らせる大神の使い(ソクラテス、神武天皇、イエス等)も抹殺して、進歩発展の名の下に世を挙げて偽の天国目指して猪突猛進し、好き放題に世を進めた挙句、帰る道を見失って行き着いた先が汚泥混濁の現代社会なのである。
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猪は一二支の最後であり、走り出したら止まらない、一目散に真っ直ぐ突進する型示しである。そのまま突進したら、自爆である。その猪を家畜にした豚肉を食べている。ブタはブーブー文句を言う。ブタ、フダ、フタ、今豚(混沌)。猪=獣扁+者、者=土/日。ケモノの世の一二支は、子、丑、(丑寅=艮=東北)、寅、卯、辰、(巽、辰巳)、巳、午、未、(坤)、申、酉、戌、(乾)、亥の順。五(ヒノモト九御座の真中)が龍=立つ=絶つ、断つ、建つ=中国語でロン=アガリ。龍は想像上の(現世にいない=封印した)「動物」。実際は蛇竜。一二=一年=一念。すべてを支える真龍は霊主心従体属が封印された日本の国土そのもの。

十が酉=鳥=十理=TENの理=神の掟。酉が水に溺れると酒、避け、裂け。日本列島の裏の響きは日本裂倒、日本劣等。十理に一歩足りない鳥は烏、鳥に導く鳥、真っ黒なカラスは不吉の象徴、知恵者。三本足烏は神武天皇の道案内。烏=卯、有、生。平和の象徴のハトは、九の鳥。鳩=烏。白=黒。六が蛇で、巳は鏡に映すと9、9は上下に鏡に映すと6、六の西洋アラビア数字は6で頭は下、逆さまにすると9で頭が上、69は胎児の正児と逆児。洋数字666は偽のミロクである。6+9=15=統合、九御座の十の真中は五。6×9=54=御用=誤用、69重ねると8=日。亥子(意志、イ音=オーケストラの基音、イロハのイ=1=ヒト、稲、威士、居死、伊根)と戻る繰り返し。申は猿(猿回し、猿真似、反省猿)=去る、心、新、震、神。十千は甲乙丙丁戊己庚
辛壬葵、木日土火水の兄弟、六が己=己=土戸。5=Sアルファベットの19=十九=トコ、床、常、徳、得、解く、国常立大神が日本国祖。5=語、吾、誤、悟を鏡に映すと己=子、故、孤、枯、古、狐、顧、おのれ。武士は『おのれ!何ヤツ!?』と自分に怒る。十二と十の最小公倍数の60が還暦。1分=60秒、1時間=60分=3600秒=ミロクの百。日本は北緯三十六度。平熱は36.5℃。水の沸点は100℃。昼の12+夜の12=24時間=1日。

1年間の月(心)十二×苦=108=百八=モヤ=煩悩。ユダヤ十二部族、黄道十二宮、イエスキリストと一二使徒、裏切りのユダ、西洋の十三は悪魔の数字、13日の金曜日=十三とお金は不吉の象徴だが、西洋文明は「金」の世界。神=GODを区切るとGO|D=金=禁、筋、菌。金星はビーナス=女神、女=水=形=体主霊属=逆位=蛇の世界=蛇女に睨まれると石になる。金(菌、筋肉、鐘、卍、十の世)=マネー(真似、真寝、魔根)=禁=No.=数=米+女+人+×、NOx=窒素酸化物=大気汚染。陰暦は13ヶ月で現代社会は12ヵ月の陽暦。十二時間×2(ヒル=蛭=吸血虫=昼と夜=依る)=1日。

ナギナミ創世神話の流された逆回りの蛭子と泡島が現日本国の裏の響き。神戸と明石(証)大橋で結ばれた淡島で阪神(反神)淡路(泡自)大震災。大鳴る門橋で解く島=阿波(泡)の国、阿呆の阿波踊り。死国。四国八十八霊場の空海(喰うかい?)の生誕地は善通寺(路)、著者の父はその門前、中新(神、真)町でS4.12.25生まれ。母は丸亀柞原(苦腹)町でS3.3.13生まれ。著者は足立の本木⇒扇(奥義)でS36(1961=皇紀2621=云二拾一).5.4.仮死状態で生まれた一人子。丑年(辛丑)、牡牛座、天王星人。家紋は逆三階松の下がり藤。双葉幼稚園、寺地小、六中、上野(江戸の鬼門封じ)高卆。剣山に十戒を収めたアーク、契約の箱。剣、鶴亀、釣る気。石鎚山の石の槌で頭を割って蛇(イシヤ)の死。四国=豪州(南半球=逆さま)=英国女王が元首の1大陸1国の多民族国家。三×四季で一年。一周360度=36×十、十=X=未知数。エックス線で箱の中身(秘密)はバレる。三+六=九、九十(卆)×4=櫛、苦死、櫛は髪(神)を漉く。
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表の○一二三四五六七八九十+裏の十九八七六五四三二一○=55+55=110=11の0=2=ニ=心=表裏足すと十十十十十十十十十十十=百十=元、11の十(神)、土の神、110番は警察。表裏22数字=富士、2+2=4、表四+裏四=八、岩戸=一八十、明仁=平成=一八十鳴る、徳仁=ナルヒト=成る人=成人、今上天皇から聖俗(神+獣)婚姻(混血、混霊)、開かれた皇室=神と人の平等、オワダマサコ(魔釣りの世界政府の国連大使の子=皇太子妃)、かわしまきこ(自由平等博愛のフランス文学者の子)、一つおきに組替えると、オわダまサこ、かワしマきコ、皇室典範は天皇=男子のみ、現皇室の祖は天照皇大神、ヒノモトは火、支え、男の働き、平成天皇の孫はすべて女児、皇太子の子は「敬」宮「愛」子、愛とアイ、英国は女王、王、皇=白の王=九九(百-1)路(=心)の王=心王、法皇(卍)法王(十)、教皇。鳴戸=七十=渦産み、海:陸=7:3、○九十(真コト)は八方世界の外にある。一から十まで統べる者を一十=ヒトと言う。十=神、銃、獣、従。九九、救急、九九路、心、99+1=百はすべて=神への道。10+五+40、親指+掌(包み込む=神)+人指し・中・薬・小指=手。手は左右鏡、親は内、真中、手の五+五=十、足の五+五=十、左右上下の五の中心に親指、腹がある。胴は一つ。腹は一つ。五体を統べるのは腹。五大陸の腹は日本。五大陸+日本+英国+南極大陸=八陸、日本は北、本、四、九、淡路の五大陸+佐渡+隠岐+対馬。裏日本は険しい、北は厳しい。

北=ヒ+鏡のヒ=比、縦を付けると土、土土つけて逆さまにして鳥居。世界の雛型、元つ神の御神体、元つ神キ出る唯一国。富士山、エベレスト。アレキサンダー東征と神武東征、サッカー協会の三本足烏は神武の道案内、サッカーは玉を足で蹴る点取り。人類の起源はアフリカ、天孫降臨は九州、天孫降臨の道案内は「猿」田彦命。天岩戸神話=神々の宴会でアメノウズメが裸で踊り、タチカラオがこじ開けて、騙して天照大神を出す。現代社会は水、力、酒、女、策略。北半球と南半球は渦と季節が鏡、逆さま。春と秋はベクトルが反対で、気温は同じ。春は芽吹き、秋は実り。朝と夕も同じことで朝は目覚め、夕は眠り。冬と夜、夏と昼。冬は暗、モノトーン、冷=霊、静、耐、夏は明、原色、動、体、カラー。

淡島と蛭子(ヒルコ=エビス=恵比寿=戎=商売繁盛)の創世神話。大黒天=インドの神=大国主命=自らを祀る出雲大社大神殿を創ることと引き換えに天つ神(天孫神)に売国した国譲り神話と連合軍(小天の神の国、キリスト教国の十字軍)に無条件降伏した神道政府が金と科学の宗教に改宗。天孫降臨は魔釣り、元寇、キリスト教、ペルー艦隊、明治維新、原爆、天皇の人間宣言、昭和天皇崩御、バブル崩壊、阪神淡路大震災=国譲りはヒノモトの囚われ、神風で御神体侵略阻止、一神教+銃(十、獣)伝来、新撰組「誠」抹殺(五稜郭=ペンタゴン、土方=土型)で江戸無血開城=日本政府奪取、蛇文明開化=竜封印、米国の無血上陸=日本国奪取、神国封印、金国崩壊、淡島蛭子国崩壊、真国創世直前。
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風水と鬼門封じの陰陽道の四神は、朱雀、白虎、青龍、玄武(鳥、虎、龍、亀=赤、白、青、黒で、黄は中心で底に流れる気として目に見えない。実際は、黄を囲む五神である。中心に立てば、すべての気=世界征服=神力が得られるとされる。風水のお金の気は黄色、黄金で、西に置く。西洋、西方浄土に極楽があるという。)であり、京も江戸も風水で作られた首都である。鬼門の神はウシトラノコンジン、カムスサナルノオオカミ、地神を封じて天神の学問の世界、アタマの知恵が牛耳る現代日本。逆さまの世界なら、最後はどうなるか。国技である相撲(土俵=円、陰陽四神の房の下の東西対決、ピラミッド階級、綱は注連縄、懸賞の手刀は中左右、土火水、アメノミナカヌシ、カミムスビ、タカミムスビの順、陰陽道+神道の神の神事=魔釣り、神事=火の神の座には水は座せず=女人禁制)の一人横綱がモンゴル(元寇の時のモンゴル帝国)の朝青龍、その親方は、「朝潮」の高砂(最高縁起)親方である。丑寅が鬼門であるが、鬼=艮の金神=本当の救世の神門である。救世の神を鬼門に封じた世界で、鬼門が開けば、地獄。鬼門の大神の力は本当は封印不可能。

鶏=二八取=元の十理。鬼門を封じた丑寅の東北に蝦夷が住み、北海道は北米大陸の型示しであり、魔釣りの天孫降臨の末裔である明治新政府がアイヌを、英国移民のアメリカ新政府がインディアンを、先住民を侵略して開拓した共通の歴史がある。英国の国旗(理念、火)は米、アメリカは米国(実動部隊、水)、bay=海岸、海=塩+水、日本=海で囲んだ子宮の中、子宮は海と同成分、日本=胎児=退治、対峙。日本は米穀食、米の原産地は中国、米国の安全保障担当補佐官はライス。ブッシュ=ヤブ蛇、蛇の子がイラク=メソポタミア=文字文明発祥=米国の足場攻撃=親殺し、文字文明の正体。軍出身の国務長官(パウエル)が鳩派、文民の国防長官(ラムズフェルト)が鷹派。魔釣り(黒、蛇、黒幕)のアメリカの大統領府がホワイトハウス。真コトの国の日本は五大陸の雛型であり、魔コトの経綸として、イシヤの仕組みで立て替える御役に、北米に力の神、中国北方モンゴル(元、満州)に我善し(自分は正しい、一番、中華思想)の神、ロシア(共産主義)とインド(カースト制)の地に逆十字(快欲、体主霊属)の響きの陰陽、ユダの地=イスラエルに魔釣りを統べるアヤマ知の蛇の知恵の神を降ろした。裏(火)の響きが表(水)に現われる。国際社会の表舞台でどの国がどんな役をしたかを見ると、世界の裏のカラクリがわかる。

ヒノモトは現在、米国のポチ、経済・技術・教育大国、魔釣りの神輿を担ぐフェスティバル、魔釣りの神祭咲きわう紙の国、宗教なき葬式仏教国。愛国心とは元つ心のこと=本当の愛国(I告)心教育をしたら鎖国、現代日本は崩壊。エルサレムにユダヤ、イスラム、キリストの聖地。ソロモンの神殿に菊花紋(皇室の紋)、日ユ同祖論、日本が元か、ユダヤが元か。世界の源はどこにあるのか。中心なき混沌の世。七曜は聖書の天地創造神話。キリスト教で国づくり。太陽(日)、水、金、地、月、火、木、土、天、海、冥、太陽+九惑星+月=十一。冥王星(冥王、あの世、闇王)のその先に十番惑星発見で十二星。恒星、惑星、衛星、本来はすべて光星。金星=ヴィーナス=女神、火星=マルス=軍神、土星=サタン、土=悪魔。七惑星の外に惑星と核物質の同時発見。天王星=ウラヌス=ウラニウム=天皇制、冥王星=プルート=プルトニウム、ウラニウム+プルトニウム(裏に産む冥王制、裏舞台に悪魔の王制)の原爆でイシヤに無条件降服し天皇が人間宣言=元つ神封じ、リトルボーイ(小さな少年=エルニーニョ=キリスト、広島=イタリア、お好み焼きとピザ、バチカン、キリスト原爆がキリスト雛型地を自爆自壊)原子爆弾で元始の親国を破壊。爆心は産業振興館。元始=原資=原子=アトム、アと無の誕生日は2003年。AtoM=1が13(悪魔)へ。AUM、オウム=遭う無、汚膿む、ア産む、麻原教祖は盲目=真実を見ない現代日本の鏡、Ω=抵抗=最後、現代日本=善ならオウム=悪、アベコベならその逆、現代日本の申し子=親の鏡=現代日本の裏の型示し、悪に悪を見せた鏡(警告)、悪=自分なら悪を裁けば、自裁自刑、自滅の道。現代日本が正ならオウムを潰せば天国、もし誤なら、日本が自滅。結局は、魔釣りの世界の中のテロと報復であるから喧嘩両成敗であるが。
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示せばきりがないのでこの辺でやめておくが、これらは、すべて偶然ではない。この世に偶然は何一つない。あるなら、真釣りは存在しない。すべては一つであり、最後は一つになる。分裂させて鏡を作り、善と悪の戦いをやっている世界では、○=●、●=○の相対、善=悪であるから、すべて一つに結びつく。○と●を持つならば、この見方はわからない。悪を裁くならば、偏っていることになる。分かつ知で物事を見ている証しであり、善悪の善を主張し、悪を裁くならば、元つ真釣りを裁いている=自殺していることになる。日本語はマ=真=魔、ヒ=火=非、○と●両方の意味が型示しできる。こう見ないこともできるが、こう見ることもできる。歴史の「偶然の一致」「共時性」は、こじつけ、洒落ではなく、魔コトと真コトを教える型示しなのである。『自分の理屈を証明するためのこじつけだ』と言うなら、今の世も、自分の正当性を主張するこじつけの戦いである。この世は数学の論理である。一つの意味だけなら戦わない。戦うなら、お互いにこじつけである。こういう見方ができるのはなぜなのか。筆者はこの型示しを押付ける気はさらさらないが、真コト学校の総合学習の教材として挙げたまでである。今の学校では決して教えてはくれない事実である。ただ、型示しを追いかけるゲームは、意味がない。「型示し」の要点がわかったら、即やめることである。さもないと、この永遠にできるゲームの罠に嵌まっている。

「表の型示し」がいったい何を意味しているのか。日本の、現代社会の正体、裏の響き、裏舞台で何が起きているのか。あなたが常に囚われ、形の利便、快欲、お金を追いかけている限り、絶対にそれは見えない。9.11テロもイラク戦争もオウムもすべて宗教のカラクリ(現代社会の正体、人間の正体、神の正体)を知らない限り、真相は闇の中である。今のまま突き進めば慙愧慟哭修羅の地獄に直面することは必至である。これを荒唐無稽と片付けるのは簡単だが、その見方が自分をどんな世界に導くのか、おわかりだろうか。
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テロリストや独裁者や教祖や教団を恨んだり、憎んだり、潰そうと考えたりするのは簡単だが、それでは何も解決しないし、真実を学ぶこともできない。何か事が起きると、悪を裁いて、恨んで、憎んで、自分には関係ない、自分は正しい、自分を守るためにはどうするか、と反応して戦争を繰り返してきたのが人類の歴史である。しかし、あなたのいる世界で起きることは、今のあなたに関係ないものは一つとしてない。承服できかねるのはわかるが、オウム事件を材料にして、なぜオウムが現われたのか、なぜテロが起きるのか、なぜ悪を潰せないのか、悪を裁くことが何を意味するのか、今のあなたの感情や善悪観念や常識を一旦脇において、自分のこととして、この本を読んでよくよく考えてみるとよい。

人類の歴史は、神の歴史の映しであり、現代社会にある宗教の由緒血統を辿れば、すべて知恵の神に行き着く。蛇や邪竜や獅子をシンボルにしているのがその証。今の世にある宗教のどんな神をどんなに敬虔に信仰しようとも本当の天国は来ない。今ある神の歴史は魔釣り箱の中の歴史であるから、どんなに「由緒正しい」お祭りをしようとも、本当の神のご利益、永遠なる安心は得られない。それどころか、祭れば祭るほど、本当の神から遠ざかるばかりである。魔釣りの歴史の中の年中行事、形ばかりの神事を繰り返しても、それは、神に感謝した積もりになっているだけの自己満足、自分勝手な安全保障に過ぎない。病や怪我、事故等々の不都合は、あなたが真釣りを外したことに原因があることを肝に銘じておくことである。どんなに悲惨な地獄を体験しようとも、神仏を恨むのは筋違いである。魔釣りの神に祈り続ければ、ますます厄を呼び込んだ末に、最悪の結末が現実となる。

本当の天国は、世界中が五穀豊穣、国家安泰、家内安全である。今の世で、賽銭という貢ぎ物をしてご利益を祈願しても、それは神を利用しているだけの戯言である。お守りを握っても、本当の安全は得られず、オフダでは厄祓いもできない。本当の天国には「商」の響きはなく、商売繁盛というのは、『より多く奪えるように取り計らえ』と神に命令していることになる。戦いの世界で、同じ神様に全員が『心勝祈願』をしたらその神はどうするか。勝ち負けの世界で全員を勝たせることはできない。負けた側にとっては、無差別殺人の裁判の原告が、被告を無罪にした弁護士を恨むのと同じ理屈で、その神は約束を果たさない裏切り者になる。もし、優勝したとしても「神に祈願する」ことが真釣りを外した証であり、お礼参りをしても意味がない。お礼参りをしないとバチが当たるかもしれないと思って、表向き『神様のお陰で』ということにしているだけである。本当に神様のお陰だと思い込んでいても同じことで、結局は、自分の力では勝てないと思っているか、自分の力で勝ったと思っているが、一応、神様に頼んでより確実に勝てるようにしてもらおうと思っているのが関の山である。戦いの神は魔釣りの神であり、天国は創れない。本気で戦うならば、略奪の世界で生き続けることを選んでいることになり、本当の天国の実現など見ていない。本気で略奪合戦をしているならば、最後は、神法違反で喧嘩両成敗である。
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毎年初詣をしても国家安泰どころか、国家の危機に向かっているのはいかなることか。偽の神様にいくら詣でても、神社が儲かるだけでしかない。神を信仰するのは、自らの身欲の天国を守るためである。光と闇のある地獄にいる限り、ご利益を求めるほど、逆に厄を呼び込むことになり、国家安泰の願いは泡と消える。すべては魔釣りの世の幻想に過ぎない。

歴史の箱の入口と出口は同じ場所にある。過去から未来への直線的な時間軸の上に、世の始まりと終わりを落として天国を目指して世を進めても、その天国はどこにも存在しない。歴史年表の線分の左の端を世の始め、右の端を世の終わりとすると、その左と右は、実は、同じ点である。その二つの点を重ねれば、歴史の真実が見える。実際には、過去も未来もなく、始めも終わりもない。歴史で言うところの世の始めは「?」であり、終わりも未だ来ていないから当然「?」である。そして、その間も「?」の歴史であり、新しい問題を増やし続けているだけで、「?」は何も解決(「!」)していない。本当の年表は直線ではなく、始点と終点が同じループ曲線である。実際には、箱の外には歴史年表はどこにも存在してない。始点と終点を分けて直線にして永遠の「?」を作ったのはあなたであり、あなたの内の終始を結算し、したことの始末を付ければ、あなたという魂の歴史の「!」が見える。

本当の自分(=私=「i」)が逆立ちをすると「!」となる。本当の自分が逆立ちをして、その逆立ちした自分を本当の自分であると思い込めば、偽物の「i」となる。iは、Iであり、私、eye(目)、愛、アイ(五十音の最初)である。すべてはあなたが源である。それを疑って首をかしげると「?」になる。本当の自分は見えなくなっているから、見えている外に答え(「!」)を探す。「?」がどんどん増えていき、仕舞いには、子宮の中には答えがなくなる。頭(・)は上にあるのが正立である、頭を下にして逆立ちをすれば、必ず倒れる。しかし、胎児は頭を下にしないと難産となる。今のあなたは大神の子宮の中にいる。子宮の中の中で正立した胎児は、子宮の外から見れば、逆立ち(逆子)である。あなたの本当の天国は、子宮の外にある。あなたの心は臍の緒であり、外の世界を見ることができる。子宮の外の、心に映る理想の世界とあなたの現実の体験がアベコベならば、あなたは逆子状態である。地に足をつければ安定するというのは誰も依存はないはずである。あなたがいる子宮の中が逆さまの世界であるならば、あなたは頭を下にしているのが、正しい姿である。あなたは子宮の中にいることを知らないから、外の世界のように頭を上にしている。すべてのすべてをアタマで考える。魔釣りの知恵で社会を作る。脳は左右に分かれ、左脳は右、右脳は左の体を支配している。頭(知恵)が体(社会)を支配すれば、左右に分かれて争い、逆さまの世界を作ることになる。つまり、二つにわかれた左右アベコベのアタマが世を導けば、混乱していくのは当然である。主権争いに明け暮れた挙句に、王や独裁者から主権を奪い取って創った「民主主義」というバラバラな主権者の集団統治では、イサカイが顕著になり、収拾がつかなくなっていく。結局は、アタマ(リーダー、独裁者)を求める事態になって、元の一人の王が治める世界へと戻っていくのである。
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あなたは分裂思考をした対極がある世界にいる。あなたが正しいならば、あなた以外が間違いとなる。だから、あなたは、外の×を消そうとする。あなたが「?」ならば、あなたは外に正解(「!」)を求める。実際は、あなたの世界はあなたの鏡であり、あなた(「i」)の答えは、臍の緒の外、後の正面にある。鏡に映った答え「!」を逆さまにすれば、あなた(「i」)になる。逆さまの正解の逆さまが本当の正解である。あなたがあなたを「×」して、あなたがあなたを「?」にしているのである。この世の「!」は子宮の外の「i」の逆さまの姿であり、あなたがそれを認めれば、子宮の中のあなたの「?」は「!」と結び、あなたは逆子ではなくなる。子宮の外は見えない世界であるが、あなたの心を逆さまにすれば、そこにあるあなたの正解(「!」)を得る。そのままを保てば、あなたが子宮の外に生まれ出た時はiとなり、あなたはあなたの本当の天国を謳歌できる。得られた正解を子宮の中の基準で価値判断すれば、また逆子となり、外に答えを探す堂々巡りに戻ることになる。頭とは、肉体上の頭のことではない。逆立ちしている心のあなたが、さらに逆立ちすれば、それは正立を意味するから、本当の真実が見えるということである。その目で現代社会を見直してみれば『こんなにおかしい世はない』ということがわかってくる。おかしいからといって形を治そうとすれば、逆子に逆戻りである。あなたがするべきことは、そのおかしい世界とはアベコベの、本当の自分に従って生きていくことである。あなたの目の前の社会を変えるのではなく、あなたの内にある社会を元に戻せばよいのである。あなたが逆子のままなら帝王切開で突然逆さまの世界に出されることになる。逆子からみれば、天地がひっくり返るとんでもない事態であるが、そこでどんな体験をしようとも、逆さまであることをハラに入れて生きていけば、必ず、本当の天国の現実を体験できる。

今ある歴史は箱の中の歴史であり、始まったところに戻る。始まりが闇ならば、闇に帰るだけである。あなたが、言われるがままにその歴史を辿っているならば、あなたは闇の世界に辿り着く。しかし、実際にはその闇は存在しない。光のみの世界になれば、どこにもなかった闇は消える。本当の天国に帰らない限り、あなたは永遠に滅ぶ。今いる世界は、真釣りを外したあなたを真釣りに戻すために用意された世界である。あなたはそれを忘れ、神を取り違え、『この世でいかに生き残るか』というサバイバル合戦にはまり込んでしまったのである。真釣りを戻さなければ、今あなたが生かされている真の目的は果たされず、天命を全うしないまま、永遠に命の灯火を消すことになる。箱の外には「?」の歴史はない。箱の外は「i」だけの完全自由の天国である。そこは、逆子から見えれば「!」であるが、頭を下げれば、本当の自分(「i」)の世界となる。本当の天国には始めも終わりもない。万古末代弥栄える、永遠の天国なのである。その天国を闇に葬って、世を挙げて真釣りを外し続けて、箱の中で右往左往していたのが、神仏も含めた人類の歴史だったのである。
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人類の歴史の中で作り出された宗教や学問をどんなに信奉してもあなたの真実は永遠に闇の中である。あなたの本当の天国、真実の歴史はあなたの内にある。あなたの内にある分裂の響きを元に戻せば、あなたの本当の真実が見える。すべては一つであり、境界はどこにもない。そのすべてを分けた境界線は、あなたが引いた心の中の境界なのである。地球の上で、国境紛争を繰り返しても、本当の天国はできない。待っているのは滅亡である。

子宮の入口と出口は同じであり、精子(,)が外から入って、卵子(○)と出合って受精(⦿)して、赤ちゃんとして産まれ出る。元の大神の子宮の中でアタマを上にしていたら、逆子となって、難産になる。なぜ、人間の妊娠期間は十月十日なのか、陽暦で言えば、九ヶ月強である。人間より「下等」な牛馬は生まれてすぐ歩ける。ゾウリムシは、自らをコピーして増えていく。野菜や切花は土から離れても成長する。土に根を張っていれば、永遠の生である。植木鉢に土を入れて自然から切り離した花を観賞する。自然から隔離して自分の所に引っ張ってきて、自己満足する。あなたが水遣りを怠れば枯れる。「花の気持ち」を考えたらできないことである。しかし、自らの快楽を得ることしか頭にない人間は、自然や動物の保護を訴えながら、森林を切り開いて町を作り、動物園や植物園で当然の如く楽しみ、機械で作った遊園地で一時の天国を享受する。自然保護と経済発展が共存できると言う。しかし、自然は真釣りであり、経済発展は魔釣りである。真釣りと魔釣り、永遠の天国と永遠の滅びが共存などできるわけがない。それこそ、まったくの絵空事であり、空想の産物、机上の空論、神を畏れぬ大大暴挙である。自らの運命の真実を知らず、形の世界での快楽を捨てられずに、神や自然に媚びを売る。檻に入れるのが可哀相だからと、自然保護という名の詭弁の動物園で自然を保護するのだと主張する。「自然」は管理費も餌代も要らず、保護の啓蒙の経費も、管理官の給料も不要であるから、入園料を取る理由は本来はどこにもない。文明社会だけで通用する遊びに過ぎない。文明が入らない未開民族は、お金は要らず、天恵の自然物のリサイクルで暮らし、文明国なら違法である行為も自然の営みとして許されている。しかし、部族の掟は厳しく、最も自然の掟を体感している人間である。文明国と言われる国では、動物や他人は管理するが、自らが奴隷にされると反抗して大騒ぎする。しかし、要求するその自由が、誰かの都合で生死が左右されるアメとムチの箱(動物園)の中の自由だと気づかない。神を畏れる人間が、神の化身である万象万物を自らの都合で好き勝手に荒らし回って、わざわざ難しい問題を産み続け、難しい問題を解決できるほど優秀な人種であると誇る。自然と文明、どちらが先なのか、どちらが神に近いのか、どちらが自然の営みを壊さないか、わからないのがエリートである。わかっていてやっているなら大大罪であり、エリートの言いなりである庶民も同罪と言える。
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人間の問題は、実際には、今もって何一つ解決していない。それどころか、歴史が進むほどに、解決が困難な問題を産み出し続けた末に、制御不能に陥っているというのが現実である。自らの快楽の世界を維持するために品種改良を繰り返し、自然にないものを作り続けた挙句、遺伝子操作の穀物で命が脅かされ、羊や猿のクローンを経て、いざ人間自身のクローンの番になると世を挙げて大騒ぎする。しかし、クローン技術を推進する側(要求する側)の人間も、反対する側の人間も、結局は、同じ響きの世界で争っているだけであり、その争いは、より大きな視点からみれば、全く意味が無い争いなのである。争う以前の問題として、形のクローンに敏感になっているそのこと自体が、真釣りを外した世界にいる証であり、本当に人類のために有益なのは、それが何を意味するかを考えることである。人間のクローンは倫理に違反するとか、神を冒涜するとか、そういう次元の話は知識人の戯れであって、学者や企業が、クローンを作って儲けようとしたり、臓器移植に使おうとしたり、市民(消費者、患者)の側がそれを望んだり、批判したりしている世界があること自体が、本当はおかしいのである。何の罪悪感も無く、人間以外の動物や植物の品種改良や遺伝子操作をしたり、鉱物を無生物として扱ったりしている人間が、自らの種に関しては、それをすることが悪の権化のように考えること自体、この世が自由でも平等でもない証である。現代社会で言う自由や平等や平和は、「文明人」の世界だけの話であって、自然も含めた平等と平和を実現しようとすれば、今やっていることはすべて自分勝手な悪行となり、現代社会の存続を図ること自体が、自然を破壊する悪魔の企みに変わってしまう。悪魔の世は、天国とは相反する世界であり、神の登場によって、すべて終りを迎える。

文明社会は、破壊に向かって進歩という幻想を追いかけている。本当の神を闇に葬って、それがなぜできるのかを忘れ去り、神から自然の管理を任された生物であるという嘘に騙されて、自然を破壊し、支配するという、本来ならば、不可能なことを平然とやっている。現代社会は、自然から完全に隔離された、金と機械と数字が管理するシステムによって営まれている。すべては、自然のためでも、神のためでも、社会のためでもなく、アヤマ知に基づく人間同士の生存競争をしているに過ぎず、自らの営みを完全に無視され、そのとばっちりを受ける自然(生物)は、人間勝手な理屈で都合よく利用されて、いい迷惑である。人間だけが清く正しくあれば、神を冒涜しないと思っているその勘違いが、すべての争いと環境破壊をもたらした源である。混血がすでに人間の品種改良であって、優性思想はそれを突き詰めたものに過ぎず、自らの人種が一番優秀だとか、人間は平等だから、とか言う争い以前の問題として、苦や不都合や破壊があること自体がおかしいのである。それは言うまでも無く、この世界が真釣りを外した世界であることの動かぬ証拠であり、今までの人類の歴史は、実は、人類自身の破滅を呼び込む、自作自演の狂言だったのである。

本来は、神から人まで、万象万物が真釣りの天国のみである。魔釣りの響きは、真釣り外した身魂を真釣り戻すために特別に作られた、期間限定の響きであり、善か悪か、損か得か、苦か楽か、という「分かつ知」や、「アヤマ知」の知恵は、真釣り世の身魂にはない。殺し合いをしたり、戦ったり、滅びを心配する現実を体験していることが、おかしいのである。平和や自由が当たり前である。というより、真釣りの天国というのはそれしかない世界であり、天国を望んでいるのは真釣りの世ではない証である。その中で争って、不平不満を言っているすべての人間が同罪であり、裁き合いや責任転嫁をしていること自体が、何の正当性もない、愚かな行為である。本気で世界の平和(万象万物すべての本当の天国)を願うならば、自由や平和を求め、天国を目指して戦っている世界を当たり前のものとして、自分勝手な神を作って、好き放題に神世を荒らしている今の生き様を正す必要がある。
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現代社会の現実を作り出した本当の原因はいったいどこにあるのか。密猟者を取り締まろうと、自然保護を法律で強制しようと、動物愛護を教育しようと、問題は何も解決しない。様々な問題を作り出したその本当の原因である「真釣り外し」を認めて、今までしてきたことの清算を始めなければ、現代社会の崩壊、形の世の滅亡どころでは本当に済まなくなる。本当の神を闇に葬り去って、偽の神とその信者集団(知恵の神の人類)が作り出した現代社会のその行く末は、天国でも光の世でもなく、魔釣りの神仏共々、あの世にもこの世にも生きられない永遠の滅びなのである。生産者も消費者も、学者も庶民も、需要と供給の相互依存の現代社会に生きるすべての者にとって、絵空事や他人事では済まされない状況にあるのが、今ここである。人類の(正確に言えば、あなたの)永遠の生死を左右するこの事実からは、誰一人逃げられず、神仏といえども関係のない存在はいない。万象万物はすべて神である。人間と鉱物の扱い方の差に、本当の神を知らない証が現われている。

現代社会の快適さを享受して喜んでいる人間の正体は、魔釣りの蛇の神のクローン魂であり、姿形は様々に違えども、響きの姿は全く同じである。蛇の響きのクローン魂が世界を作るとバラバラの争いの世になる。そして、自ら以外のクローン(コピー、大量生産)には心血を注ぐが、自らのコピーだけは怖れる。現代社会で金の作る天国を快適に生きようとすることが何を意味するのか。真釣りの響きで言えば、鉱物も植物も動物も、上等下等はなく、言うなれば、すべてが自分自身である。鉱物と動物、特に、人間、もっと言えば、自分自身の扱い方の差はいかなることか。すべては一つであるのに、あるものはただの物として、あるものは神の子として扱う。あなたの生き様、物の見方は、現代社会の映しであり、現代社会は真釣りを外した蛇の知恵の神がその源流である。今この場で、今の世の、すなわち、あなたのその行く末がどうなるのかを真剣に考えなければ、あなたは永遠の命を捨てることになる。真釣りのクローンなら、姿形を全く同じにすることも、違えることもできる。ヒットラーの姿ばかりの天国にもできるし、今の世界の形にもできる。響きが真釣りであるから、形がどうだろうと、世界そのものは自由、平和な天国になる。形のクローンを問題にすることが逆さまの響きの証である。すべては、あなたの映し鏡であり、自らがしていることが、自らの置かれている状況を示す。植木鉢の花があなたであり、大神が水遣りを止めればあなたは死ぬ。ペットの犬があなたであり、大神が餌やりを止めればあなたは死ぬ。しかし、大神にとってのあなたは子であり、時が来るまではそんなことはしない。大神は天地創世から今の今まで、与えるだけで、一度たりとも奪ったことはない。現代社会は略奪の世界であり、大神を「冒涜」した集団の作る反神世界であることは、明々白々である。議論の余地はない。今の世で生き残りを図るなら、それは、本当の神への反逆であり、そのまま続けるならば、魔釣りの蛇の世界もろ共、永遠の滅びに至る。大神が水遣りや餌やりを止めてあなたが死ぬなら、それは、あなたが天地自然の掟に反して生きてきた証であり、大神があなたを殺すのではなく、あなたの意志で自殺するのである。
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魔釣りの蛇の神にとっては、あなたはペットである。蛇の神の気分次第で餌を与えられるかどうかが決まる状況にいる。その蛇の神も、言わば、大神のペットであり、大神がその気になれば、餌をすべて取り上げることもできる。しかし、すべての神仏、人類は大神の子であり、本当の親である大神はそんなことはしない。ただし、時が満ちれば、自然の掟通りにすべてを真釣りに戻すことになる。それまでに、大神の心を察して、自らのしてきたことを反省し、本当の自然の掟に戻らなければ、あなたは自殺することになる。大神は真釣り戻すだけであり、真釣り外したあなたが自殺するのである。万物の霊長が、実は、自然界で一番弱い生き物である。アタマの知恵、理性が自らが高等生物である証のように言っているが自然の掟の中ではアタマはいらない。自然の響きで自然に生きれば、何の不都合もないのである。花やペットの世話が面倒だというなら、大神が万象万物に万化して、神の世界を壊し回る手に負えない悪戯坊主の集団を生かし続ける苦労はどれほどのものか、考えてみるとよい。あなたは、天恵なくして一瞬たりとも生きてはいられない。アタマの知恵で奪い合いの喧嘩を繰り返して大騒ぎしている現代社会は、大神が自然に戻せば一瞬の内に崩壊する世界なのである。万物の霊長だというなら、すべての生き物を生かしてみればよい。それができるならば、今世の状況はないし、できるならば、この本もいらない。

月が三千れば、出産しなければならない。しかし、どうあっても出ないと言うならば、帝王切開となる。神仏も含めて、現代社会は仮の世である。仮資の世である。金の支える借り(ローン)の世界であり、本当の龍(真釣り)が現われてロンと成れば、すべては無に帰す。元に戻る。元の真釣りに戻る。今のあなたは、仮死状態であり、仮生状態である。仮の私であり、仮の世である。あなたが魔釣りを続けるか、真釣りに戻るかで、本当の生死が決まる。真生(=真世、真私、真死)であり、生死が永遠に決まるのである。これは、それぞれの課題であり、誰かを生かすことも殺すことも邪魔することもできない。誰かに助けられることも見捨てられることも邪魔されることもない。神仏を含めて、すべての身魂が自らの永遠の運命を自らで選ぶ決断(自決)である。誰かに連れて行ってもらうことも、誰かを連れて行くこともできない。神仏一柱一柱が、人間一人一人が、各々が、大神の子宮から自ら出るか、帝王切開で出されるか、真釣り戻して生き返るか魔釣りのまま死ぬか、或いは子宮もろ共無くなるか、を自ら自身で決めるしかない究極の選択なのである。
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ミロクには神の子宮はない。自らが自らの子宮であり、母であり、父である。自らが外であり内である。自らが神であり、万物万象である。雌雄同体、雌雄変換、男女どちらでも自由自在に成れる。土にも、石にも、星にも、魚にも、鳥にも、飛行機にも、ロケットにも、何にでも成れる。すべて=一つの真釣りの神になる。日月地を統べる「地の日月の神」となる。日月地を統べるのは神でなければならない。ヒノモトの民は、世界を統べる親、地の日月の神と称される、尊き(十産十気)御役の神であり、その神が真釣りを外し、魔釣りのアヤマ知にも囚われ、真コトの神ハタラキができなくなったことが、現代の世の乱れの真因である。日本が真中の真コトを取り戻さなければ、世は滅ぶのが神仕組みである。

逆さまの体主心従霊属の蛇の知恵で真釣りのミロク世を実現できると言うならすればよいが、水と水が組んだ世では、それは叶わない。本気で「神」に成りたいなら、魔釣りの響きを鳴らすのを止めて、今の偽の神仏(科学、宗教)を捨てて、真釣りの響きを鳴らすことである。形は響きの現われであり、響きと相応の形となる。響きが魔釣りで形が真釣り、響きが滅びで形が天国、響きが天国で形が滅び、響きが真釣りで形が魔釣りということはありえない。形が地獄なら響きも地獄である。形が戦争なら響きも戦争である。真釣りとは、万古末代弥栄の響きであり、魔釣りは滅びの響きである。今のままなら滅ぶしかなくなるから、大神が「情けと花の仕組み」で真釣りを戻す仕組みを構えたのである。魔釣りを進歩と間違えば、幻の天国を夢見たまま滅びを迎えることになる。大神が何もしなければ、魔釣りはなく、人類の歴史=現代社会も存在しない。今あなたが生きているのは、戦争ができるのは、真釣りの大神の情けであるゆえであり、そのまま続けるならば、すべて滅ぶ。

心に闇があるなら響きは魔釣りであり、そのままを形にしたら、最後にはすべてが滅ぶ。「鳴る」は「成る」の生かされある神響きであるから、魔釣りの響きで真釣りの世にすることは絶対にできない。形の水を基(台)となす「治す」では、何も直らないどころか、すべてが流れてしまう。火を元の台にして直すためには、まずは、あなた自身が真釣りの真コトを鳴らせる(魔釣りの魔コトの響きの思考を止める、アヤマ知をすべて捨てる)ことである。家を建て直すには、基礎も含めて、古家の形を跡形も無くすべて壊して更地(土)に返す必要がある。神仏も含めて、魔釣りの世は真釣りの中の子宮である。心に真釣りを鳴らせれば、真釣りが分かる。身欲、損得を捨てて行じれば、真釣りに戻ることができる。

魔釣りから真釣りに変わる瞬間の苦の響きに惑わされないことである。他人に真コトを通させるのではなく(社会を変えるのではなく)、あなたが真コトを貫き通せばよいだけである。分かってもらおうと思うのは魔釣りであり、真コトがある積もりであっても、それは、あなたの思い込みである。あなたが真コトであるならば、分かってもらおうとは思わない。真釣りは魔釣りと裏表であるから、魔釣りの者から見れば、無と同じ感覚である。真釣りの世を言葉で語り、真釣りの響きとはどんなものかを話し、真釣りの響きで生きる姿を見せることはできるが、真釣りの響き自体を魔釣りで生きる者に渡すことはできない。真釣りは自らの響きであるから、自らが真釣りに戻らない限り、真釣りとは何か、真コトとは何か、を本当に知ることはできない。魔釣りで行じた癖は、真釣りを行じて取るしかない。全く逆さまのハタラキの響きであるから、損得生死時空を超えて行じる覚悟が必要である。真釣りはアタマでは取れず、金でも買えない。神社の参詣や、教会での祈りや、教典の研究や、読経では絶対に取れない。真コトは、自らが行に結んで、初めて聞く神の徳である。
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子宮の外は、真釣りの世界であるから、魔釣りのままなら死産となる。少なくとも真釣りを思い出して産まれ出れさえすれば、真釣り外した分の艱難辛苦はあるが、真釣り戻しをし続けることで、必ず本当の天国を体験する時が来る。神の世界の出産は一度だけである。真釣りを外した神を真釣りに戻す子宮は、万古末代、ただ一度だけである。今のあなたにとっても、生まれ変わりはあるにせよ、同じ肉体での出産は一回きりである。本当のあなたの出産は、最初で最後の一回こっきりの出産であり、この出産を終えれば、真釣りの体で、真釣りだけの神代で、産まれることも死ぬこともなく自らが自らを産み生み続ける神人となれる。自分が自分の父であり母であり子である、自分の世界という子供の父であり母であるという、父子母(火土水)が三位一体となった永遠の天国で永遠の生を生きられるのである。今のあなたもあなたの世界の親であり、自らの子(現実)に不都合があれば、あなたは親の役目を果たしていない。あなたが教わった親の役割がマ違っているのである。あなたの心に曇りがあれば、親の役目を取り違う。あなたが親の役目を教わった親は、逆さまの世界の逆神の子孫だったのである。本当のあなたの教えることが、本当の親の態度である。嘘の親に教わったことはすべて捨てて、本当の親の生き方を学び直して欲しい。

真コトでなければ真コトの世を総べて統べることはできない。今のあなたは、親(生き様)を変えなければ、真コトの世界で自由自在に生きることはできない。日月地を統べるのは真釣りの神でなければできず、この世で真釣り戻しの天命を果たした神だけが、真釣りに戻った神が神の世を統べる、末代滅びない本当の天国に戻るのである。あなたが、誰かの助けを待っているならば、あなたには助けは来ない。あなたが救い主を探しているならば、それは滅びへと続く道のりである。救世主はあなた自身であるから、あなたの改心次第である。あなたが天地の理法に戻らない限り、大神でも手を貸すことはできないのである。

あなたが神の助けが欲しいならば、神に祈り、仏にすがるのではなく、あなた自身が天地の理法に乗ることである。大神の意に乗ることが、大神の響きに共鳴することである。大神の響きに共鳴すれば、あなたは大神の道に戻ることになる。しかし、あなたが今まで違反した分、辛抱が必要になる。あなたがアヤマ知で奪った分を返す間、あなたは苦労をすることが必要になる。奪って楽をした分、返す苦労が必要になる。その苦労は、奪って楽をした自分自身が生み出したものである。自らで自らのケツを拭き、自らが自らのツケを支払うならば、あなたは、自らのしたことに責任をとったことになり、ミロクは約束される。あなたが自らの苦を一つでも何かのせいにするならば、あなたには滅びが約束される。元々「神」であった者が、神の掟を破ったままで、神世に生きることはできないのである。
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自らが快欲に囚われて、マ違ったやり方で手にした分(響きを乱した分)は、キッチリと返さなければ(響きの乱れを引き受けなければ)あなたは、自らのしたことの責任を取っていないことになる。現代社会の法的、人道的、社会的責任云々は、『誰か(何か)の体験(感情)は、他の誰か(何か)に責任がある』というアヤマ知に基づくもので、それは真釣り外した世での責任概念であり、中身は空っぽである。お金の返済(借りの清算)も同じことで、自分の苦の体験(否定的感情)の責任は、真釣り外した自分自身にしかなく、自分が自分の加害者であり、それは、他でもない、天地自然の本当の神への冒涜者であることの証である。どうあっても自らの責任を認めないならば、あなたは永遠の死を迎える。

マ違ったやり方で自ら作り出した苦は、自らが引き受けるのが当然のことである。真釣りが神の掟であり、真釣り外した身魂は本来は存在しえない。あなたは(今の世は)『情けと花の仕組み』がなければ、今ここに存在しないのだということを決して忘れないことである。大神の情けがあるゆえに存在できるのだということをしっかりと自覚して、真釣り外して天地自然(大神)に迷惑をかけたことをお詫びして、真釣り戻す苦労に耐えることが、自らのしたことの責任をとることであり、天地自然と真釣り合わすことになる。『自分には覚えがない』『そんなのは詭弁だ』云々と言うならば、あなたにはミロクはない。自分がしたことが自分の現実に返るだけだから、好きにすればよい。自らが犯したマ違いによって自らが生んだ苦を自らが引き受けることが真釣り戻すことである。あなたの命は、あなたのものではない。その苦労を避けるならば、命を差し出そうとも、あなたに天国はない。

文明の中での苦労は、苦労しただけ天地の理法を外して滅びに至る苦業である。真釣りを戻す苦労は、永遠には続かない。真釣りを外した分だけ終われば、苦は消える。なぜなら、真釣りには苦はないからである。あなたが、真釣りに戻るための苦労に耐えることが、自らの違反の清算の証しであり、大神への本当のお詫びの印である。本当の感謝の印である。あなたが掟を破っている事を知らせてくれた「情けの苦」に感謝することができるかできないか、それが、あなたが永遠の命を得るための踏絵となる。苦を避ければ、悪を裁けば、自らがしたことの責任を放棄することになる。自らが自らを滅ぼす大きな取り違いに心底気づかなければ、あなたは消える。誤魔化しは効かない。自分の甘えや誤魔化しを一番知っているのは自分である。自分が自分を生かすか殺すか、唯一最大の分岐点である。
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あなたが、あなたの体験するもの(体験すること、状況、感情、考え、知識、常識、生き方)を、たとえ一つでもあなた自身以外のものが原因で体験している、起きていると思っているならば、あなたは重大な勘違いをしていることになる。あなたには偶然は無い。すべては、あなたのしてきた選択の結果である。あなたが『誰かに騙された』と思っているとしても、その誰かの言うことを聞く選択をしたのは、あなたである。『強いられた』『やむを得ず』という表現を使ったとしても、自分が選択したことには変わりは無い。あなたの同意なしで、あなたを動かす事は誰もできない。あなたが何かを恐れていれば、それを避けるために誰かの命令を聞き、『強いられた』『やむを得ず』と言う結果になる。しかし、あなたが恐れているそれ自体も、あなたが選択したもの(考え方、思想、知識、学習、信仰)によって作られたものなのである。その考え方、思想、信仰を選択したことが、その恐れを生み出した源であり、あなたの感情は、すべてあなたが生み出したものである。従って、『強いられた』『止むを得ず』と言う言葉は、自己責任を放棄する言い訳でしかない。

あなたが死を恐れているとしても、それはあなたが生み出した幻である。もし、あなたに死があるとすれば、あなたは死を想像することはできない。死を想像しているあなたは死んではいない。なぜなら、あなたは想像しているからである。あなたが本当に存在しなくなることがあるとすれば、その時のあなたは、苦も楽も感じる事はできない。あなたが死後の世界について論じているならば、あなたは、その死後の世界で生きていることになる。死後の世界が存在するならば、あなたには死はない。あなたが言っている死は、限定した世界での死である。「他人の死」を見て、「自分の死」を想像しているだけである。あなたがあなたの死を見る、合わせ鏡である。辞職も、勘当も、肉体的な死も、結局は、ある世界から出ることである。あなたは死んでも死んでも本当に死ぬことはできず、有限の中を無限に彷徨い続けることになる。あなたの体験する世界(景色、姿形)が変わるだけで、あなた自身は生き続ける。あなたが天地の理法に従った時、あなたには天国も地獄もない。時が至れば、死の幻想を持つ身魂がさ迷うことができる世界はすべてなくなる。これが何を意味するのかよく考えてみることである。あなたが真釣りに戻らない限り、命は消える。

あなたの世界は、本来、すべて天国であり、比較する対象は存在しない。あなたは一つの目しかもたず、善悪、美醜、苦楽、早遅、寒暖、進退、生死、天国地獄といった二極分裂した見方はできない。あなたが分裂した見方を選択しているから、分裂して見えるのである。この見方を「分かつ知」と言う。この見方で見ている限り、あなたは分裂し続けるだけで、永遠に統合することはできない。あなた自身が分けた世界で『より早く』『より楽に』と思うとすれば、それは、自分が作った世界を自らで分け続けることになる。『善悪があるから悪を裁くのだ』と言うとする。しかし、『善悪がある』は普遍的見方ではなく、あなたが作ったものである。『善悪があるから悪を裁く』と言えば、悪を裁き続けることになる。悪を裁く理由である『善悪がある』は、あなたがそう思っているだけであり、それを裁く理由にすれば、裁きの堂々巡りから抜けることはできない。あなたが、『善悪がある』と言っているから善悪があるのであるから、あなたは、自分が決めたものを理由に自分の行動を正当化していることになる。自分が自分を正当化しても、それは普遍的正しさではない。
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自分が自分に騙されていることに気づかない限り、裁きの輪からは出られない。自分の都合で決めた法律に自らが縛られ続けることになる。自分が決めた決まり(法律、ルール)を自分を正当化する根拠にしても、全く意味のない茶番である。自分が自分に課している決まりを変えない限り、あなたが自由になることはない。あなたが、あなた以外のものを理由にして『自由にならない』と言うならば、あなたは永遠に自由にはならない。あなたが理由にしている「何か」があなたを縛るものであるならば、あなたは、その「何か」を変えようと画策することになる。あなたは、その何かが変わるまで、自由になることはできない。あなたも、あなた以外の誰かも、このトリックに気づいていないとすれば、お互いにコントロール合戦を続けることになる。そして、何かに権威をつけて上下を決める主導権争いのゲームを作り出し、自分の外の力を使って相手に勝とうと考える。しかし、その力は、あなたの取り違いが作ったあなた自身の力であり、あなたと同じやり方で、誰かが別のものに力を作り出し、あなたの力を無効にする事ができる。あなたがどんなに力を持っているとしても、その力は永遠ではなく、あなたは常に攻撃に備えなければならなくなる。あなたは、常にスパイ活動をしていることが必要になる。あなたのその不安定さは、あなたが作り出した戦いの目に原因がある。あなたがあなたに緊張を強いているのである。自分が戦いをやめない限り、戦いは続く。『戦いがあるから戦う』と言えば、あなたはその世界で戦い続けることになる。『法律を守らなければならない』は最大のトリックである。

「競争原理」という原理はない。原理だと言えば、そこから抜けることはできない。競争が原理だとすれば、あなたには自由も天国も平和も作れない。競争(勝負)が原理ならば、それは、敗者がいることが前提であるから、自由や平和は、あなたにとってのものであり、世界の平和を実現することはできない。世界の平和が実現したら、戦いはできなくなるからである。『世界平和のために戦う』という矛盾を解消した時、本当の世界平和が訪れる。『自由のために戦う』と言っている限り、自由の奪い合いが続き、結局、両方とも自由は無くなる。自分が自分を縛っていることに目覚めない限り、本当の自由は無い。社会システムに矛盾があるならば、その社会は矛盾で作られた社会であるから、始めの初めのゼロに戻して作り直さない限り、社会の矛盾が顕著になり、争いが激しくなり、自己崩壊する。

あなたが本当の天国に戻れるか戻れないかは、あなたが天地の理法に従うか従わないか(違反を清算するかしないか)によって決まる。あなたの決心次第である。あなたが、あなたの不快感をあなた以外のせいにし、また反対に、あなたの快感をあなた以外のお陰と思うならば、それは、あなたの誤った解釈である。自分以外のものが原因であるというその見方自体が、その体験の原因である。「いい人」「悪い人」というのは、「自分にとって」である。あなたが快、得、幸を感じた時は感謝、不快、損、不幸を感じた時は文句、であり、その基準は、『自分にとってどうか』である。自分の都合で、誰かを天使にしたり悪魔にしたりして、感謝したり、文句を言ったりする、自作自演の独り芝居をしているだけである。真釣りの世は、楽のみ、善のみ、美のみ、正のみ、聖のみ、清のみが当り前の世界である。
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もともと天国であるあなたには、天使も悪魔もいない。それはあなたの取り違いが生み出した幻である。天使と悪魔を自分の都合で使い分ける、自分勝手な行為である。天使と悪魔を生み出したのはあなたであり、天使も悪魔も、その源は同じであることになる。自分を益したり害したりしたのは自分なのに、その益や害は、誰かが自分にもたらしたものだと錯覚し、それを真実と思い込んでいる、幻想の世界の体験に過ぎない。あなたがその世界にいる限り、天使と悪魔の響きに翻弄されることになる。天使や悪魔の響きがあなたの現実に現われる。悪魔祓いや厄祓い、奇跡を見せる者を追いかけ、憎しみ合いや報復合戦、他人の世話や墓参りから抜けられない。あの世もこの世も同じ仕組みである。霊の戦いも人間の戦いも、報復も霊の祟りも、すべてが同じ仕組みである。この世にいようとあの世にいようと、あなたは、恨みと憎しみ、感謝とお陰の世界で、右往左往することになる。

あなたは、もともと、苦も楽も感じない、何の苦労もない、何の不自由も無い世界、いわゆる、天国にいた。しかしある時、あなたは、天地の理法に違反したため、天国を自ら離れることになってしまった。俗にいう、エデンの園からの追放という形で伝えられている出来事である。「知恵の林檎」は、アヤマ知のことであり、「蛇」は、魔釣りの神のことである。『蛇に騙されて知恵の実を食べた』というのは、魔釣りに囚われてアヤマ知を選択したということである。正確に言えば、エデンの園も、天国を離れた世界の内の天国であり、すでに天国ではない。本当の天国を離れた後の天国を本当の天国と勘違いしているから、エデンの園を天国としているだけである。ここでは、「自ら離れた」というのが鍵である。

あなたが自ら天国から出たのか、誰かがあなたを出したのか、どちらか一つが事実である。『騙された』という言い訳は通用しない。騙されたのはあなたであるから、あなたが自ら出たのと同じである。誰かの都合で、その誰かがあなたを天国から追放したのではない。あなたが自ら天国を離れたのである。あなたが、もし、天国を望んでいて、あなた以外のものにその実現を託したり、あなたを邪魔するものとして責任を転嫁したりしているならば、あなたは天国には永遠に戻れない。あなたを天国から追放したのはあなた自身だからである。あなたが自ら戻らなければ、家に帰ることはできない。『誰かのせいで』と言うのは、自分で家出をしておいて、誰かが自分を追い出したと思い込んでいるのと同じである。
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あなたの源は、いわゆる、大神の響きであり、大神とは、万象万物の創造の源である。本当の神には争いは無い。なぜなら、自らの力で、無からすべてを産むことができるからである。絶対無限の力であるから、永遠に作り続けることができる。失うことはありえない。失ったと思うならば、それは、失ったと思いたいがために自らで作るのをやめたというだけの遊びをしているに過ぎない。もし、失ったと本気で思うならば、それは本当の神の響きを忘れている証しである。前者ならば、自らが作ればよいし、後者ならば、自らの違反を清算する必要がある。誰かが誰かを助ける必要はなく、義務もない。無限の創造者は、限りあるものを奪い合う必要は全く無い。自らが、自らを自由にできる唯一の存在である。

あなたは、もともと、神であった。この故に、あなたは、自らが神であると思い込むことができる。自らが自らの力で生きていると思い込むことができる。あなたは、自らの力で生きていると言いながら、誰かにすがり、誰かのせいにしている。誰かの行動によって自分が困る状況になるから、その誰かにそれをやめて欲しいと言う。あなたは、天地の理法に違反した掟を、正しい掟だと勘違いしているから、あなたがその世界の中で正しくあろうとするほど、楽を求めるほど、善を求めるほど、逆に、天国から遠ざかっていることになる。あなたが、今の世の善(いいこと)を行おうとすればするほど、奇麗、安全、安心、快適、便利、癒し、やすらぎを求めるほど、それとは正反対の、あなたが最も避けたいアベコベの体験に自らを誘っていることになる。あなたは天国を壊しているから、天国を作ることはできず、問題解決どころか、問題を生み出す方法しか考えられなくなっている。従って、あなたが天国を求めて進むほど、問題を増やすことになる。そして、その問題を解決しようとして、また、新たな問題を産み出していく。あなたが「問題」を解決すればするほど、実際には、より難しい試験問題を自ら作り出して、解かなければならなくなる。

この試験問題はすべて実技テストであり、実技を行わない限り、問題を解いたことにはならない。最後の試験問題は『魔釣りの響きで真釣りの世界を創れ』という試験問題となる。正解は『自分が消えること』であるから、あなたは採点結果を知ることはできない。魔釣りの響きで生き残りを図っている者は全員、回答不能となり、今のまま問題を解こうとすれば自分がいなくなる。自分が真釣りの世に存在して、採点結果を知るためには、あなたが真釣りの世界を作るためには、真釣りの響きに戻ることしかない。自動車教習所に例えれば、速度無制限のミロクの車(肉体)の運転技術は、ハンドル、アクセルブレーキ、シフトギアまで、まったく逆さまであり、瞬間加速、瞬間停止、空中も海中も地中も自由自在に操れる技術が要求される。車と完全に一体化して事故を起こさない技術を習得しなければ、教習所は卒業できない。検定員への賄賂は通用せず、オマケのハンコももらえない、全員に平等公平な教習である。卒業検定は、全員合格できるが、それまでにクリアすべき教習課程と修了検定の回数は、真釣り外しの度合いによって各自異なる。言わば、完全オーダーメイドの教習課程であり、それがどんなに面倒な、難しいものであっても、それをオーダーしたのは真釣り外したあなたであり、文句を言えば、さらに階段を増やすことになる。最後まで文句を言い続ければ、卒業検定は受けられない。真釣りのミロク(本当の天国)の車(肉体)は、「元つ大神国公安委員会」が発行する免許証(真釣りの真コト)を手にしない限り乗れないが、今の世のどんな極悪人にも、取得資格は平等に与えられている。
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今のあなたは、快適な社会どころか、問題を産み続けてどんどん複雑な社会を進めていっているのである。人類はそれを、文明の進歩、科学の発展と呼び、『複雑なものを生み出せるほど高度な、先進的な文明だ』と言って、人類と呼ばれる「本当の神を知らない物まねの猿」の世界の中で優秀さを勝ち誇って自己陶酔に浸っているが、実際は、天地自然の理法を破り、自然を破壊し続け、混乱と混沌を深めていっているだけである。言うなれば、自らでわざわざ複雑な問題を作り出し、自らの力で解決し(た積もりになっ)て、自らの優秀さに酔いしれる、エゴイストの一人芝居に過ぎない。その猿芝居の正体はと言えば、自らが、「奇麗な」天恵を食べて「汚い」ゴミに変える汚物製造機であることを知らず、「糞尿」を撒き散らしているだけである。自らが撒き散らした糞尿を見て、自らが耐えられないから、形だけは奇麗にするが、根本の響きは何も変わっていない。従って、お芝居が進むに連れて、糞尿が増えるだけで、臭い、汚い世界となる。臭い物には蓋をして、それを誤魔化そうとするが、実際は、どんどん手におえなくなり、処理できない汚物があふれ出て、最後の最後は、自らの糞尿まみれの臭い、醜い本性を現すこととなる。これが、あなたという人間の本体、肉体に入っている魂、形のカバーを外した今のあなたの身魂の姿である。言うなれば、今の神話で言う、「黄泉の国からイザナギを追いかけてきたイザナミの醜い姿」はあなたの本性であり、最後は、表の仮面の下に隠した姿をすべてさらけ出すことになる。

あなたが体験する汚泥混濁は、誰かが撒き散らしたものではなく、あなたがその世界で撒き散らしたものである。糞尿を撒き散らしているならば、あなたは、誰にも文句は言えない。支離滅裂の生き様で私利私欲を追いかけている限り、あなたは、本当の自分と知り合うことはなく、真コトを捨てることになる。自らの正体を知り、それを認めて、自らのすべての過ちを清算し、散らかしたおもちゃの後片付けをしないならば、あなたは、ゴミの山もろ共、魔釣りの焼却場、魔釣りの火葬場で、奇麗に処理されることになる。あなたが自ら処理場に居座り、自ら火葬場の焼き釜に入ったのである。あなたが、自らのケツを拭かないならば、本当の清潔な世界で、本当の快適、安心、安全を謳歌する夢は露と消える。支えを離れて滅びに向かって分裂し、私的な理屈で私的な欲望を追った末路は私滅である。

あなたは、真中に大神の真釣りの響きを持っているから、問題があるのはおかしいと感じる。しかし、自分は正しいと思っているから、現われた問題を自分以外の何かのせいにする。人類の歴史において、時代が進むほど問題が増え、かつ複雑になるのはこのためである。原因は自分以外にあると思っているから、他人を裁き、神を恨む。厄祓いをすれば自分を守れると思う。この故に報復合戦がエスカレートし、裁き合いがどんどん激しくなる。悪霊に憑かれるのも、悪人に騙されるのも、仕組みは同じである。自分の悪神の響きが悪霊を呼び込んでいるのである。本当の原因を直さずに、アヤマ知で作った法律を使った裁判や、魔釣りの霊能力を使った悪霊祓いをして、自分の外にある、自らに害を及ぼす源に見える形を排除して安心している積もりでいる限り、あなたは地獄を進めていく。その結末は、崩壊、滅亡、破滅である。本当の天国を望むならば、最も望んでいるものを作ろうとして、逆に、最も避けたいものを作り出しているという事実に気づかなければならない。
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あなたが、あなた以外の何かを裁くならば、あなたは、大変な過ちを犯していることになる。裁きというのは、あなたが善で、裁く対象が悪である場合に成り立つ。しかし、あなたに善悪があるならば、それは、天地の理法に違反した証拠である。天地の理法に違反すれば、それを教えるために、あなたの外に不都合が現われる。つまり、裁く対象である悪は、あなたの違反ゆえに現われたものである。あなたは、あなたの生んだ悪を裁いていることになり、自分を裁いていることになる。あなたが、外の悪に原因があると言い続けるならば、あなたは、あなた自身を裁き続けなければならない。自分が自分を裁いていることに気づかなければ、最後の被告はあなた自身となり、自らを死刑に処することになる。

あなたが天地の理法に違反していないならば、あなたには不都合はなく、他人を裁く理由は無い。あなたが天地の理法に違反しているならば、あなたには裁く資格はない。今ある法律は、天地の理法に違反した世界を維持するための法律である。従って、法律を使って誰かを裁くならば、あなたは、天地の理法の違反をし続けることになる。確かに、あなたは、その世界では生き延びていて、不快感を解消したことになる。しかし、その結果は、天地の理法に従ってあなた自身にすべて戻ることになり、最後は、天地の理法に違反し続けたあなたという存在が、天国から消えることになる。『他人を裁ける』というのは、取り違いをした世界で教わった思想が作り出す幻想である。価値判断を下し、善悪損得を決め、どちらにするか、という分かつ知を使った見方を捨てること、言い換えれば、自分の思いと口と行いを一致させること、そして、その結果体験すること一切を自分以外のせいにしないことが、そのことが、あなたの深奥に封印された真実、本当の天国の響きである真コトを復活する唯一の方法である。自分の思いや行動も含めて、『許さない』『認めない』という思い、「裁く心」を綺麗サッパリ捨てなければ、あなたは、自分を殺すことになる。

本来は、天地の理法に違反すれば、あなたはその場で消えることになり、今ここにあなたが存在することはできない。あなたが今ここに存在できるのは、一度だけ天国に戻る機会を得ているからである。あなたが、自らの意志で、自分が違反していることに気づかなければ、本当の天国に戻ることはできない。自らを善の存在であると思い込んでいる者に、それが誤りであることを教えるにはどうすればよいか。苦の響きが返るように仕組みを作ればよいのである。あなたは、自らを正しいと思い込んでいるから、あなたに快感を与えると、あなたは正しいと思い続けることになる。従って、あなたに不都合を渡すことで、あなたは違反の事実に気づくことができる。あなたは、もともと、不都合がない存在であり、苦が現われれば、おかしいと思うからである。しかし、苦があるのが当たり前であると思い込んでしまえば、情けの苦を避け続けることになる。「目には目を」「愛のムチ」というのは、他人が他人を正すと勘違いした解釈である。自分が自分のしたことを正す、のであるから、他人が他人を裁くことはありえない。真釣りの者は裁く必要がない。裁判という制度は、この取り違いを公然とシステム化したものである。あなたは、真中に天国の響きを持っていることを思い出さなければならない。天国の響きを持つ者に、苦があるのはおかしい。その苦は自らが作り出したものである。苦を自分以外のせいにするならば、それは、全く逆さまの思い違いである。天国を壊した者が、苦を避けて天国に戻ろうとしても、それは叶わない。天国を作ったつもりが、自らの滅びを呼び込んでいることになる。
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苦が現れた時、あなたがどう反応するか、が鍵である。自らが違反したことを認めるならば、他人を裁くことも、不平不満を口にすることもできない。その苦は、あなたの違反の結果だからである。もし、あなたがあなた以外のものを裁くならば、あなたの苦はどんどん増えることになる。一つ残らず自らが呼び込んだ苦であることを認めない限り、あなたは、どんどん滅びの道を駆け降りることになる。都合のよいことだけに当てはめるようないい加減は、一切通用しない。「すべて」と言ったら「すべて」である。自らの理屈で、何とか苦を避けた積もりでも、その結果は、必ず、更なる苦となって戻ってくる。強制はないが、いい加減なことをすれば、最後は残念では済まなくなるから、よくよく考えて、どうするかを決めることである。もし強制だと感じるならば、それは、他ならぬ、違反をした自分が自分に課した強制である。一言違わず確実に実行しなければ、自分だけが滅ぶことになる。他人は誤魔化せても、自分は誤魔化せない。自分を誤魔化せば、自分が滅ぶ。

あなたは、今まで、あなたを天国に戻すための鏡として渡された苦を逆恨みしていたのである。自分に原因があるものを、自分以外に原因を転嫁すれば、それは、自滅の道を意味する。本来は、この世に苦は存在しない。しかし、天地の理法に違反した者には、苦の形でお知らせが来る。『苦があるのがおかしい』のであるから、無いはずの苦を他人に渡すのは変である。他人に渡すならば、あなたは違反の事実を認めていないことになり、ますますお知らせが厳しくなる。自業自得であるから、天地の理法に違反した者は、本来は、存在できない。自業自得であるから、あなたは自然淘汰となり、自ら滅ぶ。あなたに苦を渡すのは、あなたを苦しめるためではない。あなたを天国に戻すためである。本来は、誰もあなたを助ける義務はないが、違反した者に一度だけ再生の機会を与えるため、違反した選択をする度に、苦をもって知らせる「情けと花の仕組み」が作られた。死刑の執行猶予、敗者復活の機会が一度だけ許されたのである。苦は違反者への制裁ではなく、違反者を生かすための「情け」である。情けを逆恨みすれば、本当に情けない状況に陥ることになる。
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天地の理法に違反したことを忘れた集団は、勘違いをして、自らが神の如く振る舞い、全く同じように見える仕組みを作った。制裁、報復、裁き、を与える仕組みを進めてきたのである。『罪を犯した者は償わなければならない』と言うが、それは罪を犯した者同士の罪の擦り合いに過ぎない。天地の理法の違反は、違反をした本人だけがその結果を追う。誰かが誰かの罪を負うことはない。誰かのために清算するのでも、誰かに清算させるのでもない。違反した自らが自らのために清算するのである。しなければ、自らが滅ぶだけである。従って、『謝罪を要求する』という行動はありえない。全員が、自らが犯した罪を自らが背負わなければならない定めであるところを、他人に背負わせ続けたのが人類の歴史である。その歴史を正しいと言うならば、あなたは、あなた自身を永遠に殺すことになる。

天地の理法の違反の清算の機会は万古末代一度きりである。俗に言う魂としての違反の清算である。魂の死は永遠の死を意味する。肉体の罪の清算で右往左往していては、自らの本当の命の種火を消すことになる。種火が消えれば、あなたは永遠にすべての世界から消え去ることになる。あなた自身が違反を清算しない限り、あなたの生き戻るところは無い。

あなたが今までしてきた違反は、消せない。あなたが今すべきことは、自分が苦を体験している事実を認めることである。あなたには違反した覚えがなくとも、苦があるのが、違反の証しである。それを素直に認めて、責任転嫁を一切やめ、不平不満を一切口にせず、その結果生じる、苦労を辛抱することである。弱音を吐いたり、言い訳をしたり、誤魔化したり、八つ当たりをしたり、他人を責めたり、神や社会のせいにしたり、あるいは自殺をして逃げようとしたり、神や仏に救いを求めたりしても、何の解決にもならない。それどころか、すればするほど違反を積み重ねることになり、結局は今以上の辛抱をしなければならなくなる。あなた自身の苦を自ら増やしていくだけであり、その結果として、あなたがあなたの首を刎ねる末路に至る。苦を避ければ避けるほど、苦のスパイラルが進む。

あなたが天地の理法の違反を続けるならば、あなたは魔釣りの蛇の知恵の神の信者(真釣りのヒノモトに現われたオウム信者)であり、真コトの竜の真釣りの政府(真コトのヒノモト国家)に反抗する国家転覆を企むテロリストとなる。自然界の掟、インディアンの掟、マフィアの掟は厳しい。掟を守ることは、生存のための絶対条件である。家族も他人も区別なく情状酌量もない。掟に反する者は問答無用の切り捨て御免である。自分に甘い者ほど往生際が悪い。アタマで生きている者ほど、甘い砂糖の誘惑に弱い。脳はブドウ糖をエネルギーとする。砂糖は甘く、ベトベトとくっ付く。煮詰めると、固い飴になる。砂糖を取り過ぎると糖尿病になる。アタマで生きると、最後は、目が見えなくなって、命を落す。この世の型示しは、すべてが元つ大神の真釣りの仕組みの反映である。病気を治すことや、物の性質を研究することに血眼になっていると、大出血して死に至る。あなたの本当の死がやってくる。あなたの本体(魂、真コト)の死は、二度と生まれることができない、永遠の死を意味する。真釣りの掟を破った者は、万古末代滅びの響きを渡されることになる。掟を破った者は、命乞いなどしても何の役にも立たない。自分が掟を守っていれば、何の不都合もなく、責任をとる状況にはならない。掟を破った自らの態度を棚に上げて、命乞いや言い訳や逃げる算段ばかりをするならば、始めから掟を守っていればよかったのである。掟を守るのが当たり前であり、言い訳は茶番である。掟を破れば世を乱すことになるから、掟を破った自分がキッチリと落とし前をつけるのは当然の義務である。
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魔釣りの世では、世界に貢献しても、支配者の都合で邪魔になれば抹殺されることがあるが、真釣りに関しては、あなたが掟を守っている限り、絶対に抹殺されることはない。『本当にそうなのか?』と疑うのは自由だが、あなたがその疑いを持って見ているならば、魔釣りの世に漬かっている証しである。真釣りは、自分の都合で抹殺する必要はない。外国は銃殺刑だが、日本は自己責任の腹切りである。これは取り違いをしたゆえの型示しだが、その真意は、真釣りの神法違反は処刑されることはなく、全員が、穢れたハラを真コトの神剣で切って、自らで滅ぶのが真釣りの掟だということである。しかし、時節が来れば、世を真釣りに戻すから、問答無用の切り捨てとなる。それは、一度だけ与えられた改心の機会を自ら棒に振って、いい加減に生きてきた自らが招く結末である。形は処刑に見えるが、自らの違反によって違反を自覚することなく自ら滅ぶということであり、結局は、切腹なのである。テロリストは抹殺されても文句は言えないのが世の定説である。真釣りの神法に従えば、今のあなたは抹殺される(魂の切腹をする)運命にある。それは、掟を破ったあなた自身の招いた結果であるから、掟破りのあなたには文句を言う資格は一切ない。

今のあなたは、元つ天の真コトを封印して、元つミロクの天国を破壊した世界を善だと主張している。蛇は頭を潰さなければ死なない。自らを滅ぼす蛇の封印を自ら解いて、快欲を追いかけて、自分勝手に蛇の知で生きているならば、最後は、あなた自らで頭を潰して、自己責任をとって滅ぶ結末が待っている。邪を祓い、真コトをタテ分ける神剣「草薙の剣(真コト)」は、両刃の剣である。あなたを救う剣であると同時に、あなたを滅ぼす剣でもある。あなたが剣の使い方(マコト)をマ違えば、自らで自らの斬首を招く結果となる。

現代社会と言われている世界は、天地の理法に違反した世界であることに気づかねばならない。自由、平等、博愛、平和、天国なる言葉は、現代社会にある、どんな思想でも実現することはできない。「他人のため」と言う思想は存在しない。それは、誤魔化しである。実際は、他人が喜ぶのを見て自分が喜びたいのである。他人を助けることで、自分の闇を解消することが目的である。どんな理屈を持ち出そうとも、この事実を誤魔化すことはできない。これは事実であるから、怒ったり、否定したりしても、自らの首を締めるだけである。自分が何かをする動機は、自分のためである。自分の行動の結果は、最終的には自分の体験となる。自分が何かを体験することが、自分の行動の目的である。『他人のために』と言うのは、『自分だけのために』を隠すためのカモフラージュである。自分が自分に騙されていることに気づかなければ、永遠に、他人のために生きることになる。しかし、それは、「他人のため」にはならない。自分のための他人のためであり、自分のために他人を利用する行為である。「他人のため」は「自分だけのため」を美化する偽りの仮面である。
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すべては自らが源であり、天地の理法を守っている者には、不都合は存在しない。従って、被害者や、困っている者が存在すること自体がおかしい。全員が、自業自得である。違反をしていない者は、困ることはありえない。すなわち、困っている者を助けたいと思う者も、困っている自分を助けて欲しいと思う者も、自らの違反を他人に転嫁しているのである。つまり、自らが自らを困らせて、その結果を他人に負わせているのである。このゲームの結末は、共食いをしながら、最後には、誰も残ることはない「破滅」である。あなたが、泣こうが、わめこうが、誰かに罪を着せようが、神を恨もうが、誰かを殺そうが、今この世でどう教わっていようが、助けることも、助けてもらうことも不可能なのである。

形の助け合いは、もたれあいであり、実際は、何も助けになってはいない。自らの違反の清算を回避しているだけで、結局は、自らがもっと困ることになり、あれこれと逃げる算段を画策しても、最後は、全員が自分自身の違反の清算をすることになるから、誰も助けてはくれない。自分が自分を助けることができなければ、天地の掟通りに、違反した者は自ら消える運命となる。天地の掟に例外はない。誰も逃げられない。神も、仏も、鬼も、悪魔も、王も、聖者も、庶民も、裁判官も、泥棒も、万象万物、天地の理法に違反したものは、すべて滅ぶのが定めである。あなたが本当の自己責任を取らなければ、自滅である。

あなたのことをすべて知っているのは、あなただけである。あなたの見たもの、聞いたこと、教えられたこと、感情、感じたこと、行動の結果、知りたいこと、聞きたいこと、不安、悩み、欲しいもの、あなたの体験する世界のすべてのデーターを完全に把握しているのは、あなた自身だけである。あなたのすべての体験を知っているのは、あなただけである。あなたの目で見る景色、想像、寝ている時の夢、感情、体の感覚、希望、恐れ、すべての映像を連続して見ることができるのは、すべてを知っているのは、あなただけである。

あなた以外に誰もあなたの選択を左右することはできない。あなたが同意しない限り、あなたを動かすことはできない。あなたが誰かに選択を委ねる時、その誰かに自分の現実を左右させることになる。誰かがあなたに何かをさせたのではない。誰かがそうするように仕向けたのは、あなた自身である。自らで自らの人生の責任を放棄して、自分は何も考えずに、神仏や他人におんぶする。誰かに自らの選択を委ねて楽をし、自らの思い通りにならなければ、その誰かに文句を言う。言うなれば、誰かに自らの現実を壊させておいて、『責任を取れ』と言うような、そんな自分勝手なゲームをしてきたその結果は、永遠の死として戻ることになる。『やられた』『された』『被害を受けた』『何の罪も無い』と言うならば、天地の理法に違反しておいて、平然と、自分は善人だと主張していることになる。あなたは、天地の理法に違反した善悪に基づいて、物事を処理していることになる。自ら創った罪を誰かに着せていることになる。自ら創った苦を避けようと、責任を転嫁していることになる。自分の正しさを証明しようとしても、永遠に証明することはできない。相手の側も『自分が正しい』と思っていれば、際限の無い禅問答、報復合戦になる。できることは、ただ事実を述べることだけである。その後の選択は相手のものであり、あなたには責任は無い。あなたが『わかってもらわないと困る』と思うならば、あなたの正しさは相対的なものである。『正しいとわかってもらいたい』と思っても、それは絶対に不可能である。
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取り違いをした人類のすべての責任転嫁を黙って引き受けていた存在、それが元つ大神であり、この世で言えば、正神真神のカムスサナルノオオカミ様である。その大神が本当の救世主であるが、あなたが魔釣りで生きているならば、大神は悪魔の首領(すべての鬼の大親分)となる。自らが転嫁した責任をすべて引き取るか取らないかで、救世主となるか、鬼のドンとなるかが決まる。大神は真釣りの響きそのものであり、神や仏も含めた三千世界を真釣りに戻す、生死時空を超えた神であるから、今のあなたは逃げることも隠れることもできない。あなたが助かる唯一の術は、魔釣りの世で助かろうとしないことである。

あなたが何も恐れていないならば、あなたは何も強いられることはない。あなたの持っている恐れが、あなたを強いているのである。あなたには、死はない。あなたが死を恐れているならば、それは勘違いに基づく幻想である。自らが作った死を自らが恐れる独り芝居である。あなたがあなたを守るために誰かを殺そうと考えたなら、それは、正当防衛でも何でもなく、れっきとした、自分勝手な殺人である。勝手な幻想を作り、それを理由に、自分以外の命を奪おうと画策している悪魔である。天国に戻るのに、自己犠牲も、他己犠牲も必要ない。自らが違反したのであるから、自らのしたことを償うのは、自らのためである。本来は、「犠牲」という概念はない。もしあるなら、誰かが誰かの意思を無視していつでも命を奪えることになる。形で見れば、「死」を犠牲と言うこともできる。しかし、魂は生き通しであるから、本当の命は無くならない。自己犠牲は美しいというのはアヤマ知である。違反の清算に関しては自己も他人も犠牲にはならない。自らの違反の結果、善悪損得の目で見たら、形が損に見え、苦と感じるだけである。奪って楽した分を返すために苦となるのであるから、差し引き0である。自分が自分を犠牲にした結果の独演会である。

自己犠牲は美しく、利己主義は醜いのではない。天地の理法に従うならば、自分のためにすべてを為すことで、自動的に、他人のため、世のためになるのである。わざわざ、『他人のため』『社会のため』『人の役に立ちたい』と言うのは、他人のため、社会のため、というマヤカシに騙されているのである。自分が苦労せずに楽を得ようとしている者が仕組んだ巧妙な策略である。あなたが同じことを考えているならば、それを使うことになる。あなたに都合がいいからである。善悪のある世界では、自分のためは利己主義、他人のためは自己犠牲、という表現になる。しかし、実際は、どちらも自分のためである。従って、自分のためだけ考えるな、と言えば、他人のために考える必要もないことになる。『他人の気持ちを考えろ』は、依存の世界だけで有効な脅し、相手を殺す言論兵器である。他人のためにもなるが自分のためにもなるのではなく、すべて自分のためにしていることである。
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あなたが誰かに期待する時、あなたは誰かに支配されていることになる。あなたは、誰かの世界を食べて暮らしている。あなたは、誰かの世界を生きていることになる。あなたは、その誰かがいなければ困るのである。あなたが期待しなければ、裏切られることはありえない。あなたの持っている期待が、あなたが感じている「裏切られる体験」の原因である。あなたが期待したことがその裏切りの原因である。天地の掟に従っているならば、「期待」という言葉は存在しない。あなたは思いのままに天国を体験できるからである。期待を満たしてもらおうと思っているならば、それは不可能なことである。あなたがあなたの期待を裏切っているのである。あなたが自らを殺した結果、あなたが自らで他人の奴隷となっているのにもかかわらず、『自由をよこせ』と主張している。辻褄の合わない戯言である。

誰かの期待を満たしてあげようとしても、それは無理である。それをするならば、あなたは、その誰かの奴隷になってしまう。あなたは自ら誰かの人形になる人生を選ぶことになる。誰かの期待を満たすことであなたが満足ならば、それは、誰かの期待を満たしたいという自分の選んだ道であるから、好きにすればよい。しかし、誰かを完全に満足させられないならば、あなたはその誰かの奴隷からは解放されない。『人を困らせてもいいのか』『期待してるぞ』『期待を裏切らないで欲しい』は、期待を満たせば喜び、裏切れば非難する、自分でできないくせに他人にアレコレさせて楽をしようとする、自らの喜びを他人から奪って得ようとしている者の自分勝手な支配言葉であり、あなたがそれに答えようと頑張ったとしても、あなたが疲れるだけである。社会の期待、家族の期待も同じことであり、誰かが誰かの期待を満たすゲームでは、全員がストレスの塊になってしまう。いつか誰かが何とかしてくれる、と勝手に期待したとしても、その期待は満たされない。あなたの完全なる期待を満たせるのは自分だけであり、自分自身が自由になれば、期待は裏切られない。

あなたが持っている思想、常識、習慣は、すべて、あなたが選択したものである。あなたが、あなたに都合のよいものだけを集め、実践を通して訓練し、癖になるまでに見事に完成したのである。自己選択の自動操縦である。あなたは、おかしいと気づいても修正できないほど、どっぷりと漬かっている。間違っているとわかってもやめられない麻薬中毒患者と化しているのである。自らに都合がよい快楽を得るために、脈絡無く右往左往している、酔っ払いである。あなたは、都合のよい眼鏡をかけている事さえ忘れ去っていて、自分の不都合がなぜなくならないのかが全くわからなくなってしまったのである。眼鏡をかけている事に気づかなければ眼鏡を外す事はできず、永遠に真実を見ることはできない。
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眼鏡を外して真実を見て、その生き様を自動操縦になるまで訓練すれば、あなたは本当に楽になることができる。抵抗には力がいるが、自然には力はいらない。あなたが真コトの道に乗れば、癖を直す始めの内は苦しいが、慣れてくればくるほど楽に物事が進むようになり、迷いは消えていき、あなた自身の天国の一本道を道草をしながら散歩できるようになる。そして、真釣りのミロクになるまでゆっくりとお茶を飲みながら、魔釣りの奇(危)劇の結末まで過ごし、真釣りのミロクが開いたら、本当の天国を自由に楽しめばよい。その時が来るまで、真釣り戻しながら、最後の晩餐までの時間を遊んでいればよいのである。真釣り戻しは各自のすることであり、他人の苦しみ悲しみを引き受けることはない。あなたが真釣り戻しの苦労を終えたなら、もう魔釣りの罠にはまることはありえない。

あなたは、いつでも、どこでも、すべてを拒否することができる。すべてに同意することができる。あなたがあなたへの自己責任を完全にとっているならば、迷うことはありえない。あなたが苦を避け、損を避けている限り、迷いから抜け出ることはできない。あなたはアメとムチの世界で右往左往することになり、混乱の中で、全く動けなくなる。自分で考えることができなくなり、誰かの言うことに流され、行き着いた先が自分の望みと違っても、自分で直すことはできないから、その誰かを責める事で、不快を解消することになる。しかし、それをしても何の解決にもならず、ますます、ロボット化していくだけである。あなたが本当に自由になりたいなら、自分で自分の責任をとることである。他人の責任を負わず、自分の責任は着せない。この、矛盾のない態度を貫き通すことが肝要である。

あなたが感じる痛みはあなただけの痛みであり、あなたが誰かの痛みそのものを感じることはできない。誰かにあなたの痛みそのものを感じさせることもできない。あなた以外の誰かが、あなたの痛みを感じたと言ったならば、それはその誰かの作り出した痛みである。あなた自身をすべて知っているならば、それは、あなた自身であり、他人という存在はありえない。他人を認識できるならば、その他人にはあなたのすべてはわからない。「すべか、ゼロか」である。「一部」はありえない。「一部、少し」は、分離した目である。本来、不可分のものをバラバラに見ていることになる。もともと、すべてが一つの音色でなければ、一つにすることはできない。バラバラなものとして、部品の集合として、バラバラにできると言うならば、あなたは、いつでもバラバラになる。すべての有機的結合が一つでも壊れれば、それは、崩壊を意味する。体のはたらきの様子を考えてみて欲しい。一糸乱れぬはたらきがあって、生存が保証される。わずかでも狂いが生じれば、不具合が生じ、結局、再起不能となる。素粒子の世界も、体も、機械も、社会も、国も、宇宙も、あの世とこの世も、すべて、同じメカニズムである。体の各部が主権を主張して、主権争いを続ければ、世界は破滅に向かう。命がいくつあっても足りない。今世の、世界の有様である。
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誰かの気持ちをわかることはありえない。その気持ちは、言葉で表現された誰かの状況をあなたの体験と比較して導き出した、あなた自身の気持ちである。誰かの気持ちだと思っているのは、あなたである。言葉のイメージが全く同じでなければ、同じ気持ちはありえない。全く同じならば、それはあなたを意味する。あなたがあなたを騙していることになる。あなたがあなたを騙している時、あなたは誰かの泣き落としに引っかかることになる。

あなたの問いに正解を出せる者は、あなたの他に誰もいない。あなた以外の誰かの言うことは、それが常識、普偏、真理だと教わったものであっても、あなたがそれに同意するかどうかは、あなたが決めることである。あなたの周りにあるものを選択するかしないかは、すべてあなたに主導権がある。あなたが『自分にとってどうか』という基準で選択すればよいだけである。あなたがそれを真実であると思えば、それがあなたの答えである。たとえあなた以外の全員が間違いだと言おうとも、あなたはそれを正しいと言うこともできる。あなたが、あなた以外のすべての存在にアンケートを取れないならば、あなたはどうやって真実を見分けるのか。あなたが本当に真実だと思ったものが真実である。他人に訊こうとしたり、真実かどうかと疑ったりしているならば、あなたは騙されるかも知れない。

『現代社会は、誰かにとって都合がよい真実を選択した結果、なんと、殺し合いをしている。これは、自分の都合で誰かを殺すことになっても罪悪感を感じる必要はないということを示している。自分にとって都合がよい真実が殺し合いをもたらすものでもよいのだ。』これは皮肉であるが、あなたの真実を選択した結果、誰かに不都合が生じるとしても、それはその誰かが取り組むべき課題である。あなたがその不都合を肩代わりしてあげることはできない。これは「社会問題」にもあてはまる。あなたがあなたの本当の真実を生き続ければ、その不都合は解消される時がくる。それを何とかしようとすれば、元の堂々巡りの世界に戻ってしまう。あなたは、あなたの生き様を正すことだけに専念していればよい。

あなたが『いいのかどうか』と思う時、その答えはすでにあなたが持っている。その問いを誰かに投げかける時、それは、あなたの答えを、あなた自身が信頼していない時である。その時のあなたが信頼しているのは、あなたを教育した、あなた以外の誰かである。あなたは、その誰かの奴隷になっている。その誰かの言う通りに行動したら、その結果がいかなるものであろうとも、それは、あなたがあなたを信頼しなかった結果である。あなたは、誰のせいにもできない。あなたが誰かや何かのせいにする時、あなたはあなた自身への責任を放棄している。結局、誰のせいにもできない。自分が責任を取るならば、あなたはどんなものでも選択することができる。あなたを不自由にしているのはあなた自身である。
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あなたが何かを守っている時、あなたは安全な場所を探す。許可を求めてさまよう。あなたが、誰かに許可を求めるなら、あなたには永遠の自由は絶対にやってこない。あなたが許可を求めると、その許可を与えてくれる者がいる世界の住人となる。あなたは、そこで、安全を確保したつもりになっている。しかし、その世界が永遠無限の天国でなければ、あなたの安全は保障されない。永遠の天国ならば、安全のみであるから、天国に安全という言葉はない。それを探したり使ったりするならば、あなたは天国にはいない。絶対安全な場所に自らを誘導できるのは、あなただけである。たとえ、その途中でどんな体験をしようと、何を見ようと、あなたがあなたの道を完全に信用すれば、絶対に安全が保障されている。ただし、本当の天国は、生死時空を超えた世界であり、絶対の安全が保障される条件は『一切の条件を外せるならば』という条件のみである。つまり、すべての条件を綺麗サッパリ撤廃しない限り、絶対安全な天国への道は閉じる。天国は絶対無限の安全な、自由な世界であり、心配も不安も存在できない。心配がすべてなくなった世界を天国と言う。誰も何も、自らの意志なくして、崩壊はありえない。つまり、崩壊するのは自らの意志以外のものは何も無く、従って、あなたが滅ぶのはあなた自身の意志である。誰かに助けられることはありえない。誰かが滅ぶのはその誰か自身の意志である。あなたが助けることはできない。あなた自身が、自ら犯したマ違いを認めない限り、本当の天国には戻れない。あなたが天国の響きに鳴らない限り、その型示し(現われ)である天国は体験できない。

あなたは誰に許可を求めているのか。あなたは、誰の奴隷になりたいのか。あなたは、許可を与えてくれる誰かのロボットである。しかし、ロボットになることを選んだのは、あなたであり、一切の反抗は許されない。反抗するならば、矛盾したあなたは、自分の都合で法を変える、独裁者と同じである。違反がないならば、あなたはロボットになる必要は無い。天国の奴隷になれば、解放されるのである。天国の奴隷とは完全自由と同義である。

あなたは誰に命令しているのか。あなたは、誰を奴隷にしたいのか。あなたが誰かを支配しようとしているならば、あなたはその誰かに支配されることになる。あなたが支配できるのはあなた自身だけである。あなたが誰かを支配しなければ生きられないならば、あなたは、永遠の勢力争いの中にいることになる。あなたはあなたが支配する者が反抗しないように画策する努力が必要となる。主導権はいつでもひっくり返る。あなたがあなた以外のものに依存する時、あなたはあなたが依存する対象の奴隷となる。あなたが頼っているものがあなた以外のものであるならば、あなたの望みとは関係なく、あなたの自由はいつも奪われる。奪われる自由は奪ったものである。従って、自由の奪い合いで獲得した自由は、本当の自由ではない。本当の自由は今ここにある。あなたが本当に目を覚ませばよいだけである。あなたの闇はあなたが生んだ闇である。消せるのは生んだ本人だけである。
P75
あなたの王は、あなた自身である。あなたが自由になりたいなら、本当の王に絶対忠誠を誓うことである。あなたがあなたの完全な独裁者になれば、何者にもあなた自身の帝国を侵略されることはない。時空を超えた、絶対天国は、誰も邪魔できない。邪魔をする者がいない世界を天国というのである。天国を邪魔する者は、天国には存在できない。天国を破壊する者は、自分を破壊する。つまり、幻の天国の破壊を自らに許せば、本当の天国ができるのである。本当の天国を破壊した者は消える。自らが、本当の天国を邪魔する自らを滅ぼせば、天国が実現する。自分と自分の戦いに終止符を打つことが、戦いのない天国を実現する唯一の方法である。自分に抵抗する自分を黙らせることである。自分に抵抗する、アヤマ知で曇った自分を無視し、雲の中に飛び込んでいく冒険を始めることである。

本当の天国に帰りたいならば、まずは、自分の内に天国を創ることである。その天国の通りに行動すれば、言い換えれば、自分の想像、設計図に従って、文句も弱音も言い訳も不平不満も一切言わずに、苦を辛抱して歩き続ければ、苦はどんどん消え去って、現実が思いのままについてくる。そして、必ず、天国の体験が現実となる時がやってくる。アヤマ知をどんどん捨てれば、今も存在し続けている天国、アヤマ知の雲で隠していた、残る天国が現われてくる。アヤマ知では支配できないのが本当の天国であり、永遠の天国には過ちは存在不能となる。『本当にそうなのか』『もし違ったらどうするのだ』その台詞を持っている限り、あなたはこの世界に歩を進めることはできない。今のあなたの現実がどうなっているか見て欲しい。本当の天国は、あなたの後ろにある。あなたの裏にある。逆さまの生き様を逆さまにすれば、それが、正立、本当に大地に足をつけた生き様である。あなたは、今、目隠しをつけている。あなたを導く者も、目隠しをしている。あなたは、誰を信頼しているのか。誰についていっているのか。あなたはどこをさまよっているのか。本当に天国へ向かっているのか。あなたが目を覚まさなければ、今自分がいる場所の実像を見ることはできない。自分が自分にしている目隠しを外すことが天国を見る唯一つの方法である。盲目の者が導くところは闇である。目を開けた者だけが、本当の天国に辿り着く。

この本は、あなたがすべての目隠しを外した時に見える景色を紹介した旅行ガイドである。


実践・日本真道(事実その2)

現代社会の日本人が忘れた本当の神の道

実践・日本真道  長谷 章宏 著


事実 その2(P76~182)

P76
政治は、政事(まつりごと)である。真釣り、魔釣り、祀り、祭り。元々は、真釣りを基とする神政である。為政者が魔釣りの「アヤマ知」に基づいた政治を行って世を支配しようとしても、世界を正しく導くことはできない。根底に真釣りの響きを持つ世界は、自らで自らを統治できる者(独裁者=独りで自ら裁量できる者)が構成する神の世界であり、支配思想を持つ者は存在できないから、世界支配を企む黒幕はいない。誰もが自分という国を平和に治め、国同士が平和に交わるから、世界全体が平和で自由な天国となる。各自が自由に振舞っても世は乱れないから、外圧を使って統制(支配)する必要は生じない。

現代社会が目指している天国というのは、実際は真釣りの天国であり、逆さまの魔釣りのままで世を進めても、天国は絶対に創れない。魔釣りを真釣りに戻さない限り、目指す天国が実現しないどころか、一番避けたい現実(人類滅亡)が実現することになる。全く逆さまのやり方で何を画策しようとも、神仏も含めて、為政者も市民も、誰も天国は体験できない。真釣りに戻した者には、滅亡という現実は存在せず、本当の天国が現実となる。ただし、真釣りに戻すためには、魔釣りの世で身につけたすべてのアヤマ知を捨て去らなければならない。それを怖がっていれば、魔釣りの為政者の世界に逆戻りとなり、魔釣りの消滅と共に自らの滅亡が現実となる。真釣りの天国は、生死時空を超えた世界であり、現代社会の制度を形だけでどんなにいじくり回そうとも、絶対に実現しない世界である。天国を体験したければ、一人一人が、自分という為政者の根本を真釣りに戻すことである。

政は、正父、と書く。正しい父(正しい火)のハタラキで治めなければ、世は乱れる。魔釣りの政は、正と攵、つまり、正を切り離して×を足場にした傾いた人(=獣)が治める世である。世は乱れるから、アメとムチで治めなければ、収拾がつかない。法律を使った外圧が必要になる。しかし、その混乱の源は、魔釣りの蛇の分かつ知であり、為政者が獣の響きである限り、本当の天国は永遠にできない。従って、獣の世で天国を創ろうとすればするほど混乱することになる。その構成員は、自ら考えることができず、欲望だけを追い求めて、略奪の世界での生き残り(自らの保身)だけを考える「獣」の響きであるから、混乱は収拾できず、世は乱れ放題となる。たとえ、その世の宗教の祀りで国を治めようとしたとしても、その宗教の源は自らが世を支配したい神(魔釣りの知恵の火の神)であるから、結局は同じことである。いくらお祭りをやっても五穀豊穣、国家安泰はありえない。一人一人が自らの身魂の行いを精査し、真釣りで魔釣りの響きを潔斎して「人」と成り、雲一つない晴れ渡った心、静かで清らかな澄み切った本当の誠心に戻ることが世の立て直しの礎となる。正神の精神で聖なる政事が為されれば、永遠の生を謳歌できる天国が続く。
P77
信教の自由、思想・信条の自由、言論の自由が日本国憲法に保障されている。この場合の自由とは、『日本国憲法に基づく「日本国」という国家を存続させる限りにおいて』という条件付きである。どんな思想を持とうと、どんな宗教を崇拝しようと、個人レベルでとどまっている分には問題視されず、国家の監視対象にはならない。獣は自らのテリトリーを侵されるとなると攻撃する。自らの生存に危機を感じれば、危険分子とみなす。日本国の社会システムの根幹を揺るがす思想や宗教については、監視、弾圧の対象となる。多数の国民を扇動して混乱を増幅させるような場合や、国家の転覆を図る可能性のある集団については、即、公安警察が動くことになる。治安維持法や特高警察はなくなったが、その精神は裏の世界で生き続けている。日本国憲法では、言論の自由、表現の自由、思想・信条の自由、信教の自由等々の自由を規定しているが、実際には自由などない。利権の奪い合いと保身の指導者層がいる限り、国家の干渉を排除することはできない。各人が、自分の勝手な意見をぶつけ合って議論しても、妥協案は出るかもしれないが、誰も満足する結論など出るはずもない。議論している双方が二極分裂の響きであり、議論している限りは、主導権争いの中である。ディベートというのは、論理戦争であり、どちらが正しいかではなく、『どちらが相手をやり込められるか』のゲームである。裁判もしかり、両論併記というのは、戦いの世界で時間切れになった拮抗した議論をその場だけで取り繕う逃げ道に過ぎない。二極分裂の戦いの自己保身の響きの世界が一つにまとまることはありえない。

民主主義社会というのは、表向きは主権は民衆にあり、政治に参加できることになっている。しかし、人類史は、神世、神政、神制、王政、王制、独裁制等々、殆どの時間は、誰か一人に権力が集まる仕組みで進んできた。宗教勢力と政治家が合体したり、権力闘争をしたりの繰り返しである。人類の歴史は、サルから始まったと言うが、ケモノの群れにはリーダーが必要である。羊の群れには羊飼い(神)、狼の群れにはボス、飼い犬には主人がいなければ統率がとれない。バラバラの思想の人間が集まって好き放題に社会を進めれば、混乱は必然である。民主主義、特に、議会民主制というのは、人類史の政治制度の変遷の最後に位置する最も統制がとれない仕組みなのである。米国、フランス、ロシアは大統領制であり、英国は女王を元首とする二大政党制、ドイツ、イタリアは大統領と首相が存在する。民主社会であるように見える西欧諸国は、王室の存在する国が多い。アジアも、王室を持つ国、政教一致の国が多い。翻って、今の日本国はと言えば、天皇という名のエンペラーは象徴化され、神道儀式は行うが、表の世の国事行為は政府の追認の仕事や名誉職であり、金と科学が国の支えである現在では、精神的な支えとしての役割もないに等しい。

近代以降の日本の制度は、すべて外国の輸入であり、形だけは真似をするが、中心の柱はなく、中身も伴っていない。右派と中道と左派が離合集散を繰り返し、思想的に見れば、支離滅裂の政治家集団が日本国を運営している。王室にあたる支えもなく、大統領も存在せず、政党と利権集団に左右される首相が率いる何とも頼りない国なのである。一説によれば、日本国の国家元首は英国女王であり、大統領は米国大統領、そして、日本国は米国日本州である。世界には、豪州のように、他国(元の宗主国である英国)の女王を国家元首にしている国もある。政権奪取しか頭になく、政治理念や国家像は国民(=票=政治生命の基)の顔色や「国際社会」という世間体を見てコロコロ変え、左も右も大差なく、勢力を拡大できるとなれば、自らの金ズル集団に都合がよい思想に鞍替えすることも躊躇せず、矛盾を指摘されれば、ノラリクラリとはぐらかす政治家。かたや国民は、自らの快楽の追及に忙しく、学校という科学教の教会は文部科学省なる総本山に管理され、政治や国際問題といった「難しい」分からない研究は学者にまかせ、現世利益欲しさに神や仏を拝み、先祖供養なる「祟りを避けるための偽の感謝儀式」はするが、本物の宗教的な柱はなく、自らの欲望を満たす信仰を宗教と勘違いしている。不平不満は言うが自らで考えることはせず、責任は取らない。自ら責任を取らず『誰かに言われたからやる(世間の流れ、時代の流れ、国際社会の常識だから、日本だけ勝手はできない)』という詭弁を労して失敗を担保するしたたかさ。その世間や国際社会が本当に自由や平和や天国に向かっているのなら別によいのだが、もし、その逆だとしたら、「外圧」がなければ動かない政府が率いる日本国の未来にいったい何が待っているのか。今、世界で起きている出来事は、現代社会がどんな世界に向かっていることを示しているのかを、曇ったマナコを見開いてしっかりと見て欲しい。
P78
国際社会に参画したいならば、経済や福祉や英語やIT技術云々の形だけではなく、構成国の精神的支柱、文化の思想的背景、国民の思想的行動特性を知らなければ、真の外交、交流はできない。結局は、思想、宗教の統制が国家運営の基本であり、世界を支配する勢力からみれば、科学と経済一辺倒の日本は、金を出させるには都合がよい銀行としての価値しかなく、霊的去勢された、何の危険性もない国である。治安維持法や公安警察、CIAの世界すら表の世界であって、公安警察の裏の裏の世界も存在する。日本文化が見直されていると言っても、それは、西洋でも東洋でもない不思議な魅力に惹きつけられた異国趣味の域を出ず、武士道も、結局は、戦いの世界の礼儀作法である。大和魂と言っても、それは、キリスト精神であり、仏教精神であり、儒教精神である。日本は、太古の昔から、外国精神を輸入して都合よく混ぜ合わせてきた。今の日本の精神は、輸入精神の混合であって、神国日本を語ってはいても、本当の日本精神を体現している日本人はないに等しい。

世界は神がその精神の基盤にあり、日本ほど神をないがしろにしている国はない。人類の歴史は、結局は、宗教戦争の繰り返しである。科学と宗教が別物だと思い込み、自国の宗教の実体もわからず、世界の宗教に疎く、自ら考えることができず、今現在の収支決算に右往左往し、経済や福祉や反戦に命を賭け、ありとあらゆる快楽を追い求め続ける現代社会の日本人。安全神話が崩壊したとは言え、現代日本は、民主主義の自由な国、豊かな国、平和な国だと思われている。しかし、それは、表向きのことであって、その実体は、宗教戦争に敗北した神なき神の国である。イスラムとキリスト教の戦いのその裏に、もっと恐ろしい計画が着々と進行している。真釣りの真コトを思い出さない限り、日本も世界も共倒れである。戦後教育によって完全に霊的去勢されてしまった「一般庶民」の思いも至らないところで、神仏の世界や生死、時空を超えた、どえらい仕組みが動いているのである。
P79
すべては『○○する恐れがある』階段で封印する手立てが取られる。それが冤罪であったとしても、である。形になったら、対応できないからである。自らの死の恐れが、攻撃の意思の無い者を破壊者にでっち上げる。被害者意識、恐怖の魂、自らの恐れが自らを戦いに引き釣り込む原因である。恐れは疑いを生み、疑いは敵を生む。自らが自らの平和を壊す破壊者である。自らが自らの加害者である。真釣りの「思想」は、今の日本政府も、その政府に抵抗する勢力も、すべてを「無」に帰す響きを持っている。封印されたものは、いつか封印を解かれる時がくる。日本国憲法とその下の法令を遵守しようとする限りにおいては、日本国の現状は益々「望まない世界=破滅」へと進んでいく。日本国憲法の根底にある理念そのものが、神を消し、真コトを封じる勢力によって作られたものだからである。

今の「日本国」は、民主主義という思想、議会民主(議院内閣)制という政治制度と市場経済を基盤として成立している。科学思想が教育の根底にある理念であり、科学技術と金融経済が日本国を存立させる土台である。そして、その絶対法規が日本国憲法である。歴史を逆戻りさせるような宗教的国家運営を唱える勢力や軍事クーデターを企む勢力を封印し、天皇を象徴に落とし、国教を無宗教に変え、金と科学で国づくりを進めた、その結果が、今である。平成に入ってからの日本の状況、出来事、世界の動きが何を意味しているのか、正直に見てみることである。この先も、同じやり方で進むなら、もう日本国に未来はない。

今の日本国においては、宗教を個人的に崇拝する分には自由だが、悪魔思想を実行しようとすれば、それは危険思想として国家機関総動員で封印にかかる。獣は人を恐れる。悪魔は神を恐れる。どちらが「国を破滅に導く悪魔思想」なのかを正直に見てみることである。宗教や思想、哲学を表現する自由は一応認められてはいる。しかし、人類の歴史の常として、国家運営や一般社会に大きな影響を与えるようになれば、公安の監視対象となり、いよいよとなれば弾圧される。今の世にある思想ですらそうであるから、真釣りの「思想」は、それは、当然のことながら、魔釣りのアヤマ知で作った国家では、認めることはできない。国家の崩壊を扇動する思想のように見えるからである。それは、今の日本国の根本理念とこの本で語っている理念とが真逆だからであり、著者から見れば、今の日本国が国家の破壊に進んでいるように見えるのである。史実として大本教の弾圧という実例がある。

今の日本国は、戦後教育によって、真釣りどころか、神道すら封印されてしまっている。科学と金の思考がすべてとなり、進歩、発展の仮面に騙されて、それ自体が、破滅に導く宗教であることに気づいていない。このように言えば、著者の「思想」が危険思想となり、公安の監視対象になり、この本も発禁になるかもしれない。しかし、著者は、「真釣り」をお伝えし、あるべき本当の日本の姿を語り、現代社会に至る人類の歴史の闇の闇に葬られた真相をそのまま書いているだけである。著者も、元々は、教育現場にいた人間である。ただの宗教や生半可な教育で日本人の心が変えられるとは思っていない。現代社会に漬かっていた時の体験を踏まえて、今の日本国の姿と、著者が体験を通して学んできた本当の日本の姿とは、全くのアベコベであると書いているだけである。ただ、事実を述べているだけである。著者は、今の日本国に異議を唱える意思も、国家を転覆する意思もさらさらない。そんなことをしても意味はない。著者が何もしなくても、いずれ日本国は壊滅することになる。これは、元つ神仕組みであるから不可避である。これを宗教というならそれで構わない。この本を読んで何かを感じたなら、生き様を見直す材料として使ってもらえればよいだけである。しかし、本当の真実は覆せないということは覚えておいて欲しい。
P80
今の日本国は、魔釣りのアヤマ知の世界第二の経済大国、文明国であるから、その国家体制を持続させるためには、真釣りの「思想」は究極の邪魔者である。著者は、そんなことは百も承知で敢えてこの本を日本国の皆さんに公開しているのである。この本をどう扱ってもらっても構わないし、著者を危険人物だと思ってもらっても構わないが、この本に書いたことは、本当の真実であり、今までのやり方でどう封印しようとも、この本の根底にある響きは消すことはできない。真釣りの真コトは封印できない。それをすれば、消そうとするあなたが消えることになる。封印されるのは蛇の知の魔釣りの魔コトである。最後は神力と学力、ハラとアタマの、生死時空を超えた、言うなれば、霊界でのハルマゲドン、響きの総決戦になるから、その映しである現界、つまり、この世でそれを止めることは不可能である。これを荒唐無稽な話、危険思想として扱うなら、それは究極の死を意味する。

元の大神を封印した国に元の大神を復活させれば、それは、国家の消滅を意味する。魔釣りのアヤマ知の「国家」という概念とシステムは消滅するが、風景や自然は残る。物質化したものは、すべて分子の集合体であり、共鳴共振現象によって、目には見えないレベルで振動している。そして、この現象を利用すれば、超音波で建物を破壊することもできるし、振動しているものを止めることもできる。想念の世界、心の思いも同じであり、自らと共鳴している霊界が自らの現象となる。想念が形になったものが物質である。従って、真釣りの響きが現れれば、魔釣りの響きで作られたものは、想念も含めて、形をなさなくなる。真釣りは万象万物を形為す自然の掟でもある。元つ大神は真釣りの響きであり、真釣りの響きが現れて壊れるシステムは、「自然の掟」に反したものである。真釣りをするしないは自由であるが、大神の響きが具現化すれば、どんな防衛策も意味をなさない。警察も、自衛隊も、神主のお祓いも、呪術も、全く意味がない。破壊されるものを自ら破壊すれば、破壊される危険は消える。魔釣りの自己破壊が唯一の自己防衛策、真釣り戻しである。幻想はすべて崩壊する。崩壊するものは、止めることはできない。崩壊の痛手を減らすには、幻想が少ないうちに自らで崩壊させることである。自らの魔釣りの想念を実体だと思っていれば、真釣りによってすべて消えることになる。魔釣りの思いが自らのすべてだとしたら、真釣りの響きは自らの死を意味する。しかし、真釣りのみが実体を産み出す響きであり、魔釣りも真釣りあるゆえに存在するものである。真釣りがすべての源である。
P81
日本は神を封じ込めた神国である。江戸時代の檀家制度で仏教を強制し、義務教育の公立学校=日本流無神論教会で、「宗教」教育を禁止しているのは、神を封じ込める思想の型示しであるが、そのことが、宗教的盲目の国民、日の丸と君が代をすぐ戦争と結びつけるような短絡的思考の国民を大量生産する結果をもたらしたのである。神亡き日本が、イラク戦争という「イスラムと十字軍の聖戦」の尻拭いに自衛隊を派遣することの意味など分かるはずもない。最新戦術の戦争に丸腰で参戦したようなものである。私立学校の宗教教育も魔釣りの宗教の教えであり、本当の意味での宗教は日本に存在しない。国旗は国家の理念の象徴であり、国歌は国家の理念の言霊である。校旗や校歌に誇りを持つが、その親である国家の国旗と国歌をないがしろにしている国は稀有である。それが、世界の親国であればなおのこと、右翼も左翼も嫌って、どっちつかずの曖昧を好み、日の丸君が代の真意が全く見えなくなった日本国は、言わば、中身のない形だけを見て右往左往する、大黒柱を持たないへなへな腰の情けない国である。アヤマ知の教育の作り出す常識にどっぷりと漬かって、心理=神理=真理の公式を見失い、「哲学は安全な学問、宗教は危険な教え」というように、宗教と科学を別物と見ている者たちには、戦後教育の正体を見破ることはできない。たとえ、その正体を知っても、今日の社会で立場が不利にならないように知らない振りをして語らないか、『絵空事』『危険思想』『こじつけ』と断罪するのが関の山である。実は、現代社会に至る人類史を動かしている裏舞台に気づかせないように、そういう見方を教育して真実を封印することが、文科省も教師も知らない、学校教育制度の裏の設立目的である。支配のピラミッドを形作る制度は、義務教育学校、強制檀家制度、中国共産党の組織、キリスト教会等、形は変われども、その目的は、社会の構成員を何れかの下部組織に所属させ、上の思想を伝達、普及、徹底させることにより国家組織を維持し、反乱分子を監視し易くして国家の崩壊を未然に防止するためのシステムである。国際組織も同様で、所属国を監視し、勝手な振る舞いをさせないように仕組まれている。獣の響きの世界での自己保全には、相互監視、相互警戒が不可欠である。現代日本は、社会不安が増大するに連れて、疑心暗鬼となり、監視カメラ、盗聴、内部告発、児童虐待の通報の奨励等々、共産主義の秘密警察の下の相互監視の密告の世界である。今の世に自由などないのである。

政教分離、公立学校の宗教教育禁止は、神仏を大切にする心は良いが、その思想を実行するのは許さない、ということである。戦前の国家神道が日本帝国主義を産んだという理由で、政治、教育と神道を分離し、天皇に人間宣言をさせ、平和と民主主義と人権の憲法に基づいた国づくりを進めた日本国。進歩、発展、科学教育、市場主義経済、民主主義、戦争放棄の国家運営をした結果、現代日本がどうなっているか。神道が悪いといって封印した側の思想を実行した帰結である。今の日本国は、三千年に渡って巧妙に仕組まれた、神国日本の響きを葬り去ろうとする魔釣りのアヤマ知の毒牙に完全に冒されている。ここから立て直すには、真釣り戻し以外の手はなく、その歩みは、苦難の連続となるだろう。戦前の大日本帝国の振る舞いは、神道が悪いのではなく、天皇を利用して国家支配を企む政治家や軍部の根底にある魔釣りの響きがもたらした歴史の必然である。参考までに、元つ大神から、昭和19年に、岡本天明氏を通して、「日月(ひふみ)神示」が降ろされている。これは、黒住、金光、天理、大本と、近現代日本を通じて、元つ大神が、時代に合わせて世界の親であるヒノモトに向けて降ろした、真コトの神仕組みと世の立て替え立て直しを予告する一連の神示の流れの預言である。平成4年には「火水伝文」が、現代の日本人に分かる文章で降ろされている。著者のこの本は、その集大成であることをお伝えしておく。
P82
金と科学と民主主義と平和憲法で国を創った結果が、心の荒廃であり、凶悪犯罪の増加であり、バブル崩壊、オウム事件、酒鬼薔薇事件である。さらに、阪神淡路大震災、雲仙普賢岳噴火に始まる自然災害の多発は何を意味しているのだろうか。今の生活に右往左往して、現実に起きていることに目を瞑り、それが何を意味するのかなど考える余裕がない国民と自党の政権奪取にしか興味がない政治家。自ら考えられず、欲望のままに生きてきた戦後の日本国民の行く末が、いよいよはっきり見えてきたようである。戦後を通じて、経済発展、民主主義、平和主義等々、清く正しい金持国のモデルを演じてきた日本。これからの更なる発展を望んでいる方も多いと思うが、果たして、それは実現するのだろうか。

現実に起きた史実や出来事、世界の流れや、日本の行く末についての見方は様々である。特に戦後日本は、反戦平和を国是とし、自衛隊という軍隊の意味付けをノラリクラリと誤魔化しながら、人道支援、国際貢献の名のもとに金を出し、口を出し、汗を流してきた。戦争というタブーを封印し続けた平和ボケ日本には、国際社会の裏で渦巻く策略には気づけるはずもない。自衛隊のイラク派遣という事実については、どうにでも繕えるが、反戦平和を唱え続けても、結局は、戦闘状態の外国に自衛隊を派遣するハメになった事には代わりはない。国際貢献を善とした結果、立場を守るために外圧に屈したというのが、その実態である。戦争を放棄した結果戦争に参加する。人道支援という仮面を付けて憲法との辻褄合わせをしているが、日本国の内包する矛盾を誤魔化すにはもう限界である。日本国憲法の根底にある理念に矛盾がある限り、憲法をどう改正しようとも、崩壊は止まらない。

獣の作る世界は、サバイバルの弱肉強食の響きである。その響きの国際社会で平和主義は茶番であり、戦争放棄は絶対に不可能なのである。神学論争、思想闘争の結果が形のシステムに現われているのである。その大元を正さない限り、望んでいる自由や平和や天国は絶対に実現しない。現代社会は、天国か滅びか二つに一つの過渡期の最終章である。現代社会の源流は、蛇の知恵の神に収束する。つまり、表面上は進歩発展している文明であるが、その裏は、その神が支配する魔釣りの神代へのシナリオに基づいて歴史が作られてきたのである。しかし、その世界は実現することはなく、滅びへと向かう。その流れを止められるのは、真釣りの真コトを持つ日本(ヒノモト)の復活だけである。今の日本は蛇に騙された究極の社会であるからその役目は期待しようもないが、真釣りの真コトを思い出して、一人一人が目を覚まし、現代社会の裏舞台で真コトを顕現することで、蛇の正体をハッキリと見定めることができ、真コトの日本が復活して、本当の世界平和が約束される。
P83
ここで踏み誤ればもう永遠に天国はやってこない。永遠の滅びが約束される。科学と経済に洗脳された現代日本人には、まったくもって荒唐無稽な話だが、これが事実でなければ、自らのかかっている罠から逃れることはできない。自らの天国は永遠の幻となる。この世はすべてが逆さまなのである。この事実を認めるか認めないかが、自らの運命を決定してしまう。究極の踏絵が渡されていると思って欲しい。これは一人一人の踏絵であり、最初で最後の天国への分水嶺である。「獣」は生存のために戦う。霊長類である人類は、不自然な理性で作り出した文明社会という自らの天国を守るための「自己保存」の戦いの歴史を続けてきた。文明社会を進めてきた影の黒幕も、黒幕が信奉する神も自らの辿る運命を知らない。その行く末に何が待っているのか判らないならば、本当に取り返しがつかない事態となる。犬や猫は自然の本能のままの獣であるが、人類は不自然なケモノなのである。

選挙制度は多数決であり、少数意見は反映されない、悪平等のシステムである。それが必要悪だというならば、国家支配権争奪戦、政権争いという思想戦争は永遠に終わらない。魔釣りの響きのアヤマ知の二極分裂の世界での全員一致した思想は『戦い』であるから、相対的善悪の立場に分かれた全員が平和に暮らせる社会は実現できない。全員が平和に暮らし、形の上での戦争も現れない世界ならば、テロも反戦も口にすることはない。戦争か平和か、と言っても、結局は、両方とも戦いである。平和を守る戦い、自由を守る戦い、幸せを守る戦い、である。相互依存の世界では、戦わずして安定はない。安全は勝ち取ったものであるから、守る必要が生じる。しかし、戦っているなら、永遠の安全はなく、戦いを有利に進めるために、(自分が主導権を取るために)戦略本部が必要となる。世の黒幕の親分は、自らが天国に成ろうとすると滅びるという自己矛盾に気づいていない。自由で平和な世では、自由も平和も当たり前であるから、自由、平和という定義はいらない。対立概念がないから選挙戦もできない。戦いがないから戦争もない。天国には天国しかない。

現代社会は『義務を果たさない者は、権利を行使できない』という思想が根底にある。法律で義務化すれば、違反者は処罰されることになる。棄権は、白紙委任と見なし、棄権した限りは、文句は言わせない。投票するか、投票しないかで服従するか、の選択である。議会民主制自体が魔釣りのシステムであり、政権争奪戦をしている限り、どの政党に投票しようと、真釣りの政治はできない。今世は、全員が魔釣りであるから、真釣りの政治家は選択できない仕組みである。実際は、真釣りの政治家には、選挙システムは意味がなく、選挙で政治家を選ぶ必要がない。魔釣り世での真釣りの者の意思は棄権という行動になる。表面に現れた「棄権」という行動は同じだが、それは反抗心からでも、無関心だからでもない。政治に関心はあるが、逆さまの世の政治家には実現不可能だから、投票というゲームに参加しないだけのことである。真釣りの者が魔釣りの世で意思を表現すると、無関心、無責任、無感動になる。対立がないから、喜怒哀楽もなく、永遠のナギ、傍観者の傍観者となる。魔釣りの世界が、真釣りの神の世を役に立たない空想物語にしているのと同じことである。魔釣り世の形をどう変えようと真釣り世にはならない。後少しの遊びである。
P84
『国民の意見を聴いて政治に反映させる』『消費者のニーズに合わせて製品を開発する』と言うが、それは、自らの存続のための方策であり、相互依存の世界だけで通用するものである。「真釣り」は絶対不変の神法であり、天地自然を生かすハタラキである。本来、法とは、人民が合わせるべきものである。しかし、その法の基が真釣りでないならば、いかなる法を定めようとも自由も平和も平等も天国も実現しない。『何のために政治をしているのか』『何の目的で法律を定めるのか』実際は、王政でも民主制でも、獣のピラミッドの支配の制度であり、主権が誰にあるのかの違いで、争いを産み続ける世界である。蛇がアタマを交換しても、結局は蛇のままであり、有限の世界だと言っている限り、天国は実現しない。

真釣りは永遠不変の神法である。それに基づいた王が治める世界がミロクである。人類の歴史の王政と九分九厘同じだが、足場にあるものが違う。これを独裁だというなら、勝手にすればよい。その時が来てどうなっても自業自得である。神の掟を外し続けた末の現代日本から神の掟を見れば、「悪魔の悪魔」の宗教に見えるが、それは、自らの鏡である。本当の天国とは全くアベコベの世界を「善(正)」と思えば、それに基づくいかなる制度も、目指す理念は実現できない。世の破滅は避けられない。元つ真釣りのミロクの世は、生死一如、時空超越の世界であるから、今ここで神法違反をしているならば、例え死んでも同じことであり、今のままならば、この世にもあの世にもどこにも国を作る場所はなくなる。永遠の滅びである。本当の天国は復活する。そこにあなたがいるかどうかは今ここの選択にかかっている。光を一つ上げる、とは、魂の一生という思考ですべてを見ることである。今でいう一生は、魂の一生では、幼稚園の入園から卒園までの体験に過ぎなくなる。あなたという身魂は、まだ一度も死んでいない。今回の大祓いが、永遠の生死の分岐点である。

真釣り戻すご苦労は今のあなたにとって堪え難いものかもしれない。しかし、それは、あなたが真釣り外した結果であり、あなたが呼び込んだ厳しさである。本来ならば、あなたは神法違反で消滅しているはずの身魂である。あなたのご苦労が修羅の地獄の1億乗の厳しさであったとしても、絶対に無理だと思ったとしても、神法違反のあなたを生かし、真釣り戻しの機会を与えるために「情けと花の仕組み」を構えた元つ大神のご苦労と比べたら、全く問題にならない。著者のここに至るまでの苦労でさえ、大神がなさったご苦労の髪の毛の先のその先の先々ほどの苦労である。真釣り戻しの様々な障害を自らですべて体験し、真コト真釣りを現代日本に現すのが著者の御役であり、その集大成がこの本である。
P85
あなたはこの本を書くための苦労はいらない。それは著者の役目であり、あなたは、この本を使って自らの真コトを磨き出すだけでよい。つまり、この本を読んでいるあなたは、大神の毛の先のそのまた先の先々の苦労どころか、そのご苦労を辛抱してきた著者の苦労の毛の先の先々ほどのご苦労に堪えればミロクが約束されるのである。しかし、そのご苦労でさえ、今のあなたにとっては、慙愧慟哭、修羅の地獄のそのまた地獄の苦しみかもしれない。もしそうだとしても、あなたが元のミロクに帰るためには越えなければならないご苦労なのである。なぜなら、神法違反をしたのは自分であり、自分が真釣りに戻すしかミロクに帰る手立てはないのである。あなたをミロクに連れて行ってくれる救世主はどこにもいない。あなたが真釣り戻せば、大神が助け舟を出すだけである。今世の魔釣りの宗教の神仏、思想に固執している限り、あなたは、本当に、永遠のイノチを失うことになる。

著者は、自らのモデルを探してもそれは叶わず、真コトと思って入った道も、一厘の違いで真コトではないことに気づくという繰り返しを生きてきた。終ったと思っても終わらず、真コトと思っても真コトではなく、自らがそのモデルであることを認めるまで、本当に苦しい道のりだった。つまり、著者は、この道に入って以来、自ら以外に外に頼れるものはなかったのである。あなたがどんな苦労をしていようとも、それは、魔釣りの世界の常識で言う苦労であり、真釣りを外し続けて、自らの真釣り戻しの苦労を増やすだけの「苦業」である。自らの苦労話をして他人の同情を引こうとしても、それは、真釣り外しであるから、大神から見れば、大掃除の手間を増やすだけの、神をも恐れぬ所業である。この世の、今この時の些細なご苦労で愚痴や不平不満を垂れ流し、自らを守るためにツベコベと御託をならべ、アレコレと逃げる算段を画策しているようでは、あなたにはミロクは全く関係のない世となる。今の災害や苦難に耐えられないようでは、一度で一気に世を祓い清める「時空生死を超えた大掃除」にはとても耐えられない。たとえ、最後の大祓いまでに、真釣り戻しを終えることができなくても、今からでも、少しでも真釣り戻しをしておくことが、最後の大掃除の自らのご苦労を減らす術である。百歩譲って、今まで好き放題に生きてきたとしても、真釣りがあることを思い出し、真コトの道に帰ることを決めただけでも、とてつもない厳しい試練があるにせよ、ミロクに帰る機会は、まだ消えていない。

著者は、恐怖を煽っているわけでも、脅しているわけでも、宗教の勧誘をしているわけでもない。あなたが現代社会の正体と身魂の現状を自覚して、真釣りに戻れるように、真コトの真釣りが世の神法であることをお伝えしているだけである。余計なお世話だと言うならば、それはそれで構わないが、どんなに苦しくても、不可能に見えても、あなたの改心次第で、必ずミロクに帰ることができる。現代社会の日本国が描く未来に夢を託すのもよいが、この本から、真釣りの真コト、本当の自分の正体、現代社会の闇の闇の真相を汲み取って欲しい。あなたが、この世で、今ここで本当にすべきことは、真釣り戻しのみである。天地創世の真釣りの元つ大神直々の、生死も、時空も超えた、万古末代一度こっきりの、死んでも死んでも続く、祓い清めである。神や仏ですらどこにも逃げられない大祓いであるということをよくよくハラに据えて、永遠の天国に戻るために、頑張って欲しい。
P86
あなたが同調している神によって、あなたの体験する現実が決まる。それは、あなたが自らの霊線をその神の支配する霊界に繋いでいるからである。開運厄除、学業成就、縁結び、家内安全、夫婦和合、商売繁盛、交通安全、病気平癒、不老長寿、金運向上、方位除け、ボケ封じ、悪霊祓い、厄祓い、五穀豊穣、国家安泰、地鎮祭、御霊清めの儀式等々、祈願や法要、神事、仏事はすべて魔釣りの世の生き残りのための他力本願である。真釣り外した自らに苦がこないように、『俺が天国を体験し続けられるように災いを封じろ』と神や仏、霊界の先祖に命じている。たとえ呪ったとしても、霊線が繋がっていなければ、呪い殺すことはできず、渡した呪いが自らにそのまま戻る。人同士の場合でも仕組みは同じである。あなたは真釣り外しの責任を取っていない。自分が責任を取るならば、神社もお寺も教会も必要がない。獣の世では、本当の意味であなたを助けることができる者(神、仏)は一人もいない。いるというならば、それは相互依存のあなたと同じ響きの形だけの救済ゲームの相手と想念が繋がっていることを意味する。今のままなら騙されても文句は言えない。

苦を避ける、災いを避ける、というのは、真釣り外しのお知らせを拒否する(真釣り外しをして楽を得る)響きであるから、それを続けるほど、逆に、災いを自ら呼び込んでいることになる。実際は、災難除け=災難招来祈願である。真釣りに生きる者には災いはないから、「災いを避ける」という思考はない。厄除け等々の災難除け祈願をするならば、それは真釣りを外した証しであり、真釣り戻しの意志がないことを意味する。あなたが避けている苦(実は真釣り外しのお知らせの情け)はあなたの違反ゆえの型示しであり、それを渡すのは元つ真釣りの大神であるから、あなたが厄除けをするならば、それは、元つ大神を祓おうとしていることになる。あなたに訪れる災いの源は自らであるから、結局は、自分が自分に自分を殺してくれるように頼んでいることになる。すべての災難除け(招福)祈願は、真釣り外したお知らせの苦を逆恨みした冤罪である。厄祓いするなら、福祓いもしなければ、偏ってしまう。厄も福もあなたの分かつ知の作る幻想であり、自らの分かつ知が作り出す幻想を使って、真釣り戻しを知らせる本当の福の神と対峙するならば、死神であるあなたの負けである。あなたは絶対に勝てない試合をしている。最後の相手は元つ真釣りの大神であるから、あなたの希望通りに厄の神であるあなたが祓われる。元つ真釣りの大神の情けを逆恨みしていた集団の作り出した冤罪は最後に晴らされるのである。魔釣り世の宗教は、すべてのすべてが同じ仕組みであるから、いつまで信心しても本当の天国は来ないばかりか、最後は、あなたに訪れる苦(悪、厄)の真の源である自分が消える。
P87
あなたが自らで自らを生かしているならば、神仏に祈るという行為はしない。神社に参詣して何かを祈願するという行為は、自らができないことを誰かにさせるのと同じである。その対象が神仏ならば、参拝(参詣)と呼び、人間ならば、依頼と呼ぶ。神仏も人間も、自らの心の内では同じ世界に共存し、神仏とか人間とかのイメージ映像の違いに過ぎない。神に祈っている、他人に頼んでいる、と分類しているだけである。どちらも、やっていることは同じである。有力政治家のご機嫌伺いをすることを『○○詣で』というが、それは何を意味しているのか。『神に祈れば天国に行ける』と決めているのはあなたであり、あなたがその神の神であることになる。あなたが『神に祈らなければ天国には行けない』と言っているならば、あなたは天国には行けない。なぜなら、あなたという神がそう言っているからである。宗教を信仰するならば、それは、その世界が箱の中であることを意味する。それは、あなたが作った箱であり、その中の「神」はあなたが作った神である。あなたが宗教を信仰するならば、この世の人間よりも力がある「見えない存在」に自分を預けたことになる。この世の宗教は、魔釣りの世の身欲を満たすための信仰であって、それをすればするほど魔釣りを呼び込むだけで、望みとは正反対の現実の実現を望んでいることになる。結局は、すべての現実は、言い換えれば、現代社会のシステムは、真中に真コトを持った「神」である自らが生み出した現実であるから、真釣り外した神同士の独演会に過ぎない。

ご利益祈願、加持祈祷、お祓い、お守り、オフダでは、本当の天国を実現することはできない。魔釣りの宗教を信仰すればするほど、真釣り外し続けることになるからである。無神論というのは『神はいない』という神が語る論理である。『自分以外の神はいない』つまり、自分が神であると言っているのであるから、神はいるのである。無神論は自分が神であることを語る有神論である。もし、自分は神ではない、と言うならば、神はいない、と言っている自分は神ではないことになる。神ではない者が、神がいるかいないかの議論をしている。神とはどんな存在か、の定義ができないならば、神がいるかいないかの議論はできない。議論ができるならば、自分の内に神がいることになるから、有神論である。結局は、有神論も無神論も神の有無について議論しているのであるから、有神論しかないのである。有神論ならば、神に依存していることになり、無神論ならば、「神」がなくてもすべてできると思っていることになる。「有神論」ならば神がいる。無神論ならば神はいるがそれを否定している自分にはすべてできない。有神論と無神論を議論している自分が神であるから、有神論しかない。有神論しかなければ、神しかいない。この世は神の世である。

魔釣りの宗教の言う、輪廻転生や死後の世界の話は、魔釣りの中の現実であって、真釣りの世にはそんなものは存在しない。「死」が本当の死でなければ、葬式のしきたりも、強制力はない。自らの大元である神界を闇に葬って穢れた冥土と思い込み、穢れが自らに来ないようにする(この世の「神聖さ」を保って生き残って快楽を得る)ための自己保身の儀式が、葬儀や法要、読経である。その実態は、この世で生きている者同士の生き延びるための穢れ祓いゲームに過ぎない。この響きで神話を読めば、黄泉の国は穢土となり、イザナミは醜い神となる。それを真実だと思っていれば、死の呪縛から抜けられず、アメとムチで操られて右往左往する無間地獄を生き続けることになる。この世という境界のない世界を善悪に分けて、争い、裁き合う現実が永遠に続く。天国を作ろうとするほど、地獄が形になり、最後は滅びの世に至る。その他の宗教も、姿形が違うだけで、すべて同じ思想の中にあり、そこには神も仏も死者も先祖もいない。「情けと花」の最も大きい型示しが「死と誕生」であり、真釣りを外したがゆえに、その仕組みの中で死と生を繰り返す「輪廻転生」という幻想を生み出してしまったのである。初めにいた神世は生き通しであるから、真釣り外したお知らせは、情けの死である。つまり、元の初めの世から見れば、箱(岩戸)に入った「有限(寿命のある、劣化する、崩壊が見える)」世界である今の世(この世)こそ「死後」の世界であり、今世の言う死後の世界(あの世)は、この世から生き返った世界になるが、真釣りから見れば、この世の人間が恐れている死は、大きな意味での死後の世界の中の生の世界を移動する(引っ越す)だけのことになる。生きていても死んでいても同じことで、すべてを真釣り戻すことで初めて、元にいた神世に永遠に生き返るのである。そこが本当の天国であり、ミロクの世である。真釣りしかない、永遠に続く天国である。
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元つ真釣りの世は、生死時空を超えた、万古末代弥栄の生き通しの神世である。魔釣りから死ねば真釣りに戻る。魔釣り世のすべての常識を捨てると真釣りに戻る。真釣りの世を封印するための思想、想念、常識、道徳等が、魔釣りのアヤマ知である。お経や祝詞をあげただけで天国に行ける(邪気を祓える、悪魔を追い出せる、穢れを祓える)なら、こんな便利な話はない。それは、『言う通りにしたら金をやるぞ』と言う人間の言う通りにしているのと同じことである。基に真釣りの響きを持っている神が魔釣りに囚われて宗教を作り出し、神仏を利用して楽になろうとしているのは、人間同士の間で誰かに依存して楽しようとしているのと同じである。他力本願ではミロクの天国は絶対にありえない。ミロク(三六九、五六七、六六六)の天国から家出した神が、形に囚われて、偽のミロク(666)の神にすがっても、元の真釣りのミロクには戻れない。それどころか、どんどんミロクから離れて666の世界にのめり込み、その世界が絶対真理であるかのように思い込んだ挙句、結局最後には、自らが自らを滅ぼす末路となる。現代社会は666の世界である。天国だけの神代に地獄があるということの意味が心底わかったら、自らがとんでもないことをしていたことに気づいて、ショックのあまり呆然と立ち尽くすことになるはずである。

自らが魔釣りに囚われて、自らを魔釣りの世に封印したのが「情けの仕組み」の発動、輪廻転生の始まりである。本来はどこにもない死後の世界を語る宗教の起源、弔いの儀式の始まりである。野生の動物には葬式もなければ、裁判もない。恨み妬みで他の動物を殺す動物もいない。人類という「理性を持った動物」が作る社会で起きていることは何を意味しているのか。現代社会のシステムは何を目指して営まれているのか。自然から完全に隔離された世界であり、自然の風景は見えているが、お金がなければ何も手にすることはできないおかしな世界である。お金を払わずに「商品」を勝手に持ち出すことを万引きという。仕入れ価格0円の、資源を加工した「商品」の売買で儲けを出すことが目的の商業システムでは万引きであるが、もともとはお金は存在しないものである。天地自然(天恵、資源、天然物)を勝手に所有し、売買する経済社会は、大きな意味では、神の商店から「万引き」したもので作った社会である。真釣りの響きで作った資源を、魔釣りの分裂の響きでバラバラにして手前勝手に所有すること自体が窃盗である。その盗品を転売すること自体が、横領である。魔釣りの世界の中で作り出されるシステムは、魔釣り世しか作れない。
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現代社会は、真釣り外した世界である。真釣り外した神が、永きにわたる略奪の魔釣りの歴史を積み重ねた結果、たどり着いた、九分九厘アヤマ知で出来た社会である。魔釣りの世にあるシステムは、宗教も科学も、儀式も技術も魔釣りを進めることしかできない。瞑想も荒行も訓練も教育も躾も、その根底が魔釣りである限り、どんなに頑張っても真釣り戻しは叶わない。現代社会が魔釣りそのものであるから、今の世界の善を正しいものとしている限り、その世界のシステムの中をどんなに探し回っても、天国はない。その世界がおかしいと思っても、抜け出すことができない。真釣りには戻れない。すべては、魔釣りの世界の中での幻想である。真釣りと魔釣りは相反する世界であるから、たとえ無差別テロで多数の死者が出たとしても、それは情けの仕組みによる現象であり、真釣りの世には何も影響しない。現代社会では大問題であることも、一番大元の世界からみれば、ただの物事、現象に過ぎない。真釣りを闇に葬って魔釣りで世を進めてきたすべての人類は、自らがしてきたことに責任を負わなければならない。「責任」という概念は、生死時空を超えて存続し続ける。魔釣りのアヤマ知でこの本を価値判断することがマ違いの証しである。すべては一つであるから、時空を超えて真釣りのままでいたならば「情けと花の仕組み」で真釣り戻しをする魔釣りの世で悩むことも、病気になることも、喜怒哀楽に翻弄されることも、人類滅亡のシナリオも、体験することはなかったのである。真釣りのままなら預言や予言を鵜呑みにして救世主を待つ必要もなく、神を信仰する必要もなかったのである。

真釣りの世界が本当の天国であり、現代社会にあるすべての理想、現実、夢や希望、死や絶望、そして、その実現や解消を目的とする争いはなかったのである。真釣りを外して闇を作り、光を探して快欲を追い求め、自ら考えることをやめてしまった現代社会は、何かにすがって魔釣りの混迷から抜け出そうと宗教(新興宗教)を産み出した。その宗教がおかしいと思って脱退してはみるものの、現代社会に戻っても、結局何も満たされず、前にも増して右往左往するか、失望感が増長するだけである。そこから逃れるためには、自らの殻に閉じこもるか、誰かのせいにし続けるかしかない。究極の選択は、「自らを殺すか誰かを殺すか」の二つに一つである。魔釣りの世界でいう自殺は、自らを更なる孤独の地獄に落とし、他殺は自らを更なる戦いの地獄に放り込む。殺された者は、魔釣りならば、同じ道を辿り、真釣りならば、天国に近づく。即ち、『自らが何をしているのか』が問題であり、『他人がどうなるか』はその他人の問題である。ここでの「殺す」の意味は、肉体的、物理的な死だけではなく、心理的に殺すこと、想像上の殺人を企てることも含まれ、自らが殺人を思考したならば、霊界では、それは殺人を実行しているのと何ら変わりはない。自らが真釣りならば、その思考は存在せず、魔釣りならば、真釣りを抹殺しているから形の破壊(抹殺)のみの議論になり、すべて詭弁となる。その世界の善人は、自らが真釣りを外していることに気づかない。それは、天地自然の掟を破ることであり、万象万物を滅ぼす、究極の悪魔の心理である。現代社会の常識が正しいと言うすべての者は、揺りかごから墓場まで魔釣りの毒牙に罹り、真釣りの響きを殺すことに何の罪悪感も持っていない。
P90
現代社会を絶対視する、魔釣り教の信者は、その世界を現実だと思い込んでいる。オウム真理教(アーレフ)の世界が幻想で、現代社会が現実であるという、その思想そのものが幻想なのである。地下鉄サリン事件は現代社会の映しである。現代社会の中で作り出されるどんな形も、すべて現代社会のミニチュア、縮図である。実行するかしないかの違いで、思想、哲学、心理、システムの構造は全く同じであるから、形の美醜がどうであろうと世界の王もその王の作る社会を絶対視する信者も同罪である。全員が、自ら犯した神法違反であるから、一人一人が清算しなければ個人的天国は成らず、真釣りの世界にも役立たない。真釣り戻しが終わらなければ本当の意味での国際貢献をしたことにはならない。

真釣りと魔釣りは裏表であり、真釣りでないなら魔釣りである。どんなに善人だと主張しようと、悪を糾弾して自らの善を主張しようと、そのことそのものが魔釣りなのである。真釣りを批判することが魔釣りの証しである。自らのマ違いを自らが正さない限り、魔釣りを真実だと思ったまま、真釣りの世から永遠に消え去る。今回の大掃除が終われば、二度と「情けと花の仕組み」が作られることはないから、あなたが生まれるところはどこにもなくなる。真釣りの世から見れば、魔釣り自体が存在していないから、人類滅亡というのは魔釣りの世から見た話に過ぎない。その中で生み出したシステムは、すべてが幻想である。今まで信じていたものがマ違いだったと素直に認め、真釣りで生き直すことである。

真釣りのみが実体のある現実であって、それを「完全に認めるか認めないか」が自らの永遠の生死を分ける。これを否定する世界が魔釣りの現実であり、魔釣りで教えられたやり方であるから、真コトを聞いて騒ぐならその度合に応じて自らの真釣り外しの告白となる。あなたが真釣りに戻さなければ、あなたはウソを信じて滅ぶ。辻褄が合っている仕組みである。全世界が魔釣りに囚われているから、自らの清算をすれば天国へ、魔釣りでしたことの清算をせずにそのままなら滅びへの二つに一つの道である。現代社会の中に悪の仕組みができて、それが現代社会に影響を与えるならば、現代社会は悪の世である。すべては共鳴現象であり、社会そのものにも当てはまる。真釣りの中に産まれた魔釣りの世は、真釣りの世には一切影響を及ぼさない。逆に、真釣りの世が形になったら、魔釣りの者はすべての世から永遠に消滅してしまう。真釣りの響きと魔釣りの響きは共存できないからである。現代社会でオウム事件を問題にするならば、現代社会もオウム教団と同じ響きである。対象を拒否していることが、強く共鳴している証しであり、問題にすればするほど、騒げば騒ぐほど、その影響が大きいことになる。自らの歪みが生み出した集団は、自らに歪があること見るための鏡として現われる。悪を裁く善こそがその悪を生み出した源であり、その悪は自らの映し絵である。自らの悪を認めず、その悪を裁けば、自らが滅ぶ。
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真釣りは真釣りである。魔釣りは真釣りには影響しない。子は親の鏡であり、その子は自らの映しであるから、子が親を殺す状況になるならば、オウム教団を非難する現代社会こそがオウムの産みの親である。オウム事件の謎は、現代社会の思想の中に答えがある。オウム教団の思想を調べても何も答えは出ない。オウムを許せない自らの中にオウムを産み出した源がある。従って、オウムを非難できる者は一人もいない。真釣りなら全く影響ないからオウムを裁くことはしない。オウムを裁くならば真釣りではない。真釣りでない社会は魔釣りで滅ぶ。教祖を死刑にしても何も解決しない。瞑想が修行である宗教の教祖にとって、独房は瞑想室であり、死は解脱の到達点である。まさに、彼にとっては都合の良い環境を与えられたことになる。だからと言って、大量殺人の首謀者を懲役刑にすることは、極悪人を目の前に置き続ける堪え難い状況であり、善悪は絶対価値ではなく、その善悪と生死を超越した存在に対しては、死刑は救済となり、無罪にすれば、「善人」の側が危機感を感じながら生きなければならないというジレンマを抱えることになる。『何の罪もない人間は一人もいない』それが、真コトの真実から見た真理である。本当の真実の前には、法の裁きという概念と裁判システムは無効となる。善悪を超えた犯罪には、刑法は無力と化してしまう。現代社会の罪概念や法理念とは全くの逆さまであるから、死刑が罰にならないという自己矛盾を露呈することになる。実は、悪を裁くこと自体が悪なのである。『それはおかしい』というならば、オウムを裁き続ける堂々巡りの中に戻ることになり、謎が解けないまま、自らが魔釣りと共に滅ぶ。悪を裁くのは、魔釣りを生かすための茶番である。

一般社会もオウム社会もその響きは同じであり、真釣り外しの情けをオウム返しされただけである。悪の世での悪と悪の共食いに過ぎず、どちらも真釣り外した証であって、神法違反をしていることには変わりはない。すべてをひっくり返して、物事を見直してみれば、本当の真実がわかる。鳥の鸚鵡のオウム返しの元は、自らの言葉である。あなたの目の前に映っている(存在する)ものは、自らの姿である。現代社会を敵にするオウムも同罪であり、どちらも真釣りを外した自らが生み出した幻である。どこへ逃げようとも真釣りからは逃げられない。なぜならば、真釣りの世界は魔釣りの世界と裏表の関係だからである。
P92
真釣りの世は、真釣りの響きを持つ「人という神」の世であるから、「宗教」は存在しない。政教一致の政治でさえ国が治まらないのであるから、政教分離の政治がどんな社会をつくるのかは明白であり、政治家の足場である国民の中に宗教が存在している限り、完全な政教分離は不可能である。神仏を信仰する国民を統治するということは、その国民とは切り離せない神仏も統治するということである。人が神を支配する、という逆さまの魔釣りで世を治めることは絶対にできない。神に祝福を祈る大統領や、神社に参拝する首相、宗教団体や慈善(=アヤマ知)団体を支持基盤に持つ政党には政教分離はできない。政治家の思想の源には神がいる。基の神が魔釣りであるなら、神に祈るほど世が乱れていく。その政治家が作る法律が支配する国家を運営する行政、司法、経済システムに命の基を置いている国民も、結局は政治家と同じ世界にいることになり、最後は、国家丸潰れとなる。そのシステムで運営する国家の集まりである国際社会も、その社会の源である神々の世界も、魔釣りで作り出したものは、すべてのすべてが、破滅する。神のマ釣りを直さない限り、真釣りに戻さない限り、世の政は直らず、魔釣りの乱世を進めた挙句に、世は滅ぶ。神を源流とする宗教、思想、哲学、科学の一連の流れの人類の歴史は、真釣りの復活と共に無に帰す。そして、真釣りに戻った「人」だけが、元の神代、永遠の天国で自由を謳歌する。

「清貧」は、『限りあるものを節約することが生き残りに貢献する』という、アヤマ知の「有限」教を信奉する世界の、「節約思想」を善とした負け惜しみである。国を挙げて『限りある資源を大切にしよう』キャンペーンを張っているのは、まさに、真釣り外しの究極の型示しである。「省エネ」とか「節水」とか「倹約」云々というマヤカシの啓蒙に同調する国民も同じ穴の狢である。その根源はどこにあるのか。神話を含めた日本史のどこを探しても、その答えはない。答えは、今の日本が完全に闇に葬り去っている本当の神道(真道)にある。真コトの真釣りを忘れた日本が、現代社会のアヤマ知の思想にどっぷりと漬かっている限り、永遠の天国どころか、世界の破滅に自ら手を貸すことになる。日本が本当の役割を果たす道は非常に厳しい道であるが、それをしない限り、真釣りを知らない世界の国は、永遠の滅びに向かうことになる。この本を読んで、日本人一人一人が自らの本当の姿(素型)を思い出し、本当の日本再生、言い換えれば、世界を真釣りに戻す大役を果たして、本当の世界平和をもたらす道に戻って欲しいものである。『そんな作り話を信じても何にも得はない』『そんなことをしたら社会を乱すだけだ』『現実の生活が大変な時にそんな荒唐無稽な話を聞いている暇はない』と言って聞き流すならば、それは、あなたが本当の日本の真コトの道を外している証しである。それならそれでよいが、これが事実だった暁には、それ相応の体験をすることを覚悟しておくことである。『資源には限りがある』という魔釣りのアヤマ知にまんまと嵌められた政治家と官僚が、「リサイクル」を強制し、「環境汚染物質」を排除し、「クリーンエネルギー」に未来を託す、そんな社会が行き着く先は、果たしてどんな世界なのだろうか。今のままで突き進むならば、魔釣りのシステムを最も完璧に実現している日本国という国家とその国民には、とんでもない結末が待っている。
P93
世界の父親であるヒノモトが、経済大国だ、技術大国だ、教育大国だと魔釣りの文明世界での自らの地位の高さを誇っているならば、それは、自らこそ世界の混迷の源であることが全くわからなくなってしまっている証である。今の日本は、世界の立て直しを担う、世界の真中のハラの御役、元つ真釣りの大神の神気出づる唯一の国であることをアヤマ知に囚われて忘れ去り、自由平等博愛思想や敬神を壊す科学教育、魔釣りの道具の金融経済の進歩発展に足場を置いて、せっせと国際貢献に勤しんでいるが、それが何を意味するのかわかっているのだろうか。真釣りを外した魔釣りのアヤマ知で作られた汚泥混濁の世で最もクリーンな国が、真釣りの神法では史上最悪の「鳴(成)らず者国家」なのである。自ら産み出す苦労はせず、産み出すところは子(世界)にやらせ、その成果のみを奪う。言い換えれば、発明は子にさせて、子の発明特許をお金で買い、形を変えて実用新案で儲けるというパターンで、美味しいところ取りで繁栄してきたのが、今の日本の実体である。国の象徴である天皇すら形骸化し、科学と金に命を預けているならば、滅びは必至である。

無から産み出す苦労は、『すでにある形をどう変えるか』の苦労の比ではない。元つ真釣りの大神が「天恵」を無から産み出して、その天恵を自由に使わせて、自らの子である神や人を喜びに生かす。自らの力で無から産み出して、その果実を子に与えて、子が安心して生きられるようにするのが、本当の親のハタラキの基であり、親と子の本当の素型(姿)である。元つ大神は与えるだけで、何一つ奪っていない。『奪われた』『失った』という言葉は、真釣り外した者の使う言葉であり、謝罪とか損害賠償とか人権侵害云々という言葉は、元つ神代にはない。すべては、無から産み出した元つ大神のものであり、真釣りを外した神仏や人類のものは何もない。無から創り出せる(自ら補充できる=修繕できる)者は、失うことや傷つくことはなく、奪われて困るものもない。自分のものを奪われた、失った、傷つけられたと言うならば、それは、自分のものを何一つ持たない者が、自分のもの(奪ったもの)を持っているということになり、所有権(元つ大神)に無断で天地を勝手に所有している天下の大泥棒であることを白状していることになる。泥棒した天地の資源を売り買いするなど、それこそ、本当に、神への冒涜そのものである。いわんや、お金とお金の売買などは、論外である。神への冒涜のその結果がどうなるかは、今までの歴史上で神を冒涜した者が辿った運命を考えてみればわかる。元つ天地の大神への冒涜=天地自然の掟を破ることがもたらす結果は、永遠なる自滅である。中つ世の神仏の世を含めた、現代社会に至る人類の歴史は、元つ天地の天恵大泥棒集団が創った幻想の物語なのである。

真釣り外したこの世の親(日本、神仏)は、当然、無から産み出すことは出来ない。自らの快欲を満たすことしか頭にはなく、自らが奪って生きているとは全く思いもしない。従って、真釣りの天恵を奪って生きることを恥とも思わず。奪って生きることが世界人類のためになると本気で思っているのである。魔コトを真コトと思い込んで、真釣り外した自らが産んだ、真釣り外したお知らせの(元々はどこにも存在しない)苦を避け、逆さまの天国を目指すという、とんでもない大失態をやらかしていることなど微塵も頭にない。子(世界、人民)も、真釣り外した親の真似をして、親子共々、真釣りの天恵を自由勝手に好き放題に魔釣りで使い、大神の創った神世の元を壊し続けているなどとは露とも思っていない。それどころか、世界平和や自由や天国のために働いていると思い込んで、その世界のシステムを当たり前のこととして、何の疑問も抱かずに代々受け継いでいる。何の躊躇もなく『苦があるのが当たり前』と言い、自らの苦の原因を自ら以外に探して、平然と不平不満や責任転嫁をして威張っている。自らの大きな罪に気づかず、生まれ変わり死に変わりしながら、滅びの道を駆け下りて、ついに、崖ッぷちまで来てしまった。つまり、泥棒世界を壊すことを「罪」として封印してきたのが、神をも含む人類の歴史なのである。
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神を金に置き換えた歴史の末路である現代社会は、親である国家が子である人民のご苦労の果実(収入)から税金という名の上納金を強制徴収し、金を神とする「国家」という姿形を維持するためのゲーム(経営、ビジネス)の中での支配権争いに過ぎない。蛇に自らの命を預けた人民も、蛇の知恵のアヤマ知が創る幻想の世界を真実だと信じ込み、その世界に貢献することが自らを生かす道だと騙されて、神から人まで、親子揃って蛇の魔釣りの世を進め、真釣りの神代を封印してきたのである。魔釣りの略奪の響きの世である限り、どんなに頑張ろうとも、自由も天国もなく、今のままならば、黒幕の神から最下層の民まで、すべてが自滅の道を辿る。自然の掟に反する者は、問答無用で淘汰である。天地自然の掟は、万象万物すべてのすべての命の掟であり、いかなる神仏も逃れることはできない。親と子の関係をマ違えば、汚泥混濁の世を進めた挙句、最後は「すべて」が滅ぶのである。

今の世で言う「仕事(職業)」「働き」は、表面上は、物やサービスをお金に交換する行為のことを言う。その裏はと言えば、極論すれば、「職業」とは、神から盗んだ資源(天地)をお金に交換する(売り買いをする)システムでお金をゲットする資源横領行為である。役人というのは、ケモノ社会の管理をすることで生計を立てている職業であり、その収入源は、税金である。税金の源は、管理されている者たちがゲットしたお金である。管理されている者が資源をお金に変えれば変えるほど役人が天国になるとしたら、泥棒すればするほど天国になる社会だということである。『働かざる者食うべからず』=『泥棒しなければ食べてはならない』と言うならば、その実態は、巧妙に泥棒する者ほど天国になる、嘘と誤魔化しが巧妙な詐欺師ほど自由を謳歌できる、おかしな世界である。納税義務=労働義務=略奪義務であり、無職という職業が社会人として認められないならば、それは、泥棒でなければ生きてはならないということである。真釣りの世は、泥棒では生きては行けない世であり、全くの逆さまである。騙す者は、騙される者がいなければ存在できない。
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騙されたものがクローズアップされ、可哀想な人種のように言われる。それは、現代社会で言う弱者を表に出さなければ社会が存続できなくなってきたからである。実際は、騙される方も騙す方も、自ら産み出さずに、奪う仕組みの中で、奪った物の奪い合いをしているのであって、楽して天国を得ようとしていることは同じである。本来は、自らの力で産み出さずに自由になることはありえない。現代社会は、元つ大神の真釣りを忘れた結果、お互いの同意の上で泥棒同士が騙し合いゲームをしているだけである。それを当たり前の如く続けているならば、最後は、すべてのすべての源である、すべてを無から産み産んだ天地の所有者、あえて言えば、「自分のもの」を奪われた本当の被害者、本当の債権者が、返還請求(賠償請求、一括請求)をすることになる。あなたが、今の世のアヤマ知のやり方で奪った(「借りた」)もの(財産、立場、信用、知識、宗教等々)をすべて返さないというならば、最後は「自分自身(の命の種)」という担保を没収されて、永遠の滅びとなる。

万古末代、だだ一回の「終始決算」である。あなたが得、快、楽を持っているならば、または、不平不満を言っているならば、あなたは奪ったものを所有している。この世で合法的に得たものであっても、この世自体が天地を泥棒したものを使って創った世界であるなら、あなたのものは何もない。あなたが無から産み出せないならば、あなたの所有物はない。無から産み出せるなら奪う必要はなく、奪うなら無から産み出せないということである。略奪が当たり前だというならば、あなたは、自覚なき泥棒である。泥棒ではないと言う者は泥棒である。失う怖れ、孤独になる怖れを持っているならば、あなたは自らで生きられない。あなたが何かに依存しているならば、あなたは生かされていることになる。あなたが依存しているものは、どんな世界で作られた、どんなものなのか。あなた自らが無から産み出せないならば、あなたの所有物は何一つない。あなたがこの事実を否定するならば、あなたは自覚なき泥棒のまま、永遠の自由な天国で生き続ける生涯、本当の不老不死を棒に振ることになる。これを取り違えれば、あなたは、「本当の死」を迎えることになる。あなたは、もう二度と甦ることはできない。残念無念では済まない永遠の後悔となる。

『盗んではならない』云々のモーゼの十戒そのものが、すでに、元つ大神の天地を奪った中つ魔釣りの神の嘘の法律であり、その流れを汲むすべての法律は、泥棒の世界を維持するための法律にすぎない。アメとムチを利用して法律を定める神や仏には本当の霊力はなく、恐れ(快楽)を持っている存在を操ることが出来るだけである。嘘の神仏を信仰しても、本当の意味でのご利益や救いはない代わりに、罰や祟りもない。本当に無から産み出せる神は戒律など創らない。たとえ、全員が天地を取り荒らす泥棒であっても、全員を成敗して、もう一度、無から産み出せばよいからである。無から産み出せる神は、神仏を含めたすべての有を産めると同時にすべてを無に返すこともできるということである。それほどの力がある神だからこそできることであるが、天地自然の大泥棒を、泥棒し続けることを承知の上で生かし、泥棒であることを自覚させて天地自然の掟に戻れるように仕組みを構えた大神の情けとご苦労はいかほどのものか、おわかりだろうか。あなたは、元つ天地の大神を闇に葬って、天地の掟を破る大大罪を犯して(天国を壊して)いるとも知らず、アヤマ知の常識を信奉して平然としている。元つ天地の大神が『天恵を使ってはならない』と言ったら、あなたは即、滅びである。本当の無条件の愛とは、大神の誠意のことである。
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悪を裁くことが真理の如く思い込んでいる現代人たち。すぐに他人を裁き、「悪人」を死刑にし、身欲で我がまま放題を続けている人類に、大神の本当の情けの深さを分かろうはずもない。あなたは、生まれ変わり死に変わりしながら、天地自然の掟を破って、万象万物を破壊する大大罪を犯し続けてきたのである。天地の理法に反して、天地に不調和を響かせる者は、即、滅びであり、あなたは、本来ならば命はないのである。あなたが賭けたり捨てたりしている命は、あなたのものではない。すべてのすべてが元つ天地の大神のものである。無から産み出せない者には、自分のものは何もないのである。自分のものではないものを勝手に売り買いする行為を泥棒と言わずに何と言うのだろうか。天地の理法を外した人類は、自らを神の如く思い込んで、神が産み出した資源をすべて金に置き換えて、大神の天地を好き放題に荒らし回っている。自らに都合のよい仕組みを作り、その中でマヤカシの自由や天国を得るために、非難したり迎合したりして争っている。すべては大神の響きの顕現であり、現代文明のすべては、天恵があって、初めて存在しえるものである。元つ天地の大神が、すべてを真釣りに戻したら、真コトなき世界は、跡形もなく消え去る。

天地の理法は、唯一無二の絶対法則である。神仏も含めて、天地の理法を破った「神界の犯罪者」には、無罪か死刑か二つに一つ、異議申し立てをする資格は一切ない。それをするならば、掟破りを認めずに、違反し続けることを意味する。大神の真意が本当にわかったというならば、違反した事実を素直に認め、天地の理法に違反して天地を取り荒らしてきたことをお詫びし、滅びる前に知らせてくれた大神の情けに感謝して、たとえどんなことが起きようとも、自らのしたことをキッチリと清算することしか、この先を生き延びる術はないのである。自らが永遠に生きるか死ぬかの瀬戸際である。自らが今まで何をしてきたのか、今のままならどんな運命が待っているのか、ここでしっかりと考えて欲しい。すべては、あなた自身のためである。あなたがそのまま滅びたいなら、それでも構わない。最初で最後の機会を生かすか殺すか、それはあなた次第であり、あなただけの現実となる。

『借りたものは返せ』『盗んだ者は犯罪者だ』と言うならば、本当の債権者、本当の所有者が、本当の債権、本当の所有権を主張したら、その言葉がそっくりそのままあなたに返ることになり、あなたは、もう二度と、どこにも生き返ることはできなくなる。知恵の蛇の神を頂点とした神や仏も含めて、現代社会には誰一人文句を言える者は存在しない。もし、今のまま所有し続けようとして屁理屈をこねくり回すならば、天地窃盗罪は確定である。天地自然の律法による天地窃盗罪は国家転覆罪であり、その判決は、「切腹」のみである。
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『働かなければ、食べられない』世界では、全員が働くのをやめれば、その社会は崩壊する。従って、その社会を支配する(その社会で糧を得て、楽して自らだけの楽園を享受している)黒幕は、被支配者を働かせ続けるシステムを作り出す。例えば、法治国家で「納税の義務(=働かなければ税金は払えない)」というアヤマ知を法律に規定すれば、脱税は犯罪となる。犯罪者になりたくない者は働き続ける。役人は税金を強制徴収する権限を与えられ、支払わない者から「財産」を没収できる。人民が働かなければ税金は生まれない。税金が生まれなければ役人は生きられない。役人が生きられなければ、その世界の黒幕も命はない。『自分は何のために生きているのか』という問いがあるが、あなたは『泥棒の親分(とその手下、そして、その親分がつくる世界)を生かすために生きている』のであり、それは、結局は、『自分を生かすために生きている』ことに他ならない。それは、その世界がすべてだと自らが思い込んでいることがもたらす自認自行の目的であるから、そこでどんな仕打ちを受けようとも、神仏も含めて、それを選んだ自ら以外の誰にも文句は言えない。あなたは『生きるために働いている』のではなく、『働くために生きている』のである。

民衆が完全な自由に気づいたら、支配はできない。民衆に反乱を起こさせずに働かせ続ける(金を生み出させる、金融ゲームの原資を枯渇させない)ためには、民衆の自由を制限した分のガス抜きが必要である。民衆をマヤカシの自由の籠の中に封じ込めるために用意されたもの、それが、叶わぬ夢を実現した積もりにさせる趣味や娯楽(テレビ、音楽、美術、スポーツ、映画、ギャンブル、風俗産業等=通称3S=SEX,SCREEN,SPORTS)である。犯罪をしなければ健全な生き方であるかのように見えるが、3Sが不可欠な、快欲を求める世界そのものがケモノの略奪の世界であり、健全ではないのである。獣が獣を教育しても、獣性を増すだけで、酒を性と金にのめり込み、快欲と快適を追いかける世界に進んでいく。獣の響きは二極分裂の戦いの世界を作り出すだけで、永遠に平和は叶わない。

真釣りを外して実現できなくなった夢を仮想の世界で体験することで、自らの一時的満足感、癒しを経てバランスを戻す。その究極がインターネットである。獣の世界では「健全育成」は幻である。科学の勉強や宗教への信心、社会貢献やボランティア、助け合いの思想も、結局は、世の闇=自らの空虚感を埋めるものでしかないが、これらの思想は空虚感が埋まらない世界だからこそ現れたものであるから、それは永遠に埋まることはない。そして、それを提供する側から見れば、それ自体もビジネスの道具であり、真釣り外しを続ける限り、なくなることはない。元々は、仕事も娯楽も一つであり、自分で自分を自由に楽しめる世界であった。真釣り外した結果である苦や悪を形の道具で解消しようとし続けるなら、誰かが作った仕事に従事して貯めたストレスを、誰かが作った娯楽を食べて解消するという、霊的マスターべーションが不可欠な世界が永遠に続くことになる。「人」の響きを忘れ、「獣」の響きで天国を作ろうとしても、逆さまの世を続ける限り、それは叶わない。自らが、獣の響き(ヘビの知恵)と人の響きを持つ二重神格であることを自覚し、ヘビの世界の善と真コトの善との区別タテ分けをしなければ、滅びの世界に自ら飛び込むことになる。人の響きで獣の響きを導いて、人が獣を従える「健全な」姿に戻ることである。
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現代社会は、蛇の知恵の神を源とするピラミッド構造の最下層の社会である。人類のしてきたことは、『限りある(と思い込んでいる)資源』を奪い合って勝ち残りを決めるゲームに過ぎない。各々の「界」で、立場、財産、技術、知識、収益等々のトップがいるが、現代社会を牛耳るトップは一人であり、神の世界のトップも一人である。しかし、魔釣りの神代のトップは真釣りの世には存在できないから、たとえ今の世で蛇の知恵の神になろうとも、永遠の天国はない。勿論、知恵の神を超えることは絶対にできない。あなたは何を目指して生きているのか。あなたは何のために争っているのか。あなたの目指す天国は、生死時空を超えた世界である。それは、自らが元々いた世界のことであり、今の生き様のままでは、どう頑張っても、限りある今世の寿命の間で天国を体験することはありえない。

現代社会は、人間の姿をしたケモノの社会であり、ケモノがケモノを潰す、共食いの世界である。ケモノの調教は、教育であり、躾であり、訓練でもある。家庭や学校、社会が乱れるのは、ケモノの響きである者が、自らをヒト(真釣りの神)だと思い込み、本来はヒトの世界である天国を創ろうとしてきたからである。ヒトの天国を魔釣りのケモノが壊した末路が現代社会であるから、ケモノであることを自覚しないまま教育をしても、世が乱れるだけである。ケモノの世界はアメとムチを使ったピラミッド型で丸くおさまる。日本狼の絶滅は、ヒノモトの真コト(日本の大神)が表の世から消滅したことを意味する。国産の朱鷺の絶滅は、ヒノモトの神気(十気、時を統べる神の十理=真釣り)の封印が九分九厘完了したことの型示しである。姿形の整合性(バランス)を取ったとしても、それは、形の辻褄合わせ、「日本風の形」を残したに過ぎず、裏の響きはケモノに変わりはない。それどころか、形を天国にしようとすればするほど、裏の響きはどんどんケモノ化が進み、最後は、獣の本性丸出しとなり、共食いの末に自滅する。非常事態での日本人の秩序正しさは、獣を理性で抑えているだけであり、耐え切れずに爆発すれば、最悪の暴徒と化す。獣の性を封じ込め、善人であることを演じようとすればするほど、身魂は酷い姿となる。封印したエネルギーが多いほど、解放する時の爆発力も強力になる。狼の社会すら作れないケモノ人間に、大神の真釣りの天国を創ることなど、絶対に実現しない空想物語りである。

国際社会が混乱するのは、ケモノがケモノを調教して、ケモノの王になろうとして、主権争いをしているからである。蛇の知恵の神の子孫が牛耳る世界は、全員がケモノの響きである。ケモノはケモノにしかなれず、餌(領土、資源、お金、思想、命)の奪い合いの末に、王の一騎打ちで滅亡する。ケモノの世は、ヒトの世の復活で滅びるから、結局は、ケモノの世はマボロシである。もしどうしても、ケモノとして平和な世界を創りたいならば、子供の躾、生徒の教育の方法は「犬のしつけ方」を参考にするとよい。しかし、親や教師がケモノである限り、天国はできない。自らの調教もままならない者が、他人を調教しようとすれば、脈絡のない感情にまかせた独裁飼育となるか、教師(親、指導者)が生徒(子、被支配者)に迎合するしかないが、どちらも混乱を作り出すだけである。自由平等博愛の思想は、バラバラな世界を進める。リーダーが必要なケモノ社会で、平等や自由を唱えれば、好き放題に勝手なことを言い、争いを繰り返し、理想とは正反対の世界をどんどん進めた挙句、滅びの時に至る。まずは、自らがヒトの真釣りに戻ること、つまりは、自らのヒトの響きを思い出して自らの中のケモノをケモノとしてキッチリ調教することである。
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ケモノ社会は、相互依存の弱肉強食の世界しか作れない。管理教育は反発を生み、個性教育は自分勝手なバラバラな社会を生む。理性を持ったケモノの社会は、結局は、自然の調和の掟に反した世界であり、強力なリーダーが統率しなければ納まらない社会なのである。自由放任がよくないと言われるのは、それをすると獣の世界が壊れてしまうからである。その理由とする社会のシステム自体が、おかしいのである。支配の世界に自由はない。自由を求めて制限を強制するという矛盾。自由は自由であり、条件は一つもないのだが、それは、真釣りのヒトの響きを体現できる者だけの社会で可能なことである。人の世界を空想物語りにしてしまった獣の世界の自由は、支配者に忠誠を誓うならば、という条件つきであり、支配者の都合で、自由は奪われる。神の世界を封印した、この世だけの八方世界の平面志向である限り、本当の天国を実現することはありえない。蛇はどう足掻いても蛇である。自らの中の蛇を竜が封印し、竜の生き様を復活しなければ、蛇の毒牙にかかって自ら滅ぶ末路となる。ケモノは際限なく食べ続ける。ヒトが導かなければ、ケモノの世すら存亡の危機となる。自然界で、最も不自然な社会は「人間(人類)という動物」の世界である。ヒトとは真釣りの響きの神のことである。今の世は蛇が牛耳るケモノの神の世である。たとえ、現代社会の裏の裏の黒幕になったとしても、あなたには永遠の天国はない。

現代社会での「職業」は、泥棒の世界で、黒幕が楽をして天国を得るための仕組みを維持するための真釣りのマの字もない戯言であり、実際は、何の強制力も義務もないマヤカシである。しかし、その世界を真実だと思い込んでいる人民は馬鹿正直に働き続け、上納金(税金)を納め続ける。税金を払わないことに罪悪感を覚え、自ら進んでマヤカシの世界の維持に貢献し、自己満足に浸る。『働かざる者食うべからず』というアヤマ知の思想を植え付けられた人民を扇動し、金の世界で働かせ、上納金で楽して暮らす「役人(公務員)」と呼ばれる窃盗団運営組織の幹部ですらも人民を働かせ続けなければ自らの命がなくなる自縄自縛の仕組みを相互依存と呼ぶ。その中にいる限り、上下も自由も平等も公平もない偽の天国を目指して世界を進めていく。宗教法人、特殊法人、社会福祉法人、財団法人、学校法人等々の税金優遇策や、障害者、老人、乳幼児等の割引制度等々があるのは、現代社会の依存システムの中では、割得感を与えたり、ある仕事に寄与する者を優遇したりすることで、自ら進んで社会に貢献するように仕向けるために有効な手法だからである。自らは何もせずに楽しようとする、何も知らない人民に、弱肉強食の敗者の尻拭いをさせるためであり、ケモノの仕組みを教育し、大衆の反乱を未然に防止し、金がものを言う経済社会を維持するためである。無から産み出せる大神は、『働かない者は食べるな』とは一言も言っていない。元つ真釣りの世にはお金は存在せず、お金による誘導は全く意味を為さない。自然の中で生きる動物たちを見れば、一目瞭然である。自らの欲望のまま生きて天国の階段を昇っても、最後の階段は、崩壊である。あなたが『働かなければ食べられなくなったの』のは、あなたが働かなければ困る者が図った策略にまんまと嵌まった結果である。その世界に足場を置いて同意しているあなたには、たとえ餓死しようとも、どこにも文句を言うところはない。実際は、この世の黒幕は、働かずに食べるどころか、他人を働かせたお金を使って、神を金にすりかえた世界で天国の如き暮らしを謳歌しているのである。
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今の「国際社会」は、資源を金で支配する世界であり、その加工物の売り買いの自由度によって衣食住のレベルが決まる。金があるほど天国になる仕組みであるから、楽して天国を得ようとすれば、金で金を増やすマヤカシの仕組みに魅せられ、『いかに儲けを多くゲットするか』に血眼になって、金蔓のターゲットを探すゲームをし続けることになる。しかし、実際には「金融システム」を設計し、世に広めた、一部のエリートのみが自由に振る舞えるだけであり、一般庶民には高度な仕組みは理解できないから、上から下までどっぷりとその世界に嵌まってしまっている。貯蓄やローン、株の売買、円とドルの売買という言葉を疑うものは誰も居らず、当たり前のように、売買価格や貸し借りの金利、為替相場の動向を追いかけている。貸し出しも金利、預け入れも金利である。預金者は、預けている銀行の債権者であり、銀行は貸している預金者の債権者である。お互いに債権者であり、債務者である。実際は、お金の貸し借り、売買の世界は存在しないから、商法という決まりを作って、商売の仕組みを正当化して継続しなければ、金の仕組みは壊れてしまう。しかし、法律自体がマヤカシであれば、商法の正当性と強制力が消えるから、お金を仲立ちにする窃盗=商売も泥棒も同じ行為となる。結果、経済活動は自由選択のゲームとなり、それが不自然なものであれば、参加者は自然淘汰される。上納金をプールしている意味に黒幕が気づかないなら、金の仕組みが壊れれば、金の仕組みで天国を謳歌する野望を持つ、現代社会の黒幕も命がなくなる。黒幕の命がなくなれば、金融システムもなくなり、コンピューターも無用の長物と化し、本当の神の世界を闇に封印し、形のお金の世界で、誰かの決めた通りに生きて楽をしてきた、何をしてよいのか自ら考えられない庶民は狂死する。

生まれたときにすでにある、誰かから与えられたシステムを利便だけを追いかけて使っているならば、罠に落ちる危険性が大である。魔釣りの世には、本当の天使はいない。世の仕組みを設計した者は、自らの安泰だけを考えて、罠を仕掛けて仕組みを作る。巧妙なカラクリは、一流の学者ですら見破れない。見破ったとしても、保身のために公開しない。大衆に至っては、全く正体は見えていない。大神の神仕組みも含めて、システムの持つ意図を知り、システムのすべての構造を熟知し、システムを自由に使いこなし、自らの完璧な危機管理をして、仕組みの中にいる者を自由自在に操れるのは、設計した本人だけである。元つ大神のシステムでは、真釣りそのものの響きがなければ、何を企もうと世は滅ぶ。
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利子とは元金が産む利の子供である。元金という親の先祖は紙であり、銅や銀やアルミである。さらに遡れば、樹木であり、鉱石である。もっと遡れば、火であり、創造エネルギーであり、元つ大神の響きである。無から作り出せる神の世界に、金融、為替、ギャンブルがあるのはいかなることか。どこでおかしくなったのか。現代社会は、資源やその加工品、原爆、果ては、神のご利益まで売り買いする、金融システムを神とする「市場経済」という戦略を使ったお金の略奪競争である。売上のランキングが国のランキングであり、ランキングが上位の国ほど金が集まる仕組み、お互いに国債という借金の債権者になり、株式という紙を売り買いすることで会社、つまりは、その社員から取引先、顧客まで、すべてを売り買いする仕組みを作り出した。神を金に置き換えて、真釣りの天恵や知恵を魔釣りの思想で好き放題に使って、金に交換する(儲けを出す)仕組みを作り出し、個人から家庭、市長村、都道府県、州、国、国連まで、結局は、数学上の損得、即ち、帳簿上の収支決算の「+」を奪い合う略奪の世界が「文明社会」と呼ばれる末路の現代社会である。

物と金を交換するだけでは、物々交換と同じであるから意味がない。ビジネスという仕組みを作って、初めて、金の世界の王になるチャンスが与えられるのである。仕入れの原価は0と同じであり、在庫を抱えた状態では、借金しているのと同じである。売って儲けが出て、初めて、金の世で衣食住を自由に手に入れられる「神」を手にしたことになるのである。真釣りには損得はなく、損得があるならば、魔釣りの略奪の世界である。大神の真釣りの響きで無から産み出した天恵を魔釣りの響きで泥棒して、それを元手に金という紙や金属を集める。電子マネーや、為替ディーラーの例で分かるが、やっているのは、コンピュ-ター上の数字の操作であり、結局は、お金そのもの(現金)も、形に見えるように具象化した道具に過ぎず、現金のみで売り買いをしていた社会は、数字操作の世界であることを誤魔化すための、過渡期の段階なのである。実感を得させるために「お金」という偶像を具象化して形の売買をしているが、実体は、すべての物(行為、サービス)を数値化し、数字を増やしたり減らしたりして仮想売買をしているゲームに過ぎない。もっと言えば、万象万物を数字に置き換えて、数字を捜査することで快を奪い合う快欲追及競争である。大きな+数字を手にするほど自由=至福の体験ができ、-数字を手にするほど、誰かに操られて不自由になる(言い換えれば、金を貸せば操れる)「見事な」システムである。

神を金に置き換えた世界=お金(経済)に自らの命を預けている民の構成している世界では、お金(=命)=数字の操作権限を手にすれば、戦争や殺し合い、自殺をさせることは簡単である。世界を支配することや、自らの手を汚さずに邪魔者を消すことも自由自在となる。形で快を得る世界で、形をお金に置き換え、数値化し、それを、コンピューターを使って管理するシステムを作り出す。現金のやり取りの不便さを体験させた後に、カードを与え、ローンシステムの便利さを植え付ければ、便利や楽を追い求める大衆は、裏のカラクリに気づくこともなく、自らの欲望のままに快適生活を追いかけ、「金」の世界の虜になってしまう。当然、民の集団である国家も同じ仕組みであるから、金融システムの実権を握ることで、特定の国を操作し、破綻させ、離合集散させて、思い通りに世界を奴隷化することは簡単である。しかし、たとえ神を金に置き換えた世界を支配しても、その世界が、「この世」限定の有限の略奪の世界である限りは、結局は、自らが破綻することになる。
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人類の起源、魂の源は「神」であるから、自らが創造した結果は、すべて自らが引き受けることになる。魔釣りの略奪の世界が永遠に続くのであれば、永遠に略奪を続けることもできる。しかし、それとて、有限の世界の奪い合いである限りは、必ず破綻する時が来る。たとえ、今生だけのスパンで破滅の危機を乗り切ったとしても、生まれ変わる魂としての存在であるあなたは、永遠に転生し続けることになるから、必ず、自らが滅びを体験する時に居合わせる。そもそも、真釣りの世では、生死時空は一つであり、過去も現在も未来もなく、生も病老も死も、天国も地獄も滅びも存在しない。従って、あなたが真釣りならば、すでに生き通しであり、真釣り戻しの世界で魔釣りの世を体験しているだけであるから、生死を心配する必要は全くない。魔釣りのゲームが終われば、永遠の天国の現実に戻る。あなたが魔釣りならば、あなたはすでにどこにも存在しない幻であり、真釣りの世に戻れば、あなたは跡形もなく見えなくなる。生死時空を分裂させた魔釣りの響きがある間だけ、存在するように見えているだけである。真釣りの世では、魔釣りのあなたはどこにも存在せず、生き死にを賭けて争っているTVゲームの仮想現実の中の登場人物の一人に過ぎない。真釣りの神がスイッチを切れば、あなたの存在は幽霊のように視界から消える。蜃気楼のような存在が幻の世界を実体として進めてきたのが、人類の歴史であり、魔釣りのアヤマ知で何を画策しようとも、真釣りの大掃除を超えて生き延びることはありえない。

魔釣りの世界がある間は、魔釣りのアヤマ知の世界で好き放題に生きることができる。しかし、魔釣りのアヤマ知で世を進められるのは、後少しのことである。あなたをそのまま放っておいても、自動的に破滅(消滅)するが、大神の親心=情けによって、天地の理法に違反した魔釣りの響きの身魂を真釣りのミロクに生かすための最後の仕上げが用意されている。自動的に消滅するその前に、元つ大神の真釣りの神仕組みによって、大掃除をして真釣りに戻す最後のチャンスを与える仕組みが発動することになっているのである。魔釣りの世を進めたい者は勝手に進めればよいが、魔釣りの響きは、囚われを解くための仕組みである限り、永遠には許されない。天地の理法に違反した身魂を真釣りに戻すための期間限定のシステムである限りは、計画された時節が到来すれば、問答無用で真釣りに戻すことになる。仕上げの仕組みが発動した後は、自ら真釣りに戻らない限り、どんどん地獄の現実が進み、自らのしてきた結果を身を持って体験することになる。生死時空を超えた世界に生かされていた自らの実体そのままに、すべての自己責任を清算することになる。
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資源を加工した「お金」というマヤカシの道具を使った、略奪の知恵が作り出した金融システム(正確には、高等数学とコンピューターを使った略奪システム)をどう駆使しようとも、「すべて」を支配することは、絶対に不可能である。形で響きを、金で神を支配できるならいざ知らず、「この世」の「文明社会」だけを支配しても何の意味もなく、天地自然の理法を外したやり方では、自らの首を締め続けるだけのことである。さらには、支配者の策略にまんまと嵌まって、快欲を追いかけて、金の世界で自由や至福を得ようとしている「大衆(庶民、一般人)」も、識者と呼ばれる政治家や、宗教家や、学者も、全員が同罪であり、全く同じ運命を辿る。神から人まで一体不可分の世界で自由自在に天国を体験するためには、真釣りに戻るしか術はなく、魔釣りの世界(運命共同体)は破滅して終わる。現代社会の「豊かさ」や「経済発展」の本当の意味を知り、今まで、どんな世界で、何をしていたのかを正直に見て、自らの辿る運命を今ここでシッカリと考えてみることである。

電子化するということは、すべてのデータを自由に閲覧できる者が存在するということであり、それが政府機関ならば、法律での個人情報の保護は意味がない。すべてをコンピューター上にデータ化すれば、コンピューター上の操作で、金持ちにも破産者にも、無罪にも有罪にも、できるのである。現代社会で個人を個人たらしめているものは、データである。名前、生年月日、国籍、病歴、職歴、学歴、成績、購買歴、預金借金残高、家系、犯罪歴等々、電子世界を辿れば、すべてのデータを手に入れることができる。電子世界で誰かを殺す(死亡したことにする)ことも、別人に仕立て上げることもでき、電子的輪廻転生が可能になる。先端科学技術は軍事利用から始まり、軍事的に危険がない状態になった時(さらに先端の技術が開発された時に)民間に開放されるのである。インターネットも、電子レンジも、テレビゲームも、庶民にとっての最新技術や最新機器は、すでに軍のお下がりなのである。新しい技術には終わりがなく、庶民は、最新機器に買い換えるために永遠にお金を使い続ける(働き続ける)ことになる。庶民でいる限りは、どんなに頑張っても、本当の自由は得られないのである。軍の最高機密は誰も知ることはできない。庶民にはマヤカシや作り話に見えることも、真相を封印するためにそう思うように教育を通して洗脳されているだけで、実際は、どんな荒唐無稽な話でも実現の可能性はある。庶民から見れば、進歩しているように見えるが、政府や軍や企業が本気になれば、今すぐにでも、50年先に実現すると知らされている未来の生活も実現するのである。何らかの理由(儲け続けるために主導権を確保する、あるいは、軍事支配権を維持するため)で、小出しにしているだけである。インターネットの便利さ、自由さの裏に隠された本当の目的が何なのかを知らずに使っていれば、気づいた時には、とんでもない世界に放り出されることになる。
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ハッカーが犯罪者だと思ったら大間違いである。権力を握っている組織が、何らかの意図でハッキングを依頼した場合は、ハッカーは勲章を授与される。国民総背番号制の是非の議論があるが、全く意味がない空論である。文字、即ち、名前や地名がコード化できる限り、生まれる前から背番号がついているのである。すでに、民間レベルで電子管理されているのが現代社会であり、自治体のコンピューターへの侵入実権は、時間と税金の無駄である。この世にあるものは、すべて、数字に置き換えることができる。映像も、色彩も、振動も、波動もすべてが数値化できる。つまり、この世にあるものは、すべてコンピューターで処理できるのである。この本の文字もパソコン内では、コード処理されて、文字に変換され、印刷され、本の形であなたの目の前に出現したのである。上から下まで、進歩、発展神話にのめり込み、快楽と利便を追いかけ続けた挙句、現代社会の正体を知らずに、自ら進んでIT社会や電子政府というマヤカシに足を踏み入れている。インテリジェンステクノロジーとは、知恵の蛇の魔釣りの神の究極の物質化世界を作る技術なのである。電脳網、即ち、数字の演算処理電子脳の網がすべて管理する社会で、便利、快適、安全、簡単、ユニバーサル云々を追いかけた末に行き着く先は、全く逆さまの現実である。

この世、正確に言えば、文明社会は、高等数学の演算処理の作品である。一般大衆は、パソコンのCGや携帯電話やゲームを何も考えずに利用しているが、それを画面上に出現させるためのプログラミングとコンピューター内部の処理は緻密で、かつ膨大なものである。現実社会も同じことで、大衆の目には、物や金や預金通帳や数学の教科書やパソコンやインターネットやビジネスのような具体像として現れるだけであるが、その裏には、一般大衆には及びもつかない、とんでもなく緻密に計算され尽くしたシステムが動いているのである。そのシステムを設計し、組み上げ、形にして、実際の社会で自由自在に運用できるエリート集団が、お金と金融経済を道具にして、物を数字に置き換えた世界を自由自在に操作して天国を生きている。究極的には、すべてのデータを蓄積したコンピューターを破壊すれば、電子政府の支配する仮想現実での個人情報、地位、身分、財産は、一瞬のうちに幻の如く消えてしまい、現代社会という幻想に足場を置いているすべての者が「自分」を失うことになる。0から産み出せない限りは、始めからすべてが幻なのである。しかし、それは、魔釣りの響きの形の世界だけの話であって、この世でどんな企みがあろうとも、真釣りの響きだけは消すことはできず、自らの真中の真コトの響きを残せば、新しい世界で自由に自分を再生することができる。魔釣りの今世を支配する者も含めて、すべてが幻想の世界であり、本当の実体である元つ真釣り世が復活すれば、地球どころか、魔釣りの世界で作ったものは、神から人まで、あの世からこの世まで、すべてが消滅するのである。

金融経済の世界には、等価交換はありえない。元金、原資、原価は、お金ではない。100$と100¥のように、同じ数字でも単位を変えれば価値が変わる。変動相場という仕組みを作って、金の価値変換で、エネルギーを使わずに金を増やすゲームが、金で金を増やす金融システムである。しかし、金融システムが基にある市場経済も、天恵がなければ、ゲームはできない。当たり前のようにやっている物の売り買い=ビジネスの正体とは一体何なのか。現代社会を支配する、人類の歴史を通じて根底に流れている大きな嘘に気づかなければ、世の破滅は必至となる。人民を働かせた果実である税金を上納させた王から上納金を巻き上げて楽して暮らすのが、世の黒幕である。暴力団やマフィア、宗教団体の組織運営システムは、そのまま現代社会の映し絵なのである。その現代社会の中で快楽を得よう、生き残ろうとしているならば、どんなに清く正しい倹約者でも、破滅の道中にある。
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現代社会は、蛇の知の神の牛耳る世界である。蛇の天国を維持するためにその世界で考え出されたシステムを都合のいいように使って、蛇の世界で国力を誇ってきた日本国。そして、拝金教国の象徴に成り下がり、真釣りの真コトを闇に葬って魔釣りの神の神事に勤しむ日本国の王。西洋世界の王は、血統を重んじ、領地を奪い合い、その上納金で富を得てきた。現代社会の裏の黒幕も、表向きは略奪に見えない同じ仕組みで国際社会を牛耳っている。みなの幸せを願い、施しの仕組みを褒め称え、善人を演じて、いつのまにか黒幕に座らされた黒幕、世界を牛耳る知恵の神の仕組みを利用して『働かざる者(金を稼がざる者)喰うべからず』の世界で何の危険もなく(その代わりに自由もないが)偽の天国の暮らしを顕現しているその存在が、知恵の神の恩恵を最も受ける。外国にも国民にも人畜無害だから潰されることがないだけであり、最後は、元つ大神の大掃除の対象者の象徴となる。

皇室の祖神である天照皇大神は、魔釣りの天孫族であり、伊勢神宮は、神界のGHQ本部である。神界のヒノモトの占領は三千年の間、続いている。しかし、神の占領軍が何を企んでいようとも、すべては元つ仕組みに織り込み済みであり、九分九厘まで魔釣りに勝ちを渡したその後に、元つ大神のたった一発の元始爆弾で、魔釣りの世界はすべて焦土と化し、神から人まですべての世界が元つ真釣りの神代に戻ることになる。日本史では、実在が疑問視されている神武天皇は、実際は、人皇として即位した正神真神である。従って、それは「神代の岩戸閉め」を意味するから、その流れを汲む現在の皇室は、魔釣りの蛇の流れの子孫となる。「万世一系の天皇家」というのは、人皇の世(岩戸の中)の、形の歴史の中の話であり、本当のスメラミコトの正体を封印する魔釣りのアヤマ知だったのである。

日本の神響きを封印するために、唐欧米を使って、外来宗教で敬神を壊し、教育でアヤマ知の科学を植え付け、経済システムの中に取り込んで金の虜と為す。宗教、政治、経済、軍事の実権を奪って、日本人一人一人の身欲を煽る餌をばら蒔き、真中の真コトを邪鬼となして鬼門に封じれば、世界は蛇の思うがままとなる。大神を忘れ、世界の真中のハラを骨抜きにするための「蛇の知恵の罠」、三千年の策略にまんまと嵌まってしまった日本国。揺り篭から墓場まで「完全生活保護」を受けて暮らし、最高レベルの教育と衣食住を享受し、贅を慎み、弱者の気持ちを思い、国民の幸せだけを考える「魔釣り社会の最善王」は、一厘の差で、蛇の神の体現者となる。英国女王から騎士の勲章を授かり、皇族が英国留学し、魔釣りの科学の学者として世界に名を轟かせ、世話係の仮面を被った侍従と言う名の監視付きの皇居と言う名の隔離施設に住み、公務と言う名のお飾りの仕事で一生を終える「天皇」という存在が、実は、魔釣りの蛇の知恵の神の究極の権化なのである。日本人として真コトに悲しいことではあるが、本当に正直に考えれば、これが天皇家の正体である。
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儀式を守り、国の安泰と五穀豊穣を祈っていると言っても、祈る対象のその神は岩戸を閉めたあとの魔釣りの天孫降臨の神であり、皇祖が天照大神ならば、その源は知恵の神である。その世界で国祖神に安泰を祈り、伝統儀式を継承してきたとしても、その答えが現代日本の混迷だとすれば、それは何を意味するのか。日本は「世界の雛型」である。日本が何をしているかによって、世界の行く末が左右される。真釣りの源であるべき日本の王(スメラギ、皇族)が魔釣りの経済の上納金で生存を保障され、魔釣りの神の神事を続けて何不自由なく暮らし、人民が科学教、金融教を信奉しているなら、それは、知恵の神の実働部隊の王が全世界を奴隷にしていることを意味する。天皇家が本当の祀り(「真釣り」)をしていなければ、現代日本は、神社から学校まで、神から人まで完全なる魔釣りの奴隷であり、日本が魔釣りの源であれば、蛇が竜を支配する現代社会の末路は、破滅のみである。

「日本列島」は、元つ神気出づる唯一の地、真釣りを統べる三千世界の基(臍)であり、今も真コトの一厘の響きを奏で続けている元つ大神の御神体そのものである。真コトの一厘の響きを闇に葬ってアヤマ知の科学と金にのめり込み、衣食住から精神まで魔釣りに握られた日本国。日本=ハラが完全に腐っているならば、『神と悪魔の戦いのケモノの宗教』『世界は一家人類は兄弟姉妹』『金が支える金融経済システム』『科学、IT、慈善、裁判、福祉=相互依存』(体主心従霊属の魔釣り)に足場を置く、真釣りを外した「蛇の知恵の火」を基と為す、逆さまの「嘘の蛇の悪神」が統べる世界の末路は、神から人までただ一つである。ヒノモトが腐れば(苦去らなければ)魔釣り、腐らなければ(苦去れば)真釣りである。『真中の座に何様が座るかで、八方世界のマ釣りが決まる』それが、元つ仕組みである。今の世は、ヒノモト真中に蛇が座す、八方世界に蛇の頭が睨みをきかす、ヤマタノオロチが牛耳る世界である。そのヒノモトの有様を真実だと思っているすべての日本人のハラにいるのは、当然のことながら、竜の仮面を被った大蛇である。神代の昔にヒノモトが魔釣りで曇ったことが、世界が汚泥混濁の争いの歴史を歩んだ本当の原因なのである。

真中が真釣りなら世界も真釣りである。ヒノモト真中=世界のハラが腐らなければ、世界は今も真釣りのまま続いていた。世の大掃除もなく、嬉し楽しの幕の上がりで、真釣りのミロクに成ったのである。自らの真中に真コトの草薙の剣が封印されている。オロチの腹にはオロチが飲み込んだ剣がある。自らがオロチに負けて献上した剣である。真コトを響かせれば、オロチの腹の剣が真コトに共鳴し、魔コトのオロチは悶え苦しんだ末に、真コトの響きに戻る。大蛇が正竜に戻る。自らが真釣りに戻る。それが、真釣りが魔釣りを改心させる仕組みである。魔コトを捨てれば真コトが響き、真コトが響けばオロチが従う。魔コトに囚われ続ければ、オロチもろ共、自らが真コトに成敗される。ヒノモトの民が真コトを響かせればヒノモトに真コトが響き、ヒノモトに真コトが響けば、世界に真コトが響く。世界に真コトが響きけば、世界が真釣りに戻る。元々は、世は真釣りのみである。まずは、真釣り外した自らが真中の真コトを思い出し、真コトを鳴り成らせることである。草薙の神剣による各自のオロチ退治、ヒノモト真中の大掃除から、本当の世直しが始まる。
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霊主心従体属の真釣りの真コトの正神真神の竜が統べる天地の神法、分かり易く言えば、日本列島を御神体=聖地として崇める真コトの神の精神を拠り所とする本当の「世界統一教」に戻らない限り、世界の破滅となる。神から人まですべての世界が滅ぶか残るか。その鍵は「日本」である。本当の日本=ヒノモトに残る最後の真コトの一厘、本当の日本の神道(真コトの日本真道、神道=戦争ではない)の復活が、元つ真釣りの大神の救世の響きをこの世に降ろす唯一の術である。まず手始めは、御神体の神官=日本人の超大掃除である。この本は、現代日本と人類史の正体を明かし、心に巣食っている嘘を掃除する材料を提供することで、日本人が本当の日本人に戻って、残る一厘の真コトの道を日本に(そして世界に)復活するための、真コトの日本を担う人材を育てる再教育の教科書でもある。

世界を救う真コトの一厘。天皇から庶民まで、日本のお土に産まれ、育まれた日本人全員が思い出すべき真コトの一厘である。本当の日本の一厘を穢した事実は消せないから相応の大掃除はあるが、この一厘で元つ大神の御用を果たすことが、これから始まる世界の立て直しで日本が果たすべき天命である。これは空想でも理想でもなく、「元つ真釣りの大神の創造の法則」に基づいた元つ仕組みである。これを荒唐無稽の夢物語、狂った宗教家の戯言として闇に葬るのが、真釣り外した現代社会で教わった常識なのである。現代社会が逆さまであるなら、真釣りの世では、現代社会の常識が荒唐無稽となる。この本の話と現代社会の常識、どちらが本当の真実なのかは、現代社会を見れば明らかである。ハラとアタマの戦いとは、現代社会の魔釣りとミロクの真釣りの時空を超えた決戦である。真コトの一厘があることを思い出し、それを認めて心底から改心し、魔コトの宗教と科学を捨て、真釣り外した分の身魂の大掃除の辛苦に耐えて、見事ミロクの開闢の天命を果たして欲しい。

現代社会は、本当の神を知らない。神の戦争の結末を知らずに戦い続けている。真コトの神との戦いは、生死時空を超えた戦いであり、水爆も細菌兵器も役に立たない。たとえ、魔釣りの蛇の知恵の神が自らの総力を挙げて封じ込めようとしても、勝ちはない。ヒノモトが真釣りに戻らなければ、世界は破滅に向かう。真コトの神を知らない今の国際社会の中で日本が真釣りに戻ると、『日本の突然変異』『市場経済と民主主義への冒涜』『狂ったとしか思えない裏切り』『神国の復活』に世界は驚天動地の大混乱になる。『日本帝国主義の復活の脅威だ』『国際社会を混乱させるテロリストだ』『我らの神を冒涜する悪魔が正体を現した』と一致団結して責めて(攻めて)来るかもしれない。しかし、どんな状況になろうとも、決して真コトを動かしてはならない。今の立場を守ろうとして迎合してはならない。生死も立場も国の存亡も、すべてのすべてを元つ真釣りの大神と正神真神(ヒノモトの真コトの守護神)に任せて、真釣りという神法を厳格に守り通し、蛇の世で積み(罪)上げてきたすべての歴史を捨てる覚悟を決めて、非難、圧力、攻撃に見事に耐えて真コトを貫くことが、世界に真コトを示すこれからの日本の本当の「シゴト(国際貢献)」である。
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世を滅ぼす自分勝手な魔釣りの「私事(死事)」ではなく、真コトの一厘で世を支える真釣りの「支事」が、世界の中での日本の本職である。真コトの日本の守護神の総帥は、魔釣りの総帥の蛇の知恵の神をも産み生んだ、三千世界を統べる真釣る真コトの創造主、元つ真釣りの大神様である。それがどんな神なのか、何と言う神なのか、云々と神の正体を分かってから信じようなどというのは、真釣り外しの証であり、魔釣りの権化そのものである。そのままでいるならば、これから始まる総決戦では、寝返った裏切り者は賊軍と見なされて成敗の標的となることを覚悟しておくことである。魔釣りの勢力でも、真釣りに寝返れば、真コトの官軍として迎えられるということである。自らがどちらを選ぶのか、今ここから態度で示してもらいたい。難しく考えることはない。要は、真コトの日本人として何をすべきなのかだけを汲み取って、それを一言違わずに実行に移せばよいだけのことである。

真コトを磨けば、自動的に官軍の兵力として大神の旗の下に参戦できるのである。これは身魂の戦であり、今世で言う老若男女や知識や体力や宗教や財力や生き死は全くもって意味がない。女だから、子供だから、老人だから、などという現代社会の常識での言い逃れは通用しない。『そんな馬鹿げた話は信じない』それは、自らの永遠の滅びを意味する。霊界全土が遍く戦場と化すから、神や仏も含めて、誰一人(一柱)、戦を逃れることはできない。真釣りか魔釣りか、生き戻る道か滅びる道か、裏表、正反対の選択であり、官軍か賊軍か、どちらか一方の兵士になるしか道はない。万古末代、永遠に生きるか滅びるか、生死時空を超えた二つに一つの究極の踏絵である。究極のビックリ箱、本当のパンドラの箱が開いた時に肝を潰さないように今から少しでも真コトを磨いて準備しておくことである。

この本で語る話は、現代社会を信奉している日本人にとっては、とんでもなく馬鹿げた荒唐無稽な話に聞こえるはずである。「狂った」著者の精神構造を分析したくなるかもしれない。しかし、ここに書かれている話は、すべてのすべてが事実であり、これが嘘ならば、現代社会の常識が真実だということになり、そのまま生きていけば、明るい、光輝く天国がやってくるだろう。あなたが、どちらを信じる(選択する=実行する)かは自由であるから、著者が口をはさむ問題ではない。著者は、ただ、自らが求めていた結論であり、かつ、人類が求め続けてきた真コトの真実を公開しただけである。現代社会の真実と著者の真実のどちらが嘘か、どちらが悪か、どちらがマヤカシか、どちらが天国を作る方法か、この際限のない究極の禅問答については、著者自身が究極まで突き詰めた問題であり、自問自答を繰り返して自己矛盾を解消していった末に辿り着いた結論がこの本なのである。
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この本の話は、議論する余地はない。あなたの本当の姿を映す鏡であり、あなたが、最初に決めることは、あなたがこの本を要るのか要らないのかである。もし、あなたにとってこの本が不要ならば、その場でゴミ箱に捨ててもらって、今までの生き様に戻って頂いて一向に構わない。この本を読んでいる身欲のあなたは、この本から何かを得ようとしているのであるから、著者の言動に対して口をはさむ資格はない。数え切れないほどの恐れを乗り越え、長きに渡る体験を通して、真偽の裏付けを取った上でここに辿り着いている著者としては、例え自分一人だけしか信じていないとしても、霊界で殺され続けたとしても、自らが持っている今の考えを改める気は100%ない。著者に対しての忠告や警告や助言の類は一切辞退させて頂く。著者は、その正体を知った限りは、魔釣りの穢れ(怪我霊)の世界に戻ることは絶対になく、最後は、読者諸氏がどう判断するかの個人的問題となる。

日本の国土(ヒノモトご神体)には、正神真神の御霊統の神々が総動員でヒノモトの神民の真コトの戦を支援する、魔釣りの蛇の総帥が全世界の神々と臣民を率いて攻め寄せてきてもびくともしない仕組みが構えてある。ヒノモトにすべての魔釣りの勢力を引き寄せて、魔釣りに穢れたヒノモトを九分九厘まで壊滅させ、魔釣りの蛇の勢力に九分九厘まで勝たせたその後に、本当の真釣りのヒノモト真中の真コトの大神が顕現し、すべてのすべての穢れを一気に祓って真釣りに戻す、神仏も知らないどえらい仕組みが隠れているのである。

要は、真珠湾攻撃の時の米国政府と同じ作戦を決行するだけである。暗号解読で知っていながらわざと奇襲させて日本を卑怯な悪者に仕立て上げて国民の戦意を高揚させ、飛行機時代になってから要らなくなった戦艦を日本軍に破壊させて処理の手間と資金を節約し、それを口実に宣戦布告する。いつも同じパターンであるが、米国は、攻撃の理由を作り出すために敵に先に手を出させ、自らはいつも正義のために反撃する国なのである。考え方としては同じであるが、大神のシナリオを知ったところで、これを嘘だと思えば、魔釣りの勢力は自らのシナリオを続行するし、真相を知ったからといって真釣りを潰せる策があるわけではない。負けると分かっても九分九厘まで進めた世界制覇の夢を今さら捨てるわけにはいかず、『そんなものは世界に対する日本の脅しだ』『日本帝国の逆切れだ』『自暴自棄の狂言だ』『国家神道の復活を図っている』『神風精神復活の危険思想だ』と難癖をつけて葬り去ろうとするだろう。しかし、魔釣りの勢力が何をしようと時すでに遅く、真釣りの大神のシナリオ通りにコトが運んで必ずミロクが顕現することになる。結局は、魔釣りに穢れたヒノモトの神民も含めた魔釣りの勢力が改心するしかしないかであって、魔釣りの蛇の神の企みが成就することは絶対にないのである。本当の神界決戦の実体は、科学と金に洗脳され、金と形の世界で右往左往して、自らの生き死に如きの些細な世界でイサカイを繰り返して殺し合っている今の日本人には微塵も想像できないとんでもない世界なのである。
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平安時代の陰陽師の呪術戦争の世界、あの世とこの世が入り乱れての百鬼夜行の阿鼻叫喚の戦を想像すれば近いかもしれない。イスラムや十字軍の語る聖戦は、魔釣りの蛇の共食いの世界の中での中味のない仮面劇であり、本当の聖戦は、ハラとアタマ、真コトと魔コトの霊戦なのである。魔釣りの立て替えの仕組みには、人類史上では、形の上で戦う振りをしているイスラムと十字軍が最後には一つになって、ユダヤのエホバの指揮の下に、真コトのヒノモトの壊滅を図るシナリオが、最後の最後に用意されている。魔釣りの知恵の蛇の神が世界制覇を成就するための世の立て替えの最後の最後に実行される、この世の人民にも、あの世の神々にもわからない裏の裏に隠された極秘作戦なのである。現在の世界情勢は型示しであり、表面上の戦争に目を奪われている人類や、魔釣りの中つ世の神や仏にとっては、予想もしない晴天の霹靂のビックリ箱が突然開くことになる。真コト真釣りの大神はすべてのすべてを知っているから、ヒノモトの神力を最後の最後の最後に現して、すべてのすべてを真釣りに戻す立て直しの仕組みが成就することになる。立て替えの魔釣りの勢力は、このカラクリを知らずにヒノモトを潰せると本気で思い込んでいるのである。

ヒノモトの真釣りのカラクリを知らずに世を進めてきたイシヤの立て替えは間もなく終わる。同時に、真釣りの真コトで世界を祓い清めるスメラの立て直しが始まる。一時は、玉石混交の神幽現入り乱れた神仏人ごちゃ混ぜの大混乱となるが、真釣りの大神の出現ですべてが明かされて、ヒノモトが九分九厘壊滅した後の、神界総決戦のハルマゲドンで、三千年の因縁の対決に決着が付く。とにかく、本当のハルマゲドンというのは、真釣りを外す魔釣りの勢力と元つ真釣りの大神が元つ仕組みで対峙する、真釣りのミロクを復する神仕組みに従ったシナリオの総仕上げ、神界争奪戦争の最終決戦のことである。魔釣りの勢力がどんなに悪足掻きしようとも、「真コト」なしには絶対に勝利しない聖戦なのである。

魔釣りの神の千年王国を作る企み、イシヤの立て替えの仕上げは、最初で最後の日本侵略であり、三千年の策略を通じて(本人の自覚の有無はいざ知らず)今の日本に配されている魔釣りの占領軍の守備隊(魔釣りの神仏と魔釣りの人民)を増強するために、神界現界両方の応援部隊が大挙して押し寄せることになる。現代社会は、魔釣りの世であり、すべては両刃の剣であることを思い出して欲しい。在日米軍は、戦略地図の上の自国にすでに配置された敵軍である。最後の指令が下った暁には、安全保障の仮面を被って侵入した占領軍の正体を現し、反旗を翻す。兵力を移動する時間も手間も金も要らず、内部からいきなり敵国に攻撃できるという最高の作戦である。民間の組織の中にも日本人の皮を被ったスパイやテロリストが潜入している。原子力発電所は固定原爆となり、ダムは水爆弾となり、化学工場は化学兵器となり、石油タンクやガスタンクは固定爆弾となる。今まで便利や快適を与えてくれた(と思い込んでいた)文明の利器がすべて武器に早代わりし、都市文明は一瞬にして崩壊する。天恵を魔釣りで好き放題使って作った世界は、必ず壊滅する。
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結局は、快欲に囚われたヒノモトの神々と人民が自ら招き入れた結果であり、表面の美醜、善悪、正誤に騙されて、仮面の裏を見破れなかったヒノモトが親としてだらしなかったいうことである。悪の教えに騙されて『親(日本)だけではなく、騙した子(世界、魔釣り)も責めるのが公平だ』等と言っているなら、世界の親の自覚なき恥言である。自らの真釣り外しが、子に好き放題をさせた原因なのである。まずは親が率先して改心し、子に真コトの素型(姿)を見せて、行いを通して正しい道に子(世界)を導くのが親としての責任の取り方である。本当の親の勤めは、自らがどんなことになろうとも、子のために寝食を惜しんで働くことである。真釣りに戻れば、ヒノモトを守護する真釣りの神々は、ヒノモト人民が天命を果たせるように、「自然現象」を総動員して支援する。火山の同時噴火、大地震の同時発生、津波、崖崩れ、地割れ、大嵐、雷で、敵も味方も区別なく形の世界は壊滅する。議事堂への落雷は、型示しである。環境破壊や自然災害をただの自然現象の結果であると思ったら大間違いである。万象万物すべて神であり、真釣りならば、自然災害はただの一つも起こらず、この世の営みを停止させる気象条件は顕現しない。すべては自らの持つ響きを教える鏡である。真釣り戻しの総決戦の本戦場は、この世もあの世もごちゃ混ぜの霊界での総力戦であるから、最後は形の破壊や軍隊の戦争だけの話ではなくなる。

真釣りと魔釣りの総決戦、元つ真釣りの真中の「ヒノモト」から穢れた「魔釣りの知恵の蛇」を綺麗サッパリ追い出すための万古末代一度の本土決戦は、生死時空を超えた戦いであり、真釣りのヒノモトの勝利は決定済みである。米軍だろうと、多国籍軍だろうと、呪術軍団だろうと、相手にならない。最後は神と神の総決戦になることは、外国の民のほうがよく分かっているはずである。自らが、世界を立て直す天命を背負った真コトの神民であり、生死時空を超えた神力を顕現する霊魂であることを日本人が自覚することが真釣りの神力顕現の源である。抵抗する者は最後は全員玉砕となり、ヒノモトに無条件降伏した蛇だけが、神仏共々真釣りの世に導かれる。真コト、真釣りの神界の国家総動員令が発動されれば、蛇の響きは完全消滅の道に入ることになる。本当の第三次世界大戦はこれからである。それは、神幽現三千世界真釣り戻しの総決戦である。戦が終われば、三千世界からすべての穢れが祓われ、万古末代歓喜弥栄の本当の元つ神代の天国、ミロクが復活する。

これは、SFなどではない。今の世の宗教にある神の粛清の話と九分九厘同じであるが、それは真コトの一厘を見失った神々から見た終末世界であり、実際には、その神の為の天国も含めて粛清される、真コトの一厘が発動して、初めて成就する実話である。これが実話でなければ、悪は一掃されず、穢れは払えず、戦はなくならず、天国は永遠にやってこない。現代社会で学んだことはすべてのすべてが真実を隠す嘘であることを覚えておいて欲しい。この文そのものを疑う心があるなら、それも、その嘘を信じているからである。あなたが心底から逆さまに戻さない限り、堂々巡りの禅問答が続き、永遠の滅びを迎える。
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本当に力のある者は騒ぎ立てはしない。自らに力のない者ほど吠えるのである。魔コトで調教された犬(獣、今の世の神々と人類)がどんなに威嚇しようとも、真コトの飼い主(本当の「人」、真釣りの神々)はビビラない。犬の祖は狼、人の祖は大神、である。人間(飼い主、王、為政者、親、神)と犬(家畜、奴隷、民、子、人)という関係に、神と人間(霊と体、神界と現界、この世の有様)の姿が型示しされている。「霊主体属」になるか「体主霊属」になるか、神が人を治めるか人が神を治めるか、どちらになるかは、結ぶ心のあり方が決める。霊(魂)は元々澄みきっている。その魂を穢れのない心でそのまま体に現せば、ミロクが現われる。火が水を支え、水が火を現す。鍵になるのは土である。水はすべてを形にする型示しである。火土水の真中の土が穢れていれば、水はそのまま穢れを現す。水が火に、体が霊に、人が神に言挙げをすれば、それは、真釣り(霊主心従体属)の法則を破ることになる。天地の理法を破れば、末は滅びが待っている。真中のヒノモトが曇れば世界は滅ぶ。心がアヤマ知で雲っていれば、真コトの神世は永遠の幻となる。心の曇り(アヤマ知、嘘)を奇麗サッパリ祓うことが、本当の天国=ミロクを開く絶対条件である。

蛇と竜の型示しも同じこと。コブラとコブラ(力と力)の睨み合いは、永遠の平行線である。蛇の毒は竜には効かないから、本当の竜はコブラの威嚇を黙って見ている。蛇は何回脱皮しても竜にはなれず、どんなに虚勢を張ろうとも、絶対に竜には勝てない。最後は、自らの毒で自らを殺す末路となる。噴水はモーターを止めれば池に戻る。女が感情を武器にして支配するなら支えるハタラキはできない。音楽は「ベースパート」が支えなければ、落着かない曲となる。建物も、土台が砂ならば、水でどう固めようとも、最後は倒れてしまう。支え、土台がフニャフニャでは、腰が座らず、安定することはない。逆さまの神を目指して創った「バベルの塔」は、どんなに強固に頑丈に作り上げたとしても、真コトの神の一声で、一瞬にして崩壊するのである。今の科学や宗教の手法で、型示し自体をどう解明しようとも、本当の意味(真コト)は永遠の謎である。正竜(火=男=支えるハタラキ)を封印している限り、蛇と蛇、獣と獣、水と水、女と女、知恵と知恵、悪と悪、科学と科学、金と金、我と我、魔コトと魔コト、神と神がどんなに天国を競っても、すべてが泡と消える幻想の泥試合である。本当の竜の響きはずっとあるが、その本当の姿は、まだこの世に現われていない。従って、獣の響きの人類が竜を語ると、想像上の動物(獣)となり、水の神の化身の聖獣となる。しかし、人類の語る竜は、蛇の化かした姿に過ぎない。その竜を崇め奉れば奉るほど、水の響き(体主心従霊属の魔釣りの響き)が強くなり、どんどん真コトの火を消してしまう。滅びの響きを奏で続けた末に、すべてが幻と消える。
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真コトの一厘のない蛇がどんなに知恵を巡らせて生き残りを図ろうとも、真コトの智慧は得られず、最後は、自らの知恵で自らを滅ぼす。蛇が竜のフリ(水が火のフリ)をしても、真コトの竜の火が立てば、跡形もなく消えてしまう。逆立ちではいつまでも歩けない。本当の大地に足場を築かなければ、必ず倒れる。上下を間違えれば、すべてのすべてが九分九厘でひっくり返るのである。この世の型示しが何を意味するのか、その真意がわからなければ、足場をすべて失う。現代社会の土台が魔コトのアヤマ知で築かれているならば、すべてのすべてが崩壊するのは必至となる。本当の足場は、真釣りの真コトの響きである。自らが真コトの神社であり、宮司であり、祭神である。真コトの行いが本当の参拝である。

真釣りと魔釣りは裏表であり、全く逆さまのハタラキである。魔釣りの天国は自滅。生き延びたければ、自らの命の基にしている「蛇の火(アヤマ知、魔釣り)」を自ら自覚を持って奇麗サッパリ消すことである。もし、それをしないならば、しないあなただけが竜の火の元(竜のヒノモト)の響きとともに消滅し、万古末代永遠に、二度と生き返ることはない。今の日本は、魔釣りの知恵の魔力で去勢され、本当の父親としての自覚はないに等しい。去勢された父親からは、子供は生まれない。しかし、去勢したのは蛇である。真中の響きは絶対に去勢することはできず、真コトを取り戻せば、本当の真コトの父が復活することができる。蛇の知恵の神が天国を創ろうとして右往左往してきた、神々を含む人類の歴史。それは儚い幻想に過ぎない。ヒノモトが、竜の火の響きを世に現す御役である。従って、ヒノモト(の民)が元つ真釣りの真コトに戻れば、本当の天国が復活するのである。

まずは、あなたが真コトを思い出し、あなたの世界で真コトを貫き通すことである。真コトに戻らなければ、あなたは真コトの日本の再生には貢献できない。真コトの日本が甦らなければ、世界が真コトを知る機会は失われる。あなたの生き様がヒノモトの天命を果たすその礎となるのである。これからが本当の日本の出番である。元つ真釣りの大神様と正神真神の御霊統の神々が総出で支えるから、何も心配せずに、生死時空を超えた世の真釣り戻しの天命を果たしてもらいたい。神界の響きでは、本当の日本(神武天皇)が建国(復活)されている。それがこの世に型示しされることで、金と形と論理で世を進めた、水(形)に映して見せないと気づかない魔釣りの国が「本当の日本」を身を以って知ることになる。

真中の真コトの一厘を見失った魔釣りの身魂に真コトの一厘を入れれば、真釣りの身魂となる。知力の神は、自らの世が存続の危機になると、始めは抵抗するが、叶わないと思えば頭を下げる。現代社会の「利権を守る抵抗」はその型示しである。型に出た時は、響きの世界はもうできているから、現われた素型を壊しても無駄である。正神真神のハラの響きは真釣り、知恵の火の神のアタマの響きは魔釣りであるから、最後の大掃除=ハラとアタマの戦さでは、魔釣りの宗教とアヤマ知で創られた金と科学の力(外国)は、真釣りの真コトの力(日本)には絶対に叶わない。日本が必ず勝つ戦である。日本に服従すれば、世界がすべて勝つ戦である。本当に平和で自由な世界を創る本当の戦い。真釣りの真コトを復活することが、万象万物が万古末代弥栄える、時空生死を超えた永遠の天国の礎となることを、日本人一人一人が心底自覚して欲しい。天皇も含めた日本人一人一人の、各自の大掃除が真先である。次に日本の、そして世界の大掃除。本当のハルマゲドンが始まる。
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この世にミロクを復活させる、三千世界を統べ真釣る、本当の世界統合のミッション。真釣りが国際法、真コトが世界標準、真道が世界宗教(集教)となる、光を一つ上げた世界平和への世界政府の立ち上げである。それは、人類の願いであると同時に、天地創世以来、時節至る今日まで昼も夜もなく、真コトがあることを魔釣り世に知らせるために、艱難辛苦の裏舞台で真釣り統べるハタラキの響きを奏で続けてきた元つ大神様の切なる願いでもある。敬語を使ったり、形だけの儀式をしたりしても意味がない。時空を超えた身魂の大掃除には生も死もない。皇居が世界の王宮になり、天皇が本当のスメラミコトに戻るとき、この世にミロクが成就する、この本は、その戦略書、計画書、本当の神のバイブルである。

これが、人類が望んできた本当の天国が実現する(今まで実現しなかった)メカニズム、天国創造の秘密である。時節が至り、真釣りの響きが復活する。真釣りの世に戻す、神幽現総動員の生死時空を超えた真の天地創世、ビッグバンが形になる時が来た。手始めは真中の日本からである。何があっても絶対に真コトを貫くこと、奥義はそれだけである。神と共に真釣り戻しの天命を果たして、何も知らない蛇を改心させ、子である世界に本当の神の恩恵、親の力を見せ、子供たちに天国をプレゼントしようではないか。まずはあなたからである。日本が本当に目を覚ました時、本当の神風が吹き、外国が特攻隊で自爆する。

本当のテロリストは現界には存在しない。正義とテロの本当の戦争は、魔釣りの響きを真釣りに戻す神仕組みの裏の世界に存在する。魔釣り自体が、真釣り世から見たテロリストであり、最後には、根絶される運命にあることを知らない。真釣り世は、すでに九分九厘まで破壊され、ヒノモトは魔釣りに占領されている。魔釣りの現代社会から見た神世のテロリストは一厘の真コトを持つ本当の救世主である。形の上の侵略やテロや巨大地震など問題にならず、形のミサイルや、火山の噴火に気を取られているととんでもない事態になる。三発目の原爆は、元つ真釣りの大神が起爆する、すべての身魂のハラにセット済みの次元爆弾である。神幽現の魔釣りの響きを一瞬にして灰(廃、YES、壊)にする、すべての穢れを祓い清める、すべての蛇の響きを焼き尽くす真コトの火、生死時空を超えた元つ真釣りの真コトの響き(神界元縛)である。現代社会の日本人どころか、幽界の神仏すら被爆から逃れることは不可能である。魔釣りの響きを持つ身魂には絶対に見えない、突然姿を現すステルス爆弾、魔釣り世自体に現われる初めての真コト、蛇の響きを持つすべての身魂を無条件降伏させる元つ神世の元始爆弾である。現代社会のすべてを一瞬にして崩壊させる、迎撃不可能のミサイルである。迎撃を企んでも、火山の溶岩に水滴を投げ込む如くに、何の効果もない。日本列島の裏の神世が爆心地であり、魔釣りの響きが強いほど、威力が増す、響きに完全感応する爆弾であり、最大の「被爆地」は、日本国となる。それは、自らが自らを祓い清める御神火であり、真火の洗礼なくして、真釣り戻しは始まらない。
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世界征服を企む黒幕が使う道具はアヤマ知という知恵と、アメとムチを使ったマインドコントロールである。神を金に置き換えて、すべての資源を金で支配し、自らにすべての金が集まるような巧妙なカラクリですべてを仕組む。金がなければ生きられない世界と為し、金融システムという、金が金を産む仕組みを考え出して、物で金を増やす商業システムを動かし、世界経済を丸ごと操って、金集めに奔走させる。その結果の収益を税金システムで吸い上げて自らの生活の糧にする黒幕。その税金から生活費をもらう生活保護、皇室費という生活保障で生きる天皇。世界が戦乱に明け暮れる歴史の何千年もの間、外国の侵略を受けなかった神国。神の国だと言えば、一斉に非難が上がる、初詣好きの葬式仏教国家。政教分離と宗教排除の科学教育大国。アメリカの押し付けだという詭弁を使い、軍隊を持たないと宣言した憲法を創っておいて、自衛隊と呼ぶ侵略できない軍隊を持つ軍事大国。弱肉強食のケモノの響きの戦いの世界で、形だけの平和国家を標榜する、矛盾と嘘と誤魔化しだらけの、現代社会の中の日本国。今の地球世界は蛇の知恵の神が源であり、神から人へと歴史を進めた末の現代社会の正体は、真釣り外しのアヤマ知で創られた獣の響きの弱肉強食の世界である。神を捨てて金を信奉する科学ボケ国家は、国際社会のご機嫌取りしか頭になく、自国の存亡を左右する石油利権を守るために世界を奔走する。大神を忘れた親国に、中東紛争の真因を知ることなどできず、神同士の紛争の真意を取れるはずもない。

資源を金で買い、西洋が血を流して勝ち取った思想や苦労して作った制度やシステムの実(経済戦略、学問の研究成果)を横取りして国を発展させ、文明の道具を改良して逆輸出で儲け、四季の風景、流水、ミニフィヨルドのリアス式海岸、砂丘、温泉、サンゴ礁、湧き水、森林等々自国の自然を好き放題に使い、親潮と黒潮がぶつかる海に囲まれた豊富な海洋資源を与えられながら、確実に儲かるように養殖に精を出す。養殖、飼育、ハウス栽培の研究に命を賭けた末に奇病の蔓延で食の安全に赤信号を灯す。肉食文化を謳歌して癌で体を蝕み、医学の発展に寄与して自ら難病を呼び込んでおいて損害賠償で争う。魔釣りという神代以来の霊の肉食で、日本の国体は末期癌状態であり、霊界で改心して生まれ変わるしか手はないのに、いまだに魔釣りのアヤマ知の科学に体の修繕の望みを託す。自らは血を流さず、痛い目にもあわずに、真コトを知らない子どもの作った魔釣りの快楽を形だけの世界で享受する、金のことしか考えない神の国。自らが天恵を奪ったことで産まれた貧困国に金を渡して、喜ばれたと喜んでいる、偽の平和に酔う痴呆国家。他人の気持ちを考える優しさと礼儀が看板だが、いよいよぶち切れたら攻撃性は世界一の、金だけが武器となった善の仮面を被った史上最大のテロ国家。神響きと神力を自ら封じ込めて神と神の戦争に無力になってしまった元つ真釣りの鎮まる親国。マボロシの天国を享受して、自らが世界の不幸の種を蒔いている本当の元凶であることに全く気づかない盲目国家。これが世界の雛型である日本の魔姿である。日本の真姿である、元つ真釣りの真コトの国を形に表すご苦労をすることがヒノモトの天命であり、それが同時に世界混迷の罪滅ぼしとなる。世界の父親のヒノモトが自らの責任を自覚し、責任を取らなければ、世界は丸潰れである。
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元つ真釣りの大神を闇に葬り、自らの天命をサボって、親自らが世界を滅ぼす穢れの種をばら蒔いて、世の魔釣りに手を貸す。金融システムで集めた金を使って、石油を、ガスを、鉱物を、木材を、水を、肉を、果物を、宝石を自国に集め、快適(怪適)な暮らしを享受する。金に物を言わせて安い賃金で外国に物を作らせ、高い物価の差額で儲けた金で、さらに天恵を買いあさる。天恵を持つのに自国では使えず、金と引き換えに天恵を奪われる貧しい国々には、アヤマ知の思想で援助をして利子をとり、感謝させて国際社会での株をあげる。米軍という警備隊を雇って平和と安全を買い、自らの祖の天皇を闇に葬り、初詣、ひな祭り、端午の節句、お盆、クリスマス、世界中の宗教行事を形だけ真似をして楽しむ、形だけの信仰心。食材を他国に作らせて世界中の食べ物を食べ漁り、芸術、文化、スポーツ、レジャー、祭り、清潔、安全、安心、快適、便利云々と、汚泥混濁の世界で清く正しい綺麗な国であることを世界に誇り、汚れは他人に押付け、金の世界で快楽を享受する。国の隅々まで教育を行き渡らせて最高水準の識字率を達成し、宗教を殺して神話を空想となして科学技術の普及を加速し、魔釣りの仕組みで真釣りの自然を使って、便利快適な世を進め、本来は存在できない幻想の世界で、世界一の安全、快適な国を作り上げてしまった。

移民を締め出して単一民族の血統を守り、世界に産みの苦労を押付けて、自国の生き様が産んだ貧しい国には援助で誤魔化す。侵略の罪滅ぼしに原住民の文化振興の名目で金を配る。元の神国が、本当の神どころか、宗教の本質も忘れ、ついに無知となって、世界中の宗教を見境なく集めて、形だけ思いやっているフリをする。自らの生き様が世界の紛争の根源であることを忘れ、平和というアヤマ知で憲法を作り、その憲法に反するからという理由で、血を流さない国際貢献で自らの立場を守り、名で実だけを享受する。ハラに真コトがないどころか、自らの立場と安全と経済の維持しか考えない日本国は、善人の顔をしたライオンハートが国を動かし、アメリカを利用して大国にのし上がる食わせ者のポチ、獣の世界の快楽の独り占めを企む、ハラを魔コトで穢したハラ黒い策略国家である。飼い主の米国が破滅した時、日本国という他給自足の文明国の行く末は、自己崩壊である。自らを生かす主人(親、神)に歯向かい、主人を殺せば、残された道は集団自決しかない。

自らの立場と正しさ、普通さ、世間体にこだわる今の日本。金に成らない、地道な努力がいる基礎研究や、その過程では半ば狂人扱いされる発明や発見は子に任せ、その成果だけを横取りして効率的に商品化し、その成果を逆輸入して儲ける。子に苦労させて、親の自らは子のあがりで快楽を享受する。魔釣り世で快楽を享受することが何を意味するのか知らず、災害が起きれば助け合いの見本を示し、事件が起きれば犯人を非難して自らの精錬潔白を主張し、略奪と侵略の弱肉強食の獣の世界で平和憲法を自慢にし、自らは誰も殺さず、自らは殺されないように守って「神様」を演じる、神亡き神の国。子(外国)は、金を出す財布くらいにしか考えていないことを見て見ぬフリをして精一杯の先進国を演じる。混迷の原因が自らの真釣り外しにあることを奇麗サッパリ忘れ、『日本は関係ない』と言う。先進国は先震国、先死む国。挙げればきりがないが、結局は、良親のフリをした悪親なのである。親自らが真コトの見本を生きなければ、子は何も知らずにイサカイを深めて滅ぶ。
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神から人まで、世界の父親として世界を支える苦労の役目をサボって楽をし、子を甘やかし、お友達になり、好き放題させて、子供の苦労を奪って進歩発展を享受してきた今の日本国に真コト真釣りの神が現われたらどうなるか。「八百万の」神々、臣民共に、これからが本当の地獄の始まりである。雛型を直せばすべて直る。世界の再生は、雛型である日本の大掃除からである。21世紀に入って様々な矛盾が表面化し、様々な「神話」の崩壊が誰にも見えて、初めて大騒ぎする。人に任せて苦が来れば文句を言う、訴える、苦情を言う。子の育て方がわからない、自らでは何も考えられない親。日本は一体何をしているのか。言われなくても自らの行いを省みて、おかしい所を率先して直す。一を言われる前から十わかるのが、本当の神の神民である。真コトを取り戻し、本当の親に戻って欲しい。

世界の父親は一体どこにいるのか。子に苦労を背負わせ、自らの魔釣りの快欲を満たすために、魔釣りの思想を広め、自らその実を享受する。父親が子の真似をしたらうまくいくのは当たり前である。子供のマ違いを正すどころか、子に好き放題をさせ、子のマ違いを利用して、至福を肥やすとんでもない父親である。父親(スメラ、日本)が真コトを示し、母親(ユダヤ)を真コトの乳(栄養、響き、思想)の出る母親に改心させて、その母親が父親を認めることで、母親の言うことしか
聞かなくなった子供たちを改心させることが、家庭(世界)の立て直しの唯一の方法である。文字通りの「家庭」から国家、国際社会、神々の世界まで、すべてが同じ仕組みである。世の乱れの大元は、ヒノモトの真釣り外しであるから、世界を立て直すためのその基は、すべての源である、ヒノモトの神民一人一人の真コトの改心である。真釣りで魔釣りを真釣り和し、世界の穢れを奇麗に祓うことで、元のミロクの復活の礎ができるのである。神社は綺麗に掃き清められて、初めて神の鎮まる社となる。元つ大神は穢れ一つない国土に降りる。真コトなきところに、真コトの神は降りない。まずは、ヒノモトの掃き清め、ヒノモト神民の身魂の穢れ祓いからである。そのためには、魔コトで穢れた日本人を真コトの響きで逆洗脳することが必要となる。蛇の知恵の響きを綺麗サッパリ消し去って、自らの内に巣食っている魔釣りのアヤマ知を綺麗に大掃除し、魔コトで汚れた身魂の大洗濯をして、真中の一厘の真コトを救うことである。
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外国は、真コトを知らない知恵の蛇の神の末裔であるから、自らは正しいと思ってやっている。父親が仕事をサボれば、母親は子供に甘くなって、『いいよいいよ』で秩序を乱し、家族それぞれが好き放題に振舞えば、家庭は必ず崩壊する。現代日本の家庭崩壊は型示しである。現代日本の家族や親子の問題、中央と地方のイサカイの真因、学校の、食の、政治の、経済の、社会の、心の、すべてのすべての崩壊の原因はただの一つである。世界を統べる仕組みの大元は日本にある。元つ真釣りのミロクに戻す経綸の最後の仕上げは、親国であるヒノモトから始まる。文句は自らを滅びへ誘う言霊。すべてのすべてが鏡であり、自己決定、自己責任、自己判決である。この本は、真父がガツンとやって教えなければ働こうとしない本当にだらしない「父親」に向けた、本当の国祖が語る真話のコピーである。

世界最大の真釣り外し国家は、真釣りの源の日本である。子の苦労を奪い取り、自らの責任は取らず、子供と同レベルで遊ぶ。真釣りの元を持ちながら真コトを曇らせ、魔釣りの成果を使って魔釣りの快適、進歩、発展、文明を享受し、ブランド品を買いあさり、子供にテレビゲームをはやらせ、自らは魔釣りの天国をしっかり握っているから、世の混乱を裏でリードしていることにも気づかない。元つ真釣りの神仕組みを奇麗サッパリ忘れ去って、自らに世の乱れの根源があるとは露知らず、子供たちと一緒になって、自らの精錬潔白を証明しようとし、弱者の支援や援助で子供の世界で人気取りをする。挙句には、国連という子供の世界政府の常任理事国の椅子を欲しがる。民主化の潮流の中で、日本が援助している「途上国」、共産党一党独裁の中国がなぜ常任理事国に入っているのか。それは、中国が、経済システムの中で支配を企む企業家の有望市場であり、数の力の脅威を感じる欧米国家の戦略上の理由に過ぎない。援助を受けている国が、返済するどころか他の国に金を貸し、台湾の独立を阻止しようとする。世界の親国がそれを黙って見ているのはどういうことなのか。国際社会を思いやっているようで、結局は、自国の国益しか考えていない。まさに、米国のコピーそのものである。世界の姿は、日本の姿の鏡であり、誰が見ても自分勝手な米国は、日本のように仮面を付けず、心のままに振舞っているだけ愛らしい。

日本は、米国以上に手前勝手な陰険な隠れ独裁国家である。魔釣りのアヤマ知の快楽を追い求めることに躍起になり、裏舞台などに興味はない国民。表の舞台では善人を装って「いい国」を演じているが、裏では、国民に隠れてノラリクラリとしたたかに外交を進める政府。腹鼓は叩くが、自ら進んでは何もせず、うまく化けたつもりで尻尾を隠せない狸。知恵は使うが、詰が甘い中途半端な曖昧な振る舞いで世界の信用を得られない狐。ジキル(自キル=自kill=自殺)とハイド(廃土)を巧妙に使い分ける究極の二重人格(どちらも結局は自滅する人格)国家である。日本あって外国あり、神あって人あり。すべてはヒノモトの真釣り外しから始まったのである。子の意見を鵜呑みにし、形でしか物事の正否を判断せず、「金」の世の崩壊の見本を演じ、子にあてにされなくなった駄目オヤジ。略奪の戦争の世界で、自らだけは殺し合いをしない平和国家だと自慢してきたが、結局は、子の策略で戦場に引っ張り出される騙しやすい父親。殺戮をリードし、世界を滅亡に導く史上最大のテロリストである自らの魔姿が全く見えていない。大神の目で見れば、子のレベル以下の父親なのである。子の世で餓鬼大将になろうとする茶番をいつまで続けるのか。心の荒廃、身魂の乱れは人類史上一であり、解決不能の問題が次々に表面化し、表のカモフラージュは限界である。心の奥底に隠し持った身欲の響きを封じ込める我慢はもう極限まで達している。時を追う毎に、政府と国民、国民同士の殺し合いが激しくなっていく、制御不能の爆発は時間の問題である。裏の響きが表にすべて現われた時、日本の姿は見るも無残な酷い醜い有様となる。真釣り戻しの過程では避けては通れないことであるが、今ここから父親としての自覚を取り戻し、外国を責める前に自らの立ち振る舞いを正すことである。
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自らで目隠しをしていることにも気つかない、痴呆の視覚障害者の父親を演じている限り、本当の家庭の平和は永遠の夢と消えてしまう。世界の本当の命運、永遠の存亡がかかっている重大な時節に、今の日本の態度たるや、何たるだらしなさ。国内の乱れの原因すらわからず、制裁、処分、裁判という子供が考えたやり方で解決することしかできない親神の国。世界の立て直しの最後のカードは、親国の親神が草薙の剣を渡し、直々に改心させる、真コト顕現の荒治療である。親の自覚なき親は、それなりの試練が待っていることをここではっきりとハラに据えて、本当の神の大掃除に備えることである。親が改心しなければ、子は何も知らないまま滅ぶことになる。自ら呼び込んだ蛇の響きで乱した真コトを復活することは並大抵の試練では済まない。日本はもう潰れたと思われるほどに酷い有様になることを覚悟しておくことである。真コト無き所には、真コトの神は降りないのである。真コトの神のご神体に真コトの神が降臨した時が、本当の世界の立て直しが始まる時である。

魔釣りの国際社会とヒノモトの関係の魔姿が、日本人の思考、行動パターンにすべて現われている。自ら考えることがでず、欲望のままに快楽を追い求め、便利快適だけを嗅ぎ回る。一人一人が「魂を王とする肉体の国」であり、本来は、家族と言えども侵略できないが、儒教の教えを都合よく使って、目上の親の権利を主張する。『やめなさい』『駄目だ』『やりなさい』『させてくれ』『してあげる』の相互依存の支配合戦を繰り返す。自らに都合がよいとなれば、宗教や科学の研究成果を横取りして、快適を叶える機械やシステムを作る。設計開発は子供にまかせ、その成果だけもらって、実用化して売りさばき、快適を楽しむ。思いやりや優しさ、他人(世界)の気持ちを考える「偽善行為」をすることしか頭になく、善意を普及教育して尊敬を集める方策しか考えない。表面上は善国を演じ、裏では、神の資源と子の成果を奪って快適世界を享受する。魔釣りの末の国際社会で尊敬を集めることと生き残りの戦略しか頭になく、子と競争して勝った負けたと一喜一憂する親国。人類史の闇の闇に葬られた真コトを忘れ、何のために生きているかもわからず、手っ取り早く形の天国を追いかける。目先の快楽だけを追い求めた末に国家崩壊の危機が迫る。
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この世は何のために存在する世なのか。現代社会は分かつ知のアヤマ知の世であるから、その○●の世界で、○を追いかけても天国は生きられない。世界の父親であるヒノモトがそのことを忘れ、子どもと売買競争をする。自らは血を流さずに、金と口と手を出して、他人が作った成果を横領する。神々の世界から永きに渡って続く、歴史を通して世界を破滅に導いている世界の最大の隠れテロ国家は、魔釣りに曇った日本である。風水、アロマ、ダイエット、栄養、映画、スポーツ、携帯電話、インターネット、癒し、環境、介護、生涯学習等々の、現代社会の●を○にするすべての企業は、間違いなく、蛇に貢献しているのである。日本はなぜ基礎研究が弱いのか。なぜ輸入に頼るのか。¥が縁の切れ目。逆さまの歴史を進むほど何もできなくなり、外に頼り、押付ける。何か問題が起きれば、西洋の真似だから自分達には解決できないと外国の解決法を輸入する。人類一家兄弟の思想に基づく団体の名誉総裁、施設訪問、王室交流等々、慈善に命を賭け、学を究め、臣民の税金でVIP暮らしをし、真コトがあるならできないことを、平然とやる。初代神武即位の真相、真コトを忘れた皇室は操り人形であり、実は最強の魔コトの王である。本当のあなたと他人(世界)との関係がすべてに現われている。まずは一人一人の大掃除からである。

国際社会という、我が子の混迷の責任は、すべて親(日本)が引き受けることになる。親が子に騙されてやったと言っても、その責任は逃れられない。真釣りを世界に現す役のヒノモトが魔釣りに囚われて、真釣りを闇に葬れば、「魔釣り=正」であると世界に教えることになり、その結果、世界は好き放題、乱れ放題の世となる。今世を見れば、天つ神がどんな神かは明白である。ヒノモトを守護する神々が快欲に囚われて、魔釣りの経綸を操る身魂が「天孫」を自称して、天津神としてヒノモトに降臨してもその正体に気づかず、その神々を天孫として丁重にお迎えした。これが天孫降臨の真相である。仏教の渡来、文明開化、GHQも同じ型示しである。魔釣りの天孫である限り、八百万の正体は魔釣りの神々であり、今の世の天孫降臨は真釣り外しとなる。真釣りから見れば、それは天地の理法を破る大大罪である。神々が年に一度馬に乗って出雲大社に集まり、合議をして日本のあり方を決めるという。そんなことを本当に信じているのか。それが真実なら、現代日本の混迷は、一体どういうことなのか。神々は何をしていたのか。八百万の神々の合議を繰り返しても、本当の神国は永遠に作れない。これは正に、国会や国連の仕組みそのものである。

天孫のこの神々を租と仰ぎみているのが現在の皇室であり、神道と日本国の歴史の基である「古事記」と「日本書紀」は、魔釣りの支配に都合がよいように、明らかに書き換えられていることに気づかねばならない。記紀が、旧約と新約の聖書と兄弟書物であるのは、偶然などではなく、改ざんした組織が同じなのである。真実を記した原典に当たるのが「日月神示」であるが、これは記紀とは別の流れの預言であり、黙示録の千年王国自体が悪魔の世としてもう一段の粛清がなされることになっている。真釣りの真コトどころか今の神道の本質や歴史すら知らず、現世利益を求めてあり難いあり難いと仏魔に帰依し、定期便のように民族大移動をし、毎年神社に参詣するだけの大衆が全くの盲目なのは必然である。真コトを世に知らすべきヒノモトが天皇から大衆まで真コトを知らないとしたら、世界の滅びは時間の問題となる。大神が大掃除を終えればミロク世は来るが、真釣り外して快欲に溺れる日本と世界には、言語を絶する艱難辛苦、慙愧慟哭の現実が待っているのである。
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現代社会に至る神と人の歴史は、真釣りを外したアヤマ知の有限の世界で繰り広げられた魔釣りの神の天国創造の物語である。産まれ出たその時から「有」の世界に囲まれていれば、快を得るために、そこにあるものを使って天国を作ろうとする。「有る物」を使って「得」しようとすれば、その場から「略奪の世界」となる。その世界にお金という商品を導入して、その発行権を独占すれば、金の世界で神になれる。無から産み出せない者同士の「有の奪い合いの世界」は、最後は使えるものがなくなる。「金」が支配する世は必ず崩壊する。

マニュアルで生きるのは簡単であるが、自由にはならない。自ら考えて生きるのは困難だが、自由になる。今の世で言う苦労とは、自然に抵抗しているゆえに感じる苦の響きである。苦労するほど真釣りを外す、メグリを積んで滅びに向かう苦業である。真釣りに苦はないから、自らの苦労を語る者ほど、苦労したと騒ぐほど、真釣り外しの自覚なき振る舞いとなる。本当の苦労とは、今の人間が言う苦労ではなく、無から産み出す苦労のことである。元つ大神が無から産むのを止めれば、略奪者はその場で息の根が止まる。経済も科学も宗教も、真釣り外した世の道具である。魔釣りの道具は、真釣りを外したゆえに現れた苦(悪、闇)を楽(善、光)に変えるために作られたものである。真釣り外した響きの結果である形の●を形で○にするのが魔釣りの道具である。全くの逆さまであるから、魔釣りの道具で、真釣りに戻すことはできない。真釣り外しの型示しである病気を形で治すための医学で、病気になる前の肉体に戻すことはできない。大神を闇に葬ったがゆえに生み出した中つ世の神に縋っても大神の世には戻れない。『どっちが』という分裂の響きで、一つの響きの世界に戻ることは不可能である。分裂の響きは、一つの響きが源であるから、源を分裂させた響きで源に帰ることはできない。天国を壊したやり方で天国を作ろうとする自己矛盾を解消しなければ、真釣りに戻れない。『闇から始まった世が天国になる』としたら、真釣りが全くアベコベだとしたら、『光から始まった世が闇になる』ことを意味する。実際は、闇から始まった世は闇に戻り、光を消した闇の光が闇に戻れば、光が復活する。

人類が目指している天国は、真釣りを外す前の真釣りの天国の響きである。自らが真釣りを外していることに気づかなければ、今のまま天国を目指しても、最後は魔釣りの滅びに行き着く。魔釣りの世で言う天国は、未来にあるのではなく、過去にあるのである。正確に言えば、始めも終わりもない天国を、魔釣りの響きが作り出す時間と空間と言う分裂した響きが未来にあるように見せているのである。実際には、過去も未来もなく、天国も滅びもない。魔釣りの思考を綺麗サッパリ消し去ることが、魔釣りの天国を捨てることが、本当の天国を体験する唯一の術である。魔釣りの響きの作り出す天国は幻想だったのである。
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真釣り外し=魔釣りであるから、魔釣りを捨て去らない限り、絶対に真釣りには戻れない。宗教でも金でも学でも知恵でも越えられないのが、元つ真釣りのミロク世を復する大神の、魔釣りの響きを消す(穢れをすべて清める、雲をすべて祓う)三歳苦難の大掃除なのである。真釣りを隠す魔釣りを実体と思っていれば、魔釣りと共に消滅し、真釣りの世に生きることは絶対にできない。素直に考えてみれば、これは宗教などではなく、現実創造の物理である。霊心物は、元々一つであるから、結局は、「物理=心理=神理」=真理、つまり、元は一つの理なのである。真釣りから始まったものは、最後には、すべて真釣りに戻る。

元つ大神は、真釣るご苦労を知らない(無から産んだことの無い)神々を含む人民が、快欲の響きに囚われることは分かっていた。快欲の響きは一度囚われたら、自らで離れることはできない。そのままならば、滅びの響きを奏で続けるだけであるから、魔釣りに囚われた神々と人民を真釣りに誘うため、真コトの一厘を岩戸の外に隠して「情けと花の仕組み」が構えられた。自ら見失った真コトを自らが取り戻すご苦労に耐えなければ、真コト真釣りの神の世は生きられない。快欲の響きを壊し、真コトに戻す、立て替え立て直しの仕組みがなければ、世は滅ぶ。どうあっても自らで取らなければならない一厘である。自らで真コトの一厘を取らせるため、ナミが死を持って難儀な御役を引き受け、スメラ(立て直しの真釣り)とユダヤ(立て替えの魔釣り)の二民を降ろし、二つに分かつ知、知恵の神を産み成した。火の神を産んで死んでイザナミの黄泉の国行きとして語られる出来事は、実は、一度目の岩戸閉め、情けと花の仕組みの初めての情けの発動なのである。十(神)去られまして(情けと花の仕組みを進める)二神を残し置かれ、十真釣り閉じ去られまして(スメラとユダヤ)の二民を残し置かれ、十真釣りと引き換えに二つに分かつ知を残し置かれ、知恵の神を産んだ。これが、ユダヤ十二部族の「失われた十部族」の型示しの本当の意味である。十部族の血統の流れを追いかけても、その十部族は絶対に見つからない。

現われの水の世界に形を探すことが、真釣り外した証である。これは、スメラもユダヤも囚われているマ違いであり、魔釣りを操る神自身が囚われていることを知らないのである。魔釣りの世を統べる勢力が自らが滅ぶことを知らないならば、世の滅びは必至である。本来は、世は真釣りのみであり、闇も苦も悪もない、万古末代弥栄の何の問題もない天国である。魔釣りは、真釣り戻すための期間限定の響き、時至れば消える仮の世である。真コトの一厘を見失った、魔釣りの世を統べる神自身がアヤマ知に囚われていれば、ミロクは絶対に叶わない。そのまま進むならば、滅びは必然であることは分かるはずである。自らが真コトの一厘を知らないとしたら、あなたも、この仕組み通りに、必ず滅ぶことになる。

ヒノモトに快欲の逆十字(体主心従霊属)の響きが鳴り渡ってきたのは二千数百年前のことである。そして、魔釣りの経綸を操る身魂がヒノモトに降臨することになる。その身魂、真釣り外しの「天孫」の神々に国つ神が国譲りをし、天孫の神々は都合よく古紀を改ざんして自らの正体を隠した。自らの身魂の来歴を知らず、自ら「天孫」を自称し、ヒノモトの祖に居座ったのである。大神は、情けをかけるために天地の岩戸を閉めたが、ヒノモトを守護する神々は、真コトを見失って快欲に囚われているから、真釣り外しはさらに進み、世は乱れた。いよいよとなって、自らが人皇を名乗らなければ混乱に治まりがつかなくなったため、正神真神の御霊統のカムヤマトイワレヒコノミコトが初代「神武」天皇として即位した。その後は人皇の世に移行するが、神武の正体を知らないヒノモトの神と人民は、大神の真意がわからず、さらに魔釣りを進めていく。「神武天皇」は実在する神であり、正神真神の霊統の真釣りの神である。神世の歴史を岩戸の外に隠して「人皇」として即位したということは、神の世が空想の世になったことを意味するから、大きな岩戸閉めとなる。
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真釣りを外すことを「岩戸閉め」と言う。細かい岩戸閉めは数知れない。今でいう神武東征は、真釣り外した歴史の上での物語である。神武天皇が、歴史年表で「?」になっているのは改ざんされた古紀の上での話である。正真真神である神武天皇の正体を知らせることは、天津神にとっては都合が悪いことになるが、天津神はアヤマ知に囚われているから、その正体は知らない。だからこそ、皇室の祖として居座れるのである。真釣りの真コトを知らない天つ神から始まる今の日本の神話は嘘の歴史である。神武即位の岩戸閉めの後、仏教の伝来を持って、大きな岩戸がすべて閉められた。それからは、汚泥混濁の暗闇の乱れ放題好き放題の世界、ヒノモトと外国が逆さまとなった歴史が繰り広げられていくことになる。天皇自身が仏門に帰依し、武士の世となり、西洋文明の機械の世となり、金の世となり、たどり着いた世界が、日本が米国を親にしている現代社会である。岩戸を閉め続けた末の今の「日本国」は、九分九厘の岩戸が閉められた、神が消えた世界となっている。日本に残る一厘の真コトと大神が共鳴した時、日本に何が起きるか、考えてみるとよい。

今度の大掃除では、すべての岩戸が開けられる。今のヒノモトで岩戸がすべて開けられたらどんな事態になるのか、考えてみて欲しい。ナギナミの世から今の今まですべてが逆さまなのである。嘘の神の歴史すら、ただの神話として封印した現代日本は、神から人まで、魔釣りの神の牛耳る国となっているのである。皇室は万世一系ではない。それは人皇の世での血統の話であって、現代社会は、日本の真コトの姿からは程遠い世となっている。ヒノモトの真釣りというのは神幽現、三千世界を貫く万世一如の真コトである。今の神話で言う「アマテラス」「スサノオ」はイザナギ一柱で産んだ中つ世の神であり、片ハタラキの神であり、真神ではない。正神真神とは、火水を正しく組み組んだ真コトのハタラキをなさる神々のことである。元つ世の大神が「神真釣り」で産み成された、情けと花の経綸を直接進め参らせる御役の天の「アマテラスオオカミ」、他の「カムスサナルノオオカミ」とは違うのが道理である。中つ神と元つ神をごっちゃにしていることが、天地を混ぜこぜにして、天は一つと思い込んでいる、魔釣りに囚われた今の人民の型示しである。岩戸が開けば、自らの響きがそのまま自らに返ることになるから、大神の大掃除が始まれば、天地混ぜこぜの阿鼻叫喚の修羅の地獄の現実を体験することになる。表面上は、慈悲や平等や思いやり云々を語る、「美しい」「便利」な世に見える現代社会が、実際には、嘘と誤魔化しと策謀が渦巻く神々の世界の映しであるとしたら、魔釣りの日本国の運命はどうなるのか。神を消した人民が、天国など作れるはずはない。真釣り外した人民に神の世を任せた(公共事業を民間に委託した)結果が、現代社会であり、それこそ、空想物語りの極致である。
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大神は、真釣り外すのを承知の上で、自ら真釣りを戻せるように「情けと花の仕組み」を構えて、天地創生以来、裏の裏の裏で支えてきた。時節が来れば、すべてのすべてを真釣り戻すことになる。自らの真釣り外しに気がつかず、魔釣りの経綸の仕組みある蛇のアヤマ知に囚われて、世界に穢れをばら蒔いた父親(ヒノモト)の改心は並大抵の地獄では済まない。ここまで教えてもまだ改心しないとなれば、大神は鬼となる。大神を鬼にしたのは、魔釣りに囚われた自らであることを肝に銘じておくことである。真釣りという、天地自然の神の掟を破ったその責任は、キッチリ取らされることになる。天地の理法を外している限りは、たとえ我が子といえども涙を呑んで成敗することになる親神の心底の無念を知ったなら、今この場で心底改心することである。イシヤの仕組みに騙されて、大神を闇の闇の闇に葬って、九分九厘まで取り違いの世を進めた真中のヒノモトの責は重大である。日本国の運命は、すなわち、日本国に足場を置くあなたの運命でもある。いつまでも、魔釣りのイシヤの仕組みに騙されていないで、自らの運命の最期を、真剣に考えてみるとよい。

ヒノモトの真釣りを教えなければ、子である世界は真釣りを知ることはできない。この元つ神仕組みを外しては、世界の立て直しどころか、世の破滅である。真釣りを知らない「米国」にしっぽを振り続けるポチをやめなければ、世は滅ぶ。本当は、ヒノモトが飼い主で、世界がポチなのである。真釣りの飼い主が犬を躾れば、どこにも問題は生じない。犬は何の心配もなく、嬉し楽しで生きられる。飼い主が犬の言いなりになって自ら真釣りを外せば、好き放題に世を乱す。真釣りと魔釣りの型示しの飼い主と犬、親と子、教師と生徒、日本と世界、神と人を「平等にした」結末が現代社会である。四つ足の獣の響きを食べた自らが、生死時空を超えて成した今までのすべての過ちの責任は、自らで取ることになる。

後先も考えず、欲望のままに歴史を進めてきたツケは甚大である。飼い犬のした行状は飼い主の責任であることは誰もが納得していることである。早急に首輪をかけかえて、今まで垂れ流した飼い犬の糞尿(世の乱れ)の始末をしなければ、元つ真釣りの大神の魔釣りの世の大掃除で成敗される運命が待っている。生死時空を超えた祓い清めの意味をシッカリとハラに据えて、この先の自らの態度を決めることである。いい加減な気持ちでは真釣りには戻れない。今度の大掃除は、真釣りを外す勢力と元つ真釣りの大神が元つ仕組みで対峙する、元つ真釣りのミロクに結ぶ、学力と神力(アタマとハラ、蛇と竜)の最後の戦(本当のハルマゲドン)である。真コト無きものは、いかなる神仏であろうとも一柱たりとも残さない、すべてのすべてを真釣りに戻す、万古末代二度とない、一度コッキリの大峠である。自らの永遠の生死が決まる、本当に本当の生死時空を超えた祓い清めなのである。
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親が改心しなければ、子を正しく導くことはできない。親が子を甘やかせば、子は好き勝手をして世を乱す親となって、その子も、そのまた子も、同じ事をやり続ける。歴史が進むほど益々混迷しているのは人類の歴史を見れば誰でもわかる。親と子、教師と生徒、教祖と信者、日本と世界、神と人、すべてが同じ仕組みであり、なぜ世が乱れているのか、なぜ問題が解決しないのか、その理由はもはや明白である。真中がすべての世界を統べる基であり、真中に蛇が座しているか、竜が座しているか、で世界のマ釣りが決まる。それが、真コトの事実、世を創る元つ仕組みだったのである。『世界の真中、真コトの親である日本が本当の神の真コトを思い出し、国民一人一人が真釣りに戻らなければ、日本の真の再生はなく、日本が真コトの再生をしなければ、世界は滅ぶ』のが今の世界の運命である。

これは、あなたの現実にも言えることであり、あなたの真中に蛇が座していれば、あなたが天国を目指して善行を積んでいる積もりでも、それは、逆さまである。蛇の世が滅ぶならば、蛇を真中に持っているあなたも滅ぶ。あなたが神を産んだのでも、社会を創ったのでもない。神があなたを産んだのである。あなたが無からすべてを産めないならば、あなたは生かされているのであり、蛇に生かされている限り、あなたの命は永遠に消え去る。元つ仕組みを外せば元つ天国はなく、中つ世で何を企もうと、どう誤魔化そうと、絶対に天国にはならない。真中が穢れで曇れば、元つ仕組み通りに、世界は苦持って、末は滅ぶのである。真釣り外した神々は、どう足掻いても元つ大神には勝てない。その神を源流とする、日本を含めた現代社会は、真釣り外れて滅ぶ運命のマヤカシの蛇の世界なのである。

本来、「世界」は神から人まで、万象万物すべて真釣りの響きの神代のみである。霊主心従体属が正神真神の掟(真釣り)であり、万古末代沿わなければならない、絶対不変の神の世界の憲法である。火主土従水属が元つ天地の理法である。これに違反した(真釣り外した)者は、その場で消滅するのが神の掟。現代社会の基にある魔釣りは、真釣りを外した神々を真釣りに戻す神仕組みの岩戸の中でのみ存在可能な響きである。今世に魔釣りが存在するのは、真釣り外した神々を真釣りの神代に戻すため、「情けと花の神仕組み」を進める、立て替えの経綸の御役の神を降ろしたためである。しかし、神々が快欲に囚われて真釣りを外さなければ、「情けと花の仕組み」を発動する必要はなく、今の世に魔釣りは存在しなかったのである。神の子宮の中の仮の世で、魔釣りの神と快欲に囚われた人民が真釣りの如く振る舞って世を進めてきた末の世が現代社会である。ご守護の神が逆さであれば、人皇を含めて人民も逆さであるのは道理である。元つ真釣りの大神が真釣り戻したその後は、魔釣りの存在する時空はもうどこにもない。魔釣りの世は消えてしまう。真釣りから見れば、今も魔釣りの世は存在せず、魔釣り世から見た真釣りの世の如く見えるのである。
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滅びに結ぶ逆さまの体主心従霊属の知恵の蛇の神の魔釣りの末である現代社会にどっぷりと漬かっている今の日本と日本人が、どんな運命を辿るのかは火を見るより明らかである。万古末代一度こっきりのミロクに結ぶ経綸の総仕上げ、元つ真釣りの神々が総出で真釣りに戻す、生死時空を超えた三千世界の大祓い、真釣り戻しの天命を果たしてミロク世に生き戻るか、魔釣りのまま果て散るか、ここでマ違えば後はない、二つに一つの踏絵である。

自らがどちらを選ぶのか、今ここではっきりと決めて、その道を歩んで欲しい。今ここで真釣り戻らない者は、三歳苦難の魔釣りの立て替えの仕組みで大掃除されるから覚悟しておくことである。あなたがどちらをとろうとも、真釣り戻しの大祓いは動かない。アヤマ知を持ち出してツベコベ言うのは勝手だが、あなたが真釣りを戻して天命を果たさない限り、あなたにだけはミロクはないことは肝に銘じておくことである。世界の父親が元つ真釣りを忘れて、アヤマ知にどっぷりと漬かり、神気息もできないほどに御神体を汚し、魔釣りの獣の世界で国力を誇っている。ヒノモトを守護する神々も、自ら快欲に囚われ、魔釣りに囚われ、天孫を語る魔釣りの神々にヒノモトを譲り渡し、偽の神道(侵闘)を広めた大大罪は、どんなに詫びても許されないことである。真コトがわかったなら、今ここから、世界の父親としての勤めをキッチリ果たすことが、元つ真釣りの大神へのお詫びであり、元つ真釣りを外した責任をとることになる。自ら進んで心のアヤマ知を祓い清め、真釣りに戻ることが、自らの立て替え立て直しを同時に進めることになり、元つ真釣りの親国として、天地創世以来の元つ天の大神の天命、ミロクを開く御用を果たすことにもなる。荒唐無稽な話だと片付けるならば、それは魔釣りの証であるから、あなたにミロクはない。

すべては神界に源があり、現界(「この世」)は形の現われである。霊と体は一体であり、体は霊の現われである。形があれば当然霊がある。形あるものすべてのすべてが元つ天地の大神の現れである。神(現代社会の宗教の神のことではない)は真釣りであり、神がなければ何もない。つまり、万象万物すべて神であり、「アニミズム」というのは、ただの思想ではない。真釣りに魔釣りはなく、情けと花の経綸を成就させるために産んだ響きに過ぎない。ミロクが開けば、すべて真釣りに戻り、魔釣りのアヤマ知が語る世は、綺麗サッパリなくなってしまう。アヤマ知に囚われた神も仏も人も魔釣り世と共に消える。すなわち、真釣りに戻らない限り、神幽現三千世界(すべての世界)のどこにも生まれ戻ることはできない。現代社会の科学の語る現界は幻想であり、宗教の語る霊界も幻想である。あなたの本体は霊であり、肉体はこの世の現われである。同じように、日本の国土そのものが、元つ大神の御神体(肉体)なのである。元つ真釣りを忘れ、元つ真釣りの響き鳴る世界の中心(真中、ハラ)=万象万物を産み産む雛型=すべてを統べる本当の大神の真釣りの聖地であるヒノモトの御神体を魔釣りで穢れた神々の好き放題にさせてきたヒノモトの民。それが何を意味するのか。それが何をもたらすのか。万古末代一度だけの元つ真釣りの大掃除とは何なのか。自らが今までしてきたことをよくよく考えて、あなたが本当の意味で生き返りたいならば、今ここから生き様を正していくことである。それが同時に、元つ大神の御用となり、本当の「世界平和」に貢献することにもなる。魔釣りが仕組んだ、神なき電脳科学教育で曇ったアタマでは到底、理解できないかもしれないが、人類の歴史は神話の世界を超えたその大昔から滅びの道を歩いていたのである。その末の世である、体主心従霊属の魔釣りの九分九厘のアヤマ知で創られた現代社会の裏の裏の世界がどんな世界なのか、おわかりになっただろうか。これはSFなどではなく、紛れもない事実である。
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この世には命に関わらないただのお遊びなどただの一つもない。いい加減なことをしていれば、自らの永遠の命が永遠に無くなる時がくる。これは遠い未来の話などではない。明日どころか、1時間後、いや、次の瞬間に来る出来事かもしれない。魔釣りのアヤマ知で九分九厘曇ったあなたには、突然やって来る青天の霹靂の艱難辛苦の地獄である。富士山がいつ爆発するか、どこに逃げればよいか、どの神につけば助かるか、などという小手先の逃げ場探しをしているならば、あなたはどこにも逃げることはできない。あなたは永遠の滅びである。逃げ場は真コトだけであり、それは、魔コトから見れば、完全な闇の世界である。逃げられない逃げ場である。元つ真コトの真釣りは三千世界の神法であり、神々様でも逃げるところは無い。あなたが真コト真釣りをしているならば、すでにミロクにいるから、どうなるかを心配することはありえず、この本の語る世界は、それこそ空想の死夢話の物語となる。あなたが今、一瞬でも恐れや怒りを感じるならば、あなたは金が支える偽のミロク(666)の虜になっている。あなたにとってこの本は、真釣り戻すためのガイドであると同時に、恐ろしい悪魔の書にもなりえる。どちらを選ぶかは、あなた次第であるが、ここに書かれていることをすべて認めない限りは、あなたに本当の天国はなく、修羅の地獄のそのまた地獄の艱難辛苦が待っている。あなたの真釣り外しで元つ大神にさせた苦労の万分の一のご苦労に耐えられないならば、あなたは神に戻ることは出来ない。

真釣りの真コトを現すという自らの天命を捨てて、どうあっても魔釣りの快欲の世界の極楽トンボで居続けるというならば、真のヒトになる生き方は遠い幻となり、新しい時代を生きる人間には成れず、本当の21世紀(二十一=三位一体の世、二十歳=成人=誠神の世の1世紀)の人生を遊ぶことなど遠い夢のまた夢となる。人生というゲームの新しい遊び方(元の神代の人生)は、元つ真コトの神響きに戻ればわかることである。世歴2000年という年号にこだわっているならば、あなたのミロクは開かず、本当のミロクが開いた時には、あなたは666の魔釣りの響きと共に、万古末代永遠に成敗される身魂となる。

今回が本当の天意転換、地球最後の転生の時である。ここを逃せば、もう二度とない。生死時空を超えた本当の生死の選択をする時は、真中に残る一厘の真コトを使える時は、今回が最初で最後である。真釣りに戻って、ヒノモトの御用を果たし、真コトの天国に息戻るか、魔コトのままで真コトの真中に成敗されるか、二つに一つの分かれ道である。あなたが本当の日本人でありたいならば、選択はただ一つである。世界の父親として、立て直しのご苦労に耐えられるように、元つ御霊統の直の御チ筋の身魂を授かりながら、あなたの(ヒノモトの)今の有り様は情けないの一言に尽きる。世界の真中のヒノモトが曇れば、すべてが曇るのが、元つ真釣りの神仕組みなのである。魔釣りで穢れ、犬猫にも劣る身魂に成り下がったとはいえ、元つ真コトの一厘で、何かの神の御用をさせて欲しいと願うのが、真コトのヒノモトの神民である。あなたが心底改心して御用を果たすならば、元つ大神と正神真神の神々は、あなたを支えて必ずミロクに導いてくれる。どんなことがあっても決して真コトを捨てないことである。一寸の狂いもなくそれだけを忠実に守って、最初で最後の史上最大の作戦を見事完遂して、世界の父親と崇められる、本当に真神に戻って欲しい。現代社会に本当に笑える者は一人も居ない。魔釣りの天国は永遠の滅びであることをしっかりと肝に銘じて、真剣に真コトを磨き出し、最初で最後の御用に立って欲しい。
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今の世界の有り様は、元つ真釣りの神代とは全くの逆さまである。元つ大神の神キ出づる唯一の国であるヒノモトを守護する神々とヒノモト地の上を預かる人民が真釣りを忘れて自ら魔釣りを呼び込んだ末に、魔釣りで穢れに穢れた末の世界。大神の響きを消しただけでなく、魔釣りの天つ神の天孫降臨が源の神道すらも形骸化させてしまった、神亡き今の日本国が、本当の父親に戻るのは艱難辛苦の修羅の地獄を要するが、真釣り戻しの立て直しがヒノモトの天命であり、どうあっても遣り遂げなければならない真命なのである。元つ神命を果たした者は元のミロクへ戻り、果たさない者は祓い清めで魔釣りと共に滅ぶ。

今の日本政府は、IT先進国家を国策に掲げ、金融市場を足場にして経済市場の覇権を争い、携帯電話という携帯型個人監視マイクロチップの開発競争や魔釣りの神世である世界の国家支援に躍起になっている。いったい何をやっているのか。元つ真釣りの大神の直系の霊統の身魂を授かりながら、魔釣りのアヤマ知の世界制覇のマヤカシの企みにまんまと嵌められて、天の神々も人皇も地の上の民も自ら天命を捨て去って、自ら進んで喜んで蛇の世に貢献することに心血を注ぎ、国を挙げて蛇の型示す西洋崇拝をするに至る。蛇の封印を解く瞑想を普及し、蛇の仕組みを支える経済にのめり込み、蛇の技術を支える科学を強制し、ついには、お金と機械の奴隷に成り下がって、破滅の網の中に自ら入り、世界一の魔釣り国を目指す、逆さまの蛇の権化となってしまった。神をも含む人類の歴史の裏で進んでいたのは、元つ真釣りの情けと花の経綸を取り違えた魔釣りの蛇の知恵の神が仕組んだ立て替えのイシヤの仕組み、自らが世界を統べるために邪魔なヒノモトを潰すことを最終目標にした世界征服の陰謀だったのである。真釣りの立て直しを知らず、ヒノモトが潰れれば世界は自らの思い通りになると思い込んでいる蛇の世の成就。この陰の大策謀には、真釣りの真コトを現すことでしか対峙(退治)できない。形の上の秘密組織や世界政府の陰謀を暴いたり、真釣りを知らずに神の仕組みを研究したりして何とか回避しようとしても益々魔釣りに貢献するだけである。実際には、それも陰謀の計画の内であるから、陰謀を暴いて形だけの対策を語る者は、いまだ罠の中にいることになる。真釣りの真コトを知らずに魔釣りの蛇の世の悪を暴き、世を良くしようとすればするほど、真釣りに貢献するどころか、魔釣りに貢献し続けることになり、元つ大神の真釣り戻しの手伝いになるどころか、逆に真釣り戻す手間を増やしていることになる。今の自分が何に貢献しているのか、どんな道を辿っているのか、曇りに曇った眼をしっかりと見開いて、本当の真実を見定めることである。そして、真の日本人としての真コトの神の道を歩き始めて欲しい。
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魔釣りは、真コトの一厘を見失った知恵の神がその源である。ハラの真釣りがなければ万古末代気づかない、アタマの分かつ知である。旧約聖書の創世記の時代から魔釣りの経綸を進めてきた神々と時代の支配者たちは、元つ真釣りの神仕組みを知らないから、真コトがあることを知らず、すべてを知っていると思い込んでいる。自らが、ヒノモトの真コト、元つ真釣りの大神に戦いを挑んでいるとは気づかずに、表の現われの日本(日本国と神道)を潰せば世界が征服できると思い込んでいるのである。ヒノモトが目を覚まして真コトの一厘を教えなければ、この世の真コトを知らない魔釣りの者たちは、永遠の命を失うことになる。今の神道も天皇も魔釣りに貢献している。このまま進めば世界丸潰れの滅びの道を転げ落ちるだけである。世界を生かすか殺すかはヒノモトにかかっている。世界を真釣りに戻す本当の国際貢献、立て直しの御用を果たすことが、世界の父親としての本当の仕事である。神も人も共に、今この場で魔釣りのアヤマ知をすべて捨て、現代社会からキッパリと足を洗って、どんなことになろうとも、世を乱した責任をとることが、父親の役目を放棄して、今まで永きに渡って苦しめた子供たちへの償いとなる。いつまでも、魔釣りの天国を進める機械の窓を覗いて、機械仕掛けの蛇の知恵の林檎で偽の天国を作ろう(電脳世界のインターネットで世界を天国にしよう)としていても、魔釣りの666の天国の嘘の画面が出るだけで、三六九の真コトの天国の景色なぞ見えはしない。それどころか、魔釣りの響きが作るマトリックスから脱出しなければ、とんでもない結末が待っている。

世界が滅びのマトリックスから抜けるには、ヒノモトが真釣り戻すしか術はない。魔コトの響きの心界のインターネット(アヤマ知の知識、思想、理念、道徳、宗教)への接続を切断しない限り、真コトのインターネットには接続できない。魔釣りの電脳神の手下が設計した電脳網(インターネット)に繋げたモジュラージャックを抜いて、HPのウィンドウをすべて閉じて、閲覧ソフトを終りにして、パソコンの電源を切って、ディスプレーから目を上げたところが、本当の現実である。しかし、その現実そのものがすでにマトリックスの中であり、その現実の基の神界(幽界)の響きそのものがこの世のマトリックスの源なのである。マトリックスの仕組みを作った魔釣りの勢力は、真コトの一厘なき知の火の神の末裔であり、そのまま策謀を継続すれば、この世もあの世も含めた自らが滅ぶことを露とも知らない。ヒノモトが真釣り戻して、外国に真釣りの真コトを身をもって知らしめなければ、世は破滅する。魔釣りのアヤマ知を綺麗サッパリ捨て去らなければ、世界は、魔コトの仮想現実と共に滅び去る。日本が今のままで進むならば、元つ大神直々の最初で最後の身魂の大掃除で、元つ真釣りの掟によって綺麗サッパリと成敗される末路となり、もう二度とヒノモトのお土は踏めなくなってしまう。真コトの真相現実の本当のミロクは永遠の幻となる。あなたが、そして、日本が、元つ真釣りの神響きに戻って、世に真コトを現す世界の父親の勤めをキッチリ果たして、見事、真コトの火水成ることを願っている。
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真釣りを基にした世は、誰もが「清富」であり、無限の天恵を使って自由を謳歌できる社会である。「清富」の社会を作れない「政府(世腐、生腐)」が導く社会では、世の腐敗が進み、最後は体(国、世界)が腐って死んで(滅んで)しまう。魔釣りのままで腐敗を止めようとしてもそれは叶わない。元の魔釣りをそのままにして、その現われである形をどう治そうとも、世は直らない。中身の餡子が腐っていれば、饅頭は腐ってしまう。形の修繕をしようとする思考自体が魔釣りであり、中身を真釣りに戻さなければ、結局は、滅びを加速するだけである。形を創造する大元のやり方がアベコベであれば、天国を創ろうとするほど地獄を進めることになり、地獄が進むほど天国を望む力が強くなる。ますます形を治そうとするから、ますます地獄が進む。魔釣り世が進むほど真釣りに戻すのが厳しくなり、真釣りに戻せなければ、最後はそのまま、魔釣りの世の末路である滅びを呼び込む。魔釣りのスパイラルを進めて滅ぶか、真釣りのスパイラルに戻すか、二つに一つの踏絵である。社会が、日本が、世界が、ではなく、まずは、あなた自身がどうするか、である。あなたが真釣りに戻っていなければ、魔釣りに手を貸し続けることになり、あなたが滅ぶ。

政治にお金が必要な現代社会は、お金がものを言い、国民の暮らしをお金が支配し、社会システムの姿をお金の有無が決め、国家運営を資金量が左右する。民主主義社会だといっても、結局は、主権者である金を神と崇める「政治家と呼ばれる神官」が、法律という幻想の力によってお金の分配権を握る権限を自らに与えることで国家を思い通りに操作(運営)する「金主主義社会」である。法律すらお金が支配する法治国家の正体は、お金を神とする神制国家なのである。政治家という神官(お金という神)に自らの全生涯を預けている限り、臣民(大衆)が望んでいる理想国家、すなわち、誰もが自由な天国は絶対に実現しない。政治家も国民も、自らの生き様を根底から正さなければ、国家の滅亡は必至となる。

誰かが世界の支配を企んでいるとすれば、その誰かにとっては、自由という思想は邪魔である。従って、世界支配という野望を達成するためには、被支配者の自由を制限しなければならない。現代社会でいう「罪」とは、法律に違反したことを指すが、元々は、「犯罪行為」という行為はどこにもない。その実態は、自由を制限した社会を維持するのに不都合な行為を法律で禁止した結果生み出された幻想である。犯罪行為とは、ある行為がその社会の秩序を乱すハタラキをする場合の呼び名に過ぎない。本来は、「罪」自体が幻想であり、法律には何の強制力もない。実は、自由を制限する法権力の行使自体が、犯罪なのである。
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原因と結果が逆さまであるから、現代社会の法律で犯罪行為を無くすことは絶対にできない。犯罪を抑止するほど犯罪が増えるのはこのメカニズムが働いているためであり、法律では、決して秩序を維持することなどできない。法律が、犯罪を産み、犯罪がさらなる法律を産み、混乱を収拾しようとするほど法律が増え、法律が増えるほど法律が有名無実化(無力化)していく。そしてついには、統制不能となって、結局は、秩序が崩壊する。法治国家は、最後には、放置国家と化す。エントロピーの法則は、分裂の響きの現われであり、すべての現象に当てはまる。神権政治も民主政治も、その根底にあるメカニズムは略奪であるから、その中でいかなる制度を考え出そうとも、自由も平等も平和も実現しない。

犯罪行為と法規制のイタチゴッコの始まりは、真釣り外し(魔釣り)という神法違反である。現代社会が神法に違反していない世界ならば、犯罪も法規制も形にならないから、犯罪も法律も社会には存在しないはずである。それが存在するということは、つまり、現代社会が神法違反している世界であることを意味し、その違反を清算しない限り、犯罪は絶対になくならず、イタチゴッコが永遠に続くということである。しかし、法規制が制裁の意味をなさなくなる時が必ず来る。結局は、無法世界となって、最も避けたかった世界(殺し合いの響きである人間の本性、イタチゴッコの世界の正体)を現実として体験することになる。神法違反をしたゆえに犯罪があるのであるから、防犯の法規制は茶番である。

これは、ウイルスとワクチン、テロリストとテロ撲滅をスローガンに掲げる国際社会の関係にもそのまま当てはまる。神法に違反して『悪を消せば善になる』と言っている側が、その悪を表に出した源であるから、その悪の正体は自分自身である。悪を無くすためには、悪の源を根絶することが必要である。外の悪は自らの神法違反を知らせる情けであるから、悪を抹殺しようとすれば、お知らせを無視して神法違反を進めることになり、ますます悪が強力になる。最後の悪は、元つ真釣りの大神の響きであるから、そのままでは、創造の源に自爆テロを決行する、という神をも恐れぬ狂気の沙汰を招く事態となる。創造の源に自爆テロを決行すれば、それは、「自らだけが爆死する」テロとなる。悪の根源を外に求めれば、悪の根源が自爆して、この世から「悪」を一掃する結末となる。本当の根源の自らが消えて、天国を実現することになり、『悪を消せば善になる』という法則が正しいことが証明されたことになる。しかし、自らはすべての世から消えるから、自らの天国も消えて、自らの天国の望みは絶たれる。今のままなら、それがあなたの現実となる。自らの平和を創ろうと世界支配を企む者が、自殺して世界に平和をもたらす。まさに世界平和のためになる究極の善行である(皮肉)。結局は、神法違反の自己責任をとって「世界平和」に貢献することになるが、自らはそこにはいない。狂ったとしか思えない愚かな自作自演劇である。
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真釣りは天国(自由、平等、博愛、平和)しかない世であり、至美至善、至楽至便、苦の響きはどこにもない万古末代弥栄える、至誠至愛、至慈至順の何の問題も無い世である。今の世でいう悪(闇、苦、病、恨み、憎しみ、怒り、悲しみ等々)は影さえも存在しない。魔釣りというのは、真釣りを外した(神法を破った)身魂を真釣りに戻すために仕組んだ「情けと花の仕組み」(神法違反の自業自得の懲役期間、時が来れば自業自殺=死刑)が有効な間だけできることであり、真釣りに戻す時が来れば、魔釣りをしている者はすべてが幻として消える。真釣りと魔釣りは裏表であり、元は一つであるが、全く正反対のハタラキをする。ハタラキには善悪はなく、魔釣りの快欲に囚われた心に曇りがあるから、やること為すこと善悪にわかれてしまうだけである。善悪に分ける目をもって世を進めていけばいくほど真釣りには戻れず自滅する。悪のハタラキが現われて、自らが持っている善悪の目に気づけるのであるから、悪のハタラキをする者は自らにとって恩恵である。悪を裁くならば、自らの持っている善悪に分ける目(魔釣り)が正しいことになり、真釣りが間違っていることになる。真釣りが悪で、魔釣りが善になる。真釣りが善で、魔釣りが悪ならば、あなたは悪となるから、あなたが悪を裁くように、自分が裁かれても文句は言えない。

善のハタラキ、悪のハタラキ、があるのは、悪を使って悪を祓う真釣り戻しの仕組みが成就するまでの話である。大神が悪を許しているのは、自らが悪である自覚が無い魔釣りの善の身魂に悪を見せて真釣りに気づかせるためである。自らが善だと思い込んでいる悪には悪を持って当たらなければ、絶対に自らの悪に気づくことは無く、真釣りに戻ることはできない。『悪に感謝する』と聞けば、自ら(社会、国、世界、組織)を壊すもの(苦しめるもの)を悪と定義している魔釣りの世では狂っている考えとなる。しかし、本当のところは、「悪」とは、魔釣りの言う悪ではない。真釣りには悪は影さえなく、情けがあるだけである。自らが真釣りを外さなければ悪も苦も存在せず、悪や苦があるならば、それは、自らが真釣りを外している証拠である。その悪を裁くならば、自らの真釣り外しを正しいものと思い込んでいることになり、それは、魔釣りの自らを殺す真釣りを悪に仕立て上げる冤罪となる。悪を裁く自らが、真釣り外しを認めない悪である。この世の「悪」を裁けば、自らが滅ぶ。すべて逆さまである。もし、悪が無ければ、あなたは魔釣りに生きていることに気づかずに、自分は善だと思ったまま、真釣り外して滅ぶことになる。悪の正体は、自らの魔釣り(真釣り外し、神法違反、滅びの道にいる事実)に気づかせてくれるための鏡であり、滅びを止めてくれる有り難いものである。魔釣りの神仏を有難がって拝んでも、本当の幸福も自由も天国も実現できないどころか、魔釣りを進めて滅び(本当の死)が近づく。神法違反の身魂を天国に導く仕組みに生かしてくれている大神こそ有ることが難い存在なのである。不快なことをされたらすぐに訴える人間とは神と悪魔の差である。逆さまのものを信じているから逆さまになるのである。本当の自分と一緒に本当の天国に行きたいなら、逆立ちの世で教わったことを全部捨てて逆立ちをやめて歩くだけでよい。
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この世にある「悪にみえる出来事(苦に感じるものは)」は、あなたの神法違反の現れである。「悪」は、本当の善に気づかすために存在を許されたものである。神法違反である本当の悪に悪であることを気づかせるための大神の情けであり、その悪を裁くならば、真釣り外しの責任を放棄し、天地自然の掟破りの清算の邪魔をしているあなたは、掟破りの自覚無き反逆者、無法者として、自然淘汰により消滅することになる。アヤマ知を使って逆恨みするならば、それは、自ら産んだ不快を他人に転嫁することを意味し、自らの神法違反を認めてないことになる。従って、自らを善だと思ったまま滅んでも、誰にも文句は言えない。滅んだら文句は言えないから、文句を言っているあなたは、幻のような存在である。実体のある真釣りの存在から見れば、あなたは、始めから存在していないことになる。「苦」は自らが掟に違反していることのお知らせであり、逆恨みするならば、あなたは天地自然の掟である真釣りを外し続ける意志を示したことになるから、天地自然の掟通りに、自らの違反のゆえに自らで滅んで責任を取る結末となる。本来は、神法違反者は存在できない。

『善悪がある』が永遠不変の真理ならば、「善悪がない」世界は想像すらもできない。二極分裂が元だと言うならば、善悪がない世界が産まれることはない。それが真理ならば、永遠に戦争が続く世界が真理となるから、世界平和や自由は絶対に実現しない。従って、戦争反対運動や、平和運動は全く意味がないお遊びになってしまう。しかし、平和や自由や天国が想像できるならば、『善悪がある』は真理ではないことを意味し、戦争をしているならば、それは、自らだけの天国を実現しようとしている手前勝手な行動だということになる。善悪が無い世で戦争をしているならば、それは、自分自身を滅ぼす目的でやっているに過ぎない、狂気の沙汰になってしまう。善悪の戦いができるのは、悪が許されているからであって、許されている悪を滅ぼす戦いをしているという自己矛盾を解消しなければ、戦争は止まらない。鏡の中の逆さまの世界では、本当の世界を鏡の世界だと思い込む。鏡に映った自分は闇の中のグロテスクな悪魔に見えるから、鏡を無視して、戦争を続ける。鏡の世界にいる天使は悪魔であり、悪魔が天使である。悪魔のささやきは、鏡の中の世界を壊す象徴であるが、その世界が悪魔の世界だとしたら、そこで善人を演じることが何を意味するかはわかるはずである。天使に魅せられるのは、魔釣りの虜である型示しである。

逆さ眼鏡をかけているのが現代社会であり、すべてを逆さにしたのがミロクの天国である。逆さ眼鏡を通して見える世界を真実として訓練すれば、外した時は、逆さまの動きとなる。今の世は鏡の中の世界であるから、ミロクから見れば、悪と悪がお互いに鏡に向かって戦いを挑んでいることになる。鏡に映った自分に吠えている犬と同じである。鏡に映った姿が自分自身だと気づかなければ、吠えるのはやめない。鏡の館に居続ければ、鏡の迷路の中を永遠に彷徨うことになる。カメラを接続したテレビを、そのカメラで映したら、テレビの中に永遠にテレビの映像が映り続ける。カメラを操作している自分が本当の自分であり、テレビから目を離したところが、本当の自分がいる場所である。それは鏡の館の外でもある。幻の鏡の館は入館者もろとも消滅する時が来る。それまでにその館から脱出しなければ、館と共に消滅する。鏡は「彼我身」であり、自分の姿である。鏡の館を出る方法は、内の鏡に従うことである。ガイドは自らの中にある。真コトが出口へのガイドである。
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永遠に戦争を無くすには、お互いが、自分が自分に吠える一人芝居をしていたのだという滑稽さに苦笑いしながら、自分が映った鏡を舐めて、ただ仲直りをすればよいだけである。善悪がないから、善悪が作れるのである。重力がないから、重力(軽重、動静)が作れるのである。真釣りがあるから魔釣りが存在できるのであって、魔釣りが真釣りを産み出すことはありえない。いかなる神仏であろうと、絶対法則を破ることはできない。元つ大神を殺すことや支配することは誰にもできない。大神を殺すという響きは、すべての源を、あなたも含めた万象万物を滅ぼす響き(魔釣りの響き)である。元つ真釣りの大神は、自身の暗殺を企てる、真釣りを破った魔釣りの者を生かして真釣りに戻す仕組みを構えた。神の始めは真釣り、真釣りの始めは神、万象万物すべて神である。大神の暗殺の企みは、言い換えれば、自分自身を含む万象万物、つまりは、暗殺を企む本人の自殺を意味する。大神はすべてを産めるから何も殺す必要はない。真釣りに戻す仕組みの最後の最後の最後、元つ大神がすべてを真釣り戻した時、魔釣りの響きを持つ「国家転覆罪」の身魂は、魔釣りの世もろとも完全に処刑される。しかし、その実体は、真釣りを外した「囚人」の自業自得の死、自殺である。元つ大神は、天地転覆犯と言えども「死刑」にはしないのである。

元つ大神は、悪にも善にも分け隔てなく天恵を与え続け、善にも悪にも平等に真釣りに戻す機会を与えてきた。大神は天地創世以来、何一つ奪ってはいない。自らの支配欲を満たすために善を悪に染めて獣化する機械を渡し、邪魔者を消すために悪を殺すシステムを作った人間社会(と幽界)の生き様は大神とは程遠い。大神は、今の世で言うアメとムチを使う必要はない。強いて言えば、大神のアメは真釣りの真コトであるが、魔釣りのアヤマ知のアメを食べ慣れ、ムチを避ける癖をつけた者が、そのアメを食べること(真釣り戻すこと)は非常に厳しい試練となる。ムチはないが、真釣りを外した者にとっては、真釣り戻しの情けは、魔釣りのムチ以上に苦痛を伴う。しかし、それは、真釣り外した自分が作った、自分が自分に入れるムチなのである。大神の意に沿うように生きることが、大神のミロクを体現する第一歩であり、魔釣りのアヤマ知をすべて捨て、真釣りの響きを心に取り戻すことが、本当の天国への唯一の道である。大神と全く同じ響きに共鳴すること(真中の真コトの一厘を磨き出すこと)が真釣り戻しの最終ゴールであり、それを寸分違わず行い現し続けることが真コトの神民の勤めである。大神がすべてのすべてを真釣り戻した時、一厘の真コトが万象万物すべてに形として顕現した時、本当のミロクの実現となる。
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元つ大神を超えることも大神になることもできない。しかし、大神の響きと共鳴すれば、大神の真釣りの天国を体験することができる。元つ真釣りの天国は弥栄である。絶対法則は破ることも超えることもできず、条件(制限)をつけた分、狭い世界が現実となるだけであり、付けた条件を外していくことで満たされていくのである。魔釣りの世は、条件闘争と交渉の世界であり、主導権を奪った者が条件を付けて支配することができる。支配者の思想がその世界の善悪の基準となる。条件を付けた分、不自由になり、条件を外した分、自由になる。すべての根源の法則は、完全自由の真釣りである。自らの内にあるすべての条件、善も悪も、光も闇も、真釣りの響きを制限するすべての条件づけを奇麗サッパリ外した響きが真釣りである。これを、「無条件の愛」「自己愛を超えた自己愛」と呼ぶ。本当の愛(=I)は、完全自由を実現するが、魔釣りの愛や恋(=来い、COME=噛む)に酔っている者には、とんでもなく恐ろしい響きなのである。真釣りの愛の実現は、魔釣りの世で見れば、人類の破滅を意味する。魔釣りの世が壊れるからそれを封じ込めようとするが、真釣り戻して壊れるものは、実は、何の実体も無い幻だったのである。それを捨てることを怖れれば、本物の愛はわからない。本当の自己愛が、永遠無限の真コトの愛である。

ブラックホールを避けても最後はすべてが吸い込まれる。中心に存在する究極の闇は嘘の宇宙(地獄)の出口であり、ミロクへの入口でもある。偽宇宙を吸い込むブラックホール(入口)は、真宇宙に飛び出すホワイトホール(出口)である。偽宇宙すべてを吸い込む中心(魔釣りを奇麗サッパリ掃除した無の境地)が、真宇宙を産み出す「万象万物創造の真中(すべてを産み出す場所、全方向へ自由に動ける心の場所)」なのである。表の宇宙は箱の中、ボールの中の有限宇宙であり、クラインの壺の中である。今の表は本当は裏であり、ボールの皮の内側である。裏の裏が表。本当の表は今の裏である。何も怖がらずブラックホールに吸い込まれること、ミロクの天国という大海に向かう流れに身も心も魂も完全に委ねること、それが大神への帰依であり、ミロクへのただ一つの神の道である。裏の宇宙、ブラックホールの無い宇宙。自らの内のブラックホールが本当の天国の入口である。

真中の響きを不安に感じれば逆戻り。元つ真釣りのミロクを生きるための限定解除の運転免許は真釣りの真コトである。真釣り外しは万象万物を滅びに誘う響きと共鳴することであり、滅びの響きを奏で続けて最後は滅ぶ。魔釣りは快欲の囚われを解く立て替えの響きであり、快欲を追い求める真釣り外しの世から見れば悪として現われる。悪や苦は悪役であり、それそのものは悪ではない。勧善懲悪の映画で悪を登場させなければ、善は活躍できない。戦っている者は善悪の戦いで疲れなければ、本当の善に戻ろうとはしない。映画の登場人物を恨んでも、憧れても、その対象は仮想人物であって、その役を演じる役者本人ではない。俳優は、善人にも悪人にもなれる。神にも悪魔にもなれる。その両方の源は俳優である。善と悪の元は一つである。自己矛盾は、自分の矛で自分の盾を突く一人芝居であり、矛と盾(攻守、善悪、正誤)が同じ響きのハタラキの違いであることに気づかなければ自己矛盾は解消されない。闇から始まった世が光のみの世(天国)になることは永遠にない。光を消した闇の中の光と闇の戦いは、闇に戻って光が甦る。闇の中をすべてだと思っていれば、それは、消滅を意味する。闇が闇に葬った光が闇を闇に葬れば、もとの光が戻る。光を闇に葬った者にとって光は闇であるから、自らが闇となる。自らしたことが自らに返る。一つが分かれて再び一つに戻る。光が闇を闇に葬って光に戻るのである。
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真釣りが先で魔釣りが後である。無が有を産んで無に帰り、神が人を産んで神に帰り、光が闇を産んで光に戻るのである。無が有を産むのである。無という卵からニワトリを産んで、そのニワトリが卵を産んでニワトリを形にする仕組み(有の中で産み生む仕組み)を持つからニワトリが増えて卵が増えるのである。有の源は無であり、人の源は神である。その無は、今の世界で言う「何も無い」ことではなく、無と言う「有を産む有」である。無という卵から卵を産んで、その卵からニワトリを産むこともでき、そのニワトリが卵を産んで・・・と続く。『ニワトリが先か卵が先か』の議論は永遠に終わらない。したければいつまでも出来るが、『世がアダムから始まったとすれば、この世では、ニワトリが先で卵が後である』と理屈をつければその意味の無い議論はもうしなくても済む。原因が先で結果が後、光が先で闇が後、神が先で人が後、親が先で子が後、善が先で悪が後、悪は自分の鏡である。すべてのすべては大神が源であり、自分の現実のすべては自分が源である。自分の現実に不都合があれば、自分は魔釣りであり、天国ならば、真釣りである。自分の外の悪を裁けば魔釣りが進み、魔釣りが進むほど真釣り戻す手間と苦労と厳しさが増す。時が至れば真釣り世に戻り、魔釣りの魔コト(アヤマ知、分かつ知)を持つものは、そこで自然消滅する。今までの世で天国を目指したあなたが天国と思っていたのは魔釣りの天国であり、魔釣りの天国は魔釣りの消滅と共に消える。地獄も天国も消滅し、本当の天国が永遠に甦る。真釣りで真釣りを使えば悪は現われない。魔釣りで真釣りを使えば、悪が現われる。自分が真釣りに戻れば真釣りと真釣りが真釣り合って、すべて思い通りに作れるから、悪も苦もない。悪や苦があるのは、魔釣りで使っている証しである。外の悪を壊せば壊すほど魔釣りが進むから、どんどん壊れていく。最後は結局、自分を壊すことになる。

すべては一体不可分であるから、『自分のしたことが自分に返っている』のが法則である。あなた=私である。私=あなたである。真釣り同士が一人芝居をすれば、全体は天国になる。自分が主役なら周りは脇役、通行人。周りの誰かにとっては、自分が脇役、通行人である。自分が矛なら相手は盾であり、自分が盾なら相手は矛である。攻撃と防御は同時にはできない。攻撃と防御を同時に思考できるとしたら、自分の中の攻撃心と防御心の拮抗(主権争い)で肉体は動けなくなる。お互いに戦うことができないから、戦いは形にならない。仮に、ミロク世で魔釣りが存在できるとしたら、人の形をした動かない石としか映らない。今の世で、人の形の石があったら、それはただの風景の一つに過ぎず、世の営みには何ら影響はない。あえて言えば、観光地の風景として、生活に潤いを与える微笑ましい石である。石がものを言い、人がものを言わなくなる時、即ち、すべてがひっくり返る時が訪れる。実際は、もともと戦いはないから、攻防もない。矛盾もない。「どんなものでも突き通す矛」で「どんなものでも突き通せない盾」を突いたらどうなるか。その矛と盾を手にしたら、戦っても意味はないから戦争は終わる。自らが矛と盾(善と悪)の製造者(神)である。善と悪に分けた結果、悪が現われ、悪の正体を知らないから外の悪であるお互いを攻め(責め)合う。全を善悪に分けた瞬間、戦いが始まり、矛と盾が生まれた。
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お互いが自分の鏡であることを知ること(真コト)が、戦争をやめる第一歩である。攻防に分けると、攻撃しようと思えば自分は矛になり、守ろうと思えば自分は盾に変わる。自分が最強の矛を手にしたら相手は最強の盾を持ち、最強の盾なら相手は最強の矛を持つ。自分が矛であり盾であることを知り、自攻自守の一人芝居であるとわかれば、戦いは意味がないことがわかる。自由の獲得が戦う目的であるとすれば、自らの分裂思考自体が自由の真の適であるから、人を殺しても目的は果たせない。その目的を達成するには、自分の内の分裂思考を倒せばよいだけである。あなたの言っている敵とは『敵だ』と思い込んでいる幻を目の前の誰かに投影した影である。外に悪があると言うなら、その悪は鏡に映る自分である。返るもの(反響、反作用、木魂)を変えるには、自分の態度(響き、やり方)を変えなければならない。『ヤッホー』と自らが叫ぶから『ヤッホー』と木魂が返るのである。『ヤッホー』と避けんだのに『うるせーぞー』と木魂が返るとしたら、作用反作用の法則が壊れてしまう。あなたがしたことがあなたに返るのである。悪を殺せば自分自身が死ぬ。

現代社会にあるすべての問題の根源は、自分自身の響きである。全員が魔釣りを真実と錯覚していれば、アヤマ知が常識となり、それを破壊する真釣りの真コトを避け続ける。すべては逆さまであるから、まずは、自らが産んだウン子とオシッ子の処理をすべきである。あなたが鼻をつまむ汚物は、自分自身である。自らが垂れ流した糞尿(不都合、苦)に、自らがまみれることを避けないことである。自ら産んだ苦を引き取ることである。その覚悟が出来て、初めて真釣り戻しが出来る。「何の罪もない者」や「何の落ち度もない者」は一人もいない。まずは、この事実を身に止めて(認めて)、嘘を奇麗サッパリ掃除して心を入れ替えることである。アヤマ知を捨てて、素直に真コトの言う通りにすることである。

言っていることとやっていることを寸分違わず一致させることである。死はないと言うなら、死を避ける行動はとらないことである。真コトが真実なら魔コトは捨てることである。魔コトの者は批判や迎合をしてくるが、真コトの者には意味はない。マ違いを正して考え(神替え)直すことである。しかし、考えを直しただけでは何も変わらない。直した考えを実行すると外から来るものが変わる。外から来るものを変えたいなら内を変えることである。変えた内に従って動くことである。それが本当の修行であり、霊体一如の本当の鳴想である。世の名僧が説く瞑想は、思いと行いが乖離して、世は迷走の末、命を葬る結末に向かう。心と口と行いを「完全に」一致させることが真コトである。自由にすれば自由になるのである。行じることが鍵である。真釣り戻せば悪の響きが消えていき、完全に魔釣りの響きが消えれば、元からある真釣りの響きと真釣り和して本当の天国を体験できる。
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本当の悪の根源(自らの魔釣り)を真釣り和さない限り、本当の滅びに至る。真釣りには善悪はない。『善悪がある』と言うならば、それはあなたが「二つに分かつ知」で物事を判断していることを意味し、一つの響きの善悪を二つに分けて見ていることの証しである。それは、他でもなく、真釣りを外していることをあなた自らが白状しているようなものである。『善悪がある』と言うならば、どんなに悪を消そうとも、「善悪がない」天国は実現しない。「善悪がない世界」が実体ならば、その実体のある世界を分裂させて破壊したあなたは、本当の破壊者として責任をとることになる。あなたの現実にある悪(に見えるもの、感じるもの)は、あなたが真釣り外した響きを持っていることを知らせる映しであり、真釣り外したあなたに、言い換えれば、本当の天国を壊して平然としている「悪の根源」に、そのことを教えるための「情け」である。あなたが『極悪人は死刑にして当然だ』と言うならば、「本当の天国を壊す本当の極悪人」であるあなたは、あなたの言う通りになっても異議申し立てはできない。破壊者(正確に言えば、不都合な者、邪魔者)をすぐ処刑する(批判する、憎む)人類に対し、神の天国を破壊する人類を生かし、間違いを知らせる大神は、情け深い存在である。真釣りが神法であり、真釣りだけが実体のある世界である。

天国を破壊する真釣り外し(本当の「悪」)を生かす大神の情けがわからない(悪に制裁を与えることは当たり前だと言う)ならば、あなたはこの世の真実を永遠に知ることはない。あなたは、自らの思い違いによって、自らの命を失うことになる。今の世界を実体のあるものであると思っているならば、あなたは永遠に自由にはならない。あなたのいる社会が魔釣りに基づいて作られているものなら、その社会では誰も自由にならない。善悪がある世界が実体なら、善悪がなくなることはなく、戦う(裁く)世界が続く。善悪がある世界が幻想ならば、その世界は実体のない世界であり、そこにいるあなたは消える運命である。

悪の響きは、情けと花の仕組みの中で真釣り外しゆえに現われた現実である。本来は実体のない「悪」を裁けば裁くほど、どんどん悪が増え、あなたも社会も消滅する時が来る。魔釣りの言う「善悪」は中身は空っぽであり、善悪の争いは幻想の世界のお伽話のようなものである。本当のあなたに死はなく、この世で何が起きようとも、実際には、本当のあなたには何の影響もない。この世で不都合が生じるならば、それは、真釣り外している証であり、あなたが悪を裁くならば、それは、あなたがこの世に執着していることの証である。あなたは、限りある箱の中で居場所の奪い合いをしていることになる。あなたが本当のあなたを思い出せば、本当は何の問題もなかったことが分かる。すべてはあなたの思い違いであり、あなたは思い違いに基づいて誰かを裁き、不平不満を言ってきたことになる。それは、自らの思い違いに基づいて、自分の現実の責任を転嫁してきたことを意味し、自らの間違いを認めないならば、あなたは、自らの思い違いにより、自らを殺すことになる。
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法律が定めることが善(正)であるならば、法律違反は悪(誤)となる。『善悪がある』ことが真理であると言うならば、「裁くこと」自体の善悪は議論されることはない。なぜならば、「裁くこと」がおかしいと言ってしまったら、この世は悪だらけになってしまうからである。あなたは、今まで、苦の正体を知らず、自らの人生のカラクリを知らず、あなたの快欲を維持するために都合がよい『苦があるのは当たり前だ』という教に騙されて、自らに訪れる苦の響きから逃れたい一心で何か(誰か)を裁き続けてきたのである。苦があるのが当たり前で、その苦は誰かが自分にもたらしたものだという幻想に囚われていれば、あなたは自らの苦の責任を誰かに転嫁し続けることになる。社会をよくしようとする行動すらも、社会にある「悲惨な」状況や「不都合な」状況から逃れたいがために、自らのしていることを棚に上げて、皆と一緒になって、いい加減な理屈の善を行じた茶番劇である。社会を良くしようとし続けたはずなのに、なぜ社会が乱れていくのか。嘘は明らかである。

今のあなたが持っている「すべて」の価値観(観念)を本当のゼロに戻して、自らの生き様を今すぐに根本から直さないならば、あなたは、嘘の幻の教を信じたまま、永遠に滅びることになる。永遠の滅びというのは、魂(あなたの実体)の永遠の死を意味するから、あなたはもう二度と永遠に、この世どころか、どこにも産まれることができなくなってしまうのである。神話を超えた遠い大昔から続いてきた、幻の人類史が終焉を迎える。その歴史は、真釣り外した集団が作った、本来どこにもないマヤカシの歴史である。神々も含めた幻想の世界が永遠に終わる時が間もなくやってくる。そして、今までのすべての行いの清算を終えた者だけが、本当の天国で本当の自由と平和を永遠に謳歌することになる。

なぜ天国ができないのか。なぜ、悪がなくならないのか。「善悪のある世界」があり続ける限り、天国は実現せず、悪はなくならない。「善悪がある世界」が実体ならば、天国も悪の撲滅も永遠に実現しない夢である。「善悪がある世界」で、善悪がなくなることは絶対にない。もし、「善悪がある世界」が幻想ならば、天国も悪も、必ず消える時が来る。「善悪がある」という思想に基づいて現代社会が作られているならば、「善悪がない世界」から見れば、幻想の作り出す空想物語りの中の社会となる。裁判や制裁では、永遠に天国はできない。それどころか、永遠の滅びを進めるだけである。形に現われた、自らに不都合な人物や行為を抹殺したとしても、自らの天国が実現することは末代ない。あなたが悪だと言っている対象は悪ではない。悪がない世界で悪を裁くことはできない。「善悪がある」と言っているお互いがお互いを潰しあえば、悪の世での悪と悪の潰し合いが進むだけで、それは自らの永遠の消滅を意味する。この世が、善悪がある世界だと言うならば、この世の行く末は自然淘汰であり、あなたも自然淘汰となる。「善悪がある」という思想が幻想であることに気づかなければ、そのまま滅ぶだけである。『自らしたことが自らに戻る』それが、あなたの現実を作り出す唯一の法則である。あなたの言う悪は自らの反響であり、自らが発信した超音波が自らに戻ってきているのと同じである。言うなれば、その悪はあなた自身であり、あなたの現実に「悪」があるならば、それは、あなたのやり方が間違っている証拠である。自分は間違っていないと言い続けるならば、あなたは悪を裁く堂々巡りから永遠に出ることはできない。最後の悪は、天地自然の掟であり、あなたの攻撃エネルギーがそのまま返ることになる。永遠に悪を裁くことはできず、最後は自らが自らを殺す結末となる。
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真釣り外しが、世の乱れ、自らの不都合の原因であることを忘れ去り、自らの真釣り外しをそのままにして、自らの不都合を自ら以外のせいにすることを続けるならば、永遠に自由にならない。それどころか、真釣り外しを進めるだけで、あなたは、どんどん不自由になっていく。結末は、時空を超えた100%の不自由、即ち、永遠の死である。真釣り外しを認めない集団が、悪を裁き続けた結果が現代社会である。社会に「悪(破壊、不都合、闇)」がある原因を知らず、善を作ろうとして、形の不都合の修繕を続けてきた結果、「悪」が増え続けるならば、そのやり方自体が間違っていることになる。この世は、天国と滅びの二つのベクトルしかない。善悪の善を作ろうとするのも、悪を消そうとするのも同じことであり、それは、分裂の滅びのベクトルである。今となっては、善を作るために悪を裁くのではなく、悪を裁くために悪を生む、悪を潰すために悪を探す、つまり、悪を裁くこと自体が目的になってしまっている。あなたの生きる目的は、自らの快感の維持である。自らの快感を維持するために、不快に感じるものを抹殺する行為を繰り返すのである。その行為が自らをどんな世界に導くことになるのか、ここでしっかりと考えて欲しいものである。常識とか、伝統とか、普遍的真理云々という理由で当たり前の如く繰り返している行動が、本当に人類が望んでいる世界を創るものかどうか、正直に見直してみることである。あなたは、自らの考える天国を創ろうとしているだけで、世界の平和など頭にはない。今の世で言う悪を告発しても、あなたにも社会にも本当の平和がやってくることはない。

自らの不都合(社会の不都合)は、真釣り外した証である。死を避けるならば、避けている死の世界を除いた世界で天国を作ろうとしていることになる。悪を裁くことが許されることならば、そこは、善悪がある世界である。裁くことが善ならば、善悪がない世界は実現できない。裁くには、善悪があることが前提であるから、善悪がなくなれば、裁けなくなる。善悪のない世界から見たら『善悪がある』と言う自分が悪ということになり、裁きは善ではなくなる。真釣りという絶対不変の天地自然の理法に違反した魔釣りは、神法違反の悪となり、裁かれる対象だということになる。しかし、真釣りには魔釣りは存在せず、真釣りに裁きはない。魔釣りの言う「悪」は、魔釣り世と共に消滅しているからである。

法律そのものが善ならば、法律違反を悪と言うことができるが、法律に違反する行為が存在するということは、何を意味するのか。悪とは、それを悪だと言う側に都合が悪い(自らを破壊する、邪魔する、不快にさせる)ものを言う。裁きとは、悪と悪が悪の押し付け合いをしているゲームに過ぎない。悪という言葉と、悪という響き(悪と言うときに感じる感覚、許せないという感情、怒り、妬み、痛み、苦しみ)は、作られたものである。善悪がない世界は、真釣りしかない響きであり、何の不都合もない。あなたが心地悪さを感じるならば、それはあなたが真釣りではない証である。真釣りに共鳴している者は、真釣りしか体験しない。「悪い行為」というものは無く、ある行為を悪(都合が悪いもの)と見ているだけである。だからといって、悪を責めてよいという結論にはならない。自らが感じる不快感は自らが真釣り外しの響きを持っているゆえに現われたものであるが、それを誰かに感じさせられたと思い込んでいると、その誰かに不平不満を言うことになる。『誰かに不快を感じさせられた』と思うことがすでに真釣り外した証であり、それが真実だというならば、「不快を感じさせられた」自分が正しくて、誰かが間違っていることになる。それは、「真釣り外し(魔釣り)」が正しいと言っていることになり、真釣りの世界(善悪のない世界)はありえないと言っていることになる。『自分は悪くない』と言うならば、それは、真釣りが屁理屈だということになる。真釣りと魔釣りは裏表である。魔釣りが正しく、善悪があるというならば、善悪のない世界はありえないことになる。無いものを作ろうとして悪を裁く矛盾を繰り返す限り、人類が目指している天国も自由も実現することはない。
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一つ大きな視点(真釣り)から見れば、魔釣りの世の法則(常識、道徳)は自らに返ることになる。魔釣りの言う悪は悪ではない。自らの外に見える悪は、真釣りの世から見た自らのことである。真釣りには善悪はなく、魔釣りの言う悪は、実体のある悪ではない。言うなれば、真釣りという絶対善が許した絶対悪の中に善悪のハタラキがあるだけである。悪の裁きあいは、真釣りという神法に違反した者を魔釣りの響きを作って真釣りに戻す仕組みの中で通用する仕組みに過ぎない。真釣りしかない世で真釣りで生きれば、何の不都合もない。真釣りに違反すれば、不都合が現われるようにしてあるから、不都合があるなら、それは、自らの真釣り外しの現われである。自らが『何も悪いことはしていない』ならば、自分以外の誰かが自分を不都合にしたことになるから、その誰かを悪と呼ぶことになる。「善」「悪」、というのは、作られた思想であり、善(悪)という言葉も概念も元々は存在しない。悪とは何なのか。善とは何なのか。あなたが持っている概念や言葉は、すべて作られたものである。悪はどこにもない。真釣りの世には苦はない。あなたに苦や不都合があるならば、無いものを持っているならば、それは、あなたが真釣りに違反した証そのものである。あなたがそれを認めないならば、真釣り外して自分だけが滅ぶのみである。

あなたの現実に悪があるとすれば、それは、真釣りに違反した証である。魔釣り世の中にある外の悪を裁いても天国にはならない。悪を消せば天国になるならば、善悪の産みの親である魔釣り自体を死刑にすれば天国になるということになる。あなたが魔釣りならば、自らが死刑囚であることになり、魔釣りの世で悪を裁いても意味が無い戯言に終わる。これを否定するならば、あなたは魔釣りの信奉者であるから、真釣りには生きられない。世界平和が絶対に実現しない魔釣りの仕組みの世で平和運動をするならば、それは「自分だけの平和」「自分だけの自由」を本当の天国だと思っている思い込みを実現しようとしている茶番になる。つまり、「みんなのため」「世界のため」はあなたの行動の正当性の根拠にはならなくなる。あなたは、自らの思い込んでいる平和や天国を実現しようとしているだけであって、逆に、真釣りのマの字にも気づいていない自覚無き犯罪者となる。魔釣りの世の人間同士では価値を認められることであっても、真釣りの世から見れば、自らを滅ぼすために悪を裁き、自滅運動に他人を巻き込む、狂った行動をしている変人と映る。平和に貢献する国際機関のボランティアを価値がある仕事だと誇っても、それは、魔釣りの幻想であり、平和運動の目的の成就は絶対に叶わない。嘘のやり方で本当の天国はできない。平和や自由や平等を叫んでも、魔釣りのやり方では、平和のために戦いをし、自由を叫んで奴隷となり、平等を叫んで不平等を拡大する、思いとは逆さまの世界が実現することになる。本当の天国には、どこにも悪はない。真実が真実を形にするのである。簡単な理屈である。
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今の世でも『嘘の天国は、天国を進めるほど破壊に向かう』という真実が形になっている。絶対に天国にならない(滅びに向かっている)世で天国を作ろうとする者は、自らが魔釣りであることを白状していることになる。魔釣りの世では出来るように見えるから天国を追い続けることができるが、本当の天国を作るには、真釣り戻しのハードル(魔釣りから見た地獄)を越えなければならない。苦を避け、悪を殺し、苦情や愚痴を言い、何かに縋っている今の生き様(心のあり方)では、本当の天国は実現しない。自らの内の天国が天国の基になるのであって、自らの内が地獄ならば地獄を体験することになる。あなたがまず変えるべきものは、自らの内である。思い=形であり、形が思いの通り出ないなら、やり方が間違っているのである。あなたは今、真っ逆さまの世界にいる。誰かに反抗する天邪鬼ではなく、本当のあまのじゃくにならなければ、あなたが消えてあなたの天国は滅ぶ。

天国=滅び、悪=善、あの世=この世、未来=過去、神=悪魔、生=死、光=闇、ホント=嘘、であり、真中が真実である。今の世は嘘だという話がホントなのである。天国を壊した世では絶対に天国(誰もが自由自在に生きられる世界)は作れない。平和や、平等や、幸福や、安心や、安全や、自由は、それを求めて、誰かを変えようとしたり、法律で圧力をかけたりしても、実現しない。この世の姿形の死(肉眼で見える破壊)は本当の死ではなく、霊界の有無には何ら影響しない。戦争をしているのは、「死=終り」の公式を持つ死にたくない人間たちであって、この世に執着している霊体がこの世を奪い合う喧嘩両成敗の茶番劇である。『問題だ』と騒いでいるのは、現在の人間たちであって、死んだ人間たちにとっては過去の映像に過ぎない。この世の物質の形の世界は、実際は、一体不可分である。すべての源は一つであり、教会もテロリストの隠れ家も、資源から作ったものである。
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問題は、共通の道具である資源を何の目的でどう使って何を作ったかである。今の世は、真釣りを外して元の天国を壊した略奪の世界である。お互いが自分を善と思えば戦いは終わらない。戦いの基は、善悪の分裂思考、言い換えれば、快感の独占欲である。奪い合いの響きを持つ者が天国を作ろうとしてもそれは不可能である。自分の天国を得ようと殺し合う世界となる。人間が人間を殺して世界全体を平和にすることはできない。戦争の大義はすべて自らの思い込みに基づく屁理屈である。『本当の自分とは何なのか』と考えている自分が本当の自分である。その自分が自分の本当の神である。あなたは、自分という神が考える通りにしか動けない。あなたの選んだ考えを変えなければ現実は何も変わらない。

今のあなたは、真釣りか魔釣りか、どちらかの響きしか選べない。生か滅びかの全く正反対の選択しかできない、生きるか滅ぶかの踏絵の上にいる。あなたが何かの選択をするたびに、どちらかに動き、動いたら戻らなければならない。つまり、あなたには天国に戻るか、永遠に滅びるかの二つの道しかない。善か悪か、民主主義か共産主義か、左か右か、の選択は同じ方向にあるものを光と闇、生と死に分けて見ているだけで、その響きは分裂の魔釣り、どちらを選択しようとも、そのベクトルは「滅びの道」に向かっている。滅びに近づくほど、その差は小さくなり、左も右も変わらなくなり、二つに見えていた左右の道が一本道であったことに気づくことになる。その時に気づいてももう遅い。その道の真反対の「後ろの正面」、どちらが生か(得か、安全か云々)の分かつ知の見方をやめた方向が、天国への道である。そこは天国を壊し続けた今の世から見れば全くの闇である。あなたの心の中心にある究極の闇、その闇こそが本当の光なのである。本当の神の案内に従って歩けば、どんな地獄を見ようとも、必ず天国に着く。元の始めの天国を壊した魔釣りを壊せば、元の始めの真釣りが復活し、天国に戻る。元からある天国はあり続け、それを隠した霧である幻想を実体だと思っても、幻である霧は晴れて、元の天国が現れる。霧を実体だと思えば、霧と共にあなたも消える時が来る。心に霧がある人間に天国は見えない。自らが持っている魔釣りの響き、分かつ知をやめ、アヤマ知を捨てると一旦は地獄に見える状況を経て、真釣りに戻る。真釣りに戻れば、形も直り、天国(自由、平和)が現実となる。

『自らの不都合は自らの神法違反のお知らせである』これは、善の側にも、悪の側にも適用される。自分にとっての悪に戦いを挑めば、自爆して自滅するのである。テロリストの側も、テロ撲滅軍に報復すれば同じことであり、最後は、喧嘩両成敗で幕を閉じる。ウイルスに戦いを挑めば、ウイルスは生き残って自らだけが消えることになる。そのウイルスを兵器に使った場合は、人間同士の戦いの結末の通りとなる。これは、原子力や、化学物質にも言えることである。自然(地震、噴火、洪水等々)に戦いを挑んでも同じことである。地震は自身の揺れの型示しであるから、地震(真釣り外した自身)から逃げることはできない。真釣りの世界には、不都合(悪、危険、苦)は何もない。魔釣りという自らの神法違反を真釣りに戻せば、「悪の根源」を自ら消して、自らが天国にいることができる。
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真釣りの本当の天国を壊した世で、世を乱す者を抹殺しようとしても、それは無理である。『法律を守れば社会がよくなる』というのは真っ赤なウソで、それは、現代社会の状況を見れば、一目瞭然である。法律を強制するほど問題や争いが増え、それを抑止するための法律が増えていく。社会を動かしている学者や金融市場経済のエリート達は、自らの地位と名誉と自由を守るための生き残り戦略を練ることに余念がなく、宗教家は自らの崇拝する神の世界を実現するために信者を沢山集めて宗教戦争に勝利しようと必死である。方や、お金に命を預けた庶民(大衆)はと言えば、あいも変わらず金稼ぎに精を出し、愚痴を洩らし、悪人を非難し、機械が作る人工の箱の中で「快適生活」を貪り続けている。自らと家族の生き残りに精一杯で、お金で便利(快楽)を買うことや神仏を信仰することに何の疑問も持たないから、現代社会の裏の裏のカラクリに隠された罠(トリック)に気づくはずもない。国民に法律の遵守を要求し、義務を課す政府や、それを啓蒙する教育制度の裏の裏にある真の目的は何なのか。現代社会は一体どこに向かっているのか。その行く末にどんな世界が待っているのか。法律の源は蛇の知恵の神のご都合による何の強制力もない戒律であり、自らが世界を支配するための道具に過ぎない。この世の仕組みを作っているのは、その神の思惑を形の世界で実現するために働く人間達である。法制とは、為政者が世界を支配するために創ったシステムであり、現代社会の裏の裏を操っている影の支配者、世の黒幕は法律など守っていない。現代社会の裏舞台、「一般人」には思いも及ばない世界では、着々と支配計画が進行している。「獣」の響きに囚われた者が創ったシステムで、「人」の天国を創り出すことはできない。実際は、法律で規制すればするほど無法地帯と化し、自由を制限するほど共食いが激しくなるのである。法律が必要になった大元を直さない限り、犯罪の撲滅という目標は果たされることはない。本当の天国に「法律」は存在しない。

神法違反の「犯罪」である魔釣り自体が存在し、その「犯罪者集団」の中で罪の裁き合い(神が裁いていないものを、人が裁くこと=神が許している行為を、人が禁じること)ができるのは、「神法違反の罪」そのものは、まだ裁かれていないということを意味している。簡単に言えば、神が許しているからこそ裁けるのである。言うなれば、罪人社会の中で、罪の擦り合いが公然と行われているのであり、形の上の被害者が加害者を抹殺して自由を得ようとしているのである。罪や悪の本当の意味を知らないから、自らが犯した罪を棚上げし、他人を裁かないことが非常識であるかの如く、他人の罪を責めることが当たり前の常識として闊歩している。神法から見れば、全員が「罪びと」であり、他を裁く資格のあるものは誰もいない。今の世でも、法律違反を犯した者が他人を裁く資格がないのと同じことで、これは、神法にも適用される。「裁く心」が真釣り外しを進める根源である。神法を破った者がその罪を認めないとすれば、その者は永遠に自由にはならない。有限の中で無限の略奪はできない。無限の中に有限を作り、その有の奪い合いをしているなら、必ず終りが来る。言い換えれば、自分が自分を奪う時が必ず来るということである。違反を認めないならば、神法に違反した者は自らを消して神法違反を清算することになる。悪を裁けば裁くほど、自らで自らの首を締め続けることになり、最後は窒息して生き絶える。自らが違反を認めて清算しない限り、あなたが天国に戻ることはありえない。自らが違反を清算しないならば、国際貢献も、神の手伝いも、全く意味はなくなる。まずは、あなたの神法違反を清算することが先である。それが同時に世のため人のためになっていくのである。世のため人のため神のために生きたいならば、足元を正すことである。神法は、生死時空を超えた自業自得の掟であるから、これが一体何を意味するのかは、わかるはずである。
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神はすべてを産み出す。神の持つ響きが世の現実である。世の現実が神の持っている響きである。自=余=世=地。自らの現実はすべて自らが産み出したものである。自らの世界は自分そのものなのである。すべての現実を作り出す、その自分という神が嘘を持っていれば、幻の世界を実体だと思い込み、自ら進んで嘘の世界を進めた末に、嘘が存在できない世界が来れば、自らもろとも現実は消滅する。これを空想だと言うならば、それは、幻の世にしがみ付きたいがための詭弁であり、自由を自ら捨てることを意味する。すべては自業自得の仕組みであり、自らが自らの自由を放棄するのであるから、誰も助けてくれることはない。自らが自らの世界をどうするのか、生きるか滅ぶかは自分次第である。大きな視点から見て「何の罪もない者」はいない。本当の「罪」(神法違反)は、自ら清算しない限り、時空を超えて積み続けることになる。自らが自覚して罪相応の苦労を堪えて清算しない限りは、罪は消えない。罪が消えなければ、天国はない。魔釣りの積を摘まなければ、自らの天国の花は咲かない。神法違反を許す仕組みは期間限定である。いつまでもできると思うなら、それは、自らの違反をそのままにして、幻の世界の快感に浸り続けたがための幻想である。いつまでもそれを続けても構わないが、本当の命を自ら捨てる時が必ず来るという事実は動かない。今の自分が何をしているのか心底考えてみることである。

「罪人」同士の裁き愛は、大きな視点から見れば、パンドラの箱の中での相対的力学による封印合戦であり、自らが自らを裁き続けて自殺をするゲームの中の生き残り競争である。最後は全員が自殺して、そのゲームは終わる。実は、その箱の中そのものが「刑務所」であり、その中でボス争いをしている、「猿山の権力闘争」でしかない。その猿山を見ている人間に当たるのが、神であるが、その神の世界も、神の猿山で同じことをしている。そのすべての猿山の権力闘争を見ているのが、元つ大神である。真釣りに戻らない限り、猿山の権力闘争からは死んでも抜けられない。人類の先祖は猿だと言っているが、猿と人類の祖先が共通ならば、人類は猿である。戦っている人間は、外見は「人」であるが、中身は「獣」である。猿を祖先とする中つ神の世の「獣」は、元つ神の「人」の世には生きられない。

あなたは、自分が自分を刑務所に入れたことを綺麗サッパリ忘れている。自分の意思で神法違反をしたことを忘れているから、自分が自分を裁いた裁判官であり、自分が自分の刑期を決めている刑務官(神)であることに気づいていない。自分が自分の違反を清算すれば、刑務所が娑婆に変わる。刑務所から出ればそこは天国であるが、神法違反の刑務所は死んでも消えず、次元を超えて存在する。神法違反を清算しない限り、自らが刑務所を作り続けて、その中で、できない自由を求めて彷徨い続ける。罪を清算(差し引きゼロに)しなければ、永遠の天国には出られない。もし、逃れられない罪や誰かが与える罰、神の裁きというものがあるとすれば、現代社会を作り出した歴史の源の神を倒さない限り、人類は永遠に天国を体験することはできないことになる。魔釣りの神の裁きは、自称「絶対権力者」の神の気分次第であり、神の言うことを聞けば死なないが自由はなく、言うことを聞かなければ命はない。言うなれば、おのれが死ぬか、最愛の者を殺すか、どちらか選べというのが、魔釣りの神の踏絵である。魔釣りの神、言い換えれば、世の黒幕は安泰である。それはそのまま、魔釣りのアヤマ知の現代社会での究極の場面の選択(脅し)であり、自己犠牲か、自己保身か、の選択を迫られることになる。死ぬのはいやだが、誰かを殺すのもいやだ、と思っていれば、脅した相手に服従するしかないのである。自分が死ぬか、誰かを殺すか、脅した相手に反旗を翻すか(それは、自らの死を選ぶのと同じである)の自由意志の選択があるようで、実は、一つの道しか用意されていないのである。罪悪感を持っている限り、たとえ死んでも魔釣りの神の支配する世界の奴隷から自由にはならない。
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魔釣りの神は、真釣りを外すことに罪悪感は持たない。真釣りを見失っているから平気でできることではあるのだが、天地の理法を破った結果、自らの命の源を忘れ去り、自らの力で何でもできると思い込んでいるから、自らが世を支配している神の如くに振舞って、平然としているということである。結局は、魔釣りの神(その神の末裔である現代社会の支配者=上に立つすべての者)は、真釣りの神を殺すことに何の躊躇もないのである。その神の戒律に同意しているすべての者も、同罪である。現代社会は、真釣りの神を殺すことで成り立っている世界であり、真釣りの神を認めることは、世の破滅に加担することを意味する。しかし、現代社会が魔釣りの世であるなら、世の破滅とは、天地の掟に反した神の作った世界を滅ぼすことであるから、実は、天国の復活を意味する。本当の悪から足を洗うこと、本当の悪の戒律を無視することに、罪悪感はいらないのである。悪を滅ぼすことに異議を唱える者はいない。善から見た悪にとっては、善は悪であるからテロの論理が成立つのである。結局は、「悪を滅ぼすこと」に罪悪感は一切いらないということである。『本当にそれでいいのか』と問い続けるならば、魔釣りの罠から抜け出すことはできない。

魔釣りの響きは、真釣りを外した響きであり、万象万物の創造主に逆らっていることになるから、これ以上の反逆、これ以上の悪は存在し得ない。真釣りを闇に葬ることで成立つ魔釣りの神の戒律は、言わば、天地に反逆する組織に加担させるための掟であり、それに従うことは、本当の絶対天国の掟である真釣りに違反することを意味する。魔釣りの神は真釣りの真コトの一厘と引き換えに生まれた神であるから、真釣りの存在は知らず。今の今までこのことには気づいていない。世の黒幕自身が自らを滅ぼす世界を作っていることを知らないのであるから、盲目的にそれに従うすべての存在は、自らを滅ぼす末路が待っていることに気づけるはずもない。魔釣りの神をも生かしある元つ天地の大神の掟である真釣りの響きは絶対に消滅することはない。もし、消滅するなら、魔釣りが真釣りを生かしていることになり、天国は絶対に実現しない。即ち、真釣りを外した世に加担したすべての存在は、魔釣りの世から足を洗わない限り、真釣りの復活と共に破滅するのである。あなたが魔釣りの戒律(法律、道徳、常識等)に同意しているならば、自らのしていることに気づいて、生き様(態度、思想)を根本から改めない限り、あなたもその道を辿る。罪悪感とは、魔釣りの神が支配する世に封じ込めるために考え出された道具なのである。
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逆さまの世界に生きている人類は、心の世を脳が作る幻想だと思っているから気づかないが、魔釣りの戦いの世界では、この世でも、あの世でも、人間の世界でも、神仏の世界でも、殺し合いが基である。人類の語る形の殺人や、戦争は殺し合いだとすぐわかるが、心理的な殺人というのも、実は、あの世での殺し合い、霊的殺神なのである。従って、魔釣りの響きの世界では、誰も殺さないで全員が天国になることはありえない。脅した相手を含めて、誰かを殺さない限り、自らの生きる道は閉ざされるのである。魔釣りは善と悪の戦いの世界であり、善の言う悪自身は善であるから、悪の潰し合いが永遠に続く。死刑やそれを望む心が許されているのならば、それは、悪を殺すことに罪悪感を持つ必要はないと言っているのと同じことになり、悪が罪悪感なく善を殺せるとするなら、善も悪も含めた全員が天国になることは永遠にありえない。それは、言い換えれば、命の略奪合戦であり、どんな選択をしようとも、魔釣りの世界には滅びの道しかないことを意味する。

魔釣りの響きで生き延びたいならば、自らが魔釣りの神を支配するしか方法はない。つまり、魔釣りの神の座を自らの力で奪わない限り、魔釣りの源の神の支配の中からは永遠に出られないのである。しかし、自らの命の源を倒すということは、自らを倒すということであるから、自らを倒さなければ天国はないという矛盾したことになってしまう。自らを倒せば、自らは消えるから、天国は体験できない。天国がないなら、天国は語れないが、自らが消えて天国が実現するなら、始めから天国があることになる。魔釣りの神を消して天国が実現するなら、魔釣りがすべての世界ではなく、源の神を倒さずに天国を実現する道があることを示している。魔釣りの源を倒したいならば、源の上を行かなければならない。しかし、源の神はすべてを知っているから、自らを倒そうとする企みも知っている。真釣りの仕組みも同じことで、魔釣りの神をも生かす本当の源を倒せば、自らの命は永遠になくなる。真釣りを外し、思い違いをして自らを滅ぼしてあなたの命がなくなったとしても、真釣りの仕組みは成就して天国は実現するから、あなただけが天国にいないことになる。あなたが「罪悪感」を捨て去らない限り、魔釣りの正体は見えず、魔釣りの言いなりのままに真釣りを外し続けて、最後は、自らを自らで殺す末路に自らを導くことになる。
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魔釣りの源の神に気づかれずに、いや、気づかれても絶対に天国に戻れる方法が一つだけある。魔釣りの戒律に逆らうのでも、魔釣りの神を殺すのでもなく、魔釣りの戒律を越えた世界に移ってしまえばよいのである。魔釣りの戒律は元々何の力も持っていない。魔釣りの戒律に力を与えているのは、魔釣りの世をすべてだと思って、その世界から死ぬことを恐れている自分である。そういう生き様をしてきた集団が展開してきたのが、神話も含む人類の歴史であり、そのまま進めば、魔釣りの神もろ共、本当に人類滅亡が現実となる。実は、現代社会の源を知るということは、真釣りを思い出すことであり、魔釣りの神を倒しても天国はできないことに気づくことである。魔釣りの源を倒すのではなく、自ら内にあるアヤマ知、即ち、自らの囚われている魔釣りの響きをすべて消せば、元々持っていた真釣りの響きが復活し、魔釣りの支配の及ばない世界に移ることができる。その真釣りの響きを保ち続けていれば、必ずやって来る魔釣りの世の消滅と同時に、真釣りの天国に生き戻ることができる。真釣りに戻れば、魔釣りの神の戒律を素通りして、真釣りの掟に戻ることができる。真釣りの掟は生死時空を超えた絶対真理であり、この世でも生死の響きが消えるから、自らにとっては、恐れを使った魔釣りの脅しは全く意味をなさなくなる。つまり、真釣りの掟に戻れば魔釣りの掟は相対的戒律となり、自らに全く影響を及ぼさなくなるのである。真釣りの真コトに戻ることが、魔釣りの神を越える唯一の道なのである。

今の世でいう罪は罪ではない。罪そのものは実体ではなく、真コトを闇に葬った神が支配の道具として作った嘘に過ぎない。神が人を、人が人を罰する「裁き」という概念も幻である。罪悪感というのは、そういうものがあると信じている自らが作り出す幻想である。罪と罰の幻想に基づいたマボロシの世界が神から始まった人類の歴史であり、現代社会は、そのマボロシを究極まで実体化してしまった世界なのである。今となっては、自らが「被害」を受けて訴えないのは狂人であるかの如く、他人を裁くことに疑問を差し挟む余地はない世界となっている。神から主権を奪って民主主義を進めてきた現代社会にある逆さまの常識(宗教、科学、経済、道徳等)を信奉している限り、自らが自らの現実を創った神であるという自らの正体に気づけるはずもない。裁き合いの世界は永遠に止まることはなく、その究極の行動である戦争も永遠に終わることはない。そして、核兵器を握ることで、睨み合いをしたまま時が経ち、最後には、我慢の限界を超えて核のボタンを押す瞬間がくる。

心の葛藤が究極まで煮詰まれば、あなたの意思でその爆弾を止めることは絶対に出来ない。あなたが今自分だと思っている肉体は、命の器に過ぎず、今の世で学んだ「死の怖れ」は、嘘の響きが見せる幻である。形の世界は、心の世界の顕現であり、本当の実体は、心の世界にある。心が完全な暗闇であれば、それは即ち、あなたがすでに死んでいることを意味し、本当の真実=天地自然の掟が復活した瞬間、あなたは二度と生き返れない即死となる。自らの本体が、生死のない魂(霊)だと気づき、自らがすべての源であったことを認めない限り、死んでも苦しみから逃れることは出来ず、最後は自爆して果てる末路となる。現代社会は、逆さまの世界を究極まで形にした結果であることを覚えておくことである。これを否定するならば、それは、あなた自らが永遠の滅びを呼び込んだことに他ならない。あなたが自らの真釣り外しの責任をすべて引き受けない限り、あなたに救世主は来ない。
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結局は、罰という概念は、あなたが選択した価値観に従って自分の何かを×している自分が自分に課す自己審判である。社会を構成する全員がその幻を信奉していれば、形としての刑務所が現れる。形があるから実体なのではなく、実体だと思い込んでいる自分がそれを実体化したのである。万象万物は神である。言い換えれば、すべてが自分の世界であるから、その万象万物を使うことで、神自身が思った通りの世界を作れる。出来た世界は思いの顕現である。今持っている思い込みをすべてひっくり返さなければ、人類の永遠の夢である本当の天国は実現しない。本当の天国を自ら壊したことを忘れ、天国を作ろうとした末に現実となっているのが、現代社会という形の世界である。神も含めた支配者から大衆まで、全員が罹っている集団催眠、自らが自らに嵌めたマインドコントロールを外せるのは自分だけである。「すべて」は自業自得であり、自分の生死を決める神は自分である。

現代社会にある学校、刑務所、神社、お寺等々は、実は、自分がいる世界を自分の外に作り出したものである。現代社会にあるものは、現代社会のクローンであり、この世の姿そのものなのである。現代社会そのものが、真釣りに戻すための学校であり、刑務所であり、神社である。学校のすべての課程を修めれば卒業して社会に出る。刑期を終えれば、娑婆に出る。神になれば、神社はいらない。つまり、それらがある世界というのは、わからないことがある者の世界であり、自らの罪を償っていない者、自らが神であることを忘れた者の世界である。言い換えると、すべてを知る気がない身魂、神法違反の責任を押し付けあっている身魂、神に戻る気がない身魂の作り出す世界である。現代社会の仕組みを学び、現代社会でいう罪を償い、現代社会でのご利益を願っても意味はない。その中の学校で何を学ぼうと、刑務所で刑期を終えようと、神社で神に祈願しようと、本当の自由も平等も天国もできない。神法に違反して天国を壊した世界で作ったもので何をしようと本当の天国には帰れない。ますます、違反が進み、学校が乱れ、刑務所が意味をなさなくなり、神のご利益がなくなり、結局は、その世界は、混沌、混乱、混迷、問題だらけの世界になる。

『神が許しているから裁いてもよいのだ』というのは「許しているものを禁じる」という矛盾を封印して、自らの生き残りを図るために邪魔者を消す行為を続けるための詭弁である。この世で存在が許されているものを殺すという思想を持つ者、言い換えれば、犯罪者(悪人、この世でいう悪魔)を裁いている裁判官とそれに同調している者(善人、この世でいう神)がどんな運命を辿るのか(自らがいったい何をしているのか)をよく考えてみて欲しい。元つ真釣りの天国には、何の問題もないから、秩序しかない。秩序の維持という思想は、言うなれば、天地の掟を破った悪神が自らの支配する世の維持を図って大神を封じるための策略であり、その企みは絶対に成就しない。どんなに悪あがきをしようとも、悪神が創った世界は、必ず滅びる。真釣りという神法に違反したことがすべての問題を生み出した根源であり、問題は元々どこにも存在しない。つまり、「問題解決」という概念自体が幻想であり、源が魔釣りである以上は、問題が解決されることは絶対にありえない。
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現代社会でいう「問題」を「解決」するためには、問題を生み出した本当の原因を消去しなければならない。自らがその原因を持っていれば、問題の解決と同時に、自らが消去されることになる。今のままで社会をどう改革しようとも、新たな問題を産み続けた末に、自己崩壊の結末が待っているだけである。真釣り外しの世自体が悪であり、何の目的でそれを続けているのか、その世界の中で善と悪の潰しあいを続けても、全く意味がない。魔釣りのアヤマ知を捨て、自らの生き様を真釣りに戻さない限り、幻想の善と悪は共に滅ぶ。

民主政治は、自由の仮面を被った、リーダー不在の利己主義者集団の集団独裁統治である。構成員が奪い合いをしていなければ、集団も奪い合いにはならない。奪い合いをしていれば、社会は戦いになる。戦いの世界で自由を確保するには、支配権の奪い合いが必然となる。王政だろうが、民主制だろうが、根底にある思想は変わっていない。権力闘争の世界である限りは、どんな策をもってしても、全員が平和に暮らせる世界を創ることは不可能である。人類の歴史が始まって以来、為政者は、本気で平和な世を作ろうなどとは思っていない。もし、本当にそう思っているならば、権力闘争はしない。そもそも、魔釣りの世界自体が平和を壊した世界であるから、真剣に世界平和を訴えたとしても、それは実現しない。自らの大元の取り違いに気づかない限り、実現しない幻想を追いかけ続けるだけである。社会システムの裏に流れる思想を見れば、その社会の構成員の持っている思想がわかる。思想が変わらなければ、結果である社会は変わらない。社会は思想の顕現である。現代社会にある思想の根底にある大元の思想を引っ繰り返さなければ、言い換えると、魔釣りをそのままにして表面上の政治理念をどう変えようとも理想国家の現実はありえない。

集団という概念は、略奪の世界を効率よく操作するための道具であり、集団を統治するという思想は、戦いの響きを持つ個人の集まった社会を支配するための戦略である。その世界では、誰が指導者になろうと、支配者と被支配者の権力闘争である限り、絶対に平和な社会は実現できない。民主主義とは、民が政治家を操って、自らの思いを果たす、集団逆統治の仕組みである。政治家は民の顔色を伺いながら自らに利益のある民の勢力と手を組んで自らの理念を実現しようとし、民は投票という殺生与奪の権をちらつかせて政治家に自らの思惑を実現させようとする、相互依存、相互呪縛のシステムである。政治家は、国家権力を操れる分、優勢ではあるが、双方が相手に命を預けているから、どんな政治理念であろうと、どの政党が政権を取ろうと、政民どちらも永遠に自由にならない。その間で生き残りを図る官も結局は、政と民の動きに左右されるから、最後は、全員丸潰れである。
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個人の自由、権利と義務、民主化神話、男女平等の思想にどっぷりと漬かっている先進国の市民は、王制に戻ることを望まない。王政から民主制へと世を進めた末の現代社会の大衆は、過去の政治支配のトラウマから、過去の政治システムに戻ろうとはしない。民主化することが世界平和の最善策だと思い込まされているが、実際は、自らの存在の源である神から主権を奪い取ったに過ぎず、神を闇に葬っている大衆が主権者であると主張しても、平和などできるはずがない。民主主義は、最善のシステムなどではなく、世界支配の野望を成就するためのシナリオの最終段階に過ぎない。好き放題に振舞う大衆同士の争いを煽って混乱を作り出し、秩序を崩壊させることによって、自らを導いてくれるリーダーを大衆が要求するという形で、大衆の同意の上の独裁者による王政に戻すためのステップである。大衆自らが求めた独裁者は、大衆が選んだ独裁者であり、自ら選んだ限りは、従わない者は反逆者として処罰できる。相互依存の略奪の歴史の魔釣りによる政治システムは、民主主義によって秩序が崩壊し、それを収拾するためという名目で権利が奪われてアメとムチの支配が完成し、独裁政治の復活となる。そして、王制、王政、神政の復活へと進み、最終的には、魔釣りの最高神が世を支配する神の世界へと戻る。聖書の世界が現実となる。

自衛隊のイラク派遣ではないが、『戦争を避け続けた末に、戦争に参加させられる』という力学に基づいてこの世は動いている。天地自然の掟を破って、自らが世界を支配しようと企む神とその手下の作った世界で、あなたが自らの生き残りを図っているならば、必ず天地自然の掟を破った責任を取る時が来る。これは、あなたがどんな策をもってしても、避けることは出来ない。もし、それをしようとするならば、あなたは自らで永遠の命を捨てる道を選択したことになる。あなたが天地自然の掟を破った世界に同意している限り、最悪の結末から逃げることは絶対にできない。天地自然の掟を破ったあなたが天国に永住することは許されない。自然の掟に反した者は、神、人を問わず、自然淘汰となる。これは創造の法則であり、そこから逃れることは神にすらできない。できると思うならば、それは、掟を破っている証であり、この自己矛盾、禅問答から抜けるには、掟破りを認めて、その責任を取るしか方法はない。自らの世界を自由自在に操れない限り、あなたの意思が及ばない状況になる時が来る。自らの望まない世界を封印し続けても、結局は、自らの知らないうちに最も避けたい世界に入り込んでしまうことになるのである。創造の法則は、生死時空を超えて働いている。従って、例え何度生まれ変わろうとも、自らの責任を取らない限り、その世界から抜け出すことはできない。自ら作った現実である限り、今世に存在するどんな高等な詭弁を持ち出して現実を誤魔化そうとも、必ず、矛盾に直面する時が来る。あなたが避けている現実は、あなたが掟を破り続けた結果であり、自らが自覚して、自らの矛盾を認めない限り、最も恐ろしい現実を体験することは避けられないのである。
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魔釣りの最高神の支配の完了というのは、元つ真釣りを外した「情けと花の仕組み」の世から見た真釣りの大神の神代に戻す仕組みの映しである。言うなれば、真コト真釣りの神代の光が一段落ちた(次元を一つ落とした)、真コトの一厘を見失った神の世界での天国復活の仕組みの話である。従って、光を一段上げれば、魔釣りの最高神の考えている世界は、すべてが無に帰す。しかし、真釣りの真コトの一厘を知らない魔釣りの最高神は、自らがすべてを知っている創造主であり、自らの知力で何でもできると思い込んでいる。自らの支配が完了した瞬間に魔釣りの世が消えることを知らずに、自らが支配する天国が絶対に成就すると信じ込んで、旧約聖書で言う「天地創造」から今の今まで何千年もの間、神を使い、人を使い、成就することはないその世界を完成させることを夢見て、幻に終わる世を進めてきたのである。神道も含めて、現代社会にあるすべての宗教の源流は、この神まで遡る。当然のことながら、この最高神と血統を同じくする神々やその手下である神々、その神々を信奉する人間、つまりは、現代社会に存在するすべての宗教と、その神々が根底にある科学で作った物質文明は、この神と同じ世界にいることになる。現代社会は、神から人まで、すべてが、この「最高神」の目指す世の現実に貢献している社会なのである。

現代文明は、西洋文明がその源であり、その西洋文明の基にあるのが、キリスト教である。キリスト教は、ユダヤ教が基にあり、ユダヤ教はヤハウェ(エホバ)をその最高神とする。イスラムの最高神は、唯一絶対神のアッラーである。この三宗教は、アブラハムを共通の祖先とする兄弟宗教であり、その聖地は、すべてエルサレムにある。嘆きの壁、岩のドーム、聖墳墓教会がそれであり、キリスト教はイエスという取り次ぎの語る言葉を通しての天の父と精霊と子の三位一体信仰であるが、ユダヤ教とイスラムは、唯一神を信奉する宗教である。一神教とは、自らの神を絶対とし、自らの神以外は認めない、という思想であるから、形の上では「共存」することはできるが、それぞれの神が「絶対神」である限り、神を一つにすることはできない。自らの神を認めさせたいが、相手の神は認められないという矛盾を解消したら、一神教は成立たなくなる。一神教同士が対立し、「相容れない」三つの宗教が一つの場所を聖地としている世界では、どんな手立てをもってしても、人間の世界で平和を実現することはできない。エルサレムの聖地主権争いは、世界の縮図でもある。一神教同士が和解しない限り、世界は一つになることはないが、実際のところ、それは、できない相談である。一神教同士が、自らの絶対神を産んだ本当の絶対神、すべての一神教の神を産んだ親神、一神教の源の唯一神を認めなければ、一神教の対立は解消しない。宗教的対立をそのままにして、人間同士が話し合いをしても、自らの主張を譲らないから、議論は物別れに終り、戦争という実力行使をしても、永遠に報復が続くだけである。

議論も戦争も、その顕現の源は同じであり、言葉を使うか、軍事兵器を使うかの違いに過ぎない。言論殺人をするか、肉体殺人をするか、の違いであり、それは、どちらも同じ動機に基づいた行動である。一神教の信奉者は、その絶対神と同じ思想を持つ。自らを絶対だと思い込んでいるなら、それは、一神教の信者の証である。お互いに自分が世界で一番になりたい蛇同士の睨み合いの世界は、結局は、共食いを経て、刺し違いで戦いは終わる。一神教同士の戦が終わった後に残った世界(本当の天国)こそ、本当の唯一神の世界である。
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一神教では、すべては、神の命ずる通りの行動をすることが善であり、神の思想に従った文化を形成していく。八百万の神々の日本は、一神教の思想の理解は難しいと言われるが、戦前の天皇主権の下で実行された「神風特攻隊」の精神は、皇国のために命を捨てる精神の極致であり、現在の自爆テロの思想そのものである。太平洋戦争の際、全滅を玉砕と言ったが、それは、玉(魂)を砕く、と言う意味である。神道や天皇を軍事政権と軍部が利用したことは事実であるが、精神論で国がまとまるのは、日本人の根底に神がいるからである。科学と経済一辺倒の思考が加速したのは、戦後教育がもたらした結果であり、魔釣りの世界だとはいえ、戦前は、まだ「神を敬う心」「宗教心」が残っていたのである。現在ならば、神ではなく、金で誘導すれば、国民は簡単に右から左に動くことになる。神の力よりも、金の魔力に惹きつけられてしまうのが、現代社会の日本人である。神道は、八百万、つまり、万象万物に神を見るが、その万象万物の産みの親神を信奉する一神教である。

イスラエルとパレスチナの報復合戦の正体は、ユダヤとイスラムの神の聖戦である。そして、イラク戦争は、キリスト(十字軍)とイスラムの聖戦である。現代社会にある、その他の解決されない国際社会のルーツはすべて神の争いに行き着く。神から始まった世界の根底には、神が居続けるのが当然である。民主主義のリーダーである米国の大統領は、就任式で聖書に手を置いて宣誓し、演説の最後には必ず、『アメリカに神の祝福を』と言う。神と人、神の世と人の世は、一体不可分である。国教を封印した現代日本は、民主主義を形だけ輸入し、政治に宗教を絡めるのをタブーとし、公立学校では宗教そのものには触れない。日常から神を追い出した現代の日本の大部分の国民は、神を中心に生活する国の文化を理解することはできない。知識として教えることはできるが、神と一体化した生活の実感そのものは教えることはできない。現代日本は、国際問題を人間の世界の話だと思っている。しかし、人と人、国と国の争いの源は、神と神の争いであり、すべての対立の根底には、宗教があるのである。もし、神話が本当にただの物語であり、神などいないとすれば、人が自らで自らを産んだことになってしまう。神の存在は認めても、それが日常に影響を及ぼさない知識の範疇を出ないならば、現代社会の正体を知ることは難しい。神同士の争いが根底に存在する国際紛争を人間同士で解決することは出来ない。元々は、人間の思想自体が神の思想であり、神と神の対立を収拾しない限り、問題は何も解決しない。『人間の思想は神の思想である』ということ自体を認めないのが現代の日本人の思想であり、神(宗教)の本当の力、本当の恐ろしさを最もわからないのが、神を消した神の国である。
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歴史を通じて中東に関わってきた米国も英国もキリスト教がその根底にあり、さらに石油利権や民主化、民族紛争、軍事的戦略等の経済的、政治的、民族(文化)的、軍事的な要因が複雑に絡んで、紛争の解決を余計に難しくしている。この問題が解決することは、即、世界平和の実現となるが、それは一筋縄ではいかない。現代社会の国際問題の根底には、言わば、天地創造以来の怨念とトラウマが尾を引いており、何千年にも渡る神と神との主権争奪戦の究極の現象化の側面があるため、政治的、軍事的、科学的アプローチだけではその解決は不可能である。戦いの根源を自覚しなければ、報復合戦がエスカレートするだけで、和平どころか、人類滅亡の現実を自ら引き寄せてしまう。本当の天国は真釣りの世であり、本当の平和は真釣りでしか実現しない。人類の歴史は、真釣り外した身魂を真釣りに戻す「情けと花の仕組み」の中にあるから、今の逆さまのやり方で何を試みようとも天国の実現は絶対にありえない。真釣りを外した逆さまの世である限り、その結末に待っているのは滅びのみである。真釣りに戻した世界、言い換えれば、魔釣りをすべて捨てた世界が本当の天国である。真釣りを闇に葬った魔釣りの世から見た闇の世界、それが、一厘の真コトの天国、ミロクの世である。今の世界のやり方では、国連がどんなに尽力しようとも、今の世にある宗教のいかなる神に縋ろうとも、世界平和は永遠の幻なのである。

三大宗教のうち成立が最も新しいイスラムは、コーランを教典とし、ムハンマドを最後の預言者とするが、旧約聖書と新約聖書、即ち、ユダヤとキリストの両宗教の預言者も認めている。ただ、イスラムの信者にとっては、あくまでも、ムハンマドは神の取次ぎであり、信者はアッラーを直に信奉しているから、いざ戦いとなれば、その一体感、団結心はキリスト教よりも強い。十字軍と言えば、世界史上の出来事であるが、歴史的な背景から、イスラム勢力とキリスト教勢力(十字軍)との宗教戦争は、形を変えて、民主社会と言われる現在でも続いていることは周知の通りである。宗教の思想や歴史を抜きにしては、世界史の本質は見えないのである。特に、イスラムの偶像崇拝を禁止の教えは、解釈によっては、現代社会における宗教対立を加速させる要因にもなっており、バーミヤンの石仏の破壊は、その象徴である。それは、相手側にとっては、自らの神(仏)の冒涜と映り、火に油を注いで報復合戦が激化する。戦前の日本がよい例であるが、宗教というのは、その解釈次第でどうにでも利用することができる。日本の神道は、偶像崇拝はしないが、鏡と勾玉と剣が三種の神器として祀られている。実際には、この神器は、一つの響きが形として別の現れとなったものであるが、バラバラの形だと見れば、神道の本質を見ることはできない。神社の本殿には鏡が安置されているが、これは、降臨の際に天照大神が自分の形代として託した神鏡がその根拠である。鏡は自らの姿を映す。日本人は、神様に参拝していると思い込んでいるが、その意味は、『自らの姿を省みなさい』という神託と同じである。今の自らの生き様も、ものの見方を根底から見直さない限り、自ら滅びを呼び込んでしまう。

現代社会は、分裂の響きが形になった極致である。宗教同士の対立に加えて、各宗教内でも分派や派閥の争いがあり、世界統一は一筋縄ではいかない。ギリシャ正教、ロシア正教、英国国教会等の各宗教の分派も含めて、カトリックとプロテスタントが対立するキリスト教とイスラムを中心とする外国(西洋)の宗教は、三大宗教のいずれかに分類される。従って、現代社会のすべての局面において、その宗教の本質である神と悪魔、正義と悪の二極対立の構図が現れることになる。科学というのも、形の現われの解釈という手法で、神が源である物質世界を語る宗教であり、共産主義や社会主義も、あえて言えば、神を認めない神の思想である唯物論にその基礎を置いた宗教と言える。結局は、すべての宗教と科学を突き詰めれば、最後には「神の領域」に踏み込むことになり、神についての議論となる。人類の歴史は、表面上は膨大な出来事が積み重なっているが、その根底にある「人類の歴史を進めた力学」は、天地創世から現代社会まで一切変わっていないのである。
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東洋を見れば、曼茶羅の中心に座す大日如来を宇宙創造仏とする仏教は、ブラフマンを宇宙創造の源とするヒンズーの流れを汲む。アメノミナカヌシを宇宙創造主とする今の日本神道も結局は、天照大神を最高神とする一神教である。その他、各民族の土着の宗教も、それぞれの最高神を祀る一神教である。自然崇拝等の多神教であっても、自然や神々を産み出した源の力を神とする一神教と言えるから、結局は、人類の歴史を通した争いは、一神教の神同士の争いに帰結する。一神教の神同士が争うという矛盾を解決するためには、それぞれの唯一神を束ねる唯一神の登場が必要であるが、しかし、実際は、その唯一神もまた、唯一神ではないのである。そしてもし、世界をすべて束ねる唯一神の存在を認めると、それは、今まで世界を牛耳ってきた勢力にとっては、自らの作ってきた世界を一瞬のうちに闇に葬ってしまう、自らが信仰する神と自ら自身の存亡に関わる危険思想となり、現代社会のすべての営みが成り立たなくなるという現実を突きつけられる事態に直面する。これは、一人一人にとっても、自らの拠り所をすべて失う一大事であり、本当の唯一神が現われたとなれば、今の自分の存亡だけを目的に、たとえ本物であったとしても闇に葬る必要があると考える。それが自らの命の源を抹殺することになる愚かな行為とも知らずに。

本当の宇宙創造神とは一体どんな存在なのか。その答えは、日本にある。日本独自のものとして、宗教学では神社神道と区別されて新興宗教である教派神道として扱われるが、元つ真釣りの立て替え立て直しを知らせる金光、黒住、天理(おふでさき)、大本(大本神論)、日月神示、火水伝文の一連の流れの「神示」がある。これらは、世界をすべて束ねる元つ大神が取次ぎ者を通して時代に合わせて降ろした、神の世界の真実を語った言葉を書き記したものであり、言わば、科学も含めたすべての宗教を統合する教典、西洋風に言えば天地創造神の預言書である。神が語っている形なので、宗教に分類されるが、正確には宗教でも神道でもなく、神話も含めた人類の歴史の裏の裏に封印された、現代社会の本当の姿、本当の天国の正体を明かし、一人一人の生き様を振り返り、本当の世界平和をもたらす術を語る文献である。しかし、既存の宗教の経典とは赴きを異にした表現と現実社会の存亡に直接影響する内容を持っており、時の政府にとっては、宗教の経典というより、どちらかと言えば、実行可能な思想書だと見える。従って、近現代社会にとっては、特に、日本の政府当局にとっては、今までの歴史のすべてを否定し、現実の社会を破壊する恐れのある危険思想として映るため、大本教の弾圧に象徴されるように、あらゆる手段を使って闇に葬られてきた歴史がある。真釣りの響きは、魔釣りの勢力にとって破壊思想なのである。このことをしっかり自覚して、くれぐれも、今までと同じ轍を踏まないようにして欲しい。
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これらの神示は、読む者の心の曇り具合、持っている響きによって、何通りにも読む(解釈する)ことができるため、独自教団を作り、あるいは、外国の宗教を取り込んで、宗教化することもできる。その場合は、教祖本人は元つ大神の取次ぎをしていると思い込んでいて、九分九厘までは真釣りを知らせる教義に見えるが、一厘の差で既存の神道や科学と同じ世界に戻ってしまう結果になる。しかし、これらの神示すべてを貫いている大神の真意はただ一つである。どの神示も、沢山の例え話を交えて手を変え品を変え語られているが、それは一つの真理を伝えるための方便に過ぎない。何度読み返そうとも、それが取れなければ、既存の宗教の経典や、哲学書と同じになってしまう。神示の中の言葉に囚われたり、一部分だけを都合よく使ったりすれば、意味がなくなる。この本は、これらの神示もすべて統合した上で、現代社会の日本人に分かる形で、世界の立て直しの天命を担う神民である日本人に向けて書かれた21世紀版神示である。ただし、本当の日本の神の道ではあるが、その真意を取り違えれば、魔釣りから抜けられないどころか、真釣りをしている積りでも、実際には、魔釣りを進める手助けをしてしまうことになるから、細心の注意が必要である。本当に正直に自らの生き様を省みなければ既存の宗教と何ら変わらなくなり、元つ真釣りのミロクではなく、魔釣りのミヨク(滅び)を進めてしまうことにもなりえることを覚えておいて欲しい。どんなに些細な誤魔化しでも、それは、自らに滅びの道を呼び込んでしまう結果になる。本当の神響きというのは、いい加減な誤魔化しは通用せず、その結果は、鏡のように、ありやかに自らに戻ってくる。今までのようないい加減な「信仰」ではミロクは幻となる。真意を取れるかどうかは、あなた自身にかかっている。本当に素直に自らのマ違いを認めること、100%の口心行を貫くことがその極意である。

聖書で言う「サタン(悪魔というのは、元々は、天の掟を破って地に落ちた神である)」の陰謀とそれを終わらせる「千年王国を創る神(ヤハウェ)」の戦いは、魔釣りの知恵の神と真釣りの真コトの神の戦いの映しである。光を一つ落とした「情けと花の仕組み」、つまり、ヤハウェの掟を真釣りの大神、サタンを魔釣りの蛇の知恵の神、と置き換えれば、まさに元つ天地の真釣りの大神の大掃除と同じ話である。ヤハウェとサタンを産んだ神(大きなサタン)が知恵の神であり、魔釣りの神である。その知恵の神を産んだ元つ大神が大きなヤハウェであり、真釣りの神である。真釣りの元つ大神がヤハウェであり、魔釣りの知恵の神がサタンと置き換えれば、本当の天地創造と人類滅亡の真実が見える。つまりは、聖書の「千年王国」自体がまだサタンの世であり、千年王国の千年王国があるということである。聖書のヤハウェの作る千年王国は実はサタンの世であり、現代社会はサタンの中のサタンの戦い、悪と悪の共食いの世である。悪を使って悪を祓う仕組みは、その通りであるが、その仕組みを使って悪を祓う神も獣だったのである。つまり、獣が獣を使って悪を祓う世界の神ヤハウェの正体は、獣の王なのである。そして、獣の世を終わらせる獣の王ヤハウェこそ本当のサタンであり、そのサタン(つまりは、蛇の知恵の神)を使って、悪を払って本当の千年王国、ミロク(三六九)の世を創るのが、創造神ヤハウェとたとえた本当の神であり、すべての罪を負わさせられた正神真神のカムスサナルノオオカミ様である。日本の国土をご神体とするヒノモトの国祖はクニトコタチノオオカミ様であり、カムヤマトイワレヒコノミコトが本当の神武天皇である。そして、すべての仕組みを産み産んだのが、ナギ、ナミ様を始めとする元つ天の大神様なのである。一つ上の次元から見れば、ヤハウェはサタンである。ヤハウェというサタンがサタンというサタンを使って天地をマ釣り戻す仕組みを作り、それを成就しようと仕組まれたカラクリがイシヤの仕組みなのである。それを実際に進めてきたのは、秘密結社の頂点に立つ十人の王の円卓会議である。現代社会のすべての国家政策のシナリオは、影の黒幕の合議で決まり、その黒幕の指示に基づいて、各国と国連が政策を立案し、世界統一の計画が実行されているのである。大衆がアレコレと不平不満を言っても、社会変革の運動をしても、すべては茶番に終わる。何も変わらないどころか、最後は虫けらの如く葬り去られてしまうだけである。世論というのは、操作の道具に過ぎず、大衆が社会を変えようなどと思っても、世界のカラクリ上、それは絶対に不可能である。しかし、この世を統べる影の黒幕も、サタンの手下であり、そのサタンもヤハウェの世界征服の使い走りである。一般大衆から見たら、とんでもなく荒唐無稽な話であるが、これがこの世を動かしてきた裏の裏の水面下のカラクリなのである。
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大衆も政府も国連もサタンもヤハウェも、どう足掻いても抹殺できないのが元つ大神であり、元つ大神を抹殺しようという響きは、自らを破滅させる響きである。元つ大神の真釣りの響きは天地自然の掟であり、それは、万古末代消えることはない。そして、元つ大神の真釣り世に戻す世の大掃除の計画は、誰が何を企もうとも動かない。つまり、今の世でいう天地創造神から一般大衆まで、元つ大神の真釣りに戻らない限り、戻らない者だけが滅ぶのである。真釣りをこの世に現す役のヒノモトが目を覚まさなければ、世界の破滅である。そのゆえに、最後の最後にヒノモトの民を覚醒させるためにこの本が書かれたのである。ライオンハートの首相ではないが、眠れる獅子が蘇った時、世界は天国に戻る道に帰る。日本人が現代社会で一番神の世界を知らない人種であり、蛇の知の神の世界で国力を誇示し、金と口と手を出して自らの真釣り外しが産んだ貧困国の援助に精を出し、弱肉強食の国際社会で平和憲法を盾に国際貢献に勤しむということは、神仕組みから言ってとんでもなく恥ずかしいことなのである。真釣りを知る唯一の国、世界の父親の元つ親国が、自由、平等、博愛、民主主義、金融経済、IT国家、人類は一家兄弟姉妹、友好親善云々の、アヤマ知の国際社会で『名誉ある地位を占めたい』とはなんとも情けないことである。
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日本が親で外国は子である。世界の真中、父親であるヒノモトが真釣りを忘れれば、子である世界が滅ぶのが元つ神仕組みである。親が子に迎合して、親子がお友達になって、子の好き放題に世を進めることを手伝った日本の「罪」は重い。現代社会の中の親子関係も同じであり、日本の国内問題も同じカラクリで作られたものである。日本(スメラ)が父親の自覚を取り戻し、母親のユダヤ(アタマの勢力)が父親を尊敬するようになれば、子(外国)は、不良になることはない。世界を下から支える父親である日本が、子に苦労を押付けて(支えさせて)楽をしていては、世の破滅である。父親不在の母子家庭では、どんなに頑張っても、安定も安心も平和も自由もない。父親が仕事をサボって、母親におんぶして、子どもと一緒になって大将争いをしているようでは、真コトの教育を受けていない子どもたちが好き放題に世を進めるのは必然である。いつまでもイシヤの仕組みに騙されていないで、シャキッと目を覚まして欲しい。神の仕組みのイロハ(本当の天国を創る元つ真釣りの世の掟と、その世で果たすべき「父親」の役割、真釣り世の家族安泰の仕組み)から赤子に戻って勉強し直すことが父親としての責を果たす第一歩である。本当の真実を思い出し、真釣りの真コトを磨いて、世界の父親であることをしっかりと自覚して天命に戻って欲しいものである。それが、現代社会のすべての問題を解決する唯一の方策である。原因を直せば、結果が治る。現代社会のすべての問題の根源は、ヒノモトが真釣りを外した(身欲、快欲に囚われた)ことに行き着く。ヒノモトの目覚めが世界の目覚めである。

ヤハウェが自らの世と言っているのが元つミロクにあたり、サタンの世が魔釣りの666である。ヤハウェがサタンならば、今世は666の中の666である。その大きな666を三六九にするのが元つ大神なのである。このカラクリは、東洋文明を研究しても、西洋文明を研究しても、神話を魔釣りの目で読み解いても、人類史のどこを探しても、見つけることは出来ない。西洋文明を崇拝している限り、真釣りの真コトは見えない。宗教と科学、神と金の世界、それは、創世期のエデンの園から始まった。世を支配したいサタンは神の仮面を被り、身欲を煽り、金と科学で天国を創ろうとしている。サタンが現代社会の善、天使、正しさの基準を決める。それが本当の悪であり、その悪を潰すのが、闇に封じられたヤハウェの神である。そのサタンの陰謀(世界征服の陰謀)の中の正義と悪の戦いがお金と科学を基にした現代社会であるから、破滅をカモフラージュした進歩という仮面に魅せられるならば、それは、あなたの破滅を意味する。一般社会が問題にしている悪は、現代社会というサタンの統べる悪の世でのそのまた悪の話であって、物質の世界と精神の世界を混同している。サタンを含めた今世のすべての宗教の神は、魔釣りの蛇の知恵の最高神がその源であり、善神も悪神も、知恵の神の登場で滅びる。獣を使って獣を潰す穢れを祓う仕組みである。しかし、知恵の神も獣であり、もう一つ上に同じ仕組みが被さっている。悪を使って悪を祓う本当の仕組みを統べる元つ真釣りの大神が本当の天国を創る本当の「天地創造の神」である。一つ大きな仕組みでは、魔釣りの蛇の知恵の神ヤハウェは、獣の王サタンに変わる。ハルマゲドンの正体は、本当の天国に戻す本当の神の最終決戦、魔釣りで魔釣りを立て替えて真釣りで魔釣りを立て直す、情けと花の仕組みの成就である。
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『我以外を神としてはならない』と言えるのは、本当のαでありωである元つ真釣りの大神だけであり、元つ大神を闇に葬った神の世界のその神も葬った人類の歴史の末路が現代社会である。あなたがその神を信奉するならば、その神が『自らの真中の真コトを磨き出せ』と言ったら、あなたはあなたの中のその神を捨てなければならない。従って、『すべてはあなたの中にある』と言うキリストを本当に信じるならば、キリスト教は成り立たないはずである。それが存在するとするならば、キリストそのものを信じているだけであって、キリストが何を言ったのかを全く聴いていないことになる。この本を批判したり、この本に縋ったりするのも同じことで、これはすべての宗教、学問にあてはまる。自分が自分を信奉し切って、初めて、本当の神の響き、大神の真意が分かるのである。すべての神を捨てたらすべての神が分かる。究極の真理であり、究極の難問、史上最大のパラドックスである。これを、生きている間も死んだ後も、すべての時間、すべての場所で実行し続けて初めて、現実として本当の天国を体験できる。分かっただけではまだ半分、分かったことを行じなければ、何もしていない(真釣りか魔釣りか二つに一つの道しかないから、つまり、魔釣り=滅びを進める)のと同じなのである。この本は、著者自身がこれを完全に実行した結果として書かれたものであり、真釣りが存在する証拠は今あなたの目の前にある。

著者の今生の御用は、ヒノモトに残る一厘の真コトをヒノモトの神民に伝えることである。この本を書いたことで、人類の歴史の裏の裏に封印された真実と、魔釣りのアヤマ知で作られた現代社会のカラクリを明かし、真釣りの存在を知らせるという責任は果たした。後は、あなたがこの本に書かれた事実を認めるかどうかの問題となり、それは、著者の関知するところではない。あなたは、滅びるまで反論(拒否)し続けることもできる。しかし、あなたがこの著者に反論するならば、あなたは「すべて」をわかっていないことになり、この本が書かれた真意を全く聴こうとしていないことになる。元つ大神の三歳苦難の祓い清めというのは、形の顕現の源である響きの大掃除であるから、形の世界だけ、アタマの知識だけ、形のお祈りだけ、形の掃除洗濯だけ、では天国どころか、逆に、滅びを呼び込むことになる。あなたがこの本に書かれた事実をどう扱うかで、あなたの永遠の生死が決まる。

神のシナリオを完全に封印してしまった大衆は、科学と経済の世界にどっぷりと漬かっているから、聖書が語る世界や古事記の語る世界をただの神話(絵空事)だと言う。しかし、その思い自体が、敬神を壊すために陰の黒幕によって植え付けられたアヤマ知であることを知らず、民主主義が平和をもたらすと本気で思い込んでいる。人類の歴史が神から始まったがゆえに、大衆から神を取り上げてしまえば、世界征服の陰謀にすら気づかなくなる。俗に言う「未開民族」の土着の宗教も蛇の知恵の神の中である。その未開民族を侵略し、土着宗教をキリスト教やイスラム、一党独裁の共産主義、社会主義、民主主義に換えていったのが、西洋からみた人類史である。人類の歴史が神から始まったという事実を否定したら、お金で天国を創れる、科学ですべてがわかる、現代人が神の世を作れる、ということになる。百歩譲って、現代社会の宗教の神が天国を創れるということになる。歴史を辿ってみればわかるが、現代日本ほど、日常から神が消えてしまった社会はない。形では祭りや神事や宗教行事をしているが、その意味や精神はわからなくなり、結局は、お金の話に帰結する。神社やお寺、教会、宗教団体すらお金が無ければ運営できなくなってしまっている。宗教から日常まで、お金の話のオンパレードの日本が、元つ真釣りの大神の真釣り戻しの父親の役を担っているとは、考えてみれば、末恐ろしいとんでもない状況まで落ちたものである。世界史から宗教戦争を排除したら真実は見えない。現代日本がどんな社会になっているかを見れば、今の日本国の行く末がどうなるかは火を見るよりも明らかである。これをまた『荒唐無稽だ』と言うその癖を封印しなければ、あなたは確実に破滅に向かう。それでもよいならそれで構わない。あなたがどうなろうと、ミロクは甦る。あなたにはそれを邪魔することはできない。真釣り戻ればあなたは天国、邪魔するほど滅びに向かって、最後は、あなたは天国にはいないからである。神がなければ何もないのである。
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魔釣りの最高神は、真釣りの神代に戻れば真神となる。真釣り外しの清算をさせるために大神が産み生んだ、元々は正神真神の霊統の神だからである。ご自身の誕生と引き換えに真コトを見失ったゆえに、今は自らを最高神と思い込んでいるだけのことであり、最後は真釣り外しの清算の手伝いをしていた手下の魔釣りの神々と共に真神に戻る。従って、三千世界の真釣り戻しが完了した時、真釣りを外した魔釣りの世は終りを迎え、魔釣りに囚われた者だけが滅びる。現代社会は、真釣りの情けと花の仕組みを取り違えた、真コトの一厘を見失った魔釣りの神が仕組んだ、獣を使って獣を祓う、悪を使って悪を祓う、金を使って金を払う、偽の天国(滅び)に向かっている立替えの仕組みの世の末である。今のあなたが信仰している神の神、あなたの源は魔釣りの神に繋がっている。あなたが立て直しをせず、今のままの生き様を続けるならば、あなたにだけはミロク代はないことを覚えておくことである。今の世で鬼門に封じられている、ミロクを復する尊きご苦労の御役のカムスサナルノオオカミ様が真コトの王の王の王と神響きで顕現する時、魔釣りの最高神(蛇の知恵の神)は真神に戻る。万古末代弥栄える「本当の天国」が復活する瞬間である。

独裁者とは、本来、自分で自分のことを裁量できる者のことをいう。権力争いの世界の独裁政治は、独裁者が自らを神の如く思い込んだ瞬間に崩壊の道を辿る。しかし、独裁そのものが悪というわけではない。全員が独裁できる社会は、法権力による統治は必要なく、独裁政治をしても社会は平穏に推移する。誰が中心に座っても、その社会には問題は一切生じない。誰かが誰かを支配する、誰かが誰かに依存する、という形は、本来はありえない。法律がなければ社会が乱れるならば、その社会は、外圧がなければ好き放題をして混乱する社会である。自由を求めるが、自由の責任は取りたくない者たちの創る世界である。相互依存と報復の世界では、どんな政治をしようとも、本当の自由社会の実現はできない。
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魔釣りの社会は、根底に分裂の響きを持っている。従って、各自が好き放題に振舞うと社会は無秩序な状態となる。そこで、社会の秩序維持を名目に、法律という、アメとムチを使う外圧が考え出され、さらに、その神(法律)の力を維持するシステムとして、法律を神とし、その神(法律)の力を後ろ盾にした国家機関、即ち、警察(軍隊)という治安管理機構と裁判所という処罰仲裁機構が創られる。当然、警察(軍隊)や裁判所自体の秩序維持機構も不可欠となる。しかし、魔釣りの世界は真釣りに違反した世界であり、大元が魔釣りである集団が秩序の維持しようとしても、その社会の実体が略奪の支配合戦である限り、いずれ、秩序は崩壊することになる。本来の真釣りの世界は、秩序そのものの世界であり、秩序を維持する必要は全くない。従って、法律も警察も軍隊も存在意義はない。

真釣りの世界には、魔釣りの者は存在することはできず、本来は、アメとムチによる支配はありえない。しかし、真釣りを外し、自ら産み出せなくなった者は、有限の略奪の世界で自らの天国を求めて快欲を追いかけるから、魔釣りの世界の中では、アメとムチの思想を使って社会システムを創り出して、大衆を操作することができる。真釣りどころか、魔釣りの為政者の企みすら知らない大衆を、宗教と科学を使ってアヤマ知を植え付けて魔釣りの世界に封じ込め、ウソの世界を真コトの世界と思わせて、進歩発展の名の下に世を進めれば、世界を支配することは容易である。実体である真釣りの世界を実体のない空想の世界の如く思っていれば、実体があると思い込んでいる魔釣りの世界にどっぷりと嵌まり込み、自らの命の基であるその世界を維持しようと自ら画策し続ける。しかし、魔釣りの世界は蜃気楼のようなものであり、実体としては存在しない世界である。形が壊れても心は残り、この世が壊れてもあの世は残る。思いが先か、形が先か、思って動くのか、動いて思うのか、エネルギーが物質を作るのか、物質がエネルギーを作るのか、神が人を生むのか、人が神を産むのか、どちらがどちらを産み出す源かは明白である。魔釣りの世界におけるアヤマ知のやり方で治安維持をするというシナリオは、魔釣りの世界だけに存在する幻想である。魔釣りの世界から見れば実体があるように見えるが、秩序維持という思想自体がマヤカシであり、真釣りの世界に戻れば、治安を乱した者もそれを取り締まる者も、その機関も、魔釣りの世界とともに幻の如く消えてしまうから、「治安」は回復してしまう。神から人まですべてが真釣りを外し、魔釣りに囚われたことが、すべての混乱の始まりであり、秩序を乱したそれぞれが自らの真釣り外しを清算しない限り、秩序は回復しない。

すべては自分の思った通りに形になる。自分が「死」を思えば、死のある現実を体験する。死をもたらすものと、死を避けるものが形になる。生を奪う者と、生をもたらすものが目の前に現われる。悪魔や天使と言われるものが思いに現われ、形になる。肉眼で見ていると思っているものが、実際は、肉眼で見ていないこともある。肉眼で見ている積もりでも、見ているのは重なっている別の世界なのである。幻覚、幻聴という現象は、今の世では異常扱いされているが、それを体験した本人にとっては、本当に聴いたり見たりしている現実である。魔釣りの世は幻であるから、その世界で見たもの、聴いたことも、幻覚、幻聴であるといえる。形そのものが現実ではなく『形をどうみるか』という思いが現実である。肉眼で見える世界も、その実体は、見ているのは形そのものではなく、自分の心の世界の映像である。正確に言えば、想像の世界の空想も夢も幻想も現実であり、形ある世界だけが現実なのではない。幻覚、幻聴を異常視する者こそが、真実が見えていない者である。
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すべての物事を、自分が解釈できる範囲に下ろして理屈をつけ、勝手に納得する。その理屈の世界では説明がついても、範囲を広げれば、それは、枠の中の解釈となる。ある世界で成り立つことが別の世界では成り立たない無理がある説明になる。矛盾が見えても、理屈をこねくり回してその矛盾を隠す。自分が矛盾していることを指摘されると否定する。すべてを説明できる者は、何も否定しない。否定する者は、否定することで、自分が説明できないことを誤魔化しているだけである。確かに、「その世界では」言っていることは、すべて真実である。ただし、「その世界の枠の中では」という条件付きである。より大きな枠に出れば、それは相対的な真実となる。その世界では誤魔化せると思っているが、その上位の世界では、誤魔化しは効かない。神はいるかいないか。神はいるともいないとも言える。神はいるがいない。神はいないがいる。これらが何も違わないことが、何も引っかからずに納得できたとき、神は消える。しかし、神は消えない。自分が神になるが神は自分ではない。混乱する、わからない、苦しい、ありえない、と感じる間は、統合はできていない。すべての表現に何も引っかからなくなった状態が、すべてがわかった状態である。映像、言葉、文字は、響き(振動)の表現であるから、不協和音を聞いているような状態ならば、形だけしか見ていない。神と悪魔が同じ響きであることに嫌悪感を持ったり、否定したりするならば、あなたは分裂の響きを持っている。元の響きを分裂させる作用をしている。過去と未来、光と闇、前と後を別のものと見ているのはあなたである。別のものと見ているあなたがその見方をやめない限り、あなたには本当のやすらぎはやって来ない。

風が強い原因は低気圧である、と言う。そこで納得する者もいる。では、なぜ低気圧だとそうなるのか。科学的な解説をする。では、なぜ、そういう仕組みなのか。自然の神秘だ、と言う。では、自然の神秘はなぜあるのか。突き詰めていけば、最後は、万象万物を無から創った力、つまり、元つ大神を認めない限り、謎は解けない。大神の響きが無ければ何も存在しない。資源、天恵がなければ、人類は何もできない。肉体も、知恵も、物理法則も、天地も、髪の毛一本、砂粒一つまで、すべてのすべてが人類が無から産んだものではないことを思い出すことである。すべてが大神のものであり、人類のものは何もない。『有るものだから好きに使ってよい』と言って大神に無断で勝手に盗んで、『これは自分のものだ』と言って所有権を主張して商品として売り買いする。それは、大神を無視して自分の力で天国が作れると思い込んでいる証しとなる。その結果が、現代社会の今の状況である。
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天気を操作できないのは、神ではないからである。晴れだから、雨だからと、天気に合わせて自分の行動を決めているなら、神には戻れない。天気予報に合わせて行動を計画しているなら、それは、自分の力で生きていることにはならない。天気に行動計画を合わせなくなったら、天気が意識に響かなくなったら、それが本当の自由である。天気に合わせて、と言えば、天気に左右されていることになる。天気によって生かされていることになる。

本当の真実を見たくないために、『なぜ、という問いはいらない』と言うこともできる。それはただ存在しているのだ、と。それ以上は考える必要はない、と。考えるからおかしくなるのだ、と。そのままならば、有るものを使うことしかできない。限りあるものを際限のない我欲で使い続けることになるが、有限だと言っているものを無限に使うことはできない。何かが自分自身が無から産み出したものでないなら、なぜそれは存在しているのか。自らの命の、天恵、地球、天地、知恵、神仏の本当の源は元つ大神である。本当の源を闇に葬った人間が考え出したシステムでは、天国が実現するどころか滅びを進めるだけである。現代社会に至る魔釣りの人類史が目指した天国は、永遠の滅びの世だったのである。

今の自然現象は、本当の姿ではない。自然ではない。自然に合わせて生きるのは、本当の自然に合わせていない証である。それが気分がよいと言うならば、それは、今の世界を天国だと思っているからである。自分が気持ちよいから、嬉しいからそれは正しい考え方だ、と言うのは間違いである。喜びも悲しみも、空気のようになったのが自然である。一方の感覚を意識するならば、それは、相対二元の比較の世界である。どっちが喜びか、と考えるから、喜びを知るために悲しみも知ることになるのである。「分かつ知を使って知る」というのは『もともと一つのものを二つに分けて知る』ということである。そのままでは分裂が進むだけである。どっちがどっちが、と進めた結果が、今、体験している現実である。

『喜怒哀楽があるのが当たり前だ』『喜びがあるから悲しみがわかる(悲しみがなければ喜びはわからない)』と言うなら、本当の喜びはわからない。一方に反応するなら、偏っている。対極があるならば、それは、分裂思考である。「一つ」ではないから、その基準が作る感情は絶対ではない。『感情がないのはおかしい。人間ではない』と言う。『感情があるのが人間だ』という基準で見れば『人間ではない』となる。無生物となる。「人間」の定義が間違っているならその判断は間違いになる。その基準は真理なのか。それが真理ならば、分裂思考が続く事になる。分裂思考をするのが人間だということになる。分裂思考は、戦いの世界を産み続けるから、みんなが幸せになる事はありえない。略奪の戦いの世界では、天国もありえない。自己犠牲の世界では、死がなくなることもありえない。人間は感情の動物だと言う。そうなのか。そうならば、感情がなくなることはありえないことになる。全員がそれを信じるなら、それが真理になり、そういう世界を作る。感情が無い者が異常になる。どっちが異端か、という争いが永遠に続く。どっちが、と言うときは、争っている両方が異なる端である。どっちも正しい。という見方、どっちでもよい、どっちでも自分は困らない、という結論が出る見方が天国の基準である。争いが無い定義が真理である。
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人生というのは、いわば、科学の実験である。物理学と化学を使って現実を創造する作業である。創造の力が想像を作り出す。そして、想像の世界にあるものを物質を使って形にしていく。精神と物質を分けて見ているが、歴史を遡るほど、想像の世界と物質の世界は一体化していたのである。歴史を下るほど、思いが重くなり、形にするのに時間がかかる。力が必要になり、機械が大型化する。扱う対象が細かくなって、「神の領域」での複雑な作業が必要になる。資源をお金に置き換えている世界では、複雑化、大型化するほど、お金と時間が必要になる。地下資源を地上で使うようになるほど、人力では手に負えなくなる。本来は下にあるべきものを上に上げる。重力に逆らう。自然に反するほど、力が必要になる。支えが必要になる。土の上にコンクリートの土台を作り、鉄の線路を敷いて鉄の箱を走らせる。鉄の塊を空に飛ばし、石油を燃やす。自然に反した者が、原子力を外に出して原子を制御する。事故がなぜ起きるのかは明らかである。自然に反した思考で資源を使って作った都市という作品が、地震で瓦礫と化すのは当然の帰結である。天地の理法というのは、すべてが自然な姿に返るように作用するのである。不自然なものがすべて壊れた姿が、本当の自然な姿なのである。文明を維持するために力が必要だとすれば、言い換えれば、何もしなければ崩壊するならば、それは、自然なものではない、ということである。

本来の自然に破壊は見えない。破壊が見えて、それがそのままとどまるのはおかしい。破壊のままならば、それは自然ではない。何か力を使わなければ再生できないならば、自然に反しているのは明らかである。何もしなければ、分解して土に返る。自然とは、努力しなくても不都合がない状態のことである。生かされているとは、生きるための苦労がいらない状態のことである。生かされているのであるから、不自然を直すために死ぬ必要があるならば、黙って死ぬ。それが生かされている、ということである。自然のままに生きているならば死ぬことはない。「死ぬ」という考えは意識にはない。より長く生きるために何かを画策する。医学の発展というのは、自然の掟に反した人間が、自然の掟に反した世界を維持しようとする行為である。その世界でイノチを永らえようとする行為である。死ぬ前に死ぬのを避けるのは、不自然の証である。自然に抵抗している。生かされていると言いながら生きようとする矛盾した行動を平然とする。自分に原因がある破壊を自分以外のせいにし、自分以外のもので破壊を隠そうとする。見ていられないから隠す。封印する。
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現代社会は、魔釣りのアヤマ知で作り出した分裂の世界で生き延びるために、進歩、発展の名のもとに、科学を使って作り出した文明というマヤカシを進めた末路の姿である。快適、快感を維持するために、ありとあらゆる自然を加工した道具(機械)や、不自然を維持するための制度を作り出し、どうあってもそれを手放さない。それを手放すことは、自分のイノチを手放すことになると思い込んでいるからである。変革する、改革する、再生する云々と言っても、その実体は、形を変えるだけで、根本にある思想は何も変わっていない。文明社会を生きる人間は、機械や制度に生かされている。結局、自分では何もできない。自分では何もできなくなった者が、自分がしたいことを実現するために文明という依存対象を作り出したのである。文明というのは、自らの不自由さを表す指標なのである。

現代社会でいう生産者は、自分では何も生産はしていない。自然の材料と仕組みを使って、欲しいものを得ているだけである。実際のところは、全員が消費者である。生産者、消費者というのは、言い換えれば、消費者の中の、提供者と被提供者である。自分の力で生産もできなければ、自分の力で分解もできない。その実体はと言えば、人間がしているのは、採取と投棄だけである。実際は、土と水と火と生命メカニズムが資源や生物を生産し、微生物と化学メカニズムがあらゆる物質を分解するのである。工業というのは、「生産」という形を管理し易くするために、自分たちが操作できる機械という道具を作り出して、自然を人箱の中に取り込んで、神様ゴッコをするために考え出された仕組みである。自然に反した者が、天気に左右されずに思い通りに食べ物を得たり、一年中快適な温度で生活する。自然に反した者が、何の苦もなく、快適に生きる。快欲だけを追いかけて、神の掟を忘れ去っている人間は、自分に都合がよいことだけを平然とやり、それが当たり前だと言って、何の疑問も抱かない。苦が現われれば、それを解消するものを自分の外に作り出し、他人に作らせて、平然としている。自然から離れた者が快適に暮らせるのは、本当はおかしいのである。機械文明に依存し、常に快感、心地よさだけを追い求め、生存権とか、快適性とか、安全性とか、利便性とか、いうような、本当はありもしない幻想にどっぷり漬かっているから、本当の意味での自分という存在が今どうなっているのかに全く気づかない。産業革命というのは、進歩ではなく、破壊なのである。天地の理法通りに事が起きて滅びるものならば、産業ではなく、惨業である。最期は滅びる運命のものだったのである。それは、産業の発展に支えられた文明の末路でもある。神に反した者が、神の天国を求めて、幻想の天国に生きて喜んでいただけである。その結末に何が待っているのかも知らずに。

衣食住、都市計画から、経済の支えあいまで、すべてのすべてが同じ仕組みである。下にあるべきものを上で使えば、本来の姿形に戻す力が働く。自然の姿は、火、岩、土、水、木、空気の順番である。物理法則は分かっているはずであるのに、現代文明の都市の姿は、物理法則に反した形で作られている。だから、維持するのに力がいる。神の掟に反した「バベルの塔」は、どんなに抵抗しようとも、いずれは壊れる運命なのである。一番力があるものがどこにあるのか。すべてを支えるものはどこにあるのか。それを教えるために、重力という力が存在するのである。神は上にはいない。神は、今の人間が思っている天にはいない。心が想像する上というのは、形でいえば下である。支える者は、下にいなければ支えられない。指導者が上から引っ張っても結局は支えきれなくなって、綱は切れてしまう。くもの糸のカンダダの末路である。その「上」で支える者を支えているのは下である。電車の架線は、架線柱を介して岩が支えているのである。空気も海も同じ仕組みである。
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地震で都市が瓦礫と化す。その結果、多数の人間が死ぬ。そして、防災対策を強化しようとする。しかし、よく考えれば、不自然なやり方で形にしたものが壊れて、元の形に戻っただけである。あるべき形に戻っただけである。いったいいつまで、どのくらい防災したら災害がなくなるのか。そもそも、「災害」はなぜ起きるのか。なぜ、自然の脅威を見せつけられるのか。その根本原因はどこにあるのか。都市の始めは自然である。ジャングルがコンクリートに姿を変えたのが都市である。アベコベをやっているから壊れるのであり、自然の法則通りにことが起きただけである。自然に反したものは淘汰される。この法則は、すべてに当てはまる。人間の言う自然界だけの法則ではない。自分自身をも含めた、万象万物に例外なく適用されるのである。自分自身が喪失感や失望感、危機感を感じるならば、それは、自分自身が自然の掟に反したことが、原因である。自分の外をどう操作しようと、ますます危機感が深まっていくだけで、絶対的安心感を得ることは、永遠にできはしない。

破壊は自然の法則に反した結果であり、自然な現象なのである。自然に反したものを作ったのが破壊の原因である。従って、防災、抗菌、殺菌云々という思想は、自然に反した者がその状態を維持するために自然のはたらきに抵抗していることになる。壊れるのは自然に反したからであるが、それを壊れないようにしようというのは、不自然が生き残るために自然を破壊していることになるのである。本来、自然には破壊は意識されない。破壊は隠れている。常に、生成が上回る。破壊<生成である。現象として破壊と生成が同量でも破壊が見える前に生成が始まるから、見えるものは生成しかない。もっと言えば、生成が瞬時に終われば、破壊も生成もなく、存在し続けるだけになる。「すべてがある」状態が存続するだけであり、そこには何も不都合は生じない。破壊を避けるという思想はない。現代社会の人間は、天国を求めて不可避の破壊を避けるために生きているようなものである。

形が変わる過程を、時空を超えて前からみれば破壊であるが、後から見れば生成の過程である。現代社会が崩壊するように見えるのは、形が変わる過程である。古いものは壊れて新しいものが作られる。古い皮膚が剥がれるのは、新しい皮膚が下に生成されるからである。無限に生成を繰り返しているから、破壊はない。常に、形は保たれる。生成のはたらきが乱れれば、皮膚病という形の異常が現われる。生成が止まれば、破壊が進み、そのまま何も無くなる。無から作り出す神は困らない。困るのは作り出せない人間である。困るから、壊さないようにする。『大切にしよう』『節約しよう』と宣伝する。そして、強制する。破壊者は悪人となり、無駄遣いは悪いことになる。法律で禁止されて犯罪となる。しかし、自ら生成できない者が、自らの破壊を避けようとしても、すべては劣化して、いずれ崩壊するのである。元つ天地の大神は、真釣り外しの悪にはいつまでも天恵を渡さない。真釣り外しを続ければ情けが増えていくだけで、最後は、情け100%=花 0%、即ち、魔釣りの世の生は無くなる。草薙の剣=真コトを渡すということは、魔釣りのアヤマ知で作ったものは、すべて使えなくなるということである。お金や機械は言うに及ばず、政治、経済、文化、宗教、思想、哲学も含めた「身欲を基に持つすべて」である。元つ真釣りの世にはない、お金の収支が基の「商」の響きのシステムはすべて崩壊する。お金を神とした世界は、金融、経済、商品価値、儲け、賠償金、支援金、被害額、寄付等々、すべてをお金に換算し、収支決算、予算、負債、資本等々、すべてをお金の足し引きで分析し、経済成長、メリット等々、すべての思考をお金に帰結させる。人=お金であり、お金を損得の基準にして人の操作をする、即ち、収支と貯蓄と保険(支出と負債と掛金)の三位一体、物・金・人の三位一体、衣食住を商品に委ねるお金の世では、金の量が国家像や各自の存在の姿を決める。快欲を追い求め、形を変えるだけの魔釣りのアヤマ知の物質文明に依存し続けている「現代社会」にどんな運命が待っているのか、よく考えてみることである。
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現代社会の運命。それは、いうまでもなく、社会という、あなたが所属する共同体でのあなた自身の運命である。他人や世界の問題ではない。あなたの問題である。真釣りが戻って滅びる運命の魔コトの文明にすべてを依存しているなら、魔釣りを祓う仕組みに自ら進んで足を踏み入れていることになるから、どんな事態になろうと、すべてあなた自身の選んだ結果である。元つ真釣りの大神を闇に葬って、魔釣りの世界で好き放題をして、教えても身欲に囚われて無視し続けて、最後に気づいて改心しても、後のまつりである。ミロク世に生きたいなら『そんなことはありえない』というフレーズは、封印しなければならない。真釣りの世から見れば、現代社会がありえない現実(顕現した実体)である。すべては逆さまであるから、真釣りの真コトの響きがこの世に形になったら、真コトの花(正花)だけになり、魔コトの花(悪花、仇花)は、すべて枯れ尽くし、土に戻る。魔釣りのアヤマ知で作った世界は、神の世界も人の世界も、すべてが真釣りの真コトによって闇に葬られる。善も悪も同じことであり、真釣りの真コトに戻らない者は、すべて消滅する。元の真釣りの天国に戻れば、一瞬にしてすべてがひっくり返り、魔釣りの世界は、跡形も無く消滅する。水をダムにためても、雨が降らなければすべて干上がってしまうのである。

思いは、すべて形になる。形が望み通りでなければ、それは違うやり方で形を作った証しである。想像の世界と形の世界は同じものである。そこに分離はない。アイデアと商品は同時である。時間のズレはない。それが、天国の現実である。想像通りに形にならないのは、制限、条件をつけているからである。現代科学の物理法則は永遠普遍の原理ではない。現代物理学や現代化学が絶対法則ならば、永遠の天国を作ることは絶対にできない。ピラミッドはどうやって作ったのか、ナスカの地上絵はどうやって描いたのか、アトランティスは存在したのか。現代社会の謎や不思議は『現代科学が最も進歩している』という思い込みを捨てない限り、永遠に解明できない。そして、その現代科学がどんなに進んでも、完全なる天国を作ることはできない。自然法則を破り続けるほど、工業製品が必要になる。神から離れるほど自分でやることになる。自分でできるかどうか、やってみよ、である。
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現代社会の常識を正とすれば、『古代文明に飛行機があった』と聞けば、『そんなことはあり得ない』と思う。すべての主張に矛盾がないこと、どんな意見も不思議だと感じないこと、それが、すべてを分かっているということである。それが、永遠普遍の見方である。進歩、発展の論理では、永遠に真実はわからないままである。永遠に謎を追いかけ続けることになる。もし、重力が無ければ、物を移動することは簡単である。『それは空想の世界だ』と言うならば、絶対に夢は叶わない。実際は、歴史を遡るほど、今の常識で言う魔法の世界になっていく。現代人は山を駆け回る修行はきついと思うが、その時代の人間は、楽だったのである。あたかも月面で歩くかのように軽かったのである。重くなった分、機械が必要になる。できなくなった分、わからなくなった分、補う知恵や技術が必要になる。「障害者+車椅子=移動できる」の公式がすべてに働いている。車椅子を、神、福祉、占い、魔法、超能力、法律、自動車、コンピューター、めがね、本等々に置き換えてみればよい。結局、すべては論理の世界であり、科学も宗教も、事実を語ってはいない。事実を知りたいならば、論理の矛盾を無くすことである。すべてを引っ繰り返すこと、すべてを逆さまにすること、意識の制限、ベクトルを変えることである。空想が実体であり、実体と思っているものは幻想である。幻想を実体と思えば、その世界からは絶対に出られない。

元の始めは、今で言う、神の世界、魔法の世界である。できないことは何も無い、すべてが思い通りになる世界である。今の言葉で言えば、心のままに形になる世界である。心の世界そのものである。イメージそのものの中に自分がいる世界である。『自分の思いのままに形になる』という法則は今も働いている。自分が形にしない世界を誰かが形にする、それを文明という。『助けてもらう』というのは、『自分がサボっている分を誰かに任す』ということである。助ける、というのは、自分も相手も、自然から離れるということである。一番初めの世界に戻った時、誰も助けてはくれない。自分の思いのままの世界になる。つまり、文明や他人にすがっているならば、それがすべてない世界をそのまま体験することになる。依存する対象がすべてなくなった時、自分の世界が闇になるならば、それを実際に体験することになる。『自分がすべての源であり、自分が自分の神である』ということを自分の身を持って体験することになるのである。自分が他人の神になっていること、裏を返せば、他人を自分の神にしていることが、すべての問題の唯一の原因である。本当の原因を正さない限り、結果は変わらない。「便利」というのは錯覚である。便利を追いかけるほど、自分では何もできなくなるのである。できなくなった分、足りない分を何かで補っている状況を当たり前だと思っているならば、それは大きな取り違いである。最後には、「コンクリート詰の死体」状態が自分の体験となる。つまり、完全に身動き一つ取れない状態となる。風景は見えているが、それをすべて使えない状況になる。すべてが一つになった時、自分がしていることの真実が、文字通りそっくりそのまま自分に戻ってくるのである。
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重さというのは相対的な感覚である。今、自分が使っているこの机は重いか軽いか、それはわからない。机は重かった、である。目の前にあるものが、今、重いか軽いかはわからない。すべて過去のデーターによる推測、予測である。それも『法則はずっと変わらない』という前提で。その前提が正しいかどうか自体の議論はしない、機械的な反応である。すべて、自分の思いの作り出す幻想である。物理学が絶対法則ならば、火事場の馬鹿力はあり得ない。重力がない、ならば、重力を自由につくれる、ということである。この世で自分が自由に動かせる形は、肉体だけである。その肉体も自由にならないならば、自然法則の違反が重なった証拠である。なぜ、二本足で立てるのか、なぜ、自転車は倒れないのか、何が支えているのか。見えない力の正体は一体何なのか。その力の源はどこにあるのか。

形の世界にその答えを求め続けても、正解は得られない。見えない世界と見える世界のどちらが先なのか。科学的な証明と言っても、何かがそこに見えていることを確認できるだけであり、すべてが間接的な存在証明である。言い換えれば、理論上成り立てば存在が認知されるのである。逆にいえば、存在を疑う余地がなくても理論的に証明できなければ認知されないということである。あなたが言っていることが本心かどうかは、他人は証明することはできない。他人があなたの気持ちをわかることはありえない。あなたが他人の気持ちをわかったと思っても、それはあなたの気持である。誰かの痛み、誰かの死の悲しみ、を思っても、それはあなたのものであり、他人のそれは絶対にわからない。他人のそれがすべてわかるなら、あなたはその誰かであることになる。この世に人間はあなただけになってしまい、その他人はあなたであることになる。あなたとあなたのコピーのお芝居であり、あなたとあなたの喧嘩になる。自分が別の場所に居たことを証明すれば、事件現場にいない証明となり、「アリバイ」が成立する。逆に、アリバイを作れば、自分を「守る」ことができる。『そんなことはありえない』『そんなことはできるはずはない』云々はすべて強制力はない。もし、それがわかるなら、神であることになる。それを聞き入れるならば、それを信じたあなたの選択である。自分を動かすのも止めるのも自分しかいない。

現代社会は事実ではない思想で作られた世界であり、嘘を演じなければ自由にはならないが、その自由は、幻想の自由であり、本当の真実が成就すれば、今の世界は無意味になる。あなたは、真実を知らないから、目に見える世界に執着することで、自らの存在意義を確認している。しかし、この世は、肉体の感覚を通して自らだけに確認できるもの、計測機器がなければ存在を確認できないもの、拡大縮小する機械がなければ見えないもの、記録機器がなければ見られないもの、機械を駆使してもわからないもの等々、つまりは、「この目」では直接見えないものだらけなのである。例えば、紫外線、放射能、原子核、酸素、サリン、生体電流、電気、熱、遺伝子、電波、白血球、精子、細菌、宇宙の全体像、電車に乗っている自分、音声、光、重力、時間、味、心、自らの眼、自らの後頭部、自らの肉体の全体像、自らが食べた物の消化吸収の作業、火葬される自分の体、誰かの消息、寝ている時の社会の動き、地球の裏側の出来事、過去の行動、地球以外の惑星の映像、等々。自分の目で直接、実際に見えるものは、ほんの僅かしかないのである。自分が間接的に得た情報、間接的に見た映像、教えられてきた常識を信じるかどうかは自分が決めることであり、自分が自分を騙すこともできるし、直接見られないものを強制して、他人を操作することもできる。現代社会の常識がすべて嘘ならば、あなたの世界は一瞬にして崩れる。
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幻想か実体か、あるかないか、の議論は、答えは出ない。『自分はどうなのか』『自分にとって価値があるかないか』が答えだからである。科学的に証明されたものも否定でき、科学的に証明されなくても肯定できる。ただ一つ、自分がいることだけは、疑いのない事実である。この世には、機械で計測できないものもある。神、仏、あの世、霊、自分の明日、自分の一生、生まれる前の世界、死後の世界、他人の体験した現実、他人に明日起きること、殺された人間の心理、誰かの本心、誰かの傷の痛み、誰かの苦労、むち打ち症等々は、勿論、文字通り、見えないものである。仮面を被れば嘘がつける。自分の「過去の体験」でさえ、本当にそれがあったのかどうかの証明はできない。自らが体験したことを自ら心象映像で確認することはできるが、それを実体化することはできない。次の瞬間、自分がいる保障はない。すべては、自分が決めている現実なのである。科学は、宗教なのである。

あなたの現実は、すべては魔釣りが見せるお話に過ぎない。結局は、それぞれが、自らが勝手に作った心象に基づいて、肉体を使ったこの世で生き残るために喧嘩(議論、責任追及、戦争、奪い合い)をしているだけである。あなたが体験したことは、すべてが、自らの価値観が見せた幻であり、あなたが「信じている」正しさは、あなたが決めた正しさである。今のあなたは、形は見ているが、実際には、見えない世界に生きているのである。この世には、あなたが認めたものだけが存在するのである。許す、許さないを決めるのはあなたであり、あなたが神であることになる。あなたが価値判断しているものは、存在するものである。少なくとも、あなたがその存在を認識しているものである。存在するものを否定するなら、それは、心地悪い、理屈が崩れる等々あなたに都合が悪いからである。

あなたが存在を認識していても、誰かが、あなたを混乱させるために、その存在を認めていながら『存在しない』と言うこともできる。見えていなくても、見えていると言うこともできる。それが見えている(見えない)ことを知っているのは自分だけである。嘘を言っていることを知っているのも自分である。嘘だと知っていても、それを口にすると自分の立場が危うくなる時は、本当のことを言わないこともできる。「オオカミ少年」や「裸の王様」の世界が展開される。あなたがあなた以外の言うことを鵜呑みにすれば、あなたは嘘の世界を信じ込むことになる。あなたがそれを本当の世界だと思い込めば、本当の世界になってしまう。嘘だということが信じられなくなるほどに実体だと思ってしまう。実体だと思うほど死を恐れるようになり、思い込みが強固になる。自分が自分を騙していることにすら気づかなくなって、誰かが自分を騙しているのだと言い出す。そうなっては、もはや、その世界から自分で抜け出すことはできなくなってしまう。究極的には、あなたには、自分が認める世界しか存在しないのである。あなたが価値判断しているその対象は、実際には、あなたの心の映像に存在するものであり、それは即ち、自らが自らを価値判断する一人芝居を意味する。一人芝居をしている者同士が、鏡に映る自分と喧嘩をしている霊的自閉症の集団が好き放題をしているのが現代社会である。鏡は「彼我身」である。映っているのは自分である。他人を変えて世界を変えようとしても、それは、不可能である。
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誰かの思想を知りたいならば、その誰かが提示する言葉(音声、文字)か映像を見て推測するしかない。しかし、他人の痛み、苦しみ、喜び、計画、予定、他人の運命、思い等々、それはあくまでも推測である。自分に見えるのは、今の瞬間に見ている範囲の映像と、過去の体験だけである。今の瞬間もすぐ過去になり、過去は過ぎ去っていく。あなたは、肉体を通して永遠なる今の瞬間の連続を経験しているだけである。人生設計というのは、幻想の遊びである。誰かのせいで人生を変えられたと言うが、もともと、あなたが勝手に予定していた人生設計であって、その変わった人生があなたの人生なのである。誰かのせいだと思うこともあなたの幻想であり、その幻想に基づいて誰かを責めても、それは、あなたの独善である。檻の中で怯えて吠えている犬である。あなたが実体だと思っている世界は、あなたが作り出す幻想である。この世にあるものを独り占めしようとしても、それは影絵遊びに過ぎない。あなたがしていることは、形や言動を価値判断して、止めるかやらせるかを決めて、それを実行することだけである。自分が存在することだけが自分にとっての事実であり、生死時空を超えて確認できるものである。その他のすべては、自分の選択している色眼鏡が見せる幻である。その意味は自分が付けている。過去の体験と未来の予測である。見える世界がずっとあり続けると思うのは、自分がそう思っているからである。明日どころか、次の瞬間が来る保障はないのに、明日の心配をする。時間と空間を自らの思い通りに支配しようとする。いつどうやって死ぬかわからないのに、死を避ける方法を探し続ける。他人の行動を禁止する。他人を自分の目の届く世界に封じ込める。すべては、自分が想像に基づいて認識した自分にとっての世界を投影して見ているだけである。

文句があるなら自分でやればよい。いやならやめればよい。同意できないなら従う必要はない。反抗するならば、自分の力でやればよい。実際は、自分がやろうと思えば何でもできるのである。何らかの理由で自分がしないだけである。自分で調べれば誰かに聞く必要はない。自分で研究すれば答えは得られる。しかし、「限りがある」寿命の中で、いや、限りある寿命になってしまった自分が、今世ですべてをやることは不可能である。それは自分の責任だから、誰かに任せてその結果だけを戴くならば、文句は一切言えないのである。
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ある瞬間に自分ができることは一つである。「何もしていない」ことに罪悪感を持つ。『何もしていない』と他人を責める。しかし、やるかやらないか、どっちをやるか。何かをやらない、ということをやる、と言うこともできる。つまり、必ず何かをしているのである。『何もしない』『無駄なこと』と言う時、『する』という定義に条件をつけているのである。自分にとって「価値があるかないか、利益になるかどうか、立場が守れるかどうか」である。していることに分離は存在しない。一つの世界の動きである。何かの基準でその行動を分類しているのである。善悪も、苦楽も、「どっちが」という目で見れば、必ず、分裂することになる。分裂の選択を止めない限り、どんどん分離していくのである。世界を構成している要素のうちのどれを自分がしているか。その要素がどんどん細かくなるのである。

人口が増えるのは、それだけ分離を進めてきた結果である。分けた分だけ人が必要であり、依存の世界を支える人口が必要である。豊かな国があるとして、他の国が飢餓の国で、その世界が相互依存、競争社会だとしたら、その偏りが、そのまま形になる。略奪の世界で、豊かさを謳歌して威張っているのは、その豊かさをどうやって獲得しているか、を知らない恥知らずであるといえる。『自分が努力したからだ』と言うが、何に努力したのか。窃盗に荷担したのである。略奪の世界で『よくなろう』『お金を稼ごう』とがんばるのは、『よりたくさん盗もう』と言っているのと同じである。お金の世界で、形をよくしようとすれば、それだけのお金がいる。お金が減ってくれば、予算の取り合いが激しくなり、思い通りの形が作れなくなる。泥棒の世界でどんなに発展しても、それが奪って得たものであるなら、必ず、終わりがくる。偏りは修正される。『合法的にしたのだ』と言っても、その世界そのものが泥棒世界ならば、その世界に貢献するほど泥棒したのと同じことである。言わば、泥棒と気づかれずに泥棒する盗み方のプロである。しかし、泥棒したものは、必ず返すことになる。奪ったものの中から援助しても、それは奪ったものを返したことにはならない。「奪ったもの」を「下から奪う者」に横流ししただけで、略奪行為を重ねたことになる。有限の略奪の世界で貧富の差があるならば、それは略奪の結果である。「貧富」という言葉は自然には無い。それぞれに必要な天恵は有り余るほどある。どこかで余ってどこかで足りない、というのは本来おかしいのである。『有り余るほどある』のが本当である。

言われた通りにしたら儲かった、だから、正しい。儲かる仕組みを教わって、それをやれば儲かるのは当たり前である。それが普通の法則の如く思ったら、間違いの元である。泥棒の世界で儲かるのは、泥棒のやり方をしたからである。このやり方で盗んでもよいが、このやり方は許さない、と決めて、合法だ違法だと騒ぐ。結局は、どちらも泥棒である。法律で許されているやり方をしているから罪はない、と言うが、罪が無いものに災いはない。その世界の合法的やり方自体が、宇宙の法則から見れば違法なのである。一番大きな掟に従えば、何も問題は無い。今の法律の大元が法律違反であるから、法律を進めるほど、法律が増え、法律の効力が弱くなる。取り締まる者が少なくなるほど、法律は有名無実化する。あっても使えないなら無いのと同じである。泥棒の世界で警察や公務員の不祥事の再発防止対策をしても、再発が防止できるどころか、ますます不祥事が増える。悪が善のフリをして悪を取り締まるほど苦しくなるからである。法治国家の末路は無法国家である。
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自分を供養してくれないから、祟る。供養してくれたら成仏する。してくれないからムカツク、してくれたから感謝する。心の声だけを聞いていれば、霊界も現界も、死者も生者も同じことを語っている。結局、人間の言う、あの世もこの世も同じ仕組みなのである。

略奪の世界にフェア―プレーなどあり得ない。汚い世界は、汚いことをしなければ、上には行かれないのである。汚いことを嫌うならば、それは、自分がその世界で奴隷になることを意味する。だからと言って、汚いことをして上に上がったとしても、永遠の安泰はない。

あなたは、すべてを知っているのが当たり前である。『知らない』と言うのは、おかしい。自分はどうしたらよいのか、自分はこれからどうなるのか、自分は誰なのか、自分はどこからきたのか、自分はどこへ行くのか、自分は何をしたらよいのか。自分で決めるべきことを他人に聞くのが当たり前の如くなされている。それを恥とも思わない。『教えてくれないのは不親切だ、冷たい人間だ』と言う。教えてもらったらもらったで、今度は、その結果について、自分にとってよかったら感謝し、自分が損したり、心地悪かったりすれば、文句を言う。相手の言った通りにしたとしても、それを選んだのは自分であることをしっかりと肝に銘じることである。責任を転嫁する相手が違う。又は、質問した相手からの返答そのものに、反論したり、異議を唱えたりするならば始めから聞かなければよい。相手と議論をしたいのか、相手の意見をジャッジしたいのか、相手に助言を求めたのか、いずれにしても、相手の意見について意見するならば、始めから答えは決まっている。口にしたとしても、それを相手に返すのは、おかしい。参考にしたなら、聞きっぱなしにすることである。自分の答えを確認する助けになったのであるから、感謝しかない。誰も答えなかったらどうするのか。誰も答えてくれなくても、あなたは必ず答えを出すことになる。

自分がしようと思ったことをすればよいだけである。考える必要も無い。映像のままに動けばよい。自分の心のままに見ながら動けばよい。その場その場で動けばよい。何をしても誰にも迷惑がかからないのが自然である。もし、『どうしたらよいか』と聞くなら、それは、不自然なやり方をしてきた証拠である。誰かに訊く必要も、誰かに報告する必要も、誰かに相談する必要も、誰かに許可を取る必要もない。『しようかな』『しようと思うんだ』『どう思う?』すべて独り言である。その独り言は、自分に相談しているのであり、それを口に出して、その結果、誰かが反応したら、相談と呼ばれる形になる。相談したいと思って、口に出したとしても、それは独り言である。『どうしたらよいか困っているんだから俺の質問を受け取れ!』何とも自分勝手な輩である。あなたの相談に応える義務は誰にも無い。応えてあげたい、応えるべきだ、助けてあげたい、相談されている、と思っている者がそれに反応するだけで、結局は、お互いが自分の思いに従って、キャッチボールをしているだけである。あなたは、自分が×している答えへの賛同者を探しているだけなのである。全員が嘘に騙されているとしたら、あなたはどうやって誠の世界に出るのだろうか。
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あなたは、自分が×している答への賛同者を探しているが、自分はその答を○だと思っているはずである。自分の立場を守るために、自分勝手だと思われないように、仲間がいたら他人を巻き込んで、『一人にならないなら○と言おう』と思っているのである。しかし、賛同者が全員、「サクラ」だとしたら、あなたは、自分の本心を自ら白状することになる。あなたに賛同したフリをして、あなたを孤立させるという企みに、あなたを嵌めることもできるのである。勝手に安心しているあなただけがバカを見る。結局は、あなたは、自分で○か×を決めて動いているだけであり、誰も賛成しなくても、『○だ』と言うこともできる。自分が自分を制限している一人芝居をやめない限り、あなたが不自由なままであり続けるだけである。自らで自らを奴隷にしておいて『自由にさせろ』と言っても、それは、自分勝手というものである。残念ながら、その要求は、永遠に叶わない。あなたの自分勝手な独演会をいつまでも楽しませてもらえることだろう。しかし、あなたが本当に自由になりたければ、完全に自分だけの世界に生きて、自分自身が自由になればよいだけのことである。あなたの答を×という者は、無視すればよい。もし、無視できないと言うならば、あなたが、その誰かに依存している証である。その誰かがあなたに何をしようとも、あなたは、一切文句は言えない。いやならば、依存をやめればよいだけである。自らの言行に責任を取る覚悟があるならば、あなたは、誰の奴隷にもなる必要はない。あなたがあなたを不自由にするのはあなたの自由であるから、誰にもそれをやめさせる理由はない。あなたが好きなだけ、いつまでも、悩んで、嘆いて、もがいて、可哀想な人をやっていればよい。周囲にとってはいい迷惑であるが、そんなあなたを誰も振り向かなくなる時が必ず来る。どう逃げようとも、結局は、自らがしたことの責任は自らが全て引き取ることになる。

現代社会は便利になったと言うが、果たしてそうなのか。炊事、洗濯、掃除、一昔前と比べれば、労力は格段に軽くなり、時間は短くなったはずである。家事の時間が短くなった分、他の作業に使える時間が増えているはずである。自分が歩いて出かけて伝えることを考えれば、郵便、電話、インターネット、ネット電話、新幹線、飛行機、まさに、タイムマシンである。時間は余っているはずであるし、労力は軽減しているはずである。しかし、なぜか忙しく、『時間が無い』と言う。それはなぜか。すべてが早くなっているのである。時計の目盛りは同じだが、相対的感覚的時間が細かくなっているのである。東京から大阪まで歩いていたときは、社会全体がそれに合わせてできていた。社会の動きと連動して新幹線が必要になり、新幹線に合わせて日程を組む。日程に合わせてより早く、と、飛行機が登場する。より早く、より早く。「限られた」時間の中で沢山こなそうと飛行機を作ったが、いつの間にか、飛行機に合わせて生きるようになってしまったのである。便利を求めれば求めるほど、便利なものを探し続け、自分の外に作り出した機械を使って快適、快感を得ることが、生きる目的になってしまう。本来は、自分が主導権を握っていたはずが、自分の外に主導権を渡してしまうことになる。文明の利器は、自らの力を奪う損器である。
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頑丈なビルを望むと建築に重機が必要になる。今の都会を大工が作ることは不可能である。自分が何もできなくなるほど、魔法の社会を望むことになる。新幹線、飛行機、コンピューター、宅配便、タクシー、コンビニ、本、情報、すべてが無くなったら、今の社会は崩壊する。逆に、今の社会が崩壊したら、それらは必要なくなる。相互依存のスパイラルである。相対的には、何も便利になってはいない。自分でしていたことを誰かに任せる度合が増えるに連れて、お金を稼ぎさえすれば、あとは、誰かが作ったものと交換するだけでよくなる。忙しくなればなるほど、外注が増える。依存が増える。細分化していく。お金を得る量に比例して楽になる。しかし、お金を得ようとするほど、自分でできなくなる。自分でできなくなった分、クリーニング、レストラン、温泉、ホテル、タクシー等々、お金と交換に賄うサービス業が増える。文明が発展するほど自然から隔離され、誰かの助けなしでは衣食住が維持できなくなる。自然が人を生かしていた世界から、人が人を生かす世界に移って行く。しかし、よく考えれば、自分とモノの間に、人が介在し、お金が介在している。自ら産み出す苦労から自由になった分、依存している誰かの都合でいつでも生活は破綻する。人が人を生かす世界になるほど、人の思惑で生活が左右される。いつも社会の動きに目を配る必要性が出てきて、マスコミの存在意義が大きくなる。自らが直接体験することが減るに従って、嘘に騙されやすくなり、自分で自分の人生をコントロールできない世界になっていく。需要に合わせてシステムができる。システムを見れば、社会の思想がわかる。構成員の思考がわかる。どのくらい依存しているか。どのくらい自然とかけ離れているか、どのくらい人工化しているか。現代文明のすべてが崩壊して、最後に残るのは自然環境である。野生は野蛮で、文明国は進歩している、と言う。しかし、本当にそうなのか。最先端の都市も、元を正せば、知恵や資源が無ければ何も形にできない。力学法則は一切変えることはできない。すべてが自分の産んだものではない。そのことをよく肝に銘じて、今、自分が手にしている「便利」「快適」の正体を考えてみることである。

本当は、自分ですべてできて当たり前だったのである。助けて当たり前、質問に答えて当たり前、治して当たり前、得させて当たり前、の相互依存の仕組みの中では、自分が楽な分、それは誰かに自分の産みの苦労を押し付けているということである。自分が苦労している分、誰かが楽になっているのである。しかし、現代社会での自由や楽は本当の自由や楽ではない。すべての苦労を引き受けているのが、元つ大神である。大神が責任を引き受けることをやめれば、自らの力で無から生み出せないあなたは何もできなくなる。『神は人類を見捨てない』というのは自惚れであり、天地自然の掟を破った者にそれを言う資格はない。あなたが天地自然の掟に従っているならば、相互依存の文明社会はない。相互依存の文明社会が存在し、誰かに依存しなければ生きられないなら、それはあなたの取り違いが元である。誰かに苦労を押付けることを当然のように繰り返し続けた結果、『天恵は、人間が作ったものではなく、有限を奪い合うほど殺し合いが増える』という簡単な理屈もわからなくなってしまったのである。あなたが、限られた時間という枠の中の世界に生きているならば、時間をいかに自由に使うかを考える。任せられるものはすべて人に任す。その思想に基づいて仕組みができあがる。自らの分を誰かがやるのであるから、文句や苦情の入る隙間は無い。頼んだら文句は言えず、言うなら頼む資格はない。責任感や思いやり、他人の気持ちへの配慮云々は、相互依存の中で自分の位置を確保するための詭弁である。
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あなたの人生の中で、たった一つだけ自分でやるしかないことがある。それは一体何なのか。それがわからないならば、あなたは今まで、人生の本当の目的をわからずに生きていたことになる。あなたは、それをするためだけに、この世に産まれたのである。それは、神や仏ですらも絶対に肩代わりすることができない。自分以外の誰かにやらせた「つもり」になることはできるが、それでは、本来自分がすべきことを何もしていない。それどころか、誰かに押し付けようとすればするほど、楽に済まそうとすればするほど、ますます自分の苦労を増やす結果となる。自分以外の誰かの自由を侵害することになり、誰かの自由を侵害した分だけ、自分がサボった分だけ、自分の手間と苦労が増えるだけである。誰にも肩代わりしてもらえないから、肩代わりの対価である「お金」をどんなにたくさん持っていても全く意味がない。誰かに肩代わり「させる」ことはできないから、権力も脅しも弱音も言い訳も、他をコントロールするための策略は一切使えない。誰かに自らの作った苦労を押し付けようと画策すればするほど、苦労が増えるだけである。自らの態度次第で増えもするし、減りもするのである。したことに責任を取らない限り、減ることはない。

『自らがしたことが自らに返っている』それが絶対不変の法則である。自らがしていないことが返るならば、その世界では、天国は永遠にできない。従って、それは嘘である。自らのした通りの結果が自らに返っているのである。それを認めなければ、あなたの望んでいる本当に自由な世界、不老不死の世界は実現しない。そういう世界があることを疑うなら、論外であるが、その疑いは、自由になることの責任回避と未知の世界(実際は、自らが未知にしたのであるが)への恐れ(自分の力を信じていない=大神を無視している)を誤魔化すための詭弁である。本当に信じていないのなら、不平不満も言わず、死の回避もしない。なぜなら、自由な世界はないからである。不平不満を言うなら、自由を求めている証であり、本当に正直に自分の現実を見直し、態度を改めない限り、望んでいる現実は成就しない。自らが自由を捨てておいて、自由にさせろと言っても、それは無理な相談である。
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自らのした真釣り外しを清算することができるのは、真釣りを外した自らだけである。自ら違反をしたなら、自ら責任を取るのが当たり前である。自らが犯した罪の肩代わりなどありえない。自らが好き勝手をやって天国に行けるなら、それこそ不公平である。しかし、真釣りの仕組みは完全自己責任の仕組み、自業自得の法則である。現代社会というのは、それをいかにサボるかという思考をシステム化し、形にした究極の姿である。従って、現代社会にどっぷりと漬かりきっている今のあなたがそれを実行するのには、相当な難儀を伴う。しかし、それをしない限り、あなたの人生は、何の意味もない全くの無駄、徒労に終わる。しかも、もう先延ばしはできない。今ここから、それを始めなければ、それをする機会は二度と来ない。自分自身でやらない限り、絶対にその成果を得ることはできない。

自らの観念が作り出した、苦や悲しみを誰かに訴えても、喜びを誰かに話しても、それは、『自分の思いを誰かと共有したい』という他者依存の現われであり、自己満足に過ぎない。すべては一人芝居であり、あなたの思いや感情はあなたの選択した概念が作り出したものである。『分かってもらいたい』と思っても、実際にはそれは不可能である。『分かってあげたい』と思ってもそれも不可能である。誰かのすべてがわかるならば、それは、その誰かそのものであり、それでは、誰かと誰かが同一人物になってしまう。誰かのことが分かったと言うならば、それは、あなた自身の作った誰かの気持であり、逆に、誰かがあなたの気持をわかったと言ったとしたら、それは、その誰か流のあなた像である。『分かってもらえた』『分かってあげられた』というのは、よくよく考えれば、それは利己主義、自己満足に過ぎない。『分かってもらえない』『分かってあげられない』と悩んでも、あなたが苦しむだけで、実際には、分かり合うことは不可能である。当然のことながら誰かに『分からせる』こともできない。『分かった』と言うなら、それは、その誰か流に理解したということである。つまり、それぞれが自分の心の中で納得したしないのお遊びをしているだけのことなのである。『分かってもらうことはできない』言い換えれば『分からせることはできない』『分かってあげることはできない』のが事実であると分かれば、お互い楽になる。

『自分が自分に責任を取る』とは、今まで転嫁した責任を自分が引き取ることである。転嫁した分、苦を押し付けたのであるから、言い換えれば、楽を泥棒したのであるから、した分だけ失い、苦しくなるのは当然である。失ったものは自分のものではない。「自分のもの」と思い込んでいるから、「失った」と思うことになる。苦しいから訴えると言えば、元の木阿弥である。いかなる体験も自分以外のせいにしない、言い換えれば、他人の体験(感情)については一切責任を負わない。これが本当の天国に戻るための唯一のルールである。このルールを自分のこととして受け入れ、厳格に守り通した者だけが本当の天国に戻れる。
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本当の天国に戻りたくなければ、それはそれで自由であるから、ルールではあるが強制ではない。自分が自分に強制するかしないかである。しかし、それは、自分が自分に課す強制である。今までは、この逆をやって、他人に強制してきたのであるから、このルールを守れば、強制に感じる。自分がサボった分だけ誰かが苦労し、自分が改心した分だけ誰かが自由になる。差し引き0である。責任転嫁をした方も、引き受けた方も、同じことである。引き受けたから転嫁されることになり、転嫁できると思うから転嫁されるという堂々巡りが続く。楽をして天国に行こうと思っている極楽トンボは、永遠に苦労を押付け続けようとする。責任転嫁を返せなかったのは、報復を恐れ、その方が楽だ、得だと、自分が考えたからである。結局、自分にとって楽な方、怖くない方を選んできたのである。それは、自分が選択した結果であり、始めから、きちんと掟通りにやっていれば、このルールは必要なかったのである。従って、本来は、苦労も、世の大掃除も、ハルマゲドンも、存在しないものである。掟通りに生きている者にとっては、関係のない体験なのである。あるけど無い、のである。全員に影響するものはなく、すべて、「自分にとって」なのである。

『苦労して育てたのに』と言っても、育てたのは自分の期待を満たすためである。農産物でも、子供でも、ペットでも同じことである。苦労したのは自分のためであり、自分が何かを得るためである。鶏を飼育するのは、お金を得るためである。お金を得れば、「生活」が成り立つ。結局は、「経済社会」で生き延びるために利用しただけである。大切にするのは自分のためである。自分が生きるための拠り所だから大切にするのである。自分の期待を満たすために世話をしたのである。正確に言えば、「育てる」ことはできないのであるが。

魔コトの世界には「他人のため」はない。すべて自分のためである。真コトの世界では、「自分のため」は、同時に、「他人のため、世のため」であるから、「他人のため」とは言わない。自分の思いのままにすれば、「万象万物のため」になるのである。従って、自己犠牲とか、自己犠牲の美化という概念の議論は無い。魔コトの世界でも、真コトの思いのままにすれば、魔コトを生きている者がそのことに気づいて、一時的に自分の持っているもの(期待、依存対象)を失うから騒ぐが、長い目でみれば、真コトに気づくことになるから、他人のためになる。一人でも多く気づけば、万象万物のためになる。どっちにしても、みんなのためになるのである。自分の得のためだけに自分のために何かをすれば、それは、魔コトを進め、真コトの改心がないままで、みんなも同じことを続けることになるから、他人のためにはならず、最後は、万象万物を失うことになる。自分のため、誰かのため、すべてのためにならないのである。「すべてのためになるか、すべてのためにならないか」である。自己犠牲ならすべてが犠牲、自分を生かせばすべてが生きる。この九分九厘同じ表現の一厘の違いがわかるかどうかが、天国と破滅(「地獄」ではない)の分かれ道である。
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略奪の世界では、全員が借りを持っている。借りなければ思い通りの形にできない世界で、生殺与奪の権を、政治権力や銀行、親や教師や教祖が、誰かが握っているというのはおかしい。自らで産み出せない者が、誰かを生かすことはできない。相互依存の世界では、支配者も被支配者に支配されている存在である。誰も、本当の意味で、力は持っていない。力を行使される者がおとなしく従っているから力を使えるだけである。自分に力があると思ったら大変な取り違いである。いかなるものも、同意無くして動かすことはできない。人間でも霊でも同じことである。真コトに生きる者には、一切の脅しは通用しない。それをすれば、脅した側が恐怖を、苦痛を、苛立ちを感じることになる。この世界での問題(争い)は、力と力の征服合戦の結果であり、見える形に原因があるのではない。権力者も大衆もお互いがお互いを生かしているのであるから、どちらが偉いか、正しいか、悪いかの比較は意味がない。このシステム、思想自体に同意している各自に責任があるのである。

問題のないところにわざわざ問題を作り出し、それを解決するというゲームが、何千年も続いている。視点を変えれば、現代社会には、問題は何も無い。限定した視点、思想に基づいた考えで、問題にしているだけである。すべての現実は、それぞれが自分で作り出しているのである。他人には問題であっても、自分には問題ではない。自分の問題を全体の問題の如く語り、他人に問題視するように仕向けても、それは叶わない。そういう自分と同じ思考をしている者が、問題視してくれるだけである。自分の苦しみをわかってもらおうとしても無駄なことである。自分の苦しみを他人に体験させることはできない。『わかってもらえない』と思う自分がイライラし、苦しみを増すだけである。自分の考え方が全員の考え方、普遍的な考え方であると思っている自分が生み出した自業自得の苦しみである。誰かに苦しみを分かち合ってもらおうとする態度こそ、社会を混乱させる傲慢であり、本当の意味で迷惑な振る舞いなのである。マスコミが問題を提起したとしても、それは、それを問題だと感じる者にとっての問題である。人類全部の避けては通れない問題は、「問題だ、と思うその思考を握っていること」である。この世界(肉眼で見える、肉体で体験する物質の形の世界、言い換えれば、この世)に固執すること=この世で生き残ろうとすることこそが、人類共通の、歴史上唯一最大の迷惑であり、すべての問題の産みの親である。

問題とは、自分の生死に関わる事柄、自分の生存が左右される状況のことを言う。地球環境や、戦争や、経済破綻や、国の崩壊が問題ならば、あなたが、その世界の中で自分を生かそうとしているということである。その世界は天国を破壊した世界であるから、『天国を破壊した世界を破壊することは問題だ』と言っている、言い換えれば、『地獄の維持を妨げることは問題だ』と言っていることになる。簡単に言えば、あなたは『天国を破壊することは問題ではない』と言っているのである。しかし、あなたは、天国を作るために問題を解決しようとしているのであるから、これは矛盾する。つまり、本当の天国を知らずに天国を作ろうとしているのは明白である。あなたは、ウソの天国創造の空想劇を実体のある世界と錯覚しているのである。テレビゲームの3D、3D映画の現実を本物だと思い込んでいるのと同じである。実際には、その3Dが終わった世界、スコープを外した世界が現実の世界である。映画館を出た世界が本当の世界である。自ら嵌めた嘘は自らしか外せない。
P180
あなたは、3D映画のままで、現実世界を創ろうとしているのである。しかし、その映画は、誰かの仕組んだプログラムで作られている。その誰かの意志が変わらなければ、プログラムは変わらない。プログラムが変わらないならば、物語は変わらない。映画を見ているあなたには、映画そのものは変えられない。その3D映画のテーマが「光と闇の戦い」ならば、どんなに場面が変わろうと、題材が変わろうと、そのテーマ自体は変わらない。「本当の天国」がテーマならば、そこには戦いはない。バトルにどっぷりと漬かると、永遠の天国はつまらなく見える。しかし、永遠の天国でもバトル遊びをすることはできる。子供の遊びを本物を使ってできるのである。どんなに壊しても許される映画の世界を現実として体験できる、映画も現実も一つになった世界である。何回死んでも死ぬことはなく、何回壊してもなくならない。あの世とこの世を分裂させたままの世界、つまり、生死時空がある世界では、それは不可能である。今の思想のままでは本当の天国は永遠に実現しない。

『戦争は許せない』と言う。しかし、本当に真コトがわかっている者がやるのなら、それは遊びである。戦争ごっこである。泥棒ごっこをしている子供は、自分がごっこ遊びをしていることを知っている。自分を本当の泥棒だとは思っていない。戦争ごっこをしている子供は、死んだフリをしているだけである。今は「殺した積もり」の遊びであるが、本当の天国では、本当に本物で遊べる。『殺しても死なない』とわかっている世界だからである。

永遠の天国の神が、戦争を作ることもできる。戦うことがタブーならば、今の世界は存在することはできない。「戦い」の意味が違うのである。何のために戦争をするのか、何のために戦うのか、何を目指して戦うのか、である。真コトと魔コトの戦い、ハラとアタマの戦いでは、戦っているアタマの方は、自らの生存を賭けて戦って本気で勝とうとしている。しかし、ハラの方は、アタマがどう足掻いても絶対に勝てないとわかっているから黙って戦わせておく。横綱と子供の相撲である。横綱は、子供とは本気では戦わないのである。

真コトは一つの響き、魔コトは分裂の響きである。どう仮面を付けようと、基が魔コトである限り、それは分裂の響きである。真コトは感謝、魔コトは身欲である。感謝と文句が同居する感謝ならば、それは自らのご都合による感謝である。これをしている限り、真釣り戻しの情けに感謝することはできない。自分に訪れる苦の響きに感謝することはできない。苦が返る仕組みを作らなければ、永遠の破滅なのである。苦というのは、本当の死の危険を知らせる、魂を助けるためのお知らせである。『苦に感謝するのはおかしい』と言うなら、あなたは永遠の滅びである。このことが本当に納得できるには、生死損得を捨てて(すべてのアヤマ知を捨てて)、他人に何と言われようと、世間の常識がどうあろうと(実際は、根拠のない幻想であるから、それを実体だと思っている自分をおとなしくさせるだけであるが)、例え殺されるかも知れないと思おうと、自分が真実だと思う通りに正直にやるしかない。実践して癖にしたことは、実践して癖を直すしか方法はない。いつまでも、アタマの論理のお遊びでわかった積もりになっても意味はない。ますます混乱するだけである。議論していること自体が分裂思考を持っている証しであり、議論が激しくなることが、アタマの思考の限界が近いことを示しているのである。いずれ、形となり、実際の殺し合いを体験することになる。今は『自分はそうならない』と思っているかもしれないが。
P181
本来は時空はない。時間という概念も、空間という概念も、自分が信じているイメージに過ぎない。霊の世界には時空は無く、同時同空である。すべての周波数が同時に存在する。すべてが今ここにある。正確に言えば「今」も「ここ」もイメ―ジできない。時空を作っている者にとって、この状態は「無」又は「死」を意味する。「完全孤立」の感覚である。この感覚が「完全自由」、すべてを作り出す力の存在する場所である。時と所(空間)を生み出す、源である。この感覚を避け続けると、相互依存の世界が完成する。今のあなたは、本来の源の一つの響きを細かく分離して見ているだけである。一つの響きの一部分を分離して受け取っているのである。テレビで自分があわせた周波数の画面を見る如く、自分の持つ周波数の世界が自分の世界である。それは他人には適用できない。実際には膨大な周波数の番組が同時に存在しているのであるが、同じ材料を使っているから、それが同じ世界に存在し、同じルールを適用できると思っている。あなたの見ている世界は、あなた独自のものであり、言うなれば、人の数だけの世界が重なって同時に存在しているのである。

音声や文字として認識できる言葉は一つであり、その意味も元は一つである。誤解や、取り違い、議論はあり得ない。それがあるならば、両方とも取り違えた解釈である。双方とも、見ている世界に制限がある。すべてを包含する見方が元の見方である。本当の世界には言葉はない。映像と言葉は一体である。言葉と映像は分離しない。「考える」という作業は存在しない。思考に同調して映像が変わるだけである。あなたが存在する元の世界は、映像と言葉が一体の世界である。言葉が映像の仲立ちをすることはない。この世で言う、テレパシーである。文明の象徴とも言える文字は、実は、最も分離した世界の道具である。映像を言葉で説明することは困難を要する。テレビは走査線が映像を再生する。映像を文字で説明すると、その文字から映像を再生するのには時間がかかる。一つの映像を文字で書く、そして、それを読む。読むというのは映像の再構成である。映像を文字にし、文字を映像に再生する。文字を読む者にフィルターがかかっていれば、映像はゆがむ。一つの言葉には無限の映像をあてはめることができる。言葉と映像の不一致が、議論の基である。
P182
自分の中の天国と現実を一致させることが天国に戻ることである。自分のフィルターを透明にする、めがねを外すことが、天国に戻る方法であり、自然の法則違反を清算する方法である。元の一つを直せば、すべてが直るのである。バラバラに解決しようとすると、ますます分離が進む。すべてが同時に進む。すべてを元に戻すということは、分離したものをすべて統合することである。すべてを一つに戻すことである。すべてが一つに収束する。収束するというより、それしかないのである。あなたが分離している悪は、本来は分離できない。悪を分離した分だけ、戻る悪が強化されるのである。恐れを避ければ、もっと恐ろしいものが来るということである。自らが自然の掟に反した結果生み出したものを排除するならば、それは、自らがしたことを認めないということである。神は自らがしていることの責任をとる。というよりも、自らの思い通りに産み出せるから、責任という概念は無い。違反はないから責任もない。『責任を取らせる』という思考は、言い換えれば、責任転嫁の思考である。自分の違反の責任を他人に取らせるということである。本当の意味では、責任転嫁をすれば、違反が進むから、自分のためにはならない。この世的には、「得」であるが、本当の意味では、責任転嫁は、自らの破滅を意味する。それぞれが自分の責任を取る世界であるから、自分が責任を取らない限り、それは自分だけの破滅を意味する。

天国の者が集まって天国ができる。みんなが天国になるのではない。天国に独りだけ、ということもあり得る。違反を清算した者だけ、が天国に戻れるのである。つまり、違反を清算した者が1人も居なければ、天国には誰もいないこともあり得るのである。本当の天国は、神だけの世界である。人間の社会で法律を破ったら、娑婆で自由に生きることはできない。ただ、今までの世は、権力者が好き放題に振舞える世であるから、法律を破っても自由になることはできる。しかしそれは、今世の表面上のことであって、実際は、不自由になっているのである。同じように、神が神の決まりを破ったら、その違反を清算しなければ、神の世界には生きられない。神の決まりは厳格である。違反者は、万象万物の破壊者であるから、滅びである。神の掟には天国か滅びしかない。今までの世は、執行猶予の期間だったから、懲役だの禁固だの罰金だのが存在したが、実際は、時空はないから、違反即滅び、即ち、違反者は表に現れることはできないのである。神の世は始めから自由で天国なのである。ここで言う神は、今の人類が考える神ではない。分離した世界の神は、神ではない。悪魔があっての神は、神ではない。神が神にすがるのはおかしい。神が神を信仰するのはおかしい。神が神と戦うのはおかしい。それに気づかなければ、真コトを知らない魔コトの神を信仰したまま、破滅するのである。自らが破滅の道を選べば、自らは破滅の道を歩むのである。現世的に言えば、自分の思いはすべて形になるのである。


実践・日本真道(事実その3)

現代社会の日本人が忘れた本当の神の道

実践・日本真道  長谷・章宏 著


事実 その3(P183~255)

P183
現代社会は、元つ天の大神の掟(真釣り)を外した魔釣りのアヤマ知で作り上げた過ちの歴史の末路の型示しである。今の仏教で言えば、末法の世である。真釣りを外して自ら産み出せなくなった者ができることは、「すでに有るもの」を使うことだけである。大神が産み出している天恵(自らの命と死後も含めた時空とそこにあるすべてのもの)の「使用料」を、産み出した本人に支払っている人間は何人いるだろうか。もし未払いならば、それは、クレジット購入(ツケ払い)である。もしそうならば、その天恵を使って作ったすべての「商品」、日常生活で使うエネルギー、それらを作り出す理念や技術、自らの肉体や命、森林や海や山や川、酸素、太陽、月、自らが存在する空間、時間、宗教や科学や知恵や歴史や天恵や魂や神仏も含めて、今まで手にしたものすべてのすべてについて、神々も含めた人類(つまり、あなた)に所有権はない。支払完了までは、自分のものにはならない。真釣りを外して、自らでは無から何も産み出せなくなった者が作る今の世には、自分の命も含めて、人類のものは何もない。すべてのすべてが「元つ天の大神様のもの」なのである。

お金というのは、資源を加工してつくった道具、言い換えれば、資源から産み出された子どもである。自ら産み出せない神々と、天恵がなければ何もできない人間が、魔釣り世を思い通りに進めるために考え出した経済社会だけで通用する、神を金に置き換えた形の世界を支えるための道具である。お金というのは、言わば、形の経済社会限定の神であるから、真釣りの神へのお金の支払はありえない。従って、神仏も含めて、元つ天の大神が真釣りで産み出した天恵に対する使用料を払うことは誰もできない。真釣りで真釣りの天恵を使うならば、それは、所有しているのと同じであるから自由に使ってよいが、魔釣りで真釣りの天恵を使い続けるならば、それは泥棒しているのと同じである。真釣りならば借りはなく、真釣りでないならば、それは借りていることになる。使用料を支払えば使ってもよいという理屈も成り立つが、元々は、真釣りのみであり、借りるという概念は存在しない。今の世は、真釣りに戻すための仮の世であるから、その理屈は永遠には使えない。つまり、真釣りに戻す行をしない限り、返す気はないということである。それは、天地の理法を破って盗み続けることを意味し、支払をしないならば担保(魂の命)と引き換えである。魂の命を渡せば、あなたはいなくなるから、あなたはもうどこにも転生できない。神仏も含めて、今世には「泥棒」しか存在しない。あなたには、真釣り戻しの地獄を超えて永遠の天国に戻るか、魔釣りで生きる泥棒を続けて永遠に滅ぶか、二つしか道はない。神々すらも逃げられない、生死時空を超えた元つ大神の真釣り戻しの大掃除が迫っている。

真釣り戻しをしない限り、あなたのいる世界はどこにもない。この世もあの世もあなたの世界ではなく、ましてや、ミロクの弥栄の天国など、あなたにとっては風前の灯火である。真釣りを外した借りの世の、損得の世界の経済社会の中で利便を追い続けているということは、それは、真釣り戻しなどする気はない、魂の自殺志願者であるということである。天恵を産み出している源の元つ大神を忘れた神仏は泥棒するしか生きる手立てはない。無神論者も含めて、その神仏を信仰する人間も同罪である。つまり、神仏が基にある現代社会は「天の泥棒」が作った世界であり、泥棒の分け前で生かされている人間の世界である。泥棒は泥棒の世界でしか存在できない。泥棒は略奪の世界を進めることしかできない。泥棒は奪い合いの世界しか創れない。泥棒したものを分かち合っても天国はできない。自らが産み出す響きを持っていれば奪う必要はないから、奪い合うなら、産み出す響きがない証である。魔釣りで手にしたすべてのものを捨てない限り、本当の天国は永遠の幻となる。
P184
本当の天国、極楽、桃源郷、エルドラド、ガンダーラ、エデンの園、は、真釣りのミロクのことである。「昔昔の或るところ」そこが、あなたの天国である。遠い遠い昔、あなたはそこにいた。あなたが元いた故郷に帰るだけである。あなたがすべてのアヤマ知を捨て去って真釣り戻しをしない限り、今の人間が言っているように、SFの世界で終わってしまうことになる。今のあなたにとっては遠い厳しい道である。しかし、それは必ず歩ける道である。あなたが生死も時空も超えた命の道を歩む覚悟をするならば、その天国は現実となる。ただし、それは、真釣り外したあなたが創った茨の道であり、誰も助けてはくれない。あなたが自らしたことを清算しない限り、あなたがそこへ戻れないだけのことである。

元の天国へ帰るか帰らないかはあなたの問題であり、選択の結果はあなただけのものである。あなたが誰かを連れて行くことはできないし、誰かに連れて行ってもらうこともできない。元つ大神が真釣り戻した時、ミロクは現われる。しかし、その時にあなたが真釣りに戻っていなければ、あなたはそこにいない。すべてのすべてが、あなたが教えられてきた真実とは逆さまなのである。あなたの言った通りの世界をあなたは体験している。あなた次第で、どんな世界を体験することも可能である。永遠の天国に戻るも、永遠に滅ぶもあなた次第である。あの世にもこの世にも生きられない、神仏すらも逃げられない真釣り外した魂の成敗の時、魔釣り世の終焉が迫っている。あなたが本当の故郷に帰れるかどうかは、すべてあなた自身にかかっている。今すぐに嘘の夢の現実から目を覚まして欲しい。

「限りあるもの」で限りない欲望を追い続ければ、必ず破綻する時が来る。産み出す響きを持つ集団は限りない世界を創る。天恵(資源)に限りはない。限りある(と勝手に思い込んでいる)資源を奪い合い、儲けや利子を加算して売買(回収)すれば、その限りある資源の減少がますます加速する。その「限りある資源」を使って作った、一層限りある「お金」と呼ばれる「紙」が支配する世界で限りない欲望を追い続けても、それははかない夢と消え去る。あなたがその世界に命の基を置いているならば、その世界と共に消え去る。天地の掟を破っている中つ世の戦いの神や慈悲の仏が、どうやって天国を創るのか。ましてや、資源すら作れない人間が、どうやってお金で天国を創ろうというのだろうか。お金を使った天国争奪戦をしている限り、何回生まれ変わろうとも天国は永遠にできない。もうこのあたりでマヤカシの天国創造ゲームは終りにして、本当の天国への階段を降りはじめたらいかがだろうか。今のまま昇れば、最後の扉の向こうは永遠の奈落の底への崖である。すべての階段はそこで消え去る。扉を開けた瞬間、あなたは永遠の闇の谷底に落ちる。
P185
お金が社会を支える仕組みでは、お金=物(サービス)=衣食住であるから、お金の量が自らの衣食住(命の基)を支配する。お金の量=物の量であるから、お金(神)が動かないならば、物(天恵)は不足する。お金をどこかに貯めている分、不自由になるのは当然である。将来や家族や弱者や政治家等々のために残した分だけ、今のあなたが不自由になっている。あなたが、経済的な不平不満を言う相手は、マヤカシの経済社会に服従しているあなた自身である。お金ではあなたも他人も自由にすることはできない。よく目を見開いて見て欲しい。献金や寄付で人を救ったり、社会を良くしたりすることはできないし、倹約や保険や年金や貯金で自分自身を自由にすることもできない。ましてや、生活保護や物乞いや施しに頼っても、お金の世が終われば命はなくなる。お金でお金を増やしても、それはただのギャンブルである。お金の世界はお金が回る間だけの世界である。天地の理法を破った神々をその源に持つ西洋文明が考え出したお金の社会の行く末は世の破滅である。お金が神になっている金融経済社会を土台にした現代社会のどんなやり方でも天国は創れない。そればかりか、魔釣りの響きのお金に命を預ければ、永遠のイノチを失う事態がやって来る。元々は何の力もないお金に命を預ければ、あなたは本当に死んでしまうことになる。社会も破滅することになる。金融を自由に操れる、お金の世を作った者だけが、お金を神とする世界を支配する神になることができるのである。その支配者が自らの辿る運命を知らないのだとしたら、支配下にある大衆の運命はいったいどうなるのだろうか。現代社会は、形のお金で万物を支配できると言う宗教が創るマヤカシの世界の中にある。

お金の世界の支配者がお金の世界の神官であり、神であるお金と人を繋ぐ神社は銀行である。神道の神官も祀る神も神社も、その「金融神社」の支配の下にある。これは、現代社会が、金が神を支配する世界になっている型示しである。形になっているものを見れば、そこがどんな世界なのかを知ることができる。しかし、本当の真実(事実)、すべてを見通す目を持っていなければ、罠は見破れない。この本は、その目(真コト)を取り戻すための本当の真典である。今でいう第三の目、知恵の目というのは、真釣り外した蛇の分つ知恵の目、魔眼(魔コト)である。魔眼でこの本を読んでも、全く意味をなさない。その目でどんなにすべてを見通したつもりでも、その「すべて」は、アヤマ知のカタチの世界の幻想の神の世界に過ぎない。瞑想は蛇を上げる方法であり、真釣りなく霊性を開発するというのは、蛇の封印を解くことを意味する。霊性は開発するものではない。真釣りに戻ることが霊性顕現の基である。蛇は何回脱皮しても蛇であり、竜にはなれない。竜は、水の神の化身などではない。本当の竜は、生死時空を超えた三千世界を鳴らしめる火のカミであり、今でいう竜は、水(カタチ)の世界を知恵で支配する蛇の化かした姿(蛇竜、邪竜)である。火とは、すべてを下から支える響き(▽、|)、水とは、すべてを上から現す響き(△、―)。火と水が縦横正しく組み結んだ素型、姿(十)を火水、カミと言う。そして、その中心に働く、すべてを産み生む力を産土力と言う。これが、すべてを産み出す力、元つ大神のハタラキである。カミの十字が倒れないように-力で支えた『土』の姿が自然(至善)の素型(雛型)である。曈(火土水、ヒトミ)に映るすべてがカミの顕現なのである。
P186
現代社会の源流は、神話の世界も超えた元つ天地の大神の代に遡る。これから訪れる、本当の天国、三千世界に真釣りの響きが鳴り渡る真コトのミロクの世(言い換えれば、魔釣りが永遠に滅びる世、真釣りだけしかない神代)というのは、実は、あなたがかつて住んでいた、この世の始めの元つ天地の大神の御代のことなのである。今のまま進歩発展していけば本当に天国ができるのか? 神話や空想とはいったい何なのか? 人類の起源はどこにあるのか? 神や仏とはどんな存在なのか? 悟りとは何なのか? 心を空にする、無にするとはどういうことなのか? なぜ戦争がなくならないのか? 自分は何のために生きているのか? 人類は何を目指して歴史を作ってきたのか? 何のために歴史を学ぶのか? その結果、今の社会はそうなっているのか? いつになったら目指す世界が実現するのか? なぜ実現していないのか? 等々、人類永遠の謎、永遠の問いの答えがなぜ未だに出ないのか? 真釣りの真コトを忘れている限り、何一つ解決することはない。

現代社会は、真釣りの世で真釣りを外した身魂が神法違反を償うために創った期間限定の完全自己責任の刑務所の中にある。それが、あなたがいる世界の正体であり、その中での歩みが人類の歴史だったのである。そこにはあなたを監視する刑務官も、あなたを邪魔する同僚も、あなたをかばってくれる友人もいない。そういう存在がいるとあなたが思い込んでいるだけで、実際は、あなたがあなたを監視し、邪魔し、助けているのである。誰も「罪」を償っていないならば、刑務所の中は戦場と化す。『自分は何も悪いことはしていない』と言う囚人同士が争って、自分だけが自由になろうとするが、箱の中ではその望みは実現することはない。場取るロイヤルの最後の囚人は自らと戦って自殺する。あなたがそこから出るか出ないかは、あなた次第である。娑婆に出るか死刑になるかを決めるのはあなたしかいない。あなたがあなたの閻魔大王であり、最後の審判の神である。あなたの一生はまだ終わっていない。あなたはまだ一度も死んではいない。あなたという魂が生きるか死ぬかを決める最後の審判は近い。そこで、あなたの永遠の生死を決める判決が出る。

神仏を含めた人類の歴史を進めたら、いつか天国ができるのではない。どこかに天国があるのでもない。自らで自らの真釣り違反の罪を清算することで、今のあなたの現実が元の真釣りの世に戻るだけのことである。天国は今の瞬間にすでに存在している。その天国を隠しているのは、真釣りを外して魔コトで曇ったあなたの真中である。真中の曇りを綺麗サッパリ取り祓うことで、天国の正体がわかり、真釣り戻せば今世で天国の疑似体験ができる。そして、元つ大神の大掃除の後には、永遠に続く本当の天国を実際に生きられる。
P187
今のあなたがいるところは仮の世であり、あなたはここで真釣りを戻すことで、本当の神世に産まれ出るのである。あなたが魔釣りのままならば、本当の神世は存在しない世界となる。あなたは、本当の神世の掟を破った今世を実体だと思っているが、それは錯覚である。あなたが本当の神世をありえない世界だと思っているなら、それは、本当の神世から見た今世のことである。あなたが魔釣りのままで本当の神世に存在することはありえない。

元つ親神が用意した、真釣り外したあなたを滅びから救うための結界(岩戸、バリア)が、神の子のお宮である。あなたという魂は、その子宮の中で生まれたのではなく、子宮の外から入ったのである。今世の妊娠と出産の仕組みはこの形示しである。今の世では、別の肉体とSEXをせずに子供を宿せるのは雌雄同体の生物だけであり、火水が正しく組み組んだ真釣りの世の「人」ならばいざ知らず、子宮の中に突然現れた胎児というのは聞いたことがない。卵子は○、精子は・である。精子が外から入って、受精して⦿になって、細胞分裂(バラバラになる分裂ではない)して、精緻な肉体が出来上がるのである。あなたは今、神の子宮の中の胎児である。あなたは神の代で真釣りを外したがゆえに、胎児となって神の子宮に入り、真釣りを取り戻し、出産して元の成人に戻るハメに陥ったのである。

神法に違反した身魂は、天地自然の調和を乱し、万象万物を滅ぼす響きを奏でるから、本来は即滅びである。真釣り外した身魂であるあなたは存在していない筈である。あなたが魔釣りのままで今存在できるのは、元つ大神が、愛しい我が子を真釣りの御世に連れ戻すために、一度だけ復活の機会を与えてくれたからである。本当の親心から、違反を知らずに好き放題する放蕩息子を真釣りに戻すには艱難辛苦の苦労があることを承知で、自ら違反に気づき自らで真釣りに戻ってくれることを願って、真釣り戻すための「情けと花の仕組み」を構え、神仏を含めた真釣り外したすべての身魂の罪をご自身ですべて引き受けて、今まで陰で支え続けてくれたのである。大神の御苦労をないがしろにすれば、天国はない。

大神の子宮の中で、世の真釣り戻しをする大掃除、本当の大神のお手伝いをするのが、ヒノモトの民の天命であるが、居心地のよい揺り篭の快感に味をしめ、魔釣りの蛇と共に滅びの世界を進めている今の生き様は、世界の父親としてなんとも情けないの一語に尽きる。魔釣りの蛇の民は、真釣り外しを壊す役目であり、真釣りの真コトは知らないのである。ヒノモトの民が真釣りの真コトの一厘の響きを取り戻さなければ、世界は本当に破滅する。元つ真釣りの仕組みを絵空事の如く思っていい加減に扱えば、それは永遠の死を意味する。今からでも遅くはない。今ここでアヤマ知の世と決別し、生死時空を超えた永遠の命の道、真釣りの真コトの生き様に戻って欲しい。どんな苦難が待っていようとも、それをすることが、元つ真釣りの直系の霊統の身魂を持つヒノモトの民(あなた)の天命なのである。ヒノモトの民が真釣りに戻ることが、同時に、世のため人のため神のためになるのである。
P188
真釣りと魔釣りは裏表であるから、あなたが真釣りに戻るためには、魔釣りのアヤマ知をすべて捨てて、ゼロ=無から、神の赤子から真コトの道を歩き直さなければならない。いつまでも四つ足の獣の響きでハイハイしていないで、大神の言うことをハイハイと聴いて、真コトで歩くことである。妊娠には期限があるのはご存知のはずである。この世の形示しは、大神からの教材である。忍神にも限度がある。妊娠期間は始めから決まっているのであり、人類の都合などという勝手な理由で伸ばすことはできない。どんなに恐ろしいことになろうとも、時が来たら陣痛が開始され、神の世界への産道(ミロクの神宮への参道)に出なければならないのである。一度産道に出たら、もう子宮には後戻りはできない。自然の法則は破ることはできない。真釣り外したあなたが今ここでやるべきことは真釣り戻しである。現代社会の宗教や科学の言う天国を作ろうとし続けるなら、永遠の死産となる。

真釣りの代は言わば「濃硫酸の海」であり、真釣り外したあなたは、大神が用意した子宮がなければ、融解してしまう。真釣り外した身魂は、岩戸というバリアの中に入らなければ跡形もなく溶けてしまう。岩戸の中で、大神が臍の緒を通して教えることを素直に聴いて、真釣りを戻して、真コトのヒトに戻れば、真釣りという濃硫酸の海がただの水になり、あなたは死ぬことはなくなるのである。あなたが臍の緒の言葉を完全無視しているから、あなたの目の前にこの本が現れたのである。この本は、あなたの臍の緒に鳴り響く神言を耳(実身)に聞こえるようにしたものであり、あなたの最も奥深くに封印された事実を述べ伝えるための型示しである。あなたが内の言葉を無視し、外の言葉にばかりに耳を傾けているから、鏡を渡したのである。あなたは、子宮に入る前にいたところへ戻るだけである。

元々のあなたは光の存在である。あなたは成長するのでも進化するのでもない。あなたの光を曇らせた汚れを磨いて取るだけである。あなたが持っているすべてのアヤマ知を捨てること、真中の曇りを磨いて元の真コトの輝きを取り戻すことが心の掃除であり、身魂磨きであり、真釣り戻しなのである。今あなたがいる所は、魔釣りの教義を信仰して曇った真中の埃を真コトで掃き清める魂の神社、魔釣りの嘘を学んで真実が見えなくなった自らに真釣りの自らが真コトを教え直す魂の学校でもあったのである。時が至れば、当然のことながら、現代社会にある、文字通りの「刑務所(神社、学校)」も含めて、魂の刑務所(神社、学校)は蜃気楼の如く永遠に消えてなくなる。子宮がなくなれば、あなたという存在は濃硫酸の海に溶けて海の一部となり、もう二度と自分の人生を歩むことはできなくなる。

天国が未来にあると思い込んでいることが、人類の歴史の進歩発展神話の原動力である。元々全き光の存在であるあなたに進歩や発展などない。あなたは自分自身に騙されていたことに気づかなければならない。現実というのは、永遠なる今の瞬間の連続を体験しているだけであり、実際には、過去も現在も未来も存在しない。それらは、分かつ知で「今この瞬間」を分離したあなたが、今の瞬間に作り出しているただのお話に過ぎない。過去がなければ未来は作れない。未来を作っているあなたは過去を見ている。その過去と未来を分けているのはあなたであり、それを想像しているのは、今この瞬間である。あなたは、明日が来ていないのに明日の心配をし、もう終わってしまった過去の映像にしがみついている。あなたは今に生きてはいない。あなたは過去と未来の幻想を見るために生きていることになる。そして突然、明日という日常が消え、晴天の霹靂の如く、避ける間も無く究極の苦脳と暗闇の世界に放り込まれる。あなたが次の瞬間に生きているという保証はない。
P189
あなたが最も恐れていた現実が実体となる時が、必ずやって来る。あなたはどう足掻こうとも、真釣りの大神の手の中から出ることはできない。あなたがどんな理屈を持ち出そうとも、真釣りの神法から逃れることはできないのである。あなたが真釣りであるならば、あなたは、永遠に天国を産み出す大神の世界を体験している。あなたが魔釣りの響きであるならば、どんな手立てを労して逃げようとも、あなたには三歳苦難の修羅の地獄を避けることはできない。逃げようと思えば逃げられるが、逃げた分だけ地獄を増やすだけのことである。今のあなたの地獄がどんなに酷いとしても、あなたにとっては一番楽な地獄なのである。真釣り外したあなたは清算の地獄は避けられない。素直に地獄に落ちることがあなたが本当の天国に帰る唯一の術である。いい加減に、自作自演の「あんたのせいだゲーム」「怖い怖いゲーム」をやめることである。極楽トンボが生きられない時が迫っている。

真釣り外しの響きを清算する総決算の祓い清めは、神仏ですらも逃げられない。あなたの態度次第で、あなたが見ている天国も破滅も、どちらもあなたの現実になりえる。あなたが今のまま同じ生き様を続けるなら、すべてが一つに戻った時、あなたは永遠の死を迎える。あなたが素直に真釣り戻せば、違反相応の地獄はあるにせよ、必ず生き戻れる。あなたが今持っているものは、思いも立場も幸せも物も金も心も、すべて奪ったものである。あなたが今持っているものは、あなたがどんな策を弄して守ろうとも最後は全て消える。あなたが本当の天国を体験したいなら、大神から奪ったものを耳を揃えて返すことである。

あなたは、「ここ」を分けることで、前後左右、遠近、日本外国、内外、この世あの世、云々を作り出して、箱の中を右往左往しているのである。あなたは「今ここ」という時空を永遠に体験しているだけであり、風景は変わるにせよ、あなたが真釣りならば、永遠に思い通りの天国を体験し続けられるのである。「今ここ」を造るやり方が魔釣りならば、あなたの「今ここ」はすべてが闇となる。あなたの世界がすべて闇になれば、時間も空間も同時に消え、あなたは、どこにいるのか、今がいつなのか、全くわからなくなる。あなたがその恐怖を避けようとすれば、あなたはその恐怖の中に自ら歩を進めていくことになる。あなたが思ったものは、実体化する。あなたが死を避けようとしても、あなたが言う「死」は自らが作った自らの現実のイメージであるから、あなたが最悪の事態を避けようとしてアレコレと画策する限りは、必ず、実体化する時がやって来る。あなたが本当の死を体験したくないならば、死を消すことである。無いものをあると言えば、それを実体化する力を自らで作ったことになり、自らが実体化した恐怖の中に自らを放り込むことになる。逆に、あるものを無いと言っても、あなたがそれを消すことはできない。実体化しないようにするほど実体化するのである。元々存在するものはあなたが力を使わなくても実体化する。あなたが本当の天国を体験したければ、一目散にそれに向かって突き進むことである。
P190
あなたは元々神であり、あなたが存在しているところは神世である。それが真釣りの神世か魔釣りの神世かに関わらず、あなたは大神の創造の響きと共鳴する真中を持っている。思っているだけでは形にはならない。あなたの思いを形にするには、行じることが鍵である。あなたが創造するものは、それがどんなものであれ、あなたの行動次第で、すべて実体化できる。あなたの思いは、すべて形になる。あなたは、今の今まで、魔釣りを実行し続けてきたのである。あなたが真釣りの天国を実現したいならば、魔釣りを捨てる行動を採る必要がある。あなたが真釣りに従って行動した時、魔釣りで得たものはすべて消える。あなたが、魔釣りで得たものの消滅を恐れて躊躇している限り、あなたは魔釣りを実行し続けることになり、真釣りに戻る道がどんどん遠ざかるだけである。あなたが本当に真釣りの天国に戻りたいならば、すべてを捨てる覚悟を決めて、ただ地獄に飛び込めばよい。

あなたの現実はすべてあなたが実体化したものであり、誰かに責任を転嫁するならば、その世界が実体化し続ける。あなたが『存在するから現実だ』と言えば、自らを騙す罠に嵌まり、最後は自己責任をとって滅ぶ時を実体化することになる。あなた(人類)が今目指している自由や平和や天国は幻想である。幻の天国を破壊するものが悪であるというのも幻想である。あなたが幻想の天国を維持する善人を演じている限り、あなたには本当の天国はやって来ない。あなたは今の今まで、幻想の天国を壊すことを悪だと言って、何の罪悪感も持たずに、当たり前のように本当の天国を壊してきたのである。本当の天国を封印する法律や道徳や常識云々をひとかけらの罪悪感もなく自らや他人に強制していたのである。現実には存在しない本当の空想物語である幻想の天国を壊すことに罪悪感はいらない。

あなたが本当に天国に戻りたいならば、偽の天国で生きようとしている者を無視することである。何の遠慮も慈悲も要らない。神法違反をしておいて命乞いをする資格がある者は誰もいない。嘘の天国を作る社会の語る正しさや善はマヤカシであるから、それに囚われて真釣りの実行(魔釣りから見れば破壊、邪魔、迷惑であるから文句を言ってくる筈である)を躊躇する必要は全くないのである。真釣りが絶対善であり、本当の正義である。それを語ることに何の遠慮も要らない。絶対の正義を心底から自信を持って実行すればよい。本当の天国を生きている者は、あなたが何をしようとも一切何も言わない。すべては、自業自得であり、あなた自身が真釣り外しを清算しない限り、真釣りは生きられないからである。あなたが魔釣りで滅ぶか、真釣りに戻るかは、あなたの個人的な問題である。一度は真釣り戻しの道に入ったあなたが、再び魔釣りに逆戻りして永遠の滅びの道を選ぼうとも、大神ですらそれを止めることはしない。あなたが真釣りに戻るか戻らないか、それだけがあなたの永遠の生死を決める鍵なのである。あなたの直面する唯一最大の踏絵である。

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本当の天国を生きるには、魔釣りで教わった罪悪感を捨てることである。幻を殺すことに遠慮はいらない。幻は実体のないものであるから、本当の天国から見れば、すでに死んでいる世界である。偽の天国に生き残ろうとして、あなたを恨む者がいたとしても、それはあなたには関係がないことである。本当の天国に戻ろうとする者を恨むという矛盾に気づいていない本当の大アホである。自らを滅びに導いて喜んでいるのであるから、相当な重症の痴呆である。あなたがその者たちに遠慮する理由はどこにもない。あなたがその者たちを何とかしようとすれば、あなたは自らの永遠の命を失うことになる。犯罪者を殺すことに罪悪感を持っている者は狂人扱いである。本当の狂人は似せの天国を作ろうと躍起になっている側の人間である。絶対的に狂っている者を無視することに何の躊躇もいらない。あなたが今持っているすべての罪悪感(言い換えれば、慈悲の心、思いやり、優しさ云々)を捨て去ることである。たとえ微々たる罪悪感を持っているだけでも、本当の天国の神の真意を見逃してしまう。元つ真釣りの大神の真の愛と誠がわかったら、即、天国に戻れる。本当の神法は、天地自然の掟であり、破った者は自然淘汰である。問答無用で死刑となる。あなたがどんなに屁理屈をこねて抵抗しようとも、それが、あなたの違反の証であり、あなたがそれを続けるならば、あなたは、自らの頑固さゆえに自らの永遠の命を永遠に失う。

天国の体験をしたいのに、『それはありえないものだ』と言えば、あなたはその通りの現実を体験することになる。あなたが真釣りに戻せば、嘘がすべて壊れて、真コトが復活する。あなたが嘘を真コトと勘違いしていれば、破壊の恐怖を避けようとする。しかし、その恐怖は幻想であるから、あなたが恐怖を捨てれば恐怖は実体化せず、本当の天国が体験できるのである。魔釣りの幻想をすべて捨てる恐れを捨てることである。肯定の力より否定の力の方が強力であるから、否定した現実が先に実体化することになる。あなたには真釣りしかない。あなたが本当に天国を実現したいならば、天国を否定する響きを捨てればよい。あなたの天国を封印する声を完全に封印すれば、あなたの天国を邪魔するものは何も無くなる。あなたがあなたの唯一最大の妨害者であり、あなたがあなたの唯一の救世主である。

すべては逆さまであり、あなたが避ければ避けるほど、否定すればするほど、あなたの望まない現実を実際に体験することになってしまう。否定というのは、その存在を認識している証であり、否定する力が強ければ強いほど、存在を消すどころか、逆にその存在がありやかになっていく。あなたが否定すればするほど、否定している世界に現実化する力を自らで与えていることになる。肯定するのと同じだけ否定することで、その現実を自らに引き寄せることになる。すべては磁石の仕組みであり、同じ極をくっつけようとした力と同じ力で一瞬にして離れ、違う極を離そうとした力と同じ力で一瞬にしてくっ付く。あなたがどんなにしがみつこうとも離れるものは離れ、どんなに離そうと試みてもくっ付くものはくっ付くのである。あなたが真釣りの真コトの光を取り戻さない限り、今の魔釣りのあなたの世界は真っ暗となる。あなたが入ったトンネルの出口は真釣り以外どこにもない。
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永遠の天国と永遠の滅びは同居できない。今この瞬間での選択によって、天国か滅びか、どちらか一つがあなたの現実となる。見えない世界は、あなたが魔コトで曇らせた分、体験できなくなった世界である。今もあり続けている天国に戻るか、その天国を空想の世界にしたまま、本当の空想の天国を生きて滅びるか、それはあなたが決めることである。あなたの中に一つでも境があれば、それは分かつ知で見ている証しである。すべてのすべての扉(結界、岩戸)を開いた世界が本当の天国なのである。自分がずっと逆さまの世界にいたのだということを正直に認めることである。あなたが心底からそれを認めなければ、永遠の天国が復活した時、あなたはその天国にいない。逆さまの世界を本当の世界だと信じ込んだまま、あなたは全ての世界から永遠にいなくなる。いつまでも罪の清算ができると思ったら大間違いである。魂の刑務所は、万古末代一度きりの、期間限定の仮設テントである。テントの閉所時間が来たら、問答無用で、即、片付けられてしまう。その時に命乞いしても、改心しても、もう遅い。この本で、あなたに「閉所予告」をお渡ししたから、今ここで、ただちに改心して身魂の清算を始めることである。後の「真釣り」はもうない。

永遠の天国がまもなく訪れる。それは、今もある天国の「完全復活」である。魔釣りのアヤマ知で曇った魂はそこで肉体を持つことはできない。魔釣りの天国は、真釣りの天国の復活と共に消滅するからである。今もミロクの世は存在している。万古末代ずっと、始めもなく終りもなく、元つ真釣りしか知らない、何でも思い通りにできる「真人」達によって、真釣りのミロクの天国の社会が営まれている。ミロクの天国から見れば、ありえない神話の如く見える「情けと花の仕組み」という空想物語を酒の肴にしながら、真釣りの神に戻った「真のヒト」達が、何ごともなかったかのように尽きることのない永遠のエンターテイメントを楽しんでいる。あなたの真中の曇りを綺麗サッパリ祓えば、あなたにもそれがわかる。あなたの心にある天国は、あなたが元いた場所であり、今もある現実の世界である。あなたが快欲に囚われて逆さまの世に生きてしまったことで、その天国を空想の世界の物語だと思い込んでしまったのである。現代社会の人間の、魔釣りの知恵で元つ真釣りのミロクの世を創れると勘違いして、今の歴史をそのまま続けたとしても、それこそが意味のない、何の役にも立たない絵空事、無駄な努力であり、滅びのエンディングが待っている空想物語、TVゲームの世界が続くだけである。しかし、時が至れば、そのマボロシは、跡形もなく消滅する。今のあなたは呪いの仮面を被っている。自分自身で仮面を外さない限り、あなたの本当の天国は夢マボロシとして消える。あなたが真釣りに戻らなければ、逆さまの世で天国を夢見て欲に駆られて手を出した呪いの仮面は永遠に外せなくなる。
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現代社会が属する魔釣りの地獄の世は、元々どこにも無い世である。魔釣りに囚われた身魂が、アヤマ知で作り上げた幻想を実際にある現実だと思い込んでいるだけである。真釣りに戻れば滅びはなく、魔釣りのままなら、滅ぶから永遠の天国には戻れない。今の世の神話の神々の歴史は、魔釣りの世の歴史であり、人類の歴史は、その神話をも闇に葬った歴史なのである。真コトの光咲きわう神代の末期、あなたを含む神々が、快欲に囚われて、真釣りを外して、滅びの魔釣りの道に足を踏み入れたことが、すべての闇(病み、争い、幻の世界)の始まりである。快欲の響きは、一度囚われれば自らでは抜けることはできず、そのままならば滅びに至る。自らで無から産んだことがない身魂が快欲に囚われることをわかっていた大神は、魔釣りに囚われたすべての身魂を真釣りのミロクに戻すため、情けと花の仕組みを構え、その神策成就を導くスメラ(真釣りの立て直しの御役)とユダヤ(魔釣りの立て替えの御役)の二民をこの世に降ろされた。囚われを壊す御役のユダヤが魔釣りの世を立て替え、この地に真コトを現す御役のスメラが真釣りを立て直し、魔釣りの立て替えの最後の最後に元つ大神が真釣りで魔釣りを統べて(すべて)元のミロクに戻す。それが、神々の世以来続いてきた、人類の歴史の裏の裏の裏にある本当の目的である。真釣りを外し続け、偽の天国を夢見て戦いに明け暮れた魔釣りの歴史は間もなく終わる。真釣り外したそのことが、元のミロクに帰る仮の世での戦いの歴史の始まりだったのである。

元つ大神の真コトの真意を知らない、真釣り外した人類は、情けと花の世で天国を創ろうと、世を進めてきたのである。真コトの一厘を知らない魔釣りの知恵の神は、自らの知力で世を支配できると思い込んでいるから、世が天国になればなるほど魔釣りが進み、滅びの時が近づく。魔釣りの神が元つ大神の如く振舞う今の世でユダヤ十二部族の血統を追いかけても、世の真相は闇の中である。現代社会がアタマの知恵で創られた世であるとすれば、その結末はどうなるか。身魂が本当のあなたであるから、この仕組みを取り違えれば、今の肉体の命の死どころではなく、あなたという存在自体がすべての世界から消滅してしまうのである。真釣りは霊統により、魔釣りは血統により世が動かされる。魔釣りの霊統の源は、真釣り外した蛇の知恵の神である。魔釣りに囚われると、形の水の世界で天国を創ろうとするから、血統として現われる。すべての血統は魔釣りの知恵の神に行き着くが、その知恵の神は真コトの一厘を見失った神である。魔釣りの現世がどんな世なのか、よくよく見て欲しい。現代社会の人間にとっては想像することもできない、現代社会を生み出した首領の神すら知らない、どえらい仕組みが裏の裏の裏に控えているのである。仕組みが成就すれば、元つ天地の真釣りを外したものは、神から人まですべてが滅ぶことになる。
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元つ天の大神の真釣り(⦿)を闇に葬って、魔釣りの分かつ知(Ф)で真コト(±)を「+」と「-」に分けて、世を挙げて「+」を追いかけ続けるという唯一最大の過ちに今もって気づいていないのが、神をも含む人類の歴史である。世の源の神が逆さである限り、発展思考で世を進めるほど分裂の世界が進むだけであって、どんなに続けようとも天国はない。世の陰の黒幕も、その黒幕の神も含めて、安心も安定も安全も自由も絶対に得ることはできない。産業だと勘違いして惨業を発展させ、壊れるもの(問題)を作り続ける無駄な苦労(苦業)を積んだ挙句のその結末は、破滅である。この事実からは、いかなる神仏も逃げることはできない。ましてや、人間には、魔釣りの世で何を企もうとも、逃げるあの世すらもない。自らのアヤマ知を捨て、±を真釣りして元の土に戻さない限り、真釣りのミロクはない。+思考-思考、損得、苦楽、明暗、善悪、正誤、それぞれどちらをとっても方向性(ベクトル)は変わらないから、±の世界で○●どちらを選んでも、同じ結末が来る。

どっちが得か、どっちが楽か、という分かつ知で世を進めても、真釣りを外し続けるだけである。真釣り外せば情けの苦が増え、増えた分だけ魔釣りの掃除の手間が増え、真釣りに戻す苦労が厳しくなる。その苦労を避けて●を逃げれば、ますます苦が増える。-思考を+思考に変えたとしても、良くなったり、明るくなったり、得したりしているのは表の形だけであって、裏の響きは逆に、+思考をするほど-の響きが強くなり、+思考で得た分だけ、形の●が増えて返る。結局は、±の世界の+を選んでいるに過ぎず、分裂する限りは、●が増えるだけである。○も●も、真釣りからみれば両方とも●であり、真釣りに戻さない限り、本当の○はない。カミの顕現を一つでも×すれば、支えを失って火水の十字が傾き、結局はすべて✕となって、滅ぶ。本来は●はどこにもないはずの自らの現実に、自らの日常に、自らの社会に、自らの心に、ほんの僅かでも●があるならば、それは、自らが真釣りを外した証しである。魔釣りの世に揺りかごから墓場までどっぷりと漬かっているあなたの真中にあるものが魔釣りの響きであることは、火を見るより明らかである。自らの苦を魔釣りで避けるのがその証拠。魔釣りの分かつ知で作り上げた現代社会は、至福どころか破滅の手前である。±原理の今の世に本当に笑える者は誰一人いないのである。

幻台社会は、+が✕となり、-が÷になった、加減乗除のアタマの吸う学の計算で作られた遮快(謝壊)である。元の火水の十字が九分九厘傾いて、✕(罰)ばっかりになり、的(○、+、ターゲット)の奪いAIの戦争の世となり、覇✕の共食いが激しくなっている。地力を失って、恥力の知力で世を作り、天ばかりを崇めて点を取り合う、上下の権力十(党、等、頭、闘)争に明け暮れる。喜怒哀楽、春夏秋冬、前後左右の四分割の中心の0(無)を避けた、XとY(男と女)の平面座標のシェア争いの世界の四葉のクローバーは、乞運の象徴である。残る真コトの一厘は、元つ大神の真コトであるから、✕を正としていれば、元つ真釣りの真コトの一厘の響きが三千世界に響き渡れば、今の○はすべて✕となる。裏に隠れた闇が表に現われて、病みの世となって、闇夜となる。真コトの一厘がなければ、すべてが暗闇となって何も見えなくなる。楽が苦になるから、修羅の地獄が現実となる。
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元つ大神は中心のアン(餡、案)の神であり、始めも終りも統べるαωであり、すべてのすべての真中である。時節が至れば三千世界を元の真釣りの世に戻し、真釣り外した✕の世は綺麗サッパリ掃除される。真コトの一厘がなければ、ミロクは露と消える。ンは無(夢)であり、アは始め(創め、初め、一)である。ワヲンに戻して(人に委ねる倭を口を結んで終いにして)始めのアと開く(現す)のである。ン(n)がすべての音を発する源の父音であり、ア(ア行)が母音、kstnhmyrwが子音である。父が始めであり、母との間に子を入れてカサタナハマヤラワの五十(伊勢)音と鳴る。三位一体の言霊が、すべてを現す基である。カタカナはすべての言語の発音を表せる。すべての形は言葉になる。万象万物は響きの顕現である。すべてはカタカナ(象神名)の顕現である。ヒノモトはすべての文字を使う。ア、了、アは創めの終り。終りの創め。カタカナはすべての顕現。響きの型を示す。真、魔、マ。カタカナのアは始めの一(位置)であり、漢字のア=了は終りを意味する。中国=唐(十、頭、塔、党、盗、闘、討)の文明の日本が終り、魔釣りのAI(人工知能、電脳社会)や恋(来い、乞い、蓮)の世は終り、型神名(方神名)の神響きで、覇〆(覇権の終り、創め)の本当のアイ(愛、EYE=目、I、LOVE=0、ai=1+9=十=神)のヒフミ(比史、秘文、火史、一二三、一=三、霊体一如)の真言(誠、実)が満ちる。五十音もイロハ四十八字もンで終わる。ン(運、云、UN=国家連合)がすべてを統合する世界の元である。云はニムである。二六であり、二+六=八であり、二賭ける六=十二、云=運、云う=言う、西洋のαベットの賭け惨を最後の26でzzzと眠らせて、言葉をム(M)にして、元の始め(土師芽、破自目)のAで開く。マ=真、魔、磨、間、馬。「マ」とは、火水縦横正しく組んだ姿であり、今の世の仕事は、マ抜けな働きである。ア、A、α、世界の文字の文明をすべての言葉を統べて(全て、総べて)火の基象神名(カタカナ)で真釣り和し、真コトのアイのイロハ唄で人の口を八と開いて、元の神の世に縦戻す。元の始めの神響き、父が真火に戻ってすべてを支え、了のン(無)から云で(産んで)有と為す。総てを創めのアの世に戻す、元つ真釣りの真コトの神が、ヒノモト真中の餡雲(暗云、ANUN)祓い、元つ大便神の世を、アウンでコどもを真釣り和す。

火水は、霊身である。すべての源は大天である。大天に元つ火立ちありて、元つ水生ず。元つカミ(十)の火の響きがこの世のすべてを支える基である。その火の響きあるゆえに水生じ、水生じたがゆえに火立ち生ず。この元つ水の響きがこの世の基の現われである。元つ火の響きと元つ水の響きが組み結んだ、大きな十の姿が、「地」(この世の始め)である。地の大きな十の火の響き(|)あるゆえに大きな十の水の響き(―)が生じる。その水の響きが今でいう天(正しくは、小天)である。ゆえに、「天地」ではなく、「地天」の順が創造の正しいやり方、元つ大神の地天の理、神の掟、真釣りである。この掟を破るもの(真釣り外すもの)は、神も人も、万象万物、すべてのすべてが滅ぶ。大天に産み成された大地の火の響きと小天の水の響きが真釣り合って、すべてが産み出されるのである。この位順を逆さまにして創造しても、すべてが逆さまになり、すべてが滅ぶ。逆さまになった神と人を真釣りに戻すために仕組まれた元つ大神の「情けと花の仕組み」の中にあるのが、神をも含む、人の歴史だったのである。ここは、真釣り戻すための世界であり、その世界で逆さまのまま天国を作ろうとしても、それは叶わない。真釣り外した者にとっては人類滅亡、世の破滅が現実となる。真釣り戻した者は、本当の天国(真釣りのミロク)を謳歌できる。真釣り戻しをしなければ、時節が来れば、あなたは掟通りに滅ぶことになる。
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元つ大神の経綸は、天地創成に始まり、今回の大掃除で幕を閉じる。今回の天地の大掃除、岩戸開きは始めから決まっていたことであり、先延ばしはできず、真釣り外したものは、真釣り戻す以外にそれを避ける術はない。真釣り戻さなければ滅ぶだけであり、魔釣りのアヤマ知で作った現代社会の問題もすべて消える。そして、真コトの花が咲きわう歓喜弥栄の天国に戻るのである。逆さまの世で生み出した問題は絶対に解決することはない。問題を創った逆さまの世もろとも、消える運命にある。問題は解決するが、そこに、魔釣りに生きるあなたはいない。「情けと花の仕組み」は、真釣り外したものに、真釣りに戻す機会を与えるために期限を切って仕組み構えたのであって、時節が来れば、仕組みは終わる。その仕組みの中で取り違いをして、今の世が永遠に続くと思っていれば、突然、終りがくる。ただし、終わるのは魔釣りの世であって、真釣りの世は今もあり続けている。実際には、今のあなたから見れば存在する現代社会も、魔釣りの神仏の天国も含めて、大天には始めから存在しない世界なのである。大天の天と小天をごちゃ混ぜにして、天は一つと思い込んだのが、この世の乱れの始まりである。現代社会の宗教で言う天地創造神が逆さまならば、人の世も逆さまなのが道理である。今の世の始めの大元が逆さまならば、いつまでたっても、天国などできはせず。地獄どころか、滅びに向かって突き進んでいるのである。逆さまの世であるからこそ存在する問題を、真コトを知らない人類が解決することはできず、宗教や科学で天国を作れるなどというのは、それこそ妄想に過ぎないのである。大元を直さない限り、滅びは確定である。小天の神を崇めているなら、自らが永遠に滅ぶ。

元つ天(大天)、大地、小天の三位一体が、真コトの姿なのである。人は、神響きによって、小天の後に「地の上(ちのへ)」に産まれた神であるから、人にとっての小天は火(表の親)であるが、あくまでも、大天が本当の火、裏の産みの親である。大天の親を亡き者にして、小天の親のご機嫌取りをしても、全くのアベコベ、大きな勘違いであり、それは今世の自分を生かすどころか、永遠の滅びを意味するのである。火の支えるハタラキは男、水の現すハタラキは女、と型示しされる。元つ真釣りを外し、「地天」の順を逆さまにしたから、天(小天)の女神を、今の創造主としてしまったのである。本当の神には男も女もなく、天の女神を奉る思いは「分かつ知」で考え出した人類の妄想である。その妄想を実体の如く思い込んで「宗教」を作り出し、それを現実社会に取り込めば、本当の神(火水)を知らないまま、この世もあの世も永遠の終りを迎える時が来る。元つ神の真釣りの掟を外した神の作り出している世は、神から人まですべてが滅ぶ、魔釣りの世であることは明々白々の事実である。元つ大カミの響きが復すれば、すべてが真釣りの真コトに戻り、魔釣りの魔コトで作った世とその世に生きる基を置いているものは、どう足掻いても、神から人まで、すべてのすべてが水の泡と消える運命である。水が火を、体が霊を、女が男を支配する(体主心従霊属)ということが、どんな事態を招くのか、よくよく考えてみることである。すべてのすべてを産み生む元つ天地の理法は、霊が心を律し、心に体が属す、「霊主心従体属」である。霊は元々真釣りである。霊と体を結ぶ心が魔釣りに囚われて曇りあれば、アヤマ知で世を作り、逆さまの世を進めた末に、真釣りを外してすべてが滅ぶ。真釣りの心が霊をそのまま体に現せば、この世は歓喜弥栄のミロクの世のままだったのである。
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魔釣りを真釣り戻すには、アヤマ知で曇った心を綺麗サッパリ掃除することが唯一絶対の条件である。体主心従霊属の魔釣り世を、霊主心従体属の真釣り世に、一気に立て替え立て直して、末代倒れない真コトの真釣りの神の世に戻す、それが、元つ大神の最後の大掃除である。あなたは、真釣り戻すために今世に産まれたのであるが、今のあなたが何をしているのか、よく考えてみることである。真釣る順番を逆さまにして、水(小天)が、支える火の如く振舞って水(カタチ)を支配すれば、真コトの火(支え)が消えた水(カタチ)ばかりを追いかける世界となる。水と水が組み結んでも、やがてはすべて流れてしまう。順番とハタラキを間違えて世を進めれば、その世はすべてが滅ぶ宿命を持つ。全くの逆さまであるから、アヤマ知を持ちすぎているほど、知識がありすぎるほどわからない元つ仕組みである。心のアヤマ知を一つ残らず捨てることが自分の命を救う唯一の術である。

「±」を+と-に分離したカミ(十字)の世界が現代社会のルーツである。+と-を分離したことで、十字が傾き、✕の姿となった賭け惨の世界、倍々(売買)ゲーム、+と-を上下に割って(÷)、答えの「商」で余りを取り合う仕組みを生業にしたのが商業である。すべての数が割り切れるわけではないから、永遠の天国は作れない。加減乗除の形算問題を解いて、速さと正確さを競っても、何の意味もない茶番である。自らの滅びを導くやり方を有り難がっていれば、永遠の死を迎える。今あるすべての宗教の源はここにある。従って、神仏を信仰すればするほど、自らを滅びの道に導くことになる。お金では真釣りに戻れないどころか、最後は自らの滅びを呼び込む。お金では天国はできない。知でも学でもお金でも越せないのがすべてのすべてを元つ神代に戻す、真釣り戻しの大峠なのである。

お金という神で支配しようと思えば、被支配者の持っている神を封印しなければ、お金の仕組みは使えない。教育とは、実は、神を消すための洗脳だったのである。現代社会、特に、日本の姿を見れば、その目的が達成されていることは明らかである。ヒノモトの神響きを封印すれば、世界は思い通りになると思っているのが、今の世を統べる支配者たちの思想である。火立ちありて水生ず。ヒノモトありて外国あり。元つ大天の大神の真コトの神気の出づるただ一つの真コトの神国(真告、心国)、世界の父親である裏から支える火ノ基を潰せば、子である世界も死ぬことを彼らは知らない。知らないからこそできるのである。親である日本が真コトを取り戻さなければ、子である世界は滅ぶ宿命なのである。すべてはアベコベである。日本が外国を神と崇め、外国の真似をすれば、世が滅ぶのが元つ神仕組みである。世界を統べる御役の火の働きのハラ(日本)が曇れば、ハラを知らないアタマが支配する世界がバラバラに争うのは神仕組み通りの必然の姿である。親である日本が、人類は皆兄弟姉妹、友好親善、相互依存、国際貢献、情報社会、市場経済云々という罠に落ちれば、世は汚泥混濁の姿となるのである。ヒノモトの民の自覚がなければ世界は滅ぶ。父親の責任を忘れた日本が、世界の混乱の根源であり、親が改心しなければ子を殺すことになる。従って、大掃除の始めはヒノモトからである。元つ地天の理にすべてを戻す元つ大神の「大祓い」からは、いかなる神仏も逃げられない。源を直せばすべて直る。
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お金でお金を増やす金融システムは、略奪の世界だけで成り立つ仕組みであるから、無限の自由は得られない。『いかに儲けを出すか(いかに持ち金を奪うか)』では、手段であるお金が目的と化してしまう。お金をより多く集めるために生きていることになる。本当に本末転倒である。その世界で神(支配、自由、何でもできる自分の力)を体験できるのは、ほんの一握りの経営学(経済学、数学と物理学)のエリートだけである。しかし、それはお金の世界だけのお話であり、中身は空っぽの虚言である。『お金で思い通りにならないものはない』と本気で豪語しているとしたら、とんでもない極楽トンボである。お金では絶対に真釣りの真コトは買えない。なぜなら、真釣りを外した世界で作り出した神がお金だからである。お金で天地創世の真コトの神を買えるならば、世を支配することができるが、それはありえない。もし、できると思っているなら、それは、自らの破滅に同意したことになる。親が居なければ子は存在していない。神がなければ何もない。本当の神が存在しなければ、魔釣りの蛇の知恵の神も存在しない。神がなければ自分はいないのである。こんな簡単なこともわからないのがエリートであり、そのエリートの言いなりの大衆も含めて、大神を闇に葬って天国ができると思っている者は、全員、永遠の滅びが約束される。真コトを闇に葬るほど、金という神が力を持つ魔コトの世になっていく。魔コトと真コトは裏表であるから、最後の最後は、金も物も命も魂も魔コトのすべてを返さなければ真コトの世は夢マボロシと消える。真釣りのミロクが成就する直前には、真コトで作ったものも一旦はお引き上げとなるから、魔コトが生き残ることは絶対にありえない。言うなれば、魔コトは真コトの中の箱であるから、魔コトが真コトを所有することは絶対にできない。

損得儲けの世界ではない真コトの世ではお金はただの物であり、何の力も持たない。今の世でも実際には何の力も持っていないが、その金に神の力を与えているのは、金を信奉している人類である。お金が神の世では、金があればすべてが手に入る。その世界では、金をいかに多く、確実に、途切れることなく、楽に手に入れるか、が自らの天国を実現するための課題となる。希少鉱物の鉱山の採掘権や石油利権、金融市場の主導権を奪い合い、信者獲得競争をし、商品の売りつけ合戦に心血を注ぎ、税制の網の目を作って金を搾り取る。現代社会のシステムは、すべてが『金をどう効率的に多く集めるか』の思考で動いている。領土の奪い合いは、資源の奪い合いであり、国の奪い合いであり、労働者(金を産む基)の奪い合いであり、経済市場の奪い合いである。人類の争いは、結局は、すべてのすべてが、金の奪い合いなのである。金を支配しても、本当の神にはなれない。それどころか、自らの本当の命を捨てることになる。魔釣りの世で金を取れば、真コトの神を捨てることになり、真コトの神を捨てれば、結局は、金も物も命も失う。真コトの神を取れば、魔コトの金を失って、真コトの金を得て、真コトのものに置き換わる。金を選べば、結局は、金も神も得られず、神を選べば、結局は、金も神も得る。金を取れば、すべてを失い、神を取れば、すべてを得るのである。真コトを取るか、魔コトを取るかの選択は、神を取るか、金を取るか、言い換えれば、永遠の命を生かすか殺すかの究極の選択なのである。「カネ」と「カミ」、たった一文字の違いであるが、それが、永遠の生死を分ける究極の違いとなるのである。カミと言っても、魔釣りの宗教の神では、カネを選ぶのと同じことである。生死時空を超えた真釣りの真コトのカミを選ばない限り、あなたに永遠の生はありえない。
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元つ天地の大神を闇に葬って、究極の略奪の道具であるお金に神の力を作り出して世界の王になろうなどとは、とんでもない企てである。神をも恐れぬ不届き千万の所業であり、天地に仇名す大大罪である。真コトの一厘を知らないとはいえ、本当に、神を冒涜するにもほどがある。すべての源であり、現代社会に生きる自らが絶対服従している魔釣りの知恵の神の命すらも生かしある真釣りの元つ大神を完全に闇に葬って、本当に自らの命があると思っているのだろうか。その企みの世界の中で、真コトの一厘を教えるべき真釣りの基の国である日本が、魔釣りの勢力の言いなりになって、いや、その勢力を自ら進んで利用して、マネーゲームの中で国を「発展」させることに全精力を注ぎ、現代社会というマヤカシの世で自らの国力を誇示しているのは、大神から言わせれば、末代詫びようとも許しがたき大大罪なのである。言ってしまえば、今の日本国の正体は、天地創造の神に反旗を翻し、世界を巻き込んで万象万物を滅ぼそうと画策している究極の悪魔の国なのである。

世の父親として世界を支えねばならない役目をもった国が、真コトを捨てて魔コトの世界を進めることに加担するなど、言語道断の所業である。その落とし前は最後にキッチリとつけることになることを覚えておくことである。元つ天地の理法というのは、人間社会の法律のように、自らの都合でいい加減に扱える代物ではない。一寸の狂いも無くはたらく法則であり、本来ならば、破った瞬間に、即、生死時空を超えた命がなくなるのである。元つ天地の真釣りは、自らの永遠の命を左右する、唯一絶対の真理なのである。魔釣りの快欲に囚われ、魔釣りの勢力が操るアヤマ知にどっぷりと漬かり、真釣りの大神の元つ仕組みを「荒唐無稽な戯言」などと本気で思い込んでいるならば、文字通り、本当に取り返しがつかない、二度とやり直すことができない、生死時空を超えたとんでもない事態を招くことになる。これを鼻であしらって、魔釣りの世での生き残りゲームを続けようと思えばできるが、それは即ち、永遠の滅びを意味する。万象万物を真釣りに戻すその時が来て気づいても、もう取り返しはつかない。最後の最後に大神に縋っても、真釣り無ければ永遠の滅びであることをハラに据えて、今ここで自らの態度をはっきりと決めることである。
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元つ大神はすべてを無にして始めからやり直すこともできる。真釣りを外した身魂(天地の理法を破った死刑囚)を生かして本当の天国に導こうとする大神の究極の情け、真コトの親心を無にするならば、あなたは、永遠の滅びの響きとして、万古末代永遠に葬り去られることになる。元つ大神を闇に葬り去って好き放題をしていたあなたには、一切の反論は許されない。天地の理法を破った結末がどんな事態を招くのか身を以って知ることになるが、知った瞬間に、もう二度とどこにも生まれ変われない永遠の滅びの運命は確定となる。すべてを産んだ、すべてを知っている元つ天の大神を誤魔化すことは、いかなる神仏といえども不可能である。あなたが、本当の本当に心底から大神の情けに応える気があるのなら、今までの天地の理法を外した分の艱難辛苦の慙愧慟哭の生死時空を超えた修羅の地獄を覚悟して、今この場で、真釣りに戻る意思を態度で示してもらいたい。それをしないならば、あなたには、仕組み通りに、滅びの運命が待っている。大神の掟は、本当の意味で問答無用の切捨て御免であり、命乞いをする間もなく命を落とすことになる。掟を破ったのはあなたであり、あなた自ら改心して違反の責任をとらないならば、あなたには命を生き長らえる資格はないのである。天地の理法を甘く見れば、自らがとんでもない状況になることを本当に心底から気づいて欲しい。元つ天地の理法を覆すことは神にもできない。

あなたがどんな選択をするにせよ、大神の最初で最後の大祓いは実行される。あなたが本当に大神の御用をしたいのならば、本当の意味での全身全霊、永遠の命を賭けて、大神への絶対忠誠を貫くことである。あなたがあくまでも蛇の世界に居座ろうとするならば、天地の理法に従ってすべてを失うことになる。あなたの身魂はあなたのものではない。大神の情けがなければ、あなたは今ここに居ないのである。いい加減にマヤカシのイシヤの仕組みから綺麗サッパリと足を洗うことである。本当の神の真コトの道に戻らない限り、すべては永遠の幻と消える。万古末代、一度こっきりの大層に、あなたの真コトのすべてを注いで欲しい。今ここで使わなければ、あなたの真コトはもう使えない。蛇の世界を壊すことを躊躇する理由はない。天地の掟を外した神の作る世界を壊すことをためらうならば、あなたは、天地の理法に従った本当の天国を壊していることになるのである。どちらが最後に本当に残る世界なのかを、本当に正直に見て欲しい。あなたは真コトを真中に持つ、世界の父親たる身魂である。最後に本当の真コトを示して欲しい。それがあなたを本当の天国に導く唯一の術であり、世界を本当の天国に戻す唯一の道である。元つ大神の手伝いをすることが、万象万物を生かすための究極の社会貢献なのである。大神が居なければ何もない。嘘の世界の幻想から目を覚まして、本当の真コトの道を歩んで、本当の天国に戻ってもらいたい。本当の空想の世界は、本当の本当に消え去る時が来る。あなたがどちらを本当に信じているのかがわかる、二度とやり直せない究極の踏絵である。あなたにとっての最初で最後の究極の生死の選択を間違えることがないように心底から願っている。
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お金で支配できるのは、略奪の世界だけである。言い換えれば、魔釣りのアヤマ知で作った経済文明だけである。あなたが、文明の正体を知っているならば、自らがとんでもないことをしていることに気づかざるを得ない。いまだにその世界で生き残りを図っているならば、文明の正体がわかっていないことになる。永遠の生を求めるものが、永遠の滅びの世界で生き延びようとしているのである。アヤマ知の文明で力を誇示している者ほど、真釣りに戻す魂の大掃除は修羅の地獄となる。自らの矛盾に目を瞑り、誤魔化し、いい加減なことをしていると、自分がとんでもないことになることを覚えておくほうが賢明である。

冥王の作った「世界を支配できる指輪」を捨て去らなければ、あなたは永遠の滅びを迎えることになる。お金の材料は資源である。資源の材料がお金なのではない。逆さまの世が真実なら、人が神を支配できる、形の科学であの世を作れる、コンピューターで心が作れる、プラスチックで原油を作れると言っているのと同じことになってしまう。子が親を、人が神を産めることになってしまう。完全なる闇から始まった世界が完全なる光の世界になると言っているのが人類の歴史であり、その究極の姿である現代社会のすべてのシステムの理念にこの思想が反映されている。これが嘘ならば、今のあなたがとんでもない結末を迎えることがおわかりだろうか。影が光を産み出すことはできない。光の空間を壁で囲ったら闇ができるのであって、闇を囲ったら光ができるのではない。闇を囲っても闇のままである。電気なる人工の光で明るくしても、それはマヤカシである。お金が神を産めるなら今のままで天国ができるが、それは絶対に不可能である。人類は、破壊とは知らずに人類を消すために一生懸命進歩を追いかけてきたのである。すべてのすべてがアベコベである。つまり、人類の目指す永遠の天国は永遠の滅びを意味していたのである。進歩の正体は、破壊だったのである。文明の進歩というのは、滅びの響きの進歩である。今まで一体何を教育していたのか。何を普及していたのか。何を啓蒙していたのか。何を布教していたのか。何を信じていたのか。何に貢献していたのか。何を封印してきたのか。ここで一旦立ち止まって、自らのしてきたことを振り返り、この先、自分はどうするのかを決めて、今ここから、その道を歩んでいくことである。それが滅びであれ、天国であれ、あなたという身魂が誕生して以来、生まれ変わり死に変わりしてここまで来たあなたの永遠の生死を左右する選択であることをしっかりと肝に銘じて、真剣に最後の選択をして欲しい。
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人間は、形で心地よい感情(快感、快適)を得ようとする。形が思い通りになって初めて満足という感覚を得る。しかし、略奪の世界には、どこにも完全な自由はない。つまり、その望みは永遠に満たされない。お金を制限することは、形を制限することを意味する。将来のためにお金を貯める、将来のために保険を買う、将来のために年金を積み立てる。そして、今使えるお金が減る。お金が足りない分、借金をする。借金の利子の分だけさらに使えなくなる。お金がどんどん減るスパイラルに落ち込む。最後は、破綻する。よく考えれば、簡単なカラクリであるが、お金を尺度にして暮らしている限り、それは見えない。

どんなに経済システムを変えようとも、誰もが自由になる世界は絶対にできない。経済自体が、本当の天国とはアベコベの思想であり、文明社会をコントロールするために考え出されたシステムだからである。自然を管理するために工業を興し、資源を加工した紙に印刷した工業製品である『お金』にオールマイティーの力(すべての物と交換できる特権)を持たせ、そのお金が無ければ自然や工業製品を使えない仕組み(商業)を作れば、お金が命を生かす世界が誕生する。逆さまとはいえ、見事なシステム設計である。その世界では、お金を無限に発行したら、お金の意味がなくなるから、それはタブーである。お金の生産と発行を一つの機関に限定し、勝手に作ることを犯罪とする。そうすれば、一般市民は絶対に自由にはなれない。通貨偽造が犯罪なのではない。犯罪にしなければ困る者がそう決めただけである。通貨偽造犯を逮捕する警察に同意するならば、あなたも警察も、通貨偽造という冤罪を仕組んで世界支配を企む黒幕の手下であることになる。もし、あなたが思っている善悪が真実と全くアベコベならば、あなたは、その黒幕とともに死刑になる。

お金はマネーであり、マネーゲームは神を闇に葬った者たちが繰り広げる真似事(神様ゴッコ)に過ぎない。現代社会は、自らを永遠の死に導くゲームに世を挙げて熱狂している。マネーゲームが成り立つためには、略奪、損得、殺し合いが前提である。自由の制限、邪魔者の抹殺が必要であり、巧妙なカラクリを使って、世界の隅々まで監視の目を光らせるための仕組みが網の目のように張り巡らされている。ちょっと考えれば、お金で天国など出来るわけはないとわかるのだが、本来は何の力も無い法律を馬鹿正直に守って、経済社会の箱の中で何も知らずに怪適生活を追いかける大衆は言うに及ばず、その世界を支配しようと企むエリートたちの黒幕ですら、こんな簡単なこともわからないのである。もし、わかっていてやっているのならば、狂っているとしか言いようが無い。「金融経済=資源略奪戦争=殺し合い=自殺競争」の公式が分からない神々に操られたエリート集団と、そのエリートが支配する世界の(自らで産み出す努力を放棄してエリートが作るシステムのマニュアルを利用して楽して生きようとしている=エリートにオンブして不平不満を言ってシステムを都合よく変えようとしている=快欲を追い求めるためにエリートを利用しているだけの)大衆の行く末はいかなるものなのか。エリートも大衆も、自らの快欲を満たすためにお互いを利用しあって自らの生き残りを図っているだけに過ぎず、結局は立場を変えてどちらも同じことをしているだけである。本当の天国は自由であり、法律もお金も要らず、戦争をする理由もない。本当の天国ではない世界で何を企もうとも天国の実現は叶わない。目的地と向かう方向が正反対では、どんな交通機関を使っても、永遠に目的地には着かない。目的地に着きたいならば、正反対の方向に向かっていることに気づき、今まで来た道をすべて戻って本来の方向に向かうことが必要である。『めんどうくさい』『疲れる』『戻れるはずが無い』などと言うなら、それは、あなた自らが目的地を放棄したのと同じである。自分が目的地を放棄したら目的地には着けない。救世主を待っていても、救世主は来ない。自分の足跡に責任を取りながら自分の足で歩かない限り、天国は永遠に消える。
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マネーゲームが、本当の天国を壊す「犯罪」であるならば、それが社会を動かす根底にある現代社会そのものが犯罪者集団の社会である。その世界でどんなに善人や弱者を主張しようとも、やっていることは、その立場を利用して略奪の世界で楽をしようとしている戦いには変わりはない。神の真似事の作り出す「天国を破壊する」世界に賛同し、その世界でお金という神の奪い合いの生き残り競争をしている者は、全員が同罪である。罪の重さ軽さの争いなどは意味が無い。どっちの罪が重いか(軽いか)と比較をしていること自体が「罪」であり、それを続けるならば、「罪」を積み続けていることになり、罪を償う気は全くないことの意思表示となる。天地の掟に従っていれば無罪、従っていなければ、どんなに微小な違反でも、思っただけで有罪である。行動の有無は意味をなさない。天地の掟破りの罪は死刑のみである。死刑囚と死刑囚が、改心せずに、罪状比較合戦をして自らの正しさを主張し合っても、天地の掟の犯罪者の自覚がない者同士が繰り広げる茶番劇である。

『自分は何の罪も無い』と言う者も含めて、違反歴や違反の軽重の比較の世界で、自分は誰かより罪は軽いと優越感に浸りながら、何も知らないまま、二度と戻ることはない永遠の死へと旅立つのである。天地自然の絶対神法『真釣り』は、絶対無限唯一無二の法則である。掟を破っているか破っていないか、ただそれだけである。法律の専門家などいらない。天地創造の掟を破るという、罪の頂点に立つ天地最大の罪を犯した者には、言い換えると、天地創世の本当の神の冒涜者には、最後の最後に、自らの罪を自らで償う、自業自得の永遠の破滅の道しか用意されていない。心底からの改心を表さない限り、天国はない。

資源を使って「お金」と呼ばれるマヤカシの力を持つ神を偽造する、という天地自然の調和を乱す大大犯罪を誤魔化すために『「万引き」は犯罪だ』というアヤマ知を使って、「お金という神の力」を奪われないようにする。『無銭飲食は許さない=お金が無ければ何も使ってはならない』それが、金融経済社会の根底にある思想である。「無料」「お試し」というのは、提供者が自らの収益を上げるために同意した万引きにならない特例であり、根本は、「有料」が当たり前の世界なのである。有限思考、損得思考云々というアヤマ知を使って生き延びようとしている者は、後先考えずに、タダの世界に自ら足を踏み入れることになる。騙した騙されたの世界で、自らがどんな「損害」を受けようとも、それはアヤマ知で曇った自分の現実であり、楽をしよう、得をしようとしていた自分が招いた現実であるから、誰にも文句を言う資格はない。そもそも、万象万物は大神のものであるから、被害や損害を主張すること自体、真釣り外して大神の響きを奪っている証である。天地の掟を破って、天地を破壊し続けた天地の大泥棒の辿る末路は、滅びのみである。三歳苦難の大掃除、ミロクを復する最初で最後の戦、元つ真釣りの大神の祓い清めは、すべてのすべてを真釣りに戻す(魔釣りは自ら滅びる)、神も人も含めた、万象万物そのものの時空を超えた総決算、永遠の生死が決まる大祓いであるから、現代社会の経済システムの中の生死損得ごときで大騒ぎしているなど、全くの論外である。人間から見た微生物が生き死にで大騒ぎしているようなものである。元つ真釣りの大神の本当の祓い清めはただ一度だけである。自らのしてきたことを省みて、大神の響きを乱した大大罪をお詫びして、心底から改心し、自らの違反の清算をキッチリとしない限り、あなたの永遠の天国は永遠に消え去る。
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本当の大神が無から創った資源は無料が当たり前であり、資源の売買をしていること自体がすでにとんでもない所業なのである。無から産み出した資源を本当の感謝も無しに(真釣り無しに)好き放題に荒らし続けているなら、天地の調和を乱す大大罪であることは免れない。真釣りならば、有償の世界にはならず、有償の世界ならば真釣りではない。今の世界が魔釣りの世であることは紛れも無い事実であるから、元つ天地の大神を闇に葬って世を挙げて天地を取り荒らしたその結末は、破滅の道のみである。有償という思想はマヤカシであるから、無償は尊いことでも何でもない。無償奉仕をすることが神の徳を積む善行であるなどと思っているならば、自らを永遠の滅びに誘う、史上最大唯一のとんでもない大マ違いである。思想を普及する者も、その思想に騙される者も同じことである。真釣りなしに、大神の響きの型示しである万象万物を当然のことのように盗んで、大神に一言の断りも無く勝手に所有した挙句、売り買いして自分勝手な天国を創ろうと目論むなどということは、たとえ末代詫び続けたとしても許されない、本当に取り返しのつかない、本当にとんでもない大大罪なのである。その天地の大泥棒が仕組んだとんでもない世界の極みが現代社会である。真釣りに戻す大神の情けを悟って、永遠の命の真道を歩んで欲しい。

ボランティアという思想は、奪い合う金が少なくなった世界で、最大の経費である「人件費」をカットして帳簿上の収益を確保するマヤカシである。相互依存、助け合い、弱者救済、博愛精神と、有償の世界で無償奉仕をすることの尊さ(お金を得ないで自己犠牲という愛を捧げることの神聖さ)を植え付けておけば、裏のカラクリを知らない大衆は、自ら進んで奴隷になることを志願する。支配者(政府、経営者)にとっては、これほど簡単な利潤追求策はない。奉仕を求める側も、奉仕を提供する側も、奉仕に依存する側も、同じ世界にいる。自己犠牲が尊い世界は、略奪の世界であり、誰かの自己犠牲の上に楽を得たとしても、それは、幻想の天国である。人材派遣とは、派遣される労働者自身の意志による志願を前提とした、現代風の仮面を被った奴隷売買である。形に惑わされると、本当の真実を見誤り、歴史の正体を隠す誤魔化しは見破れない。国を挙げて、世界を挙げて、マヤカシの偽の美徳に酔いしれていれば、とんでもない事態が突然やってくることになる。経済社会でどんなに利潤を上げようと、善行を積もうと、魔釣りのマヤカシは破滅である。
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為政者が天恵を独占し、法律というマヤカシの力と手を組んで民から天恵を取り上げ、神を金にすりかえて地球世界を支配しようという、神をも怖れぬとんでもない謀略の中にあるのが現代社会である。元つ大神は『働かざる者食らうべからず』とは、一度たりとも言ってはいない。無限に天恵を産み出せる大神が、そんな台詞を使う必要はない。結局は、快欲に囚われた者たちが、自らに都合よく社会を作り上げるために意図的につくられた思想であり、真釣りを外して自らで産み出せなくなった者たちが、産み出す苦労をしないで生き延びるためのシステムを維持する道具に過ぎない。支配者に命を預けた自らが、快欲に溺れ、楽を求めて自らを罠に嵌めたのであるから、すべて、自分の都合で選択した自己選択である。天地の理法に違反しているあなたを助けることは、神仏と言えどもできない。

現代社会で言う「労働」は、「経済システムを使ってお金を作り出すことに貢献する(税金という支配アイテムを存続させるために貢献する)こと」を言うから、その世界の中では「労働の義務」を課すことは、その社会が生き延びるための絶対的、普遍的真理として許される。従って、「仕事」をしない者(金を作らない者、遊んでいる者)は怠け者(義務の不履行者)として扱われ、当然のことながら、自由(権利)を制限されることになる。現代社会でいう「子ども」は、労働はしなくてよいが、その代わり、義務教育という鎖で縛って、その社会を存続させるために必要な知恵を習得する訓練を課すことで、労働の義務を果たしたものとして扱う。「保護者」という小さな王を作り出し、「親権」というマヤカシの所有権(奴隷管理権)を与えて、世の末端の単位集団である「家族」まで支配のピラミッドの力関係を行き渡らせ、社会の正体を隠し、嘘がバレないように(支配者の椅子に近づけないように)する必要も生じる。嘘がバレて濁りが取れると、天国の自由がハレて実現してしまうからである。それは、支配者自らが生き延びるためには、何としても防がなければならない現実である。親権という概念を使って、子どもに対する独占心を煽って、子どもの支配合戦を維持し、子どもの「経済活動」は、保護者の監督下での場合のみ有効とする。養育の義務を課す。教育を受けさせる義務を課す。法律上の善悪の基準に基づいて、その世界を維持するためのすべてのシステムのどこかに封じ込める策略を善の如く見せる。保護責任者なる概念を考え出して、保護責任者遺棄を犯罪と決めれば、現代社会という略奪の世界でしか生きられない者はその決まりを守るから、地獄の中の天国の奪い合いが激しくなるだけである。あなたが今の世界でどんな生き残り策を考え出そうとも、それ自体が既に罠であり、心底から改心して魔釣りを真釣りに立て替え立て直さない限り、金融経済文明の箱の支配の立立体階層構造(マトリックス)から永遠に出ることはできない。
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法律というマヤカシが権力を持っている限り、為政者の好き放題の世界を展開することができる。その世界での大衆の言動は、為政者の気分次第で善悪どちらにでも仕立て上げることができる。本当の天国(本当の滅び)の準備中、つまりは、現代社会を動かすことが出来る間は支配者がその世界を支配するゲームが永遠に続く。しかし、その世界が有限の略奪の世界で、支配者が無限に産み出せないとしたら、その世界は終りを迎える時が必ず訪れて、支配者もろとも粉塵の塵と化す。『働かざる者食うべからず』というその台詞が正しいとすると、真釣りの世界から見れば、真釣りの世界での働き(真コトで生きること)をしていない者(魔コトで生きる者、お金に命を預けている者、天恵の窃盗犯)は、全員、天恵を食べてはならないことになる。つまり、真釣りのハタラキをしない者は、いかなる神仏であっても、真釣りの天恵は何も使えないことになる。魔釣りの神が魔釣りの者を支配することも出来なくなる。あなたが『働かざる者喰うべからず』に賛成しているならば、どうなったとしても、一切文句は言えない。現代社会(魔釣りの世)で働かないことに罪悪感を持つならば、それは、真釣りを壊すことに罪悪感はないことになる。今世で働くことを強制する者(さぼることを非難する者)も、馬鹿正直に働く者も、正確には全く働いてない。ビジネスはお遊びとなる。命をすり減らしてまでお金を稼ぐことに躍起になって現代社会で生き延びても、あなたの苦労は永遠に報われない。あなたが本当のハタラキをしないならば、本当の天国はない。魔釣りのまま生きて「我死」しても自業自得である。

本当の神は、真釣り外しの事実を情けの苦をもって知らせることはするが、人間同士がしているように哀れんで施しをすることは一切しない。あなたが真釣りに戻れば必要なものが必要な時に必要な分だけ用意してあるからである。あなたが真釣りを外して好き放題した結果、嘘に騙されて餓死するのであるから、つまりは、神法違反をして貪り食っていたのであるから、誰もあなたのことを可哀相だとは思わない。言わば、神の天恵を無銭飲食したあなたのその「罪」は、代金の支払(真釣り戻し)をしない限り、死んでも消えることは無い。逆に増え続けるだけである。代金の支払いをしない限り、あなたが食べたものは、あなたの栄養になることはない。罪は摘みであり、最後は天国か滅びかの二つに一つであるが、罪を積み重ねただけ、清算の厳しさが増す(天国に戻る苦労が増える)ことだけは覚えておいたほうがよい。あなたが、その仕組みの中で自由を得ようとしているならば、天恵万引きマフィアと同罪である。略奪の響きに支配されている限り、あなたは自滅する。

このカラクリを見れば、経済システムというのは、世界を支配するために誰かが作ったマヤカシであることは明らかである。変動相場というのは、相互依存の世界で資金の流れ(お金という神の力)を操作管理するためのシステムであり、金という神を変動相場制というノウハウを駆使して操る「金の世界の神官」の総帥が、現代社会を牛耳る黒幕である。変動相場制に基づく世界市場経済が進歩発展の象徴のように思い込まされているが、実際は、市場経済なる世界は究極のマヤカシであり、世界支配を企む黒幕にとっては、固定相場制や鎖国を採用する国は操作が不能となるから、市場経済というマヤカシを天国に至る道であるかの如く広めて、それに従わない国に圧力や制裁を加えて、何が何でもオープンにさせる必要がある。そのための道具が、変動相場制なのである。世を操る黒幕から一般大衆まで、現代社会に命を賭けている者は、誰一人としてそこ(底)から出ることは出来ない。現代社会は、自らが作ったシステムで自らの首を締める究極の自作自演劇の最終章である。
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お金は、使わなければ物や知恵には変換できない。神(お金の流通)が休めば天恵(自らが手にする成果)は減る。お金が神であるとするならば、先行きが不安になればなるほど、経済社会の神であるお金を貯めようとする動きが加速するから、流通するお金がますます減る。限られたお金の取り合いがますます激しくなる。一般大衆は、起業のリスクは避けるから、貯めたまま安易にお金を増やす手は無いかと考える。株式とか、債券とか、外国株とか、外債とかに手を出すことになるが、実は、株式と債券は、世界支配を進めていくために作られた、間接的に国の売り買いをする道具であり、円を外貨に変換させて、ドルを潰せば、「金融国家」の日本を破綻させ易くなるのである。外資系企業は、金融世界の侵略軍であり、日本国内の企業を破綻させて、安値で買い取る戦略で、日本に無血上陸する。日本を「占領」し、経営権を奪うことで、金融市場に取り込み易くするのである。軍隊の戦争ばかりに目を奪われていると、歴史の裏で着々と進む大きなカラクリを見逃すことになる。宗教や文化、経済等も、「日本」の占領を任務とする、仮面を被った陸上部隊である。

もうお気づきだとは思うが、現代社会は金が支える世であり、国家は株式会社である。国内にある会社や企業、銀行云々は、国際社会の仕組みの鏡であり、国を世界に、会社を国に置き換えれば、全く同じ形であり、自分という会社から国際社会という会社まで、全て同じ仕組みで動いているのである。社会というのは、引っ繰り返せば、会社である。現代社会というのは、世の黒幕が社長であり、神が会長である、一つの大きな会社なのである。その会社の中に、欧州支社、北米支社等があり、その中に、ドイツ支店、フランス支店等がある。結局は、現界の地球という国の中の国内での経済活動に過ぎず、もっと大きくみれば、銀河系本部太陽系支社地球支店であり、この世は霊界本部三次元支店とも言える。また、自分という会社の集合体が自治会となり、市町村となり、都道府県となるのである。市町村合併は世界統合の鏡であり、その動機は、財政の都合(収入の減少)である。形だけ一つにしても、根本は何も変わらす、世界統一を果たしたとしても、結局は破綻する。

地球株式会社は、従業員から商品、お金まで、すべての資産の仕入れ先、唯一のお得意先の大神会社には、社長の情けをいいことに、(資源の)対価(買掛金)を一度も支払っていないのである。すべてを無から生産している大神会社は、売掛金が回収できなくなっても全く困らない。かといって、何もしなければ、永遠に支払いをしないことを知っていたから、一括請求の期限を区切ったのである。売掛金の限度額を設定し、限度額に達したら一括返済をする約束だったのである。利子はいらず、元金だけ支払えばよいのであるが、その約束を忘れて、好き放題の放漫経営をしてきたのが人類の歴史であり、限度額一杯まで達しているのが現代社会なのである。これは、元つ大神の仕組みをお金に例えた話であるが、真釣りを外して大神の仕組みを取り違えると、お金という神の支配する世界が現れるのである。つまりは、売り掛金の一括請求が、最後の大祓い、真釣り外しの総決算、身魂の収支の清算なのである。ここで一括払いを拒否するならば、魂という担保を差し出して清算することになるが、そうなった場合には、ミロクという永遠の天国での本当の夢の生活はできなくなるのである。元つ仕組みを取り違えて作ったのが、現代社会にある融資や経営の仕組みであり、お金の世界での収支決算や回収ゴッコをしても、全く意味がないお遊びである。
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「絵のような素晴らしい景色」という表現をするが、実際には、素晴らしい景色を絵に描いたのであり、基準を人為的営み(の成果)に置いて思考すると真実が見えなくなる。コンピューターと脳が同じなのではなく、脳の仕組みをコンピューターにしたのである。霊界が戦いだから、現界が戦いになるのである。どちらがオリジナルで、どちらがコピーかをよく考えてみれば、コピー(結果)をどんなに修正しても何も直らないことがわかる。

社会にあるものを見れば、その社会の属する世界の姿がわかる。財政破綻は国家自体の破綻を意味し、再生するためには、融資先の許可が必要となる。世界銀行とIMFという国際社会の金融機関を作り、国家という会社の財政政策を監視し、破綻した場合には、『条件を呑まなければ融資はしない』という論法で、支配者の思惑に合わせて、国家を操る仕組みが形になっている。市場経済の世界では、すべての国家がその仕組みの中に自ら足を踏み入れている。従って、現代社会では、金融システムを操って、帳簿上で国家財政を赤字にさせて、IMFなる金融機関が条件を付けて債権を買い取ることで、世の支配者の思惑通りに国家を操ることができる。金融システムを普及させ、金融システムを巧妙に駆使して、国家を破綻させることにより、都合の悪い国家を吸収合併することが容易となるのである。お金が国家の生死を左右する仕組みを作れば、お金を牛耳る黒幕が国家の生殺与奪の権を握ることができる。個人と銀行の関係が世界を動かす基の仕組みの鏡なのである。

世界の仕組みが国内の仕組みに投影されているのであるが、自らの生き残りばかりに躍起になっている限り、世界を動かしている大きなカラクリには気づかない。自らの生活に汲々として、自らの属する社会がどんな世界なのかを考える余裕が無い大衆を操ることは簡単なのである。お金と金融システムは、形の世界に足場を置いている世界を支配するために必要不可欠な道具である。まずは経済の力学で支配関係を整理し、政治統合して、最終的には、宗教統合して、魔釣りの知恵の神の千年王国を作る、それが、「人類の歴史」の最終章である。欧州が経済統合から政治統合に向かっているのは、世界統一への型示しである。簡単に書いたが、実際には、とんでもなく複雑巧妙な策略で世界は動いている。しかし、それも、自然の仕組みを壊して成り立つ「文明社会」という仮想現実に参加している、「現代人」という、自然や宇宙から見れば、ほんの僅かな「人間の集団」の作る自縄自縛のお遊びである。文明と接触のない未開民族やお金のない「あの世」にとっては何の意味もない。結局は、世のカラクリを知ろうと知るまいと、真釣りに戻らない限り、永遠の滅びとなる。
P209
この本で、いろいろと書いているのは、真コトの道に戻るために魔コトの嘘を捨てるにあたっての拠り所、アタマに沢山詰め込んできた分けのわからないアヤマ知の正体や、自らが今していることの、自らが今いる世界のカラクリを知るための材料を提供しただけに過ぎず、元つ真釣りに素直になれる者にとっては、別に、必要のないものである。ここに書いてある事実にこだわったり、言葉自体をアレコレと価値判断したりすれば、逆に魔釣りを呼び込んでしまうことになるから、その点だけは気をつけて欲しい。要は、自分が嘘に騙されて全く逆さまの生き方をしていたことを認め、自らの立場は大神に任せて、今までの嘘を捨てて、真コトの生き方をゼロからやり直していけばよいだけである。生きている間も死んだ後も、本当に素直に正直に、「口心行」を一致させることが真釣りの真コトである。

『日本を金融システムに巻き込み、国内市場を開放させて日本を世界市場に誘き出し、その後、世界市場を破綻させて日本を潰す』それが世界支配の最終シナリオである。天孫降臨から、古代国家の中国文明、仏教、鉄砲、文明開化、大正デモクラシー、GHQ占領軍、インターネットまで、快欲に囚われた日本は、ものの見事に魔釣りの罠に嵌まり、形の仮面に騙されて、歴史を通じて、魔釣りの勢力を自らで招き入れ続けたのである。その結果が、21世紀の日本国の今の状況である。大神がいなくなったどころか、魔コトの金にすら困っているようでは、世の末も近い。日本を潰すための、魔釣りの三千年に渡る企みが成就する直前、魔釣りの日本占領が九分九厘完了した今が、魔釣りの最終段階、日本を潰す仕上げに入る時であり、今となっては魔釣りの世界の形でどんな対策を取ろうとも、手遅れである。しかし、それは同時に、真釣りに戻す最後の仕上げの立て直しが始まる直前でもあることを、真釣り戻しの天命を担うヒノモトの神民がしっかり自覚することである。魔釣りの立て替えの仕上げと同時に立て直しが始まるのである。一厘の真コトが鍵である。

お金の世界は、金で国を売り買いする世界であり、国家は経営するものである。日本円が日本国であるから、円を外貨に変換させることで、自らのフィールドに取り込んで、操作しやすくする仕組みである。金で操作する仕組みを作り出せば、金額の損得で人を誘導できる。しかし、お金では本当の神(真コト)は買えない。お金は、天恵が無ければ作れないものだからである。自らの子が自らの親を支配する仕組みでガンジガラメなのが現代社会なのである。資源で作ったお金で資源を支配する。神の作ったもので神を支配する。子が親を支配する。地球が宇宙を支配する。機械が人間を支配する。人が霊を支配する。この世があの世を支配する。脳が心を支配する。金が神を支配する。全くアベコベである。
P210
自然(天恵)は無限にあるのに、なぜ有限だというのだろうか。それはいったい誰が言ったことなのか。それはいったい誰が決めたことなのか。今のあなたは『天恵は無限ではない』と言うかもしれない。しかし、それは『天恵は有限である』という現代社会の真理に基づいた結論に過ぎず、それが絶対的真理であるというわけではない。あなたが生きる基である考えを捨てれば、自らを殺すことになる。従って、自らの生き残りのために『天恵は有限である』と言い続けているだけの、個人的見解の一つに過ぎないから、それは何の強制力もない。結局は、自らが有限の世界の中で苦しみを増やした挙句に自滅する自業自得の一人芝居である。天恵は有限か無限か、どちらか一つが真理である。あなたが、いや、人類が「永遠無限の天国」を望んでいるならば、天恵は無限でなければ、実現しない。天恵が無限であるから、永遠無限の天国が生きられるのである。有限の天恵で無限の天国を生きられると言うならば、それは、辻褄が合わない戯言である。あなたは何の目的があってその嘘を語り続けるのだろうか。あなたの持っている考えが真理かどうかは、論理が一致しているかどうかを見ればよい。もし、言っていることとやっていること、持っている思想と実際の現実が違っているならば、あなたの教わったことの根底には嘘がある。あなたは、誰かが誰かの都合で決めたことを鵜呑みにし、嘘をホントと思い込んで、全くアベコベのやり方で、自分の思いを実現しようとしていることになる。そして、実現しないのは誰かのせいだと言って、本当の意味で何の罪もない誰かに責任を押付けているのである。

あなたは、真釣りを外したことを奇麗サッパリ忘れ去っている。『真釣りとは何か』『真コトとは何か』『大掃除とは何か』云々の問いがあるならば、それは、魔釣りの世にいる証しであり、自らの命の源、世を作る大元を忘れ去っている証に他ならない。あなたが同じことをしていれば、あなただけが天地を自由に走ることはままならなくなっていく。そこで飼い主や世間に文句を言っても、犯罪者の言い逃れ、カモフラージュの涙には、誰も耳を貸してくれない。相互依存者同士の場合は、どんな言い逃れをしようとも、魔釣りを自ら暴露することになる。言い訳、逃げ道を探すこと自体が魔釣りの証である。魔釣りのままならば、最後の最後の身魂の大掃除は絶対に超えることはできない。魔釣りの道具を駆使して、魔釣りの世界で生き残ろうと躍起になっているが、魔釣りのままで、誰かを思い通りに動かして、自分の思いを果たそうとしてもそれは成就しない。そればかりか、何も産み出せなくなったあなたは、最後には、自分と自分の共喰いの結末を体験することになる。

生きは息であり、自らの心、あるいは、自然の心と言う意味である。誕生の瞬間には『オギャー』と息を吐いて、肉体死の瞬間には息を引き取って戻っていく。しかし、今のあなたの生き様は、楽を吸い取って、苦を吐くという、全くのアベコベである。あなたは、植物が生み出す酸素(O2)を吸って自らを生き長らえ、Cをつけて吐き出している。そのCO2が環境を破壊しているのである。綺麗なものだけを食べて、汚いものだけを返す。下等生物に分類している植物に自らの汚れを浄化してもらわなければ生きていられない矛盾した人間たち。自然を都合よく利用して、世を汚す人類が生き延びる世界はいつまでも続かない。自らのしたことが自らに戻ることを自覚するようになったが、形で見えるようになってから、形の世界でどんな対策をしようとも、手遅れである。ここまで見えても、まだ、自らが悪の根源だと認めず、自然との共生とか、環境保護とか、資源を大事に使おうとかいうマヤカシで、自らのしていることを誤魔化し続けている。もがけばもがくだけ、どんどん状況は悪化していく。世界は自分の鏡であり、すべては、あなたが吐いた息様が作る世界である。汚物製造機と化している今のあなたの身魂は、たとえ死んでも同じ世界をさまようのである。人類が歴史を通じてしてきた逆さまの生き様の辿り着いた先が、現代社会である。あなたの現実の味噌もクソもすべて自分の結果である。穢れた息をすべて引き取って、蒔いた糞尿の始末を自ら付けて、魔釣りの世界から抜け出せば、真釣りの天国に自心が生きることができる。自然を破壊する生き様をしてきたならば、自分が破壊されて差し引きゼロである。息を吸い続けても、吐く時が必ず来る。あなたはこの世にだけ生きているのではないから、たとえ死んでも破壊責任から逃れられない。死ぬ時は黙って死んで、あの世で清算を続ければ、あなたは清算を終えることができる。この世で何とかしようとすれば、それは神法違反を続けることを意味し、永遠の死をもって償うことになる。
P211
あなたの現実にある不都合はすべてあなた自身が魔釣りに曇った証しであり、それを解消しない限り、天国は夢と消える。世界を動かすやり方の結末は、天国か滅びか、二つに一つである。後者のやり方をしているならば、結末は滅びであり、それに気づいたとしてもそれをやめなければ、後者のやり方のままであるから、自業自得の破壊を体験する現実を自らが選んでいることになる。後者が正ならば、前者は誤である。後者は、前者を何の罪悪感も無く闇に葬っている。もし、前者が正ならば、後者は誤となるから、後者を完全に闇に葬っても罪悪感を持つ必要はない。真釣りが天国の絶対法則であり、その法則を破っている魔釣りは、何もしなければ、結局、すべて闇に消える。絶対法則である真釣りを闇に葬っているアヤマ知の現代社会のすべてを闇に葬っても、罪悪感を持つ必要はない。『絶対法則など無い』と言うのは、アヤマ知の言葉であり、自らの生を保つための詭弁である。あなたがそれを選び続ければ、永遠に真釣りには戻れず、真釣りの天国はない。真釣りを否定するのは、魔釣りが正しいからではなく、魔釣りの命を失いたくないという自分勝手な理由に過ぎない。罪悪感を植え付けたのは、魔釣りの世を壊したくない支配者であり、もし、それが正しいならば、滅びの世を壊すことに罪悪感をもっているというおかしなことになる。本当の天使を殺した悪魔が天使のフリをして『天使を殺すのは罪である』と言ったとすれば、あなたがその偽天使の世界で生き延びたければ、本当の天使を殺し続けることになる。あなたの信奉している天使の正体が悪魔ならば、その偽天使を殺すことに罪悪感を持つ必要があるだろうか。あなたは、ヒットラーや麻原教祖や病原体ウイルスを死刑にすることに罪悪感を持つだろうか。あなたが罪悪感という理由を使ってそれをしないならば、あなたは、本当の天使を殺すことに罪悪感をもっていないことになる。あなたが自分の都合で天地の掟を破っているのだから、死刑になっても自分以外に文句は言えない。
P212
今まで本当の天使を殺しつづけた分の償いをすれば、どんなに極悪人だろうと天国に戻る資格がある。逆に、究極の善人を演じ続けるならば、本当の天使を殺し続けて天国を自ら捨てることになる。あなたに、罪悪感がなければ、天国の方法(道具)を使うことが出来る。ただし、自らしてきたことを清算するならば、である。もし、あなたが天地の理法を破った世界の支配者だったとしても、しただけの罪を償えば、永遠の天国に戻ることができる。あなたが天地の理法を破った理法の中で救世主だとしても、しただけの罪を償わなければ永遠の滅びとなる。事実は、善と悪が全く逆さまなのである。あなたが悪を裁き続ければ、永遠の天国を自ら放棄することになるだけであり、あなた以外のすべての存在には、あなたの選択は影響しない。あなたと同じ選択をした者が自滅するだけである。あなたが真釣りに戻れば、あなただけは、本当の天国に戻ることができるが、本当の意味で誤っている方を完全に捨てなければ、永遠の天国はない。つまり、永遠の滅びが現実になる。嘘の世界で救いの父、即ち、救世主を待っても絶対に来ない。あなたが世を壊した悪魔であるならば、世を救う救世主はあなた自身だからである。あなたが覚醒することが鍵である。

あなたは、普段、何の疑問もなく使っている常識や言葉の正体をどれだけ分かって使っているのだろうか。この世には無駄なことは一つもなく、砂粒一つの動きが万象万物に影響するのである。ましてや、あなたが使っている言葉、あなたの思い、あなたの行いが、万象万物に与える影響は計り知れない。あなたが動くときは、万象万物が動き、万象万物の糸を手繰れば、すべてあなたに及ぶのである。あなたの何気ない行いが、天地自然をどれだけ乱しているのか、アヤマ知にどっぷり漬かっている今のあなたには、全く見えなくなっていることだろう。しかし、これが嘘(マヤカシ、絵空事)ならば、この世には守るべき何の掟もなく、みんながバラバラに好き勝手なことをしても世は保たれることになる。そうであるならば、法律で規制するのは矛盾である。あなたの生き様があなたの現実をつくっている。あなたが魔釣りならば、世界の出来事に関係ないものなど一つも無い。だからと言って、世界の不幸を何とかしようとすれば、それは全くの逆さまであり、ますます世界の不幸を増長することに手を貸すことになる。あなたが真釣りに戻らない限り、あなたは魔釣りの世もろとも永遠に消滅する。あなたの生き様を奇麗サッパリ変えることである。

天恵が有限だと言うなら、天地創造の神は有限のものしか作れない神であるか、あるいは、無限に作れるのにわざと作らないかのどちらかである。前者ならば、その神は無限の天国を作れない偽物であり、後者ならば、その気になれば全員に天恵を渡せるのに自分の子どもたちを思い通りに操りたいがために渡さない自分勝手な親である。天恵を誰かが勝手に所有し、その誰かに「お金」を渡さなければそれを使うことができない仕組みでは、天国などありえない。天恵は誰のものでもない。『誰のものでもないから早い者勝ちで所有してよい』という屁理屈は自分勝手な究極の詭弁である。誰のものでもないものは誰もが自由に使ってもよいのである。真釣りで真釣りの天恵をタダ(無料)で使うならば、天恵を使って作り出した形は真コトであるから、世を乱すことはない。魔釣りで天恵を使うから問題(悪、汚物、有害物)が出来るのである。もっとも、真釣りの世界には、お金という「金の世界で物に化ける神=儲けの道具」は無いから、無料も有料もない。タダと言う言葉は、有料が当たり前の世界でだけ使えるものに過ぎない。本当は、タダが当たり前なのである。
P213
真釣りの天恵を魔釣りで食べて(使って)、栄養だけを吸い取って、いらないものを外に出す。それを廃棄物(ゴミ、カス、糞便、尿)と言う。ウンコが汚いのでも、ゴミが有害なのでもない。天恵を食べたあなたが、真釣りを魔釣りに変えたことが汚いものを産みだしている原因なのである。ウンコやゴミにとっては、それこそ迷惑な冤罪である。「汚い(臭い)」ウンコを製造している(食べ物をウンコに変身させている)のは、あなたの体である。あなたの肉体が臭いものを出すならば、あなたの体は善を悪に変える箱である。○をいれて●が出るならば、そのブラックボックスの中は、○を●に変える装置が入っている。あなたが魔釣りを真釣りに戻さない限り、●は増え続け、●しか食べられなくなる。しかし、あなたは○しか食べられなくなっているから、それには耐えられず、狂い死にするだろう。あなたの変換装置を逆装填すれば、●を食べても○が得られて○を出すことになる。あなた一人でも真釣りに戻れば、それは、本当の意味での世の浄化の始まりとなる。真釣りの者が増えれば魔釣りの者が改心し、百一匹目の猿の登場で、一気に真釣りが加速する。まずは、著者がそれをお見せする役である。あなたが付いて来るかどうかは自由であるが、いずれ、あなたは真釣りに戻らざるを得なくなる。魔釣りのやり方は、必ず行き詰る。

あなたの産んだ子どもの責任は、親であるあなたが取ることになる。神から人まで、この事実から逃れることは出来ない。あなたは「汚い」土から食べ物を経て、土に戻す行為を何千年も繰り返してきたのである。現代社会はその末路であり、食の安全が崩壊していることが、あなたを含めたすべての人類のしてきたことの象徴である。あなたがあなたの響きを真釣りに戻さない限り、最後は自らが産んだウンコまみれになって、あなたが産んだ子(体験)と共に、元の土に戻って、真釣りの神人たちの肥やしになる。天国の食べ物を支えるウンコの一部になるか、天国を生きる神人になるかである。あなたが何としても真釣りに戻らないと言うならば、あなたは肥やしにもならないかもしれない。あなたが真コトの天国の食べ物を食べられるか、食べ物の肥やしになるかは、あなたの選択次第である。

これが現代社会を牛耳る黒幕が世を操るための思想である。あなたが今、天国そのものでないならば、あなたはものの見事にその黒幕に騙されていることになる。人類の歴史を通して、天国ができていないどころか、地獄を進めているのは、現代社会に至るまで長い間受け継がれてきた思想(観念、常識)の根本が嘘だということである。嘘から産み出されるすべてのものは、嘘であるのが道理である。川上に悪を流せば、川下は悪に染まるのが、天地の理法である。川に汚物を流せば、それが海に流れ、上昇気流で空に上がり、雲を作り、雨を降らせ、地中に染み込み、再び川に戻ってくる。土が濾過しているから綺麗になっているように見えるが、あなたが垂れ流している汚泥を止めなければ、あなたの現実はどんどん汚泥混濁の世界となっていく。自らのした結果を誰かに押付けて、形の上で精錬潔白を装っても、それは猿芝居である。形に現われた有害物質や大気汚染を何とかしようとしても、それは無理である。自らを危険にさらすように見える形を塗り隠したり殺したりしても、何も治っていない。結果を結果でいじくり回しても、原因を直さなければ、全く意味が無い。あなたの穢れ、不都合、苦、病、闇の真因は、真釣りを外したことである。
P214
神の支えるハタラキを金の支えるハタラキにすりかえて、自らだけの天国を創ろうとしても、それは露の如く消える幻想である。本当の天国を壊した世界に作り出した神が「お金」だからである。現代社会は、資源を奪い合い、「資源から作ったお金で天地(資源、自然、生き物、臓器、命、神)を売り買いして、快欲を満たす」というとんでもないことを平然とやっている世界なのである。人間の世界は霊の世界の写しであり、あなたが死んだとしても、あの世も同じ仕組みである。結局は、あなたは同じ世界から逃げることはできず、自らの意思でその泥棒の世界から脱出しない限り、破綻する世界が必ずあなたの現実になる。『限りがある』という霊が物理体に入れば、そこにある資源を限りあるものと錯覚する。そして、『限りあるものでいかに自由になるか』と考える。『いかに自分だけが資源を独占するか』『いかに思い通りに支配するか』と考える。その結果作り出したのが、法律や裁判、経済システムである。略奪の世界である限り、恨み、妬み、不平不満、は絶対に消えない。自らが産みの責任を放棄し、転嫁し合っている限り、犯罪や戦争は絶対になくならないのである。根本のマ違いを正さないままで、どんな対策を考え出そうとも、天国はできない。

生きていようが死んでいようが、あなたの現実創造の仕組みは何も変わらない。あなたに今、苦痛があれば、死んだ後もそれは続く。あなたの苦や痛み(楽や喜び)というのは、あなたという霊が肉体を使って感じる感覚であり、病気や怪我、世の不幸というものも、霊の世界の状態が形の世界で現れたものである。従って、形の世界でどう修繕しようとも、治るどころか、それを続ければ、ますます原因を増やしていくことになるのである。そして、ますます形の破壊(不都合)が進み、霊が消滅とすると同時に、形の世界(肉体)も消滅することになる。霊が生きていれば、この世を去っても死ぬことは無い。あなたは、肉体という物理体に共鳴している霊であり、霊界での行動の結果が、現界に現れることになる。あなたが死を作り出して、死を避ければ、現界では形の修繕になり、奪い合いになる。それが戦争の原因である。肉体そのものがあなたではないから、本当のあなたに死はない。あなたが認識できるすべての世界は、実際には境界のない一つの世界であり、人と人、人と霊、霊と霊、この世とこの世、この世とあの世、あの世とあの世、姿形は変われども、霊同士の、連続した営みの体現である。あなたが今どの世界を現実としているか、という違いに過ぎず、今の世界がすべてではない。従って、あなたが死ぬことはありえない。あなたが今の世界の現実をすべてだと思い込めば、死を恐れ、戦いの世界を産み出す。
P215
「この世(人間界)」と呼ぶ世界は、物理体(五感)で認識できる世界を現実としている霊の集団が創る物理界のことである。最低位の霊が、自らが住めるように、自らが操作可能な材料で創った世界で、相互に依存(干渉)し合うシステムをその内に持つ。しかし、実際には、霊界は一つの世界であり、「物理界」という実体は存在しない。幽界霊の作り出す世界を分類した場合の呼び名に過ぎない。現存する物理界は霊界のうちで最も自由のない世界になっているが、その物理界の中にさらに様々な「界」を作り出し、その世界の相互依存で成り立つのが「現代社会」である。物理界の法則は、より高位の霊には通用しない。

霊界なくしては、その映しである現界は存在しない。霊界があって初めて現界が存在する。現界の物理体そのものを、他の霊界に移すことはできない。物理体で操作できない別次元に霊が移ることで、その次元の組成で構成された体に入り、その霊界が現実の体験となる現象を物理界で「死」と呼んでいるだけであって、移った霊界では「生」が現実となる。ミロクの体に入ればミロクの民となるが、ミロクの世は、真釣りの世であるから、霊が真釣りの響きに戻っていなければ、ミロクの体でミロクの世の現実を体験することはできない。あなたが真釣り戻しをしなければならないのは、三千世界がすべてミロクの世に戻るからである。あなたが魔釣りのままならば、あなたの生きる場所はどこにもなくなる。

元つ大神が情けをかけたのは、あなたをミロクの天国に生かしてあげたいという親心からである。本来ならば、真釣りを外した霊は自然淘汰の滅びであり、今ここには存在しない霊である。その霊が生み出す現代社会も実際には存在しない世界である。あなたが魔釣りのまま生き続けるというならば、最後に天地の掟通りに滅んでも、あなたには訴える資格はない。そんなあなたを真釣りに生かすために「情けと花の仕組み」を構えるご苦労は、慙愧慟哭の艱難辛苦の修羅の地獄の苦しみ以上の厳しいものである。大神がそれほどのご苦労をされてまで、天地の理法を破った我が子をミロクに迎えようとする親心、神意を汲み取り、真釣り外して好き放題に天地を荒らしてきたことに対する本当に心底からのお詫びと、あなたを真釣りに戻すご苦労をして頂いたことへの本当の感謝をもって、どんなに厳しい試練、ご苦労にも耐えて真釣りに戻すことが大神への恩返しであり、天地自然の掟を破ったことへの罪滅ぼしとなる。あなたは大神の情けなくして命は無い存在なのである。

「死の恐れ」は、真釣りを外して、霊界の真実を忘れ去った霊が産み出す幻である。死の恐れを持っているから、アメとムチで操ることができるのである。あなたが真釣りを外したことが、騙された原因であり、あなたが今世でどんな体験をしていようと、すべて、自らの不手際がもたらした自業自得の現実なのである。あなたの現実の責任はあなた以外にはどこにもないのである。心は、他の霊界の姿を映す。脳は、霊が物理体を操作するための中継伝達器官であって、霊の持つプログラムが物理体というロボットを動かすためのコンピューターである。二極分裂である脳が「永遠無限」を創造する心を作ることは絶対にできない。霊が『脳が心を創る』と思えば、脳に心があるという現実を体験し、その世界で心の存在を探すことになる。霊の同意なしにはその霊の物理体を動かすことはできない。
P216
物理体から霊界を想像することはできるが、物理界が霊界を創り出すことはできない。物理界の現実は、霊が物理体に入ることで体験する現象だからである。従って、物理体に現われた傷病や物理界の不都合は、物理体自体には原因はない。その治癒(解決)には、物理界の中(形)だけの修繕を繰り返してもその目的は達成できない。霊が自らを殺そうとすれば、戦争界を産み出す。物理界で言う「命」とは、物理体の有無を指す言葉でしかなく、その有無は本当の命の消滅とは関係しない。形の生命保存の社会システムがある限り、物理界での戦争は消えない。法律で「殺人」を禁止しても、それがなくなることはない。

『死者に冥福を祈る』という行為は、物理体をもった霊が、物理体を離れた霊よりも上位の霊界にいると思い込んでいることに起因する。実際には、物理界は、最も不自由な体験をする最下層霊界であるから、その実体はアベコベである。あの世から見た人間(箱に入った不自由な霊、死者)が、この世から見た霊(箱から出た自由な霊、生者)に戻るのがこの世で言う「死」である。あの世から見たら「誕生」であり、あの世で言えば、この世に産まれることが「死(私=利己主義、子=霊が親)」なのである。誕生と死、行きと帰りがアベコベとなる。どの視点から見るか、の違いであるが、真実を知るなら、立体の上下左右(平面の対立)ではなく、あの世とこの世という、肉体(箱)の出入りを伴う「立体の立体(立立体)」の行き来の話となる。逆さまの生き方をして、この世(箱、霊の器)とあの世(中身、霊の命)の関係が分からなくなった結果、本当の死の世界を聖なる世界、本当の生の世界を穢れた冥土と思い込んで、『死んでいる者が生き戻った者を哀れみ、冥土の幸せを願う』という、よく考えてみればおかしなことが当たり前の如くできるのである。

『人間が墓参りをしてくれなければ自分は成仏しない』と言っている霊は、何ともおかしな霊である。それは、人間界でのビジネスの取り引きと同じ論理であり、非物理霊(大人)が物理霊(子ども)相手に我がままを言っている幼稚な戯れに過ぎないが、物理体の霊に自らの欲望を満たさせるというのは、動物霊以下の行為である。慈悲、罪悪感などをもっていると、このような霊につけこまれ、自らの霊力を自らで殺すことになる。霊界は自己責任の世界である。操られたとしても、それは、自らの取り違いのゆえであり、誰のせいでもありえない。霊能者に霊を祓ってもらっても、それは、その霊能者と憑依霊の戦いであって、お祓いを要求した本人には意味がない。人間界で例えれば、強い人間を連れてきて、自分をいじめる者を排除させようとしているのと同じであり、力の無い者が力のある者の自尊心を操って、楽して危険を回避しようとする茶番である。それは、自分自身の力で戦ったことにはならない。誰も助けてくれなければ、自分の力で排除することになるが、自分の力で戦ったことがない者は、為す術もなく殺される。誰かに自分の代わりに何かを訓練させても、それは、その誰かの能力が向上するだけであって、自分の能力は向上できない。誰かに毒見をさせたとしても、自分の毒死の危険は去ってはいない。自らが自らですべてをやらない限りは、依存していたものがすべて消えたときに、何もできなくなる。
P217
霊同士の関係はその姿形には関係がなく、一番内奥の霊(元つ大神の響き)はすべての霊界に影響する。そして、それぞれの霊が現実世界として認識する(体験する)霊界は、その曇り具合、言い換えれば、響きの乱れ具合(分裂の度合)に応じた霊界である。霊は、自らの波長に応じた現実を体験する。人間の体験に例えれば、自らよりも低い霊界は実体として、高い霊界は心の世界(想像の世界)として認識する。しかし、両方とも、現実であり、自らが直接影響を与えることができるのは、より低い霊界のみである。影響を与えることはできるが、それを受け取るかどうかは、相手の霊の同調度合に依存する。つまり、相手の霊の意思に反して、自ら以外の霊を操作することができる霊はいない。元つ響きを持つ深奥の霊であっても、時が至るまでは、意思に反して幽界の響きを消滅させることはできない。霊の世界では、波長の同調度合により、自己の存在する霊界が刻々と変化する。

各々の霊の体験する現実は自らの波長相応の世界である。自らが波長を変えることによって望む霊界に移行することができるから、他の霊を操作する必要はない。しかし、他の霊を操作することに喜びを感じる霊は、操作されることに喜びを感じる霊と霊界を作り、その中で依存の関係でその現実を体験し続ける。自らのレベルに応じた霊界を自ら選択するのが霊のメカニズムである。人間界での現実も全く同じであり、各々の現実は各自の選んだ霊界の霊同士が人間界で体現する世界である。自らが深奥で望むことを現実として体験するから、表面上は、自らの望まない現実であるように見えても、それは自らの望むものである。自由を求めている者が、『自由にしてよい』と言われると不安を感じ、自ら従属する立場を選ぶ。自ら奴隷になることを選んでおいて不平不満を言っているのが人間である。『自分の体験は自分の選択ではない』という逃げ道をつくると自由になることはできない。霊に制限はなく、どんな世界も実体化できる。すべては、自らが言った通りの現実である。

自らの望みと現実が違っている場合は、他者を操作して自らの望む現実を創ろうとしている時である。それは、霊界の侵略と同じであるが、ある霊界を他の霊界に変えることはできない。自らが波長を変えなければ、いずれ、自らの波長相応の霊界に移動することになる。自らの現実は自らの波長を映し出す。自らの現実がいかなるものであろうとも、それが自らの望む霊界である。他者と戦わなければ望む現実が体験できないならば、望む現実を体験することはできない。他者を操作して望みを果たしたとしても、自らの波長と異なる世界に居続けることはできない。どんなにその霊界の現実の維持を図ろうとも、結局は力尽きて、響き相応の霊界に戻ることになる。他者に自らの夢を託しても、それは自らの現実にはならず、夢破れて(期待が裏切られて)失望感を呼び込むことになる。それは自らの一人芝居であるから、他者を責めても何も解決することはなく、自らの失望感が増すだけで、夢を実現するのに、更なるステップが必要となってしまう。それを繰り返している限り、どんどん狭い箱に自らを押し込んでしまう。夢を実現するための苦労を自ら増やす(開ける箱が増える)ことになる。僅かなズレも無く望みと行動を一致させることが、波長を合わせることであり、自らの波長に一致した霊界であれば、そこに居続けるのに力を使う必要はない。策略や戦略を使うことなく、夢の世界を現実とすることができる。霊界のメカニズムを否定すれば、それは、自らの望みの現実を拒否していることになる。従って、戦いの霊界を彷徨い続けることになり、天国の現実を体験することは永遠にない。
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人間界というのは、最も凝り固まった組成の霊界であり、すべての霊界から干渉することができる。言い換えると、物理的に見れば「人間界」であるが、霊界から見れば、すべての霊界の霊が物理体を持って行為することが可能な最低位霊界である。憑依とは、霊が霊に感応し、それが物理体に現われる現象をいう。あくまでも、霊界での同調現象であって、物理体を乗っ取るということはできない。物理体そのものは、元の大神の響きをもっており、その物理体に初めに入った霊以外は、そこに入ることは許されない。霊の振動の波長が大神の響きと相違する場合には、その波長の不調和が、物理体にそれ相応の損傷として現われる。これが、人間界で言う「病気」「怪我」である。これは、自らの波長の乱れが自らの物理体を損傷する現象で、内的損傷を病気、外的損傷を怪我と呼ぶ。霊界での霊の戦いの結果、混乱した霊が物理体に現象化した行動や言葉の人間界的異常性(病的現象性)が、物理界での物理体に原因が特定できない時に、精神病という医学用語を使う。痴呆とは、霊が自らの意思をコントロール出来なくなったときに現われる現象であり、人間界の法則に同調することができず、時空の混乱、理性の喪失という形で人間界に現われる。心理的被害とは、物理体に現象化される前の状態であり、いずれ、物理体に損傷が現れる。ストレス性の疾病や、うつ状態からの病変、精神異常者の犯罪等がこれに当る。現象化された形は、医学や法律では解決することはできず、解決しようとするほど悪化の道を辿る。

波長の乱れ具合が同調した霊同士が出会うとお互いに損傷を受けるが、物理界は時空があるため、その前後関係から、加害、被害の姿として現われる。しかし、それは、あくまでも、各々の霊の波長の乱れが起こした衝突であり、各々の損壊は自霊の響きの乱れが自体を害したものであるから、加害者の消滅を図ったとしても、被害者をなくすことはできない。この世には被害者というものは存在せず、あえて言えば、自らを害した加害者は自らである。被害者を主張し、加害者の改心を迫ったとしてもそれは叶わず、自らの苛立ちが増えるだけである。霊に源がある損傷を形の世界に転嫁して解消しようとしてもそれは不可能である。霊界と現界の関係が完全に見えなくなった霊同士の争いの世界が現代社会である。自らの不都合を誰かを責めることで解消しようとしても、無理である。ストレス解消などというマヤカシは、自らの乱れの作り出す苦しさを自ら以外にばら蒔いて解消する究極の自分勝手であり、解消したストレスは、いずれ、自らの元に帰ってくることになる。裁判というシステムは、霊界のメカニズムに反するものであり、いずれ、機能不全に陥る。
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波長の乱れが起こす衝突は、霊同士のこともあれば、霊と霊界そのものとのこともある。前者は、傷害、殺人、戦争等の形で現われる現象であり、後者は、自然災害と呼ばれる現象である。この現象があることで、霊が人間界において自らの響きの乱れを自覚し、乱れを直すことができるのである。しかし、人間界の霊はそれを知らないため、形の現象だけを見て、お互いを攻撃し合い、ますます、響きを乱してしまう。この乱れは、大神の響きが全霊界に響き渡れば、すべて消滅し、現象として「人類滅亡」の形になる。これを霊界で感応し、その霊格に応じて解釈した映像を言葉や文字を使って、時代と場所にあわせた表現で物理界に降ろしたものが、終末予言である。より高い霊格の霊がその下の霊に順次伝達して、物理体を持つ霊に感応し、その意思を物理界に伝えることもある。それが、神示、神のお告げ、預言、予言、自動書記である。ただし、その内容を見れば、それがどの霊格の霊界からきたものかは判断できる。この現象を使って、高位の霊のフリをして預言をする人間霊や動物霊もいる。霊界に疎い人間は、怖れからそれを鵜呑みにしてしまうことが多い。人間界での詐欺師のような霊のお告げもあり、それを、哲学や科学という形で人間の思想に見せかけることもできるし、神のお告げであると言って、力を持たせることもできる。よって、自らが同調した霊界がどんな世界であるかによって、現実が決まる。他者に依存している物理霊は、自らが霊格を上げる努力をしないから、奇跡やお告げを欲しがる。しかし、霊界をいい加減に扱うと、とんでもないダメージを受けることになる。

他者が降ろした霊言を人間界で伝達する場合も、その伝達する人間の霊格によって、フィルターがかかるから、伝言ゲームの如く、そのままの響きが伝達されないことが多い。論争をしている宗教や、引用をして解説を加えている伝達者には注意が必要である。しかし、実際は、自らの深奥に元つ大神の響きを持つから、自己対話をすれば、他の霊界の干渉を最小限にして、高位の霊界の波長に同調し、すべてを知ることができる。霊格が上がる際には、物理体の変調(具合の悪さ)が起きるが、騙す霊もいるかわりに、導く霊もいるから、その乱れに慌てることなく、自己対話を進めていけば、自らが同調した霊界の指導霊が、邪霊の干渉を抑えてくれる。しかし、それは、あくまでも、自らの意思によって霊格を上げる努力をサポートするものであって、そのサポートに依存すれば、すぐに、救世主思想に戻ってしまうから、覚悟して取り組むべきである。これは、物理体の有無に関わらず他の霊界でも続けられることであるから、死という幻想や依存心を捨てていけば、必ず、自らの深奥の響きに到達できる。その響きに戻らない限り、すべての霊界の干渉を絶ち切ることはできない。その響きに戻れば、どの世界にいようとも、永遠の天国が約束される。
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三千世界を通じて、すべての霊は、永遠の天国を望んでいる。従って、最終的には、神界の最高霊(元つ大神)がすべての霊にその響きを渡す時が来る。自らがそれを封印する力が強いほど、拒否しているほど、苦痛を伴うことになる。強制的に苦しめられているように感じるが、それは、自らの内奥にある響きを解放するために、自らが望んだことである。永遠の天国である内奥の響きを低位霊界で実現しようとして幽界を作ったのは自分であり、自らの深奥の響きを実現するために必要なものを渡されたのであるから、強制されたわけではない。それは、自らの望みであるとともに、天地自然の掟でもある。その掟通りに戻すため、言い換えれば、永遠の天国の実現という共通の理想を実現する過程に自らが貢献するためにも、それを渡されることが必要なのである。本当の「世界平和」に貢献するためには、自分勝手な天国を創る響きを綺麗サッパリと大掃除することが絶対条件である。

物理霊の意思に関わらず、高位の霊界から直接アプローチすることもある。物理霊がそれを拒否することは絶対に不可能であり、拒否するほど自らが苦しくなるだけである。そして、結局は、それを受け取るしかなくなる。すべての幽界の結界を破って、最高位の霊が人間界にメッセージを送るのは簡単である。これを受け取って体現する役をしたのが、「預言者」と言われる人間達である。この現象を『認めない』こともできるが、それは全く意味のないお遊びである。そこから得られるメッセージを受け取り、自らの霊格を上げるために使わない限り、自らにとって何の恩恵ももたらさない。そればかりか、それは、最高位の霊への抵抗であり、内奥の封印を意味する。結局は、自ら消滅を呼び込むことになる。

憑依と呼ばれる現象は、憑依される霊の側が波長を合わせているのが原因であり、自らの意思を無視して他霊が感応することはない。自らの怖れや興味がそこにあれば、高位の霊が感応することが可能である。高位の霊が低位の霊に力で勝れば、その物理体を自らの物理体であるかのごとく使うことができる。物理界から見れば、人格異常、憑依、魂の入れ替えのように見える。チャネリングと呼ばれる現象は、物理体の同意の下に、このメカニズムによって現象化したものである。物理体の持つ知識、言語体系、同意の度合いによって、その現れ方が変化する。多重人格とは、多数の霊がある霊を奴隷化し、その物理体を通して自らの意思を現象化することである。霊界の現象については、医学では対処できず、霊媒師であっても、霊格が低ければ、その現象を止めることはできない。すべての現象は霊力の成せる業であって、霊力の低い霊が、より高位の霊に戦いを挑めば、それは自爆テロをしたのと同じことになる。しかし、人間界のテロとは違い、高位の霊にとっては、何の影響も無い。自爆を図った霊が、自らが与えようとしたダメージをそのまま受けるだけである。動物霊が憑依できるということは、霊格的には動物霊以下であるということを示す。
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動物霊は弱肉強食の獣の響きをそのまま体現するから「自然」であるが、人間霊は弱肉強食の獣の響きに囚われていることを認めず、深奥にある神の響きを鳴り成らせていることを証明しようとするから、戦争に反対したり、善人のフリをしたりするというように、自らの獣の響き(本性)を巧妙に隠そうとすることが多い。人間霊はその深奥が神であるから、獣の響きのままで天国を作ろうとするが、それは叶わない。「獣」の響きで調和を乱した人間霊が「神」のフリをすると調和が乱れ、滅びの響きが増長していく。響きが乱れるほど苦しみを感じ、その苦から逃れたい一心で、誤魔化しがきかなくなり、いずれ、自らで自らの偽装を崩す(自らの口で嘘を白状する)事態になる。どんなに巧妙に正体を隠そうとも、必ず本性を現す時が来る。自らの所属する霊界を善とし、他の霊界に戦いを挑んでも、その霊界での力を失えば、自らの所属する霊界を体現することになる。今の人間界は、深奥の元つ大神の響きを封印した霊界(幽界)であり、現界に展開された歴史を通じて形にした理念や事象は、本当の天国とは逆さまの「滅びの世界」に自らを導いていることを示している。現界の現象的には誤魔化しが効いたとしても、内にある響きは隠せない。

人間界というのは、姿形は人間という一種類の分類となるが、その中身は全霊界の同居した物理次元の霊界であり、そこには、すべての霊が共存している。どの霊界に所属するかで、人間としてのハタラキが変わる。それぞれの人界、それぞれの個体に感応する、物理体を持たない霊界が干渉しあうため、幽界が存在している間は、霊戦の世界が展開される。霊同士の支配干渉の主導権争いの世界である限り、大元の響きの体現である自由や平等や平和を創ることは不可能である。霊同士は、霊格が違っても、その粒子の粗さの違いにより重なって存在できるが、物理体同士は同時同空には一体のみである。従って、存在位置の奪い合いとなる。思想というのは、霊界を人間界で認識し、言葉にしたものである。高度な霊界の思想は、低位の霊界の霊には理解することはできない。高位の霊界ほど、霊界の実体を認識できるから、依存関係は必要としなくなっていく。また、生死を超えているため、死を恐れず、人間界の支配や操作には感応せず、より低位の霊を操作するための人間界の制限にも影響されなくなる。より高位な霊ほど、人間界の言葉で言う「自由」「天国」を個人的現実として体験することができる。より低位の霊ほど、集団を支配したり、集団に依存したりして個人的な自由を獲得しようとするから、自由を獲得するための争いが激しくなる現実が実体となっていく。より低位の霊ほど、物質への執着が強く、金を命の源と錯覚して、金を神として崇め、機械に依存する。高度な霊界についての話は、高度になるほど緻密な響きになるから、人間に霊が見えないのと同じ理屈で、低位の霊がその物理体で体験して解釈できる具体例をあげないと理解できない。霊格の差が大きいほど、低位の霊は高位の霊の響きを拒絶する。苦しさゆえ、自らと同等以下の霊界に居座ろうとするからである。人間界では『認めない、あり得ない、許せない』等の言葉として体現される。
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霊界に時空はないから、仮に物理体の抹殺を図ったとしても、自らが持っている響きは消えない。人間界を去れば、どこにも逃げられず、高位の響きをそのまま受けることになる。人間界は、霊界の響きの共鳴現象の体現の場であり、物理体同士の霊の場合でも、何も言葉を発しないとしても、霊の響きが体を通して感応するから、低位の霊の方が苦しくなり、その響きから逃れようとして暴れる。それが、怒りや暴力、「理性を失った行動」となって体現する。完全に拒否した場合は、自分の世界から外界を遮断してしまい、冷徹な言葉をぶつけたり、俗に言う「意味不明な反応」をしたりすることもある。人間界での「会話」は成り立たなくなる。高位の霊が低位の霊に干渉しようとした場合は、高位の霊も苦しくなる。低位の霊が自覚して、高位の霊界に移ることに同意しない限り、低位の霊が改心することはない。『わからせる』『わかってもらいたい』という願望は、幽界のコントロール合戦に自らを留めることになり、逆に自らの霊格を落とす結果になる。自らの霊格を自らの意思で上げない限り、高位の霊界の実像を知ることは出来ず、支配、操作合戦を永遠に続け、結局は、人間界での自らの立場も失う。自らの自由、安定を確保すべく他者を操作しようとすれば、それは、自らの苦痛と霊の堕落という形で自らに返る。自らがしたことは、自らの現実に影響を及ぼし、そこから霊格を上げるには、さらに厳しい試練を受けることが必要になる。永遠の天国では、他者を操作しようとする霊は消滅する。他者の操作というのは、最終的には、自らの永遠の死を意味する。実際は、他者を操作することはできない。

本来は、他者が他者の霊線を繋ぎ換えることはできない。自らが霊線を繋ぎ変えることで、どんな世界のことでも物理体を持ったまま認識し、その世界の現実を体験することが可能である。自らの意思で、天国も、地獄も、消滅の現実も体験できるということである。そのためには、その霊自体が自らの意志で実行し、自らが自らにしているマインドコントロールを変換しなければならない。『何かが自分をそうさせた』と思い込めば、その自分が自分にその霊界を体験し続けるための操作をしたことになり、戦いによって自らの霊力が無くなれば、それは自らの消滅を意味する。最高霊と同調しない限り、戦いは自らの霊的な死を意味する。すべては自らの選択した霊界の体現であることを自覚しなければならない。

霊能者、陰陽師、エクソシストというのは、物理体を持ったままで、霊界(正確に言えば、幽界)に影響を及ぼすことができる(現界の如くに霊界に干渉できる)力を持った物理霊である。マインドコントロールというのは、人間の本体は霊であるがゆえに自らを自らでコントロールできる、という特性を使って、言葉を媒介にして、物理体を持った霊を物理次元から操作する技術である。他者に操られているかのように思うが、その実体は自己操作である。自らが自らを操作していることを認識している度合いが弱いほど(依存が強いほど)簡単に操られることになる。自らの実体を自覚しない限り、その操作から抜け出すことはできない。他者へ責任を転嫁しても自由になることはできない。その現実は、自己の実体を知らない自らの招いたものだからである。自らが霊であることを自覚することが物理体の世界での制限から抜け出す唯一の術である。それが自覚できれば、天国の実像や神の実像を思い出すことができ、自らが体験している現実を劇的に変化させることができる。争いというのは、結局は、現界と神界の戦い、物理体を持つ霊と持たない霊が創り出した幽界での戦いである。人間界の「戦争」は、物理体を持つ霊同士が物理体で戦っているに過ぎず、その実体は、霊と霊の戦いである。それゆえに、死という現実はなく、結果として、幽界が消滅するまでは、物理体を破壊しあう(殺しあう)戦いはなくならないのである。
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幽界は略奪の世界であるから、現界と幽界の間の行き来を繰り返しながら、奪っては捨て、捨てては奪うを繰り返し、自らの産み出す響きを消していくことになる。現界の物理体を通して見た「生まれ変わり(輪廻転生)」の現象である。幽界を抜けた霊は生まれ変わりの概念はなく、自らの心から時空も生死も消え、永遠の生に生きる。元つ響きがすべての幽界を消滅させれば、霊と体、霊界と現界が一つになり、霊体一如でその現実を体験することになる。もはや死はなく、万古末代弥栄の神代に生き通しとなり、人類が追い求めてきた自由、平等、博愛、平和が一つになった天国がすべての世界の現実となる。これが、永遠の天国、ミロクの世、元つ真釣りの神代と呼ばれている、霊界で唯一の実体世界である。

幽界に囚われている霊が永遠の天国に生き戻るためには、相当に厳しい試練を体験することになる。それは、神界の掟を破った自らが招いた試練であるから、自業自得であり、それをすべて引き受けることしか、永遠の天国に生きて戻る方法は存在しない。「神」とは、天地自然の掟通りに生きる、自らで自らのすべての現実を産み出せる霊のことである。深奥の神の響きを封印したまま、天国を創ろうとして幽界での戦いに明け暮れているならば、それは、自らの滅びを意味する。自らが自らで自らの天国に戻るのが、人間界でいう「身魂の大掃除」である。それは、すべての幽界の霊線を切ること、人間界で言えば、アヤマ知の創る世界の現実から(嘘の天国の道から)奇麗サッパリと足を洗うことである。自らが霊であることを自らで封印してしまったことで、『生まれ変わりがあるかどうか』の議論をしているが、「生まれ変わり」という概念を想像していること自体が、それがあることの証である。議論とは、自らが認める(認めない)世界についての物理体の世界での発言権争いに過ぎない。『存在するものを許すかどうか』の議論であって、霊的には全く意味がない。『存在するかどうか』の議論は、物理世界の実体として見えないもの、が対象である。幽界は、現界で言う『して欲しいから訴える』『してくれないから恨む』の戦いの世界である。

人間に語るというのは、物理体を通して霊に語るということである。霊界には、物質体を持たない霊もいる。さらに、その霊を体とする霊もいる。霊は、入れ子の箱のように無限に繫がっているのである。物理体というのは、霊の一番外側の体であり、それを体に持つ霊を人間と呼び、人間の霊を体にする霊がおり、その霊を体にする霊もいる、というように、その内側に、無限に霊が存在している。人間界の表現ではこのようになるが、実際には、その境はない。一番内側の霊を神といい、神のみが天国を作れる。そして、各々の霊に対応する霊界があって、当然のことながら、霊界も無限に重なっている。内側の霊ほど、外側に霊界があり、人間の霊の世界は、物理体の世界よりも広い。一番内側の霊の世界をミロクと言い、万古末代弥栄の響きの光のみの世界である。霊がどこまで目覚めているかによって、物理体を通して感覚できる世界が異なる。その最奥の神の霊を産む神の種を真中という。霊の核である真中の響きは、元つ大神の響きと一体不可分であり、すべての霊界はその種を源として作られる。しかし、神の霊を対極に分離した霊が一番内側だと思っているならば、永遠に争う幽界を産み出すことになる。「身魂の大掃除」というのは、大神と共鳴している霊体の種のみを残す作業である。その種のみになるから、完全に幽界の虜になっている場合は、自我を生み出す霊はすべて消滅することになる。霊体の種とミロクの体が一体になって、ミロクの天国を体験できる現実が実現する。ミロクの体に入れなければ、ミロクの現実はない。実体がある霊界はミロクのみであるから、実体の無いすべての霊界は霧のようなものと言える。物理体から見れば実体がある「この世」も、実際には存在しない幻の世なのである。最後の大掃除を超えるためには、真中の真コトのみを磨き出すしか術はない。元つ大神の響きに完全に同調しない限りは、「自己」の生存は絶対に保障されることはない。この世の生き様も含めて、自らが思考することは、全霊界に影響を及ぼし、その結果が自らの現実に反映し、現実に対する思いが再びすべての霊界に返るという繰り返しで、自らの体験が変容していく。自らの体験を変えたければ、自らの思いを入れ替える必要がある。人間に語ることは、同時に、すべての霊界の霊に語ることである。
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物理体を持つ霊を人間という。本体は霊である。高位の霊はより低位の霊を操ることができる。霊は人間を動かすことができる。従って、霊が霊を操れば、物理体の動きとして現れ、物理体に認識できる言葉として聞くことができる。それゆえ、憑依、神懸り、狐憑き、イタコ等々という形で、この世に現象化できる。本体が霊である人間は、すべて神懸りであり、自らの同調する霊界と同じ思考をする。人間の思考のすべてがいずれかの霊界に存在するが、実際は、最高霊界(神界)の響きと同調する霊界のみが存在し、本来は、幽界に属する霊界は存在しない。最高霊界の掟に反した霊を最高霊界に戻す仕組みが許されている間だけ存在が許されている、言わば、期間限定の霊界である。最高霊界の響きを持つ霊を「人(ヒト)」という。「人」が快欲に囚われると、快欲のみを追い求め、分裂した戦いの響きを持つ霊となる。その霊を「獣(ケモノ)」という。人間とは、物理体を持つ霊のことである。人間という姿が人間の実体ではない。幽界がある間だけ、ケモノも物理体を持てるが、幽界が消滅すれば、ヒト以外は、どこにも存在できない。「獣」の末は滅びである。

幽界は、獣の響きの霊から見れば存在するが、人の響きの霊にとっては存在しない世界である。神懸りが宗教の専売特許だと思っているならば、科学が神懸りであることを見落とす。宗教とは、霊界と現界の関係性を法則化する時空を超えた科学であり、科学とは、霊界の体現である現界の現象を形の世界で法則化する時空を制限した宗教である。言い換えれば、人間界で言う科学とは、霊界のメカニズムを加味しない霊界の箱の中で現象を意味付けた、限界限定の宗教である。霊界を加味した、神智学、形而上学、超心理学云々の「宗教もどき」もあるが、足場は科学にある。科学とは、条件付きの宗教なのである。従って、二極分裂を基にした「科学」では、神現一体の霊界のすべてを知ることはできない。すべての霊界は最高霊界の響きの中にあり、各々の霊は、最高霊界の掟に反する度合に応じて低位の霊界としか繋がれなくなる。現代社会は、幽界と繋がる獣の響きを持つ霊が、自らが存在可能なようにシステム化した末の世界である。その世界でのシステム、善悪、正誤、美醜、生死、時空等々の対立(分裂)概念は、神界では実体はなく、全く意味をなさない。
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最高霊界と同じ響きを持つ霊を「人」と言う。本来は、「人」と「人間」は、区別タテ分けして使うべき言葉である。人間が人間を操る場合も、実際は、物理体を持つ霊と霊の戦いである。実体は霊であるから、現界の物理体の体験は、実際には、霊界の霊の体験である。現界の形の有無は全く影響しない。霊が物理体を通して認識する世界を現界、この世と言っている。この世の物理体を実体だと思い込めば、実体である霊界をあの世と認識する。霊が霊界を死後の世界と思い込めば、霊は物理体に封印されて、何度生まれ変わっても死の実体に気づかない。すべては力の世界である。高度な霊界ほど力関係が厳密に現われる。霊能者と霊の戦いも、人間同士の戦いと同じである。言葉の源は、霊界にあり、物理体から見れば、心の声として現われる。これを物理体で翻訳したものが言葉である。心とは、現界と神界を繋ぐ、力のお宮である。神界とは、霊の世界である。現界とは、体の世界である。これを繋ぐのが心であり、分裂した霊が作り出す世界を幽界と言う。幽界は本来存在しない世界である。神幽現、霊力体、心を一つにすることで、霊と体、神界と現界が一体化する。生死を作り出している幽界が消えれば、天国だけの世界になる。神界と現界が一つになれば、生死は消える。現界での言葉による支配は、霊界での支配の映し鏡である。

霊と体は一体不可分である。あの世とこの世は一体である。分離して見ている限り、分離が進む。別のものと見ている自分が本来の自分であり、両方を合わせた世界が自分そのものである。自らを分離したその見方は、分裂した世界として投影される。すべての争いの源である。自分が悪を分離すれば、その悪が苦として自分に戻る。すべては一つで一体不可分であるから、分離したものは統合しようとする。すべては一つであるから、分離の力より統合の力の方が強い。常に上回っている。中心は動かない。中心から離れるほど、統合の力が加速度的に増していく。離れるほど維持に力が必要になる。分離すればするほど、分離しようとする力が弱まる。統合の力が勝ると、統合の力に抗しきれなくなり、分離できなくなる。すべては中心に向かう。すべては一体化に向かう。自然に向かう。自然から離れるほど、分離するほど、思い通りに行かなくなる。そして、最後は、神と悪魔、物質と反物質、あの世とこの世、光と闇、生と死が一つになる。分離の響きは消え、元の響きのみが残る。分離した自分を自分と思っているならば、それは、永遠の死を意味する。すべてのすべてが元に戻った時、その世界に存在できるのは、統合を果たした、分離をすべて統合できた魂だけである。そして、そこから、二度と滅ぶことがない、本当の天国、本当の平和な社会の建設が始まる。これは宗教でも、神話でも、空想でもない。創造のメカニズムに基づく、ただ一つの帰結である。この帰結に反論するならば、このメカニズム通りにあなたは本当の死を迎える。一体不可分の世界を分離できるのは「幽界」だけである。
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宇宙、外国、社会、世間、誰か、あの世、神、悪魔、法律、自分以外のものについて語る。自分の外を広げる。自分の外を変えようとする。自分の外にすがる、頼る、責める。宇宙からの侵略、宇宙人のサポート、神の救い、外国の侵略、社会の常識、他人の干渉、親の干渉、悪魔の攻撃、霊の祟り等々、これらはすべて一体である。意識上は、すべて現実であり、同じ土俵の上にある。自らにとってはすべてが見えているものであり、境界はない。

他人がどうなるかを心配するのは、自分がどうなるか、がそれによって決まるからである。そこには自由は無い。他人がどうなるか、社会がどうなるか、経済が、家族が、親が、自然が、地球が、宇宙が、死後の世界が等々、すべて同じベクトルの思考である。そのベクトルの思考そのものを無くさない限り、あなたが完全な自由は得ることは絶対にできない。

奥義というのは、一番奥にあるものを見る方法である。あなたは自分を守るために何重にも箱に入っている。パンドラの箱を開けたら困るのは、真実を封じ込めた者である。あなたが、パンドラの箱を開けることを怖がっているならば、あなたも、その者と同じ世界で生き残ろうとしている。見事に策略にはまっていることになる。あなたがしていること、考えていることが、あなたを支配している者たちのしていること、考えていることである。あなたのしていることが、あなたの従っている神がしていることである。それが、戦い、自己保身、依存、サバイバルならば、あなたは、すでに死んでいるのと同じである。パンドラの箱とは、パンドラの箱を開けた者が作った世界を維持するためのマヤカシである。

なぜ、この本が書けるのか。この本に書いてあることが存在しないものならば、あなたはそれを見る事はない。見ているものは存在しているものである。そして、あなたが何かを裁いているとしたら、その裁いているものは存在する。何かを否定しているとしたら、それは存在する。あなたがそれを裁く理由は何か。否定する理由は何か。法律でも、常識でもない。あなた自身が困るからである。自分が苦しいからである。自分が恐怖を感じるからである。つまり、これを認めると都合が悪いならば、あなたは、この世界を支配する誰かに同意し、その誰かの計画に加担していることになる。その計画があなたにとって都合がよいなら、あなたがその世界で体験するすべての現実は、あなたが選択したものである。
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あなたがその世界を抜けるためには、その世界自体を捨てなければならない。その世界で身に付けた思考パターン、思想、常識、道徳、宗教、すべてをやめなければならない。さもないと、その世界が消えた時、あなたも消えることになる。その世界が真実ならば、その世界は消えない。その世界が戦いの世界ならば、永遠に戦いは終わらない。あなたが何かと戦っているならば、その相手はあなたと戦う。作用反作用の法則に基づいた鏡対鏡の場取る(バトル)ゲームである。しかし、その「場」は一つである。自分がしたように相手もする。自分の力と同じだけ相手も力を使う。霊界には時空がなく、自分と自分が喧嘩をしていることになる。お互いに鏡に映った自分と戦っているのである。自分が戦いを止めない限り、戦いは終わらない。どんどん激しくなり、最期は、自分が自分を殺す。そして、戦いは終わって自分は消える。結局は、自分と自分が戦っているのであり、最後は、自分で自分を殺す末路となる。「限りあるもの」を奪い合って戦っているならば、結局は、その世界は自己崩壊する。「悪」は自滅する。大神とあなたとの戦いはあなたの消滅で幕を閉じる。あなたこそが反作用であり、あなたに合わせて相手をしていただけである。あなたにとっての最期の反作用は、宇宙創造の力、言い換えれば、すべてを破壊する力である。

あなたが自分のしている大きな取り違いに気づいてそれを直さなければ、自分自身が滅ぶ。あなたが否定するものは存在する。存在しているものを否定すれば、あなたは消える。相対的世界では、悪は相対的価値観であり、絶対ではない。従って、あなたが悪と言っているものは、あなたにとっての悪である。あなたを滅するものを悪と言う。つまり、すべてを善悪に分けて、その片方を『悪だ』と言っているあなたこそが、悪を生み出した本当の根源と言える。あなたを滅する者はあなたしかいない。実は、今この本を読んでいるあなたのいる世界そのものが、本当の悪なのである。悪の中を善悪に分けて、悪の滅ぼし合いをしても、中身は空っぽである。あなたに返る悪は悪ではなく、あなたを本当の天国に導くための情けである。あなたが真実に目覚めれば、実際には悪はどこにもないことがわかる。あなたが、闇と認識して避けている世界こそが、あなたの本当の天国なのである。

一つの不可分なものを善悪に分類し、悪の集まりを消して天国になろうとしても、それは叶わない。相対であるから、あなたの悪は、悪から見れば、善である。すべては一つに繋がっている、始めの一つから分裂したものであるから、悪を消そうというのは、つまり、すべてを消そうとしているのと同じである。そして、他ならぬあなたもその「すべて」の構成要素であるから、あなたが悪を消そうとする時、あなたは、あなたも含むすべてを消そうとしていることになる。言い換えれば、その「すべて」を産み出す源を消そうとしているのである。すべてを産み出す源を消すということは、結局、自分を消すことを意味する。あなたにそれが見えないならば、あなたは、あなたという存在の本当の源を見ていないことになる。あなたが今、真実だと思っているその世界で生き残れると思っているなら、大きなマ違いである。生き残ろうとすることは、つまり、死を避けていることである。しかし、すべては一つであり、ばらばらにはできない。バラバラに見ているから、あなたは自自分で自分を永遠に滅する重大な間違いに気づかない。部品の集まりが全体ではない。全体を構成するものを部品として見ているのである。あなたの体は一体不可分であり、心臓だけを独立させることはできない。一つでも欠ければ、それは死へのベクトルを意味する。
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本当の天国は生き通しの世界であり、存在し続ける。悪くなることはない。従って、よくなることも無い。常に、完全であり、常に、不都合はない。成長も、衰退もない。それがあるという見方で見ているならば、その世界はウソで作られた世界である。文明の進歩、発展、環境の破壊、子供の成長、病気の予防、防災対策、厄払い、保険、担保、それらの思考、システムは、天国にはない。すべては存在するだけであり、壊れることはない。従って、右肩上がりもない。右肩を上がったらその分だけ左肩を滑り落ちることになる。海溝の底に到達するまで、山は終わらない。水がすべて干上がったら高さ30kmの山が現れる。高い山ほど地表に激突する際の衝撃が強い。中心から離れるほどエネルギーを貯めていることになり、中心から離れた分と同じエネルギーで一気に中心に激突することになる。

あなたが(イメージ)と言っているのは、あなたのあの世の現実である。あの世の者にとってはあの世が現実である。あの世の形が壊れれば、あなたは、今の世界の現実が壊れるのと同じ体験をする。生死も時空も一つであるから、生きていても、死んでいても、同じことである。あなたはどこにも逃げられない。あなたはどこにも隠れる事はできない。

あなたが悪という思考をなくさない限り、あなたは永遠に裁き続けることになる。永遠無限に細かくできるから、永遠無限に裁き続けることができる。裁き続ければ、裁くものがどんどん細かくなり、最後はあなたがあなたを裁くことになる。あなたが裁き続けようと思えば、いくらでもできる。しかし、それをしているとあなたは地獄に居続けることになる。あなたはあなたのまわりを認識する限界がある。あなたは0.00001秒の感覚を認識できない。同時に見える。つまり、あなたは無限には裁けず、臨界点に達したら、あなたは、自殺をすることになる。あなたがもう出口が無い闇だと感じたら、あなたは、あなたの理性で止めることはできない。価値判断よりも早く現象が動いたら、あなたは制御不能になる。今のままならば、あなたは結局、死に向かっていることになる。どんなにがんばっても永遠の生はない。あなたが本当の生を体験したいならば、生き残り不可能なその世界を現実と思っている自分の思想を殺せばよい。あなたが、嘘の見方をすべて捨てれば、形が壊れても、あなた自身は壊れることは無い。破滅するのは、嘘の形だけである。

どっちにしても死ぬなら、生き返る死に方をすればよい。善も悪も相対であり、結局は、視点を変えて同じことをしているに過ぎない。実際は、同じものを裁いている。その共通の対象を生かせば、善も悪も生き返ることができる。本当に生き返ったら、死ぬ事は無い。死ぬ事が無い世界に生き返るのであるから、死はない。あなたがすべてのすべての制限を撤廃した時、制限という言葉を撤廃した時、その世界への扉が開く。岩戸が開く。あなたが張った結界を破れば、殻を破って出れば、そこが天国である。あなたの魂は永遠に息続ける。死ぬ事も無い代わりに、あなたがしている限り、好きなだけ、苦しむこともできる。
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中国は、空(カラ)、インドは転軸、アメリカは米酷、今の世界で言う「日本文化」は、すべて輸入したものである。言わば、混血文化である。人類始まって以来、日本は、東洋や西洋に思想侵略され続けている。『侵略戦争は反対だ』と言って、侵略を阻止しているつもりでいるが、実際は、自らで侵略者を歓迎している。天孫降臨(神の世界からの黒船)の道案内、猿田彦命が型示しである。「外来文化を真似する」ということは、その思想も真似する、ということである。表面上の形は、形だけでは存在できない。形という器の命である精神(知恵、方法、霊界)が形を形にする設計図である。本当の意味では、外来文明を受け入れるということは、自分の源の真コトを殺す事である。真コトを箱に入れる事である。封じ込める事である。西洋崇拝、宇宙崇拝、仏教崇拝、経済崇拝、科学崇拝、金銭崇拝、すべての源は同じである。現代の日本にあるものは、姿形は日本風ではあるが、その精神(思想)は、仏教であり、中国であり、キリスト教である。その法律の源泉の思相は、モーゼの十戒であり、その大元はヤハウェの神である。アラーの神であり、イスラムである。陰陽道も戦いの宗教である。日本独自のものであると思われている神道も、その思想はといえば、西洋式の宗教なのである。八百万の神々というのは、何でも見境無く鵜呑みにして、都合よく形を変えるやり方の象徴である。「人類一家兄弟姉妹」「八百万の神々」の、その親、大元は、どこにあるのか。母なる地球、父なる天、産みなす母云々と、天ばかりを拝み見て、星(スター)を追いかけ、形の水の現れ(現象)に一喜一憂しているが、下から支える「本当の父」はどこにいるのか。母が父のフリをしても、絶対に天国はない。

平等とは、全く同じ扱いをすることではない。男女平等参画社会というのは、元の父の火を消した世界の形だけの平等である。火と水には歴然としたハタラキの違いがある。火は、何があってもすべてを支える命の源、父の役であり、水は、母の役であり、子が育つのを楽しみに、自らの清きを穢されても、言挙げ(反論、言い訳、愚痴)もせず、どんな器にも従い、すべてを現す型示しである。火と水(支える父と現す母)が、本来の役目をきちんと果たして正しく和せば、子は問題なく育つ。親子が友達になり、母が父をないがしろにすれば、家庭は乱れる。スメラが父、ユダヤが母、世界が子と置き換えれば、現代社会の乱れの原因はここに帰結する。親子(男女、神人)関係の区別タテ分けがいい加減になれば、世は乱れるのである。ハタラキを間違えば、世界は破滅に向かって歩みを進めることになる。形の平等を進め、水が火を従えようとすれば、世界丸ごと滅ぶ結末となるのである。これは、神仕組みであり、差別ではない。ハタラキが違うものをごちゃ混ぜにし、水が火の役を奪っても結局は火の役はできない。支える父の火の御役と現す母の御役では苦労の度合いが違う。偉い偉くないの話ではない。ヒノモトは、地球世界を背負う、支える父の役である。その父が苦労を逃げれば、母子家庭となった地球世界は混乱の末に崩壊するのである。女性が長生きなのはなぜか。それは、支える火が消えて水が水を支配する世界になっているからである。支えと支配は違う。区別タテ分けしないことを不平等と言う。
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権利と義務の思想は、幽界の霊が物理体で考え出した、支配するための仕組みである。それに囚われれば、全く正反対の世界を生み出す結果となる。男女が平等だというならば、火と水の働きが、神と人が、神界と現界が、天と地が、同権だということになる。水が火の役を奪っても、現界が神界のフリをしても、それは世を乱すだけである。ハタラキが違うがゆえに世が丸く収まるのである。『男尊女卑が世を乱したから平等にすれば世がよくなる』というのは詭弁である。真釣り外して、火と水のハタラキの意味を取り違えた男尊女卑そのものが、すでに、間違いであり、男尊女卑に対する「女」の報復の意味が込められた男女平等思想を正しい姿だと主張しても、結局は、どちらも、元つ火を消した水の中(形の世界)の火と水の主権争いの思想に過ぎない。男尊女卑を差別だと断罪して、男女平等を唱えても、どちらも真釣り和す世を作ることはできない。どちらが偉いかではなく、ハタラキが違うのである。支配権争いの響きである限り、どちらで世を作っても、結局は、平和や自由の実現などできるはずが無い。神と人、親と子、火と水、世のハタラキの真実を取り違え、人が神を、子が親を、水が火を、女が男を、金が神をないがしろにすれば、世は乱れ、争い、自ら滅びる。元つ真釣りの真コトを闇に葬った、火水が逆さまの世界は、最後には永遠の闇に消え去る。地が内から守護し、天が外から守護する。五分と五分で真釣り合っているのが、正神真神の掟である。平面の横並びの、天秤の釣り合いのことではない。男と女、親と子、火と水、神と人、苦労の度合いに差があるのは必然であり、火の支えがあるゆえに、水が安心して生きることができるのである。平等では天国はできない。

なぜ、男と女が存在するのか。男と女、+と-、陰陽組み組んで、新たな男か女=火の働きか水の働き(を持つ子供、現実)が生まれるのである。火土水が真釣り合って新たな火土水が生まれる。瞳に映るものはすべて神の顕現であり、火の働きと水の働きの何れかを持つ。それぞれのハタラキをまっとうして、初めて世が治まる。真釣り外した世では、善の働きと悪の働きが現れる。しかし、ハタラキに善悪はなく、結ぶ土に曇りがあるだけである。土が曇っているから、やることなすこと善悪に分かれてしまうのである。善を好み、悪を嫌うその心が、悪のハタラキを表に出した真の原因である。悪が悪なのではなく、悪を裁くあなたの心がその悪を産んだ本当の源である。悪を滅ぼしたいと言うならば、それは、自らの抹殺を意味する。あなたが平気で悪を抹殺できるならば、真釣りの掟を破っていることはもはや明白であり、元つ神仕組みを綺麗に忘れて、手前勝手な天国を作ろうとしていることになる。真釣りを外せば滅ぶのが、元つ神仕組みである。男女平等、友達親子、友好親善云々に囚われれば、それを唱える世もろとも、あなた自身が滅ぶことになる。
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神仕組みを知らずとも、今の世でも男と女(火と水、神と人、霊と体、父と母)のハタラキの違いは明白である。父と母が平等を主張するだけでも世が乱れる原因となるのに、母が父を足蹴にし、子が親を無き者にして好き放題に振舞う社会は、人が神を、世界が日本を、水が火をないがしろにする世界であり、世が混乱するのは当然の結果である。本当の天国を生きたいならば、世のため、国のため、家族のため、人のため、神のため、を語る前に、まずは、自らの足元、自分自身の生き様を本当に正直にとことんから見直す必要がある。人のことをアレコレ言う前に、まずは、自らの生き様を正すことが先である。あなたは、本当に恥ずかしくない生き様をしているのだろうか。本当に清く正しく生きているのだろうか。他人を裁き、不平不満を言い、愚痴を言い、平気で嘘を付き、自らのしたことの言い訳をし、他人のしたことを責める。そんな生き方が当たり前の現代社会で、天地の理法に沿った生き様を貫くのは難儀なことではある。しかし、本当に誰もが自由で平和な世を作るためには、みんなが好き放題に生きていることで世が乱れているという現実を素直に認め、今までの自らの生き様を見直し、心底から改心することが不可欠なのである。

あなたが綺麗サッパリ忘れ去っていた本来のハタラキを思い出して欲しい。火の支えるハタラキと水の現すハタラキを区別タテ分けして、天地の理法に則った生き様を実践することが、本当に平和な世を作る礎となるのである。現代社会は、人が神を敬い、母が父を尊び、子が親を信頼する、そんな生き方は古臭いものとして、遥か遠くの闇の彼方に捨て去ってしまっている。しかし、それが、本当の天国をこの世に実現するための生き様であり、本当の「人」としての道なのである。それを『両者は平等であり、差別は許せない。』などというアヤマ知の教えに嵌まって、上下のない世界を作った挙句が、今の社会の乱れである。それが正しい姿だというなら、単に、形の違いがあるだけに過ぎなくなり、神も人も混ぜこぜの世界が正しい世界だと言っているのと同じことになる。それでは、神が人を支えても、人が神を支えても、どちらでも同じ世界ができるということになってしまう。すべては色の乱れから始まる。これを「男女関係」や「愛情」のことだと取り違いをしているならば、世の乱れは加速する。色はイロであり、イロハ、つまり、物事の基本の始めのことであり、世のあり方、生き様の基が乱れていることを意味している。色は、また、形のことであり、形(水)の現れの世界ですべてのすべてを思考し、形を治そうとアレコレと屁理屈をこねて世を引っ掻き回すことで、結局は、世の乱れを増幅させているのである。

神と人が同じハタラキをしているというならば、それを証明して見せてもらいたい。あなたが無から何かを産み出せるというのだろうか。自らの命を自らで生かせない者が、万象万物の営みを司ることなど出来るわけが無い。親があって子があるのであり、神があって人があるのである。神と人が平等であると言うならば、それは、神無き世であることを意味し、それを基にして世を進めれば、すべてが乱れる。ましてや、人が神を、女が男を、科学が宗教を従える世であるならば、それは、真逆さまの世である証となる。真逆さまの世は、すべてが崩壊に向かう世であり、その結末は破滅に至る。そのままなら、すべてのすべてが無に帰す。本当の神を闇に葬った現代社会は、究極の闇の世界であることは疑う余地もない。闇の世の向かう先は更なる闇である。本当の、人の道を外した世界なのである。先に生まれた者が後に生まれた者を支え、後に生まれた者は先に生まれた者に従う。それが、神と人が真釣り合った、天地の理法に従った生き方である。真釣り合って生きれば、世は乱れることはない。先に生まれた者が後に生まれた者を支配し、後に生まれた者が先に生まれた者に言挙げする。現代社会が、天地の理法を破った世界、真コトの生き方とは、真逆さまの世となっていることは、議論の余地は無い。今のままの生き方で世を進めても、永遠の天国どころか、すべてのすべてが水の泡と消える運命が待っている。真釣りの生き方に戻らないならば、あなたは永遠の滅びの世界へと歩を進めていくことになる。
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それぞれがそれぞれの役割をキッチリ果たして、初めて、平和な世界が作れるのである。全くアベコベの世界にした者たちが、大元の取り違いに気づかずに、天秤の釣り合いを世界の目標にしても天国にはならない。形の世界で平等を語り、あれこれと仕組みを考え出して右往左往しても、ますます世を乱して、自らの清算の苦しみを増やすだけのことでしかない。子が親を殺し、女が男を操る。外国が日本を殺し、蛇が竜を操る。逆さまである。誰かが誰かを力で封じ込めたり、操ったり、無理やり強制しなければ実現しない思想ならば、それは、全く中身のない戯言である。税金を増やして国を立て直すために児童手当を拡充して子供を産ませる。金で国を操る現代社会には現代社会を天国にする方法はない。正神真神の真釣りの掟通りにしない限り、人類が望んでいる本当の天国は絶対にできない。

神同士が喧嘩をする、宗教同士が、国同士が争う。喧嘩をしている神は、お互いに、本当の神ではない。お互いに、相手は悪魔である。神は悪魔、悪魔は神である。神と悪魔、ではない。正義と悪ではない。引っ繰り返せば、神が悪魔であり、正義が悪である。お互いに鏡を見ているのである。分裂の響きを持っている事には変わりは無い。分裂の響きを持っている者同士の分裂の響きの世界の出来事に過ぎない。神であり悪魔である、光と闇を併せ持つ、その神を生み出したのは誰なのか。分裂の響きを持っているその本人が、戦いを生み出した源である。神と悪魔、生と死、光と闇、自分と他人、正義とテロ、を見せている源である。その本人が、分裂の響き自体を、分かつ知を闇に葬れば、すべてのアヤマ知も消え、過ちも消え、生も死も消える。生死が死ねば、境が消えれば、本当の生が復活する。元からあるものは蘇る。あの世が実体であり、この世はアヤマ知の幻想の世である。

イザナミの黄泉の国とは、本当は、大天のことであり、暗闇の穢れの世界などではない。魔釣りのアヤマ知に囚われた者は、神話や神典が、書き換えられていることに気づかない。それをそのまま鵜呑みにすれば、とんでもないことになる。真釣りの真コトを知らずに読んでも、そこに映るものは、真コトではない。真コトを思い出せば、そこに真コトが見える。この本で、真釣りの真コトを思い出し、すべてをその目で見直してみれば、すべてのウソと本当の真実を見ることができる。その真実に従って生きれば、真コトが現実になる。
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イザナギイザナミのニ神が分かれたその意味は、大神が「情けと花の仕組み」を構えるために、ナミの死という形で岩戸の外に真コトを隠したということである。真釣りを外したとはいえ、基に真コトを持つ神(人)は、隠れたナミを希求するから、この世は女神の世界だと思うことになるが、だからと言って女神が創造神ではない。男神が創造神でもない。キミが一体の世が創造の源である。今もあり続けている世であり、それを自ら見えなくしたのは、分裂の快欲の響きに囚われた自らである。キミの代がキ(霊)とミ(身)の世に分かれた型示しであり、真コトを曇らせた神に真コトを取らせるための始めの情けである。何も怖がらずにナミに乗れば、真コトを生きれば、力を使うことなく楽に生きられる。大神に生かされある者に保身の必要はない。すべては大神に任して、キミの世を生きればよい。誰かのため=「君の世」のためにキ己=蛇の火を基に生きれば、キミの世は幻となる。

ナミを封印した世で真コトが現れれば、この世にナミ風が立つ。事なかれ主義でナギ(凪)の世を保とうとしても、それは、仕組み上無理である。ナミ風を立てないように生きようとすれば、自らの心にナミ風が立ち、我慢の限界に達すれば、結局は、世にナミ風を立てることになる。善人を演じても、自らの内にある悪の響きは隠し通すことはできない。真コトを封印した世で真コトを語れば、ナミ風が立つのが当然である。ナミを封印して、ナギで生きようとしているならば、それは、魔コトの世で命を永らえようとしていることになる。図星を突かれて慌てる、怒るとしたら、自らの嘘、自らの心の内をどんなに誤魔化そうとしても、結局は、いずれ、必ず、自らが封印した、見たくない現実を実際に見る瞬間がやって来る。生命維持装置の表示は、命のある間は波型を示すが、その表示が直線になった瞬間、死の宣告となる。この世はナミの世であり、あの世が凪の世だということである。この世は鼓動、呼吸をしている。それが止まればあの世への旅立ちとなる。しかし、あの世でも鼓動、呼吸は続いている。あくまでも、肉体上の反応が停止するだけである。

ミの世に自らを封印すれば、キの世は闇となり、恐ろしい世界だと思うことになる。闇を避けつづければ、自らで真コトを曇らせ続け、最後にキミが代に戻った時には、永遠の死を迎えることになる。真コトを曇らせなければ、キミが世の真実がわからなくなることはなかったのである。黄泉を死後の国と思っているのは、アヤマ知である。黄泉帰るとナギナミの二神が再び出会い、真コトが復活する。それは、幽界の消滅を意味し、そこを実体としている霊すべてが消滅する。この世から見れば死後の世界となるから、恐ろしく感じるが、実際は、黄泉の国こそ、本当の天国そのものなのである。黄泉がえりというのは、死の世界が復活することであり、それは、この世の視点から見れば、恐ろしいことであるが、実際は、封じ込めた永遠の世界が現れることを指す。この世はあの世を封印した世界に過ぎず、すべてが甦れば、永遠の天国(真釣りのミロク)に戻るのである。あの世を封印したこの世に固執しているならば、ミロクの蘇えりと共に、幻想であるこの世とそこに縛られている者すべてが、幻の如く消滅する。生死の境が消滅し、二度と滅びない永遠の生が現われる。生死が死んで、何も無くなることはありえない。大天である無はありつづけ、消えることは無い。その無から、「本当の有」が泉のように湧き出すのである。キ(黄)の泉からミの天恵が無限にもたらされる。キの響きが基であり、今の天恵も無限なのである。日本人が黄色人種なのはなぜか。赤、白、黄、茶、黒、五色人種の中心の響きだからである。黄色人種は、王職人種である。卵の中心にはキミがある。細胞の中心に核がある。地球の中心も核である。中心がない世は無性卵であり、その卵から子は産まれない。中心がなくなった世は、バラバラの争いの世となり、棘がある薔薇の美しさに騙される。何が起きるかわからず、ハラハラしながら暮らす社会となる。バラバラをハラで統べる中心のある世界に戻すこと、ハラの曇りを祓うことが、世界が円満に治まる礎となる。中心核を封じた結界は、本当の核爆発で破壊される。核が現れて、本当の天国が復活する。宇宙創生のビッグバンの本当の物語は、中心を取り戻す本当のハルマゲドンから始まる。
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中心がなければ、すべてがなくなる。天体の運行も、素粒子の世界も、中心があって成り立つ。すべてが同じ仕組みである。水が火を産めるならば今の魔釣りの世は続く。しかしそれは叶わない。逆に回る左(ヒダリ、火垂)と右(ミギリ、水極)を元つ大神が真釣りして、すべてが弥栄にあり続けるのである。忌中とは、己の心の中に戻ったことを意味する型示しである。元の世界に戻ったのであり、悲しむ必要はどこにもない。息を吐いて生まれ、息を引き取って死ぬ。息は、自らの心と書く。息が生きている証である。なぜその言葉、文字としてこの世に型示しされているのか。すべての言葉と文字は、最高位霊界から伝達された神意の顕現である。火土水の基は火である。ミの基はキである。すべてを焼き払う火が、浄化の響きである。ヒの元にキをつけること。ヒノモトのスメラキ(スメラのキ、真釣りの基、天皇)が「人間宣言」したことが何を意味するかおわかりだろうか。

真釣りが魔釣りに降伏すれば、それは、世の破滅を意味する。しかし、真釣りは滅びない。この世にあるすべては、真コトを教える型示しである。真コトで見れば、すべてがわかる。真実を覆い隠していた雲が晴れて、すべてが見える。自分の響き、心の世界がその響きに帰れば、元のムに帰れば、今この世界でも自分の中の闇は消える。死も消える。空は晴れたり日本晴れ。神の国の誠の神の力を現す世となれり。日本の正体がバレた時、ヒノモトの本当の姿がこの世に現ハレる。空は雲ひとつないハレバレとした、すがすがしい天国で、真コトの火水で洗われた日の丸が世界の旗となる。火の○の国にキミが代が復活した時、火の元のスメラの王のスメラキが世界を統べる真コトの王としてミロクの玉座に帰還する。
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裁くのを綺麗サッパリやめることである。戦うことを裁くのもやめることである。壊れるべきものが壊れて、在り続けるものが復活するのである。正確に言えば、復活するのではない。始めからずっとあったのである。あなたから見たら見えるようになるのであって、あなたが勝手に雲を作って隠していた一人芝居である。「無い」のではなく、あなたが自分で隠したことを忘れたのである。今のあなたは魂の痴呆、健忘症である。自分が隠したものを誰かが隠したと言い、自分は悪くない、と言っているのである。それをやめない限り、本当の神の宝は見つからない。全員がそれをしていれば、誰も宝を見つけることはできない。隠したのは自分自身である。そのありかは自分しか知らない。あなたが本当の宝を見つけることを邪魔することは、あなた以外に不可能である。宝を見つける競争も茶番である。全員が宝を持っている。形の宝探し、お金の奪い合いは、外側の現象である。実際には、何の意味も無い。外の宝探し競争をしているその勘違いを直した者から、本当の宝を思い出せる。宝を隠すサングラスを外すことができる。外側に見えるものがすべてなくなっても、すべてはある。箱の中の景色が消えるだけで、箱をすべて開ければ、そこに本当の景色がある。レンズを通して見た逆さまの世界を本物と思えば、本物は見えない。すべてのすべてを引っ繰り返す、すべての大元自体を引っ繰り返すとすべてがひっくり返る。いつまでも土を掘って遺跡の発掘をしていても、真実は何もわからない。人類の本当のルーツもわからない。心が本当の天国の土である。本当の土は自分の内にある。火土水は口心行であり、一二三であり、神幽現であり、霊力体であり、日月地である。自らの心を祓い清めれば、自らの土から真コトを磨き出せば、三位一体のミロクが現れる。ミロク世の遺跡を発掘する考古学者は自分である。その考古学者が目覚めれば、すべての文明の、万象万物の、宇宙の、神の世界の、そして自分自身の、すべてのすべての起源が明かされる。

神々にも人類にも忘れ去られた、自らの心(土)の最奥に埋もれている遺跡。それこそが、ミロクであり、唯一の実体世界、あなたという身魂が生まれた故郷、あなたが戻るべきただ一つの場所である。あなたが、真コトのスコップでその遺跡を掘り当てた時、ミロクの遺跡を隠していたすべての汚泥が取り去られ、あなたの戻るべき本当の世界、本当の天国建設の振り出しのフィールドが出現する。そして、三千世界が真釣りのミロクに戻った時、文字通りの天国があなたの眼前に広がる。あたかも、ベスビオ火山の噴火で埋もれてしまったポンペイが現存する都市であるかのように、あるいは、ムー大陸が、アトランティスが、実在の世界であるかのように、今は廃墟と化しているミロクの遺跡が、生きている実体として、生の営みとして、実際に使えるリアルな世界として再び動き出し、あなたの思いのままの景色が、あなたのものとなる。あなたが、本当に心底から真コトを生き続けるならば、あなたは、嘘も誤魔化しも罠もない、すべてを自由自在に楽しめる永遠に続く本当の天国に戻れる。あなたが(人類が)忘れ去ってしまった本当の天国。ただ一つの実体のある世界。闇の闇の闇に葬られた、本当の神の本当の世界。現代社会に生きるあなたが、完全に無にしてしまった世界こそ、真コトなしには実現しない、あなたが希求し続けてきた天国なのである。幻想の現代社会が消え去った瞬間、誰も殺さずにすべてが思い通りになる「真コトの天国」が復活する。真コトを磨き出したあなたは、真コトの響きの体を得て、万古末代滅びることのない歓喜弥栄のミロクの天国を自由自在に謳歌できるのである。
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覚悟を決めて、底なし沼に飛び込むことである。底なし沼だと教えたのは、ウソの世界の支配者である。その支配者自身も、いつしかそれが真実だと勘違いするようになり、自分がウソを教えたことを忘れ、自分が自分に騙されていることに気づいていないのである。ウソを教えた事を忘れ、自分自身もそれがホントだと思い込む。それは、そうすることが自分に都合がよいからである。それを繰り返し繰り返し、今となっては、もはや、それしかない、それが真理だ、とも考えなくなり、自動操縦となってしまった。心底からウソをホントと勘違いしてしまっている。真実は、後ろにある。今の自分のすべてを止めて、反転することである。アメもムチもベクトルは同じ。そのベクトルの正反対が真実のありかである。そこにあるものが本当の実像である。鏡の虚像を実像と思い込めば、実像が虚像となる。実像を壊せば、虚像も消える。本当の実像を壊せば、虚像が壊れる。虚像を実像と思っていれば、そのウソの実像の破壊を止めようとして、本当の実像を壊す。そして、虚像も壊れ、闇となる。しかし、振り返れば、そこに本当の太陽の光がさしている。振り返ったら死ぬぞ、と教わっているから、振り返れない。何がどうなっても死なないから、どうなってもよいと言えば、それを有言実行すれば、何でもできるはずである。死は無いから、死を避けるのをやめれば、死に飛び込める。魔コトの世では、真コトは完全なる闇に見える。本当の光は、完全なる闇に隠れている。悪の中に真コトが隠れているのである。

すべてを捨てて闇に飛び込むことが、真コト思い出し、体験する唯一の方法である。真コトを手にしなければ、最後はすべてが闇となる。しかし、そのすべてはすべてではない。真コトを除いたすべてである。従って、「すべて」を失うことは絶対に無い。本当にすべてを失ったら、その一部である自分も失うから、失ったとは思わない。失ったと思う自分がいないからである。本当の意味で、何かを失う、ことはない。「無い」ものを「ある」と言えば、ウソの世界になる。そして、失い続けることになる。本当に、すべてを失った時、すべてを失っていないと気づく。真釣りならば死なないから、本当の神は助けない。自分で自分を助けることしかできない。自分を助けることがすべてを助ける事になり、神も助かるのである。世話をする者が1人でも減れば、楽になる。自分で家出して、親に助けを請う。本当の親孝行をしたければ、自分のしたこと、自分の勘違いを早く直すことである。

真コトは一つである。今の世でいう善も悪も、本当の善でも悪でもない。どちらもウソである。善を奉るのも、悪を批判するのも同じことである。神を信仰するのも冒涜するのも同じことである。魔釣りの世のご利益を求める自分本位の信仰心が戦いを作る。神も悪魔も、崇めているものは同じである。形が違うだけである。自らの神を偽物だと言われて怒るのは、自分の神を冒涜されたからではない。魔釣りの世での自分の命綱を切られたからである。自らに都合がよい神を作った自分という神を殺されると思っているからである。外の神はダシに使われただけである。今の世は、自分の外に権威をつくってそれを武器に脅しあっている世界である。本当の自分を殺しているのは、魔釣りに囚われた自分自身である。殺し合うのは勝手であるが、その世界から抜ける方法はただの一つである。善も悪も、生き返る方法は同じである。善にも悪にも機会を与えるのが本当の神である。本当の神は、悪を殺すことはしない。本当の神は何も奪ってはいない。何かを奪う者は、最後に自分を殺す。真の神の世にバチなどない。処刑も、懲らしめもない。有るという見方をしているのは自分である。自分が自分を生かすために他人を殺すならば、それは、その響きを持っている自分を殺す事である。すべては自分のためである。他人を生かすのも、他人を殺すのも、他人を世話するのも、他人から奪うのも、すべて、自分を生かすためである。
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自分のためにすべてをしている、そのことを完全に認めることである。すがっているのも、甘えているのも、批判しているのも、自分のためである。加害者も被害者も、強者も弱者も、自分のための都合のよい側で、奪い合っているだけである。善人も悪人もない。どちらも死人である。生き返りたいならば、自分を生かす事である。仮面をつけた弱者、仮面を付けた善人をやめる事である。それをしている他人を無視することである。あなたに罪悪感を植え付けたのは、自分が何かに影響を与えられると思い込んでいた自分である。表の裏は裏、裏の裏は表。真コトを殺したものを殺し、天国を壊したものを壊すと、元に戻るのである。今この瞬間が、自分が生きるか死ぬかの最後の決断の機会である。自分の永遠の命がかかっている。それでも、善人をやるか、可哀想な人をやるか、今の命か、永遠の世に生きる命か、どちらかを選べ、と言われたら、答えは一つのはずである。永遠の生死の分かれ道。ここでマ違ったらもう後がない。どっちをとるかの踏絵である。ウソは自分を殺す。答えは一つだけ。それを手にしなければ永遠の滅びとなる。さて、どうするか。

善と悪がそれぞれ絶対的善、絶対的悪、ならば、『善悪はない』ことになる。なぜなら、絶対的なものには、対立、矛盾がないからである。絶対の世界に裁き合いはない。善と悪の裁き合いができるのは、お互いに、自分が善、相手が悪、と思っているからである。善は悪ともいえるし、悪は善ともいえる。つまり、善=悪、である。A=Bである。自らの保身に精一杯で、善の世界と悪の世界が同居し、お互いに反対の意味付けをしていることに気づかない。絶対善と絶対悪の世界は、善の世界であり、悪の世界ともいえる。ただ、相反するように見える、どっちで自分が生きているかの違いで、他が他を殺す関係の世界があるだけである。それを善、悪、とそれぞれが主張しているに過ぎない。その二つの世界は、もともと一つの世界を二つの見方で見ているだけである。二重規範がある世界である。どっちも善でも悪でもない。分離思考そのものが、戦いの基である。悪を作り出す基である。相手を悪に仕立て上げる基である。つまり、お互いに、悪の源は自分にある。自分にあるものを他人にあると思っているのは共通であるから、結局、自分も他人も悪かった、となる。二つの対立世界が並立して一つの道具を共有しているならば、その世界は奪い合いになる。基は一つである。道具も一つである。どちらにでも使える。自分にとって善にも悪にもできる。包丁は、料理にも殺人にも使える。対立しているのは、自分同士であって、それを直さない限り、一つになる事はない。本当は『善悪はない』のである。自分が二つに分ける眼鏡をかけたことがすべての対立の始まりである。お互いにそれを認めて、めがねを外せば、幻想から抜けられる。3Dの映画は、眼鏡を外せば、現実の世界に戻る。生き延びても滅びても、それは分裂した世界の中のお伽話に過ぎない。
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生き延びるか滅びるか、どちらの形を作るか、の違いであり、自分という存在そのものは滅びてはいない。相手も滅びていない。源は一つだから、自分も相手も全く同じ仕組みの中にいる。どっちが悪か、と言っているお互いが悪であり、言い換えれば、自分が悪の根源だということになる。つまり、自傷行為をしているのに、誰かを傷つけている、誰かに傷つけられていると錯覚しているだけなのである。誰かを殺していると思っているが、実際に殺しているのは自分である。自分が自分を生かせばよい。裁くのをやめればよい。自分以外が何をしていようと、それは自分には関係ない。自分が裁いていれば、相手が裁いていようがいなかろうが、関係ない。自分が何をしているか、である。誰かを裁くのも、誰かを助けるのも、結局は、自分の状況を変えるためである。アメもムチも結局は、同じである。神につこうが悪魔につこうが、結局は、誰かについている事には変わりはない。あなたは、自分がもたれかかっているものによって相応の現実を体験する。その現実があなたを滅するものであれば、それは、自分を滅するものにもたれかかったあなたの責任である。自分以外に責任は無い。自分がもたれかかったものを責めても何の解決にもならない。もたれかかるものをあなたが変えればよい。あなたを生かす存在は自分しかない。

盗もうが与えようが、それは、自分のものではない。誰かのものでもない。泥棒したものを泥棒しあっているのであり、泥棒したものを与え合っているだけに過ぎない。施しをうけたとしても、泥棒の分け前にすがって生きていることに変わりはなく、それは、さらに泥棒したのと同じことである。泥棒するのも、施しを期待するのも、同じである。実行するかしないかは関係ない。その思考、思いがあれば、同じことである。思考が行動となり、形となる。従って、その思考があるかないか、が問題なのである。それがなくならない限り、清算したことにはならず、生産していることにはならない。借りていると言っても、返さないならば、それは泥棒である。返す意志があっても、先延ばしにすれば、同じことである。返す意志を誤魔化しなく実行して初めて清算していることになるのである。生産力を回復しているのである。他人にフリをしても、自分を誤魔化していれば、自分が、誤魔化していることを知っていれば、それは返していることにはならない。返さないならば、取り続けていることを意味する。奪ったものを返さない限り、どんどん泥棒したものが増えるだけで、清算が大変になるだけである。お金や物を返す、返さない、ではない。泥棒思考で奪ったもの、泥棒の響きをすべて返すのである。自分が生きた分、死ぬのである。しかし、それは死ぬのではなく、奪った衣を脱ぐだけである。それを死と勘違いすれば、ますます衣は重くなる。最後は自分が泥棒したもので圧死することになる。死んだら生き返る、生き延びたら本当に死ぬ。真実は全くアベコベなのである。この世もあの世も同じ仕組みであるから、この清算は死んでも続く。どこにも逃げられない。泥棒の響き、魔釣りの響きを持っているほど、分裂しているほど、真釣り戻しの最後の一括清算は痛い。
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他人や自然や社会をどうするか、ではなく、自分をどうするかである。自分がどうなるか、である。自業自得であるから、自分でよく考えて決めればよい。どんな体験をしようとも、誰のせいでもない。すべては、自分の取り違い、自分が自分の都合でいい加減に生きてきたツケである。ツケを払わなければ、清算ではない。すべて自分が自分にしたことである。

自分が自分の生死を決める。滅ぶも生きるもあなたの勝手である。神も自然もあなたがどうしようと影響はない。すべてが掟通りになるだけである。あなたがどういう選択をしようとあなたの勝手ではあるが、大神は、武士の情けで、あなたが意識的に自覚して決められるように、あなたが進退を決める機会を与えたに過ぎない。「情けと花の仕組み」は、魔釣りに囚われなければ発動しなかった仕組みである。あなたが魔釣り(快欲)に囚われたことが情けと花の輪廻転生の堂々巡りに陥った唯一の理由である。使うも使わないもあなた次第である。そして、その結果は、あなただけが負う。誰かのためでも、神のためでもない。誰かを殺しても、神を殺しても、あなたは生き延びることはできない。二極分裂の世界を包含する、一つ大きな世界でのルール違反を清算するかしないか、が問題なのである。真釣りに戻るか戻らないか、それが、今のあなたの行うべきただ一つの課題である。

覇権争い、シェア争奪戦、大きな賭け、外交カード、ギャンブル、リスク、交渉戦術、水の奪い合い、限りあるものの奪い合い。この世にある自らの投影の表現を見れば、自らがどんな世界にいるのかわかる。咲き誇る、咲き乱れる、水面下の交渉、暗礁に乗り上げる、舵を切る、背水の陣、水の泡と消える、バブル経済、冷や水を浴びせる、浮上する、リーダーシップ、フレンドシップ、順風満帆、宇宙船地球号、日本丸、国の針路、潮目に乗る、流れに乗る、流れを読む、世界の潮流、水の惑星地球、波に乗る、犯人を泳がせる、情けに流される。国際交流、+と-が入れ替わるのが交流電流であり、上下の主導権争いの繰り返しで光を発している型示し。スターになる、希望の星、赤白青、自由平等博愛、星と月の国旗が、世界の争いの主役。星の旗の国の勢力争い。人類の起源は猿だという。自然から文明に移ることを進歩発展だと言う。ケモノは闇と火を怖がる。人類は火を使えるようになった。道具を使えるようになった。言葉を使えるようになった。文字を発明した。百獣の王ライオン(獅子)像を万物の霊長がシンボルにするケモノの身魂の支配。二足歩行の人間の裏の響きは四つ足の肉食(形を食べる霊、体主心従霊属、魔釣り)の響きである。
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石の油(火の基)を握った者、希少鉱石(お金の基)の採掘権、見えない力(原子力)の科学、を握ったものがこの世を牛耳れる。火を支配した者が水を消せる。宝の石をお金に変える仕組みを作る。石の文化、石頭は頑丈だが再建、改心に時を要する。紫外線、放射能、細菌兵器、化学兵器、見えないもの、わからないものを怖がる。学力、競争力、経済力、国力、権力、選挙戦、戦いの火蓋、烈火の如く怒る、爆弾発言、集中砲火を浴びせる、生贄にする、見せしめにする、揚げ足をとる、足を引っ張る、政権奪取、戦略会議、経営戦略、プロパガンダ、主導権争い、落とし穴、ターゲット、勝利の女神、先陣を切る、法の網をかける、包囲網、のろしを上げる、操作、円を売ってドルを買う、会社を買収する、国を売り渡す、必要な者に貸さない、仮面を剥がす、墓穴を掘る、葬る、沈める、暗雲が立ち込める、勝てば官軍負ければ賊、人材派遣、奴隷貿易、所有権、主権、特権、特許、火を使って水を消す。美しい慈悲、助け合いを語る裏で、泥沼の世界が展開される。

金が世を支える、水が水の神になる。美しいものには棘があるが虜になる、魅せられる。ゲット(奪取)はゲットー(強制収容所)、ローン(金融)はロン(上がり、論、龍=蛇の破滅)、ドル(経済)はドール(人形)、フリー(自由)はフリ(不利、振り、茶番、仮面、マヤカシ)、マネー(お金)はマネ(真似、神の世の物まね)、レース(競争、レース網)はレス(失う、無くなる)、外来語の―の加除をすると、裏の意味、その正体が見える。

目が点になる(Фが⦿になると動けない)、目から鱗が落ちる、目が覚める、市民団体、消費者団体、動物愛護団体、団子になって圧力をかける。臓器移植、献血、献金、寄付、賄賂、国益、利益誘導、保身を基の効率的略奪システム。火の用心、防火壁、電気、太陽光発電、燃料電池、目の前から火を消す。天下を取る、蛇の睨み合い、長いものには巻かれろ、蛇足、竜頭蛇尾、八叉の大蛇、蛇行、長蛇の列、やぶ蛇、邪道、脱皮する、知恵を鵜呑み丸呑みする平面の蛇の世。手足のない二枚舌。毒蛇の毒牙。頭を上げて威嚇するコブラは空を飛べない。手足のある蛇=蜥蜴のしっぽ切り。頭が残っても蛇は蛇。頭を潰さなければ、林檎の毒は消えない。甲羅に隠れる亀、隠れられないスッポンは噛み付く。亀のピラミッド。親亀の上の子ガメは親亀コケたら皆コケる。竜宮城は水の中、亀に乗った裏死魔太郎。開けるなと言われた玉手箱、欲に駆られて蓋を開けたら、不老長寿は幻となる。

臭いものに蓋、ゴミの分別、衛生管理、下水道、汚物処理、口から綺麗な食べ物を入れて、栄養だけをゲットし、ウンコとオシッコは食べない。要るものだけを食らう。処理不能な不要物、自分のケツ(決)を他人に拭かせる。九尾の狐、掛け算九九、七つの海、虹の七色、七癖、七草、七つ道具、荒野の七人、北斗七星、七曜、初七日、七×七=四十九日法要、七×四=二十八宿、(七+刀=切、切って開く=八九、八く、吐く、掃く、柏、白=無実)、五体、五感、五大陸、五色人種、五葉(御用)の松、三種の神器、三位一体、三部作、三権分立、三国同盟、三階建(ホップ、ステップ、ジャンプ)、三度目の正直、三千世界、三次元、上中下、序破急、序論本論結論、珊瑚十五鳴る。縦三×横三の九御座マ方陣は、左上から右下に一二三四五六七八九。七五三、×の縦/の五±二(真中±心)。表に一から九と陰に外枠の口=0と十。11数字、表と裏で22、不二、父子、不死、富士の神。縦横斜めの加減はそれぞれ十五、横の二五八と縦の四五六の十の中心の五は神の真中。プッシュホンのボタンは下の並びに※0♯、0を拝した左上から横に123456789、ヒダリ90度に回せば、ヒノモト九御座と上下逆さま、鏡の配置。五はイツ(何時)でも真ん中で動かない。西洋数字は0123456789の10数字。十は10で分裂。小数点の前後に無限に広がる、際限のない奪い合い。+、-。正、負。整数、分数、少数。実数、虚数。真中の天で別離(別理)。中心のない○は中心二つの楕円の競争。0に・を入れて⦿。真中がすべての世界を統べる。現代社会の基の真中に座すのはヤマタノオロチである。真中に居座る大蛇が平面の八方世界、三千世界に睨みを効かしている。真中に居座るヤマタノオロチを退治するヤマトタケルは、真釣りの神剣の響きを手にしたあなた自身である。
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今でいう「武士道」は、魔釣りの戦いの中での処世術である。取り違いをしたままでそれを復活させてもますます魔釣りが進むだけである。現代社会は、便利、安心、安全、快適、快感、快楽、清潔、衛生的、健康的、平和、自由、博愛、平等、公平、やすらぎ、癒し、優しさ、思いやり、美形、夢、希望、期待、愛の手、祝福、天使、繁栄、成長、進化、進歩、つまり、快欲を追い求めた結果の社会である。逆さまの世の水の形で美醜を判断すれば、罠に落ちる。永遠に取り返しのつかないことになる。元の天国は、すべてが一つになった世界だったが、真釣りを外した結果、快欲に囚われたことが、二極分裂の光と闇の戦い、機械文明で天国を目指し平面の世界しか動けなくなった今世のすべての始まりである。

「イシヤの仕組み」というのは、水の形の世界で、真釣りを外した者たちを罠に嵌めて、自らで思考できず、欲望のままに生きるケモノにして、アメとムチで支配する偽の天国に導く仕組みである。真釣りを外さなければ発動しなかった仕組みであり、快欲に囚われた者たちを真釣りに戻すために構えた仕組みである。今の日本がどんな社会になっているかシッカリと目を見開いて見ることである。快欲に囚われれば、自らで離れることはできず、末は滅びに至るから、元つ大神が岩戸を閉めて、真釣りを外した者に情け(苦)を渡してそれを知らせる仕組みである。あなたが、快欲に囚われなければ、悪を外に出すことはなかった、つまり、破滅の道はなかったということである。快欲を追いかけるほど身魂が曇り、形の裏にある闇が増幅する。すべては、真釣り外した自らが招いた結果であり、真釣り戻さなければ、イシヤの仕組み諸共、滅びる末路となる。イシヤの仕組みを導く知恵の蛇の神も、その神に囚われたこの世の黒幕も、自らが滅びることを知らず、自らだけは囚われていない、と思っている。支配を企む自らも含めたすべてが滅びるのである。これが、真釣りと魔釣りの因縁の秘密である。「自らを含めたすべて」というのが鍵である。
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今世は、揺りかごから墓場まで、あの世からこの世まで、神から人まで魔釣りのイシヤの張った蜘蛛の巣の中。インターネットのWWWは、世界に広がる蜘蛛の巣の意。すべてをIT化すれば、すべての個人情報、生活情報、国家情報を一元管理できる。すべてを監視する超スーパーコンピューターを中心に据えれば、世界支配は容易。現界に現われた世界統一のシナリオ。国境無き国際社会。情報検索、情報発信が自由になった、電脳仮想国際社会は、霊界の型示し。蜘蛛の巣の中心はイシヤの黒幕。IT情報社会を推進する日本。アタマの知恵のエリートが考え出したインターネットシステム。電脳支配網が何を意味するのか。蜘蛛は八本足。自ら産み出せず、罠で餌を待つ。粘液糸を辿って蜘蛛の座を奪おうとする意図(糸)を持つ獲物は蜘蛛の糸(意図)に絡まって動けなくなる。蜘蛛は自らは自由に動けるが、網がなければ獲物は取れず、網の中心で自縄自縛。コンピューターが不可欠の社会に自ら命を預けるその行く末に、何が待っているのか。八方世界の網の中心で待つイシヤの王の目をすり抜ける方法は真釣り戻し(真コト)以外にない。自らを救うためには、自らで真釣りに戻るしか術はない。網を張った、罠を仕掛けた王自身が、その網にかかり、罠にはまっていることに気づいていない。元の真釣りの真コトの大神が、三千世界を真釣りに戻せば、電脳世界のイシヤの仮想神国(魔釣りの響き)は一網打尽となる。

蜘蛛の巣は、獲物を捕獲する網である。その網元は、元つ大神である。元つ大神【知恵の蛇の神{宗教の神〔イシヤの黒幕(世界の王と庶民、奴隷=親と子=大人と子供=債権者と債務者=娑婆と刑務所=政府と国民=社会と学校=現実と仮想現実)〕}】=アの世【コの世{あの世〔この世(親の世と子の世=自由と制限)〕}】の入れ子の箱の仕組み。アの世がなければ、すべてない。元つ大神のアの世に戻ることだけが永遠の命を取り戻す唯一の道。

元々は、すべての地に先住民がいた。現代社会は、真釣りを見失った蛇の知恵の神から始まる、何千年にも渡る宗教、思想、民族、文化、経済の覇権(主権、支配権)争いの侵略合戦の結果引かれた地図の上での戦争ゲームの中である。その正体は、魔釣りの悪神が裏の世を統べる、宗教と思想と民族の混血の限りを尽くした人類の、金を神とする文明先進国が覇権争いを続ける、戦うほど戦いが激しくなる破滅への途上にある汚泥混濁の世界である。魔釣りの人類史の現代社会の親(リーダー、神)は、007の諜報大国、魔法学校の物語、冥王の指輪を捨てる物語、サッカー、ビートルズ、ゴルフ、テニス等々大衆文化の発祥(大衆に渡すアメを創る)国、魔法と妖精の国、剣の騎士道の国、魔釣りの王権神授説を後盾にする王室の貴族の国、紳士の国、×が裏に隠れた+と赤白青の国旗を持つ薔薇(バラ)が国花の七つの海を支配した元の大英帝国である英国(実体は連合王国であり、「イギリス」という国はない)をその宗主国とする肉食の家禽類の白頭鷲が国鳥であり、元は合州国である、闇(病み)の世界で星(性、欲し)の国を束ねる、金と軍事と科学の支配者である米国である。なぜ米国が金融と映画とインターネットとマスコミと科学と移民の大国なのか。なぜ多国籍、多宗教国家なのか。なぜ米国が最大の知と力を持つのか。民主化を扇動する国の大統領がなぜ神のご加護を願うのか。なぜ六亡星の国旗のイスラエルを応援するのか。なぜ独裁者や共産主義を潰そうとするのか。米国の大統領が祝福を請う神が世の黒幕、裏の王の正体である。お札も映画もインターネットも、ただの道具ではない。すべてに世界を統べる黒幕の企みが隠されている。世界経済を支配する1ドル札にすべてのメッセージが込められている。例えば、ピラミッドの頂点の「すべてを見通す目」は魔釣りの魔眼、中央には『神の下に我らは一つ(ONE)になる』とある。電子マネー+クレジットカード+インターネット=大衆の全個人情報の完全把握。これが何を意味しているのかお分かりだろうか。完全に曇った大衆はそれに気づかず、相変わらずお金に命を預け、利便と快楽を追いかけている。『教えたのに気づかないのは大衆が馬鹿だからだ。自分で罠に嵌まったのだから、何をされても自業自得だ』というのが黒幕の最後の言葉である。その時、大衆は虫けら同然となる。世界征服の企みを成就させるために。だからと言って、陰謀を暴いて潰そうと画策しても、意味がない。その反応自体も計画の内である。その行為をするならば、まんまと罠の罠に嵌まった証であり、今だ魔釣りの網の中である。表の歴史の世界征服の野望は潰えたが、裏の世界では今も着々と統一計画が進行している。霊的盲目にされ、完全に魔釣りの虜になった大衆は、自らの奴隷化計画に気づいていない。
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英国のルーツは、ベネチアの商人であり、もっと辿れば、エホバの神に行き着く。ユダヤのハタラキの現われ、魔釣りの世の表の総帥なのである。魔釣りの仕組みの源流は蛇の知の神である。今でも「大英帝国」は健在であり、現代社会の裏で、その陰の力は息づいている。英語と経済と民主思想を植え付けられた元の植民地を見てみればよい。独立は果たしたが、今も自国の文化に根付いた大英帝国の呪縛の中にいる。米国は多民族国家、すなわち、現代社会の雛型となっている。その雛型を治める王が大統領である。米国の州は欧州の国に当り、EUと米国は同格である。日米欧三極委員会というものがあるが、小国日本が入っているのは、世界の三極として重要視されているわけではなく、統合計画推進のために日本を監視するのが目的である。裏を返せば、有史以来、神道の皇室が続く日本は、王室の血統を重視する欧州にとって、謎であり、脅威でもある。ましてや、大統領の権力が唯一の国家統一の支えである米国はなおさらである。現代経済社会の裏の響きは、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の三つ巴の聖戦である。魔釣りの罠にまんまと嵌まり、真中の親神をなきものにした親国ヒノモトは、子の世の混乱の元凶と化している。天皇を象徴(お飾り)と為し、世界統一どころか、世界破滅の運命の、文明の進歩発展に貢献する国家元首が消えた宗教なき孤立国家。金と科学の教育で、神のカの字もなくなった日本国。魔釣りの神の思惑どころか、裏の世界政府の企みにすら気づかず、国連と米国の顔色を見ながら、生き残りを賭けて国際貢献、経済発展、IT国家を推進する日本政府。その政府の政策に勇んで従う国民。経済とITと慈善に命を捧げ、現代社会の裏のカラクリにすら気づいていない一般庶民は、『そんな悪魔のような考えは妄想だ』と鼻であしらって、何の疑いもなく快適生活を追い求める。経済統合、政治統合、国家統合、その仕上げが「世界統一」である。総大統領は果たして誰であろうか。ただし、それが成就すれば、の話だが。
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世界は欧米の覇権争いであり、そこに中東イスラムと華僑中国が絡む。文明世界の独裁者を王とする米国が攻撃した独裁者が支配していたイラクは、シュメール文明の末裔であり、言わば、米国のルーツである。これは魔釣りが真釣りを、子が親を支配しようとする企みの型示しである。米国が日本を思想的、経済的、軍事的に殺そうと企んでいるならば、それは全く同じことを意味する。文明世界に見えていない裏の世界の動きが型に現われる。現象に裏の動きが暗示される。今の世界がどんな世界なのかは、型示しを見ればわかる。

形に現われた人類の戦争の実体は神と神の覇権争いであり、エホバとアッラーの聖戦は相討ちするまで終わることはない。このままいけば、人類滅亡である。しかし、戦いを終わらせる元の大神が現われれば、すべてが元の天国に戻る。人類の争いは、真釣りを知らない神同士の戦いであり、元の神の霊統である真釣りを知らせる御役の国がその神を闇に葬っていれば、世界の破滅は必至となる。人類史は、子が親を殺す滅亡への歴史なのである。

米国のポチと言われて久しい日本は、正神真神の栄養(真コト)を運んで体(三千世界)を生かす腹の御役、真コトの胎児を宿す胎の国、すべての基である肚の国、神風精神の国、忠義礼節の国、刀の武士道の国、スメラギの皇室の皇族の国、⦿の国旗の、真釣りのハラの御役なのである。最後の国産の朱鷺(時、解き、十気)キン(金、禁)=金・時が死んだからと、混血の朱鷺を残せば絶滅を避けられたと思うその心が、形の魔釣りの罠に嵌まって曇った型示し。それが中国産の朱鷺であることが、日本の歩んできた歴史の象徴である。ちなみに、京都は陰陽道で作った、日本の歴史の響都であり、宇治に左右対称の平等院鳳凰堂がある。十円の絵柄であり、平等な二極対立の矛盾の世で、仏の極楽浄土を表現した法皇の栄華の象徴。不死鳥の鳳凰が闇に葬られ、法王がキリスト教世界のお飾りの王としてバチカンに座る現代社会は、自由平等博愛のキリスト精神を唱えながら悲惨な戦争を繰り返す世界である。宇治金時は、アメとムチ、甘渋が一体となった、粒あんと抹茶のアイスである。アイスは火が立てば水になって形がなくなる。日本人一人一人が清水の舞台から飛び降りる覚悟で、すべてを捨てて、時空生死を超えた真釣りに生きれば、世界は蘇る。

日本人を拉致した北朝鮮は、金正日が独裁する「民主主義人民共和国」である。古代日本は朝鮮(挑戦)半島から仏教や文化を輸入した。言い換えると、魔釣りの響きの渡来人を招き入れた。真釣りの響きを奪った(拉致した)「朝鮮」から「拉致被害者」を取り戻した。中国や朝鮮が大日本帝国に蹂躙された。靖国参拝を非難する中国の地から仏教の僧が渡り、密教を広め、真釣りを封印し、神民を蹂躙した。物部と蘇我の戦は神道と仏教の覇権争い。言い換えれば、仏教の侵略に対する神道の防衛戦。法隆寺建立の「聖」徳太子はキリスト教の信者(隠れキリシタン)であり、名を「厩戸」御子という。イエスは馬小屋で生まれた。十七条憲法の第一条『和(統一)を以って尊しと為す』は、世界統一の思想の尊重であり、冠位十二階は、能力主義の支配ピラミッドの仕組みである。形だけの世界統一は、魔釣りの身欲の悪神の世界制覇を意味し、真釣りの復活で消滅する。お友達の仲良し思想に曇った日本人は、今の世ではありもしない「平和なニコニコ天国」の思想と取り違え、未だに崇拝している。仏教やキリスト教どころか、神道すら魔釣りである。日本国のシステムのルーツである大化の改新からの仕組みを完成させた現代日本の行く末は、果たしてどこに行き着くのか。法隆寺の東院伽藍は聖徳太子の理想、仏教の言う弥勒世の型示しであり、八角形の夢殿(八方世界)の秘仏は「救世」観音である。隠れキリシタンの皇太子が建立した世界太古の木造建築である法隆寺は現代日本の鏡である。飛鳥時代から神仏戦争をしている日本。神仏習合、神仏分離、神道指令、国家神道の解体、政教分離、公立学校の宗教教育禁止、小学校で英語、IT、福祉、ボランティア、環境教育、男女平等、友好親善。魔釣りの天孫に国を売り渡し、仏でホドケ、イシヤの設計図で国作りに励んだ瓢箪島が漂流して辿り着いた現代日本は、汚泥混濁の混沌、金と電脳の支配する科学で作る淀んだ泥沼に浮かぶ死魔国、「悪し腹」の中の国となった。天が下の「葦原」の中つ国を治すのはスサノオ尊。真釣りの立て直しの総帥、カムスサナル大神は、魔釣りの蛇には恐ろしい鬼門の神として復活。魔釣り世のマヤカシの歴史上の形示しであるが、参考までに。
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ヒノモトは、地球世界の中で神気の出づるただ一つの国である。元つ火、出づる国である。火の基である。その国がアヤマ知で曇り、魔コトで穢れ、魔釣りを信奉して神の道を捨て、十や卍や☯を信仰し、進歩発展の文明の金の道を邁進することがいったい何を意味するのか。ハラの曇りをすべて祓わなければ世は滅ぶ。それが元つ真釣りの神仕組みなのである。ヒノモトの民が真コトに目覚め、アヤマ知を捨てて、魔釣りの穢れの曇りを祓って、濁点(汚点)のないバラと武士道、「ハラの正(生、誠)花」と「不死(父子)道」を復活することが、真釣りで魔釣り世を(正竜が邪竜を)導くことが、すべての過ちを正す唯一の術、魔釣りの世を止めて世界を救うただ一つの道である。本当の意味で世界のために貢献したいなら、国際貢献に現を抜かす前に、ヒノモトに生まれたあなた自身が真コトに戻ることが先である。逆さまの今の日本人に荒唐無稽に見えることこそ真実なのである。

現代社会の日本は、魔釣りで穢れに穢れきって、いわゆる伝統の日本や神道、天皇すらも捨て去って、脳と金、知恵と悪神が支配する魔釣りの奴隷と化している。今の日本にある、どんな思想、哲学、宗教、技術を持ってしても本当の再生はできない。奴隷の中の再生が関の山で、結局は裏の冥王の支配からは逃れられない。もがけばもがくほど首が締まる罠に嵌まって、絶対に自由になることはない「強制収容所」に自ら入ってしまったのである。ゲットーの中で「ゲット」思考で生きれば、最後は自らの永遠の死をゲットすることになる。これは、悪ふざけでも、洒落でもない。真コトの真実を伝える型示しである。面白がっているなら、それは身の破滅を意味する。自らがどんな世界にいるのか、今まで何をしていたのか、眼を見開いてよく見て欲しい。そして、どうすればよいのかを真剣に考えることである。ここで踏み誤ればもう後がない、二度とやり直しが効かない、逃げられない、生死時空神人を超えた究極の選択、自分で自分の永遠の運命を決める最後の踏絵である。
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最初で最後の唯一の機会、あなたの本当の試練の場、それは、あなたがあなたに与えた試練である。あなたがもっと早く清算していたら、もっと軽かったし、違反していなかったらなら、試練はなかったのである。『怖い、認めない、許せない』と思うのが違反の証しである。口に出すか出さないかは関係ない。自分がそう思っているなら、違反を自覚したことになる。すべては、あなた自身が知っていることである。フリをしても意味がないどころか、ますます違反が重くなるだけである。自分が自分に誤魔化しをもっていれば、それで終りである。清算の機会を永遠に失う。『自分は悪くない、自分はそんなことは思っていない』と言うことが思っている証しである。この台詞から、「自分が悪であること」「そんなこと」を否定しているのは明白な事実である。あなたの内に否定するものが存在していれば、あなたは分裂思考を持っていることになる。分裂した片方を避けている。すべてを知っている者は否定する必要はない。違反がないからである。自分の中にその言葉がないからである。ないものは否定できない。否定するなら、それはある。否定は、存在する証明である。

すべてを許している者には「許せないもの」は一つもない。大神が悪を許しているから裁けるのである。大神が「悪」を許しているのは、真釣り外した者に自らの内にある悪に気づかせるためである。悪は自ら滅ぶ。大神が何もしなければ、自ら消える仕組みである。大神は、真釣り外した我が子に真釣り戻す機会を与えるために、真釣り外せば不都合が現われる鏡の世界を作った。その彼我身の世界の苦(悪)は、悪に気づかせるための悪であるから、それは罰ではなく、滅びから救うための情けである。今のあなたは、大神の情けがなければ、ミロクに戻れない。大神が許している悪をあなたが『許さない』と言うなら、それは『悪人はミロクには行かせない』と言ったことになる。大神が許している者を人間が許さないとすれば、許さないと言った者自身が大神のしたことを裁いていることになる。大神がしないことを人間がしていることになる。つまり、あなたの言う「悪」は悪ではなく、本当の悪人は、大神の情けを悪として排除しようとしている側である。大神が用意した「悪人のためのミロク道」を邪魔することであり、善人は天国、悪人は地獄というアヤマ知の宗教の信者の証でもある。それは、大神の誠意を踏みにじる以外の何ものでもない。

この世には、今のあなたから見てどんなに許しがたいことであるとしても、大神の許しなくして存在するものは一つも存在しない。従って、この世にあるすべてのものを許さない限り、大神への反逆となる。それが、真釣りを外している証であり、悪は許さないが、悪を裁く自らは許しているということになる。『悪を裁くことは当然のことだ』と思い込んでいることになる。自らが悪でないこと(自らが善であること)を証明するために、悪を裁く(悪と呼ぶ行為をしている他人と自分は仲間ではないことを証明する)のである。しかし、それは、善悪の世界で言う「善」の証明に過ぎず、善悪がない世界では、善悪を作っている者は、善悪のない世界を分裂させる破壊者である。善の証明は魔釣りの証明でもある。大神は、大神が許していることを裁くことも許しているのである。大神は自らに反抗する者すら許しているのである。あなたがこのことが本当にわかったならば、裁くことも、愚痴を言うことも、できなくなるはずである。「悪」を裁く者こそ、その「悪」を産み出した源である。あなたが、本当の意味での悪を持っていれば、あなたにとってのミロクはない。
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自分が本当にやばいと思うなら、観念してきちんと清算しないと自分が本当に大変なことになる。自らのしていることを誤魔化したければいくらでも誤魔化せるが、それは、自分のためにならないことをしっかりとハラに据えておくことである。それでも誤魔化すならば、好きなだけやればよい。もし、マ違いをあくまでも否定するならば、それは図星だから否定するのであり、抵抗しても無駄である。これは脅しでも何でもない。これは事実である。手を上げて、万歳して、観念すれば99.9の悪人でも清算できる。いい加減ならば、99.9の善人も、滅ぶ。「100%」清算するかしないかである。この清算は、泥棒した分、厳しいのであるから、平等、公平である。機会は平等、清算は公平、自分が奪っただけ返せばよい。各自の清算の状態は、違反の度合である。形は不公平、不平等に見える。不公平だと言うのは、違反の証し。自業自得ということが本当にはわかっていない。たくさん違反しておいて、少しの苦労で天国を得ようとしている、泥棒の極みである。

思いの一部でも叶えば、と言うのは詭弁である。それこそ、楽して天国を得ようとしている欲の塊の証し。盗んだものを一つでも持っているならば、天国へは入れない。最後の関門、関所は、すべての垢を落して真釣り鳴った魂しか通れない針の穴である。持っていても通れるのではないか、といい加減な期待をし、もし通れるならラッキーと思っていれば、それが自分への引導となるのである。自分がしたことをすべて正直に認め、観念して清算している者はそんなことは考えもしない。とにかくやる続けることが精一杯であり、余計な画策などしている暇はないのである。自分が永遠に生きるか滅びるかの究極の最後の機会である。本当に真実かどうか、と考える暇もないはずである。今のままでもどんどん闇が増し、清算の道も闇に見える。どっちにしても闇であるなら迷うことはない。甘いアメはすべて罠。本当の天国への道は苦労辛抱のみである。自らの苦が自らの違反の証しである。何と言おうとも、苦のある現実が違反の証しなのである。あなたは、今の今まで、それだけの違反をし続けて来たのだから、そのことを正直に認めることが、清算の道に入る第一歩である。甘い気持ちは身の破滅であることを自分によく言い聞かせて、自分の本当の命を救うことである。自分が自分を生かすか殺すか。すべては自分次第なのである。
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あなた一人だけでも助かれば、大神は大喜びなのである。自らがどんな仕打ちを受けようとも、真コトの真実を、1人でも分かってくれればそれだけで大喜びの、あなたを本当に救うため、我が子を真釣りに戻すために艱難辛苦の苦労で支えてきた大神様である。自分が違反したことで「親」に苦労をかけたことをお詫びして、本当に心底改心して、天国に戻ることが、本当の意味での神への感謝の印である。大神様のしてきた苦労の万分の一の苦労をガタガタ言っているならば、あなたにはもう天国はない。苦しいから改心する、では本当の改心ではない。誤魔化しは自分の破滅である。神にフリをしても意味がない。したければさせるが、できるからと言ってそれが正しいわけではない。何が真コトなのかわかったら、もう、そんな小細工はこんりんざいできなくなる。本当に神を信頼するならば、態度で示すことである。誤魔化しは一切通用しない。真コトなき者は通らない。言い訳や弱音を吐くのは勝手だが、それは自分の滅びを進めるだけである。自分が自分に厳しくすることが本当に本当の自分のためである。理屈はもう意味がない。御託を並べたり、他人や神に言い訳や説明をしたり、誰かや神を恨んだりしている暇があったら、早く本当の清算を始めたほうがあなたのためである。自分が自分を生かすか殺すか、二つに一つ。自分のために自分を生かす、それが本当の天国への鍵である。あなたはただ、すでに持っている剣をハラを決めてつかうだけでよいのである。最も簡単であり、最も困難な決断である。

本来は公金も私金もない。すべてが公金であり、すべてが私金である。『税金は公金だから、税金の流用は許せない』と言うが、それは、自分のものを強制的に取られて自分が自由にならない、自分の私金を勝手に使うのは許せない、と言うことである。ずるい、と言うことである。借金も給料も、結局は、略奪の結果の金である。略奪したものを使って作った仕組みで生き残るために使う道具は、略奪したものである。自分では何も産み出せないのに「自分のもの」と言って奪い合っているのが略奪している証し。自分で産み出せる者は、自分のものを奪われたと主張する必要はない。泥棒を裁く理由もない。泥棒していないと言う者は泥棒である。自分も悪いが他人もやっている、と言うが、自分がやっているならそれを言う資格はない。もっと悪いことをしている、と悪の度合いの比較をしても、自分のしたことは消せない。消せないどころか、ますます、清算の激痛を増やすだけに過ぎない。

自給自足というのは、自分ですべてができることである。お金を稼ぐことではない。給料だろうと、借金だろうと、それはお金の世界で物を手にする道具でしかない。給料で買おうが、借金で買おうが、自然から採集しようが、それは問題ではない。金の世界でも、金が要らない世界でも、同じことができなければならない。自分の世話を自分でやる。頼んだら感謝しかない。自分の思い通りにしたければ、自分がやるしかない。自分でしたことは失敗でも文句は言えない。他人に頼んで、神に祈って任せていれば、文句が言える、いざとなったら文句を言えばよい、と思っているが、それは自分勝手の極みである。それをするなら、自分勝手の権化である。自分でできて当たり前、であり、自分でできなくなったのなら、お互いに文句は言えない。相手の期待通りにできなくても罪悪感はいらず、相手が期待通りにしてくれなくても文句は言えない。お互いにできて当たり前、やってもらうか、やってあげるか、である。お互い様である。衣食住、自分でできないなら、何をされても、何を食べさせられても、文句は言えず、自分でできるなら文句は言わないのである。知識も同じ。質問の答えも同じ。すべてが分かっていて当たり前、それが真実である。
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自分だけやればよいと言う者がなぜ人に教えるのか、と言う者は教えてもらわなければわからない者である。否定するものは存在する。つまり、始めから知っていたのである。教えてもらおうがもらわなかろうが、知っていたのである。知っていたものを自ら無視していたのであるから、知らなかった、もっと早く教えてくれたら、と言う資格はない。本当はアベコベだ、ということすらも教えてもらう必要がない。自分が否定していた方をやれば、自分で真実がわかったのであり、否定した方をやる、という選択もあったのである。しかし、否定しているがゆえに、それをしなかったということである。つまり、自分ですべてをわかったうえで、自分の意志で、すべてをやっていたのである。これを批判することが、その証拠である。あなたが今まで教わってきたことは、すべてアベコベである。否定していたものを否定するのをすべて止めなければ、元には戻れない。自分を魔釣りの世界で生かすがために、故意に知らん振りをしたのであるから、すべてが自分のせいである。

外にすがっているとすれば、あなたがいるところは、誰かによって作られた社会である。誰かが決めた決まりに従って、自らの存在価値が決まる世界である。違法行為とは、ある行為をされては困る者が、その世界で生き残るために、その「されては困る行為」を法律という力を使って封印した行為のことを言う。「違法行為」という行為自体は存在しない。

外に原因があると言う者は、すべて外のことを語る。しかし、結局、それは、自分にとってどうか、を語っているだけである。自分がどうなるか、という目ですべてを思考し、選択している。他人が気になるのは、他人を気にしているのは自分である。社会がどうなるかを気にするのは、自分が社会に左右されると思っているからである。自分がそれに依存しなければ生きられなくなってしまった結果である。そのままならば、自由は永遠にない。

なぜ日曜は休日なのか、暦はなぜ一週間サイクルなのか。その大元はどこにあるのか。当たり前のように繰り返しているものについてその起源を遡ってみれば、その「当たり前」が実は、強制でも何でもないことに気づく。それは、誰かが決めたもの、誰かがつくったものであり、あなたの都合に合わせて同意して使っていただけである。もしそれが強制に思えるなら、それはあなたがあなたを強制しているに過ぎない。あなたを縛っているのはあなた自身であり、暦や常識や社会に不平不満を言っても、それは、あなたの自分勝手というものである。あなたが、自分が自分に嵌めたその束縛を自由にすればよいのであって、それはあなた次第である。ある社会の構成員が、その社会のシステムに同意し続けている限り、そのシステムは続く。誰かに決めてもらったことをする方が、自分で考える必要もなく、楽に生きられるからである。しかし、それが自らを滅する仕組みであれば、楽が苦に転換する時が来る。その時になって騙されたことを知っても後の祭りである。現代社会は、自らも滅ぶことを知らない誰かによって仕組まれた世界であることを肝に銘じておくことである。その世界で楽を追い求めれば、それは自らの天国を放棄することを意味する。
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この世での「被害」は、元に戻すことも体験を返すこともできない。相応の返金をすることでしか補填しえない。賠償金をもらうことはできるが、心の傷、悲しみ、喪失感は消えない。消えないどころか、ますます深くなる。自分が作ったものは自分が消すしかない。誰かにされた、と思うこと、もっと遡れば、自分は何も悪くない、と思うことがすべての怒りの感情の基である。何も悪いことをしていない者がなぜ被害に遭うのか、生まれながらに平等な人間になぜ金持ちと貧乏人がいるのか、なぜ不公平が存在するのか。そもそも、その問いの前提自体が間違っている。略奪の世界では、金持ちと貧乏人が居なければその世界は成り立たない。+と-がゼロ、になるように全てが動く。誰がどの立場になるか、の違いであり、その形自体を無くすことはできない。善と悪があることが真理である世界では、戦争を無くすことはできない。誰かが誰かの憎しみを消すこともできない。善悪があると自分が思っているから善悪がある、のである。それに気づいて、自分が善悪を消さなければ善悪は消えない。全員がそれをしなければ、平和は実現しない。思想がシステムになっているのであるから、今の世界のシステムの維持をしようとしている限り、何も変わらない。思想を変えれば古いものは壊れる。新しい思想のシステムが生まれながら、古い思想のシステムが壊れていく。システム自体の形が変わるだけで、なくなるわけではない。古いシステムにしがみついている者は、自らの生存を保障していた古いシステムの崩壊を防ごうとして抵抗する。しかし、それは叶わない。略奪の世界でどんなに表面上のシステムを変えようとも、略奪の仕組み自体は変わらない。「私有財産」の喪失を避ける限り、全人類が平和になることはありえない。すべてある条件の範囲で成り立つルールである。

もともと一つのものを二つに分け、それを繰り返してバラバラにした結果が現代社会である。真釣り戻し、違反の清算というのは、それを元の一つに戻そうとしているだけである。神の世界から自分の体まで、すべてが自分の世界だったのであるが、それを分離したことがすべての困難、問題の始まりである。遠く離れたものを結ぶために交通機関ができ、電話ができ、テレビができ、全員が世界を共有できるようになった。これを進化、発展だと思っているが、それを可能にするには、機械の仲立ちが必要である。その機械を生産するためにはお金が必要である。文明が全て壊れたら、あなたの世界は、あなたが今いる、目で見える周囲だけになる。あなたが五感で感知できる世界の外の情報はなくなる。本当は、自分の居る周りだけがあれば、あなたは何も困らない。いつどこでも、あなたが自分の世界を思い通りに作れるからである。あなたが動くと世界も動くのである。あなたが自分で動かなければ、あなたは何も知ることはできなくなる。しかし、あなたの心の中は時空を超え、生死を超えている。空も飛べるし、生き返ることもできる。タイムトラベルも、宇宙を創造することもできる。その世界を現実として体験していたのが、あなたの元の世界である。その世界がすべて現実として五感で体感できたのが、この世の始めである。五感がすべて一つになったのが、あなたである。五感だけではなく、直感も、霊感も、すべてが一つの世界である。元の世界を分離し、できなくなった部分を機械を使って補填する。しかし、それは元の世界ではない。元の世界を知っているから、不自由にした分、文明を作り出し、ズレを埋めて、元の世界に近づこうとしているが、大きな間違いに気づいていない。あなたが壊したものを、あなた以外が考えた道具を使って元に戻す事は絶対にできない。不都合をいくら形でカバーをしても、中身はそのままである。それどころか、中身はどんどん壊れていく。自分で産み出す力がどんどん消えていく。自分の外のエネルギーや材料を使って誰かが考えた道具を使い続ける限り、それに依存し続ける限り、あなたはどんどんロボット化していく。あなたは、何かの命令なしでは何もできなくなる。あなたの脳はCPUと化し、あなたの体はコンピューターのハードウェアと化す。誰かにプログラムを入れてもらわなければ動けなくなり、その誰かの思い通りの世界を体験させられるだけになる。あなたは獣化していく。あなたはサバイバルゲームを体験する。その体験をしているあなたが本当のあなたそのものであり、あなた自身が誰かの言う通りに動くことを選んでいる。あなたが死を避けている限り、ウソは見破れない。あなたは自由をなくしていく。本当の天国には、あなたに命令する者はあなたしかいない。あなたが納得していないならば、その考えは、誰かの命令である。法律も道徳も常識もすべてが誰かの策略である。
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いつどこで誰がそれを始めたのか、それがウソなのか誠なのかわからなくても、今便利であれば、自分が危険にならなければ、後先考えず、あなたは鵜呑みにしてしまう。便利だから使う、しないといけないからする、それが、あなたが天国を捨てる道で使う台詞である。あなたに命令する者、あなたに干渉する者のその真意は、あなたをそうしなければ、自らの生存が危ういからである。自分の都合であなたを動かす、あなたの都合で誰かを動かす。思いやり、優しさ、あなたのため、というマヤカシの正体である。形の美しさに騙されないようにすることである。あなた以外の者が、あなたを利することはできない。天国は全員に不足はない。不足があるのは略奪の世界である。気づいているかどうかは別にして、そこであなたに優しくする者の仮面の裏は悪魔である。思いやりや依存の心を利用して、あなた自身の意思で出させる。その実態は、善の仮面を被った巧妙な略奪である。
P252
あなたは、自らの命を自ら泥棒に差し出していることになる。あなたがそれに気づかなければ、あなたはすべてを失う。可哀相な者はいない。施しという思想もおかしい。奪ったものを返しても、それは当たり前のことである。略奪の世界で有り余っているのはおかしい。今の世で、自分の生存を保証しておいて誰かを生かせるならば、それは奪ったものである。形がどんなに美しく見えようと、合法的に見えようと、その実体は略奪の思想である。天国では施しは不要である。必要性はない。意味がない。本当の天国には、合法も違法もない。合法しかないから、合法だとわざわざ主張するのは、本当の天国ではない証しである。違法を責めるのはその裏返しの行動である。自分の正しさの証明に他人の間違いを指摘する。それ自体が善悪の思想に基づくものであり、分裂思考、責任転嫁は明らかである。恨み、妬み、嫉妬、不平不満を言う言わない、行動するしない、その大小、優劣は関係ない。略奪の思考、略奪の響きそれ自体が間違っているのである。他人を裁ける者は誰もいないはずである。本当にわかったら、恐ろしくて、不平不満の思いさえも出せなくなる。苦情などとんでもないことだと思う筈である。形も心もその思想がない者は、現代社会には一人もいない。それがないなら、本当の天国にいることになり、今この世界にはいない。従って、この本は読んではいない。堂々と裁判に訴える者は言うに及ばす、誰かのせいだと一瞬でも考えれば、それがあなたの世界のすべてであり、その瞬間は、あなたは、世界を滅ぼしているのと同じである。すべてが元に戻った時、一瞬の考えがすべての世界となり、あなたはその場で消滅することになる。あなたが裁く心をもっているほど、苦しくなる。裁いた量だけ痛みとなる。それが、最後の大掃除の時のあなたの現実である。自分のしたことを誰かのせいにするならば、それがあなたの最大で唯一の間違いである。

今ある常識や思想は、いったいいつ、誰が、どこで、何の目的で生み出したものなのか。一体いつからこの世は始まったのか。「いつ」とは、五であり、一である。天地自然の理法は始めも終りもなく、神話の世界のその前から、今も、これからも、万古末代、永遠に変わらない。真釣りの真法陣の九御座の中心は絶対に動かない。真釣りには+も-もない。真釣りの真コトで真中を祓い清めて、あなたの世界の中心に居座る大蛇を本当の竜に戻さなければ、現代社会の十(神)をー(始め)の位置に戻さなければ、最後の最後には+-=0になる。今のあなたがどんなに+を集めても、それは、略奪の分裂の世界の+であり、最後は、集めた+の分だけを痛みを伴って-される。時が至った瞬間にあなたが持っているすべての+が0になる。その時、あなたが真釣りに戻っていなければ、あなたは永遠の命を失うことになる。三千世界で略奪した+の響きを最後に-するなら、慙愧慟哭、阿鼻叫喚の修羅の地獄の火と水の洗礼を覚悟しておくことである。『情けと花の仕組み』の総仕上げである、すべての穢れを祓う大神の最期の祓い清めは、時空生死を超えた世界の現実であり、今の肉体上での苦や痛みどころの話ではなく、苦しさのあまり改心しても、それは許されず、最後は自らの首を自らで刎ねる末路となる。草薙の剣の響きは魔釣りの者にとっては究極の苦痛の響きである。生死時空を超えた身魂の穢れの祓い清めだから、あなたが真釣り戻すまで(真コトを磨き出すまで)死んでも死んでも続く。すべての穢れを祓い清めない限り、あなたはミロクの肉のお宮には入れず、真釣りのミロクには生きられない。
P253
時が至れば、元つ真釣りの大神が三千世界を真釣り戻すから、その時に魔釣りの響きを僅かでも残す身魂は、神も仏も人民も、一柱も残さず成敗されることになる。神法違反の者が逃げるところはどこにもない。元つ大神の真釣りの真コトに戻す大掃除、本当の大祓いは、生死時空を超えた慙愧慟哭の修羅の地獄を耐えに堪えて自ら真釣り戻してミロクに戻るか、苦しみのあまり自らの首を刎ねて自ら滅ぶか、最後の最期に真コトに成敗されてイノチを終えるか、である。いずれにしても、真釣り戻さない限り、あなたは永遠の滅びとなる。真釣りのミロクの本当の天国は、万象万物、真釣りのものしか存在できない、元の神の世である。永遠の命を失ったあなたは、もう、どこにも産まれることはできない。真釣りに戻るための最初で最後の機会、それが、元つ大神の世の大掃除である。言葉で言うのは簡単だが、これが文字通りの体験として、すべての人類、すべての神仏の現実となるのである。これを絵空事、荒唐無稽と言うならば、あなたの滅びは必至である。今は何とでも言えるが、その時になって後悔しても、後の真釣りとなることをよくよく肝に銘じて、今ここでどの選択をするか決めることである。自分が真釣りに戻るか戻らないか、の個人的選択である。永遠の生死が決まる瞬間が間もなくやってくる。自分には関係ないと思うなら、それで構わない。ミロクへの最期の戦が始まった時、真コトを磨き出していない分苦しみとなり、真コトがなければミロクは永遠になくなる。あなたが自らの真釣り戻しをしない限り、神仏と言えども、あなたを助けることはできないことを覚えておいて欲しい。

あなたが学んできた歴史は本当のことなのか。神話とは何なのか。何も操作せずに伝わっているのか。もし、そうならば、謎はない。宗教は存在しない。歴史を学ぶことはしない。議論はない。天国を探している世界は天国ではなく、問題解決をしている世界は問題がなくならない世界である。天国には問題はない。すべてを説明できる真理でできた世界ならば、その世界が形になる。問題があるのは天国ではない。天国にないことをしても天国にはならない。形だけの修繕や問題解決自体をやめることである。社会や誰かを天国にすることをやめることである。あなたが地獄の生き様をしているならば、あなたは地獄を進めることしかできない。あなたには、あなた以外を本当の意味で助けることも変えることもできない。あなたは、誰かを楽にしてあげることも、苦しめることもできない。すべては、あなたの生き様が作り出した結果である。あなたは誰かに助けてもらうことも、楽にしてもらうことも、傷つけられることも、実際にはありえない。あると思うならば、それは幻想である。自らが犯した天地自然の法則違反の結果、様々な問題を産み続け、その幻想を実体のあるものと思い込み、自らの責任を回避しようと、責任を転嫁するシステムを作り出して、文明なる幻想を押し進めてきたのが人類の歴史である。嘘のやり方は地獄を経て最後は滅ぶ。あなたを含めたすべての存在が同じ仕組みの中にいる。あなたが、現代社会で学んだやり方を使って天国創造の幻想を追いかけているならば、あなたの現実は滅びの世界に向かっていることになる。あなたが、天国という現実を体験することは永遠にない。
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本当の意味で、世界を救うことは誰にもできない。今のあなたが地球環境をよくすることは不可能である。今のあなたが何かをしようとすれば、ますます問題が増えていくだけである。自分自身の大掃除の苦が増えるだけである。形だけの○の世界を創った積もりになることはできるが、本当の意味では、誰かの天国を創る(創ってあげる)ことも、誰かに天国を創ってもらうことも、できないのである。あなたができるのは、あなたの中身を天国にすることだけである。あなた自身の心の掃除だけである。あなたにはあなたを変えることしかできない。あなたが天国の生き様をすれば、現代社会では非常識であり、存在価値のない者に見える。しかし、本当の天国、真釣りのミロクの神世から見れば、現代社会こそが非常識であり、文明を進歩させてきた(と思い込んでいる)人類の歴史という、存在価値のない中身は空っぽの空想物語の究極の結果なのである。その空想物語の世界で、権力や財産や自由や偽神の力を得てもそれは儚い幻であり、苦しみも悲しみも怒りも永遠に消えることはない。お金や経済や宗教や科学で、世界を平和にすることも、天国にすることも、本当の自由を得ることも絶対にできない。天国は個人的現実である。あなたという身魂が産まれたその大元の世界の生き様に戻ることが、あなたが本当の天国を体験できる唯一の方法である。問題を産むやり方では問題を産むことしかできない。人類の歴史は、問題生産の歴史であり、神代から現代社会まで、問題は何一つ解決してはいないのである。

天国創造の源に戻ることが、今のあなたのやるべき唯一の課題である。皆が源に(已名が身の元に)帰れば、問題はすべて解決することができる。まずは、あなた自身が元に戻ることである。あなた自身が、問題の産みの親であるアヤマ知を奇麗サッパリ捨てることである。あなたが真釣りに戻った時、魔釣りの世の現実は崩れ去っていく。今の真実が嘘であったことをあなたの現実を通して確認することができる。善悪などなかったことが分かり、あなたは、今までの現実から自由になることができる。あなたの問題の責任はあなた自身にあり、あなた以外の他人の問題はその本人に責任があることが分かってくる。この世にある問題は問題ではなく、この世にある不幸や悲しい出来事は、自分には手におえないことだと分かり、あなたは、自分にとっての問題の原因を直せばよいことが分かってくる。あなたが、あなた自身の真コトを貫き通すことが、自分を自由にする唯一の術である。

あなたの周りの問題を解決してあげようとしても、それは不可能である。環境破壊や、社会問題や、他人の苦しみをあなたが引き受けることはできず、あなたの苦しみを他人に転嫁することもできない。現代社会にあるどんなやり方をもってしても、歴史のどこを紐解いて見ても、自由や平和や安心や安全や永遠の命は決して得られない。怖れや不安や怒りや苦しみや悲しみや恨みも消えることはない。本当の天国には、問題を持っている者は存在できない。従って、いかなる社会問題も存在しない。真コトを思い出し、真コトで生きていくことで、あなたは真釣りの天国に戻ることができる。あなたが本当の天国に戻った時、死の怖れは消える。あなたにとっての問題はすべて解決する。本当の真実を思い出し、自分の犯した本当の過ちを正して、嘘が作り出した幻想から早く目を覚ますことである。
P255
あなたがすることは、現代社会を変えることでも、他人のために生きることでも、誰かを助けることでもない。今あなたがすべきことは、あなたの現実を創ってきた生き様の根本を奇麗サッパリ入れ替えることである。あなたが本当の天国の生き方を実践しない限り、あなたの現実は天国にはならない。すべては、あなたの取り違いが産みだした問題であり、あなた以外の誰の(何の)せいにもできない。あなた以外の他人も、同じである。自分の現実の責任は自分自身にしかない。自分の責任を取らない者たちがつくった現代社会の末路は、破滅であり、最後の最後は、自分の本当の責任を取らない者たちは、その世界とともに、永遠に命を失うことになる。本当の天国は、本当の天国の響きで生きる者しか体験出来ない現実である。現代社会は幻想の現実である。あなたが残すべきものは、あなたの真コトただ一つである。あなたが真コトそのものに戻らない限り、あなたはミロクの天国の体をもつことはできない。ミロクの体に入ることで、あなたの世界はミロクに変わる。世界を変えるのではなく、あなたを変えることである。天国の通りに行動して壊れるものは元々なかったものである。すべてのアヤマ知を捨てて、一言違わず実行した時、本当の天国がわかる。幻想で作った形がすべて消えたとき、本当の親神の天国が子の世に現れる。

万古末代一度だけの、生死時空を超えた身魂の総決算。本当の大掃除を終えると本当の正月、真釣りの神代の第一日が始まる。万象万物が永遠に弥栄える、滅びることの無い本当の新年(神年)の始まり、本当の天地創世である。人類が夢見ていた天国は本当にやって来る。それは、天国を壊してきた取り違い=魔釣りの響きをすべて清算した者だけの世界である。本当の真釣りの天国とは、生まれ変わり死に変わりして犯してきた今までのすべての違反を清算する、生死時空を超えた真釣りの元つ大神の末代一度の大祓いを終えた者だけが帰ることを許される、あなたが真釣りを外して家出する前にいた、魂の故郷なのである。あなたが心底から真釣りを信奉するならば、一言違わず実行することである。行じなければ開くことのない本当の神徳、それが、真釣りの真コトである。真コトの一厘を見事磨き出せば、元つ真釣りの大神の待つ、霊界で唯一の実体であるミロクに産まれ戻ることができる。あなたがすべてを捨てて生死時空を超えた神の真コトの道を歩みつづければ、あなたは絶対にミロク世に戻ることができる。大神に命を預けて天命を全うして欲しい。

この本に書かれていることは、あなたが本当の故郷に帰る大掃除のための掃除道具である。


実践・日本真道(事実その4)

現代社会の日本人が忘れた本当の神の道

実践・日本真道  長谷 章宏 著


事実 その4(P256~296)

P256
この本は、実現不可能な理想を書いたものではない。今の世で言うフィクションなどではない。あなたの手の届かない別世界の話でもない。現実にはありえない仮想現実や空想でもない。単なる宗教や哲学の話でもない。神話やお伽話でもない。すべて、あなた自身が体験することが可能な実話である。この本に書かれていることはすべて事実であり、今のあなたがいる世界の本当の姿である。あなたの人生が思い通りにいかない本当の理由、あなたの嵌まっているトリック(罠)、あなたが諦めている本当に自由な世界を思い通りに創造するための法則、あなたの現実の創造のメカニズム、言い換えれば、あなたの人生のカラクリを明かしたものである。あなたの体験する現実のすべてに影響を及ぼす、あなたという存在の根本にある間違いを正すための、最低限の基本を書いたものであるともいえる。

この本をただの知識として読み流すならば、何も読んでいないのと同じである。あなたは、白紙の束をめくっていただけに過ぎない。この本の中身を、都合の良い部分だけ抜き出してアレコレと詮索しようとしても、単に教養として身につけようとしても、その行為は全く意味をなさない。あなたはこの本から何も得ることはできない。時間の無駄である。この本が、あなたにとって本当に価値のあるものとなるのは、自らの生き様を根本から直すための実践ガイドとして使った時である。この本を生かすも殺すもあなた次第であり、それは、言い換えれば、あなたを生かすも殺すもあなたの態度次第だということである。あなたがなぜこの本を手に取ったのか。今ここで、もう一度、しっかりと考えてみて欲しい。

ここに書かれているのは、あなたとは関係のない別世界の話ではない。すべて、あなたの内の話である。あなたの内を見る鏡である。それは、あなたが見失ったもう一人のあなたが語る真実、あなたを含めたすべての世界の真実である。あなた自身を外したら、あなたの世界の真実は何もわからない。あなた自身が、あなたのすべての現実を創る、あなたという世界の創造主である。あなたが変わらなければ、あなたの体験する現実は何も変わらない。他者や外界を変えようとするあなたが変わらなければ、他者も外界も変えることはできない。あなたの周りの世界があなたと別のものであると思えば、あなたが本当に望んでいる現実を実現することはできない。あなたの体験する現実は、あなたがどんな神を信奉しているか、によって左右される。「本当の自分」という、あなたの本当の天国を産み生む本当の神の語る内話こそが、あなたが望んでいる現実をすべて実現するための教えである。

あなたという神が、あなた以外の神が語る嘘の世界の罠に嵌まって闇に葬り去っていた、あなたの世界を創る本当の源「本当の神」の教えを再び聴き戻すことが、あなたの本当の天国を実現するための第一歩である。あなたの人生についてのただ一人の専門家はあなた自身である。あなたという存在についての研究の第一人者は、世界中どこを探してもあなたをおいて他にはいない。あなたが語る周りの世界についての話は、すべて、あなたという世界についての話なのである。このことがわかったら、今すぐ、自分と自分との対話に移ることである。あなたがした質問にあなたが出した答えの○×を、あなた以外の誰かに確認することはもうやめて、自分という神(教師、教祖、グル)に確認してみるとよい。その答えは、あなたの出した答えと同じはずである。あなたがあなたの答えを疑えば、あなたは永遠に真実を知ることはない。シャキッと目を覚まして、本当の真実を見て欲しい。
P257
この本の事実をすべて受け入れれば、あなたは「完全なる自由」を手にすることができる。

これをまた『そんなことは本当にあるのか』と疑えば、あなたは堂々巡りから抜け出すことはできない。あなたがあなたを疑うことをやめない限り、その堂々巡りは永遠に続く。それをやめさせることができる存在は、あなた以外にはどこにもいない。あなたがその問いを完全に封印することが、滅びのスパイラルから抜ける唯一の道である。あなたがあなたを完全に信頼しなければ、今までの嘘の世界を彷徨うことになる。今までの嘘の教えを心底から信じ込んでいたのならば、それと同じことをすればよいだけである。あなたが今持っているものは、嘘の真実である。嘘の真実が本当にあったのなら、本当の真実が本当にあるのは当たり前のことである。本当の真実には嘘はどこにもない。本当の真実に生きているならば、疑うことはしない。本当の真実を疑う基準は嘘の真実である。黒を白と思い込んで、その基準で価値判断すれば、その答えは黒となる。しかし、事実は、白と思い込んでいた真実は黒であるから、黒に見える真実が白なのである。後は、あなたが、いつ疑うことをやめるか、という問題になる。白は白である。本当の白の真実を完全に信頼することである。怖れや不安は、嘘の真実が見せる幻である。嘘の幻覚に打ち克つことで、本当の真実が本当であることを確信することができる。すべてはあなたの決断次第である。

あなたの世界はあなた独自の世界である。本当の真実を知ろうとして、あなたの目の前で展開する他者の世界の出来事をあれこれと評論していても、無駄な努力である。たとえ、この世にあるすべての現象を取り上げて著者が一つ一つ解説したとしても、あなたの根本が変わらなければ、何もならない。それは、永遠に終わらない意味のない遊びに過ぎず、いつまでたっても、あなたの本当の天国への旅は始まらない。あなたが本当の真実を知りたいならば、あなたの体験した現実を具体例にして、自らで真偽を確認していくしかない。

どんなにたくさんの具体例をあげて説明しようとも、それをどう解釈すればいいのか、どう使えばよいのか、気づいたことをどう処理したらよいのか。自分と自分の対話とはどういうことなのか等々の基本を、体験を通してあなた自身がマスターしていかなければ、あなたは今までの現実から永遠に抜け出すことができない。あなたが、自分自身の人生というゲームの歩き方を自分の意思で実践を通してマスターしなければ、分からないことが出る度に『これはどうすればいいのか』『これはどういう意味なのか』『これは本当に正しいのか』『こう考えても良いのか』『こうしても良いのか』云々とあなた以外の人に訊き続けなければならなくなる。文献を探し続け、講演会を聞きまくり、宗教を渡り歩くという、いくら続けても答えが出ない意味のない行為を、永遠に続けなければならなくなる。あなたが、自分の出した答えを疑っている限り、あなたは誰かに確認し続けなければならない。今までの癖を捨て去らない限り、あなたが本当に自由になることはできない。自分以外の誰か(何か)に、『いいのかどうか』と自分の出した答えを確認し続けて、嘘の神の真実に振り回された挙句、偽の天国を目指して突き進み、望むものは何も得られず、何がなんだかわからなくなった末に、最後には、結論が得られないまま、あなたは永遠に滅ぶことになる。どんなに確認しまくろうと、結局は、あなたの出した答えに戻るのである。あなたが早く自由になりたいならば、恐怖や不安に飛び込んで、答えの真偽を確認すればよいだけである。
P258
この本には、あなたがあなたを信頼し直すための、今までの癖を取るためのトレーニングに使える材料が満載されている。あなたがあなたの再教育をするためのテキストでもある。あなたは、あなたの出した答えにすべてOKを出せばよいだけである。『本当にOKを出していいのか』と、ここでまた今までの癖を出せば、堂々巡りに逆戻りである。その癖を完全に取ることが、あなたの再教育の課題である。この本の事実に照らせば、あなたが出すどん